第550回 二木会(石橋顕氏講演記録)

「北京オリンピック・ヨット日本代表出場報告!!」
平成20年9月11日(木) nimoku550_1.jpg
石橋 顕(平成4年卒)

司会 本日は、北京オリンピックにヨットの代表として参加された石橋顕さんに来ていただきましたまずはヨット部の先輩で、修猷のヨットクラブ東京の会長の鶴木様に石橋さんを紹介いただきたいと思います。

鶴木 皆様こんばんは。昭和40年卒業の鶴木です。石橋くんのオリンピック支援をして、皆様から703万円のご寄付をいただきました。皆様のおかげで、石橋くんは晴れて12位、日本人で過去最高の順位に輝きました。ありがとうございました。早速、彼に北京での熱い話を語っていただきたいと思います。よろしくお願いします。

nimoku550_5.jpg口演に先立ち、すばらしいリコーダー演奏をご披露いただいた小池耕平氏(S56年卒)
nimoku550_6.jpg石橋氏の紹介をされる鶴木氏
■オリンピックへの道

石橋 平成4年卒の石橋です。まず、この修猷館の同窓会の方々を始め、福岡のたくさんの方々のご支援をいただいたおかげで、北京オリンピックに出場できたことを本当に感謝しています。ありがとうございました。

1. 学生時代

(1)ヨットとの出会い
 私は、中学時代は陸上部で中距離をやっていましたが、修猷館高校に入って初めてヨット競技を知りました。海に浮かんですーっと風を受けて走っていくのが、ほんとに何とも言えない気持ちよさで、そこからヨットの魅力にとりつかれました。

(2)国体とインターハイ
 高校1年の秋ごろに、次の年に地元福岡で開かれる「とびうめ国体」の強化が始まりました。その沖縄合宿に選ばれたことがターニングポイントになって、1年生の終わりから2年生にかけて急激にヨットがうまくなっていきました。しかし、2年生の夏、「とびうめ国体」の高校生の代表を決めるレースでは、惜しくも最終レースでわずかに逆転されて代表を逃すことになりました。
 同じ年にインターハイもありましたが、県の大会で2番に入って九州大会の出場権を得ていたにもかかわらず、登録料を払っていなかったということで、県大会の順位を剥奪されたうえ、九州大会にも出られなくなりました。この経験から全国大会出場のみならず「日本一になる」ことを心に誓いました。この目標のために猛練習して臨んだ3年生のインターハイでは、予選は難なく通過したものの、インターハイの会場に着いたところで思わぬ怪我を負って4位に終わりました。

(3)「一番」へのこだわり
 しかし、ひと月後に控えていた国体では優勝し、何とか日本一になるという目標を達成することができました。初めて「日本一」になったということで、あとから考えるとそこから「一番」というものへのこだわりが自分の中に芽生え始めたのだと思います。
 その後、ヨットの推薦で早稲田大学に進学しました。大学時代にも個人成績では日本一になりましたけれども、団体戦で優勝することができなくて、目標は達成できませんでした。


2. 社会人になって

(1)宮城国体と世界選手権
 大学時代でヨットは終わろうと思っていましたので、ヨットに区切りをつけてTOTOに就職しました。
 最初に配属されたのは仙台でしたが、たまたま仙台で宮城国体が行われることになり、宮城の国体選手として平日は普通通り仕事をしながら、休日にヨットをする生活を約3年間続けました。
 そのころ、日本代表として、オーストラリア行なわれた世界選手権に出られることになりましたが、世界各国から百二十何チーム集まって、私は64?65番、半分よりちょっと下ぐらいでした。
 それまでの自分は、仕事もしっかりやりながらヨットも高いレベルでやりたいと思っていました。しかし、世界の選手たちを見て、彼らがどんな状況でもおのおのの環境の中で世界の頂点を目指しているのを肌で感じて、自分はなんて変なプライドを持っていたんだろうと思いました。


(2)オリンピックへの決意
 それから、いま自分は本当に何がやりたいんだろうと考えました。
 最後は「オリンピックに出たい、そして世界一になりたい。これに人生のすべてを賭けてチャレンジすれば、できないことはないんじゃないか」と思いました。
 今でも忘れられないんですけれども、会社を辞めてオリンピックにチャレンジするんだと決めた瞬間に、武者震いというか、体がううっと震えました。
 自分の覚悟が決まった瞬間から、「これからが楽しみでしょうがない。」「自分が目標とするオリンピックに出て成果を取りたい」という思いが沸き起こりました。「ほんとに心から望んでいるものであれば、それに向かっている過程の中で起こる困難なんて大したことはない」と思いました。


3. オリンピックへの道

nimoku550_2.jpg(1)アテネオリンピック
 最初は、とにかくそれまでよりも海に出る時間を取ろうと思って、宮城の温泉でのバイト生活から始めました。最低4日は練習に取り、残りの3日で朝から晩まで働いて何とか食いつなぐ。そして活動費は宮城県の強化費からいただくという日々が続きました。
 それはまだアテネオリンピックを目指しているときでした。私はほぼ8割方自分が代表になれる思っていたのですが、最後の最後で代表を逃してしまい、結局は女子チームのコーチとしてアテネオリンピックに行きました。

