『ドイツでの医者稼業50年 ~日独の文化比較~』
講師:柏木茂生氏(昭和35年卒)
■講師紹介
〇中村 柏木君とは高校も中学も一緒ですが、同じクラスになったことは一度もありません。小学生時代の一時期は、同じ絵画教室に通っていたこともあります。当時はかわいいお坊ちゃまという印象でしたが、25年前に久し振りに彼に会ったら、大変たくましくなっていて驚きました。聞いてみると、大学時代にラグビー部に入っていたそうです。そして、多分ドイツでの生活や奥様の影響もあるのかもしれません。
彼のドイツでの生活は、奥様の存在が大きいと思います。奥様は福岡女学院の出身で、日本女子大を出てから芸大の声楽科を卒業され、そして彼と一緒にドイツに渡って、20年以上にわたってドイツのオペラ界で活躍されています。『私のオペラ人生』という著書も出しておられます。
今年の4月27日に、彼のドイツ在留50周年パーティーに招かれ、同期の藤野君とベルリンに行ってきました。そうそうたる紳士淑女ばかりの160人ぐらいの招待客でした。そこでいろいろな話を聞いて、彼がドイツで高い評価と大きな信頼を得ているということがよく分かり、同期として大変誇らしく感じました。
■柏木氏講演
〇柏木 私は昭和16年に福岡市に生まれ、その後、父が軍医として陸軍病院で働いていた満州で物心がつく年まで育ちました。そして今の教育大学付属中学を卒業、昭和35年に修猷館を卒業、東京で1年間の浪人生活をした後、東京慈恵会医科大学で6年間医学を学びました。大学卒業後、同大学病院で2年間のインターンシップを終えた1969年にドイツに渡り、今日に至っています。
私の母方の祖父は、九州帝国大学医学部を卒業した後、当時英国の植民地であったマレーシアで診療所を開き、第二次世界大戦前まで現地の人たちの医療管理をしていたそうです。また祖父の従兄妹たち、私の叔父は、アメリカ、ブラジルに早くから移住して生活していました。私がドイツに住むことになったのも、その血を引いていたからかもしれません。
大学時代、多くの先輩や同級生たちはアメリカ留学を望んでいましたが、私はむしろ歴史文化の豊かなヨーロッパへの留学を夢見ていました。そして東京のGoethe Institut のドイツ語講座に通い、多くのドイツ人とも東京で知り合いになりました。
大学4年の時に、京都で世界精神身体医学の学会が開催されました。私はこの分野に興味を持っていたので参加し、そこでボン大学の教授、Prof.von Eiffの講演が終わった後、一生懸命に丸暗記をしていった拙いドイツ語で心臓が飛び出す思いで彼に話し掛けて、留学の希望を伝えたのです。それがきっかけで、2年間のインターンを終えて、今からちょうど50年前の1969年4月20日、その1年あまり前に結婚していた声楽家の妻と共に横浜から、当時のソビエト連邦の旅客船で出発しました。ナホトカに着き、そこから今度は列車でハバロフスクに行き、そこからは飛行機でモスクワに飛びました。その時私は28歳でした。ナホトカに着いた時は、不安と未知の地を踏むという憧れの気持ちの入り混じった複雑な気持ちでした。
■日独医学交流の歴史
日独の医学の交流は1690年に始まっています。1690年にオランダ東インド会社の船医、また長崎出島のオランダ商館医として来日したのがエンゲルベルト・ケンペルです。1823年に来日したフランツ・フォン・シーボルトも出島のオランダ商館医で、2人ともドイツ人医師でした。
1868年に開国後は、急速に西洋医学が日本にも導入され、1871年政府は医学教育に臨床主体のイギリス医学に代わって、研究第一のドイツ医学を採用することに決めました。
当時は日本からも若い医者たちがドイツに留学しています。ベルリン大学で日本人として初めて医学博士号を取得した佐藤進は1869年にベルリン留学しました。それまで渡航手続きの経験がなかった外務省がパスポートを発券するまでに8カ月もかかったそうです。1870年に普仏戦争が勃発し、彼は医学生として郊外の臨時病院で医療に当たり、敵国のフランス軍の負傷者が味方のドイツ兵同様の治療を受けていることに感心して、赤十字精神に強く心を動かされたそうです。帰国後は順天堂医院を開設しています。
森鴎外は1884年に21歳でドイツ留学しました。彼は達者なドイツ語で社交界でも活躍しました。また文筆活動にも精を出し、有名な『舞姫』などの数々の著書を残しています。今でもベルリンには森鴎外記念館があります。
細菌学者の北里柴三郎は1885年にベルリンに留学し、有名なロベルト・コッホの下で研究して、破傷風菌、ジフテリア免疫抗体の発見で有名になりました。帰国後は慶応大学医学部を創設しました。
