第638回二木会講演会記録

『週刊ダイヤモンドが組んだ高校特集(2016年11月19日号)の裏側』

講師:田中博氏(昭和59年卒)

■講師紹介

〇徳永 彼は執行部でした。執行部のとき、文化祭の前日に泊まり込んで、夜中の学校を「氷雨」を歌いながら懐中電灯を照らしてパトロールしたそうです。そのころの田中君は、一本筋が通っていて自分の意見をはっきり言う堂々とした人間という印象でした。ですから、彼がジャーナリストをやっているというのを聞いたときは、何か納得しました。
 私は『週刊ダイヤモンド』の彼の編集後記が楽しみでした。切り口が素晴らしいし文章もうまいので、私は、最初に編集後記を読んでから特集を読んでいました。今はリコー経済社会研究所の広報誌で彼のコラムを読むことができます。文章がうまいので見ていただければと思います。

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■講演

〇田中 実は、一昨年の末にこの講演の依頼をいただいていたのですが、当時、ダイヤモンド社を辞める決断をしていましたので、自分が離れる組織のことをいろいろと話すのはよくないだろうとお断りしていました。ところが昨年末にまたお話をいただき、今度はお受けしました。それほど皆さんのご関心があるのであれば、自分の頭の整理も含めてこの特集をつくった私の思いをお話ししようと思ったからです。

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■はじめに

 私は、編集長としてまた副編集長として合わせて200本近くの特集をやってきました。その中で、思い通りつくった特集というのはなかなかないのですが、この高校特集に関してはかなりの思い入れがありました。東京修猷会の副幹事長を務めている服部君が同期の仲間に広めてくれて、それも効いたのか売り上げも良く評判も呼びました。同期の暖かい目線と体温が込められた特集でもありますので、こうした思いを改めて振り返ってみたいと思います。

■経済誌『週刊ダイヤモンド』とは

 最初にお断りしておきますが、今日の話は、数字などを含め2014年4月から2017年3月まで私が編集長をやっていた頃のものです。ビジネス環境が刻一刻と変わる中で、今は状況が違うのかもしれないという点をご留意いただければと思います。
 『週刊ダイヤモンド』はちょっと下世話な雑誌で、タブーを恐れないことを信条としています。実売数は8万部超ですが、他の一般雑誌とは違って、会社に置かれていて社員の方々が読むため回読率が高く、8万人よりは遥かに多くの方の目に触れていると考えています。主に書店などの店頭と配達で届ける定期購読があるのですが、売り上げの比率はほぼ半々で、バランスの取れた雑誌だと思っています。なお、店頭の売り上げは、経済誌では25年間ナンバーワンを保っています。
 その中で、ライバル誌は、『日経ビジネス』と『週刊東洋経済』と毎日新聞系の『週刊エコノミスト』があります。『週刊東洋経済』の売り上げは、われわれの7掛けぐらい、『日経ビジネス』はトータルで18万部超出ていますが、店頭では3千部ということでかなり違います。『週刊ダイヤモンド』は、伝えるべき情報を提供するだけでなく、顧客が欲している情報を考えながらつくり、一定の支持をいただいているという点が特色だと思っています。
 私は『週刊ダイヤモンド』の編集長を引き受けるに当たって、経済誌が取り組むべきテーマとして企業・産業・経済という三つの分野に原点回帰することを掲げました。その上で、特集づくりのあり方として、三本の柱を打ち出しました。一つは、ニュースを深彫りし、極力、早く出すということ。二つ目は、読者の知的好奇心を満たすということ。三つ目はビジネスパーソンの生活を豊かにするということです。特集をつくる際に、このどれに該当する特集なのか編集部員に意識してもらおうというのが狙いでした。
 ただ、実際、どんな特集をやるかというのは常に頭痛の種で、編集長時代には四六時中、企画のことを考えていました。特集一つで売れ行きがガラッと変わるからです。ネタ探しに関しては、取材はもちろんですが、見たもの感じたもので行けそうだと思った瞬間にスマートフォンで自分宛てにメールを送って夜、見直したり、独り言でそのネタや構成を反芻しながら街を歩いたりしていました。会社が原宿にあったので少し危ない人だと思われていたかもしれません。今思えば、エネルギーの8割ぐらいは特集に割いていたような気がします。

