第578回二木会講演会記録

『野村望東尼に魅せられて』

講師:谷川 佳枝子 氏 (昭和49年卒、旧姓・楢崎)

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○堀 谷川さんとは高校時代の3年間、剣道部で一緒でした。彼女は中学での剣道の経験がないのに高校で剣道部に入ってこられ、顧問の白木先生に鍛えられてめきめきと力を着けて、3年のときには何と地区大会で優勝争いをして県大会に出る程の腕になっていました。特に面が強くて、面一本で勝ち上がって県大会まで行っています。
その彼女が、大学時代に野村東望尼に出会い研究を始め、結婚されて子育ての間もライフワークとして研究を続けられ、今回本を出版されました。
今日は私も楽しみに参加させていただきました。

■谷川佳枝子氏講演
○谷川 高校のときは剣道部の男子とはそれ程仲が良かったわけではありませんが、今は年に2回は皆で会うぐらい親しくさせていただいています。

■はじめに
 野村望東尼(のむらぼうとうに)の名前を東京で見聞きする機会はあまりないと思いますが、「面白きこともなき世におもしろくすみなすものは心なりけり」という歌はご存じの方もいらっしゃると思います。これは上の句を高杉晋作が詠み、下の句を望東尼が付けました。数年前にNHKの「その時歴史が動いた スペシャル もう一度聞きたい あの人の言葉」という番組でランキングの1位が、何とその歌でした。これはマイナーな歌だと思っていたので私は少し驚きました。
 望東尼は300石取りの福岡藩士の娘として生まれました。博多弁で「ジョウモンのシャレモン」と言われていますから、かなりの美人でおしゃれさんだったのではないかと思います。そんな少女が晩年に勤王活動に身を投じるようになったのです。彼女は志が高く、意思が強く、そして慈愛に満ちあふれた女性でした。

■野村もとと歌の道
 もとさんは17歳で結婚しますがそれは半年で破局を迎え、24歳のときに野村貞貫(さだつら)と再婚します。彼には先妻の子が3人いました。もとは貞貫との間に子供が4人できますが、この4人は、皆、小さいうちに亡くなっています。そして先妻の子の3人にも次々と先立たれ、母として悲しい体験を積み重ねています。
 そのような彼女を支えたのが和歌の道でした。もとは大隈言道(おおくまことみち)に入門して歌の指導を受け、門人中の第一の歌人と評価されるくらいになります。
 そして、夫の貞貫の隠居に際して、福岡郊外の平尾山荘に居を移します。私が望東尼に出会ったきっかけはこの平尾山荘です。大学で卒論のテーマを何にしようかと迷っていたときに、家族で平尾山荘の隣に引っ越したのです。まさに道を挟んで隣なので2階の私の部屋からは山荘の庵もよく見え、「もしかしたら高杉晋作や平野国臣ら志士たちもうちの前の道を通ったかもしれない」と思うとわくわくしました。それで望東尼を卒論のテーマに選び、それから30年以上がたちました。
 今では平尾山荘の周りはマンションも立ち並ぶ住宅街になっていますが、当時は田んぼがあるだけで、昔の写真を見ると、十数本の松の木の中に庵がひっそりと建てられています。そこで夫と共に歌を詠んだり、いわゆるガーデニングのようなことをしたりして楽しんでいました。
 54歳のときに夫が亡くなり出家します。招月望東禅尼(しょうげつぼうとうぜんに)というのが彼女の法名です。望東尼を「もとに」と読むか「ぼうとうに」と読むかよく聞かれますが、私は「ぼうとうに」と呼んだほうがいいと考えています。

■京坂への旅
夫が亡くなって2年後に大坂と京都への旅に出ます。これは、1度は御所を見てみたいというかねてからの願いに加えて、大坂に行ったままになっている歌の師の大隈言道に再会したいという目的がありました。大坂ではその大隈言道との感動的な再会を果たしています。また京都ではいろいろな人に出会っています。ちょうどそのころは国政も乱れていて西南雄藩が中央に向かおうとしていた、本当に幕末の混沌としたときでした。京坂での半年間の滞在で望東尼は時勢に目覚め勤王の志を抱くようになります。

