第603回二木会講演会記録

「宇宙を支える(国際宇宙ステーションのフライトディレクタとして)」

講師:東覚 芳夫 氏(昭和62年卒)
日時:平成26年7月10日(木)19:00~

■講師紹介

○五郎丸氏 東覚くんと3年間同じクラスの62年卒の五郎丸です。東覚くんは、いつも成績がトップクラスでしたが、勉強ができるとかを表に出すことはなく、運動会後の打ち上げなどのイベントに積極的に参加していました。
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 在学中には彼から宇宙に関する話は一言も聞いたことがありませんでしたが、宇宙開発事業団に就職が決まった際に、「高校時代から宇宙で貢献できるような仕事を考えていた」と言われたので、表向きは飄々としているようですが、その裏には芯の強さがあって、表には出さない強い胆力があるんだなと感じました。今日は、東覚くんがそういう信念の下に今の仕事をしているということも踏まえて講演を聴いていただきたいと思います。

■東覚芳夫氏講演

○東覚氏 二木会への出席は初めてですが、今までの講演者のお名前を見てびっくりしました。本当に恐縮に思っています。今回は62年卒が幹事学年として最終の二木会であり、同期の中からということでお声を掛けていただきました。世の中には宇宙飛行士が華々しく出ていますが、私は筑波でフライトディレクターという現場監督のような仕事をしており、その活動の話をさせていただきます。

■JAXAの活動概要

 JAXAの活動としては、①鹿児島の種子島や内之浦からのロケットの打ち上げ、②地球観測衛星としての人工衛星の開発、③超音速機やスペースプレーンなどに発展できるようなものの航空技術の研究開発、④私が所属している所ですが、宇宙ステーションを中心とした有人宇宙開発、という活動をしています。

■国際宇宙ステーションの構成

 国際宇宙ステーションは、サッカー場ぐらいの大きさで、人類史上最大の宇宙での建造物です。日本の実験棟「きぼう」のほか、ヨーロッパやアメリカのNASAが造ったものもあります。太陽電池もあって、今は常時6人が生活できます。水や空気を再生するものや運動器具もあります。かなり大きな物体ですので地上から肉眼でも見ることができます。  日本実験棟では船内でも船外でも宇宙実験ができます。船内から船外に物資の出し入れができるエアロックとロボットアームとの連携操作により、従前宇宙飛行士が宇宙服を着て船外活動で行っていた作業が船内からできるようになっています。
 日本の無人の補給船「こうのとり(HTV)」は数トンクラスの物資補給をしています。宇宙ステーションは秒速8㎞というすごいスピードで飛んでいますが、宇宙ステーションの10m下にぴったり止めるという高い技術を持っており、ロボットアームで宇宙ステーションへの物資を補給しています。

■国際宇宙ステーションの変遷

 国際宇宙ステーションは、1982年ぐらいからNASAの呼び掛けで日本も検討に加わりました。レーガン大統領が1984年のロンドンサミットでフリーダム計画を提唱してスタートしました。この頃は、スペースシャトルの積極的な活用をうたっていました。その頃のソ連は、まだ冷戦のさなかであり、独自の有人ステーションを建設するなど、独自の道を歩いていました。
 国際宇宙ステーションの検討段階では、いろいろなトラブルがありました。86年1月にチャレンジャー事故があり、再開までに2年半を要しました。安全対策が必要となり、打ち上げコストが上がるという間接的な影響がありました。それに加えて、米国の財政再建の中で、スペースシャトル計画の凍結・見直しの指示が出されました。ちょうどソ連の崩壊のタイミングと重なったため、この宇宙ステーション計画を、ロシアの技術も使いながら進めるよう練り直したのが93年のことです。それを「リデザイン」と言っています。
 その後、94年から「シャトル・ミールミッション」という、アメリカのスペースシャトルやロシアのソユーズ宇宙船でアメリカ・ロシアの飛行士をロシアの宇宙ステーションミールに運んで、そこで一緒に数カ月生活させるという計画が始まりました。文化の違いのため宇宙飛行士同士のコミュニケーショントラブルなども起こったし、補給船が衝突事故を起こすなども見られる中で、98年にこのミッションは終了しました。ただし、このミッションは国際宇宙ステーションをどのようにして共同で進めていくかについての検証には一定の成果があったと思っています。

