第11回 Salon de 修猷の報告(平成29年9月9日開催)

image002.jpg

『博多と江戸の 粋な おはなし』 ~食と祭り~

 第11回を迎えた今回の Salon de 修猷は、前回のバスツアーから再び学士会館に戻り、9月9日に開催されました。 今回は『博多と江戸の 粋な おはなし』と題し、食と祭りにちなんだ話題をお届けしました。今回の Salon はお昼をはさんだ二部構成とし、 第一部は明太子で知られる「ふくや」の社長である川原武浩さん(平成2年卒)に「博多の祭りと明太子」について講演をいただきました。第二部は落語家の桂藤兵衛(とうべえ)さんをお招きして、江戸の食についてのお噺を演じていただきました。

salon11_01.jpg

【川原氏講演】

 ○川原 修猷館の時には演劇部に在籍していました。演劇部だったら緊張しないだろうと言われるのですが、緊張しているのを悟られないようにするのがうまくなるだけで、今、心の中では大汗をかいています。

■自己紹介

 私は株式会社ふくやの代表取締役をやっています。当社は家業です。そして、福岡サンパレスの相談役、アビスパ福岡の社外取締役もやっています。仕事以外では山笠に出ています。中洲流(ながれ)の二丁目の衛生という立場です。それから中洲観光協会の事務局長と、中洲二丁目の町内会の理事などもやっています。趣味では劇団を主宰しています。

salon11_02.jpg

■博多祇園山笠

 私の山笠についての話は、戦後にできた中洲流という浅い流に所属している人間から見た話で、別の流の人にはまた別の話があると思います。

(1)歴史(変化し続ける山笠)

 福岡・博多というのは、心柱なところは外さずに、でも変化を柔軟に受け入れながら変わり続けてきています。明太子も山笠もそうだと思います。
 山笠の発祥については諸説ありますが、1241年に承天寺の聖一国師が施餓鬼棚(せがきだな)に乗って甘露水を振りまいて町々を祈祷(きとう)して回ったのが始まりだと言われています。このころは棒が2本だったようです。その後、幟(のぼり)山笠とか旗さし山と言われるものに進化したと言われています。1686年ごろの絵図を見ると、今のように水法被は着てなく、ほぼ締め込みだけの裸の人たちです。
そして、1687年に追い山が始まったと言われていますが、それまでは京都の祇園さんのように、間に休憩時間があってゆったりと町中を巡行していたそうです。ところが1687年の正月にもともとの因縁があるのだそうですが、恵比寿流の旦那さんと結婚した土居流の娘さんがお正月に土居流に里帰りをしていた時に、土居流の若手が酔っ払った勢いでお婿さんに桶をかぶせるなどのいたずらをして、それを恨みに思っていた恵比寿流が、山笠当日、土居流が休憩していた隙にここぞとばかりに追い越すという「犯行」に及んだという話です。今われわれが必死にやっている追い山の始まりは、そのようなきっかけからだったのです。
 1743年ごろにようやく櫛田神社の中に舁き回り入る今櫛田入りの形式になったそうです。
 ところが明治になると、このような格好は野蛮だということで何度も禁止令が出ます。そしてこのころになると電線が町中に張られるようになり、実際に動く「舁き山笠」と展示用の「飾り山笠」に分化しました。
 戦争中、博多も空襲で焦土と化し山笠は中断されていましたが、1947年の質素な子供山笠というのから少しずつ山笠が復活します。われわれの中洲流が登場するのは1949年からです。
 山笠で最大のピンチと言われていたのが、1961年の町界町名変更です。これで他の町内だった方とまた新しい町内をつくらなければならなくなったのです。もともと太閤町割りのころから、ストリートの向かい合わせのところが同じ町内ということでやっていたのが、ブロックが同じ町内ということになったので、お向かいが別の町になってしまいました。法被の柄の問題とかも絡んで大変混乱したそうです。私は当事者ではありませんが、随分引きずっているそうですし、今でもこれに由来する問題がちょこちょこ残っています。
 そして現在、上川端通の商店街にある山が「走る飾り山笠」として、櫛田入りから大博通りぐらいまでを舁いたりして、突然昔に返そうとか、新しいことを取り入れて変えていこうとか、いろいろやっています。

