第630回二木会講演会記録

『講談:金子堅太郎』

講師:神田 紅 氏(昭和46年卒)

■講師紹介

○前田 私と紅さんは修猷館ではずっと違うクラスでしたが、百道中学3年の時は同じクラスでした。当時から生徒会の役員を務めるなど物おじしない女子でしたが、ご本人の弁によると、おとなしかったそうです。
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 いずれにしても、古典芸能の世界に入って、このような大芸人になるとは思いもしませんでした。
 紅さんは主な寄席の舞台や、各地のホール、劇場で講談会を開いて、月に半分ぐらいは高座に上がっていらっしゃるそうです。このような講談師としてのお仕事の傍ら、東京と福岡で紅塾という教室を開いて講談ファンの拡大に向けて精力的に活動もされています。2001年からずっと全日空の機内放送の寄席番組の司会をされているのは聞かれた方も多いと思います。現在は、お弟子さん4人を抱えるとともに、2期目となる日本講談協会の会長さんという重責を担って、いまや講談界の重鎮の1人として、ご活躍されています。
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 本日は、昨年の藩校サミットでもご披露された金子堅太郎のお話です。難しい学問の話ではありませんので、肩の力を抜いて一緒に楽しみたいと思います。
 (この後は前田さんのご提案で、寄席と同じ調子の出囃子と「待ってました!」の掛け声のなかでの、紅さんご登壇となりました)

■講演

○神田 前田君ありがとう。今日はたくさん来てくださっていますが、本当に同級生に感謝です。また下級生の皆さん方、先輩方、本当に日ごろからお世話になっています。高い所からですが、心より御礼申し上げます。
 今年、芸道40年という節目に入りました。講談は38年なのですが、その前に女優時代があり、それを入れて40年と数えています。早稲田大学を中退して1年間の文学座の研修科を終わりプロダクションに入りました。そこは中村敦夫という人が社長で、原田芳雄さんや市原悦子さんがいらっしゃいました。私はそこで市原悦子さんの付き人から女優をスタートしました。
 最初に付いた市原悦子さんは一流中の一流の女優さんでした。あんなに集中力のすごい人を私は見たことがありません。前に見えないラインがあるとすると、そのラインのこちら側にいた疲れ切った市原さんが、出番になってそのラインを一歩越えた瞬間に別人になるのです。このすごさを目の当たりにして、私は女優にはなれないと思いました。
 女優時代に、ドラマで、自分の大事な人が亡くなって泣くシーンがありました。ドラマというのは、その周りを何十人もの関係者が取り囲んでいます。私はそこで泣くことができなかったのです。涙が出ないのです。涙が出ない人にはハッカを付けて涙を出すのですが、本当の涙ではないのでもう演技がめちゃくちゃになってしまって、その時につくづく女優には向かないなと思いました。
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 そんな時に私の師匠を紹介してくれる人がいて、大久保にあった師匠の家に行きました。最初は講談が何かが分かりませんでした。「師匠、講談とはどういうものですか」と言ったら、師匠がいきなり台本をばんと目の前に置き、「いざ鎌倉」というのを語ってくれました。「『さても源左衛門その日のいでたちいかにと見てあれば』はい、やってごらん」。分からないのです。漢字だらけで読めませんでした。こんな日本語があるのかと思いました。この独特のリズム、音階が、25歳の私にとってはカルチャーショックでした。
 師匠は二代目神田山陽、明治42年生まれです。もともとは大阪屋という屋号の書籍取次店の二代目さんで、お坊ちゃまの師匠でいらっしゃったからか、私たちの世界では本当は「おかみさん」と言うのを、そこでは「奥さま」と言わなければなりませんでした。その奥さまが「あなたたちは偉くなる人たちだから、お手洗いのお掃除はしなくていいのよ」とおっしゃるのですが、私はやりました。そしてある時からは「お掃除は紅さんに習ってちょうだい」と言われるようにまでなりました。私は自分の部屋さえ掃除をしたことがなかった人間ですから、これを聞いて母親が「信じられない」と吹き出しました。とにかく一生懸命に、しなくてもいいことまでやった修業時代でした。
 一番苦しかったのは、私が入門した時には男性の講談師が圧倒的に多く、いじめられたことです。もう今はみんなあの世に旅立っていますので何とでも言えるのですが、夜な夜な電話を掛けてきて延々としゃべるのです。下の者は自分から電話を切ることができません。例え明日の朝が早いのでどうしようかなと思っていても、です。その中身は「早く辞めてくれ。お前なんかこの世界にいなくても他でいくらでも生きていけるだろう。他の仕事に就きなさいよ。お婿さんをもらえば」というような、いわゆる慇懃無礼というものでした。ある時に私から電話を切りました。すると神田紅が自分から兄弟子の電話を切ったと講談界の騒動となり総会が開かれました。神田紅が自分から兄弟子の電話を切ったというのが総会の議題になるのです。びっくりしました。そして「総会で詫びればいいということになったから、謝ってくれ」と言われました。本当に嫌でした。謝りたくありませんでした。
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 でも今では、私が今日あるのはそのおかげだと思っています。仕事を多く頂戴しつつも順風満帆に物事が進まなかった、つまりいじめてくれる兄弟子がいたおかげで、偉そうにならず、鼻がこんなにならずに今日を迎えることができたと、今ではその兄弟子に感謝しています。そしてその兄弟子とは、今では協会の中で一番と言ってもいいぐらいの仲良しになりました。これは本当のことです。ですから、嫌だなと思った相手でも、会わなくてもいい人ならそれで済むのですが、同じ業界でずっと会わなければならないなら、いっそ その人の懐に飛び込んでいくということも大事だと思います。
 今、東京の講談界は70人ぐらいのうちの37人が女流講談師です。今は男の講談師が出てくると「珍しい」と言われる時代になりました。それは、私の師匠の神田山陽が、講談界を立て直すのには女流講談を育てるのがいいと思われたのです。女は一種の客寄せパンダだったのだと思います。でも師匠のそのような大きな気持ちがあって、女流を非常にかわいがってくださったものですから、そうして女流が入ってくるようになり、そして今、弟弟子の松之丞くんというのがスター街道を行き始めています。女がたくさんいる中ですから男が目立っています。時代は逆転するものだなと思います。

