第664回二木会講演会・新入会員歓迎会記録

「映画『なつやすみの巨匠』を製作して~」

講師:入江信吾さん(平成7年卒)
開催日時:令和4年4月14日(木) 18:30-19:30

○田中(司会) 入江さんは、平成13年神戸大学経済学部をご卒業後、東映株式会社に脚本家研修生として入社されました。その後、平成17年にテレビドラマ『相棒Season4』第7話「波紋」で脚本家としてデビューされ、現在、映画、ドラマ等におけるフリーランスの脚本家としてご活躍されています。代表作は、映画『白夜行』、アニメ『ゴールデンカムイ』等がございます。
 また入江さんは平成27年、福岡・能古島を舞台に10歳の少年が繰り広げるひと夏の冒険を描いた映画、『なつやすみの巨匠』をご自身で企画、製作されました。ご存じの方も多いと思いますが、この映画は、地元企業による出資、福岡市全面協力によるオール福岡ロケという前代未聞の「Made in Fukuoka」ムービーであり、第22回京都国際子ども映画祭・長編部門でグランプリを受賞するなど、高い評価を受けておられます。
 今回の講演では、自ら創設した映画製作部で活動した高校時代のエピソードに始まり、その後様々な困難を乗り越えてプロの脚本家として活躍するまでに至ったこれまでの歩みをお話しいただき、また『なつやすみの巨匠』について、公開後の反響を含めて総括的なお話を伺う予定です。
 それではここで、講師と同期で元応援部の吉住紘さんより講師紹介をしていただきます。

■講師紹介

○吉住 私が入江くんと友達になって間もない高校2年生の冬頃、入江くんから「ビデオカメラを買った。廃部になった映画研究部を映画制作部として復活させる。皆で映画を作りたいので手伝って欲しい」と相談を受けました。入江くん制作の脚本をもとに、多数の同級生や後輩と一緒に、3年春の文化祭に向けて2本の映画撮影を行いました。文化祭で上映したところ、予想をはるかに超える高評価、称賛を頂き、感動して泣いた先生もいたそうです。このエピソードは、30年近くたった今でも、我々同級生の間で忘れられない思い出となっています。
 その後、お互いに高校・大学を卒業して、近況を聞いた際、入江くんからは副業で生計を立てながら脚本を勉強し、プロになるために脚本コンクールに応募している、という話があり、俺は脚本家になってみせる、と言われました。その後、見事プロの脚本家としてデビューされた入江くんの活躍については、冒頭の紹介の通りでして、TVや映画などの業界において、ますます活躍の場を広げられております。
 本日は、そんな入江くんが7年前に自らの脚本人生をかけて実現させた一大プロジェクト、映画『なつやすみの巨匠』の制作過程、およびその後の反響などについてお話して頂きます。それでは入江くん、宜しくお願いします。
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■入江氏講演

○入江 脚本家としてデビューして今年で18年目になります。よく映画監督と間違えられるのですが、私は文字を書く専門です。映画やドラマの設計図となるのが脚本です。

■脚本とは

 脚本とはシーンを示す「柱」、動きや状況を表す「ト書き」、そして「セリフ」の三要素で成り立っています。心理描写などカメラに映らないものは基本的に書きません。実にシンプルなものですが、俳句と同じでそれだけに奥が深いとも言えます。
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■私の経歴