(2)追い山コースと山台の秘密

 山笠は、誰でもが参加しやすいようになっています。追い山のコースは、櫛田入りをして東長寺の青道を回って承天寺を回って行くのが正しいコースなのですが、どこからでもショートカットができるようになっていて、お年寄りから子供までがそれぞれの体力に合わせた山笠のコースが作れます。全長は5㎞のコースです。今、千代流さんが一番早く、28分とかで走ります。時速10㎞以上で走り続けているということです。中洲流はそれより遅く33分台ですが、それでも時速9㎞ちょっとのスピードです。
 山台は6本の舁き棒を中心にして組み立てられていて、その棒は内側に行くに従って2㎝ぐらいずつ下がっていっていますので、真ん中側に寄れば寄るほどに背が低い人でも舁けるようになっています。さらに棒自体も先端が細くて真ん中に行くほど太くなっていますので、165㎝から178㎝のプラスマイナス2㎝ぐらいの人が体格に応じて山笠に付けるようになっています。
 台上がりも、日によって若い子たちがやったり上の役職の方がやったりと、柔軟に運営されています

(3)明確な所属と序列

 しかし、明確な所属と序列はあります。流の名簿には、はっきりと序列で名前が載っていて、着席の仕方とか全てこの順番で行われます。例えば、店に入るときや出るときもこの順番です。手拭も役割・役職で色や柄が違います。

(4)住民自治と山笠組織

 そもそも博多は大商人が合議でやっているような自治都市でしたので、どこかでその雰囲気はずっと生き続けているように思います。お上から言われてもそのままは飲み込まないぞという、反権力とか反体制の雰囲気がどこかに残っています。今でも山笠は関係者で合議をして全会一致で決定です。多数決は存在しません。1人でも反対する人がいると、全会一致になるまでひたすら皆で説得したり話し続けます。それが全部収まると「手一本」というのを入れます。これは約束の証です。
 山笠は7月のお祭りですが、その合議を取るために1月からずっと会議と神事のスケジュールが決まっています。六曜も全部決まっていて大変です。
 そもそも山笠というは町内会の夏のお祭りで、他にもいろいろやっています。中洲町連合会という町内会組織では、夏には山笠、秋には中洲祭り、そして、NAKASU JazzとかOCTOBER FESTというイベントのお手伝いをしたりもしています。

■明太子

(1)ふくや創業者・川原俊夫

 私の祖父、ふくやの創業者・川原俊夫は1913年大正2年に釜山で生まれました。その後、召集を受けて沖縄に配属され、宮古島で終戦を迎えています。この戦争体験が創業者の考え方を随分変えたようです。戦争から戻って後、世の中のためになる生き方をしようということで始めたのがふくやです。昭和23年、1948年10月5日に食料品店を創業しています。

(2)原型「明卵漬」

 最初に作った明太子は、釜山で食べたことのある明卵漬(みょんなんじょ)に近いものでしたが、さっぱり売れませんでした。それは塩辛いうえに唐辛子辛く、当時の日本の人の味覚に全く合わず、それから改良が始まります。

(3)下関発祥説と博多発祥説

 明太子の発祥については、韓国だ、下関だ、博多だといろいろな説があります。原型になった明卵漬は韓国ですので、そういう意味では韓国発祥と言えるかもしれません。その後、下関の業者さんが作ったらしいとか、その後、うちが作ってまた下関の業者さんが作ったとか、文献があったりなかったりでルーツは定かではありません。ただ、朝鮮由来の明卵漬は今はもうなく、下関の業者さんが作ったまぶし式の明太子も今はなくなっていますので、今ある漬け込み式の明太子の源流は祖父が作った博多の明太子なんだろうと思います。

salon11_10.jpg

(4)製法の公開

 祖父は、いろいろなところに作り方を教えています。当時の中洲市場は店の看板なんかなく、明太子を売っている店は入口から4軒目という言い方をしていたそうです。ところが中洲市場には入口がもう1カ所あり、間違って「いとや」さんにたくさんのお客さんが来るので卸し売りをしてくれないかと頼まれ、それだったら自分のところで作ればと作り方を教えたそうです。次に、お隣の「むかい」さんから、行列がお店をふさいでたまらないから何とかならないかとなり、それならそちらでも作ったらとなり、「ふくや」と「いとや」さんと「むかい」さんの3店舗が中洲市場で初めて明太子を販売しました。
 この後、「鳴海屋」さん、「かねふく」さん、「福太郎」さん、「やまや」さんと急激にメーカーが増えていきます。初めのほうは、平仮名3文字か社名に「ふく」が付く会社がやたら多く、その後は漢字3文字の社名が続いています。「稚加栄」さんとか「椒房庵」さんが今のはやりのお店です。
 現在は、年間の消費量が推定で大体3万トンと言われています。市場規模は500億から600億円で、メーカー数が99社から200社です。なにぶん参入障壁が低い業態で、ご希望があれば、この後5分間ぐらいで作り方を全部教えられます。

