第646回二木会講演会記録

「福岡から世界へ、我が商社マン人生」

講師:藤本昌義氏(昭和51年卒)

◆講師紹介

○加藤 藤本君とは45年近くの付き合いになります。大学でも私のサークルに引っ張り込んで、いまだにその付き合いもあります。社会人になってからは、お互いに海外の生活が長く、私は金融機関ですのでニューヨークやロンドンだったのですが、商社の彼は、われわれには考えられないような所に勤務していました。特にベネズエラでは本当に苦労したようで、私はチューリッヒから見守っていました。
 今日は学生の方がたくさんいらっしゃっていると思いますが、大企業がどのようなかたちで考えて経営をやっているのかを聞かせてもらえると思いますので、楽しみにしていましょう。51年卒のGoing会の仲間が30人くらい来ています。あの藤本が商社の社長になって、どのようなことをしゃべるのかとみんな楽しみにしています。今日の彼は柄にもなく緊張しているようですが、もう一段ぐらいプレッシャーを掛けて、私の紹介とさせていただきます。

nimoku646_01.jpg

■藤本氏講演

 双日株式会社代表取締役社長の藤本昌義です。今日は私の話にこんなにたくさん集まっていただいて本当に恐縮しています。

■略歴

 私は1958年、福岡市西新で生まれました。父親の仕事の関係で、小学校を三つ、中学校を三つ、高校を二つ行きました。小学校は、草ヶ江小学校に入学し、その後、佐賀に5年いて、福岡の宮竹小学校に戻り、那珂中学に入りました。高宮中学に移り、大分の城東中学に転校しました。そして大分の舞鶴高校に入学し、2学期からは修猷館に転入しました。その後、慣例に従って1年浪人して、東京大学の法学部に入学しました。
 弁護士になりたいと思って法学部に入ったのですが、法律は私には向いていないと断念しました。自分がどこに就職したいのかが全く分かりませんでしたが、たまたま司馬遼太郎の『龍馬が行く』を読んで、「海外に出ていきたい」と考え、商社を受けようと思いました。
 そして商社回りをして、最終的には日商岩井に決めました。決めた理由は、表向きには「みんな元気がよくて若い時から仕事を任せてくれそうな会社だった」と説明していますが、実は、三菱商事とか三井物産とかを回った時に、皆さん七三分けをしておられたのに、日商岩井だけは普通の髪型でしたので、それで大丈夫ならと思ったのが本音です。
 ただ私の両親にしてみれば、東京大学まで出したのに日商岩井かと、若干がっかりしたようでした。「寄らば大樹の陰」で、親はどうしても大きな会社を勧めます。ただ大きな企業も、その後つぶれたりかたちが変わったりした企業もあります。やはり自分の人生は自分で決めて自分で責任を持つということが大事だと、今となってはそう思います。

nimoku646_02.jpg

■総合商社・双日とは

 双日は、2004年に、当時の日商岩井とニチメンが合併してできた総合商社です。ニチメンも、日商岩井の源流となる鈴木商店、岩井商店も、明治の初期にできた会社で、源流をたどれば150年の歴史を持つ会社です。
 双日という会社を立ち上げた当初は、早稲田実業の「早実」と間違われるくらい知名度が低かったのですが、今の若い学生たちは逆に、日商岩井とかニチメンと言っても理解してもらえない人のほうが多くなっています。
 会社の規模は、昨年で568億円の当期純利益、従業員は単体で2,441人、連結では18,813人です。総合商社の中ではまだまだ最下位です。
 当社は、自動車本部、機械・医療インフラ本部、航空産業・交通プロジェクト本部、エネルギー・社会インフラ本部、金属・資源本部、化学本部、食料・アグリビジネス本部、農業基盤・都市開発本部、リテール・生活産業本部の9本部制をとっています。ニチメンは柔らかい分野に強かったのですが、日商岩井系の会社はもともと鉄とか機械に強かった会社ですので、今でもハード系が強い会社です。

