第593回二木会講演会記録

『登山で見る世界観』

講師:栗秋 正寿 氏 (平成3年卒)

■講師紹介

○入江 栗秋くんは、1972年に福岡に生まれて、中学までは大分県日田市で育ちました。私は高校の山岳部で彼の1年先輩になります。最初は優男に見えたのですが、私が合宿で40?の荷物を持って歩いて自慢していたら、翌年には彼は50?の荷物を持って楽々と歩いていましたので、当時から相当な猛者だと思っていました。進学した九州工業大学の山岳部在籍時の1995年7月に北米大陸最高峰のマッキンリーの登頂を果たしました。そして1998年3月には日本人で初めてマッキンリーの冬季単独登頂・生還に成功しました。これは世界では4人目の記録で史上最年少ということです。この後に彼はリヤカーを引いて1人でアラスカをほぼ縦断の旅をしています。その後は冬のアラスカに挑み続けて、2007年3月、4度目の挑戦で二つ目のフォレイカーの冬季単独登頂に成功しました。これは世界で初めての登頂です。2011年2月には第15回植村直己冒険賞を受賞されています。そして現在はアラスカ3座の残りの一つのハンターの冬季登頂を目指して活動中です。

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 だれが見ても冬季アラスカ登山の第一人者と思われているのですが、彼は自分のことをアルピニストと呼ばずに「山の旅人」と称しています。これは興味深いことだと思います。

■栗秋氏講演

○栗秋 平成3年卒で現在40歳です。今日は冬季アラスカ山脈を垂直方向へ移動する「垂直の旅」とアラスカ縦断1,400kmという「水平の旅」、垂直と水平の旅をご紹介させていただきます。15歳で登山を始めて25年間経験してきたものを、1時間に凝縮して精いっぱいお話しさせていただきます。

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■垂直(思考)の旅

 アメリカのアラスカ州の地図を見ると、マッキンリー、フォレイカー、ハンターの三つの山がほぼ三角形に位置しています。ここで私が最大の目標にしているのがハンターという山です。北米最高峰のマッキンリーは標高6,194m、フォレイカーは5,304m、ハンターは4,442mですので、この中では低いのですが、登頂するのはマッキンリーよりフォレイカーのほうが難しく、そのフォレイカーよりも標高は約1,000m低いハンターのほうがもっと困難な山です。同じような標高では、北米の中で最難とされています。

 このハンターに今年で7度目の挑戦をして、そして目下7連敗中です。2010年度5度目の冬のハンター登山のときの写真で紹介します。このときはトータル83日間の単独行でした。タルキートナからチャーターした軽飛行機で約1時間の標高約2,200mのカヒルトナ氷河のベースキャンプに入ります。持ち込んだ登山の装備は総重量150?を超えています。ここからその荷物を小分けにして、雪山・氷河の世界をたった1人で何往復もしながら荷揚げをしていきます。

 ベースキャンプからキャンプ1までは、山スキーとそりを引いて5往復しています。1往復は1日がかりです。キャンプ1とキャンプ2の間は標高差で500mあり、10日かけて10往復して荷揚げをしました。そしてキャンプ2からキャンプ3までは8往復しました。そしてキャンプ3から尾根に出たところは4往復しています。

 平坦地のベースキャンプとキャンプ1ではすべてテントを立てていますが、それから上部のキャンプは風対策として雪洞を自分で掘っています。

 駄作ですが、登山中に句をつくっています。

「頂は すぐそこに見え 遥かなり」。

 最終キャンプには3週間の食糧と燃料を持ち込みました。このときは、今回はチャンスがあると意気込んでいたのですが、結果的には最終キャンプの雪洞で16日目に悪天候のために断念しました。山頂まであと一歩でしたが、入山67日目に断念することを決めました。

 ところが下山を始めて数日で思い切り天候が回復しました。しかもその天気は1週間以上続きました。そのとき 「もう数日 早く晴れれば ひょっとして」 という句を詠みました。このときは天気が良ければ最終キャンプから一気に山頂を目指す計画でしたから複雑な心境でした。私も人間ですから悔しい思いもありましたが、ただこのいい天気が私の下山を無事に支えてくれているのだ、と言い聞かせて下山活動に専念しました。