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■勤王の道
 望東尼が福岡に帰ってまず関わり合いを持つのが平野国臣です。彼は福岡藩の尊王攘夷派の中でも早い時期から一匹狼で行動した人で、大蔵谷回駕(おおくらだにかいが)という事件に関わったとして福岡の桝木屋(ますごや)の牢に入れられていました。望東尼は拘禁中の平野に激励の歌を送ったりしています。そのようなこともあり、獄舎から出てから3カ月間ぐらいでしたが、望東尼は彼と交流しています。その後、平野は藩命を受けて京都に上りますが、まもなく「8月18日の政変」が起こり、長州藩を中心とする尊攘派は京都から一掃されてしまいます。新撰組が志士狩りを始めたので、身の危険を感じ、但馬の国の生野に行き、やがて「生野の変」を起こします。しかしそれは3日間で鎮圧されて、彼は京都の六角の獄に入れられます。その翌年には「禁門の変」が起こり、平野国臣ら六角の獄の囚人たちは全員処刑されてしまいます。
 次に平尾山荘にやって来たのが高杉晋作です。高杉は禁門の変の後、身の危険を感じてわらにもすがる思いで福岡に逃れて来て平尾山荘に潜伏します。静かに過ごしたここでの2週間余りの滞在が高杉に新しい決意をさせ功山寺の決起を成功させたのではないかと思われます。
 平尾山荘はかつては文化サロンのようなところでしたが、高杉が潜伏して以来、勤王派の集会所のようになってしまいます。そして京都で知り合った勤王商人・馬場文英との往復書簡で東西の情報ルートを切り開きました。そういう中で、望東尼は高杉のように命からがら平尾山荘に逃げ込んできた志士たちを匿まったり、歌のやりとりなどを通じて彼らを鼓舞激励したりしたのです。

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■流罪
 福岡藩は藩主と勤王の志士たちが一丸となって幕府の長州征討回避のために奔走しますが、藩主と志士たちの間にはその期するところに大きな隔たりがありました。やがて藩主は幕府から「第二の長州」とみなされることを恐れて、ついに勤王派を弾圧する道を選びます。慶応元年6月、望東尼も自宅謹慎を命じられ、その後は実家の座敷牢に入れられます。10月に入ると「乙丑(いっちゅう)の獄」といわれる弾圧によって計100名以上の志士たちに死罪や流罪などの処分が下されました。望東尼は、老女であるからと思われますが、「格別の御慈悲」をもって死罪を免れ、玄界灘の孤島・姫島に流されることになりました。そして島の最西端にある獄舎に入れられます。その獄舎は大変粗末なもので、火の使用すらもままなりませんでした。姫島での生活はつらいものでしたが、島の人々は火を差し入れたり、家族との手紙のやりとりを手助けしたりして島での生活を支え、彼女もそれをありがたく思っていたようです。
 そのころ長州藩は幕府との戦いで奇跡的な勝利を収めていましたが、翌年の9月、その勝利の立役者である高杉は病の床に伏していました。その枕元で主治医が望東尼を救出する作戦があることを高杉に伝えます。高杉はその話にすぐに乗ります。白石正一郎というスポンサーが資金援助をして劇的な望東尼救出作戦は無事成功します。しかし、救出されて到着した下関の白石正一郎宅に肝心の高杉の姿はありませんでした。高杉は別のところで療養していたのです。

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■終焉
 望東尼は高杉の愛人のおうのと2人で高杉を一生懸命に看病します。有名な「面白きこともなき世に面白くすみなすものは心なりけり」という句はそのときのものです。上の句を高杉が詠み、望東尼に「その後を付けてくれ」と言って詠んでもらったのが「すみなすものは心なりけり」という下の句だったのです。これは望東尼自身のそれまでの体験や思いが凝縮して込められた言葉であったと私は思います。
 高杉は慶応3年4月に29歳で亡くなります。高杉亡き後、藩主をはじめ長州の人は望東尼に大変よくしてくれます。
 しかし10月の中ごろから望東尼は病の床に伏すようになります。そして死期を悟った11月6日朝、沐浴をして身体を清め、前もって自分で縫い上げていた白い着物に着替え、白い布団に横たわりました。そして夜の9時、命の終わりを自ら悟り、布団の上に正座して、辞世の句を書こうとしましたが文字にならず、そのまま前に倒れて亡くなりました。62歳でした。
 彼女を勤王活動に駆り立てた要因として、京都で直接見た時勢、いろいろな人々との出会い、また自らの肌で感じた朝廷のありがたさなどに加えて、自分が正しいと信じたことはとことん突き進む彼女の気質があったと思います。そして彼女は、自ら生んだ子供4人を亡くし、先妻の子供たちにも次々に先立たれましたが、その悲しみを乗り越えた彼女には志士たちが自分の息子のように思え、彼らを世話することが自らの使命だと考えたことが何よりも大きかったのだと思います。
 「一筋の道を守らばたをやめもますらをのこに劣りやはする」という歌がありますが、これは「女性も一生懸命やっていれば男性に負けはしない」という歌です。そのような気持ちを持った人が幕末にいたということです。私は野村望東尼のことを東京の皆さんに知っていただきたいという気持ちで今日はお話しさせていただきました。