■双日の源流の一社、鈴木商店の盛衰

 双日の源流は、鈴木商店、岩井商店、日本綿花の三つなのですが、「お家さん」というドラマが2014年に読売テレビで放映されました。これは、鈴木商店の物語です。鈴木岩治郎が、辰巳屋というところからのれん分けされて鈴木商店をつくります。その岩治郎が亡くなった後に、奥様のヨネさんと若い番頭の金子直吉でその鈴木商店を大きくしたという話です。今年の5月には竹下景子さんの主演で「お家さん」が舞台化されます。
 鈴木商店は神戸の小さな洋糖商人から、1917年には当時の三井物産を抜いて日本一の総合商社の地位に上り詰めます。鈴木商店が設立した会社は、神戸製鋼所、IHI、帝人、サッポロビール、日本製粉、昭和シェル石油、ダイセル、J-オイルミルズ等、80もの製造事業を日本で設立しました。海外の技術を日本に持って来てその事業を興すことで、日本の明治大正期の産業革命を牽引してきました。
 福岡県にも鈴木商店の名残があります。北九州の大里(だいり)地区と下関の彦島には現在の神戸製鋼所、サッポロビール、日本製粉、ニッカウヰスキー、三井化学、日本金属などの工場が多数あります。このような会社の源流をたどれば鈴木商店です。
 そのような鈴木商店の天下も長くは続きませんでした。急激に事業を拡大していったことに対して人々の妬みを買い、米騒動の時には、鈴木商店が米の買い占めをしているという大阪朝日新聞のデマの記事によって、神戸の鈴木商店の本店は焼き打ちに遭いました。そして1927年に鈴木商店は破綻します。これは資産を大きくし過ぎて、資金繰りが悪化して倒産したのです。台湾銀行からの借り入れが止まって、黒字ながら倒産したと聞いています。
 鈴木商店は、一直線の拡大路線で来て大きな資産を抱えて日本一の総合商社となったのですが、第一次世界大戦後の経済の浮き沈みの影響を受けて倒産の憂き目に遭ったのです。この時の教訓から、現在の双日では、一定期間におけるキャッシュフローの黒字化堅守を大事に考えています。
 鈴木商店は倒産しますが、その後ロンドンにいたエースの高畑誠一さんら若手を中心に39名で日商という会社を設立します。この日商は当時、鈴木商店を継いで、船舶、航空機、鉄道、LNG、鉄鋼、石炭、木材、食料等で強みを発揮して業界をリードしてきました。そして、1968年に富士製鉄と八幡製鉄の合併を機に、日商と岩井産業が合併して日商岩井になりました。そして2003年に、日商岩井はニチメンと経営統合し、1年後の2004年に双日が発足しました。
 日本綿花については、何年か前のNHK連続テレビ小説の『あさが来た』で、あさのご主人の廣岡信五郎さんは風流人で何も仕事をしない人として描かれていました。実際には、綿花の輸入が全部外国の商社に牛耳られていたことに奮起して、当時の大阪の紡績業のトップ25人の1人となって、日本綿花という会社を設立して綿花の輸入事業に乗り出し、東アフリカの奥地で綿花を栽培しました。双日は、そのような会社を源流に持つ会社です。

■我が商社マン人生

 私は、1981年に日商岩井に入社して輸送機械部に配属されました。そして入社5年目の1985年に、デトロイト駐在を命じられました。最初は英語も分からず、寂しい思いと不安な気持ちでいましたが、1986年にあのスペースシャトル・チャレンジャーの不幸な事故がありました。その時にオフィスにいた従業員がみんな泣いていて、この人たちも人間なのだ、同じ感情を持っているのだということを感じてからは、何とかなるのではないかと前向きに思うようになりました。
 そして1992年に日本に帰国し、当時の自動車部に入り、今度は自動車の輸出に携わり、1996年にポーランドのTOYOTA PORLAND MOTORにCFOとして出向しました。当時のポーランドは、1989年に東西の壁が崩れたといってもまだ共産圏の臭いが残っていましたが、本当に素晴らしい国で、物価は安かったですし、女性は本当にきれいでした。2000年に東京に帰ってこいという辞令をいただき、経営企画部で働くことになりました。
 日商岩井は、1998年に特金ファントラで1,600億円の損失を出して資金繰りが厳しくなって、資産の圧縮をしなければならなくなっていました。特に2001年9月にマイカルの社債が途切れてほとんど外部からの資金調達ができずに、毎日、夜中の1時2時までずっと資金繰りをやっていました。私は機械担当でしたので、機械の各本部を回って1日でも早く売掛金の回収をお願いするとか資産の売却をするという仕事を、2002年の終わりから2003年3月まで続けることになり、その間は休みもほとんどない悲惨な状況でした。
 それを何とか乗り越え、2002年12月に日商岩井とニチメンの統合を発表、2003年の4月に、双日ホールディングスとして再出発することになりました。
 私はそのホールディングスには行かずに、2003年から自動車の営業部に戻って2003年からは自動車第三部部長として、自動車をつくる設備機械を売る仕事を2008年までやりました。
 そして2009年に、今度はベネズエラに赴任しました。ここでは当社は自動車の組み立て販売をやっていました。普通、このような自動車組み立てをやる時は、メーカーがマジョリティを取って商社がマイノリティで経営するのですが、ここではなぜかMMC Automoritzを、双日が97%のシェアで経営するという状況でした。
 ここは共産色が非常に強いポピュリズム政治で、私が社長として行ってすぐの12月に、過激な労働組合に工場を乗っ取られました。それで警察に届けて、裁判官を連れて工場を取り戻そうと乗り込んだところに銃撃戦が起こって2人が死亡しました。それからが本当に地獄のような日々でした。労働争議の中、ようやく工場を明け渡してもらい、工場を再開しました。労働組合も当然残っていますので、今度は過激な労働組合が善良な労働者を工場に入れないようにするとか、働いたら殴るとかの暴力事件が多々起こり、1日で70台生産出来る自動車工場で4、5台しかできないような日々が続きました。このまま行けばもう倒産というところで、最後の賭けとして、全ての労働者を自宅待機にさせてロックアウトして、MMCはベネズエラから撤退ということにしました。これが新聞に出て、労働省から、「ロックアウトはこの国では禁じられている」と言われました。そこから2週間、膝詰めで談判して、工場を開ける代わりに労働組合の幹部200人の首を切ってくれと交渉して、最終的に、工場を開けることに同意しました。
 今でも忘れませんが、その交渉が終わったのが2時ぐらいで、会社に戻って幹部を集めて報告しました。そこで反対意見も出ましたが、それを押し切って、最終的には工場を開けました。労働組合の幹部の首を切るのには少し時間がかかりましたが、無事に新しい労働組合を立ち上げました。そして2011年には日産70台をフル生産できるようになり最高益を出すに至りました。そのような苦労をしてこのベネズエラで社長を4年間やりました。
 当時の経験で思ったのは、基本的にはベネズエラのことなので、日本の本社からはいろいろ言ってくるのですが、それは役に立たず、全部自分で決めて自分でやって、自分で責任を取らなくてはいけないということです。これがプレッシャーとなり本当に苦しい経験をしましたが、無事にやり遂げることができてよかったと思っています。
 その後、2012年にニューヨークに駐在となりました。54歳でのニューヨーク駐在でしたから、これが多分最後のお勤めという感じでした。4年間くらいニューヨーク生活をエンジョイして、最後は、福岡に双日の子会社の双日九州がありますので、そこに行かせてもらえれば私の人生は満足だと考えていました。
 すると2014年に突然、本社に帰れという辞令が出て、経営企画担当理事ということでした。そして半年間理事をやり、2015年の4月に執行役員、2015年の10月に常務、2016年に専務、2017年に社長に就任し、今、社長をやっています。

