第648回二木会講演会記録

「雨ニモマケズと被災地支援」

講師:宇佐元恭一氏(昭和53年卒)

◆講師紹介

○大須賀 今日はいつもと違って、紹介者と講師の卒業年度が16年も違います。私は、プロの宇佐元君に、何と二度も無報酬でステージをお願いしているのです。今日はそのお返しにと思い、紹介者の役を引き受けました。彼にお願いした2つのステージのことをお話しして彼の紹介とします。
 1回目は、3年前の10周年記念のSalon de 修猷の時です。その年は、「大人の遠足」と銘打ってバス2台の箱根日帰り旅行をしました。芦ノ湖畔にある小田急の山の上ホテルでの昼食後、宇佐元君と平成21年卒の吉田明未さんと平成22年卒の弓場さつきさんと3人の方々のミニコンサートが開かれました。宇佐元君には、ホテルの真後ろに広がる芦ノ湖を博多湾に見立てて、『海の中道』を朗々と歌っていただきました。みんな福岡を思い出して拍手大喝采でした。そして最後に『雨ニモマケズ』を熱唱していただきました。本当に楽しいひとときでした。
 2回目は、1ヶ月ちょっと前です。東京福岡県人会総会のスペシャルゲストとして宇佐元君に来ていただきました。ステージのグランドピアノで弾き語りをやっていただきましたが、周りに女性たちの二重三重の輪ができて、本当に素晴らしい、みんな大喜びの東京福岡県人会総会になりました。
 今日は宇佐元君の話と歌の両方を楽しんでいただきたいと思います。

nimoku648_01.jpg

■宇佐元氏講演

○宇佐元 私は修猷館53年卒で、陸上部と文芸部でした。そして、九州大学経済学部卒業後は、そのまま芸能界にデビューしてしまいました。私は、このような講演会というかたちはあまり経験がありませんが、今日は「雨ニモマケズと被災地支援」に話を絞ってお話をさせていただきます。

■はじめに

 私は、草ヶ江幼稚園、そして草ヶ江小学校、そして城西中学校2年の時に大分に転校し、大分舞鶴高校に入学しましたが、入学後わずか3ヶ月で親父の転勤で福岡に戻り、修猷館高校に編入しました。編入の時の試験官をしてくださったのが古文の花田先生でした。
 今日は東京で福岡の地名をばんばん言えることがうれしいです。六本松の教養学部時代の途中で才能が目覚め、大学3年の時には既にピアノで歌っていました。そのあたりから自分の人生が変わり始めたように思います。
 同窓会をすると、同期の皆さんは名刺の肩書が重たい方々ばかりで、芸能界にいる自分は気が引けるところがたくさんあります。私たちには年金も定年もありません。年金だけでは老後に2千万円足りないと言われてもぴんときません。自分は今年還暦です。今日たくさん来ていただいている同級生が次の仕事を考えている間に、私はこれまでの分を取り返してやろうと思っています。これから80歳、90歳までも歌っていくつもりです。