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■なぜ高校特集か

 では、なぜ高校特集だったのかということですが、それには伏線があります。発端は2016年1月に組んだ三菱財閥の特集です。財閥のような複雑に入り組んだ大組織といっても、やはり人間がいて歴史を積み重ねてきたわけであり、そこで培われた人脈がアイデンティティーを形成しています。この特集が大ヒットし、その3カ月後に節操がないと言われたのですが、三井財閥と住友財閥の特集を一緒にして組みました。こちらも売れて気を良くし、今度は慶應の同窓会組織である三田会の特集を手がけました。大学特集は受験に関する情報提供になりがちなのですが、ここでは経済誌らしく、人材育成の場としての大学、その大学を礎に築かれた人脈、さらに実社会で大きな存在感を示している学閥という位置付けを強く打ち出したところ、これも大きな反響を呼びました。
 そうなると、これを高校にまで落とし込んでみたらどうかと考えたわけです。人脈の源流が中学からというのはさすがにないでしょうし、そうなると高校だということです。実際、高校に入って、社会のちょっとした入り口をのぞくことになります。先輩・後輩の厳しさや社会の秩序を知るでしょう。そして自由という麻薬のようなも少しだけかじる機会があるかもしれません。
 そこで「人脈の源流」「人材育成の場」「人格形成の礎」という三本柱で挑んでみようと決めました。タイトルの「最強の高校」は、最初からこれしかないと思っていました。影響力、人脈、組織力などを総合的に見ると、最強という言葉がピッタリはまったのです。
 特集は、パート1からパート5まであり、最後に特別付録というのを付けました。このパート建てはいつも起承転結で考えているのですが、パート1は、特集を包含した象徴的な話で入る重要な導入部。パート2は、網羅性や地域性などに触れることで、話を少し広げました。パート3では、少しとがった話、視点を変えたストーリなどを展開しました。パート4で、豊富なデータや情報などを入れて裏付けを固めました。ちなみにパート5はプラスアルファで、残ったネタを盛り込みました。

■修猷館のページが膨らんだ理由

 修猷館は冒頭の大事なパート1で4ページ割きました。たった4ページと思われるかもしれませんが、同じパート1で、開成が5ページ、灘は北野なども含めて3ページなので、破格の扱いでした。
 周りからは「自分が修猷出身だからだろう」と言われましたが、実は私も知らないうちにページが増えていました。今日も多分出席していると思うのですが、編集部にたまたま修猷のOBがいて、彼が出席した二木会で様々なネタを掘り起こしてきました。細かなページの割裏振りや構成など特集の実際の指揮を取るのはデスクの役割ですが、彼が目を輝かせて「二木会はネタの宝庫です」と熱く語ると、デスクもその熱病に"感染"してしまったのです。その結果、「こいつがこれだけ面白いことを言っているのだからページをあげるかと」いうことになったようです。
 台割りと言って、高校やエピソードごとにページ割りの一覧表をつくるのですが、私が最後に見たときは、修猷館は確か3ページでした。それが、ゲラが上がってきたら4ページに増えていました。内心少し偏り過ぎかなとは思いましたが、「ネタが面白いからしょうがないな」みたいな物分かりのいい上司役に徹することに決め込んで、デスクには「まあまあ」と言って納得させたように覚えています。
改めてこの場をお借りして言いますが、この二木会が修猷のページを膨らませた理由です。書き手側としては、面白いネタがあれば決して譲れないし、説得されるデスクも却下できないといのが真相なのです。例えば五輪旗のエピソードや、二木会自体の話、さらに玄洋社の流れをくむ政治とのつながりなど、地方の名門校であれば少しずつ似たような話は共通してあるのかもしれませんが、全部揃うというのはなかなかないと思います。これらを全部詰め込むと、幾何級数的に学校の魅力が増します。東京・大阪の「中央」vs「地方」という対抗軸の中で、修猷館が後者を代表して登場したわけです。

■取材の過程

 折角の機会ですので、二木会以外にどのように取材したかについてもお話しようと思います。普段は下世話でえぐい話も平気で書くような雑誌ですので、取材拒否されたり、異常に警戒されたりするケースも珍しくないのですが、この特集については、皆さん、珍しいくらいに好意的に取材に応じていただけました。取材した連中が拍子抜けするぐらいで、いい意味での戸惑いがありました。青春時代を過ごした高校を切り口に取材を持ち掛けると、そもそも拒否反応が格段に小さくなるということもあるのでしょうが、人脈の力が突破口になった点も見逃せないと思います。
 若手の経営者などに取材した後、「先輩お願いします」と声を駆けてもらうと大物の方も気持ちよく出ていただけました。今度はその方の名前を出して口説いたり、口添えをしていただくと、断るわけにはいかないという空気になるのです。言わば上からと下からのサンドウィッチ状態です。こうして皆さんにどんどん取材に応じていただいたことによって、別の問題も生じました。膨大な取材メモやデータをどう処理するかという点です。担当デスクや記者にとっては折角とってきたネタを捨てるのは辛いことですが、今回は泣く泣く、厳しい取捨選択を迫られているように感じました。
 最終的に、表に登場した学校なども含めると約700校に上りました。このうち、送付したアンケートに答えていただいた学校は128校ありました。東京の出版社から突然送られてきたにもかかわらず、実に丁寧にまた教育者だけあって読みやすいきれいな字で回答していただき、頭が下がる思いでした。この回答を全て入れるにはページを増やすしかないとなり、最終的には88ページの大特集になりました。
 大体50ページで大型特集という位置づけで、新書1冊ぐらいの情報量になります。なので88ページというとその2倍弱。週刊誌の特集としてはちょっと異例のページ数に膨らんでしまいました。