■「きぼう」日本実験棟の開発・運用

 私はこの宇宙ステーションの立ち上げからリデザインという激動の時代には、関わっておらず、95年に通信担当として実験棟「きぼう」の開発チームに入りました。そしてそれ以外に地上の管制システム整備も担当しました。その中で「きぼう」の運用管制チームをつくって、人の育成やチーム構成をどうやればいいかとかという検討を始めましたが、そのために、99年の夏からNASAのヒューストンにあるフライトディレクターオフィスに半年間修業に行って現地で学んできました。

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■ISS建設の経緯

 98年11月になると、ようやく宇宙ステーションの建設が始まりました。最初にアメリカ資本でロシアがつくったモジュールがロシアのロケットで打ち上げられました。2000年以降になると若田さんが2回目の飛行でISSの建設に関わりました。そしてその直後、2000年の11月からはやっと3人の宇宙飛行士が滞在して有人宇宙ステーションとしての活動が開始されました。
 そういう中でJAXAの「きぼう」日本実験棟はほぼ開発を終えて、2003年3月には船内実験室を打ち上げ射場のケネディ宇宙センターに送り出そうとしていました。そのために国内最終試験を2003年の1月から3月ということでやっていて、私はその試験の現場リーダーというかたちで指揮をしていました。そういう矢先に、スペースシャトル・コロンビアの衝撃的な事故が起きました。このことで、この先、宇宙ステーションの建設は進むのだろうかという不安はありましたが、日本としては計画どおりに進めなければと、翌日から試験を再開しました。結局、ここから2年半はスペースシャトルの飛行は再開しなかったのですが、その間は、ロシアの宇宙船に物資や宇宙飛行士の輸送をやってもらい、何とか計画がつながっていきました。
 そしてやっと2005年7月にスペースシャトルが飛行を再開して宇宙ステーションの建設が再開されました。ここには野口飛行士が搭乗してその作業を支えました。ただし、アメリカは、事故対策により技術的にもコスト的にも負荷が掛かるため、2010年にはISSの建設を終わらせてスペースシャトルをリタイアさせるという決定を行いました。われわれはスペースシャトルはずっと飛ぶと思っていたのでこの決定で驚きもありました。一方で、この決定により2010年には完成させるというスケジュール的なプレッシャーが生まれ、それまでけっこう建設の遅れがあったところに拍車が掛かったという局面もありました。

■「きぼう」運用と日本人宇宙飛行士

 2008年3月にやっと「きぼう」の建設が開始しました。1便目には土井飛行士、2便目には星出飛行士、その後、若田飛行士が、日本では初めての4カ月の長期滞在をしました。その3回目の便でわれわれの船外実験装置を設置して「きぼう」の建設が完了しました。
 それまではスペースシャトルの時代だったのですが、野口飛行士がロシアのソユーズで初めて宇宙ステーションに飛び立ちました。それ以降は古川飛行士、星出飛行士、それから今回の若田飛行士の長期滞在につながっており、今後も日本人宇宙飛行士の宇宙滞在が続きます。
 私が宇宙ステーションに関わったときからの10年来のミッションは、宇宙ステーションの「きぼう」の船外実験室の建設を成功させることで、2008年6月の星出飛行士が飛んだシャトルミッションでその建設を何とか成功させました。その時に功績があったということでNASAから表彰されました。

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■国際宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士の一日