 残り30分になったら『金子堅太郎』に行きますが、それまで、私が最初に教わった「さても源左衛門」にちょっとお付き合いください。これは今日のような二木会に、皆さん方が「いざ鎌倉」と来てくださったような、いざというときに駆け付ける源左衛門の駆け付けです。
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 さても源左衛門、その日のいでたちいかにと見てあれば、金小実緋縅しの伊達鎧におんなじ毛糸5枚錣の兜は、これぞ俵藤太秀郷が瀬田の唐橋にて、竜神より申し受けしといわれある、先祖伝来の名兜なり。金にて鍬形銀青龍の前立て打ったるを猪首に着なし、腰には伯耆守安綱の陣刀を横たえ。三条子鍛冶宗近の鍛えあげたる大薙刀を小脇にかいこみ、痩せに痩せたる馬なれど大浪と名付けたる名馬にはゆらりがっきと轡をはませ、向こう春風諸手綱、引き締めまたがり諸鐙、とおとおと乗り出だす。乗り手は名に負う智仁勇三徳兼備の良将なれば日頃の御恩を報ぜんと、口には出さねどいななくは、かの壇渓渡りし時劉備玄徳の危難を救いたる、的芦にも劣らぬほどの名馬なり。(拍手)
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中にはぼうぜんとしていらっしゃる方が何人もいらっしゃいます。今、文句はお分かりになりましたか。これを最初に教わるのです。日本語って何と難しいのだろうと思いました。これは佐野源左衛門常代が栃木県佐野の庄から鎌倉にこれから一気に駆け下りて行くのです。「いざ鎌倉」の語源となった『鉢の木』の物語です。
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 ここ鎌倉街道松本富田あとになし急げば古賀の宿よりも続く中田の渡しも越え、急ぐに急ぐ利根川や坂東太郎と名も高き八十八河の落ち合う所、一時にざんぶと押し渡る、日光山の雪とけて降り続きたる春雨に水量まさり水勢は天に轟き地に響き瀬枕たったる激流を物ともせざる常代の馬術。前足流れんとなせば後輪にかかり後足沈まんとなせば前足を沈め、流木蹄を払わんとなせば鞭をもって払いのけ、川水に浮かぶ姿の果にこそ君がためにと濡るる腹帯、弓矢八幡凡天帝釈守らせ給うやかたじけなしと、難なく手綱を栗橋の駅にぞ駒を乗りあげて常陸名代の筑波根を左手(ゆんで)に見なして行くほどに、一足ごとに杉戸宿、幸手大沢越谷の宿も夢かや草加宿、千住豊島や千代田村、江戸村越えて品川の宿より長き大森や荏原橘の国境、六郷早瀬を乗り切って川崎宿と生麦の、君に鶴見の討ち死にと急ぐ程が谷戸塚宿。紫の雲路に続く藤沢と乗り込み来たる静か山。ここにて駒をとどめたり。柳の都鎌倉表に駆け付けみれば、街はしいんとして太平無事の様子。「あなうれし、君がためにと弓取りのかねて覚悟の鎌倉の山」、「埋もれ木の浮世の塵と朽ち果てて死出の山路に今ぞ花咲く」、口ずさむは源左ヱ門常代さすがに文武両道に秀でし者でございました。これより最明寺殿時頼と佐野源左衛門常代が晴れて主従の対面をいたします。
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 謡曲で有名な『鉢の木』のうち「いざ鎌倉」と「源左衛門駆け付け」の一席でした。(拍手)

