「未来の雑誌はどんなカタチをしてるだろう?~ペーパーレス時代の出版業~」
講師:松原亨さん(昭和61年卒)
開催日時:令和4年1月13日(木) 19:00-20:00
○田中(司会) 本日の二木会は、マガジンハウス『コロカル』編集長で、昭和61年卒の松原亨(まつばらこう)さんに、「未来の雑誌はどんなカタチをしているだろう?~ペーパーレス時代の出版業~」と題してご講演いただきます。
松原さんは、1991年に早稲田大学をご卒業後、株式会社マガジンハウスに入社されました。1992年から『POPEYE』の編集に携わり、ファッション、音楽、インテリアなど幅広く担当され、2000年より、月刊『Casa BRUTUS』の創刊に参加されました。2012年には同編集部編集長に就任、2020年にはwebマガジン『colocalコロカル』編集長に就任され、現在、日本のローカルカルチャーに関わるメディアの制作・運用に従事されています。
今日はスペシャルゲストとして、松原さんとは修猷館の同期で、テレビでもお馴染みの日本を代表する音楽プロデューサー、松尾潔さんをお招きしています。松尾さんより講師のご紹介をしていただきます。
■講師紹介
○松尾 松原亨くんとは、高校2年、3年と同じクラスで、大学も同窓です。社会人になってからも一緒に過ごす機会が多く、数えきれない夜を共にくぐり抜けてきました。
私の職業は音楽プロデューサーですが、人前で演奏したのは修猷館高校3年生の文化祭で、ままごとのようなバンドをやったのが最後です。音楽プロデューサーという職業は、ミュージシャンとしてプロデビューを果たし、その後、裏方であるプロデュース業に転身したようなイメージが強いと思います。残念ながら、私にはそんな才能はありません。ところが、松原くんはフルタイムの本業を持ちながらも、アルバムデビューを飾ったミュージシャンなのです。この快挙には友人として誇らしく思いました。彼は早稲田大学モダンジャズ研究会に入部してジャズサックスの虜(とりこ)となり、仲間と結成したCOOL SPOON(クールスプーン)というジャズファンクのバンドで、1992年(平成4年)にデビューし、2枚のアルバムを発表しています。中でもファーストアルバムは1万枚を超えるセールスを記録し、クラブミュージックシーンでも大きな注目を集めました。
今日は、サプライズで音源を聞いていただきます。
(音楽再生:COOL SPOON"ELEGANT GIRL'S THINKING")
ちなみに彼のこのバンド、COOL SPOONですが、Wikipediaにも掲載されています。知る人ぞ知る、れっきとした人気バンドでした。彼は90年代の渋谷・西麻布界隈のクラブシーンでは大変な有名人でした。
ただ、本日多数いらしている同級生の皆さんには、松原亨がミュージシャンでCDを出していたという話を初めて聞いた、むしろ体育会系だと思っていた、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。高校時代の松原くんは、バレーボール部の主力メンバーとして活躍し、2年生の時のクラスマッチではバスケットボールの試合でも大活躍しまして、同じクラスの女子たちからやんやの喝采を浴びるのを、私は羨望のまなざしで見ていました(笑)。
彼の人となりを四字熟語で考えてみると、「明朗快活」、「頭脳明晰」、「眉目秀麗」...一言で言えば「超人気者」ということになります。昭和61年卒のわれわれの学年のスターだったとここで断言しても決して大げさではないと思います。
彼は、演劇の世界でも連続公演の舞台で主演を務めあげて評判となったり、モデルとしてもCMやグラフィックの世界で活躍したりしていました。1989年に地元福岡の天神イムズがオープンした時には、彼がそのポスターを飾りました。青春時代の彼は、音楽・演劇・映画・文学・ファッション・広告というダイナミックなカルチャーの渦の中を全速力で駆け抜け、同級生より一足先に大人の世界に触れているという印象でした。
そんな華もあれば芸も品もある松原くんを、社会が放っておくはずはありません。就職活動でも彼はメディア業界を中心に複数の内定を獲得したと記憶しています。その中には当時、最高の人気、かつ最難関とも言われていた大手テレビ局も含まれていました。
