第602回二木会講演会記録

「私とお菓子人生」

講師:三嶋 隆夫 氏(昭和38年卒)
日時:平成26年5月8日(木)19:00~

◆講師紹介

○土井氏 三嶋くんとは高校3年のときに一緒になって以来、50年の付き合いになります。当時の私たちは大学受験を控えているということもすっかり忘れて、制服に西南大学の記章を付けて一緒にパチンコ屋に行ったりして本当に楽しい毎日を過ごしていました。SKDでの浪人生活ではさらに遊び、2浪したあげくに、彼は流通経済大学という当時見たことも聞いたこともない大学に行き、私は日大の短大にかろうじて滑り込みました。
 大学卒業後、彼は帝国ホテルに就職してコックの道に進みました。初任給は確か当時世間一般の3分の1以下の1万円に満たない額だったと思います。私は就職してすぐに結婚したのですが、披露パーティーの翌日、就職したばかりの彼が東京駅の新幹線のホームに真っ白なコック服姿で見送りにきてくれたことは今でもはっきり覚えています。彼は帝国ホテルに5年ほどいた後、青山のケーキ屋に転職して菓子職人としての第一歩を踏み出しました。その後スイス、フランスに渡って修業を積みました。そして福岡に戻って、56年に薬院に「フランス菓子16区」をオープンすることになったのですが、お客が来なかったらかわいそうと、三八(さんぱち)会の仲間で大濠公園や新天町でオープンのビラを配ったりしました。当時は彼の店がこんなに大成功するなんて誰も考えませんでした。
 彼は昔から何に対しても一途なところがあり、そして発想がとても豊かでした。それが今の大成功した三嶋くんにつながっていると思います。