 中央アラスカ山脈ではオーロラを見ることができます。それは極地にあるからです。個人的な話ですが、私は、何十日間も冬のアラスカ山脈に登山してベースキャンプに戻ってきても、条件が揃えばこんなにすばらしい世界にまだいたい、まだオーロラを見たいと後ろ髪を引かれるような思いでいました。現在は子供が2人いますが、子供ができてからは心境の変化がありました。ベースキャンプにたどり着いたときの句です。

「父(パパ)になり 早く下りたい 吾に驚く」。

 これまでは、結婚した後でも、もっと山にいたいという思いでしたが、子供ができると我に帰ったと言いますか、こんなに危険なところからとっとと帰りたいという心境に駆られ、それに私自身が驚きました。

 余談ですが、前回、長女が4歳のときに保育園で先生に、「お父さんの山ぼのり(山のぼり)が終わったよ」と突然言ったそうです。それを聞いた妻は「まだ早すぎる」と思ったそうですが、時差がありますけれども、それは私が「やめよう」と決めた日とほぼ一致していました。私の話には結論はないのですが、ただこのエピソードの結論をあえて申し上げると、親子の深い絆を感じつつ、やはり夫婦というのは他人なのかなと思いました。(笑)

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 この2010年の挑戦の後、植村直己さんの故郷の兵庫県の豊岡市が主催している「植村直己冒険賞」をいただきました。その知らせをいただいたときは、成功していないのになぜと思いました。しかし、いつも冷静な判断で無事に戻ってきているところが植村直己さんの精神の継承者であるとおっしゃっていただき、それは大変光栄に思いました。

■なぜ

 私は15歳のときにたまたま「ラブストーリーを君に」という北アルプスが舞台の邦画を見て、その景色に感銘を受け、入学した修猷館の山岳部から登山を始めました。

 修猷館山岳部では夏に北アルプスの槍ヶ岳を1週間かけて30?、40?の荷物を背負って縦走しました。そのために、学校から愛宕神社や小戸公園までランニングしたり、福岡近郊の若杉・三郡・宝満のいわゆる三郡縦走というかなりのアップダウンがある二十数?の距離を、荷物を持って歩くハードな訓練をやっていました。れんがや砂袋や鉄アレイを入れて重いリュックをつくります。高校2年のときにチーフリーダーになって、51?という当時の私の体重と変わらないぐらいのリュックを背負って、6月の土砂降りの雨の中を、十数名の隊のチーフリーダーとして最後尾に付いて、リュックをかついで、ばてている1年生の面倒を見ながら1泊2日のボッカ訓練をした思い出があります。私もへとへとでしたが、そのときの経験が後々のアラスカ単独行での150?とかの荷揚げにつながっていると思っています。

 なぜアラスカなのかという理由ですが、前々からアラスカに憧れていたわけではありません。海外の氷河の山に行ってみたいと実現可能な山の情報収集をして、身近な方がマッキンリーに何度も行かれていて、情報を集めて行く中で最も実現可能なのがマッキンリーではないかとなったのです。

 95年の初めての夏のマッキンリーで、私は大きな衝撃を受けています。スケールの大きさとか山の神々しさ、そして入山前と下山後に、わずかですがアラスカの地元の方との触れ合いがあり、この経験は1度だけでは終わらせたくないという思いからアルバイトで資金を工面して、アラスカの山に行こうと部会で提案しました。当時の私は九州工業大学の大学院を1年間休学していて、私が一番年上だったのですが、残念ながら私と一緒に行こうとういう後輩はいませんでしたので、結果的に1人になり、96年からアラスカの単独行が始まりました。

 96年には、ハンターとフォレイカーにトライしました。この二つのトライは条件が悪く登頂はしていませんが、夏にはとても想像すらできない冬の厳しい山を経験しました。その中で冬山に対する恐れが次第に興味へと移り変わっていき、97年2月に冬のマッキンリーを計画しました。

 私の初めての冬のマッキンリーは97年です。このときは山頂まであと千メートルを残して断念しています。 そして2度目の冬のマッキンリーは98年です。3月8日午後1時6分、幸運なことに2度目の挑戦で、北米最高峰の頂に冬に登頂することができました。