 宇宙ステーションの中での宇宙飛行士の生活をご紹介します。宇宙ステーションは90分で地球の回りを1周しています。昼夜が来ますが、グリニッジ標準時に従って生活しています。グリニッジ標準時で06:00、日本時間ですと午後3時に起床です。そして寝るのがグリニッジ標準時の21:30、日本時間ですと朝6時半になります。日本では夜の時間帯が宇宙飛行士の活動の時間になりますので、われわれ管制チームはこれまでの6年以上ずっと、筑波で3交代24時間態勢で、夜中も活発に宇宙飛行士と議論しながら作業指導をしたり質問を受けたりという作業を行って宇宙飛行士の生活を支えています。
宇宙での生活面をビデオでご説明します。宇宙に行くと筋力を使いませんので地上の寝たきり状態よりも筋力が落ちます。そのために筋力トレーニングやランニングマシン、自転車こぎマシンなどを使ってトレーニングを行っています。このようなメニューを個人ごとにつくって2時間ずつ仕事としてやっています。
 ビデオの中で、運動とか物の片づけとか寝室の状況を見ていただきました。水の再生がありましたが、完全な再生処理をして飲めるようにします。若田さんが5年前に滞在したときにちょうど態勢が3人から6人に増えました。ロケットで打ち上げる時には重量が重要なので、水はなるべく再生するようにシステムをつくっています。

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■各国のISS管制センター

 宇宙ステーションはアメリカのヒューストンにあるNASAが全体をまとめるかたちで運営しています。ヨーロッパの実験棟の管制センターはドイツのミュンヘン郊外、ロシアはモスクワ郊外に管制センターがあります。このように地上間も連携しながらいろいろな協議をしながら進めています。

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■「きぼう」運用管制室での作業

 運用管制室には宇宙ステーションから何十万といういろいろなデータが下りてきます。その中に異常がないかを見ながら、地上からリモートコントロールで宇宙実験を行っています。ほとんどの作業は地上からコントロールし、宇宙飛行士には手作業を頼んでいます。それ以外にも宇宙飛行士の作業のスケジュール調整の仕事があります。各国から宇宙飛行士の時間を取りたいといういろいろな依頼があり、それを調整し、進行管理するとともに、遅れた場合などどうやって組み替えるかという調整を日々行っています。
 それから、有人運用ならではですが、音声での交信が非常に重要になります。われわれはいつもヘッドセットを着けています。それぞれのチャンネルで宇宙飛行士の交信やヒューストンとの交信を16チャンネルで同時に聞いて、日本語も英語も混在した交信の中で、必要なものをピックアップしています。やはり、人工衛星とは違い、話をしながら物事を進めることが重要になります。

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■ISSと地上との通信について

 宇宙ステーションでの通信は、NASAの中継衛星を介してヒューストンからデータを受け取っています。日本も一つ中継衛星を持っており、それを介すると筑波と直接の通信ができます。宇宙ステーションは半径が6,300㎞の地球に対して地上から400㎞という比較的かなり低いところを飛んでいるので、地上から見ると15分ぐらいでさっと飛んでいくため、通信できるのはその間に限られます。中継衛星を使うのは、そういう状況の下で、中継衛星を使うと大体半分が見通せ、この中継衛星を2、3機使うと、ほとんどの通信が連続的に取れるようになるためです。

■宇宙飛行士とのコミュニケーション

 宇宙飛行士との交信については、その中継衛星を使って音声で進めたり、ビデオを見ながら行います。宇宙飛行士は宇宙ステーションから世界中のどこにでも電話が発信できます。私は若田さんから毎週のように携帯電話に掛かかってきて、いろいろな相談事とか物事の進捗についてのやりとりをしています。 また、電子メールでもかなり頻繁にやりとりをしています。作業についての手順書などで、解説がないとなかなか難しい場合には、日本語の補足のメールを送ります。またお互いに顔を見ながらビデオ会議をすることもあります。お医者さんが顔を見ながら問診するというような通信もしています。
 6年前から開始した「きぼう」も2009年7月には建設完了し、その間、東日本大震災も経験しましたが、1年前の2013年には「きぼう」運用5周年を迎えることができました。