 ちょうど残り30分になりました。寄席では、次の方にきちんとお時間を渡さないといけません。それが10分でも7分でも、次の方の時間をいただくわけにはいかないので必ず時計を見ながら進めています。
 では、修猷館の学校の歴史はもう皆さんご存じだと思うのですが、繰り返しになるかもしれませんが、黒田如水からちょっとだけ語らせていただきたいと思います。
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 福岡藩の藩祖黒田官兵衛は、軍師として優れた情報収集能力と類いまれな外交手腕で戦国乱世を生き抜いた人物でございます。乱世にて文を忘れず治世にて武を尊ぶとあるように、福岡藩は一貫して文武両道の教育を推し進めてまいりました。七代藩主黒田治之の遺言により天明4年1784年、二つの藩校が設立されます。朱子学をいただく東学問所修猷館と陽明学をいただく西学問所甘棠館、この天明4年は志賀島で国宝の金印が発見された年です。その鑑定で一躍全国に名を知られることになる亀井南冥が西学問所甘棠館の館長を務め、東学問所修猷館の館長は竹田定良でございました。11歳以上の藩士の子弟は全員入学を義務付けられました。やがて寛政異学の禁で亀井南冥は失脚し、東西の学問所が一緒になって修猷館となり、南冥の教えは受け継がれていきました。幕末の動乱期を経て、明治4年、廃藩置県で藩校がなくなるや、修猷館も87年に及ぶ歴史を閉じることとなったのです。
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 さあ、ここを頭に置いておいて、これから金子堅太郎を聞いてください。