赤痢菌の発見をした細菌学者の志賀潔も、やはり1901年にベルリンに留学、パール・エーリッヒに師事しました。
われわれの同期の伊藤洋子さんのおじいさんに当たられる田原淳さんは、1903年、30歳でドイツに留学、マールブルク大学で、心臓の大家アショフ教授の下で心臓のリズムを調節する組織、刺激伝導系を研究の後、田原結節の発見者として世界の心臓学を築いた人です。今のペースメーカーの父です。
■ボン大学での生活
渡独後、最初の2年間は、ボン大学のProf.von Eiffの下で精神身体医学に関しての臨床研究に携わりました。大学病院の中では静かな毎日でしたが、一番の問題はドイツ語によるコミュニケーションでした。東京のゲーテ協会で学んだドイツ語はほとんど役に立ちませんでしたが、「石の上にも3年」と言いますが、2年を過ぎるころからどうにか普通に生活できるようになりました。このボン大学でのデータ整理に明け暮れた研究生活は、ドイツでのスタートとしてのよい踏み台になりました。
■Wuppertal私立病院、Prof.Jahnkeとのめぐり逢い
そのうち、医学研究には臨床経験が必要と考え、内科の専門医研修のために、同じノルトライン州にあるヴッパータールの市立病院に移りました。ヴッパータール市は人口26万人で、町の中に東から西にヴッパーという川が流れていて、そこに100年前につくられた懸垂式モノレールが走っています。Friedrich Engelsが生まれた町で、また、Pina Bauschのバレー団の本拠地でもあります。
ここの総合市立病院で、私は本物の内科医とも言えるProf Jahnkeに巡り合うことができました。この教授は内科の各分野を全部把握していて、まず患者さんの症状、身体検査、血液検査を明確に総合分析して正確で見事な診断を下していました。画像診断は1970年代の終わりから使われるようになりましたが、このような画像診断検査をする前に、まずは患者の話を聞いて、それからしかるべき検査をすることを要求されました。これは私の出身大学、慈恵医大のモットーである「病気を診ずして患者を診よ」に通じるものでした。またこの教授の教室では、患者さんを他の病院に回すことは絶対に許されませんでした。病室が満員で、病棟の廊下にたくさんのベッドが並んでいたこともあります。
教授は病院の中ではとても厳しい先生でしたが、プライベートでは家族同様に扱ってくださり、そのうちに同僚とも親しくなり、ハイキングや音楽会やシアターに行ったり、パーティーで盛り上がったりと大いに生活を楽しみました。毎年の3週間の夏の休暇には、家族と一緒にイタリア、フランス、ギリシャの海岸、スイスのアルプスなどでゆっくり過ごして休養しました。
■Diabetes Forschungs-Institut Düsseldorf
内科専門医の資格を取った後、Prof.Jahnkeの紹介で1979年からデュッセルドルフ大学の糖尿病研究所の臨床部門に移りました。デュッセルドルフは素敵な町です。1976年に、若年性糖尿病の治療のために持続的に体にインスリンを注入するインスリンポンプ臨床治療実験が始まりました。私もこの研究所で、早速この新しい治療法を始めました。そして、この治療をする特別外来をつくってもらい、多くの糖尿病患者の治療に従事しました。
1979年当時に使用されていたポンプは250gもするものでしたが、それが現在では100gと小さくなり、操作はすべて電子化されています。医学もこの30年か40年の間に著しく進歩しています。
■Wuppertalでの開業
デュッセルドルフ大学で働いていたある日、以前ヴッパータールの病院で一緒に働いていた同僚から、彼が経営している腎臓内科センターで一緒に働いてくれないかと申し出がありました。腎臓病、特に腎不全の患者さんの50%は糖尿病との合併症なので、その時に私が従事していた仕事と大いに関連があったのです。
しかし1986年当時、外国人の医者はドイツの国籍を持っていないと開業できませんでした。さんざん悩んだ揚げ句、私はドイツの国籍を取る決心をし、それと同時に、内科研修中に深夜まで病院に残って書き続けていた博士論文を最後まで書き上げて、デュッセルドルフ大学に提出して急いで博士号を取りました。ヨーロッパ、特にオーストリアやドイツでは「ドクター」のタイトルは開業する上でとても大切なのです。
こうして今から33年前、その同僚と共同経営の人工透析を中心とした総合内科診療所を開き、以後18年間仕事のうえで、この時期が最も充実した日々だったような気がします。