nimoku646_03.jpg

■双日誕生以降の環境変化

 昔は先進国が世界のGDPの79%を握っていましたが、2017年は60%、将来は58%になると言われています。また、資源価格は、新興国の台頭で2004年から2013年ぐらいまで高騰しました。双日を除く商社はこの時に莫大な利益を上げています。そして新興国では中間層が増えてきていて、今、中国からのインバウンドが増えています。私が最初に中国に行ったのは1992年でしたが、当時は飛行機に乗るのも簡単ではなく、北京から洛陽まで寝台車で行き、出張先でトイレを見つけるのも大変で、泊まる所にも苦労しました。先週私は中国の深圳に行っていたのですが、変化の大きさに驚きました。キャッシュはもう使っていなくて、全部Pay PayなどのQRコードです。QRコードを持っていない我々は何もできずに非常に困りました。そのような中で、日本の貿易収支は、2011年以降、赤字です。
 商社というのは、初めはトレードから始まって、鈴木商店がそうであったように、外国の技術を取り入れて日本の事業会社を興してきました。そして高度成長時代に、その事業会社が日本で安定して生産できるようになり、今度は商社が日本のメーカーさんの製品をかついで世界に売り歩いて、先兵となってマーケティングをやるという時代がありました。私が入った1981年というのは、そのような時代の最後で、当時はもう商社は冬の時代と言われていました。
 1985年にプラザ合意というのがあり、円がどんどん切り上がっていき、日本の製品の輸出競争力が低下していきました。対外直接投資も1985年から1990年にかけて、日本のメーカーさんが積極的に行うようになりました。
 そのようにして、日本の商社が日本の製品を海外で売り歩く時代は終わり、商社のビジネスもいまや事業投資と事業経営というところに軸足を移しています。そのように、商社はなくなるのではないかと言われつつ、姿かたち、業様を変えながら今の時代に至っています。
 そして最近では、サステナブルな事業経営ということが投資家からも言われていて、当社のサステナビリティというところで、我々のモットーは、双日が得る価値と社会が得る価値の両者を両立していくことです。先日、宮古島列島の下地島の空港に出資して、空港のオープニングをやりました。その時に思ったことは、事業をやる側としては、観光客を増やすことが収益につながるのですが、ただ宮古島の本当にきれいな海を守っていくことも我々の使命だと思っています。そのためには、観光客を増やすだけではなく、自然環境を保全することでその地域の人に貢献することも心掛けていかないといけないということをつくづく思いました。