(5)ふくやという「変」な会社

 祖父の趣味は納税でした。それを目的として会社を経営していました。自分たちが、出来上がった社会や文化を戦争で壊してしまったということもあるのだと思います。納税で社会に貢献したいというのが強くありました。売上高28億円で、経常利益は2億5千万円という経常利益率が9%のなかなかの会社で、8割以上が税金で持っていかれて2千万円程度が残るのですが、その2千万円も寄付に回していたようです。祖父の死後、金庫を開けたら中身が全くなく、ずっと自転車操業をしていたことが判明しました。税金を払って社会貢献をすることが祖父の一番の思いだったのだろうと思います。

(6)変化し続ける明太子

 2008年以降、たくさんのメーカーが倒産しています。明太子の売り上げが、単価の高い贈答用の一本ものから、切れ子とか家庭用と言われる安めの商品にシフトしてきていて、消費では増えているのですが、単価が下がってきているという厳しい環境があります。いろいろなメーカーさんがいろいろな生き残りを図っています。「福太郎」さんは「めんべえ」を、それから「やまや」さんは「もつ鍋やまや」というお店を展開しています。「かねふく」さんは各地に「めんたいパーク」という見学ができる体験型工場をやって事業構造の転換を図っています。
私どもは、本日のお土産で出しています「めんツナかんかん」とか「醤(ひしお)明太」という明太子の皮の佃煮を出しています。本日のお土産にしていますのは、修猷館用の特別ラベルです。明太子も今のお客様や生活スタイルに合わせてじわじわと変わってきています。
雑駁になってしまいましたが、落ちのある話は第2部の桂藤兵衛師匠にお願いして、私の話はこれで終わらせていただきます。(拍手)

salon11_03.jpg

【ナビゲーター西田氏講話】

 ○司会 今日はナビゲーターとして、平成15年卒の西田亜未さんにお越しいただいています。実は今回の藤兵衛さんをご紹介いただきましたのは、現在お茶の水女子大教授をしていらっしゃいます、昭和59年卒の神田由築さんです。残念ながら本日は神田さんがご出張のために、神田さんと同じ大学で同じ近世史を専攻されました西田さんをご紹介いただきまして、神田さんの代理を務めていただきます。

 ○西田 平成15年卒の西田です。大先輩の神田由築先生の代理として参りました。先生とは、もちろん修猷館と、そして大学でも恩師が同じで、さらに研究が似ていたので今は共同研究をしています。本日は、「食」と「落語」と「江戸」と「博多」を5分でつなげというすごいミッションをもらっています。

salon11_09.jpg

■食と落語

 落語には必ずと言っていいほど食べ物が出てきますので、明太子を探しましたが、残念ながらありませんでした。
 寄席の成立は寛政の末ごろ(18世紀末)で、もともとは料亭でやっていた文化人サロンの中で、「噺の会」として開催されたのが前身とされています。もちろんそこでは料亭のお料理が出されますので、そこから既に「食」とはご縁があったものだと言えます。
 江戸時代の落語家さんが集めて丁寧にスクラップされているチラシが残っています。その中に「うなぎ」と書かれているところがあり、1皿200文となっています。今の値段だと2,500円ぐらいですから、今と同じくらいで、ちょっと親しみが持てます。

■寄席の登場と流行

 木戸銭を払えば誰でも寄席に行けるようになると、江戸には何百軒という寄席ができます。その草創期に盛り上げた落語家さんが、初代林家正蔵さんと三笑亭可楽のお弟子さんの可上さんです。落語の資料は本当に数が少ないので、歌舞伎の浮世絵とかから手掛かりを探しますが、七代目の市川團十郎の浮世絵の後ろに落語の看板があって、ここに「正蔵」と「可上」の名前があります。
三笑亭可上さんは、落語家にしては珍しく絵に残っています。その絵をよく見ると手に持った扇子に「百眼可上」とあります。この人は百眼(ひゃくまなこ)という芸で一世を風靡(ふうび)しました。百眼というのは、「目かずら」を用いた芸です。江戸時代は上から付けるものを「かつら」と呼んでいて、目に付ける「目かずら」を用いた芸はもともと吉原の座敷芸だったのですが、これを寄席に上げ、それが大ヒットしたということです。
この時の「目かずら」を見ると、私たちがよく知っている「にわかせんぺい」が思い浮かびます。このブームがあちこちに伝わって、その一つが「にわかせんぺい」ということだと思います。この「目かずら」人気は歌舞伎にも及び、歌舞伎になると浮世絵になり、それが売られたりしています。