■講談:金子堅太郎

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 昭和17年5月16日、太平洋戦争のさなか、新聞にある人物の死亡記事が大きく掲載されました。一片の私利私欲なく国を愛し、故郷を愛し、人を愛し、ひたすら報恩に生きた、その偉大なる足跡を報じるもので、敵国アメリカの代表紙がこぞって「アメリカ大統領の友人逝く」と報道した国際人こそ金子堅太郎でございます。明治憲法を起草し、日露戦争の講和に尽力した金子堅太郎は明治・大正・昭和の激動の日本を、和魂洋才、日本人の魂を持って西洋の知識学問を学ぶことで牽引(けんいん)していきました。金子堅太郎はあのペリー艦隊が浦和に現れた年、嘉永6年1853年の2月4日、福岡藩士で足軽の金子清蔵の長男として、早良郡鳥飼村に生まれました。そこは下級武士が住む村で家の壁が竹で編んだだけの粗末な壁だったことから、チンチク壁とばかにされておりましたが、教育熱心な父は幼いころから堅太郎を私塾に通わせます。「栴檀は双葉より芳し」の例えどおり、一を聞いて十を知り、十を聞いて百を知り、百を聞いて千万、億を知り、奥の隣は台所。これは私の家の間取りでございます。(笑い)11歳で藩校修猷館に入学、体はあまり丈夫ではありませんでしたが、とにかく知識欲が旺盛で、黙々と勉学に励み、その秀才ぶりは際立っておりました。
 15歳で元服した慶応3年は、大政奉還、王政復古となり目まぐるしく世の中が変わってゆきます。やがて明治元年、父がお酒の飲み過ぎが元で亡くなり、16歳で家督を継いだ堅太郎に母は毅然としてこう伝えました。「お父様はお酒のせいで早死になさったのです。おまえはこのことを生涯忘れてはなりませんよ。私はこれからは、母ではなく厳しい父となって、あなたたち4人を育ててまいります」。「はい、分かりました。お母さまの教えに従います」と堅太郎が答えますと、母はぽろぽろと涙を流しました。この母や祖母、3人の弟、妹たちのために働かなければならない堅太郎でしたが、藩からいただいた職は、侍以下の銃手組。二人扶持六石では家族6人が暮らしていけません。家にある骨董品を全て売り払い、何とか糊口をしのいでおりましたが、翌明治2年3月、藩より呼び出しがあり、行ってみると藩校修猷館での成績優秀が認められ、位は侍に昇格、また秋月藩に留学を許され、さらに明治3年には東京の昌平校への留学が許されます。
 母は涙を流して喜びました。「ありがたいことでございます。まさに学問は身を助く、くれぐれもお酒に親しむことがなきよう、また、悪所通いもいけませんよ」と釘を刺す。堅太郎は母の言葉を守って昌平校でもわき見もふらずに勉学に励み、教授に堂々と意見を述べるほどに頭角を現したのですが、翌明治4年、廃藩置県となってしまいます。「ああ、藩がなくなれば、藩からの学費援助がなくなってしまう。もっともっと学びたかあ。これからは諸外国と張り合えるだけの語学が必要だ。どげんすればよかろう」。「有志在途」、志あれば道あり、これは堅太郎の座右の銘の一つですが、求めよさらば与えられん、やはりチンチク壁の出身で、黒田藩第一回留学生として米国留学を果たし、今では司法省判事となっていた平賀義質の学僕となる道が開かれます。
 平賀先生のかばんを持って、昼は司法省へお供し、夜は先生より教えを受けておりましたある日、「金子くん、今日までご苦労さんだったね。もうここには来なくていいよ」。「え、僕は首ですか」。「ははは、そうじゃない。実は今度欧米に行く岩倉使節団に黒田長知公が参加されるのだが、そのお供に、金子君、きみと団琢磨くんを、推薦しておいたから。米国留学だよ」。「え、アメリカへ」と、棚から牡丹餅のような話です。急ぎ赤坂溜池の黒田邸に行ってみると、長溥公が慈愛に満ちたお顔で出てこられ、「金子くんだね。今回の旅は息子の長知の随行ではなく、同行です。学業の友として同行をお願いしますよ。学資は黒田家より全て出します。何年かかってもよいから何か専門の学問を修めてきなさい」。「はっ。かしこまりたてまつりまする」。この時、金子堅太郎18歳。
 かくして明治4年11月12日、青雲の志を胸に岩倉使節団107名の1人として金子堅太郎が乗り込んだ汽船アメリカ号は、横浜港を出港。船には明治新政府の要人たち、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、そして伊藤博文も乗っており、女子留学生の山川捨松、津田梅子の姿もありました。アメリカでの留学先はボストン、団琢磨と共にアップルトン街に下宿してライス・グラマー・スクールという小学校に通います。小学生と一緒に学び、3年後の卒業式では卒業生代表で演説するほどに英語は上達したのですからさすがです。
 その間に淡い初恋もありました。避暑地スプリングフィールドで紹介されたキャリイ・アベイ嬢と、2週間の滞在中、ダンスを毎晩のように踊りました。キャリイ嬢は明るくてはきはきとした美人。小野小町か照手姫、見ぬ唐土の楊貴妃か、普賢菩薩の再来か、はたまた神田紅か!(拍手)  これだけは言わないと気が済みません。(笑い)今のように張り扇を三つたたいたときには盛大な拍手をお願いしたいと思います。とんとんとんとたたきますが、「拍手ちょうだい」という意味です。
 その魅力にぐいぐい引き付けられていきましたが、別れの時がやってきて「キャリイさん、この2週間、あなたのおかげで本当に楽しく過ごすことができました。ありがとう」と彼女に母親からもらった博多織の紙入れをそっと渡しました。貧しい留学生だった堅太郎にはそれが精一杯のプレゼントだったのでございます。

