第13回 Salon de 修猷の報告(令和元年9月7日開催)

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『令和元年・学びのサロン 意外に知らない〇〇のはなし』

 第13回を迎えた今回の Salon de 修猷は、『令和元年・学びのサロン 意外に知らない〇〇のはなし』と題し、9月7日に開催されました。快く先生役を引き受けてくださった㈱寺子屋モデル代表の山口秀範さん(昭和42年卒)、お茶の水女子大教授の神田由築さん(昭和59年卒)および筑波大学附属小理科教諭の辻健さん(平成4年卒)ら3名の館友のご協力を得て、高校時代を彷彿させるような演出と共に、Salon de 修猷としては初めて"授業形式"でお届けしました。

1時限目 「芸術・文化」 神田由築さん(昭和59年卒)

2時限目 「理科」 辻健さん(平成4年卒)

3時限目 「日本史」 山口秀範さん(昭和42年卒)


【1時限目 芸術・文化:神田由築さん(昭和59年卒)】

 意外に知らない「江戸」のはなし~江戸時代の人気ヒーローは明智光秀だった!?~

〇神田 私は大学で歌舞伎とか文楽とかの古典芸能について研究しています。今日はその中で明智光秀を紹介したいと思っています。来年の大河ドラマの主人公は明智光秀だそうです。戦国武将の中で明智光秀は断トツのヒーローというわけではありませんが、江戸時代のお芝居ではけっこう大人気なのです。

