第668回二木会講演会記録

「天神の杜に生きて」

講師:西高辻信良さん(昭和47年卒)
開催日時:令和4年10月13日(木)(講演 19:00-20:00)

○渋田(司会) この10月から1年間、平成7年卒の七猷会が幹事学年として二木会を運営してまいります。私は本日の司会を務めます、平成7年卒、七猷会の渋田と申します。よろしくお願いいたします。
 本日の二木会は、昭和47年卒の西高辻信良(にしたかつじのぶよし)さんに「天神の杜に生きて」をテーマにご講演いただきます。
 西高辻さんは、慶応義塾大学文学部社会学科をご卒業後、國學院大學神道学専攻科に進まれ神職資格を取得、昭和58年、30歳で太宰府天満宮宮司、宝満宮竈門神社宮司に就任されました。平成31年にご長男が40代宮司に就任された後も竈門神社宮司として祭典奉仕に務める傍ら、太宰府天満宮幼稚園園長として神道理念に基づいた情操教育を推進し、九州国立博物館評議員や、2022年度、2023年度、福岡ロータリークラブ会長などのさまざまな役職を兼任されています。平成29年5月からは福岡の修猷館同窓会本部の副会長も務められています。
 講師紹介は、講師と同期でいらっしゃいます、昭和47年卒の待鳥眞人さんにお願いいたします。

■講師紹介

○待鳥 本日私がここで紹介役を努めますのは、彼と私が同級生というよりも義兄弟という関係であるからです。私の妹が彼と結婚しましたので、彼は義理の弟になります。今日、秘書としてついてきている娘の沙世子さんは私の姪っ子になります。そういうことで今日は一族全部で参加しています。
 彼とは附属中からずっと一緒ですから、50年以上の付き合いになります。うちによく遊びに来ていましたが、卒業したらいつの間にか私の妹が嫁に行きました。途中で狙いが変わったのかもしれません。
 われわれ同級生は、還暦の時に伊勢に行きました。彼のおかげで一般の人が行けないところまで行って参拝することができました。
 今日は保守的な話もあると思いますが、彼は非常に積極的です。境内のおみくじの色は季節によって変えています。また、ファックスでご祈願を受け付けるということも早くから始めています。その時は周りの神社からたたかれたそうですが、今は当たり前になっています。彼はいろいろなことにチャレンジしています。
 今、西鉄電車に「旅人」という特別のラッピングをした観光列車があります。この「旅人」というのは大伴旅人のことですが、そのネーミングをしたのも彼です。また、承天寺に博多千年門という門があるのですが、そこに掲げられた「博多千年」の額の文字は彼が書いたものです。皆さん、里帰りされたときには、ぜひそれもご覧になってください。(拍手)

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■西高辻氏講演

○西高辻 お義兄さま、過分な紹介をありがとうございました。同級生で親友でしたのが、いつの間にか義兄になりました。彼は眞人ですので、まあちゃんと呼んでいるのですが、まあちゃんとは中学1年生の時からずっと、長くお世話になっています。

■はじめに

 今日は2回目の二木会です。私たちは昭和47年卒ですので「しゃ~ない会」と名乗っています。その私たちが東京修猷会の幹事学年の時が、1回目の二木会でした。
 私は、太宰府から朝6時にうちを出て2時間かけて修猷館に通っていました。あのころはまだ市内電車がありましたので、大牟田線の電車から、城南線で行くか天神から行くか、どこの女子学生さんに会えるかを考えながら通っていました。
 修猷館のすごさというのは、やはり、責任ある自由の中でいろいろなことを経験させてもらえることだろうと思います。私は修猷館では体育局長として40㎞行軍の企画もさせていただきました。体育祭・文化祭では、企画・団結・実行ということを学びました。
 3年生の時の体育祭では赤ブロックでしたが、その打ち上げ場所はピオネ荘ではなく、わが家でした。このわが家というのは400年前に建ったもので、明治維新の直前の慶応元年から慶応3年まで、三条実美以下五卿をここでお預かりしていたのです。ですから、高杉晋作も坂本龍馬も西郷隆盛も、維新の志士たちはみんな、この三条公をはじめとする五卿に会うためにこのわが家に来ていたのです。同級生たちは、その座敷に勝手に上がり込んでどんちゃん騒ぎをしていました。そのように、歴史を感じながら青春時代を送ったというのは、今、考えると贅沢だったのかもしれません。