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  ボストンに帰ってからは、彼女のことは封印して「艱難汝を玉にす」を自分に言い聞かせ、ひたすら刻苦勉励の日々。学資は全て黒田家が出してくれていたので堅太郎自身は大丈夫でしたが、福岡の実家では、下の3人の子供たちを学校に通わすために、母は家を売り払い長屋住まいで内職をしておりました。  明治9年ハーバード大学ロースクール法学部に見事に合格、同窓生には小村寿太郎やセオドア・ルーズベルトがおりました。このころ堅太郎はボストンの社交界にも積極的に入り込んでアメリカ人の友人をたくさんつくり人脈を広げておりました。アメリカでの8年が過ぎ、明治11年ハーバード大学を見事な成績で卒業して日本に帰国。母の喜びはひとしおでしたが、ハーバードで法律を修めてきても新政府には就職口はなく、東京大学予備門で英語や歴史の教鞭をとって暮らします。給料は80円でしたので、やっと郷里福岡から母と弟たちを呼び寄せ、初めて一家を構えることができました。  間もなく元老院に採用され、権少書記官官僚へのスタートを切ったのが27歳。そろそろ結婚という話になります。母が「私がお嫁さんを選んであげますからね」と青森県令・山田秀典の次女、弥寿子さんを手元に引き取って、金子家の家風や家事一切を教え、16歳になるのを待って結婚を許します。母思いの堅太郎ですから、初恋の女性、キャリイ嬢のことは心の奥底にぐっとしまい込んで、弥寿子さんを生涯の妻とし、麹町六番町に新居を建てて、一番日当たりのいい部屋を母の隠居部屋にいたしました。  そして、いよいよ参議の伊藤博文から声が掛かります。「わが輩の秘書官になってくれぬか。わが国にふさわしい日本国憲法がどうしても必要なのだよ。金子くん、きみの力を貸してくれたまえ」と頭を下げられ、秘書官を引き受け、憲法草案に取り組むこととなる。32歳。  明治18年12月、伊藤博文が最初の内閣総理大臣となるや堅太郎は総理秘書官となり、黒田長溥公に申し出て、藩校としてはなくなっておりましたあの修猷館の再建に奔走いたします。黒田家が費用を出して、福岡県立英語専修修猷館、のちの中学修猷館がこの時再興されました。(拍手)再興されてなかったらこの場もなかったということですよね。  明治21年春、伊藤と金子ら4人で憲法草案をまとめ、翌明治22年2月11日発布。37歳となった堅太郎は、大日本国憲法が施行されるまでの1年半の猶予期間にアメリカや欧州の大視察旅行に出かけました。この時、友人の紹介でハーバード大学の同窓、セオドア・ルーズベルトに会いました。ルーズベルトは5歳年下の32歳。第二次世界大戦の時のアメリカの大統領のフランクリン・ルーズベルトとは遠い親戚にあたります。当時、セオドア・ルーズベルトは行政改革委員長を務めており、会った瞬間から2人には相通じるものがありました。「日本は素晴らしい国ですね。武士道、忠臣蔵、私大好きでーす。あなたできますか」。「できます。『会稽山に越王が、恥辱を雪ぐ大石の、山と川との合言葉、末代めでたき武人の鑑』いかがでしょう」。「ワンダフル。誰に教わりましたか」。もちろん神田紅様です」(拍手)  すみません。ここだけ私のつくったところです。(笑い)  堅太郎は、明治23年帰国後、日本法律学校、現在の日本大学の初代校長に就任。和魂をもって学問の基本となし、漢才と洋才によってこれを実践応用すれば完全な学問と言えるだろうと。さらに専修大学創立、慶応義塾大学法学部開設にも尽力いたします。  ところが明治27年、日清戦争勃発。堅太郎は、農商務省次官に任命され製鉄の必要性を強く説き、官営製鉄所を八幡につくることを決定いたします。明治31年農商務大臣就任。明治33年、司法大臣に就任、48歳。そして男爵の爵位をちょうだいいたしました。  自宅で病の床に伏していた堅太郎の母は、「息子が大臣になり華族さまにまで列せられた。もう思い残すことは何もなか」と眠るように冥途黄泉へと旅立っていきました。  ところが明治37年、ついに日露戦争勃発。枢密院議長となった伊藤博文から至急渡米するようにと頭を下げられます。「きみにこれからすぐにアメリカに行ってもらいたいのだ」。「はっ、いかなるご用でございましょうか」。「すぐにアメリカに行き、大統領に頃合いを見計らってこの戦争に介在してもらいたいのだ」。「お言葉ですが、アメリカは今、ロシアと友好関係にあります。経済的にも強いつながりがあり、私の力では、とても・・・」と正直に答えると、伊藤は顔色を変え、「きみ以外に、この任務が果たせる者はおらんではないか。ルーズベルトと腹を割って話せるのはきみしかいない。アメリカを取り逃すわけにはいかないのだ」。「しかし不首尾に終われば国家存亡にかかわるかと」。「私はわが国のために、最後の一兵卒となっても戦うつもりだ。きみも命をかけてくれ」。伊藤のこの言葉を聞いて、もう引き受けるしかないと思っているところへ、総理大臣の桂太郎がやってきて「金子くん、引き受けてくれるなら特命全権大使でも枢密顧問官でも、きみの望む官職を与えよう」。「いえ、桂さん一切必要ありません。無冠の一日本人として切り込みます」。「ならば新聞社を買収するのに費用が要るだろう」。「それもお断りします。新聞に対してはどの社にも誠意をもってあたります」ときっぱり。家に帰ると妻の弥寿子には「今度の任務は、1年続くか2年続くか分からん。私もアメリカで命を落とすやもしれん。皆を頼む」。「はい、承知いたしました」。  と、そこへばたばたと書生が飛んできます。「た、大変です。今こちらに皇后さまがおいでになるそうです」。「何、昭憲皇后が・・・。何という名誉。明治天皇の皇后さまが直々にお励ましにおいでになろうとは。堅太郎はさらに身の引き締まる思いで身命を賭して、5度目の訪米をいたしました。  明治37年3月52歳の堅太郎は、ワシントンでルーズベルト大統領と14年ぶりの再会です。ホワイトハウスに行くと、大統領はお取り巻きの中から走り出てきて「ミスター金子、なぜもっと早くこなかったのでーす」と肩を抱くようにして堅太郎を執務室に連れていきます。「私の局外中立の布告は知ってますね」。「はい」。「ロシア大使からの圧力で、アメリカは中立にしなければなりませんでした。でも日本必ず勝ちます」。「えっ、なぜですか」。「日本、勝ちます。いや勝たせなければならないのです。日本必ず勝ちます」。握手をしながら、口に指を当てて、「これは口外はいけませーん」。「ミスタープレジデント、感謝申し上げます。ありがとうございます」。勇気百倍の堅太郎。それから肩書のない一人の日本人としての広報活動が始まった。あっちでもこっちでも名士が集まると聞けば出掛けていき、日本人の真摯な国民性をアピール。  とこうするうちに新聞には「日本人は崇高な精神と思想を持ち、それを静かに実践し得る民族である」と称賛され始める。中でも、大盛況だったのは、母校ハーバード大学での2時間15分にわたる講演でした。