 中学から続けていたバレー部に所属していましたが、二年目に体を壊して退部せざるを得なくなり、ぽっかりと穴が空いたような感覚に陥りました。何をすればいいのか分からない中、映画研究部の存在を知りました。当時はフィルムからビデオへの過渡期で、部員ゼロの状態が数年続いていました。今年誰も入らないと廃部になるという状況だったわけですが、これは逆にチャンスだと、自分の好きなように出来るのではないかと考えました元々映画やドラマが好きだったこともあり、たった一人で部を再建しました。同時に、映画は作ってナンボだという自戒も込めて「映画制作部」と改称しました。
 入部したのはいいものの、一人ですし予算もないので何も出来ません。フィルムはとにかくお金が掛かるのでビデオでやりたいと考え、仕方ないので父に泣いて頼んで半分出してもらい、自腹でソニーのハンディカムを購入しました。もはや部活なのか趣味なのか分かりません。周囲の人間も私が突然転部したことに驚き、「あいつちょっと頭おかしい」と気味悪がられる始末でした。
 周りから認められるにはどうすればいいか。そうだ、みんなが求めるものを提供すればいいのではないか。そこで大運動会のドキュメンタリーを撮ろうと考えました。練習風景から1人でカメラを回し続け、運動会当日も全体の流れを把握してカメラを設置し、1人で走り回って撮りました。けっこう大変でした。そして2時間テープが20本ぐらいになったと思いますが、それを1本2時間の作品にまとめました。すると、「入江が面白いことをやっているぞ」とみんなが理解をしてくれるようになり、部員も11人に増えて体裁を整えることができるようになりました。
 それから脚本もカメラワークも独学で習得し、次の3年の年の大文化祭で、1時間物の作品を2本上映しました。1本は「太陽にほえろ!」のパロディーみたいなもので、2本目は青春物で、まあまあの評価をいただきました。その文化祭の上映が終わって画面が真っ暗になった瞬間に、どこからともなく拍手が沸き起こりました。その拍手には本当に救われました。今でも、辞めたいと思うような時でも、あの拍手が支えてくれているような気がしています。
 高校を卒業して、その勢いでそのままプロを目指したわけではありません。プロでやっていく覚悟は全然ありませんでしたので、親兄弟に勧められるままに経済学部に進学しました。主体性もなく入りましたので、だんだん大学にも行かなくなり、2年の終わりで、11単位しか取れていないような状態でした。
 そろそろ就職も考えなければいけないという時期に来て、両親にこの道でやっていきたいと相談すると、プロになれる人なんて一握りだと一蹴されてしまいました。確かにそうだなとは思いながら、大学在学中から脚本のコンクールには挑戦していました。フジテレビのヤングシナリオ大賞というのが、けっこう権威のある賞で、脚本家の坂元裕二さんや野島伸司さんもヤングシナリオ大賞出身です。お笑いで言えば、M1グランプリみたいなものです。そこで賞を取るのが一番の近道だと言われていました。
 私も挑戦してみたら、2年目の挑戦でいきなり最終選考に残りました。2,600人中の13人ですから200倍でした。これには自分でも驚いて、自分もプロになれるのではないかと、浮足立ってしまいましたが、結局、賞は取れませんでした。でも、中途半端にそんなところまで行ってしまったら、もうあきらめきれず、ここでやめたら一生後悔するだろうと思い、その時に初めて、本格的にプロを目指そうと決心しました。
 そうなると、次は親を説得しなければなりませんが、帰省して話をすると、あれほど反対していた父親の態度が急に変わりました、この最終まで残ったという実績がきっかけになったのだと思うのですが、少なくとも反対はしなくなりました。「大学卒業させるまでは親の義務だけど、あとは知らん。お前の人生だから好きに生きろ」と言われました。その言葉が私の背中を非常に押してくれました。その帰り、地下鉄の駅まで車で送ってくれた父が、最後に「ちょっと待て」と言って、ポケットに何かを押し込みました。何かと思ったら、くしゃくしゃの五千円札で、「それでうまいものでも食え」と言いました。その五千円札は今でも大事に取っています。
 そして上京して、派遣社員をやりながらコンクールに挑戦していましたが、何回挑戦しても全然結果が出ませんでした。結果が出ないどころか、どんどん悪くなっていったのです。3次選考まで行っていたのが、3次選考も通らなくなって、今度は2次審査も通らなくなって、とうとう1次審査も通らなくなりました。自分ではうまくなっているつもりなのに、どういうことなのだろうと思いながら、どんどん気が滅入っていきました。森光子さんの「あいつよりうまいはずだがなぜ売れぬ」という名言があるのですが、その心境がよくわかる気分でした。あの時は本当に心が折れそうになりました。気が付けば、もう27歳になっていました。周りの同級生は結婚したり、出世したりしてキラキラしているのに、こんな自分は同窓会なんか行けないと思って、みじめな日々を送っていました。
 そんな時にやっと転機が訪れました。東映株式会社が36年ぶりに、芸術職研修生の制度を復活させたのです。これは、3年間の生活を保障して脚本家を育てます、3年の内に頑張ってデビューして下さい、という素晴らしい制度です。一日中脚本のことを考えていられるわけですから、これはもう絶対に応募しないと損だと思いました。
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 その採用試験で一番ハードだったのは、その場でお題を与えられて、3時間ぶっ通しで1本の脚本を書けというものでした。建築士の製図の試験のような感じだと思います。私の人生で一番集中しました。それでやっと合格できました。私を含めて3人の合格者でしたが、倍率は150倍くらいだったと思います。
 これでやっとバラ色の人生だと思ったのですが、ここからがまた大変でした。東映というのは、刑事物とか特撮しかつくっていなくて、私がやりたかったラブストーリーとかコメディとかは全くありませんでした。元警視総監の会長の前ではお話ししにくいのですが、刑事物の難しい知識をゼロから勉強し、どうやって人を殺せばいいのかとか、完全犯罪のこととかばかりを考えていました。そんな感じでしたので、この3年間で自分の結果を出せなかったら潔くあきらめようと考えていたのですが、そのリミットがもう間もないという29歳の秋に「相棒season4」でデビューすることができました。食えない時期もありましたが、今、何とかやっていけています。

