第575回二木会講演会記録

『外科学の"これまで"と"これから"』
講 師:桑野 博行(くわの ひろゆき)氏(昭和46年卒)

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nimoku575-2.jpg○山崎 桑野くんとは当時の3年5組で一緒でした。桑野くんは名門付属中学校出身で、修猷では水泳部で活躍した涼やかな頭脳を持った秀才でした。
 3年5組の担任は、数学の山本丈先生でした。先生は海軍兵学校の教官をやっていた方で、海軍風の精神論を厳しく説く一方で、「科学的に物事を考えるリベラルな人間たれ」ということを強調されていました。山本先生が糸島高校から修猷館に転任してきた際に我々を挑発するように自ら詠んだ川柳を紹介してくれたことがあります。「来てみればさほどでもなし修猷館」。僕は我が事を言われたかと思いました。
 7、8年前に、同級生の1人が倒れて桑野くんを頼って群馬大学病院に入院しました。退院後に彼が「担当のお医者さんや看護師さんたちがみんな、『桑野先生のご友人だそうですね』と言ってとても親切にしてくれた。桑野というのは、もしかしたら偉い人間かもしれない」と言っていました。彼は残念ながら一昨年に亡くなりましたが、最初に入院したときから経過観察を経て最後の最後まで親身になって面倒を見てくれたのが桑野くんでした。

■桑野博行氏講演

○桑野 過分なご紹介をいただき、穴があったら入りたい気分です。私は、修猷館では運動と運動会に明け暮れた生活をしていただけですが、仕事を始めてからは、山本先生のサイエンスという考え方と、それからやはり「世のため、人のため」と思って今日までやってきたつもりです。
 私は主に食道外科を専門にしています。最近は桑田桂祐さんや小澤征爾さんなどけっこう有名人が食道がんになられることが多くて、テレビなどでコメントを言う機会が増えました。

■外科学のこれまで

 医療というのはいろいろな経験から発展してきています。その歴史をひも解くことは我々の立ち位置をしっかりと確認するためにも重要なことです。

1.無痛手術

 昔の外科というのは、決して上品なものではありませんでした。ジョン・コリンズ・ワレンという人の切断手術の写真が残っていますが、当時は麻酔もなく、助手が押さえ込んだ患者を術者がすぱっと切るという非常に冷酷なものでした。無痛法がない時代があったということです。そういう中で、麻酔が出てくるのが1800年代中盤です。明治維新の少し前です。
 1842年に、アメリカでロングという人がエーテルを麻酔に用いてこぶを取る手術を行ったという記録があるのですが、残念ながら彼はそれを発表しませんでしたので、最初の麻酔と認知されませんでした。
 当時は笑気ガスというのがありました。それは今でも麻酔に使われていますが、最初は麻酔のためにできたものではありませんでした。ラフィングガスのショーというのがあり、一座が見世物のために使ったのです。このショーは非常に受けたようです。これを、何とか痛みを取って抜歯ができないかといろいろ考えていたウェルズという歯医者さんが見てヒントを得ます。そして先程のワレンの弟子で歯医者のモートンと相談して、ボストンのマサチューセッツ・ゼネラル・ホスピタルのワレンのところで公開麻酔をしますが、失敗に終わります。これで彼は笑い物になってしまいます。
 ただ、このモートンという弟子がけっこう抜け駆けをする人で、もう一度、先程のワレンのところで公開手術をします。ワレンが手術をしてこれは見事に成功しました。これが1846年です。しかしその後、アメリカの世界ですから特許争いになり、訴訟合戦になってしまいます。そしていろいろな経緯があるのですが、皆、不幸な最期になります。
 その後、スコットランドのシンプソンという人がクロロホルムを使いました。これは1853年にビクトリア王妃の無痛分娩に使われて、爆発的にヨーロッパに広がりました。このクロロホルムは胃の手術の1例目にも使われています。
 このような麻酔の歴史があり、無痛法によって外科が発達していきました。