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「極東の現状」という題で数千人を前に、大声で訴えるのではなく、聴衆に悟らせるように切々と語ります。「わが国日本は、国際法に違反したことは一度もありません。ロシアとの戦争は宗教戦争でもないのです。数年前から日露の関係は悪化し、このまま行けば、遠からず、わが国は大国ロシアに滅ぼされることでしょう。このまま黙って滅ぼされるくらいなら、むしろ進んで剣を取り、戦ったほうがよいというのが、わが日本人の決死の覚悟なのでございます。お国のためならたとえ最後の一人になっても戦うのです。日本人はそういう国民なのです」と、アメリカで言うアンダードッグ、負け犬に同情する、いわば判官びいきの感情に訴えていきました。
 また何度も暴漢に襲われそうになりましたが、アメリカの警察から「ロシア大使には護衛が付いていますので、あなたにも護衛を付けましょうか」と言われた時に「護衛は要りません。わが命がアメリカ5千万人の同情に代わるならば私は喜んで死にましょう」と堂々と言ってのけたというのですから、その潔さに、次第に世論は日本に傾いてまいります。
 1年半の間に180回以上のスピーチと新聞への投稿を繰り返し、ロシアびいきだったアメリカ国民の80%をものの見事に日本へ友好的にならしめることができたというのですから、金子堅太郎の面目躍如でございます。(拍手)
 スプリングフィールドでの講演会の時、観客の中に、留学生の時の初恋の人、キャリイ・アベイ嬢の姿を見つけます。三十数年ぶりに楽屋で再開した堅太郎に、彼女はあの時の博多織の紙入れを見せながら「堅太郎、スピーチとても素晴らしかったです。あなたはきっと何かを成し遂げる人だと思っていました。私も日本を応援します」と語りました。堅太郎はぼろぼろになった紙入れを見て「キャリイさん、長い間、これを大事にしてくれていたのですね。ありがとう」と深々とつむりを下げました。
 明治38年5月最強を誇ったロシアのバルチック艦隊が全滅するや、今だとばかりルーズベルト大統領が講和の仲介を取り、9月5日小村寿太郎がアメリカのポーツマスで講和条約調印、日露戦争終結。
 この功績により、翌明治39年、アメリカ人として初めてルーズベルトはノーベル平和賞を受賞。金子堅太郎は子爵となりました。57歳。私が今日あるのは、8年間もアメリカ留学をさせてくれた黒田家のおかげだ。何とか恩返しをしたいと、歴史家でもありましたので、『黒田如水伝』700ページを書き始め、63歳の時に黒田家に上梓いたしました。しかしわが国は日露戦争の勝利でサハリンの南半分は譲渡されましたが、ロシアからは何の賠償金も取れなかったことから、国内での不満が沸騰し、明治42年、伊藤博文はハルビンの駅で韓国人の暴漢に暗殺されてしまう。がっくりと肩を落とした堅太郎に追い打ちをかけるように、大正5年、妻の弥寿子も51歳で亡くなってしまいます。悲しみの中、日米協会の初代会長に就任して、アメリカとの友好に尽力いたしましたが、大正8年、盟友ルーズベルトも心臓発作でこの世を去る。やがてアメリカは次第に排日に傾いてまいります。
 82歳で伯爵となった堅太郎は、アメリカとの戦争だけは避けたいと願いましたが、昭和16年12月8日、日本はついに太平洋戦争に突入。翌昭和17年5月17日、金子堅太郎はその戦争の結末を見ずに89歳でこの世を去っていきました。その最後の日まで日米の講和を願い続けていたことは言うまでもありません。敵国となったアメリカのニューヨークタイムズは、その逝去を悼んで「大統領の友人、金子伯爵逝く。平和の唱道者」と報じたそうでございます。
 一片の私利私欲なく国を愛し、故郷を愛し、人を愛した真の国際人、金子堅太郎の一席は、これをもって読み終わりといたします。(拍手)