松原くんはマガジンハウスを選んだ理由を、「テレビの制作だと、任されるまでに3年以上かかるかもしれない。でも雑誌の編集だと、1年後には自分の意向を反映したページをつくれるのではないか。オレはその時々の自分の感性をダイレクトに反映できる『編集』という仕事がやりたい」と言いました。阿佐ヶ谷のアパートで言ったその言葉は、彼らしい説得力に満ちていました。その後の彼の輝かしいキャリアを考えると、「有言実行」という四字熟語に尽きます。
松原くんは、今、編集つまりエディトリアルというスキルを使って、この国を、あるいはこの時代をどれだけ心地よいものにできるのかという壮大な社会実験を行っているように思えます。
そろそろ松原くんの話に耳を傾けたいと思います。松原くん、よろしくお願いします。ハードルを目いっぱい上げておきましたので(笑)。
■松原氏講演
○松原 こんなに褒められたのは結婚式以来のことで、どうしていいのか分からなくなりました。松尾くん、ありがとうございました。阿佐ヶ谷のアパートで夢を語ったことはよく覚えています。
今日は、二木会の皆さんにこのような機会を与えていただき、本当にありがとうございます。とても光栄に思っています。
■自己紹介
私は1967年に東京都中野区で生まれ、10歳の時に福岡に転居し、長尾小学校に転入しました。中学校は友泉中学というマンモス校で、当時はヤンキーがいっぱいで、不良が本当に怖かったです。その後、修猷館高校に入学し、バレー部に入りました。そのまま大学に行く予定でしたが、その前に河合塾に入学しました。そして早稲田大学に入学し、タモリさんがいたことでも有名なモダンジャズ研究会に入部しました。
1991年にマガジンハウスに入社し、『POPEYE』に配属されて、その後2000年に『Casa BRUTUS』という新しい雑誌が創刊され、それに参加しました。そして『Casa BRUTUS』の編集長、『POPEYE』編集長をやって、今、『colocalコロカル』というwebメディアの編集長をしています。31年間の編集者人生です。
■はじめに
マガジンハウスという会社の説明をすると、戦後の1945年にできた会社で、雑誌が主な商品です。『anan』(アンアン)、『Hanako』、『POPEYE』、『Tarzan』、『BRUTUS』という長寿雑誌を出し続けています。最近では、私がやっている『コロカル』のように、紙を持たないwebマガジンもやっています。今年は、福祉をテーマにした『こここ』という新しいwebマガジンがスタートしました。最近は書籍の販売も好調で、『君たちはどう生きるか』という書籍が2018年の日本で一番売れた本となりました。また実写でTVドラマ化もされた『今日の猫村さん』という漫画も出版しています。
松尾さんと阿佐ヶ谷のアパートで夢を語っていた1990年代に、私は『POPEYE』という雑誌をやっていました。2000年には『Casa BRUTUS』という雑誌が創刊され、そこに配属されました。そして今は『コロカル』に携わっています。
思えば、1990年代というのは、『POPEYE』にとってはストリート・カルチャーの時代だったと思います。つまり、80年代とは違うカルチャーが、若者たちにはとても新鮮だった時代でした。
2000年になって、『Casa BRUTUS』が創刊しました。『Casa BRUTUS』を創刊した理由は、編集者として単につくりたかっただけでなく、世の中が建築や家具というような「デザイン」ということに興味を持つようになったことによります。
そして『コロカル』ができたのは2012年です。テーマはローカルです。今、東京で、大都会で暮らすのが本当に幸せなのか。もしかしたら、東京に住むより、自然があって、ゆっくりと時間が流れる地方に住んだほうが幸せなのではないだろうか、というようなことを考える人が非常に増えました。そんな2012年に『コロカル』はスタートしました。その時代の空気というのは、2011年の震災の影響が大きかったというのもあると思います。
私がやってきた雑誌で考えると、『POPEYE』の90年代はストリート・カルチャーの時代、『Casa BRUTUS』を始めた2000年代は建築やデザインが面白い時代、そして2020年代は、日本のローカルの文化が面白いと思う時代という捉え方ができると思います。