■桂藤兵衛というお名前

 本日お話しいただく藤兵衛さんのお名前は、本当は上方の落語のお名前で、初代桂文枝さんの通称なのです。今日は、三代目さんがお話しいただくのですが、その間の二代目が実はちょっと福岡とかかわりがあります。この方自身は上方の方なのですが、西国坊明学という福岡出身の芸人さんと組んで藤明派というのを起こし、存在感を示したという記録が残っています。そんなわけで今日、三代目さんがこの場でお話しいただくのも何かのご縁だと思います。

【桂藤兵衛師匠】

 ○桂 いっぱいのご来場でありがとうございます。今日のテーマは「食と祭り」ということです。最近はミシュランの三ツ星というのが話題になっていますが、あれは食べ物だからいいですね。噺家にあのような星を付けられると、えらいことになります。寄席で、出演者の上に星が付いていると、「あ、この人は星が1個付いているよ。ちょいと聞いてやろうか」なんて言ったり、どうかすると「これは星が何も付いてない。今のうちにトイレに行きましょう」なんていう時代になると、われわれは商売になりません。
 われわれも食べることについては探求心旺盛ですから、いろんなところに行きます。すると妙なものにぶつかることもあります。これは随分昔の話ですが、ある時、そば屋さんに飛び込んで壁のお品書きを見ると、一番端っこにことさら大きな字で「親子丼」と書いてある。親子丼なんていうのは日本全国どこにでもあるのですが、「当店自慢」と赤い字で書いてあり、値段を見ると150円とある。これは安いです。今はどうかすると丼物だって1,000円なんていうのもあります。いくら少し前の話でも150円というのは安いですから、これはきっと誰も知らないおつなものに違いないと楽しみに待って、丼が目の前に来てふたを開けて驚きました。親子丼というのはどこに行きましても鶏肉と卵が入った親子なのですが、150円というのはやっぱりそれなりの事情がありました。中はお豆腐と豆でした。(笑い)
 日本人が一番好きなのが麺です。その中でも、おそばばっかりは音を出して食べないとあんまりうまいもんじゃございませんですな。われわれ噺家になった当時には、まだ明治の生まれのうるさい人がおりまして、おそばをもそもそ食べているといけないのです。「おう、そばは食うんじゃない。すらっと手繰れ」なんて。あれは、つっと飲み込んでのど越しを味わって、後から香りがぱっと戻ってくるという、何か命懸けみたいな食べ方をしないと本当のそば食いとは言えないそうです。
 おそば屋さんがうまいかまずいかは、まず盛りそばをあつらえると一番分かるそうです。まず盛りのせいろが出てまいりまして、箸でつまんでひょいと持ち上がった時に、一尺ぐらいに切れていないといけないそうです。ところがわれわれが始終食べているような安いおそば屋というのは、そういうわけにはいきません。こしらえてちょっとたっているんでしょうな。捕まえ上げるとぐっとせいろの形ごと取れたりします。(笑い)また違ったところでは、いやに長いのもあります。こう持ち上げても切れてなくて、中腰になってもまだ切れなくて、弱ったなと立ち上がってもまだ切れなくて、どうしようかなとなります。そうなると、先がずれちゃって、そばちょこのつゆに入りません。
 今はなくなりましたが、昔は引っ越しそばなんていうのがありまして、引っ越すてえと近所におそばを配りました。あれは「今度おそばに来ました」というしゃれなんだそうです。
 おそばというのは歴史が長いですから、それにまつわる話は山ほどございます。昔、おかめそばというのが大変に評判になったそうです。そばの上に、かまぼこが2枚乗っていて、それがおかめさんのほっぺたになります。そして、マツタケを縦に切って真ん中に据えたのが人間の鼻になって、タケノコを薄っぺらに切りまして、これが櫛で、三つ葉の湯がいたやつをきゅっと結んで脇に乗せると、これがかんざしというわけです。ですからちょいとおそばをのぞくと、女の人の顔のようで、それでおかめそばと言うのです。

salon11_04.jpg

◇ひょっとこそば

 江戸っ子というのは新しもの好きですから、「今度おかめというのができたよ」、「何だい、おかめってえのは、芋屋の女中かい」、「そうじゃないんだよ。そばだよ、そば。初物は七十五日生き延びるってえんだ。行ってみようじゃないか」と言って、出掛けてこいつを食べてみると、なかなかおつなものでうまいというので、どんどん客が来るので店が繁盛する。じゃ、うちでもひとつおかめを始めよう、うちでもおかめをやってみようとなったのですが、中にはへそ曲がりなそば屋もあります。「おかめね。そうか、人間の顔みたいにこしらえてあるんだね。だけどおんなじじゃ面白くないからな。よし、おれはひとつひょっとこで勝負しよう」なんて言って・・・。