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■「高校特集」発売後の反応

 肝心の特集の売れ行きですが、爆発的とはいきませんでしたが、通常の3割増しぐらいで、全国まんべんなく売れました。普段は読者からお叱りを受けることも多いのですが、この号に関しては好意的な反応ばかりで、特に取材した方からはお褒めの言葉をいただきました。高校愛というのはこんなにあるのだなと改めて感じた次第です。
 この後、スピンオフ企画もやりました。私が編集長を辞める直前の2017年3月25日号で、第二特集として、名古屋地区の高校・大学にフォーカスしました。テーマにかかわらず第二特集でページを割いて特定の地域を取り上げると、そこではよく売れます。どうして名古屋だったのかというと、名古屋の人は教育に熱心というイメージがあるにもかかわらず、諸般の事情で高校特集ではあまり取り上げられなかったからです。「名古屋が載っていないじゃないか」という声も届いていたため、逆にこれは第二特集でいけるという確信がありました。
 この時は、第一特集のテーマが全国にまたがる問題を取り上げる国鉄の分割民営化30周年だったので、地域フォーカスの第二特集を組み合わせることによって、読者の関心を補い合うことができました。また、名古屋はJR東海の本拠地でもあるので、現地での相乗効果も見受けられました。雑誌も右から左に売れる時代ではなくなってきている今、こうした細かな工夫をしていく必要があるのでしょう。自省を込めて言いますが、これまでは雑誌もあぐらをかいた商売をしていたのだと思います。つくり手が売り方も一生懸命考えないといけない時代になっています。
 この「最強の高校」は、私が3年間編集長を務めた中で、売り方、つくり方、そしてスピンオフのような派生企画も含めて、いろいろなことが試せた思い入れが深い特集となりました。何よりも服部君から同期の仲間に周知してもらったことで、皆さんから暖かい言葉をいただいたことに、深く感謝しています。卒業して何十年もたって、再び旧交を温め、心のつながりを感じる交流ができたのは何ものにも代えがたいものでした。