 このマッキンリーの冬季単独登頂に成功したときに、アラスカ3座の残りのハンター、フォレイカーも同じようなスタイルでやってみたいと思い、99年以降はそのトライをやっています。99年にフォレイカーに登頂しましたが4月3日でした。そして2001年も3月31日に登頂しましたが、残念なことに二つの登頂ともに春分の日を過ぎての登頂でしたので、冬季登頂とは見なされませんでした。それで懲りずに2002年に3度目のフォレイカーに出掛けましたが、この年は記録的な暖冬で、山のコンディションが悪く早々と断念しました。

■登山スタイル

 氷河を遡行するときのスタイルは、氷河の深い裂け目(クレバス)の中でも登山者には判別ができないヒドン・クレバスの転落防止用に、腰の左右に4.2mのアルミ合金のポールを付けて、そして深い雪に対応するために山スキーをはいて、氷河の平坦地であればちょっとしたアップダウンがあっても荷物を楽に運べるようにそりを引いています。

 大量の荷物を持ち込んでベースキャンプから何往復もしながら登っていきます。これは登山用語でカプセル・スタイルと言います。北極圏に程近い山で、特に冬に天気が荒れると、1週間2週間と連続して地吹雪とかブリザードとかが吹き荒れます。どの場所にいてもその悪天候を無事にやり過ごしかつ登山を継続しようと思うと、大量の荷物を少しずつ下から運び上げて雪洞の中に入って避難する「カプセル・スタイル」という登山スタイルになるのです。

■生活技術

?雪洞

 日本山岳会がマッキンリーの山頂直下で20年以上にわたって気象観測を行っています。それによると、95年2月にマッキンリーの山頂直下で、秒速50mを超える風が7時間半にわたって吹いていたという、ものすごい記録が残っています。そのようなときに尾根上にテントを張っていたらひとたまりもありません。その風対策として、テントではなく雪洞を設けます。立膝が付ける程度の高さで、2畳ほどの広さです。そして入口はできるだけ下にして、下から上のほうに掘っていきます。そうすると温まった空気が逃げにくいという利点があります。煙突は必ず付けます。どうしても食事やお湯を沸かすときに火を使いますから、新しい空気を絶えず取り入れて、一酸化炭素中毒に細心の注意を払っています。

 私はこれまでに1週間2週間と連続して猛吹雪で雪洞の中に閉じ込められたことが何度もあります。そういうときに登山日誌に、これまで出会った景色などの俳句を詠んでいます。

「大雪崩 ギアのみならず 士気も消ゆ」。

マッキンリーの南の壁の落差1,600mの大雪崩がありましたが、そのとき私が埋めていたクライミング・ギアがすべて吹き飛ばされて、行方不明になりました。それが要因で登山を断念したというのが2006年のマッキンリー登山だったので、こんな駄作を詠みました。

 他にはこんな句も詠んでいます。

「雪原に 赤旗の花 風に揺れ」。

これはキャンプの目印の長さ2mの竹の旗のことです。そして

「雪洞に ハーモニカの音(ね) 谺(こだま)する」。

そして氷河の深い裂け目、クレバスについて

「クレバスを 踏み抜く刹那 母の顔」

という句を詠みました。

97年の私にとっては初めて冬のマッキンリーに出発する前夜、自宅で準備をしていたら、母親から「あなたを産んでいないつもりで待っているから」と言われました。返す言葉がありませんでした。

「マッキンリー オーロラ舞うや 夢うつつ」。

このように長い停滞のときは、雪洞で1人駄作を詠んでいます。

?食事

 食料は1日1?に抑えていますが、それでも4,000から4,500キロカロリーを摂取します。ほとんどがドライフーズですが、米やパスタや麺類とか、主菜、副菜、汁物、甘味類の十数種類で、できるだけ変化をつけるようにしています。それから水は欠かせません。1リットルのお湯をつくるのに雪を火に掛けて20分から30分かけて溶かします。朝方と夕方と1日2回、2時間から3時間ずつ、つまり1日4時間から長い時は6時間、ひたすら水をつくっています。それも新雪の粉雪ではなく、できるだけ水分のあるざらめ雪を取って燃料を節約できるように、そしてわずかですが時間も短縮できるように工夫しています。