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 私たちが生まれた昭和28年は、戦後初めて、20年に1回の伊勢神宮の式年遷宮が行われた年でした。ですから、私たちが、ゼロ歳、20歳、40歳、60歳の時が式年遷宮の年になるのです。60歳の時にみんなでどこかに行こうとなって、御垣内(みかきうち)の参拝もできるので、みんなで伊勢にお参りに行きました。バス4台で、150人以上の参加者の楽しい会になりました。
 また、佐渡島くんという同級生がタイの大使をしている時に、せっかく佐渡島がいるのだからと、40人ぐらいでタイに行きました。海外にいる同級生もバンコクまで来て、みんなで宴会をしたりゴルフをしたり観光に行ったりしました。いくつになっても、修猷館の絆が続くというのを実感しました。

■基礎情報:大宰府とは?

 大宰府は、7世紀後半の白村江の戦いでの大惨敗をきっかけとして、大陸からの脅威に備えるために設置されました。大宰府の役割は、外交、防衛、そして九州の政治の中心ということです。大宰府というのを大和言葉で読むと「おおみこともちのつかさ」です。天皇さまの命によってつくられたまちが大宰府なのです。
 大宰府という地名は「太宰府」と「大宰府」がありますが、私の先祖は「太」か「大」についてはあまり気にしていなかったようです。今の区別としては、古い大宰府政庁を言うときには「大」で、今の時代の行政機関としては「太」、また固有名詞としての太宰府天満宮は「太」を使っています。
 白村江の戦いに負けて、日本の大和朝廷が受け入れた百済の優秀な人たちが、この大宰府を設計しました。この方たちは後に平城京に行きました。技術者集団や設計者として日本で活躍したのです。

 この写真は今の特別史跡大宰府政庁跡です。修猷館のころ、先代の私の父が私を連れてここの礎石の上に座って、いつも私に「大伴旅人が見えるか」と問いかけていました。見えやしませんよ(笑)。でも父が言ったこの言葉が、ずっと私の人生の問いかけの言葉になりました。太宰府天満宮の運営に携わる人間として、それをどのように感じさせる神社であり地域であればいいのか、それを今日まで問い続けています。