nimoku648_02.jpg

■雨ニモマケズ

 私は横浜のたまプラーザに住んでいます。小田急ではありません。(笑い)その自宅の小さなスタジオでピアノを弾きながら録音して、朝起きてそのテープを聴いたりするのですが、ある時それを聴いたら、全然覚えていないのに、この口が「雨にもまけず・・・」と歌っていたのです。もちろん今の歌のように完全なかたちではありませんでした。でも何かメロディーに乗ったものが自分の中に生まれていることに気が付きました。
 「雨ニモマケズ」は、宮澤賢治さんが九十何年か前に残された詩です。岩手や東京とかでは教科書に載っていたらしいですが、私たちの教科書には載っていなかったように思います。それがどうしてと思いましたが、実は私のおふくろがもともとは宮崎で国語の先生をしていて、そのおふくろに聞くと、胎教の時代に、「祇園精舎の鐘の声・・・」とかをお腹の子に聴かせていたらしく、その中に「雨ニモマケズ」もあったということでした。そこからかなり熟成されて45歳の私に降りてきたのでしょうか。
 私たちは、それこそジャニーズとかいろいろな方に頼まれて曲を書くことも多いのですが、これは誰に頼まれたわけでもなく、ただ自分の中に何かが降りてきたようにできた、私にとっては珍しい楽曲です。不思議なこともあるものだと思いながら、改めてそれを完成させてやろうと思って、ネットで全文を確かめました。すると「雨ニモマケズ」の全文は、私たちが作詞家として書くときの字数とほとんど一緒だったのです。これは不思議なことでした。そこで私はピアノに向かって一気に書き上げました。でき上がったのはいいのですが、次にさてどこで歌おうかと思いました。
 その時は、私はそれまでのCHAGE&ASKAがいた事務所から今いる浅井企画にかわった時でした。この浅井企画は、もともとはコント55号の萩本欽一さんと坂上二郎さんから始まった事務所です。その後、小堺さんや関根さん、そして今では、みやぞんとか、どぶろっくも所属している事務所です。
 コンサートは各地でやっていましたが、私は自分で作詞もするので、人の詞を歌うことはあまりありませんでした。でも思い切ってある時これを歌ってみました。そうしたら、これは賢治さんがもしかしたら何か仕組んでくれたのかなと思うのですが、客席の中に、新潟県中越地震で被害に遭った旧山古志村の方がいらっしゃったのです。そして、私の『雨ニモマケズ』にとても感動していただいて、「新潟はまだ青テントの中で頑張っている人がいるので、そこでこれを歌ってもらえないでしょうか」と言われました。私は正直迷いましたが、何かのお役に立てるのだったらと、新潟に行って歌いました。魚沼市の市役所前でした。まだ青テントで暮らしている人が聴きに来てくれて、この歌は素晴らしい、この歌のCDが欲しいと言われました。
 私は、まずこの歌をCDにしていいのかどうかも分かりませんでした。自分の歌でしたら簡単なのですが、宮澤賢治さんの詩ですから調べてみました。そうしたら2つのことをクリアしないといけないことが分かりました。1つは著作権の問題です。これについてはJASRACに問い合わせました。すると、没後50年たつとパブリックドメインと言って、みんなのものになっているから大丈夫とのことでした。もう1つは、遺族の方々の了解が必要とのことでした。これについて、花巻市の記念館に直接電話をしたらたまたま館長さんが出てくれて、事情を話しましたら、「どんぞ、どんぞ」と簡単に言われました。(笑い)花巻では、浪曲や民謡や詩吟とかで、「雨ニモマケズ」は自由に歌われているのだそうです。こうして2つの問題が解決し、晴れて発売となりました。私はその時、東芝EMIというレコード会社だったのですが、これは限定にしようと、自費出版で2千枚だけ発売しました。
 大分舞鶴高校の先輩、南こうせつさんとは仲良くさせていただいています。ここではRKBの話が普通にできてうれしいですが、私はRKBラジオでずっとレギュラー番組をやっていて、ある時、隣でたまたま収録をされていたこうせつさんが私のスタジオに突然来て、『雨ニモマケズ』のことを聞かれました。そして、私にそれを歌うようにと言うのです。天覧試合です。少し躊躇しましたが、そこにあったピアノで歌いました。歌い出したら、何か自分が歌っているというより歌わされている感じがしました。こうせつさんはうなだれて聴いていましたが、最後に「これは素晴らしい」と言ってくれました。それまで全然褒めてくれなかったのですが、急に褒められました。
 そして、日本クラウンというレコード会社に私を紹介してくれ、そこでもう一回レコーディングをし直して発売ということになりました。中根さんという方のプロデュースでレコーディングが始まりました。レコーディングというのは、最後にマスタリングという作業があります。それは、アーティストが立ち会わずにプロデューサーやディレクターに任せることもあります。最近私は自分でやりますが、その時は中根さんにお願いして、私とマネージャーはそこを去りました。
 そのレコーディングの3日後、中根さんはご自宅で突然亡くなられたのです。私は、『雨ニモマケズ』が何かしでかしてそんなことになったのかととても責任を感じてしまいました。仲良くしているイルカさんとか山田パンダさんとお葬式に行きました。中根さんに手を合わせて、部屋に戻ってきて横を見たら、その部屋の壁に大きな額縁があって、ふと見ると、それには「雨ニモマケズ」の全文が書いてあったのです。私は驚いて、中根さんやってくれるなと、そこで号泣してしまいました。
 そのようなことがありましたので、私は発売を躊躇しました。ところが、後日、中根さんのPCを開けたら、データの中に中根さんがつくった宇佐元恭一の『雨ニモマケズ』のシングルジャケットのデザインがあったのです。それがこの絵です。まだ原画の段階だと思います。これを見て私はまた号泣してしまい、これは世の中に出さないといけないと思いました。これを使いたいとスタッフに提案して、これがそのまま発売になりました。それが2006年の出来事でした。