雑誌というのは時代を映す鏡で、その時の雑誌を見るとその時代の空気が分かるとよく言われますが、私はまさにその仕事をしてきました。今はどんな時代か、その時代に何をしたら良いかを常に考える仕事だったと思います。今日は、これからどんな時代になるのかを二つの視座で考えたいと思います。
一つは、「雑誌という商品自体に関する時代の潮流」です。メディア自体がもう変わってきているのではないかということです。雑誌が時代性を捉えるなんて言っていますが、雑誌という産業自体が時代から取り残され過去のものになりつつあるという厳しい現実が確実にあります。インターネットの情報は無料で得られる時代に、有料のメディア、雑誌メディアはどのようにやっていけばいいのかということです。
もう一つは、「雑誌が捉えた時代性」ということです。1990年代、2000年代と、雑誌を通して発信してきたそれぞれの時代の潮流があります。しかし、時代性というのは多面的なもので、1990年代は、『POPEYE』から見たらストリート・カルチャーの時代でしたが、例えば、自動車業界の人たちにとってはF1が流行った時代、またサッカーが好きな人にとっては、Jリーグができて、子供たちが野球よりもサッカーのほうが格好いいなんて言いだした時代でした。あるいは、金融的な世界では、「デフレがね」という時代だったかもしれません。それぞれの環境によって時代の捉え方はさまざまですので、本当は、私から皆さんに、どういう時代だったか、そして今はどういう時代か、そしてこれからどうなると思っているかを聞いてみたいです。
そしてこれからの時代の空気というのは、未来の雑誌がどんなかたちをしているかで分かるのではないかと考えています。まだ結論はないのですが、私なりに考えていきたいと思っています。
■雑誌という商品自体に関する時代の潮流・印刷物が消えていく
日本の印刷産業の出荷額は、1951年から高度経済成長に乗って急カーブで右肩上がりとなり、バブル絶頂期の1991年がピークでした。私がマガジンハウスに就職した時が日本の印刷産業のピークだったのです。その後、1997年にもう一度ピークがありました。『POPEYE』がストリート・カルチャーだとか言っていたのがこの時で、この二つのピークの間に浮かれ騒いでいたわけです。
出版物の推定販売金額も、1996年、1997年辺りがピークで、ここからずっと下がっていって、2020年の日本の雑誌の販売金額は、1997年の3分の1になっています。それぐらい印刷物が読まれなくなっているのです。
松尾潔さんの世界である音楽ソフトの売上高も、雑誌の状況とそっくりです。2020年の売上高は2,000億円で、ピークだった1998年の3分の1になっています。音楽ソフトも印刷物と同じような状況にあるということです。
広告費についても、トップはずっとテレビでしたが、2019年にインターネットに抜かれました。明らかに、インターネットがいろいろなメディアの状況を変えてしまいました。
インターネットの歴史を、私が『POPEYE』をやっていた1990年代と、『Casa BRUTUS』をやっていた2000年代とに分けて見ると、90年代はインターネット黎明期で、2000年代はインターネット隆盛期です。私が就職した1991年に世界初のwebサイトが公開され、1994年にYahooが誕生しています。1995年にInternet Explorer、1997年にgoogleが登場します。2001年にWikipediaが出ます。そして2003年にSkype、2004年にFacebook、YouTubeが2005年、Twitterが2006年に設立されます。そして2007年にAppleのiPhoneが発売されました。これが一番大きな衝撃でした。
この後、2010年ぐらいから、電車に乗ると、本や雑誌を読んでいる人が一人もいなくなりました。その光景は忘れられません。私は雑誌の発売日に電車に乗って、みんながどれぐらい自分の雑誌を読んでいるかを見ていたのですが、その時、一人もいなくなって、みんなスマホを見ていました。
そもそも皆さん、本や雑誌を読んでいますか?頷いていただいているものの、私たちの世代は読んでいるかもしれませんが、若い人たちは本当に読んでいません。