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 令和になって、太宰府が大注目を浴びます。万葉集の巻五の梅花の歌に「初春の令月にして 気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす」というのがあります。この「令月」の「令」と、「風和らぎ」の「和」を使って「令和」という時代の名になり、太宰府がまさにこの国にとって大切な地域になりました。私たちの福岡県もそのような地域になったのだと思っています。これから未来に対して、この日本の心の原点というべき地域を私たちがつくっていかなければならないと考えています
 当時、梅花の宴というものがありましたが、この時に大伴旅人たちが見た梅は大陸から最初に入ってきたもので、最先端だったのです。中央に次ぐ政治の中心で、海外貿易の要所であった大宰府には、日本の中央であった奈良の人たちのトップが来ています。旅人しかり、山上憶良しかりです。常に大陸の文化がいち早くもたらされる太宰府のある福岡というのは進取の精神を持つところだったのです。
 菅公もそうです。道真公は、学者、政治家、教育者、外交官、編集者、歌人、詩人、通訳と、いろいろな肩書があります。しかし、菅公が一番お好きだったのは教育者としてのご自分だったのだろうと思います。教育者として菅家廊下(かんけろうか)という私塾をおつくりになられます。また日本での最初の百科事典、『類聚国史』は菅公が編纂されたものです。そのような意味では大変なマルチニストで、海外の文化もいち早く取り入れています。
 右大臣だった菅公は、西暦901年に大宰府に左遷させられ、そして2年後の903年に亡くなっています。当時の貴族は、亡骸は京都まで運ぶという伝統がありました。しかし、道真公はそれを望まれませんでした。亡骸を牛に引かせていたら、急に牛は座り込んでしまいました。ここは道真公が一番お気に召した場所だったということで、ここにお墓をつくりました。それが今の太宰府天満宮です。太宰府天満宮は、お墓所の上にお社があるかたちになっていて、その子孫が代々宮司職を務めて菅公のお墓を守ってきています。西高辻家は、今の宮司まで入れて40代になります。
 私は30歳で宮司になりました。私の使命の1番にあるのは、神社というのは先祖からの預かりもので、それをきちんと次の世代にバトンタッチをすることだと思っています。そしてできることなら、それにプラス1点して次の世代にお渡しをしたいと思っています。
 2番目には、次の代の宮司を育てることです。太宰府天満宮の歴史は今年で1120年ほどになります。私は1代が30年だと思っていますので、その間に、30年後の景色と職員と、そして次の宮司になる人を育てなければなりません。それが、この歴史の中で、私に課せられている大きな役割だと思っています。
 その他にいくつかの役目があります。まず、神社ですので、「祈り」を大切にして、過去から続いてきたおまつりをより本物にしていくということです。この国の中で、先祖たちが守ってきたかたちをこの21世紀に伝えていくためには、本物の上に本物にしていくしかないと思います。そして、神社というのは、やはり心の広場で、みんなに元気で帰ってきていただく、そんな神社であり続けたいと考えています。
 日本人は自分より尊いものを神様と呼んできていて、その神様はすぐそばにいらっしゃると思っています。ですから、山にも岩にも、自然の中に神様がたくさんいらっしゃいます。その神様をどうおもてなしするかが、日本人の文化の原点だと思っています。
 そして、神社にとっては、四季折々の季節を感じていただくことが大切です。神社というのは、掃除が行き届いている中で四季折々の日本の良さを、お参りにみえる多くの皆さんたちに感じていただかないといけません。四季それぞれに色があることが、わが国の一番すてきなところだろうと思っています。梅の時期があり、ショウブの時期があり、夏祭りがあり、そして神幸式があり、菊があり、モミジがある、この四季折々をずっとつないでいくことによって、私たちの先祖たちは神様に対するおもてなしをしてきたのではないかなと、私は考えています。
 ですから、うちのおみくじはもともと白だったのですが、おみくじの色を変えることができないかと調べてみたら、色の付いたおみくじがいけないということはありませんでしたので、年間で10回、季節ごとにおみくじの色を変えています。そして、そのおみくじを境内に結ぶことによって、皆さんも季節の彩りに参加していただくことを考えました。何とこれが平成18年の『新日本様式100選』というのに選ばれて、Suicaなどと一緒にパリのセミナーに参加してきました。11月のおみくじは間違いなくサムライブルーになります。もちろん日本サッカー協会の許可をいただいています。ラグビーのワールドカップの時には、ラグビー協会の許可をいただいて、日本代表のユニフォームのおみくじにしました。そのようにして、日本の文化と日本人の心を一つにして新しい文化が創造できないかを考えています。
 九州国立博物館は、私の家の夢でした。まず明治6年に太宰府博覧会がありました。それまで、神社が持っていた宝物は、一般の人は見ることができませんでした。それをいろいろな人に見てもらおうと、この太宰府博覧会を第一歩として、私の3代前から、博物館の設置に向けたチャレンジが始まりましたが、国の予算が下りてもうまくいかずにいました。私が4代目で夢の続きをやっていたところ、まさかではありましたが、平成17年にこの九州国立博物館ができました。
 福岡は本当にいいところです。はやり物が好きで、未来を考えるのが大得意です。しかし欠点が一つだけあります。それは、ストックするのが下手だということです。例えば、まんじゅうもうどんもそばもお茶も、博多に最初に禅宗のお坊さんたちが持ってきているのですが、残念ながらそれが博多の文化にはなっていません。スルーしてしまうのです。そして、持っていかれた昔のいいものは東京国立博物館にあります。ですから、九州のものは九州に、一つの資産としてストックしていくことは大切なことだと、多分私の先祖たちは考えたのだと思います。この博物館が太宰府にできたことは、太宰府の真価といいますか、先ほど令和の話をしましたが、それにふさわしい場所になったのではないかと思います。