2.接触感染

 ゼンメルワイスというハンガリー人の医師がウィーン総合病院に勤務していました。この病院には二つの病棟があり、一つの病棟は主に医者がお産を扱い、もう一つは主に助産婦さんがお産を扱っていましたが、それぞれの産褥熱(さんじょくねつ)の発生率が10倍も違うことに彼は疑問を持ちます。そして、これは何らかのものが接触することによって何らかの原因が伝達されるのではないかと、彼は塩素水で手を洗う消毒という概念を提唱していきます。まだそのころはばい菌とか細菌というコンセプトはありませんが、ここで消毒ということが出てきます。彼も最期は精神を病んで、失意のまま生涯を閉じます。

3.腐敗防止

 ゼンメルワイスが亡くなったすぐ後、イギリスのグラスゴー大学の外科医のリスターという人が手術をしたときの腐敗について考えます。そのときにはまだ細菌という概念はありませんでしたが、フランスのパストゥールがこの腐敗という現象を提唱します。パストゥールは基礎的な研究をする人ですが、このパストゥールとリスターの2人の国を超えたいろいろな情報の中で、リスターは石炭酸を消毒に用いて手術をします。リスターは、当時の下水道に石炭酸をまくと腐敗臭が消えるということに注目していたのです。これにより術後の死亡者が激減しました。この後、コッホがいわゆる細菌を実際に明らかにしてノーベル賞を取ります。
 その後、アレクサンダー・フレミングという人が、その細菌に対して今度は抗生剤をつくります。この抗生物質は失敗からできたのです。フレミングは細菌学者で、いろいろな種類の細菌を培養していましたが、あるとき、培養がうまくいかず、ある部分だけばい菌が生えてないところがあったというのです。それはそこにペニシリウムという水虫みたいなかびの真菌が生えていたのです。これで何か細菌を抑えられる物質があると確信して、彼はペニシリンをつくりました。これが抗生物質の始まりです。
 このようにゼンメルワイスが産褥熱のことを考えるとか、リスターが下水道の腐敗臭を消すために使っていた石炭酸にヒントを得るとか、フレミングが失敗と思ったものをそのままにしないで別の角度から見るとか、どういう分野でもそうだろうとは思いますが、このようなひらめきや逆転の発想がサイエンスには大事だなと改めて思います。

4.止血法

nimoku575-3.jpg 初期の手術では、焼きごてで止血していましたが、実際にはそれだけではうまくいきません。フランス人のペアンというとても有名な外科医が、1879年に世界で初めて胃の切除したのですが、残念ながらそれは成功しませんでしたが、「ペアン鉗子」という止血の手術器具に彼の名前が残っています。
 ウィーン大学のビルロートという人が1881年に胃の手術をして、これは見事に成功します。このときに麻酔として使ったのはクロロホルムです。胃の悪いところを切って後をつなげました。今、我々はこれを「ビルロート?法」と呼んでいます。「ビルロート?法」というのもあります。彼のこの手術を考えると、基本的な術式は1881年から何も変わっていないことがわかります。
 当時名をはせたヨーロッパの外科医として、ペアンさんとビルロートさんがいますが、もう1人、コッヘルというスイスの外科医がいます。スイスは内陸で、かつては内陸部というのは甲状腺疾患が非常に多かったのです。群馬も実際そうだったようです。今、原発でヨードの問題が別の意味で問題になっていますが、海藻とかのヨードがなかなか摂取できないということが原因です。甲状腺というのは内分泌器官ですからいろいろな甲状腺ホルモンを出します。内分泌の臓器というのは、血流が非常に多いところです。ですから甲状腺を切ると大量の血が出ます。それをこのコッヘルさんは、「コッヘル鉗子」を使って止めながら甲状腺の手術をしたということです。今考えるとだれでもできそうな話なのですが、それでノーベル賞をもらっています。
 筋肉とかをしっかりと止めるときにはコッヘル鉗子を使います。内臓とか柔らかいところを締めるときはペアン鉗子、その他小さいところはモスキート鉗子を使います。このようなところに彼らの名前が残っています。この道具による止血が外科の発展を後押ししました。
 余談ですが、昔は素手で手術をしましたが、その後、手袋を着けるようになりました。その手袋の最初は、アメリカのボルチモアにあるジョン・ホプキンス病院のハルステッドというプロフェッサーが使用しました。この病院にキャロライン・ハンプトンという手術室のスクラブナースがいて、ハルステッドは彼女に恋心を持っていました。その彼女が消毒で手が荒れるからと病院を辞めようとします。ハルステッドはこれを何とか止めようとして、グッドイヤーというゴム会社に手袋製作を依頼しました。今は清潔、不潔ということで手術用手袋を使っていますが、最初は手荒れを防ぐことから始まったのです。
 