■社長として意識していること

 デジタルトランスフォーメーションで、社会と時代が全く変わっていくと言われている中で、いろいろ新しい事業に取り組もうとしています。今、金属を使った3Dプリンターの事業を展開しています。またCVC(コーポレート・ベンチャー・キャピタル)という投資ファンドを設立して世界の新しい技術に触ってみようとしています。それから、人口増大と生活水準の向上ということを考えると、農業の工業化が必要になります。これまで勘と経験に頼ってきた農業を、IoTとAIを使って、ベテランの経験値に基づかない農業を展開していきたいと考えています。
 鈴木商店の破綻や日商岩井の経営危機の経験から、キャッシュフローを重視する身の丈の経営、つまりお小遣帳の経営ということを掲げています。そして、ベネズエラ時代や経営統合の時の思いとしては、どんなに辛いことがあってもいつかは終わる。最後は、「人事を尽くして天命を待つ」ということです。人間は努力しても自分の運命は変えられません。割り切るところは割り切るしかないと考えています。
 社長になって言い続けていることは、「現場力」、「スピード」、「イノベーション」です。「現場力」は、いろいろな経験をして、そしてそれを身に着けるということです。「スピード」は、自分のところで決められないことは上司に相談するということを徹底することによってスピードアップを図るということです。「イノベーション」については、やはりチャレンジするということです。日々変えていくことを恐れないということです。
 最近、双日のテレビコマーシャルを始めました。発想を実現する総合商社ということで「Hassojitz」とうたっています。この「Hassojitz」を合言葉として、これを会社の中で広めようとしています。
 ご清聴ありがとうございました。

nimoku646_04.jpg

■質疑応答

○上田 最近は、例えば熊本空港の経営に参画されるということでしたが、インフラ整備は、もともとは国や地方公共団体が実施してきています。商社が入って立て直すとなると、どんなマジックがあるのかと興味深く思います。その辺りをお尋ねします。

nimoku646_05.jpg

○藤本 私どもはボーイングの飛行機を長年扱ってきている関係上、中国を含めて各国の航空会社とのコネクションがあります。空港の運営はプロにお任せするのですが、われわれは、LCCとか外国の飛行機会社に発着してもらう交渉をします。今、下地島の空港も、香港エクスプレスとか中国の春秋航空とかに飛んで来てもらうように交渉しています。その辺で貢献していこうとしています。

○伊藤 58年卒業です。私は投資に関わる仕事をしています。最後におっしゃられた「現場力」について、今の日本では、先輩のように現場を駆けずり回っていろいろな経験をする機会がなかなかありません。その辺りを先輩はどのようにお考えでしょうか。

nimoku646_06.jpg

○藤本 各本部の部長や課長には、とにかく新人を採り続けろと言っています。自分の下の年代が来ると、自分がやっている仕事を下に渡し、自分は一つ上の年代から仕事をもらって成長していきます。そうすると、課長代理くらいが余って、新しいことをやってくれます。自分がやってきた仕事をきちんと手渡していくことで、早くから鍛えていけるようにしています。そのようにして新しい人間を採り続けて新陳代謝していくことが今の現場力につながると思います。
 それからもう一つは、チコちゃんではありませんが、ぼぉっとするなということです。世の中のいろいろな動きをキャッチしてリスクマネージをしていきなさいと言っています。世界の情勢は他人事ではないのです。そのようなことが現場力ではないかと考えています。

■会長あいさつ

○伊藤 今日は、現場の力と全体を俯瞰する力の両方があって初めて立派な仕事ができるんだなと思いました。それは商社に限らずいろいろなところで心得るべきことだと思いました。私も警察に長くいましたが、警察も半分以上が現場の仕事で、現場で仕事をしてそこでの力というものがやはり全体を見ていくときに大きな力になっていくという感じがしました。
 私事で恐縮ですが、私も公務員試験を受ける前に、民間企業も受けようと思って、某商社の門をたたいたことがあります。しかし、もう採用は終わったと言われました。当時はそれくらい商社人気がありました。当時は、日本と世界を結んで世界を俯瞰しながら仕事をするというのは、私自身も魅力的に感じていました。
 藤本さんは、会社の全体を見ながら、日本のあるべき姿、そして会社のあるべき姿を考えておられ、今日の講演の中でもまた質疑の中でも大変示唆に富むお話がたくさんありました。
 今日は懇親会もありますので、質問できなかった方は懇親会の場でさらに直接社長に話を聞いてください。学生の人たちはなかなかそのようなチャンスもないと思いますので、こうした場面で先輩方の話を聞いていくことが大事だと思います。今日はありがとうございました。

nimoku646_07.jpg

昭和51年卒(Going会)の皆さま

nimoku646_08.jpg

(終了)