salon13-01.jpg  今日は『絵本太功記』という演目を紹介します。人形浄瑠璃として1799年に大坂で初演され、翌年すぐに歌舞伎として初演され、これが光秀人気を決定付け、今日まで大人気の演目となっています。「太閤」といえば豊臣秀吉で、1797年に「閤」の字の『絵本太閤記』という豊臣秀吉の一代記を描いた読本が出版され、1802年に出版が完結しています。この本を劇化したのが「功」の字の人形浄瑠璃『絵本太功記』で、芝居ができてなお本は継続刊行中で、その後に完結しています。今ですと、大人気の漫画が完結しないうちに、同時並行でドラマや映画が製作されるという感じだと思います。ここで大事なのは、芝居のほうの『絵本太功記』の主人公は、秀吉ではなくて、秀吉と戦った明智光秀ということです。芝居の役名は「武智光秀」で出てきます。
 この作品は、江戸時代から現代まで、全国レベルで、プロにも、また素人浄瑠璃や農村歌舞伎のような素人にも人気の演目になっています。素人の人たちも一生懸命にこれを習って語ったということですので、カラオケの人気曲みたいなことだったようです。来年はこの『絵本太功記』がどこかで掛かると思いますので、もし機会があればぜひ見に行っていただきたいと思います。
 この芝居は、本能寺の変の前日、天正10年(1582年)6月朔日から話が始まり、光秀が山崎の合戦で秀吉に敗れて小栗栖の竹やぶで落命する6月13日までの話になっています。よく「三日天下」と言われますが、この芝居では、発端から殺されるまでの13日間が1日1段として構成されています。登場人物の名前は歴史上の人物名そのままではなく、明智光秀は「武智光秀」、織田信長は「尾田春長」というように、微妙に違う名前になっています。
 光秀は春長にさんざん理不尽な目に遭わされます。例えば、春長の命を受けた森の蘭丸(森蘭丸)から鉄扇で叩かれて眉間を割られるという話が出てきます。写真(当日スクリーン投影)を見ていただくと光秀の額に傷がありますが、これが光秀の内面の一つの象徴となっています。文楽でも歌舞伎でも、この痛々しい姿で、辱めを受けて屈折した心情がビジュアル化されて芝居のベースとなっている感じです。来年のドラマでもその辺りが描かれると思いますが、江戸時代の場合は、眉間の傷でその心情を表現しています。
 そしていよいよ6月2日が本能寺の変ですが、何と『絵本太功記』では、ここに光秀は登場しません。そこを描かずして何を描くのかということですが、江戸時代と現代のドラマでは描かれ方が違うようで、本能寺の変はけっこうあっさりと終わってしまいます。
 他に、備中高松城の水責めとか、歴史劇のような重要な場面もありますが、人々の圧倒的な人気を得てきたのは、何といっても6月10日の段、「夕顔棚の段」と「尼ヶ崎の段」です。そしてそれの前提となる6月6日の「妙心寺の段」です。
 この「妙心寺の段」では、一瞬のうちに終わった本能寺の変に対して、その後、延々と光秀が悩み続ける場面がたっぷりと描かれています。光秀は、とんでもないことをしてしまったと自殺しようとするのですが、息子の十次郎と家臣がそれを止めます。そして光秀は、主君春長を討つということは武家としては忠義に背いている、しかし、天皇のために暴君を殺害したのだ、という大義を見出して、もう一度生きようとします。
 この論理に真っ向から異を唱えたのが光秀の母です。このお母さんはけっこう骨のある女性で、独自の正義を貫いて家を出て、尼ヶ崎に行きます。「夕顔棚の段」「尼ヶ崎の段」では、家出したお母さんがいる尼ヶ崎に家族みんながだんだんと寄り集まってきます。まず、光秀の奥さんの操(みさお)と十次郎の許嫁(いいなずけ)の初菊がやってきて、十次郎もやってきて、十次郎と初菊は祝言を挙げます。祝言は挙げるのですが、十次郎はすぐに戦場に向かうので、悲しい別れの盃でもあるのです。そんな中に1人の僧侶がやってきます。これは中国大返しを遂げて帰ってきた久吉が僧侶に身をやつした姿でした。そしてその久吉を追ってきて登場するのが光秀です。その登場シーンが歌舞伎でも文楽でもけっこう見せどころになっていて、浮世絵にも描かれています。
 この後、光秀は(物陰の人物を)「これは久吉だ」と槍で突くのですが、それは何とお母さんだったのです。でもお母さんは身代わりを承知のうえで、わざと息子の手に掛かったのでした。激しく光秀を非難した母親ですが、親としての愛情も失っておらず、主殺しの天罰を自分が受けようと、自ら覚悟し身代わりになったのです。この光景を見て妻の操は「いくさの門出に思い止まってくれたらこの悲劇はあるまいに」と嘆きます。そこにひん死の重傷を負った息子の十次郎が帰ってきて、敗戦の気配が濃いことを伝えます。重なる家族の悲劇を目の当たりにして、さすがの光秀もこらえかねてわっと泣きます。「大落とし」と言って、義太夫節の勇壮な旋律に乗って愁嘆の極限を表現する、全編を通じて最も胸に迫る場面がここで描かれます。
 『絵本太功記』というのは、実際の本能寺の変から約200年後に書かれたお芝居で、苦悩する光秀が描かれています。その中で、家族の悲劇とその極みで光秀が見せる感情のほとばしりを描いた十段目が、「太功記十段目」略して「太十(たいじゅう)」と呼ばれて、歌舞伎でも文楽でも単独で上演されることが多く、大きな人気を博しています。それは、これが光秀一人の物語ではなく家族の物語で、そこに描かれている一人一人にそれぞれ感情移入することができるからでしょう。お母さんに感情移入することもできるし、奥さんに感情移入することもできます。光秀は、戦争に巻き込まれた家族の悲劇を統合するような存在なのです。
 この作品では、理屈と感情がせめぎあっています。暴君を排除しようとした光秀の行動にも一理あるけれども、源氏の嫡流たる武智家としては許されないというお母さんの理屈にも一理ある。それから、あれほど止めたのに聞かなかったからこのような悲劇が起こるのだという奥さんの嘆きにも一理あるという、このような複数の理屈の葛藤の中で登場人物がさまざまに苦悩する姿に、江戸時代の人々は自分たちが生きる上での道義を重ねたのではないかと思います。江戸時代の人々は、私たちが考えるよりも意外に理屈っぽいのです。それから、少なくとも芝居の中では、意外に女性がはっきりと意見を述べています。
 そして最後のクライマックスでは、このような道義を全て呑み込むような、光秀の大泣きという、激しい感情の揺さぶりが待っていて、そこに人々はある種のカタルシスを覚えるのです。せめぎ合う理屈と感情の要のような部分を、芝居の中で光秀が表現しているのです。ここに描かれている光秀像というのは18世紀末に生まれたヒーローですが、そのヒーローぶりは、現代のヒーローとは少し違うかもしれません。皆さんの目にはどのように映ったでしょうか。