■「なつやすみの巨匠」

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 本題はこれからです。「なつやすみの巨匠」は2014年に製作して2015年に公開した私のオリジナル映画です。これは、10歳の少年が、能古島を舞台に自分で映画をつくるという、恋物語でもあり成長物語でもあります。オリジナル映画といっても、私1人では何もできません。私より7歳年下の若い中島良という監督が、以前に「RISE UP」という作品でご一緒した縁で、私の熱意に共感してくれ、一緒にやろうと言ってくれました。監督はその中島良さんにやってもらい、私は製作・脚本を担当することになりました。

■その動機

 脚本家の私がどうして映画をつくろうと思ったかです。一つは、当時、一般に公開されている映画が、漫画の実写化とかアニメとかばかりで、オリジナル作品が極端に少ない、その偏りが気になっていたのです。脚本と脚色は違っていて、オリジナルの本を書くのが脚本で、原作物を書くのを脚色と言います。アカデミー賞では、脚本賞と脚色賞とは分かれているぐらい仕事としては別物なのですが、今の日本は、ほとんどが脚色のほうで、私の収入の大半も脚色によるものです。
 オリジナルは、やはりリスクが高いのです。漫画とかである程度ヒットしている保証があればお客さんも見込めますので、つくる側からすると、リスクを低減できて宣伝も省けます。それに比べて、原作物というのは、まず1からつくる必要があり、そして、何よりも宣伝が難しいです。つくった後で、口コミで広がるパターンはあります。例えば、「カメラを止めるな」という映画が社会現象にまでなりましたが、あれは20年に一度くらいの珍しい例です。普通なら、やはり原作物にしておけばよかったということになります。
 その誰も責任を取ろうとしない風潮が面白くないと思っていました。それを業界にいる自分が、ただ居酒屋で愚痴っているだけなのも格好悪い、変に思われても自分で立ち上げてみようと思ったのです。それが理由の一つです。
 二つ目の理由です。これは私が仕事をするときに意識していることで、「やりたいこと」「できること」「求められること」の三つの輪があって、それらが重なっていることが、理想的な状態だと思っています。でも、普通は、何か一つが欠けているものなのだと思います。私の場合は、脚本家になれて好きなことで飯が食えているからいいのですが、でもオリジナルではないので、そんなに「やりたいこと」ではなかったのです。書けるから求められるという状態がずっと続いていたのですが、自分のやりたいことは別にあったのです。でも、事件物が専門という自分の環境の中では、なかなかそのようなオファー自体が来ません。それなら、自分で実績をつくろうと、キャリア形成の一つの手段として、自分はこういうものが書けますということをアピールしたかったということです。
 三つ目の理由は、とても個人的なことです。父親が、若いうちから糖尿病を患っていて、ほとんど寝たきりになっていて、ついには完全に目が見えなくなってしまっていました。父親が私の作品を見てくれたのは、「相棒」の初期の作品ぐらいです。せっかく遠くからでも親孝行できるのに、肝心の父親の目が見えない、でも何とかして父親に何か届けたいと思った時に、ひらめいたのが博多弁でした。聞きなれた博多弁だったら、作品を見えないまでも聞くことはできる。「これは俺が言ったセリフやないや」みたいなことも言えるだろうと思いました。父親に恩返しではありませんが、これが三つ目の気持ちです。とても個人的な理由ですが、これが一番大きかったかもしれません。