■太宰府天満宮の取り組み 神社×アート

 神社には日本の文化の原点がたくさんあるのに、戦後の教育の中で、私たちの世代ぐらいから、神社については全く教えられていません。では、どうしたら魅力的な神社と言ってもらえるか、そして、地域が持っている進取の精神をどのようにしたら一緒にできるかということで、取り組みを始めました。
 一つは、イギリスの現代アーティストのライアン・ガンダーをはじめ様々なアーティストの作品を、境内全体を美術館に見立てて10カ所ぐらいに設置しています。太宰府天満宮でのアートの取り組みは、外国人の作家であっても太宰府に来ていただいて、そこで感じたものを作品にしていただくという考え方で行っています。一つ一つが考えさせられる面白い作品ばかりです。屋外のアートですから風雨にさらされていますが、その朽ちるのも一つの作品の昇華になるということです。
 また彼から私たちに「神道に匂いや音があるとすれば、それはどんな感じですか?」という問いかけがありました。私たちにとっては当たり前のようなことが、彼らのこのような問いかけで、もう一度自分たちの原点を考えるようになりました。このような交流で、私だけではなくて職員も視野が広がってきています。
 ニコライ・バーグマンはデンマーク人のフラワーアーティストです。これまでに3回、彼と一緒に天満宮で展覧会をやっています。今月の20日から23日まで、竈門神社と天満宮で4回目の展覧会をやります。天満宮を彼の花で飾っていますが、異文化の人たちと一緒に神社の可能性を考えても違和感はありません。彼にも天満宮の境内で感じるものを作品にしてくださいとお願いをしています。例えば、今右衛門の器に彼がお花を生けました。日本の文化と海外の文化のコラボ作品です。意外と日本の文化は奥が深く、受け入れる力があります。もうひとつ良いのは、ただ会場を貸すというのではなく、うちの神苑を管理する人たちも、ニコライさんと一緒に制作に参加していることです。そのことによって、管理人さんたちにも新しい発見やチャレンジがあり、そして心の交流ができるようになっています。この他に、マリメッコとも一緒にやったりもしています。

■宝満宮竈門神社改修プロジェクト

 竈門神社は伊藤会長とご縁がある神社です。伊藤会長は、この宝満山の刀をつくられるところのご子孫になられます。私は30歳の時から竈門神社を預かっているのですが、山の上だし、どうすれば多くの人たちの心の広場になれるかをずっと考えていました。
 大宰府ができてちょうど1350年という年が10年ほど前にありました。その時に、この竈門神社も、太宰府の鬼門を守るという大きな意味合いがあるお社でしたから、何とか美しくしたいなと思いました。その時に考えたのは、100年後のスタンダードをつくりたいということでした。今の神社も、それができた当時は最先端だったはずで、最先端で本物だったから、結果的に今まで残ってきたのです。では今度は、私たちが100年後のスタンダードをつくろうということです。社務所や授与所の標準のかたちというのはあったのですが、その固定観念から外れて、今の人たちにとって心地いいとはどのようなことかを考えました。

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 ナイキの原宿店とか銀座のユニクロの店舗設計をされているインテリアデザイナーの片山正通さんは、ずっとうちの鬼すべ神事に参加して神社を体感していただいていましたので、彼にここの設計をお願いしました。
 今は時代が大きく変わって、SNSや口コミで広がっていくことが大切なので、人に伝えたくなる神社ということを意識しました。修理営繕をしてお社を屋根から全部ふき替え、新しい社務所と授与所をつくりました。皆さんにとって、一番見やすい角度で授与品を並べています。壁は短冊をイメージした石です。皆さんの思いがそれぞれ違いますので、サイズの違う短冊をたくさん揃えて皆さんの思いが叶いますようにという願いを込めています。絵馬を書く台でも、様々な色のカラーペンを用意しています。
 もともとは鬼門除けの神社で、そして縁結びの神様として信仰されている神社だったのですが、まさかこの神社が『鬼滅の刃』でブレイクするとは思っていませんでした。『鬼滅の刃』で竈門炭治郎と禰豆子ちゃんが出たおかげで、名前が知られるようになり、コロナの時に一番お参りが多かったです。
 そのほかに、一番景色がいいところに家具デザイナーのジャスパー・モリソンさんがつくった椅子を置きゆっくり時間を過ごしてもらったり、毎月の香(アロマ)を用意して、目で見る、耳で聞く、口で味わう、触る、そして香りを感じていただく。見えないものをどう感じていただくか、見えないものがどのくらい大切なことなのか、そういうものを広げていくことが今の時代には大切ではないかなと思って、このようなことをやっています。