nimoku648_03.jpg

■被災地支援

 その前後から不幸な震災がたくさんありました。新潟の中越地震の後に福岡で地震があった時には、私は当時の市長と『雨ニモマケズ』を歌いました。その後、今度は宮城・岩手の震災があり、そこでも歌いました。そして最後は、東日本大震災が起きてしまいました。私は東日本大震災のあの日、3月11日は岩手にコンサートに行く予定で家を出て、まさに新幹線に乗る前に大震災が起きてしまいました。
 宮澤賢治さんにはお子さんがいらっしゃいません。清六さんとおっしゃる弟さんは九十何歳までお元気で、福岡のよかトピアにも来られています。そして、今の宮澤賢治さんの全ての権利を持っている林風舎の代表を、その清六さんのお孫さんの宮澤和樹さんという方がなさっています。この和樹さんは私とも年が近く仲良くしてくださっていて、賢治さんの元気だった姿やその時代の特徴を私に伝えてくれています。
 宮澤賢治さんの「雨ニモマケズ」は、もともとは小さな手帳に書かれていた走り書きのメモのようなもので、37歳で亡くなる2年前に、病床でこの詩を手帳に残しているのです。
 この詩の読み解きにはいろいろな意見があります。「一日ニ玄米四合ト・・・」とありますが、今、1日に4合食べるでしょうか。ここは論議になるところです。これは、1日4合のご飯を食べられるぐらい元気になれたらいいなという希望なのだそうですが、戦時中はこの「一日ニ玄米四合」が「玄米二合」に書き直されたそうです。さすが宮澤家の方々はこれを遺憾に思われていて、戦争が終わったらすぐに「四合」に戻したそうです。また、「行ッテ」というキーワードがたくさん出てきますが、これは大事なことで、特に100年たった今、バーチャルやSNSの世界が横行していますが、実際は行かないと分からないことがたくさんあるということを教えてくれていると思います。
 私は震災の1ヶ月後に、ジェリー藤尾さんが隊長で福島に最初の被災地支援で入りました。そこで300人の炊き出しをして、体育館で『雨ニモマケズ』を歌わせていただきました。その時にそこの中学生の女の子たちに「いい歌だから、これを隣の避難所でも歌ってあげてください」と言われました。私はその時、『雨ニモマケズ』はもしかしたらこのような人たちのために宮澤賢治さんが上から私にメロディーを与えてくれたのではないかなと思いました。私はそれまで10年以上この歌を歌ってきていましたが、その子に言われて初めてそのことに気が付き、これは私のお役目なのだと思いました。これまで岩手県内だけでも多分数百ヶ所で歌ったと思いますが、それでもまだ歌い足りないと思っています。本当に不思議なでき方をした歌です。