■映画製作

 まずは自腹で製作費を出すことは決めていました。当時、結婚資金としてためていた400万円を、結婚はいつでもできると、その時は映画と結婚するつもりでつぎ込みました。自分がリスクを負わずに人の財布を当てにするのは筋が違うだろうということです。そのうえで、足りない分を支援してくださいと、クラウドファンディングを立ち上げました。当時の日本で映画のクラウドファンディングは珍しかったと思います。結果的には3,244,500円が集まりました。私のプロジェクトの場合は、硬直化した業界を何とか変えたい、一矢報いたいという私なりの信念があって、それに共感してくださった方がけっこういたように思います。同業者の中でも、「よく言ってくれた」と支援してくださった方もかなりいました。
 福岡でつくるからには、福岡の人脈を生かしたいと思った時に、『リトルママ』というフリーペーパーを発行している平成3年卒の森光太郎さんが、修猷の卒業生に送られてくる『菁莪』に寄稿したらどうかとアドバイスしてくださり、映画をつくりたいということを書きました。
 そうすると、修猷の先輩方からけっこう反響がありました。最初に、昭和31年卒の西牟田耕治さんが、わざわざ私の連絡先まで調べてくださり、ぜひとも協力させてくださいと連絡をいただきました。能古島の博物館の副理事をやっていらっしゃる方で、おかげで能古島の人たちとのやりとりがスムーズにできるようになり、いろんな方を紹介してくださいました。
 それから、私の2人の兄は修猷の卒業生なのですが、5歳上の兄の同級生で、自動車教習所のマイマイスクールの社長の三戸宗一郎さんが、兄の山岳部の仲間で、「そうかおまえは入江の弟か、入江の弟ということは俺の弟でもある、俺は何をしたらいい」と、格好よく、そして気前よく協力してくださいました。その同級生である明太子の「ふくや」の現社長の川原武浩さんを紹介してくださり、あっという間に支援の輪が広がりました。
 それから、福岡市のフィルムコミッションにあいさつに行った時、そこのコンテンツ振興課の課長の富田雅志さんも修猷の先輩で、しかも兄と同じ山岳部だったということでした。どれだけいろんなところに修猷の人がいるのだろうと思いました。おかげでものすごく話が早かったです。その日の夜には、三戸さんと富田さんで飲んでいました。
 もう1人、能古島に住んでおられる大先輩で原田雄平さんという方がいらっしゃいます。私と監督が能古島でロケハンをしている時に、私の肩をたたいてくるおじさんがいて、振り向いたら、「俺も修猷」と言われました。西牟田さんと同じくらいのお年のお元気な方で、能古島のアイランドパークの中に住まわれていて、「家を撮影に使ってくれてもよかばい」と言ってくれました。主人公のシュンの家は、その原田さんのおうちです。しかも原田さんはキャラがいいので、ぜひ出てもらおうということになりました。映画の冒頭に出てくるおじさんが、その原田さんです。
 資金も、地元の企業や協賛を含めて、全部で2千万円ぐらい集まりました。一般の映画に比べたら少ないですけれども、十分な額が集まったということです。
 オーディションについては、能古島を舞台にした以上は、東京から連れてくる子役ではなく、博多弁がナチュラルな地元の子どもを採用しようと思い、地元でオーディションをやりました。その時に、またここで同級生なのですが、RKBで働いている三浦良介くんが、番組を通じて告知をしてくれ、そのおかげで400人ぐらいの応募者があり、驚きました。
 作品の設定上、ヒロインは10歳前後で白人とのハーフで博多弁ができないといけないのですが、そんな都合のいい子がいるのかと思ったのですが、見つかりました。村重マリアちゃんです。ヒロインにぴったりでした。ちなみに彼女は、現役アイドルであるHKT48の村重杏奈さんの実の妹らしいです。これは後で知りました。そして他の子たちも実績はないものの、大人の顔色をうかがうような芝居ではなく、本当に子どもらしい天真爛漫な、かつ、しっかりした良い芝居をしてくれました。
 大人キャストも、できれば博多弁ネイティブの人がいいと思い、最初に声を掛けたのが国生さゆりさんでした。この方は、鹿児島出身なのですが、私のサスペンスの仕事で3度ほどご一緒していて、私が現場で「今度映画をつくるので出てくれませんか」と言ったら、「出ます」と即答してくださいました。業界のルールではこんな非常識なオファーをしてはいけないのですが、でも、国生さん自身も、2時間サスペンスでずっと犯人の役ばかりでしたので、このような優しい普通のお母さん役をやりたかったそうです。この国生さんが出演を決めてくださったのはけっこう大きかったと思っています。
 そのおかげで、他の事務所さんも交渉のテーブルに着いてくれるようになりました。博多華丸さんが、お父さん役で決まったのもうれしかったです。さすが地元愛の方です。板谷由夏さんも福岡出身です。そしてリリーフランキーさんも出てくださることになり、驚きました。この方も福岡の方です。よく出てくださったなと思います。皆さん、地元愛のある人たちばかりだと思いました。
 音楽も、平成24年卒の後輩の江﨑文武くんが、劇伴に協力したいと言ってきてくれました。劇伴というのは映画のBGMのことです。当時はまだ東京藝術大学の学生でした。彼は非常に優秀で、WONKというバンドでキーボードを担当しています。King Gnuのサポートメンバーでもあります。最近は音楽番組「関ジャム」によく出演しています。何を聞いても的確な答えが返ってくる超優秀な男で、たぶん、今後の日本を代表するクリエーターになると思っています。
 こうして撮影が始まりました。地元の方も暖かく協力してくださって、おかげさまで何とか2週間で撮り切ることができ、そして2015年の7月11日に中洲大洋劇場で公開できました。