<サロン・ド・修猷 担当者より> 江戸時代では明智光秀が大人気、しかも本能寺の変でまさか光秀が出てこないとは。まさに"目からうろこ"の予想もできない展開で、大変興味深く感じました。「江戸時代の人たちは意外に理屈っぽい」「女性がはっきりものを言う」というところにも、現代に生きる者として、考えさせられました。


【2時限目 理科:辻健さん(平成4年卒)】

 意外に知らない「自然」のはなし

〇辻 今日は「鵜」のお話です。漢字で書くと難しい字です。でも平仮名で書くと「う」です。ローマ字だと「U」です。
 先ほどは日本史の先生の江戸のお話でしたが、先日、長崎に行って、江戸時代後期の画家の2枚のカワウの絵を見てきました。昔から身近な鳥としてウは知られていました。皆さんは見たことがあるでしょうか。この絵を見ると、右側の絵の鳥は水の中で半透明に見えるように描かれています。そういう画法のようです。
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クイズを5問出します。第1問は「カワウは何を食べる?」です。皆さん、指で答えてください。①虫(むし)、②魚(さかな)のどちらでしょうか。正解は、①虫(むし)ではなくて、②魚(さかな)です。虫は食べません。このような大きな水かきを持っていますので、1分ぐらいずっと潜っています。今はどこの川にもいます。ぜひ見ていただきたいと思います。潜って、ものすごい速さで魚を採ります。魚のほうが早く泳げるように思いますが、カワウは素晴らしい泳ぎをします。カワウが捕まえた魚はとてもおいしいそうです。
 第2問です。「鵜飼(うかい)のウはどっち?」です。①カワウ(川鵜)、②ウミウ(海鵜)のどちらでしょう。正解は②のウミウ(海鵜)です。ウミウのほうが少しだけ賢いのだそうです。鵜匠が捕まえにいくのですが、そのとき、先輩と後輩が分かっているようで、鳥小屋に入るときに、奥から捕まえられた順番に並ぶそうです。若干、中国の奥のほうでカワウを使った鵜飼をやっているそうですが、日本ではほとんどウミウを使っています。
 でも、カワウとウミウはパッと見では全然見分けられません。どうやって見分けるのでしょうか。住んでいる場所だけは違うのですが、見分けるのは難しいです。くちばしの付け根の黄色の部分がつんととがっているのはウミウです。黄色の所で見分けるのがポイントです。環境省はカワウとウミウを間違いないようにと言っています。ここからは、大人の方には、人間と動物の距離感ということも考えながら聞いていただきたいと思います。
 第3問は、「羽を広げているのは何のため?」です。①プロポーズでしょうか、②羽をかわかすためでしょうか。②番ですか。どうしてそう思いましたか。