■若田飛行士:日本人初のISS船長へ

 2011年にはISS全体の建設も完了して、昨年11月には2008年から始まったISS建設の15周年という記念すべきイベントを行うことができました。その昨年11月に、日本の有人宇宙活動の集大成とも言える若田飛行士が船長になり宇宙ステーションに飛び立ちました。
 昔はソユーズ宇宙船での宇宙ステーションへの到達は丸々2日ぐらいかかっていたのですが、去年からそれが大幅に短縮されて6時間と、かなりスピードアップされました。ソユーズ宇宙船の中はかなり狭く、その狭い中での時間が短縮できて宇宙飛行士の身体的の負荷はだいぶ下がったと言われています。
 若田さんがISSに到達して、翌週に始まった小型衛星の放出については、放出した先にロボットアームが待ち受けています。このロボットアームは、昔は宇宙飛行士が操作するのが当たり前だったのですが、今は宇宙飛行士の負荷を下げるために、筑波から遠隔でコントロールして動かしています。地上からコントロールして放出のコマンドの作業を若田さんが行うという連携作業を行いました。
 それから、キューポラという7枚の窓を備えたモジュールがあります。この中にわれわれがNHKさんと共同開発した4Kカメラを今回宇宙に初めて持っていき、12月初めに地球とのライブの番組を行いました。
 宇宙飛行士には、宇宙ステーションの中の「きぼう」実験棟でいろいろな宇宙実験のサポートを行ってもらっています。また宇宙飛行士自身も医学実験の対象で、眼圧を測ったり、採血や採尿したり、宇宙での体の動き自体がこれからの宇宙の探査に対しての実験材料になっています。

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■宇宙を身近に

 また、筑波とつないだ交信イベントを行ったり、子供さんや学生の方にいろいろな宇宙実験の提案をしていただいたりしています。例えば、宇宙でコマ回しをやるとどうなるかという実験が選ばれて、実験が行われました。このように子供さんの提案、学校からの提案を宇宙実験の中で実現していくということも教育イベントとして行っています。

■若田さんのサポートを行って

 3月9日の若田さんの宇宙ステーションの船長の就任式では、私が筑波の管制室からお祝いの言葉を述べさせていただきました。 (若田さんとの交信のDVD)  この後、米国の民間の宇宙メーカー製の宇宙船の打ち上げが4回も延びたため、若田さんは、船長として宇宙ステーションの中でロシアやアメリカと協議しながらいろいろなスケジュール変更をまとめていきました。そのようにして2カ月間の宇宙ステーションの船長を務められました。
 そして5月14日にソユーズ宇宙船に乗って帰ってきました。降りてから急に重力が掛かってくるので、地上に戻ってきてからすぐは、宇宙飛行士が動くのはやはりかなり大変です。頭が一番重たく、首に力を入れないと頭が支えられないということです。ただし、宇宙で運動していたおかげでかなり元気な姿で戻ってきます。ちなみに今映像の右側に見えました日本の国旗を付けていた女性はフライトサージャンという宇宙飛行士のお医者さんですが、彼女は実は私の家内の姉です。私はひそかに若田さんに対しては義理の姉弟でサポートしていますというのを売りにしています。
 このようなかたちでこの6カ月間、私は若田さんと毎日のようにメールや電話でやり取りしながらサポートする仕事を行っていました。