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 排泄については、デナリ国立公園では「CMC」という簡易トイレを配っていて、登山する際には必ずこれで用を足して排出物を持ち帰るようになっています。ごみはすべて持ち帰りですが、現在では排出物も持ち帰りとなっています。それは登山者が口にする水はすべて雪を溶かしていますから、そこら中に用を足すと衛生上の問題が起こるからです。

 このように環境が厳しければ厳しい程、そして登山が長期になればなる程、生活技術が重要になってきます。過酷な環境の中でも雪洞の中でリラックスをして快適に過ごせるようにしなければ八十何日間も人間はもちません。そのためには生活技術が欠かせません。生活技術で登山の成否が決まると思っています。

■頂上アタック

 最終キャンプからアタックに出掛けるか出掛けないか、そして、ベースキャンプとかキャンプ1とか下のほうのキャンプでも、今日が行動日なのかそうではないのかという判断基準については、私は三つのことを心掛けています。一つは絶対的な条件ですが、天気やルートが登山可能なのかどうかです。二つ目は物理的というか身体的なことですが、けががないのか高山病はそれほどひどくないのかということです。三つ目はメンタルで、行けるという踏ん切りがついているのか、心身ともに充実しているのかということです。この三つが揃わなければ私は絶対に動きません。

 冬季としては14回目が今年で終わりました。もう少しで冬のアラスカに2年間滞在したことになります。「一体あなたは何をしに行かれているのですか」とよく聞かれますが、「私の仕事は待つことです」と即答します。登頂を目指して登山をしているのですが、私の仕事はいいチャンスが訪れるまでひたすら待つことです。

 2007年のフォレイカーでは入山39日目にようやくアタックできそうな日が訪れました。 アタックを決断した後の行動中にも、三つのことを心掛けています。一つは登山をしているペース。二つ目は天候悪化の度合い。そして三つ目は、もし先に進んだときに無事に帰ってくることができるかどうかです。この三つを常に計算しています。幸運なことに4回目の挑戦で、2007年3月10日午後5時3分、最終キャンプから9時間15分かけてようやく山頂にたどり着きました。フォレイカーの山頂というのはどこが山頂か分からないような真っ平らです。登頂時の気温はマイナス45度で、それに少なく見積っても秒速10mから15mのつむじ風が吹き荒れていましたので、体感温度はマイナス70度以下でした。やっとの登頂でしたが、時間が遅いこともあり、滞在時間はわずか10分で頂上を後にしています。山に感謝、そして私の山旅を支えてくださっている日本の多くの方に感謝の気持ちでいっぱいでした。

 無事にフォレイカーに登頂しましたが、この後に大きな失敗をしています。3時間半かけて標高を随分と下げたのですが、そこで日が落ちました。暗闇だけだったら無事に帰れる計算だったのですが、標高を下げれば下げるほど風速が増しました。状況が良ければ1時間で戻れるのですが、結局、最終キャンプには戻らずに、そのまま緊急措置として雪洞を掘りました。9時間15分かけて頂上に立って、頂上に10分、そして3時間半かけて下り、そこから更に3時間半かけてひたすら小さな雪洞を掘りました。その雪洞に着の身着のままで入りました。温度計はマイナス29度を指していました。食糧・燃料など非常用のものとスコップは持っていっていました。

 猛吹雪の中、ひたすら雪洞を掘っているとき、オレンジ色の光がぼやっと浮かんで見えたのですが、それはフォレイカーから南南東に220km離れているアンカレジの町の明かりでした。「あそこに生の営みがある。私はそこに戻り、その後に家族の待つ福岡に帰ろう」と思いました。そのようなこともありましたが、何とか乗り切って2007年のフォレイカーは無事に登山を終え、トータルで57日間かけてベースキャンプまで戻ってきました。