■ドイツの保険制度
ドイツの人口は現在約8,100万人で、医療保険の加入者は75%が強制保険、9%がプライベートの保険加入者です。残りは保険に入ってない自費負担の患者さんです。原則的に月収が円換算で22万円以下の人が強制保険に加入していますが、それ以上の人はプライベート保険に加入することができます。プライベート保険にはいろいろな特権があります。自由に診療を受けられ、予約もすぐにできますし、入院の際は個室か2人部屋に入れ、希望すれば特別に院長、教授から直接に診てもらうこともできます。一方、医者のほうも、プライベートの患者さんには制限なしの検査や、高価な薬の処方ができます。医療関係でもいわゆる階級社会が存在しています。
1980年代から、ドイツでも高齢化が進んで医療費も莫大な額になってきたために、保険医の報酬の削減や、強制保険患者に対する薬や検査内容の規制も厳しくなってきて、医師として思うような診療ができなくなってきました。私は年々規制が厳しくなる保険医療制度に嫌気がさし、65歳で保険医の資格を返却して年金者となり、2006年にベルリンに移りました。ここで芸術文化を楽しみながら、小さな診療所を開いて、少数の患者と接しながらのんびり余生を過ごそうと思ったからです。
■MEOCLINIC
2007年から私が働くことに決めたMEOCLINICの外来には全ての科がそろっていますし、入院施設もあります。現在、私はここで週4日、高血圧、メタボリック症候群、糖尿病、甲状腺疾患の成人病患者さんの診療にあたっています。外来患者の70%がドイツ人ですが、残りは世界各国からの患者さんたちです。今はロシア人の患者さんが増えてきました。モスクワより安い医療費で、しかも優秀な診断・治療が受けられるそうです。その他にも、中央アジア人、アラブ人、アフリカ人も多く、もちろん日本人、韓国人、中国人の患者さんも来ます。国が違えば習慣、宗教、国民性、また病気についての知識の程度にも大きな差があり、私もそこから学ぶことがたくさんあり、毎日面白い経験をしています。
このようにしてドイツで医者稼業を続けてきました。その半世紀間における医療技術の発展、そして検査・治療法のデジタル化の進歩は目覚ましいものがあります。それらの新しい知識を獲得することも大切だとは思いますが、先輩たちから学んだ基礎医学の知識も同時に大切にしながら、「病気を診ずして病人を診よ」の言葉を、いや今は、「病気を診ず」ではなく、「検査データやコンピューターの結果のみを見ずして、病人を診よ」を肝に銘じつつ、これからもできる限り診療を続けていきたいと思っています。
■日本とドイツの民族性・文化の違い
日本人とドイツ人は似ているという人が結構いるようですが、私が経験した限りでは全く違うような気がします。日本では四季が大切な役割を担っていて、その移り変わりも「季節が忍び寄ってくる」という感じだと思いますが、ドイツではその移り変わりが極端で、また1日の天候も目まぐるしく変わります。またドイツの冬は夜が暗くて長く、午後3時ともなると薄暗くなって陰鬱(いんうつ)な空気に包まれます。私もドイツに来て最初の3、4年は、冬になると、真っ暗な中を車のライトをつけて仕事に行くのが本当に辛くて、うつ病になりそうでした。しかし4月になると、ある日突然、一斉に花が咲き新緑がまばゆいばかりに輝いて、鳥がさえずり出し、夏は夜10時過ぎまで明るくなります。またヨーロッパは国が陸続きですから、常に身構えて国境を守らなければなりません。このような風土や気候の移り変わりが、それぞれの国の国民気質をつくり上げていると私は思います。
ドイツ人の典型的な気質は、どんな状況でも、そして相手がどんな人でも関係なく、常に対等に自分の意見を述べ、またイエスかノーかがはっきりしています。それに自分の弱みを簡単には人に見せません。多少身体の具合が悪くても、自分は元気で大丈夫だという人が多いようです。また日本人は「すみません」を連発しますが、彼らにとって謝る(Entschuldigung)ということは、自分の非をはっきり認めたことになりますので、いろいろな口実で自分を正当化しようとするか、せいぜい「こういう事態に陥ったことを遺憾に思う」という意味での(Es tut mir leid)と言うぐらいです。
それに規則が大好きで、頑固で柔軟性に欠け、融通も利かない人が多いようです。反面、彼らの美徳は、隣人愛、博愛精神がとても強いことです。私たちもドイツに来た当初、彼らにどんなに助けられたことか、そのおかげで今日までこの国で生きてこられたのだと思います。