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■三嶋隆夫氏講演

○三嶋 今日は何を話すか何も考えてきていませんが、皆様にダックワーズをお持ちしました。半分はこれが物を言ってくれると思います。フランスのニースにいた時にピスタチオナッツのお菓子を仕込んでいて、ふと、これの部品をちょっと変えてみたらどうだろうと思ったことがありました。それはたまたまそう思っただけだったと思いますが、ダックワーズは、その時の思いがヒントになって、和菓子の最中をイメージしてつくったものです。
 この二木会のことで、土肥さんという方から電話がありました。最初は同級生のドイかと思ったら違っていて、「野球部の後輩です」ということで、「二木会で話をしてください」という依頼でした。後輩から言われたのなら仕方ないかと引き受けましたが、私にはこのような所で講演するような立派な話とか感動的な話は何もありません。彼にも「銭が取れるような立派な話は何もできない」と言って、今日は銭どころかお菓子を持ってきてそれで勘弁してもらおうと思いました。(笑い)
 私は高校に行く時に、親に久留米商業に行きたいと言いました。久留米商業で野球がやりたかったのです。しかし親兄弟、一族郎党の男はみんな修猷でしたので「駄目だ」ということでした。久留米商業に行ってもレギュラーになれたかどうかは分かりませんが、私たちが3年の時には甲子園で準優勝しました。
20140508-03.jpg  親がそう言いますので、修猷に行く条件として、自分はとにかく修猷で甲子園を目指すから3年間1回も勉強しろとは言わないでほしいということと、日経新聞を自分の新聞として取ってほしいということを言いました。家族が多かったので、新聞の取り合いになって子供は新聞が読めなかったのです。私は勉強は全くしませんでしたが新聞と本はよく読みました。どんな本だったかは覚えてはいないのですが、難しい訳の分からない本を読みました。これが不思議なもので、そのころ何も分からなかった本のことを50歳ぐらいになると思い出すのです。本を読んでいてよかったなと思います。
 でもずっと勉強はしてなくて、3年の時には教科書も買っていませんでした。私は授業をサボるか、授業に出た時は先生の話をただじっと聞いていました。教科書がありませんので赤線を引くとかもないのです。ですから授業を聞くしかありませんでした。でも聞いていると時々は先生は面白いことを言われていて、40歳50歳になってそれが意外と頭の中に入っていたんだなというのがたくさんあります。
 フランスに行ったときは、フランス語は何も知りませんでした。単語なんて300ぐらいしか知らず、過去形なんて分からず適当に言って、言っている事が分からないのは相手が悪いというような厚かましさで通しました。「最後にhier(昨日)と言ったら、それは過去形と思ってほしい」という調子でしたから、仲間も「明日」と言ったらそれは未来形だなと分かってくれるようになり、そして彼らのほうが逆に活用がない不定形だけで話してくれたりしました。やはり人間同士ですから分かってくれるんだなと思いました。
 それからわれわれはお菓子をつくっているわけですから、半分はお菓子が物を言ってくれます。何も分からなくても、「これでよかっちゃろう」という感じで、コムサとサバとだけで全部済ませました。そしていつも小さなGEMという辞書を持っていましたので、分からないのはお互いにそれで調べて少しずつ分かるようになりました。でも当たり前ですが、やはり勉強して行かれるべきだと思います。(笑い)
 そういう中で、フランス人のほうから「あいつは面白い」と認めてくれるようになってくると少しずつ交流が生まれてきました。言葉よりも、とにかく腕ずくでも分かってもらおうとする気持ちがあれば分かってもらえるように思います。
 パリでは16区の「アクトゥール」というお店にいました。16区ですから近くにはいいお客さんが住んでいます。カトリーヌ・ドヌーブのお姉さんか妹さんかが近くに住んでいらして、ある時、パトロンの奥さんが私に「カトリーヌに何か変わったケーキをつくってくれ」と言ってきました。10日ぐらいありましたので、いろいろ考えて何回か試してみました。こういうのはイメージが頭にあっても一発でうまくはいきません。1日5、6回やって3日か4日はかかります。ダックワーズはキャラメルのクリームですが、その時はバースデーケーキか何かでしたから生クリームでやり、サンドも厚くして、上にフルーツを乗せ、あめ細工を引いてそれに生クリームを絞ったものにしました。それがダックワーズの原点になりました。