〇-- 乾きやすそうだと思いました。

〇辻 理論的ですね。正解は②です。乾かすためなのです。素晴らしいです。
 白い頭になったときが、そろそろ結婚の時期、お年頃ということです。もし冬にカワウを見つけたら、この白くなった頭を見ていただけたらと思います。
 第4問は、カワウの子育てです。「カワウは何で巣をつくる?」です。①土や泥、②木の枝。答えは②木の枝です。この写真のような感じで、夫婦で仲良く木の上にしっかりと卵を産みます。可愛い卵です。
 最後の第5問です。「たまごをねらうのは?」、①人間、②ヘビ。指で答えてください。①の方がいらっしゃいますね。正解は①です。実はカワウは、今、大ピンチなのです。人間が駆除を行っています。この写真を見ると、人が木に登っています。上から卵にドライアイスを掛けて卵がかえらないようにしているのです。こうしてカワウを増やさないようにしているのです。ウミウは増やしても、カワウは増やさないぞという強い思いが感じられます。このようなことを人間がやっていいのでしょうかということですが、これも人間と動物の関係性ということです。
 カワウの個体数を見ると、1978年にはほとんどいなくなっていましたが、最近、爆発的に増えてきています。このことが関係しているということです。でも、カワウはいいこともしています。水の中で、栄養というのは、当然のことですが、重力で下に向かいます。でもカワウが水中の魚を食べて森に糞をすれば陸に栄養が戻ります。栄養の循環という意味では大きな役割を演じています。トンボも同じです。水から出て陸に上がっていく動物は栄養を遡らせることができるということで大きな意味を持っています。以上がカワウの生きる道ということでした。
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<サロン・ド・修猷 担当者より>
この後、先生のギター弾き語りに合わせ、鵜飼に使われるウミウは重宝されているが、姿のよく似たカワウは害鳥扱いされている...という授業の内容を辻先生作詞作曲でまとめた〝カワウ哀歌〟を参加者全員で熱唱!悲しい歌詞とは真逆の軽快なメロディに、会場は大盛り上がりでした。


【3時限目 日本史:山口秀範さん(昭和42年卒)】

 意外に知らない「福岡と和歌」のはなし
 ~和歌でたどる福岡の歴史~

〇山口 福岡は万葉集で脚光を浴びています。お集まりの館友は東京にお住まいの方がほとんどだと思いますが、今日ご紹介するスライドで懐かしんでいただければ幸いです。
万葉集といえば大宰府というのが定番ですが、実は万葉集には、志賀島を詠んだ歌が二十数首あります。例えば、このような歌碑があの狭い島の十数ヶ所にあります。私が1度読みますので、修猷生に戻ったつもりで大きな声で、声を揃えて復唱していただきたいと思います。
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「沖つ鳥鴨とふ船は也良の先廻みて漕ぎ来と聞えこぬかも」
 これは筑前の国の志賀の海人(あま)の歌となっています。8世紀の半ばに万葉集が出来ていますから、そのころから志賀島は漁業の基地だったのです。当時、志賀島に屈強の船乗りの荒雄という青年がいて、年老いた先輩に代わって壱岐に米を運ぶために出航し、嵐に遭って船が転覆するという悲しい物語がありました。「也良の崎」というのは能古島の一番北の岬です。壱岐から帰ってくる船を、志賀島より先に能古島の突先から見ることができるので、荒雄の船が帰ってきたら知らせてほしいという遺族の悲しみを歌っています。筑前守として赴任した山上憶良が、その遺族の悲しみに寄り添って10首の連作を作ったと伝えられ、そのうちの1首がこの歌だったのです。

「値なき宝といふとも一杯の濁れる酒にあにまさめやも」
 大宰帥(だざいのそち)大伴旅人には、酒を讃むる歌13首という連作があります。とにかくお酒好きで、私はそれには大変共感を覚えます。値段が付けられないほどの宝石をくれるより1杯の濁り酒のほうがいいという歌です。全くその通りです。その人が九州を統括した大宰府の長官だったわけで、それが梅花の歌32首につながっていて、1200年を経て現代に甦りました。

「東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」
 皆さんご存知の菅原道真の歌です。最後が「春な忘れそ」となっているものもあります。菅原道真は当時の日本最高の知性と言われた人です。私がこの人について一番偉かったと思うのは、遣唐使をやめたことです。それまで、みんな命懸けで船で大陸に渡っていたのですが、西暦894年、遣唐使の長官に任命された道真は、遣隋使から始まって300年間学問・文化・技術などをまなびつくしたのでもう危険を冒してまで大陸に行く必要はないと提言して遣唐使を廃止し国風文化の開花を促しました。それを考えると、今、明治維新から150年、日本は西洋から学びつつここまで来たわけですが、やがては道真のように、新たな日本の文化・学術を熟成させようというときがきっと来ると思います。道真はそれの先鞭を付けた人だったのかもしれません。