■結びに

 歴史を紡ぐということは、受け継いできたものをそのまま残していくということではないと思います。大変極端なことを申し上げると、私は文化財という言葉は嫌いです。神様、天神様は21世紀に生きていらっしゃるということです。文化財は大切ですが、やはり先祖たちがどのような思いで神様や自然に対してきたかを、この時代の手法を使って、新しく、今を生きている人たちに伝えていくことが私たちの役割ではないかと思っています。従って、変わらないために変わり続けるということです。そのためには手を入れ続けなければなりません。放っておいたら朽ちるだけです。われわれの先祖たちが大切にしてきたものに手を入れ続けて、その大切な心や文化や技術や思いを受け継いで、次の時代に渡していくことが、私たちの一番大きな仕事ではないかと思っています。
 太宰府天満宮は、5年後に1125年という節目の大祭を迎えます。菅公さまが903年に亡くなって1125年です。25という数を天満宮は大切にします。25日が天神様のご縁日で、お生まれになったのは6月25日、亡くなられたのが2月25日、左遷の勅命が下ったのも1月25日なのです。その25年ごとに、伊勢神宮で言う式年遷宮のような大きな修理をやって大祭のご奉仕をしています。
 今のご本殿は、来年の半ばぐらいから大規模修理のために見られなくなります。明治34年に屋根の檜皮(ひわだ)を替えて、その後もいろいろなことをやってきているのですが、全面的な大改修は120年ぶりぐらいになると思います。約3年をかけての大改修の予定です。
 檜(ひのき)の皮を使い、防虫処理をした竹釘を口に含んでやっていくのがこの檜皮葺(ひわだふき)です。これを今度は全面的に行います。その間の仮殿については、11月末ぐらいに発表します。新しい方に仮殿をつくってもらいます。仮殿でしか楽しめないような太宰府天満宮を皆さんに感じていただきたいと考えています。
 天満宮の境内に50本ほどある樟(くすのき)ですが、ご本殿の裏側に荻原井泉水という方がこんな句碑を残しています。「くすの木千年 さらに今年の若葉なり」。つまりこの樟は、千年間、栄枯盛衰を見続けてきているのです。しかし樟ですから4月に落葉します。でもその落ちた所から若い芽が出てくるのです。私たちの仕事も役割もそうなのですが、人生には限りがあります。修猷館も、思いを追い掛けてきてくれる人たちがいて、まさにそれが学校の伝統となっています。私たちも1120年以上の神社を預かっていますが、さらに今年も若葉がなるように努力していきたいと願っています。
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 古里の福岡、そしてそこにある太宰府が皆さんの心の中の誇りになるような地域になることを願っています。そしてまた、修猷館を卒業して東京に出てくる若い世代を、ぜひ東京修猷会の皆様方が支えていただきたいと思います。卒業して51年になりますが、まだ昨日のように修猷館のことは話せます。そんな学校で共に青春時代を過ごせ、そして、素晴らしい先輩や素晴らしい後輩たちの中で生きてこられたことを誇りに思いたいと思います。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

■質疑応答

○武田 講師と同級の昭和47年卒の「しゃ~ない会」の武田と申します。私たちはけっこう仲が良くて、タイのバンコクにみんなで行きました。そこでゴルフをやりましたが、何と西高辻くんはホールインワンを4回やったと言っていました。あれは本当のことでしょうか。

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○西高辻 本当のことです。

○武田 それは、アベレージのゴルファーでしたら12,000回に1回の確率だそうです。それを4回やるということは、やはり神様がついているとしか思えません。それまでは全国の天神社にお参りをするときは、アカデミックなことだとか、つやつけて「世界人類が平和でありますように」とかのお願いをしていたのですが、今は「ホールインワンが出ますように」と祈っています。そうしたら、去年の4月に何とホールインワンが本当に出ました。(拍手)
 もう一つ質問です。神社にお参りをするとき、私のように、一遍にいくつもご祈願してもいいのでしょうか。

○西高辻 祈りには、自分のことやご家族のことを祈るという、私の祈りと、地域とか国とか他者のことを祈る、公の祈りという二つがあるのですが、その両方をなさったほうが多分神様はお喜びになられると思います。
 私のホールインワンは全部まぐれです。今私が理事長をしている太宰府ゴルフクラブは、18ホールそれぞれに万葉歌碑があります。ゆっくり回っていただいて、太宰府の空気を感じていただきたいと思います。お待ちしています。(拍手)