■映画完成後

 ここまでの話は、2015年の公開直前の二木会で話をさせていただいた内容と同じです。たくさんの方に協力していただいたので、総括的な意味で、その後のお話をさせていただきます。
 映画ができたら、まず宣伝活動が必要です。本当は配給会社を付けて、配給と宣伝をやってもらうという流れなのですが、新たに500万円かかると言われました。それならもう自分たちでやるしかないと、監督と私で決めて、前売り券を草の根活動で売りさばくことにしました。私は、2015年の6月から9月までの3カ月間、仕事を休んで福岡に滞在して前売り券を売るためだけのマシンと化しました。昼は汗だくになってチラシを配ったり、ポスターを貼ったりして、夜はいろんな集まりに顔を出して、酒の席で営業をして回りました。結果的には、公開までに監督と私で3,600枚の前売り券を売りました。
 おかげさまで、中洲大洋劇場での初日は、満員御礼となりました。単館上映ではあるものの、そこでの観客動員数が6千人を突破しました。そして何と2カ月の超ロングラン上映でした。ヤフーのユーザー評価ランキングでも1週間、第1位になりました。これだけお客さんが来たのは「ET」以来だということで、中洲大洋劇場の方も喜んでくださいました。
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 その後、京都国際子ども映画祭でグランプリを取ることができました。これは、子どもたちが主催して運営をして審査員まで務めるという映画祭で、袖の下もコネも通じないというガチの映画祭です。子どもたち自身に選ばれたというのはうれしいことでした。
 ただ、興行成績としては大赤字でした、3分の1も回収できていません。投資してくださった方には申し訳ない思いでいます。単館での上映では厳しいのです。それこそ10館とか100館とかの規模で上映しないと話にならないのです。私たちは配給に関しては経験不足だったので、そこは反省材料にしています。
 東京での上映については、修猷の先輩たちが尽力してくださって、2015年の8月にこの学士会館で特別上映会をしてくださいました。これはとてもありがたかったです。ありがとうございました。
 結局、東京の劇場で公開することは叶いませんでした。いろいろなところに営業に行きましたが、最初に福岡で先行上映したものを、今、こちらで掛けるわけにはいかないという、配給、映画館、興行の暗黙のルールという難しいしきたりがあって、そこには踏み込むことはできませんでした。そこも反省しています。
 でも、全国の学校や公民館から貸し出しのオファーが毎年来ていますので、少しずつですが回収に向かっています。自分では、この作品はそのようにして永く愛されていく作品なのではないかなと思っています。ちなみに、DVDにもなりましたが、初版がもう売れてしまっていて、今は絶版状態になっています。アマゾンプライムビデオでは配信で見ることが可能です。有料ですが、興味がありましたらご覧ください。
 そして、RKBの三浦くんにも協力してもらって、父の病室で、映画に音声ガイドを付けて、目の見えない人も楽しむことができるバリアフリー上映というのをやってもらいました。寝たきりの父の病室に、バリアフリー上映のスタッフさんを呼んで、特別にやってもらいました。RKBさん、ありがとうございました。「好きに生きれ」――昔、父親に言ってもらった言葉が、一番この映画で言いたかったことだったので、このような形で音声ガイドをつけて、映像を届けることができてよかったと思っています。この3年後に父は亡くなりました。
 興行的には反省する点もたくさんありましたけれども、やってよかったなと思っています。この作品に出た子どもたちが役者を目指すようになるなど、若い子たちにいろいろな影響も与えました。一番は、亡くなる前に、父に見てもらえたということです。極めて個人的な理由ですが、仕事というのは基本、人のためだと思っています。
 ご清聴ありがとうございました。(拍手)