■編集長の仕事

 最後に少しだけ、あまり知られていないであろう編集長の仕事というのを紹介します。雑誌や人にもよりますが、私は基本的には「書くため」の取材には行きませんでした。取材するのは特集のネタ探しのためであり、それ以外に特集のラインナップを考えたり、特集への人選などを考えたりしていました。先ほどお話しした起承転結というのは、文章はもちろんですが、特集のパート建てにもありますが、同じように特集自体にもあると思っています。起承転結の「起」に当たる特集もあれば、「承」に当たるお勉強チックな特集もあり、ちょっと目先を変えるような「転」の特集もあります。私はやれそうな企画候補から一つ一つの性格付けを考えたうえで中期的な流れを踏まえて順番を組み合わせていました。
 意外に大変だったのは、誰にいつやってもらうかです。1本の特集に4、5人のメンバーが6週間から8週間、どっぷり浸かるので様々な制約が出てきます。さらにデスクや記者の得意なテーマもあるにもかかわらず、特集の順番を急遽組み替えたり、緊急で特集を入れ込んだりするため、工場のように整然と人繰りのローテーションが立てられる訳ではありません。また、相性の悪い人間を組み合わせるといい仕事もできません。人間ですので仕事が偏ったり、横目で暇そうな奴をみると不満は溜まります。こうした複雑な連立方程式を解きながら毎週雑誌を出していくのは、編集長の仕事の醍醐味だったと今は思っています。
 マネジメントだけでなく実務レベルでいうと、電車用や新聞用の広告の文言づくりが楽しみでもあり、アドレナリンが噴出する瞬間でもありました。中吊りや月曜の朝刊で特集を紹介する広告をご覧になった方も多いと思います。デスクの原案を基に、それまで出てきたゲラを読み込んだり、特集の最終構成案などを見て1、2時間ぐらい集中してコピーを考えるのですが、その時点ではまだ重要な原稿を書き終えていないケースが多々ありました。そうすると想像を膨らませてコピーを考えるしかありません。「こんな話があれば面白いな」とか「口頭ではこんなこと言ってたっけな」などとあれこれ思いを巡らせながら、キーボードを叩きます。ところがそれをデスクに見せると、「まだ原稿が来てないので...」と困惑顔されたり、「これは書き過ぎです」などと突き返されることも日常茶飯事でした。
 結局、最後まで原稿が出てきそうにない場合は、ヘトヘトになって執筆中の記者を読んでヒアリングして確認するなど薄氷を踏む思いをしたことは一度や二度ではありませんでした。ちなみに、最近は新聞が読まれなくなったと言われますが、事、雑誌の広告に関しては、最大最強の効果がありました。新聞休刊日で月曜の朝刊が休みの時は、雑誌が全く動かなくなります。少なくともその一点においては、新聞の影響力は捨てたものではありません。広告のコピーづくりに力を入れていたのは、そうした因果関係を実感していたからです。
 表紙づくりも編集長の重要な仕事の一つでした。特集の中身はもちろんですが、特集タイトル、サブタイトル、デザインの組み合わせが売れ行きを左右します。高校特集についていえば、学校を象徴するものを中央に小さめに配置しようと早い段階で決めていました。何点か色々トライした結果、卒業証書の筒を角度を付けるとスッキリと収まりました。ただ、普段の『週刊ダイヤモンド』の表紙はもう少し派手だったり、ストレートだったり、時に下品な感じのものが多く、スッキリした格好いいデザインになると敬遠される傾向があります。しかし、学校特集は親御さんに手にとってもらうには嫌悪感を抱くようなデザインはやめようと思っていました。
 メインタイトルは「最強の高校」で迷わなかったのですが、サブタイトルには頭を痛めました。「中高一貫vs地方名門」と入れた理由は、関東地方では中高一貫校でないといい大学には入れないというヒエラルキーが固まっており、「中高一貫」という文言が殺し文句になるからです。ところが、公立がメインの地方の人はピンとこないわけで、中高一貫に対抗するいい言葉はないかと考えた末にひねり出したのが、「地方」と「名門」の合体。地味な作業だと思われるかもしれませんが、誰でも分かりやすい反面、誰かに刺さるような言葉でなければならないというのが、タイトルやサブタイトルづくりの要諦だと思っています。
 私の編集長としての3年間は、常に、どのような特集をつくるかに終始しました。人と話をしていても、特集ネタになるようなものはないのかという聞き方しかできない悲しい性になってしまっていました。今は雑誌づくりを退いていますので、そのようなことはもうありません。ご安心ください。
ご清聴ありがとうございました。