「世のために身をば惜しまぬ心ともあらぶる神は照らしみるらむ」
 これは亀山天皇の御製です。筥崎宮の参道に「伏敵門」と呼ばれる楼門があり、上に「敵国降伏」の額が掲げられています。「降伏敵国」でしたら、敵を降伏させるという意味になりますが、「敵国降伏」は、敵国がおのずと降伏するという意味です。わが国が動じなければ、自然と周りの国が頭を下げてくるという、わが国の在り方、願いが込められています。亀山天皇が上皇になられた1274年に文永の役、そして8年後に弘安の役と、2度にわたる元寇を迎えました。その時上皇は、平安時代の醍醐天皇が書かれた「敵国降伏」のご宸筆(しんぴつ)を当時の筥崎宮に贈られ、我が身を顧みず国難をしのぐことができるようにと祈願されたのです。

「妹が背に眠る童のうつつなき手にさへ廻る風車かな」
 これは、江戸時代の歌人で、書家でもあった大隈言道の歌です。地元でもあまり名前を知っている人はいませんが、江戸後期を代表する歌人でした。言道の奥さんの背におぶった乳飲み子が、手に風車を持ったまま眠っているところに風がすっと吹くと、風車がからからと回る。その一瞬を捉えた母子のきずなが表れたいい歌だと思います。

「我が胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」
 これは平野國臣の歌です。平野二郎國臣は、幕末の筑前藩士で、彼を祭った平野神社は中野正剛の碑と銅像がある鳥飼神社所の近くにあります。そして彼の像が西公園にあります。西公園に行ったら、桜だけではなく、彼の像も見てください。
 安政5年に、清水寺の勤王の僧、月照が薩摩に入って、西郷隆盛がその月照をかくまおうとするのですが、薩摩藩から「斬れ」という密命が出ます。とてもそれはできないと、西郷は錦江湾に月照を抱いたまま身を投げます。その時に同船し2人を引き上げたのが平野國臣だったのです。しかし月照は助からずに、西郷だけが息を吹き返すのです。日頃から「平野さんに睨まれると正視できない」と西郷隆盛も恐れる程の人でした。しかし少し早すぎたということでしょうか。生野の変で京都の六角牢獄に捕らわれた國臣は、蛤御門の変後の火災で判決もないまま獄中で首を切られてしまいました。

「初に寝る囚の枕うちつけて荒れにも荒るる波の音かな」
 次は野村望東尼という女流歌人の歌です。ご主人が亡くなって、60歳になろうとするころに、歌の先生だった大隈言道(前掲)を訪ね初めて大坂に行きます。その時に京都で幕末の志士たちの活躍を見て、彼女の勤王の心に火が付きます。この人が勤王の働きをするのは、晩年の6、7年間です。福岡に戻ってきて、平野國臣とまさに恋文のような歌をやり取りしますが、國臣は獄中に倒れます。その翌年には、高杉晋作を平尾山荘に2週間かくまっています。
 1865年に、黒田藩の中で乙丑の獄(いっちゅうのごく)という勤王派の若い藩士たちに対する粛清の嵐が起き、野村望東尼も連座によって姫島に流されました。姫島は糸島半島の岐志(きし)という漁港から船で渡ります。そこに1人で1年間いたのです。強靭な63歳の望東尼さんはそこでの厳しい環境に耐え多くの歌を詠みます。やがて彼女に恩義がある高杉晋作の手配で救出されて下関に移り、病床にある高杉晋作に再会するのです。高杉晋作の最期をみとったのは野村望東尼と、晋作の愛人のおうのさんです。晋作が「おもしろきこともなき世をおもしろく」と詠んで続かなくなり、その後を望東尼さんが「すみなすものは心なりけり」とつなげました。これが新作の辞世です。