 カトリーヌ・ドヌーブというのは、今もそうでしょうが、当時はフランスでもナンバーワンの大女優でした。1週間ぐらい後にその身内の人が「おいしかった。カトリーヌも喜んでくれた」とお礼に店に来てくれました。その時にパトロンヌが「隆夫出ておいで」と言ってくれましたが、私は店には出ませんでした。今の若い人の感覚でしたら、職人でもそこに出ていって写真でも撮ってネットに載せたりするのがお得意なのでしょうが、私は出ませんでした。それをアジアの日本人がつくったとなると、誇り高きフランス人のプライドを傷付けると思ったのです。私は拙いフランス語でいろいろ説明しましたが、感覚的に分かってもらえませんでした。でも腕を引っ張られても私は出ませんでした。
 日本に帰ってきてダックワーズをつくりました。何とかアマンドプードルでやってみたいということ、そしてドヌーブの話のお菓子は生ケーキだったのですが、焼き菓子にしたいと思いました。私がお店を出した時分は、ケーキ屋さんでは生ケーキがほとんどで、焼き菓子はクッキーやフルーツケーキが少しあるだけでした。生ケーキと違って焼き菓子なら今日買って明日に人に持っていけますので、私は焼き菓子をやりたいと思いました。
 ダックワーズのこの楕円の型は、中学の同級生で金型をつくっている所に頼んでいます。この型を使っているのはうちのお店とうちのOBしかいません。これは十何万円かしますが、うちの店を卒業した二十何人かのOBにはお祝いとしてこの型をプレゼントしています。
 私はずっと1店舗でやっています。親方の考え方や気持ちが販売の女の子も含めて会社全体に伝わるようにするにはやはり1店舗じゃないと難しいのではないかと思います。逆に言えば、1店舗であれば少々の店が出てきても勝負ができると思います。何店舗も出したのでは全く勝負にならないと思います。私は今70歳になりましたが、まだまだ現場で仕事をしています。昔ほど朝から晩までというわけではありませんが、やはり1日に1回は必ず現場に立っています。お酒が飲めなくて甘いものが好きだというのもあって私は仕事が好きです。
 うちの社員には「こちらでよろしかったでしょうか」とか、「千円からお預かりします」という言い方は困ると話しています。最近はいろんな所でこの言い方をしています。彼らは「よろしかったでしょうか」というのは、丁寧語のジャンルの一つと思っているのです。「よろしい」を使いたかったら「よろしゅうございますか」と言うべきです。言葉を大事にして日本人としての誇りをきちんと持っていれば、フランスに行ってもどこに行っても仕事はきちんとできるし、おいしいものをつくっていけると思います。
 最近いろんな人から跡継ぎについて聞かれます。息子は今東京にいますが、公認会計士に通ってその関係の仕事をしています。息子は継ぎません。息子は息子の道です。もちろん親として息子がパティシエになってくれればうれしいという思いはありましたが、しかし逆に、これまでにいろんな所でおやじの後を継いだ息子もたくさん見ています。100人いたら、おやじを超えているのは5人ぐらいです。だから自分の息子がそう言われるのは見たくないというのもありました。
 私は、後20年、90歳まではやるつもりでいます。90歳で朝8時前から夜の9時過ぎまで現場に立つというのは格好いいなと思います。新しい素材が入ったらそれで工夫して何かやってみたいと思います。ダックワーズも33年前につくったお菓子ですが、10回ぐらいは配合を変えています。いい素材に出合ったらそれが少々高くても使います。このダックワーズは22年前からずっと値上げしていません。いろんなものの値段が恐らく6割ぐらい上がっています。それでも何とか今のところはやっています。
 とにかく私は、いつまでも修猷館のころの気持ちとラグビーをやっていた流通経済大学のころの気持ちを持って90歳まで仕事をして、90歳を過ぎたら余生を楽しもうと思っています。