(2)49er級への転向
 今回、北京オリンピックに出たのは、49er(フォーティーナイナー)級といってすごく速い船ですが、アテネオリンピックまでは470(よんななまる)級に乗っていました。49erは「海の上のF1」と言われるクラスで、体格の面で日本人には合わないと言われていました。ただ、ヨットのセーリング競技の中ではこの49erは一番の花形なのです。「やっぱりあこがれのクラスで、やりたいようにやって勝つのが自分の理想だ」ということで、私は49erクラスに転向しました。
 ただ、アテネオリンピックが終わったあと、すぐに活動を始めたわけではありませんでした。次を目指すと思っていたものの、帰国後の2、3カ月は何もできない状態で、どうやったら何かをやりたいという気になるんだろうと、本当に悩みました。

(3)覚悟を決める
 そんな中で、私と同じように国内選考でいったん落選した後に、49erクラスに転向して、見事オリンピック代表になり、メダルも獲得したというイギリスの選手のエピソードを見つけました。自分も途中までは彼と同じ状況でしたので、自分も彼と同じようにできるのではないかと少し光が見えて、彼に連絡を取り、半ば強引にイギリスにいき、じっくりと話をすることができました。
 後から考えると、そのときは何より自分に動き出すきっかけが欲しかったんじゃないかと思います。それを機に、自分の中で次の北京オリンピックを目指すという決意がしっかりと固まりました。


4. 北京オリンピックを目指して

(1)パートナー探しと資金集め
 気持ちも固まり、パートナー探しや資金集めが始まりました。パートナー探しは難航しましたが、2005年12月に今のパートナーの牧野という選手に巡り会うことができました。
 また、ヨットはヨーロッパ遠征を繰り返すことが必須条件なので、5000万円の資金が必要です。それで資金として、大・中・小の財布を持とうと考えました。「大」はメインスポンサー。「中」は後援会。そして「小」はTシャツを個人に買っていただいての資金です。
 ヨット部の同期の高くんに後援会を作ってもらいましたが、スポンサーは1社も取れず、後援会も人が集まりませんでした。たまたまある方から紹介していただいて、後援会長には修猷館OBの中村調理製菓専門学校の中村哲さん、副会長には石村萬盛堂の石村さんとヨット部OBの冬至さんになっていただくことができました。その方たちの人脈によって、福岡の七社会をはじめ、地元の企業の経営者のお名前をお借りして、今度は正式に基金の依頼が回り始めました。

(2)海外遠征
 中村会長は「バイトする暇があったら練習しろ。お金の心配は一切するな」と言ってくださったので、そこから本当にヨットに集中する環境ができあがって、年間の半分ぐらい海外遠征を繰り返し、ヨットも新艇を購入しました。
 49erでの初めての国際レースはビリで、改めてその厳しさを知りました。その当時、海外の選手から見たら、とてもこの日本人がオリンピックに最後で出てくるとは想像できなかったと思います。けれども、後援会の人は本当に信じてくれて、遠征している間も資金集めに奔走してくれました。

(3)代表選考
 そういうことを繰り返しながら迎えた2008年1月、オーストラリアのメルボルンで世界選手権が行われました。総合順位は27番でしたが、国別の順位は17番目で何とか国枠を取ることができ、そして日本人でも1位になり、北京オリンピックの出場権をとることができました。


5. 北京オリンピック

(1)父とともに
 ヨットの会場は青島で、選手村やオリンピックハーバーがオープンにあわせて、私は7月26日に東京に行く予定でしたが、その出発の当日の朝5時半ぐらいに、姉から父が急死したという連絡がありました。急遽、福岡に戻り、父の形見の時計をもって、2日遅れで試合会場に到着しました。この時計を競技中はずっとウエットスーツの間にはさみ、父を感じながらオリンピックを戦いました。

(2)オリンピック本番
 オリンピックでは、現地に入ってからも、レース中も、変な高揚感や浮き立つようなこともなく、自分の力が発揮できたのではないかなと思います。12位という結果で終わりましたけれども、この3年弱の活動の中で一番世界と対等に戦えた試合でした。
 初めてのヨーロッパ遠征でビリになったレースから最後のレースまで、自分たちは成長し続けました。正直に言えば、結果はもうちょっと行けたかなという気持ちもあります。でも、パートナーの牧野と2人で本当に悔いのない戦いを全うすることができました。
 実際、オリンピックはほんとに特別な場所でした。どう感じるかは個人で違うのでしょうけれども、選ばれた者だけがそこで戦うことができる最高の舞台だと思います。そこで思い切り世界の連中と一緒に、いい意味で楽しく戦うことができました。

(3)感謝を込めて
 このオリンピックは、私たち2人で勝ち取ったという思いはありません。後援会の方々が資金集めに駆けずり回ってくださったり、Tシャツを買ってくださったり、ほんとに自分の知らないところで支援をいただきました。そういう方々のおかげであの舞台に立たせていただいたという気持ちで、感謝しています。
 今日ここにいらっしゃる多くの皆さんにもご支援をいただきました。この場を借りてお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございました。

*写真をクリックすると、大きいサイズでご覧いただけます。
nimoku550_7.jpgレースの模様
nimoku550_8.jpgスタッフとともに
nimoku550_9.jpg大会中の宿舎

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石橋 顕君(平成4年修猷卒)ご支援のお礼を「お知らせ」に掲載いたしました。