■質疑応答

 ○入江 私は映画と結婚するつもりでこの映画をつくったのですが、映画をきっかけに結婚することができました。人生、どう転がるか分からないものです。どんな質問でも結構です。

 ○石田 令和4年卒業の石田幸希です。20代はなかなか結果が出なかったということでしたが、それの原因・理由は後で分かったのでしょうか。

 ○入江 独り善がりになっていたのだと思います。それだけです。

■会長あいさつ

○伊藤 昭和42年卒の東京修猷会会長の伊藤哲郎です。今日は、平成7年卒の入江さんから貴重なお話を聞くことができました。新入会員の皆さん方は、これから、学生そして社会人となっていく中で、いろいろな困難にぶつかりながらもそれを乗り越えていくような人生が待っているのだと思います。今の入江さんのお話では、映画をつくるときに、福岡で修猷のいろいろな人とのつながりが大変大きな力となったということでした。そしてまた、高校時代に志したことが今の仕事につながっているということでした。
 この二木会は、同窓生としてのきずなを深める場でもあります。今日の入江さんのお話のように、いろいろな人とのつながりができて、人生がより豊かになっていくと思います。ここに来ている人は、みんな、高校は福岡の修猷館です。東京で孤独な気持ちになるときがあるかもしれませんが、そんなときに大きな心の支えになるのは、自分のバックボーンをつくってくれた修猷館という高校での思い出、またそこで志したこと、またそこでの友達なのだと思います。
 この会は、年齢はそれぞれですが、同じ修猷館で学んで、そしてそれを誇りにしている人たちが集まる場です。いろんな場面で、博多弁で昔の思い出話をしながら、皆さん方が修猷館のつながりを確かめ合えればいいと思います。
 このきずなを大切にして、これからの二木会の活動に参加していただけることを心から祈念し、私のあいさつとさせていただきます。

<新入会員歓迎会>

 講演の後は引き続き、令和2~4年の卒業生を対象として、コロナ禍で昨年・一昨年と中止を余儀なくされていた「新入会員歓迎会」を開催し、50名を超える新入会員の方々に参加いただきました。会の冒頭で、修猷館同窓会 西高辻副会長から新入会員に向けたビデオメッセージがスクリーンに映し出され、原沢幹事長から東京修猷会の紹介が行われました。また、各学年の代表者からフレッシュなスピーチが披露されたほか、感染防止対策を十分に講じたうえで懇親を実施し、盛況のうちに終了いたしました。