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 私は金子堅太郎という人を名前しか知らなかったのです。伯爵とか子爵とか、そういうことで勲章をぶら下げた偉い人だと思っていましたら、本当に下級武士の子供で、貧乏の中からそのような国際人として大活躍したということで、この方の存在がなければ、修猷館の復活は本当になかったのです。それから黒田家がお金を出してくれたということもあります。最初は英語の学校だったのだそうですが、そういうかたちで修猷館が復活して今日まで綿々とその歴史をつないできたということで、金子堅太郎を忘れてはいけないなとつくづく思いました。皆様いかがでございましたでしょうか。(拍手)
ありがとうございました。

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■大須賀会長あいさつ

 ○大須賀 今日は学士会館が演芸場になりました。修猷館の歴史や国語の先生がけっこう名調子で話をされていましたが、なるほどなと思うぐらいでした。今日のような調子で歴史を学んでいれば、よく頭に入っただろうと思います。本当に講談というのは素晴らしい芸です。
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 金子堅太郎は修猷館再興の恩人です。昭和11年に修猷館で講演した時に、館長さんが「修猷館の生みの親です」と紹介されたら、金子堅太郎が、「それよりも、修猷館が私の生みの親なのです」と答えたという記録が残っています。本当に修猷館と金子堅太郎、改めて今日はいいお話を伺いました。何も講評することはありません。これからぜひ講談界のますますの発展を祈念して今日のお礼にします。ありがとうございました。

(終了)

nimoku630_12.jpg(講師神田紅さんの同級生と開演前の一枚。このあと会場は約150名で埋まりました)