■華岡青洲

無痛手術の誕生は、1846年のアメリカのMGHで行われた手術だとお話ししましたが、日本の華岡青洲は、何とそれより40年以上前の1804年に全身麻酔の手術を成功させています。彼はチョウセンアサガオにトリカブトなどを配合した通仙散(つうせんさん)を使って麻酔をしました。華岡青洲は紀州の春林軒(しゅんりんけん)といういわゆる医科大学校で猫を使って麻酔の実験をして臨床に応用しています。昔でもそのようにきちんとしたステップを踏んでいたわけです。
この話は、有吉佐和子さんの『華岡青洲の妻』という作品になっています。彼は猫を使った実験の後、母親で試してみるのです。この小説や映画のモチーフとしては「嫁しゅうとめ」がテーマになっていましたが、これはどちらかというと、自分がいかに華岡青洲の役に立てるかということの争いなのです。我々から見ると、うらやましくてしょうがないぐらいです。母親の於継(おつぎ)さんは高齢ですので少し控え目な量でやるのですが、奥さんの加恵さんには通常量で実験をやり、残念ながら加恵さんは失明します。そのようなことを乗り越えて、1804年に世界初の乳がん手術が成功するわけです。
先程の欧米での話は1800年代後半ですから、我が国のこのことは世界に誇るべきことだと思います。紀州の華岡青洲の元には全国から、1,000人を超える門人が集まっていたようです。
ただここには文化の違いがあって、その技術がなかなか世界に広がりませんでした。当時のアメリカはきちんと特許を取ってそれを抑えて発表することで社会に広がっていくかたちでした。日本は伝承の医学というか、免許皆伝というかたちでしたので、それがなかなか外に広がりにくかったということはあると思います。この時代は日本は鎖国の時代ですが、それでも、欧米の医学書は速やかに日本に入ってきていたそうです。

■白い巨塔

 随分前に『白い巨塔』というのがありました。今はもちろんそのような世界はありませんが、日本の医学は、講座医学と言ってどちらかというとドイツ系で、1教授の外科の中で弟子が育っていくスタイルでした。私もよく「第1外科と第2外科はどう違うのですかと」聞かれますが、第1外科と第2外科があったりするのは、その名残だということです。
 昔は、その教授が興味あることは何でもやりました。だから第1外科、第2外科ではなく、例えば「財前外科」とか言うわけです。そういうので、あるヒエラルヒーが形成されたところもあり、また非効率的なことがいろいろあり、今はそのようなことは解消されつつあります。外科の世界もそういうところからも変わってきました。但し、再評価されるものも多くあることも事実です。
 その後も、『ブラックジャック』、『振り返れば奴がいる』、『研修医なな子』、『メスよ輝け!!』などの漫画やドラマが出ました。これらは大体外科が中心になっています。

 