このようなドイツからたまに日本に帰ってくると、相手の気持ちを察してくれるその細やかな心遣いにすっかり感激してしまいます。町中や、地下鉄の構内にはごみ一つ落ちてなく、汚い落書きもありません。そして、交通機関の扉がプラットホームの定められた場所にぴたっと停まり、少しでも遅れるとすぐに放送があって謝罪します。これには外国からの訪問客は舌を巻きます。また、日本には素晴らしい伝統芸能文化があります。この素晴らしい文化をもっと大切にし、その保存に努力しながら世界に広めてくれることを切に願っています。
最後に1947年にノーベル文学賞を受賞したフランスの小説家アンドレ・ジッドの言葉で私の講演を終わらせていただきます。「Man cannot discover new oceans unless he has the courage to lose sight of the shore.」。「長い間、海岸を見失うだけの覚悟がなければ、新大陸を発見することはできない。目先のことではなく、目的を持って人生を進め」。
これは私の助けになった言葉で、これからの若い人にも贈りたい言葉です。
ご清聴ありがとうございました。
■質疑応答
〇高橋 平成14年卒の高橋梨紗です。私も大学5年生の時に、ベルリンのシャリテーで病院研修した時のことを思い出しました。教授からの質問が分からなかったので「I don't know」と答えたら、「そんな答えは求めていない。分からないなら分からないなりに言え」と言われ、それからは間違っていても自分の意見を言うようになりました。
その時に、プライベート・ペイシャント・システムのことを知り、日本にはないシステムだと思いました。日本の国民皆保険制度のことを話すと、とても驚かれて、ドイツでは絶対に考えられないと言われました。
先生は、プライベート・ペイシャント・システムというのをどのようにお考えでしょうか。
〇柏木 いい質問だと思います。働いてじゅうぶんに稼いで優遇されていい診療を受けるというのは、それはそれで権利があるのかもしれませんが、私はそのような階級制度を必ずしもいいとは思いません。でも今のように、医療費が上がって薬の質が下がるとか、またそう簡単に医療を受けられないというときにはそれは悪くないのかもしれません。
ただ、そのプライベート保険に入っている人で、権利を主張するような人たちが必ずいます。私はそのような人たちが大嫌いです。そのような人たちは最初からすぐ分かってしまいますから、「また来たか」という感じで対処します。(笑い)そのような不平等なことはたくさんあります。
〇島津 昭和38年卒の島津です。シンガポールでは、まずクリニックに行って、そこが、あなたはこちらに行きなさいと言って、ホスピタルに行くという順番があります。日本はそのような仕組みが基本的にはなくて、直接ホスピタルに行く人もいます。ドイツの実態はどうなのでしょうか。
〇柏木 ドイツでは、まずホームドクターというのが原則です。そしてそこが判断して専門医に患者を送り込みます。オランダはそれがもっと徹底しています。
先ほどの話と関連しますが、プライベートの保険に入っている人はホームドクターではなく直接専門医に行けます。
〇福嶋 平成29年卒業の福嶋望実です。現在東京藝術大学の声楽科の3年生です。今度、舞台で、フランク・ヴェーデキントの戯曲『春のめざめ』に挑戦します。
質問はナイーブな内容になりますが、日本の子供たちの性に関する実態とドイツのそれはどのような差があるのでしょうか。それから、性的被害に遭った場合に、国や医療機関からどのような対処があるのでしょうか。
〇〇柏木 難しい質問です。残念ながら私はお答えができません。
■会長あいさつ
〇伊藤 今日、先生は原稿を手元に置かれて時間の中にぴったり収まるように準備していただきました。私も講演をすることがあるのですが、講演というのは、しっかりと原稿をつくってやらなければならないと言われたこともあります。そのような意味では、今日の先生は、きっちりとした準備をされていて、そこに先生のお人柄を感じました。
昭和44年といえばまだ海外に行くことが大変な時代で、その時に外国で生活をされたご苦労がしのばれました。誇りを持った日本人の医者として進むのだという気概でドイツの医学界の中でずっとこられたのだろうと、お話をお聞きしながら強く感じました。
先生がこれからもお元気で、ドイツでご活躍されますことを心から祈念しています。ありがとうございました。
(終了)