■宇宙の技術を生活へ

 このようにいろいろな分野の宇宙実験を行ってきましたが、これからはなるべく産業化できるようなところに絞って集中的に行おうとしています。また、大学や企業が参入しやすいような実験を行うため今いろいろ模索しています。それから、洗濯ができないため宇宙用に作った無臭の抗菌性の衣服や、検討段階ですが消防士用の冷却下着など、地上の生活にも役立てることができる者の開発に取り組んでいます。
 それから、アメリカは宇宙ステーションを2020年から24年まで使うこととしていますが、今JAXAは、その先をどうステップアップしていくかに力を入れています。国際的フォーラムでは火星を将来的な有人ミッションの到達目標として掲げていますので、将来の火星ミッションをどのようなかたちで段階的に実現していけるかを議論しながら、宇宙ステーションを火星探査に向けた実証の実験場とするよう進めるべく、現在国際的に取り組んでいることです。
 これまでの若田さんの宇宙ステーションでの活躍で、JAXAもかなりの国際交渉力を持ったレベルになっていると思います。これからも先ほどの探査に向けたかたちで取り組んでいきたいと思っています。 ありがとうございました。

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■質疑応答

○斉田 昭和40年卒の斉田です。ロケットで宇宙に物を運ぶ時代となっていますが、今日本では、実現は50年から100年後になるかもしれませんが、将来技術として「宇宙エレベーター」という夢の技術を考えています。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のようなナノカーボンチューブを静止衛星から垂らし、反対側にもカウンターウエイトを置いて、均衡を保ちながらエレベーターで往復する。そうすれば、物資や人間の運送コストが400分の1になるという夢の技術がありますが、その実現性と可能性はどうでしょうか。

○東覚 宇宙エレベーターの話は、JAXAの中にも個人の活動として行っている者もいます。一度確立してしまえば、輸送手段として大変有効なものであり、実現できればと思っていますが、やはり大きな課題は、そのような自重に耐える素材をどうやって宇宙空間にまで伸ばしていくかということであり、大変難しい技術で、非常に大きなハードルがあると思います。ここが一番ブレイクスルーが必要なところであり、いろいろな手段で突破していきたいと思っています。

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○大河内 私は59年卒でお兄様と同じ学年です。高齢者ケア、高齢者医療を専門にやっていますが、若田さんのお顔がかなりむくんで見え、いわゆる心不全の状態になっているように見受けられましたが、宇宙飛行士の心不全の予防のために、薬剤などの人体実験などを行っているのでしょうか。

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○東覚 顔については、無重力下の体液シフトで、いわゆる「ムーンフェイス」と言われる症状が出ているのだと思いますが、心不全の薬を常備しているというのは聞いたことはありません。今、実験的にやっているのは、骨が溶け出すスピードが速いので、それを食い止めるために骨粗鬆症のための薬を服用しています。それを飲み始めると地上に降りてきた時の回復力がかなり違うというのは実証されています。そのようにしてご高齢の方の骨粗鬆症の対策になるようなものを宇宙飛行士の体を使って実験的に行っています。

■大須賀会長挨拶

○大須賀会長 先月の総会から中川会長から引き継ぎました37年卒の大須賀です。今、台風でこれから雨風が強くなろうとしています。一昨日の新聞に大きな台風の目の写真が載っていましたが、宇宙ステーションから送られた写真だったようで、本当に身近なところに宇宙ステーションもあるなと思いました。  宇宙ステーションも振り返ると、米ソの冷戦時代の軍拡競争の中で生まれ、冷戦が解けると今度は一緒に開発するようになり、お互いの弱いところをお互いが補足しながら、そこにヨーロッパや日本、カナダが入って、世界レベルでこのような開発がどんどん進んでいるということでした。本当に素晴らしいことだと思います。そういう中で日本が大きなウエイトを占め、また船長まで日本人が務めるようになり、さすがに日本だし、その大きな一翼をわが修猷館の卒業生が担ってくれているというのはまたうれしい限りです。
 私自身は、実はフライトディレクターが裏方で大変だという話をもっと聴きたかったとも思いますが、本日のような素人受けするわかりやすい話を、若い小学生だとか中学生とかにどんどん聴いてもらったらいいなと思いました。これから新しいステップを検討されていると思いますが、東覚さんにはさらに活躍されることを大いに期待して今日のお礼としたいと思います。

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(終了)