nimoku575-4.jpg■外科学のこれから

 僕らが外科に入局したときは、「The Big Surgeon, The Big Incision」と言われていました。偉大な外科医は大きな手術創(そう)でやるということです。ところが今の治療は、できるだけ侵襲を小さくして、必要かつじゅうぶんな治療をやっていこうというパラダイムに変わってきました。もちろんそれは手術の根治と両立しなければならないのですが、最近は患者さんのQOL(クオリティー・オブ・ライフ)ということがよく言われるようになってきています。
 現在でも通常の手術はまだ普通に開腹、開胸で行われることが多いのですが、限られた条件の中で、カメラでの腹腔鏡手術が行われるようになってきました。これは、お腹にいくつか穴を開けて空気を入れ、お腹を膨らませてワーキングスペースをつくり、テレビカメラやメスとかの器具を入れて、術者はモニターを見ながら治療していくものです。
 通常の開腹、開胸の手術では内臓の傷というよりは、やはり表面の傷が痛いし、傷が大きいと癒着しやすいということもあります。もちろんこの腹腔鏡手術にも問題点がないわけではありませんが、できるものはこの方法で治療をするようになりました。お腹の手術といってもお腹が病変ではなく、お腹の奥を治療するわけです。そこに到達するまでのお腹の壁は正常なところですからできるだけ傷を付けない方がよく、お腹の傷が術後の痛みにつながるわけですから、その傷はできるだけ小さくしようというのがこのコンセプトです。
 重粒子のコンセプトも全く同じです。腹壁とかの正常のところにはダメージを少なくして奥にある患部にピークをつくっていくという治療です。モダリティは違いますが、外科で言うお腹の壁はできるだけ正常にして小さな傷で奥を治療するというコンセプトとは同じ考え方の治療法になります。
 腹腔鏡手術の一つのポイントは、低侵襲性ということですが、もう一つは整容性です。これは美容整形とは違います。特に女性は、やはり見掛けが重要になってきています。
 しかしこの内視鏡の手術も、早期のものであるとか、それをやるのにふさわしい病態とか進行度であるというある程度限られた場合だということで、やはり今でも広く行われているのは通常の手術です。ただ考え方としては、以前のように大きく傷を開けるというものはなくなりました。大きく傷を開けて手術をするというのは医者のQOLです。そうではなくて、患者さんのQOLが問われる時代が来ているということです。
 最近では夏休みに中高生を対象に「バーチャルシミュレーターを用いた内視鏡手術体験」というプログラムを実施しています。全国から毎年30名から40名ぐらいが集まります。参加した子供たちは、画面を見ながら胆嚢(たんのう)を摘出する練習をしたり、シミュレーターで実際に糸を結ぶ練習をします。ちょっと下手をするとちゃんと出血が起こるというソフトもあり、トレーニング用にかなりよくできています。子供たちはこれらを楽しみにしてやっています。今年も夏休みの8月6日の土曜日に実施する予定です。
 外科も今後更に発展していくと、ロボティックサージェリーという時代が来ます。そうなると、例えば遠隔手術が可能になってきます。もっと言うと、地上から操作して宇宙船の中でも手術ができるようになるかもしれません。
 コンセプトとしてもう一つ重要なのは、例えば経腸栄養というのも、基本的にはスペースの研究から出たものです。宇宙船での便の処理の問題から、それなら便が出ない消化したものがそのまま吸収されるものをつくろうというのでできたのが消化態経腸栄養剤です。医療というのは、先程の切断の話にもあるように、かつては軍陣医学として発展したところがあります。今は、このような宇宙開発の中で、必要に応じて医療の側に応用するようなかたちで発展してきているのではないかと思いますし、そのような時代が来ているということです。
 ここでぜひ申しあげておきたいことが一つあります。がんについては、5年生存が完治の一つの目安になっています。これは場所や施設や対象にもよりますが、この生存率の成績が、日本は欧米諸国に比べて良く、日本の技術は非常に高いということです。制がん剤についても、欧米諸国と比べると日本は良好な成績です。日本の医療技術は優れているということも知っていていただけたらありがたいです。ただもちろん、我々はこれに溺れることなくしっかりした治療を提供していく必要があるということです。
 最後に、しかし、やはり変わらないものがあるということです。紀元前400年の「ヒポクラテスの誓い」というのがあります。ヒポクラテスが医師としての倫理観を述べています。また日本の近代医学の開祖と言われている緒方洪庵が門人に教えた扶氏医戒之略(ふしいかいのりゃく)では、医師が守るべき戒めを12カ条にまとめています。もう一つ、華岡青洲が弟子に与えた言葉にも同じようなことがあります。福岡藩の貝原益軒の養生訓の中にも「君子医となるべし。医は仁術なり」と同じようなことが書かれています。医療技術が変わってきても、背後にある医の精神は古今東西変わらないのだなと思います。
 私共、群馬大学のモットーはwarm heart(暖かい心)、cool head(きちんとした知識に基づいた冷静な判断力)、そしてskilled hands(熟練した技術)を備えた治療ということです。先進医療の推進と同時に「身体の傷」だけではなく「心の傷」も小さな優しい医療を実践したいと考えています。これも同じようなコンセプトだと思います。そのような思いを胸に、力不足ではありますが、少しずつ社会に貢献できればと思っています。
(終了)