これらを、私がやってきた雑誌と重ね合わせてみると、出版産業のピークだった90年代というのは、私たちの業界にとっては本当に幸せな時代だったことがわかります。そして、2000年に『Casa BRUTUS』が始まり、私はそれを2018年までやっていましたが、その間に何と出版界は3分の1に縮小してしまったのです。そしてインターネット広告費がテレビを超えた2020年代には、私はローカリズムをテーマにした『コロカル』をやっています。出版業界全体の時代の潮流と、私が雑誌でやってきたことの潮流を重ねてみると、以上のような変遷となります。
■雑誌が捉えた時代性・私の編集歴
『POPEYE』の90年代は、インターネットも黎明期で、まだ雑誌に力があったと思います。とはいえ、80年代とは違って、趣味の細分化が起こり始め、大衆ではなく「分衆」という言葉が定義され、みんなが一つのものを好きという時代が終わり、マニアックなものを好きになるのが格好いいというか、ちょっとおしゃれだという時代が始まった感じがありました。
キーワードで言うと、ディスコからクラブへ、すでにCDの時代なのに、アナログレコードを買ってアマチュアDJをやるみたいなのが流行りました。そして音楽のファッション化が起こり、「渋谷系」と呼ばれるような、おしゃれな音楽が流行りました。映画も、「単館系」と言われたようなマニアックな映画が、ちょっとおしゃれという感じで、ファッション化した時代だったと思います。『POPEYE』にとってはこの辺りが主流のテーマでした。
そして、裏原宿ブームがありました。原宿の少し裏のほうにカリスマがつくるファッションのお店があって、そこが新しいものを出すと、長蛇の列になりました。90年代は、ストリート・カルチャー、スケートボード文化と音楽文化なども背景に持つファッションが流行りました。80年代はDCブランドブームで、私たちが高校生のころは、デザイナーズブランドがおしゃれの主流でしたが、90年代は、どちらかというと、ビンテージの破れたジーンズとレアなスニーカーという、奥田民生的な格好が流行りました。
そして、インターネットの隆盛期の2000年代は、みんなが同じものを好きな時代が本当に終わってきていて、マガジンハウスも新しいテーマを絞り込んだ雑誌をやろうと、私たちは『Casa BRUTUS』を創刊しました。このころになると、趣味・嗜好がさらに細分化されて、なにかメジャーなものがしっかりあって、それに対してマイナーだとか、オルタナティブとかいうものがあるのではなくて、小さなブームがたくさんあるような時代になっていきました。これはどこかで聞いた話だなと思ったら、まさにインターネットこそ、小さなブームが並列的にたくさんある世界ですよね。
そのような時に『Casa BRUTUS』を創刊しました。ここでは、建築のこととかプロダクトデザインの話や、世界中の世界遺産を見て回ろうという旅行の話などを取り上げ、マガジンハウスらしいことをいろいろやりました。これは何となくやったわけではなく、このころ、世界的な建築ブームをうけてのことでした。
1997年に、スペインのビルバオにグッゲンハイム美術館が建ちます。これは建築界ではエポックでした。スペインのビルバオという町は、昔は工業都市で栄えたのですが、産業が駄目になって荒廃し、人口が減ってどうしようということになったのです。どこかで聞いたような話です。今の地方創生での話と似ています。その時に、ビルバオ市は世界一の建築家に美術館を建ててもらおうとしたのです。世界一といっても、これから世界一になる人と言ったほうがいいのかもしれません。フランク・ゲーリーというアメリカの建築家に設計を依頼しました。
この建物は大胆で革新的なデザインの建築です。美術館をつくっても展覧会を回して維持していくのは大変ですが、建築自体が作品であれば、人はこれを見に来ます。そのような企みが見事に当たり、このビルバオ・グッゲンハイムのおかげで、観光客がたくさん訪れるようになり、ビルバオ市は再生しました。それが「ビルバオ効果」と呼ばれて、まさに世界的な地方創生の一つのサンプルケースになったそうです。
その辺りから、有名建築家に面白い建築を建ててもらうと何かいいことがあるぞという空気が出てきました。ロンドンには、発電所をリノベーションしてつくったテートモダンという美術館ができました。ヘルツォーク&ド・ムーロンというスイスの有名建築家のデザインです。