■質疑応答
○平地 流刑地近くの芥屋の出身です。野村望東尼さんのお名前は近くの公民館に銅像がありましたので知っていました。研究されている中で谷川さんが一番印象に残った手紙のやりとりがありましたらご紹介願います。
○谷川 馬場文英との手紙は肉薄した時勢のものも多くてすごいのですが、やはり私は姫島で家族に宛てて書いた手紙が印象に残ります。中には涙でにじんだ文字もあり、それらは勤王家としてだけではなく母親としての強い気持ちが感じられ、それはいつの時代も同じだなと本当にじんと来るものがあります。

○?? 望東尼さんは後半の人生が劇的なので、多分スポットライトはそこに当たると思うのですが、若いときはどのようなお暮らしをされていたのでしょうか。歌を詠んだり普通の女性の生活だったのでしょうか。
○谷川 そうです。35歳ぐらいまで自身の子供をもうけていますし、先妻の3人の子もいましたから、家庭婦人として忙しかったと思います。その中でも和歌を一生懸命やっています。

○?? 平野国臣さんのこよりに書いた和歌はどこで見られるのでしょうか。
○谷川 福岡市の博物館に「野村望東尼資料」というのがあり、その中の「金玉文藻帖」に収められています。

○オオワダ 幕末の福岡には「人参畑のばあさん」と呼ばれていた高場乱(たかばおさむ)さんという、ちょんまげを結って刀を持って馬に乗っているような女傑がいたと思います。一方、望東尼は慈母のような優しい尼さんというイメージがあります。この2人の関係について何かご存じのことがありましたら教えてください。
○谷川 望東尼の周辺を見る限りでは高場乱との交流はなかったと思います。ただ高場乱は平尾山荘で勉強会などを開いていますので、望東尼の存在は知っていて、その生き様に尊敬の気持ちはあったと思います。

○秋本 質問が2点あります。一つは、彼女は平尾山荘に人を招いていますが、暮らし向きが裕福だったのでしょうか。もう一つは、手紙のやり取りが頻繁にあったようですが、あのころは郵便制度がそれ程発達しているわけではなく人づてだったと思うのですが、どのような人の流れの中で手紙のやり取りがなされていたのでしょうか。
○谷川 当時は歌会といってもきらびやかなものでは全くなく、例えば桜の下で花を見ながら和歌を詠んだり、お酒を飲むぐらいのものでした。この当時は藩も財政的に厳しかったですし、望東尼の生活を見ても無駄は全くありません。そういう意味では質素です。
 二つ目の質問ですが、手紙は飛脚を立てることもあったと思いますが、上京する人に持っていってもらうことが多かったようです。京都からの手紙が届くのに、だいたい一ヶ月ぐらいかかっています。慶応元年の乙丑(いっちゅう)の獄が起きる直前には、京都の馬場文英からの手紙が届かず、不安を抱いたこともありました。他人に読まれてはいけない重要なことも書いてあります。恐らくそれらの手紙は勤王派と敵対する佐幕派の手中に入ったのかもしれません。この時代、1通の手紙が届くということは大変なことだったのです。

○山本 私は西新町に住んでいて、地行のところに平野国臣の大きな石碑があり、望東尼さんのことも話には聞いていましたが、まとまってその歴史を研究されているという話は初めて聞きました。
 福岡藩は薩長土肥に囲まれていて、どちらかというと薩長土肥には遅れをとった藩だと思うのですが、その藩の中でも、幕府側に付いたり、またいわゆる天皇の側に付いたりといろいろあったと思います。そこら辺りと望東尼さんの関係はどうだったのでしょうか。
○谷川 この当時は、先行きの見えない時代で、各藩とも藩論がめまぐるしく変わります。望東尼は手紙の中で何度も「藩を超えて九州が一つになって長州を助けて世の中を何とかしてほしい」ということを書いています。望東尼のビジョンは、福岡だけにとどまらずに九州が一つになってというものだった思います。

○スズキ 望東尼はどういう病気で亡くなったのでしょうか。
○谷川 死因については、肺結核ではなかったかとか、腸チフスではなかったかとか、幾つかの説があるのですが、最期まで意識はしっかりしていましたので肺結核ではなかろうかといわれています。
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