(中略)

・・・。「へい、冷ますってえと口がとんがりますな。その顔がひょっとこなんです」。このそば屋さんはすぐにつぶれたそうです。(笑い)いろいろ人間というのは考えます。

 江戸時代には二八そばというのが大変評判だったそうです。どういうわけで二八そばかというと、そば粉が8割、つなぎのうどん粉が2割で二八そば。いや、そうじゃない。あれはお宝から来ているんだ、1杯十六文で商いをしたそうですので、二八の十六で二八そばと言う説もございます。今の値段にすると300円ぐらいのものなのでしょう。これは店を構えたおそば屋さんではございません。芝居とかテレビでときどき拝見することがございます。例の『鬼平犯科帳』なんかのエンディングでおそばを食べているところがあります。屋台をしょって町中を流していくという。大体夕方から出て、一番お客さんが立て込んでくるのが夜中時分です。一杯飲んで、締めにそばが食いてえなとか、あるいは仕事が遅くなってしまって何も食べるところはやっていない。ちょうどいいところに屋台のそば屋がやっているというので、こいつを召し上がろうという。ですから今の時間にすると、大体夜の10時から夜中の12時。昔は九つ、あるいは四つという、この時間どきがおそば屋さんが大変に繁盛したのだそうです。今は夜中、どんなに腹が減ってもコンビニもあれば何か手に入るんですが、昔のことですから。ましてや寒くなるってえと、うちの中でがたがたしていても寒い、腹も減ってきてしょうがないというときに、あのそば屋さんが往来を流していくってえと、そば好きはたまらなくなって表へ駆け出したんだそうです。

salon11_05.jpg

◇時そば

 「そばーえー」、「そば屋、ちょいと待ってくれ。今日は寒いな」、「昨日から急になあ。朝晩冷え込むようになってきました」、「驚いちゃった、あまり寒いのでね。風邪、引いちまってな。いやいや鼻風邪だよ。こういうときには熱いそばでもすっと手繰りゃすぐ抜けてしまうと思ってね。何ができるんだい。花まきにしっぽく。しっぽくを一つ熱くしてもらおうじゃないか。・・・。

(中略)

・・・「十六文。銭が細かいんだ。構わないかな。落とすといけねえから受けてくれ。行くぞ。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、今何時だい」、「ただ今、四つです」、「五つ、六つ」。
 おなじみの『時そば』でございました。(拍手)

【大須賀会長ご挨拶】

 ○大須賀 今日のお話を聞いていて、博多っ子と江戸っ子とは、きっぷの良さとせっかちなところが似ていると思いました。違うところは、江戸っ子は意地っ張りで博多っ子はどちらかというといい加減なところがあって、江戸が豪で、博多が柔と思いました。そうは言っても、どちらもいい性格だと思います。

salon11_06.jpg

ふくやの創業者の川原さんのおじい様は、辛子明太子を発案なさったのですが、このレシピを全部オープンにされたのです。普通は、自分で開発したものは企業秘密として絶対に外に出さないと思うのですが、ふくやさんはそれを訪ねて見えた人にみんな紹介したのだそうです。それで今の博多の名物の辛子明太子があるわけです。この辺が博多っ子らしいなと思いました。
今日の『時そば』は何度も聞いていますが、落語はやはり実際に聞くのが一番だと改めて思いました。
 ここで締めたいと思います。今日は川原社長に博多一本締めをやってもらいます。よろしくお願いいたします。

salon11_07.jpg

 ○川原 どうぞご起立ください。今日は、こうすると博多手一本がうまく見えるという秘訣をお伝えしたいと思います。まず軽く肩幅程度に足を開いてください。開き過ぎないように、そして棒立ちにならないようにというのが大切です。自然体で足を開きます。そして手を開き過ぎないということも大事です。初めは手のひらを上に向けます。このかたちで準備をすると、これだけで「なかなかやるな」という感じが出ます。そして「よおお、ぱんぱん、もひとつ、ぱんぱん、祝おて三度(いおうてさんど)、ぱぱんぱん」です。そして正式には、この手一本が終わった後は拍手は入れません。
 それでは、本日は Salon de 修猷で、それから修猷同窓会が今後も発展していきますように祈念いたしまして、博多手一本でこの会を収めさせていただきます。

(全員で博多手一本)

どうもありがとうございました。
(終了)

salon11_08.jpg

日野正仁(平成2年卒 卆猷会)