「昨日まで南に見つる天つ日を北の御空に今日仰ぐかな」
 この歌の作者福本日南は、明治維新の10年前に福岡藩士の家に生まれ、藩校修猷館最後の卒業生です。若いころは、アジアに関心を持ち、菅沼貞風という若い同志と2人でフィリピンに乗り込むのですが、現地で、その菅沼貞風が急死してしまい、涙をのんで福岡に戻ってきました。そのマニラに行った時の歌です。日本からは南に見える太陽が何と北回帰線を越えて今日は北天に見えるという、驚きの国際体験でした。
 日本に戻ってから九州日報の初代社長兼主筆となっています。九州日報は後の西日本新聞ですので、今の修猷同窓会長・川崎隆生さんの大先輩ということになりますね。その後、衆議院議員をしたり、多方面で活躍されています。また、『元禄快挙録』という本も書きます。四十七士についての真偽混在した諸説を全部整理して決定版を出版しベストセラーになりました。それにちなんで、福岡市南区の寺塚のお寺に、地元の有志が高輪の泉岳寺と全く同じお墓をつくり現存しています。

「風車風の吹くまで昼寝かな」
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 水鏡天満宮の鳥居に掲げられている「天満宮」の字は、広田弘毅が小学校6年生の時に書いたものだそうです。お父さんは石工職人で、お宮からこの仕事を受けた時に息子の字を彫ったのです。水鏡天満宮は道真ゆかりのお宮でもあります。
 和歌ではなく、俳句を1句ご紹介します。大正15年(1926)に、広田は外務省のオランダ公使として赴任します。それは一種の左遷で皆は心配しましたが、当人は平気で、オランダ名物の風車になぞらえて、風が吹くまで昼寝でもしようと詠んだのです。しかしその昼寝は長くは続かず、呼び戻されて外務大臣から総理大臣になりました。そして遂には敗戦の苦しみを一身に担うようにして、巣鴨の露と消えたわけです。

「なゐにより被災せし子ら我ら迎へ島鷹太鼓の撥掲げ待つ」
 平成17年(2005)3月20日に地震がありました。福岡で地震があるなんて驚きました。その2年後に、天皇皇后両陛下が、被害の大きかった玄海島を慰問なさいました。その時、子供たちが島伝統の島鷹太鼓でお迎えしたことを現在の上皇陛下が歌に詠んでおられます。「なゐ」は地震のことです。
 福岡は実に歴史豊かな所です。歴史が豊かということは、このように素晴らしい言葉がたくさん残っているということです。
 私のところの寺子屋モデルでは、子供たちにこのような歌を早いうちから覚えさせようと実践しています。そのような中、10年前から私立の小中一貫校「志明館」を福岡につくろうとしています。道徳の教科書として、「素読暗唱」、「偉人伝」、「伝統文化・礼儀作法」の三部作「寺子屋」を上梓します。これから皆さんのお目に触れるかと思いますし、開校資金も集めていますので、ご支援もお願い致します。ご清聴に感謝します。

和歌の振り仮名付きテキストを見る

<サロン・ド・修猷 担当者より>
 福岡の歴史に思いを馳せながら、山口先生に倣って会場全員で福岡ゆかりの和歌を朗誦。知っているようで知らなかった郷土の姿に触れることができました。福岡帰省の際に、授業に出てきた和歌スポットを訪れてみたいと思われた参加者の方も多かったようです。


締めくくりの四時限目はテーブル対抗「抜き打ちテスト」。授業で学んだ内容は勿論、そうでない問題も出題され...笑いの渦の中で、第13回のサロン・ド・修猷は幕引きとなりました。
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令和到来に際して、純粋に学びの楽しさを味わって頂ける会となりました。ご参加・ご協力頂きました皆様、誠にありがとうございました。

平成4年卒 朋猷会 サロン担当幹事 : 水崎 之子、桑原 理絵、本村 洋子