■水平(思考)の旅

 98年の冬のマッキンリー登頂後、下山してきてそのまま太平洋側のアンカレジからリヤカーで北極海側のプルドーベイまで、徒歩で縦断しました。この旅では実に多くの方との出会いがありました。トラッパークリークというところでお世話になったスーザンさんからは、以前、北に住んでいらっしゃったそうで、そこへ届けてほしいと4通の手紙を預かり、世界で最も遅いリヤカーの郵便屋となりました。  また途中の学校では子供たち相手に拙い英語の講演をすることになりました。それが終わるとすぐ次の学校を紹介され、2度あることは3度あり、そして4度目までありました。

 この水平の旅に出発する前に、旅の心得というのを自分で決めていました。それは、一つ、時速5?以上では歩かないこと。一つ、沿道の声援には必ず応えること。一つ、現地の方や旅行者の好意は素直に受け入れること。一つ、釣り場では停留して、釣りを存分に楽しむこと。これらのルールに従って旅を進めてきました。

 7月6日午後6時、3カ月と4日かけて、太平洋側から無事に北極海側のプルドーベイにたどり着くことができました。このときもマッキンリーとフォレイカーの山頂で感じたのと同じような気持ちでした。目標達成といううれしい気持ちが半分、でも残り半分は私の中での小さな夢が消えてしまったという、うれしさと寂しさが交錯していました。

 最後に登山中に「マッキンリーの夕焼け」という曲をつくっています。これをハーモニカで吹かせていただいて「登山で見る世界観」の話を終わらせていただきたいと思います。(ハーモニカ演奏)

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■質疑応答

○?? 雪洞の中や日常生活の中ではどのようなトレーニングや体づくりをされているのでしょうか。

○栗秋 雪洞で長期滞在のときは、除雪とかの仕事がたくさんありますので、体は動かしています。日々の訓練は、登山を始めた修猷の登山部のときからあまり変わっていません。それに加えて今は子供がいますので、トレーニングを兼ねて抱っこをしたりして体を使って時間を有効に活用しています。

○土肥 資金づくり、また生活はどうされているのでしょうか。

○栗秋 資金ですが、いわゆるスポンサー契約はやったことはありません。メディアへの露出が前提で必ず成功しなければならず、それを避けたいというか、苛酷(かこく)な状況の中で判断を誤りたくないのです。それが私のスタイルだと思っています。アラスカの入山料は私にとっては大金ですが、エベレストなどと比べると格段に安いです。軽飛行機のチャーター料は払っていますが、長い付き合いで特別価格にしていただいています。またアラスカでの宿泊や移動は、栗秋ネットワークができあがっていて、全部向こうの友達にやっていただいています。具体的には企業秘密で申し上げられませんが、栗秋価格で通常よりかなり抑えた価格でやっています。

 普段の生活ですが、たどたどしい話ですが、このような講演などでお伝えすることで、細々ですが何とか資金を工面しています。どこまで続くかは分かりませんが、このスタイルを貫いていこうと思っています。

○?? お仕事は「待つ」ということですが、何ゆえに「待つ」ことができるのでしょうか。もう一つは、マスコミチックに有名な若い登山家で栗城(史多)さんという人がいますが、彼の場合はかなり挑戦的に登っているように思います。一方、栗秋さんは淡々と自分を抑えながら進んでおられると思います。栗秋さんから見て栗城さんのスタイルはどのように見えるのでしょうか。可能ならお聞かせください。

○栗秋 お答えするのが難しいですが、「待つ」ということに関しては、元々性格的に耐えるということはあったのかもしれません。あるいは、結婚して更に日々忍耐力が増していったのかもしれません(笑)。それから元々登れないことが前提で登山をしています。もし登頂できればそれは奇跡に近いことだと思っています。ですから7回跳ね返されても、全然心が折れていません。最近では15年ぐらい続けて1回チャンスがあるかな、と思えてきています。

 栗城さんについて、私は、一切否定はしません。それぞれの登山家にいろいろな考え方があっていいと思っていますし、それで登山全体が活性化すれば、それはいいことだと思います。ただ一つ気になるのは、彼個人ではなく、それを採り上げるメディアのほうです。メディアがもう少し勉強して正しく採り上げてくださいと、それを申し上げたいと思います。

(終了)