そして、この流れにいち早く乗ったのが、ファッションブランドでした。特に日本では、2000年ぐらいから面白い建築を東京にたくさん建て始めます。その一つが、イタリアの有名な建築家のレンゾ・ピアノが設計した、ガラス張りの銀座メゾンエルメスでした。2003年には青山に、プラダ青山が建てられました。どれもアバンギャルドで人々の目を引く建築です。このように、自分たちのブランドの世界観をブランディングするのに建築を使うことがちょっとしたブームになりました。
そのような世界的な流れに乗って、『Casa BRUTUS』という雑誌を始めました。ここでは、建築・デザインに焦点を当てて、いろいろなライフスタイルを提案しました。そしてそのころ、インターネットがすごい勢いで伸びてきて、紙だけの雑誌だけではちょっと危ないのではないかと思い、私が編集長になって、2013年にcasabrutus.comというwebサイトを立ち上げました。ウェブでも『Casa BRUTUS』の情報を発信しようとしたのです。今はこの月間ページビューが500万となり、この分野では人気のwebサイトになっています。
■『colocalコロカル』・「雑誌」の新しいカタチを探して
これから、あるいは今の時代はどんな時代なのか、そしてその時代に対して何をすればいいのかということを、雑誌という視点で考えてみます。今の時代の一つの側面として、住むのだったら東京よりも地方のほうがいいのではないかという人が増えているというざっくりとした感覚があると思います。
かつて私たちが高校生の時には、『POPEYE』を見て、ライブハウスは東京にしかない、あの靴は東京でしか買えない、と東京に憧れていました。しかし今は、『コロカル』を見て地方にあこがれる、地方で活躍したいなと思えるようなことができないだろうかという発想で考えています。
この『コロカル』は紙ではなく、基本はwebサイトです。そして『コロカル』以外に、新潟県の「新潟のつかいかた」というポータルサイトや、大分の「エディット大分」という大分県のポータルサイトをつくっています。ローカルというテーマで考えると、この『コロカル』というメディアは、いろいろな県とか地域にアメーバのように広がっていくことをイメージしています。その他、「みんなの発酵BLEND」という日本の発酵文化のポータルサイトや、北海道の翼のAIRDOの『rapora』という機内誌も『コロカル』がつくっています。札幌国際芸術祭のパンフレットをつくったりもしています。
今の時代の雑誌の在り方を考えると、私は『コロカル』というのはメディアのブランドの名前で、いろいろな形態をとって情報発信をしていくものと捉えています。印刷物にもなるし、デジタルメディアにもなるし、TwitterやInstagramでも発信すると考えています。さらに、いろいろな県のポータルサイトをつくったり、ECサイトをつくったり、商品開発をしたりと、いろいろなカタチのものを編集していく、つまり編集という技術を使っていろいろなカタチのものをつくっていくということが、これからの雑誌のカタチなのではないかと考えています。ある意味、決まったかたちがないのがカタチなのではないかという発想で『コロカル』をやっています。
このような考え方は、雑誌というメディアがこの時代に生き残るために、またこの時代に必要とされるメディアであるために進んでいる一つの共通の方向だと感じています。
以上、「雑誌の未来のカタチ」について話をさせていただきました。雑誌というメディアを通して、90年代、2000年代、そしてこれからどうなるのかをお話ししましたが、これは本当に一面に過ぎなくて、皆さんには皆さんの、それぞれの思い出の90年代があって、2000年代があって、さて、これからの時代に向かって何をしていこうかというのがあるのだと思います。それが人それぞれ違う時代になってきているのだと感じています。ですから、皆さんにとって、今の時代はどんな時代なのか聞きたいと強く思っています。ありがとうございました。
■質疑応答
○三浦 平成3年卒の三浦愛佳です。今、『婦人公論』の編集長をしています。今日の話は、大変うなずきながら拝聴させていただきました。
webメディアもなさっているお立場からご覧になって、デジタルネイティブの若い世代に、紙の雑誌や書籍を買っていただくためにできること、あるいは、紙や活字に親しんできたシニア世代にウェブでもっと情報を受け取って、さらにはお金を落としてもらうために何が出来るかお考えをご教示頂ければと思います。