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■質疑応答

○吉田 45年卒の吉田保信です。三嶋さんのお菓子と同じ名前のものを別の会社さんで売っていて、でも残念ながらおいしくないのがあります。それは営業妨害と思われますか。

○三嶋 全然そうは思いません。勝手にやってくださいという感じです。食べれば分かります。ダックワーズはフランスでも何軒かやりだし、フランス人の有名なパティシエもうちに「教えてくれ」と来ています。私はパティシエとしてむしろうれしいことだと思っています。中には、おっしゃるように「えっ」というのもありますが、これは自分の息子のように思っていますので、その中にはできの悪いのもいるということです。自分が新しいものをつくったという自負があり、それがこれだけ流通しているということがうれしいです。

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○アオイ 平成7年卒のアオイです。福岡のホテルオークラで結婚式をしたのですが、昔から「16区」の大ファンでしたので引き出物に使わせていただきました。
 毎年新しい発想のお菓子を出されていますが、私は研究の仕事をしていて、その豊かなイマジネーションはどこから出てくるのかと思います。それをお聞きかせください。

○三嶋 一番は素材です。新しい素材を1時間ぐらいかけてゆっくり食べてみます。そうしないと分かりません。そして頭の中で味を組み立てますが、それがうまくいくときもあればいかないときもあります。ブルーベリーパイなんて10年以上かかっています。
 帝国ホテルのブルーベリーパイをご存じでしょうか。あれはGHQが帝国ホテルに滞在していた時に、マッカーサーがブルーベリーパイを食べたいと言って、アメリカから缶詰を持ってきてつくったのが最初です。私は帝国ホテルに入ってそのブルーベリーパイの焼き損じを食べた時に「こんなにおいしいのがあるったいね」と思いました。
 そして生意気ですが、自分が店を出したときにはあのブルーベリーパイをしのいだ物しか出さないと思ました。それで10年間一生懸命にやってみて、私たちパティシエの常識をはるかに超えるような温度で焼いたらうまくいったのです。やっぱり常識にとらわれてはいけないと感じました。常識というのは自分が経験したものの中から出てくるものですが、1回全部それを取っ払ったときに何かが出てくるということです。
 例えば、スランプのときには雲の動きを見るとか、山に行って林を見るとか、海に行ってポンポン船を見るとかして、そんな中で色とか形とかがヒントになることもあります。常に心をゼロにして何か新しいものをつくるという気持ちがあれば新しいものができると思います。ただそれですぐできるというわけではありません。もちろんすぐイメージどおりにできることもありますが、それは逆に全然印象に残りません。

○伊佐 44年卒の伊佐です。今日は大変尊敬申し上げまた大好きな三嶋先輩のお話を聞き、ちょうど修猷館の門を出たような気持ちになりました。今から二十何年前かの三八会の京都旅行にご自宅から修猷館の学生服を着て行かれ博多駅でじろじろ見られたという話を聞いたのが、私が三嶋先輩を知った最初でした。
 私は美術部にいて今は建築会社をやっています。建築のデザインについて、「濃い」とか「薄い」とか「薄いけど深い」とか、けっこう建築を食との相関関係で考えています。三嶋先輩は大変本を読まれたそうですが、言葉と味の関係について少し聞かせてください。
 もう一つ、和の最中の発想がダックワーズになったということでしたが、これからオリンピックがありますが、日本の職人として、オリンピックを迎えるときのお菓子の味のイメージをお持ちでしたらお聞かせください。

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○三嶋 二つ目のご質問については、どれだけ自分でイメージをつくるかということです。去年、安倍さんがやっている「クールジャパン」で日本の洋菓子の総合監督という立場で台湾に行ってきました。その時にやっぱりおいしいものは台湾人でも同じように感じてくれると思いましたので、オリンピックの時になったら考えられると思います。
 もう一つのご質問ですが、間違った言葉遣いについてうるさく言っている話はしましたが、音とお菓子、言葉とお菓子という関係で考えるのは難しいところです。これは難しい質問です。

○タナカ 30年卒のタナカと申します。先日、福岡に帰った時にタクシーで「16区」を訪ねてきました。そしたら私の実家のすぐそばでした。どうしてあのような閑静な住宅地にお店をつくられたのでしょうか。

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○三嶋 ケーキ屋さんというのは駅や中心地にあるのが多いのかもしれませんが、そういう所は人や車が多くてほこりが多いのです。私は清潔さを大切に考えていて、でもだからといって油山のてっぺんというわけにもいきませんので浄水通りの辺りになりました。
 それから、昔は浄水通りは部分舗装でした、私は草香江でしたが、浄水通りまで行って、工事現場でもらった板切れに戸車を四つぐらい打ち付けてひもで引っ張って遊んでいました。その時、仰向けに乗って上を見たときの木漏れ日が印象に残っていて、採算とは別にその木漏れ日が差していた浄水通りの近くでやりたいという思いはありました

○竹本 今では日本人がフランスに修業に行くのはあまり珍しくないと思うのですが、当時はやはり日本人は珍しがられたのではないかと思います。当時の大変だったというエピソードがあればお聞かせください。

○三嶋 私はパスポートは持っていましたが、ビザも労働許可証も滞在許可証も何も持ってなく社会保険も何もありませんでした。ですから一生懸命に人の倍ぐらい働かないといけませんでした。そうしないと認めてくれません。ぼんやりしていたのでは駄目で、仕事は自分から求めていきました。それについては苦労なんてありません。苦労話は何もありません。でも一緒にいた女房は苦労したかもしれません。アメリカなんかはもっと厳しいのかどうかは知りませんが、フランスは私みたいな人間を受け入れてくれました。

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(終了)