nimoku648_04.jpg

■おわりに

 私のように大きなヒット曲がなくて37年も歌い続けているのは業界の奇跡と言われています。一発屋と言われ、その1曲でずっと活動されている方もいらっしゃいます。もちろんテレビやラジオのお話もいただければありがたいですが、私は『雨ニモマケズ』に出会ってから約20年になり、被災地を回る中で、お一人お一人に向き合って、そこで皆さんと思いを共有することがいかに大事かということを感じてきました。
 私は三陸を随分回ってきましたが、釜石が一番早く復興が進んだのです。私も釜石の小学校に行きましたが、学校の校舎の横に大きく「福岡の皆さんありがとう」と書いてありました。最初は私を歓迎してくれていると思ったのですが違いました。国がもたもたして支援物資が届かなかった時に、最初に釜石に手を差し伸べたのは新日鉄の八幡だったそうで、それで釜石の方々は新日鉄八幡に感謝しているのです。私はその時だけは、「今日は福岡から来ました」と言って、皆さんに喜んでいただきました。
 このような活動はなかなか個人だけではできません。今日はここにお歴々の皆さんにお越しいただいていますので、このような活動にご理解をいただける会社の責任ある立場の方がいらっしゃいましたら、ご協力いただきたいと思います。私の活動を、例えば「新日鉄プレゼンツ」みたいなかたちでやれたらいいなと思います。
 最後に、ここで歌いたいと思います。

(『雨ニモマケズ』歌唱)

nimoku648_05.jpg

ありがとうございました。(拍手)

■質疑応答

○樽谷 宇佐元さんは被災地のどの辺を回っていらっしゃるのでしょうか。

nimoku648_06.jpg

○宇佐元 私は、いわて文化大使とか花巻イーハトーブ大使をさせていただいていますので、岩手県を数多く回っています。岩手県は四国4県と同じ面積があり、私は岩手県の主に北半分に行っていますが、北半分と言っても四国の2県分くらいあります。実際に自分の目で見ないと分からないことがたくさんあります。

○藤本 「雨ニモマケズ」は菩薩の道を語っているというのはご存じでしょうか。

nimoku648_07.jpg

○宇佐元 はい、今日は触れませんでした。宮澤賢治さんの本家は浄土真宗でしたが、賢治さんは途中から日蓮宗に改宗なさったそうです。
 手帳に書かれている「雨ニモマケズ」は、ここからがそれだと書いてあるわけではありません。「11月3日」とあるので、多分そこからだろうと言われていて、次のページには「南無妙法蓮華経・・・・」と日蓮宗のお題目が記されています。この部分を「雨ニモマケズ」の詩に含めるかどうかは、意見が分かれるところだそうです。私は「・・・サウイウモノニワタシハナリタイ」の後に「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」と繰り返させていただいています。その繰り返しは、そのお題目の部分を、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の言葉に替えて歌っているつもりです。
 花巻の林風舎には賢治さんの像があるのですが、その前にピアノがあって、ある時、和樹さんからそこで歌うように言われました。またも天覧試合で少し戸惑いましたが、初めて賢治さんの前で歌わせていただきました。和樹さんはあまりおしゃべりにならない方なのですが、その時、「これは賢治さんが喜んでいる」とおっしゃいました。この一言で自分はこうして全国を回ることができると感謝しました。

■会長あいさつ

○伊藤 素晴らしい歌の直後に私が出ても、余韻に浸っている中で悪いなと思っていましたが、間に質疑応答があってちょうどよかったです。(笑い)本当に感動的な歌で、私も賢治さんが喜んでいらっしゃると本当に感じました。私自身も、東日本大震災の時には内閣危機管理官として政府の危機管理に当たっていましたが、お話の中にもありましたが、国の対応が悪くて・・・。

○宇佐元 そうでしたね、失敗しました。どうぞ私の話は忘れてください。(笑い)

○伊藤 今日は、講演だけでなく歌も聴かせていただき、貴重な時間でした。ありがとうございました。

nimoku648_08.jpg

昭和53年卒(五三会)の皆さま

nimoku648_09.jpg

(終了)