○松原 紙は最高ですよね。子供のころ、『ジャンプ』や『チャンピオン』の発売日には本屋に買いに走りました。漫画誌というのは慌てて刷っていますので、とてもインクの匂いがして、私はその匂いが好きでした。アメリカでも、本が大好きな人をインクスメラーと言うらしいです。匂いがするのは印刷物だけで、若い人たちも、その印刷物の良さに気づいてほしいのですが、無理かなとちょっと思っています。
本当に若い人たちは雑誌を読んだことがありません。買ったことがないそうです。先日、29歳の人に、最初に買ったCDは何かと聞いたら、「CDは買ったことがありません」と言われました。もちろんレコードも買ったことはないわけです。
ですから、モノがなくなる時代になっていますので、そこに固執するのはもうやめたほうがいいのかもしれないと思ったりもします。若い人は、音楽もモノで買わないし、書籍も雑誌もモノでは買いません。今、おしゃれな若い人は、買った洋服もシーズンが終わったら売るそうです。思い入れがあってずっと取っておく服なんてないのです。印刷物のインクの匂いなんていうノスタルジーは、今の若い人たちの感覚にはないようです。
ただ、世代が上の人たちがデジタルを見てくれるというのはあると思います。この間、やっとお母さんがスマホでメールできるようになったという人に聞いたら、プレゼントに応募したいと思ってやったらできたそうです。本気になれば意外とできるものです。ですから、上の世代の人たちにデジタルを使ってもらうというのが、これからはあり得る話になってくると思います。
○志賀 平成15年卒の志賀です。私も昔は漫画やテニスの雑誌を買ったりしていましたが、最近は、YouTubeやFacebookやTwitterばかり見て、テレビも見なくなりました。
私は2002年に運動会のブロック長をして、2003年に卒業しました。そのころは、上京という言葉の中に、東京に行けば何かあるということを思い描いた時代でした。私も、2004年に東京の大学に行って東京で仕事に就き、10年たった今、その会社を辞めました。それは、福岡に帰りたい気持ち、東京にいなくてもいろいろなものはもう手に入るのではないかなという思いもあります。
昨晩、これから東京に残るべきか、福岡に帰るべきか、また海外に行くべきかという話を妻としていて、今日の二木会に飛び入りで参加させていただきました。
人生相談というか、私は東京に残るべきでしょうか、それとも地方に行くほうがいいのでしょうか。地方の魅力発信をされている観点からも何かアドバイスをいただけると嬉しいです。
○松原 福岡に行こう。(笑い)
今『コロカル』で取り扱っていることですが、福岡がよければ福岡に行って、違ったら、また違うところに行ってもいいと思います。昔は、就職するとそこにずっといるという感覚でしたが、今は転職が当たり前の時代になっていて、状況を変えることのリスクが低い社会になっていると思います。無責任ではありますが、行きたいと思った所に行かれたほうがいいと思います。私はうらやましいです。
■会長あいさつ
○伊藤 昨年はオンラインで1年間やりましたが、今日の二木会はコロナ渦も落ち着いてきたので、会場とオンラインのハイブリッドでの開催になりました。これは初めての試みです。そして、このように皆さんに集まっていただくのは、2年前の2月が最後でしたので、ちょうど2年ぶりです。
今日のお話は、私自身が役人をやっていたこともあり、私とは時代の捉え方が全然違っていました。世の中が、一部ではこのように動いていたということを強く感じさせていただきました。雑誌の編集者として、またカルチャーを見る目としてのお話を伺えたことが大変貴重でした。
雑誌といえば、私たちの世代は『平凡パンチ』でした。(笑い)そのような時代からインターネットの世界に来ているということでしたが、今日のお話でこれほど雑誌の売り上げが落ちてきているのかを知り、これからはインターネットを通じて多種多様なものが変わっていくのだろうと思いました。
今日はカルチャー、文字文化の現場からお話しいただき、二木会でしか聞けない得難いお話を伺いました。
お忙しい中、また大変な時期にお話しいただきまして、松原さん、ありがとうございました。
(終了)