○松永 昭和54年卒の松永です。伝統を守りながら新しいことにチャレンジされるということでした。宮司の継承について、男子しか世襲できないのでしょうか。男の子が生まれなかった時にはどうされるのでしょうか。

○西高辻 父、私、息子、孫とこの4代、男の子は1人ずつです。私は長男ですが、姉が生まれた時に、周りの人たちは、別に男が神主さんをやらなくてもいいのではないかと言いました。今、全国に2万1千人の神主さんがいて、そのうち女性の神主さんは16%ですが、この10年で、最低でも30%にはなるなという気がしています。
 地域の信仰にあるタブーというのが、いいのか悪いのか分かりませんが、やはり女性では難しい神社もあります。しかし太宰府天満宮で決まっていることは、菅原家の血を引いた人間が必ず天神様のご奉仕をするということです。

○小野寺 昭和37年卒の小野寺です。10年先輩になります。今日は知らないことをたくさん聞かせていただき勉強になりました。
 武家社会の時代において、武家と太宰府天満宮の関係はどうだったのでしょうか。

○西高辻 黒田如水公は、福岡城が築城される間、天満宮のそばで庵を組まれ、しばらく奥様と2人でお住まいになられています。当時の武家社会の中でも、菅公は文化人として憧れの人でした。戦国時代の大名、武将たちは、けんかだけが強くても通用しなくて、文化度が問われました。一番易しかったのがお茶、そして能、一番難しかったのが連歌で、うちにも黒田家の皆さんが私の先祖とつくった夢想連歌というのが残っています。ですから江戸時代には、太宰府天満宮は福岡藩からすごい禄を与えていただいていて、それで生活をしていました。黒田藩からはとても庇護されていたようです。
 もともと神仏習合の宮寺であった太宰府天満宮が神道だけになったのは明治以降です。それまで私の先祖たちも天台の僧侶でしたが、廃仏毀釈になって仏像を全部廃して神道になったのです。またその昔は荘園を経営していました。明治維新の時も大変苦労しています。太宰府天満宮はお寺にしようとなったようなのですが、何とか神社として残したいとなって西郷さんに頼みに行っています。ですから西南戦争では、うちの家は真っ二つに割れました。太宰府天満宮の宮司家であります私の家は三条実美公が住んでらっしゃったので明治政府につかなければいけませんでした。しかし、他の社家、神社に勤めている家は西郷さんの恩義を感じて西郷軍につくのです。
 寺社といえども、それぞれの時代の為政者との関係の中で生き延びてきていて、その中では先祖たちの苦労があったわけです。お預かりしている人間として、その苦労を思いながら今の時代を生きていかなければいけないと思っています。

■会長あいさつ

○伊藤 今日は西高辻さん、遠路はるばる福岡から二木会の講演に来ていただきまして、ありがとうございました。太宰府天満宮は古いお宮さんですが、今日は、その古きの中に新しいものをつくっていくというお話でした。お父さんが「大伴旅人が見えるか」とおっしゃったということ、また、令和の歌のお話もありましたが、私どもはそのような昔の人の姿を感じながら現代社会に生きているのだろうと思いますし、西高辻さんがそのことを本当に肌に感じながら、現在、先祖代々から受け継がれてきた神社を引き継いで、そしてまた次の時代につないでいこうとされている姿を拝見して、本当に感銘深い話だったと思いました。
 途中で私の先祖の話も少し出ましたが、竈門神社にはうちの先祖の碑がありますので、子供のころから行っていました。昔は寂しい神社で、先般、久しぶりに行きましたら、立派な社殿になっていて、大きな駐車場もできていました。今はたくさんの参拝客がいるそうで、私自身もうれしい限りです。
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 今日は、古いものをいかに現代に生かし続け、そして後世にまた生かしていくのかという貴重なお話を聞くことができました。本当になじみの深い太宰府天満宮です。皆さん、中学3年生の時には、ほとんどの方がお参りに行かれたと思います。私も行きました。ここに来られている方は、まさに神様のおかげで今があるのだと思います。今日はありがとうございました。
(終了)