■質疑応答

〇武田 平成12年卒の武田です。私はNTTに勤務していて、ネットやメディアに興味があります。今、出版や新聞は市場環境が厳しいということですし、学生の約半分は本を読まないという報道もありました。そのような中で、雑誌づくりやその市場をどのようにご覧になっているのでしょうか。そして、ダイヤモンドさんはオンライン版もお持ちだと思いますが、紙版とオンライン版をどのように使い分けていらっしゃるのでしょうか。
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〇田中 今の『週刊ダイヤモンド』の編集長は、ダイヤモンドオンラインの編集長も兼務しています。これは、他の雑誌も含めて恐らく初めてのことだと思います。コンテンツは同じだけれども、流すルートが活字を紙に印刷するのか、デジタルデータをオンラインに載せるのかで、受け取り方や特性が違っているということでしょう。私の感覚では、中高年以上の方は、紙でじっくり読んでいて、横書きのオンラインで深く理解するというのは、デジタルネイティブではない世代にとっては少し苦痛なのだと思います。
 コンテンツについても、活字をデジタルに変えればいいということではないと思います。ショートニュースであればさほど差はないのですが、雑誌のような長大なコンテンツを同じように置き換えた途端に、理解されにくくなるのです。オンラインだとそこから課金できる単価も下がってきますので、収益にも関係してきます。出版業界は、発送とか、印刷に類するような仕事とか、旧来型のレガシーをたくさん抱えています。給料も一般の会社と比べると高めです。儲けるのではなく、維持していくのが主眼のビジネスだったら何とか成り立つと思うのですが、ビジネスベースで考えると難しいと思います。
 そもそも、今の出版業界は本業で稼いでいるのではありません。かつては漫画で稼いでいるところもありましたが、今は厳しくなってきていて、現実には不動産収入で補填(ほてん)しているのが実態ではないでしょうか。
 オンラインの世界で紙が築き上げてきたような影響力のあるメディアを作り上げるのはなかなか難しいと思います。紙かオンラインかというルートの違いだけではないでしょう。今、オンラインでビジネスベースで少し成功しつつあるかなと思うのは、ファンクラブみたいなサイトです。デジタルの中で読者、つまりファンを囲い込み、そこで双方向でのやり取りの機会を与えることでプラスアルファのお金を出してもらうというものです。ただ、それも限られた狭い世界での話であって、拡散力はあったとしても、紙が謳歌してきた本当の影響力には及場ないと思います。
 オンラインメディアについては、私はお手上げだった人間ですが、何か新しいビジネスモデルがあれば、雪崩を打ってみんなそちらに行くような気がしています。勝ち組と言われる日経の電子版ですら紙からの離脱など負の影響を総合的に考えたら、成功といっても限定的な成功なのだろうと思っています。
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〇森村 平成19年卒の森村です。私も出版社に勤めています。売り方はつくり手が考えないといけないという話が胸に刺さりました。特集の内容以外で田中さんご自身が工夫された売り方の工夫があれば、具体例を教えてください。
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〇田中 恥ずかしい話ですが、長い間『週刊ダイヤモンド』は、ダイヤモンド社の看板雑誌だったため、売り方をそこまで真剣に考えてこなかった気がします。ところが、売れ行きが急速に落ちてきたことで、やっとそれまでは考えてなかったことを多少なりとも考え出したというのが実態です。
 他の業界では当たり前なのでしょうが、この特集はどのエリアで売れるのか、どう仕掛ければ反応してもらえるのかをピンポイントで考えるようになりました。それまでは取次を通して書店に出せば、ある程度売れて、そして返品されるという足し算引き算の単純な世界だったのですが、もう少しマトリックスに落とし込むようになりました。実際に、財閥特集のときは工場立地や大規模な営業拠点などを細かく分析し、ピンポイントで指定した書店で非常に良く売れました。読者に周知するための地方紙への広告もかなり綿密に組みました。たいした話ではないのですが、やっと重い腰を上げたということです。

〇本井 最後にこちらからどうしても指名したい人がいらっしゃいます。重石さん、一言お願いします。

〇重石 平成10年卒の重石です。高校特集で修猷館を担当しました。4ページをデスクにねじ込んだ者は私です(笑い)。私は修猷館だけを担当したわけではないのですが、総合的に判断して、やはり修猷館は全国的に見ても人脈的にはナンバーワンではないかなと感じた結果、4ページになったということです(拍手)。当時、編集長がぶつぶつ言っていましたが、今日のお話を聞いて初めて意味が分かりました。
 質問ですが、編集長を辞めたのは大きな決断だったと思うのですが、その理由をお尋ねします(笑い)。
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〇田中 私は今年53歳になるのですが、自分の人生を振り返ると、最初の会社は3年3カ月で辞めて、その後アメリカに行って、日本に帰ってきて7年ちょっと新聞記者をやり、ダイヤモンドに15年ぐらい在籍してと、倍々ゲームのようにサラリーマン生活を送ってきました。そして「次」を考えたときに30年はないわけで、最後の始末は自分で付けようと思いました。現役としての残りがあと10年と考えたとき、最後は自分で設計図を描きたい、最後のサイコロは自分で振ってみたいと思ったのです。
 雑誌づくりは面白かったのですが、3年間独り言を言っていると、だんだんフレッシュな発想が出なくなってきていたのも事実です。私はセミクリエイティブな仕事だと思っていましたが、長くやっていると、いつの間にかそれまでの貯金をただ使っているだけになっており、新しいものは生み出していないと感じ始めていました。自分の性格を考えれば会社に残ればあれこれ口を出したくなる衝動を抑えることはできない。であれば若い人に託すべきでしょう。

■会長あいさつ

〇大須賀 高校特集と聞いて、『サンデー毎日』とか『週刊朝日』の大学合格者の話の延長みたいな話かなと思っていましたら、全然違いました。出版業界が不況の中、高校特集で道を見つけられ、その中で修猷館が大きく取り上げられました。実は私も先ほどの重石記者の取材を受けました。(笑い)ご覧になっていただければ分かりますが、随分長く書いていただきました。
 人格の基礎や骨格は高校時代につくられるのだと思います。ですから、皆さんが自分の高校時代とその時の友達を大事にしているのだと思います。修猷に限らず、全国の高校の同窓会が盛んなのは、高校時代が青春時代の大きな位置を占めていて、そこに愛着と絆を大きく感じているからなのだと思います。

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(終了)