第644回二木会講演会記録

が国の観光産業の過去・現在・未来~多くの失敗体験を交えて~」

講師:小原健史氏(昭和42年卒)

◆講師紹介

○川崎 私は小原さんと高校で同期、友泉中学でも同じクラス、部活も同じ卓球部、そして塾も同じでした。その塾は森田修学館ですが、当時は寺子屋のような塾で、私たちはその1期生です。小原さんは、佐賀の嬉野から1人で福岡に出てきていらっしゃいました。慣れない環境だったと思いますが、いつも穏やかでひょうひょうとしていて優しい人でした。
 小原さんとは高校卒業後、今から10年前に再会しました。私が大学の教員をしていて学生たちを連れて北部九州を旅行した時に和多屋別荘に泊めていただきました。この時の小原さんの印象も中学時代と変わらず、優しくて穏やかで、それにホスピタリティも加わって、やはり旅館の経営者だなと思いました。
 小原さんのお父さまは、佐賀県の経済発展に多大な貢献をされ、佐賀の政治の世界でも活躍され、「佐賀の田中角栄」と言われた方です。そしておばあさまは、商事会社を営む女傑で、幕末の長崎の女貿易商「大浦慶さん」のような方だったそうです。小原さんはおばあさまの代からの実業家としてのDNAと、大学で学ばれた経済学の理論、そして実践から学んだ行動力と本人の優しさという資質が揃っているわけです。その小原さんが、これからの日本経済の大きな柱の一つになる観光業のリーダーとして活躍しておられることは頼もしく、友人としてとてもうれしいことです。

nimoku644_01.jpg

■小原氏講演

 私ごときがこのような場でお話をさせていただいていいものかと思いましたが、実は松尾幹事長のお母さまが私のいとこになり、数カ月前に連絡があり、「けんぼうちゃん」と何十年ぶりに呼ばれ、「東京修猷会でお話をするよう、息子が言っている」と言われたので、今日のお話をお受けした次第です。

nimoku644_02.jpg

■観光産業の過去

 嬉野はかつて「西日本一のピングゾーン」とスポーツ新聞に載るような街でした。昔は、温泉旅館は団体で男性が歓楽的に遊ぶ場所という色眼鏡で見られている部分があったと思います。夕方、旅館に入って、ドンチャン騒ぎをして、翌朝、帰るという形態でした。和多屋別荘は、当時400人くらいは対応できましたので、バス10台くらいでお客さんが来て、そのパターンで帰っていくというのが多かったです。
 高度経済成長期が終焉すると、オイルショックを経て、旅行の形態が変わっていきました。それは湯布院からと言われます。亀の井別荘の中谷健太郎さんや、玉の湯の溝口薫平さんなどが、ドイツのバーデンバーデンのような保養型温泉地の街づくりをやろうとしました。1970年代中期には、アンノン族と言われた女性たちが津和野や萩を訪れるようになり、旅行も団体から個人やグループに変わっていき、女性が主導するようになりました。

■観光産業の現状

 平成の時代に入り、観光立国推進基本法が制定され、観光産業が国策として公認されました。私も業界人として当時の運輸省(国交省)の人と一緒に観光大学校の設立計画などいろいろとやりました。その後、観光庁が生まれて、さまざまな施策が行われるようになりました。訪日プロモーションを策定したり、また、今、観光地経営のかじ取り役としてDMO(Destination Management Organization)ということが言われたりしています。地域全産業で観光地のマネジメントをやろうというものです。各地にDMOをつくれというのが観光庁の指導です。観光地、温泉地発で、民間が地域をマネジメントして、一体的な地域経営をやっていこうということです。
 そして、九州は特に東南アジアに近いですから、韓国、台湾、中国の方がたくさん来ます。特に中国人観光客が訪れる日本の「ゴールデンルート」とは、東京から富士山に行って、河口湖辺りに泊まって、京都に行って、大阪でショッピングをして関西空港から帰るルートのことですが、これも今では多様化してきています。リピーターは東京ではない心の古里みたいな日本らしい所を体験したいと、地方を訪れています。その地方自身はまだ感じていないようですが、地方の観光はこれからがチャンスだと思っています。
 ただ、最近になって問題が発生し、それは「オーバーツーリズム」と言われている外国人観光客が増えすぎていることで、例えば、湯布院の湯の坪街道のすてきな空間は、今はハングル、中国語であふれています。飛騨の白川郷では外国人が来すぎて困るからと、1日5千人で打ち切ることにし、駐車場や展望台の予約制が始まったと報道されていました。和多屋別荘のロビーは今、ソウルのホテルのようです。毎晩ハングルが飛び交っています。各地でそのような状況が見られる場面が増えています。

■観光産業の未来

 日本の人口は少子高齢化で100年後には半減するという説もあります。そして最新の統計では、増加する高齢者は3,500万人を超えました。そして障がい者は936万人います。その合計は日本の人口の3分の1をオーバーしていきます。その人たちは宴会場で畳に座ることはできません。そのようなことも含めて、バリアフリーということがハードとソフト両面で大切になってきています。ある時、お客さまの車いすを勝手に押したら、本人から「触るな」と言われました。その車いすは家族にしか触らせないということでした。ソフトというのはこのようなことです。和多屋別荘は玄関のじゅうたんが分厚いのですが、車いすの操作が重くて不便などいろいろなことがあります。
 バリアフリーとUD(ユニバーサルデザイン)の違いですが、UDは老若男女、全ての人々が幸せな生活を送れるように、楽しい旅ができるようにと考えられたものです。バリアフリーは障がい者や高齢者などの生活弱者のための言葉です。これらの思想の啓発普及が大切になってきます。その中で、お金をもらってお泊めする以上、「不満足」という回答があったらそれは欠陥商品で、満足は当たり前という考え方でいかなければなりません。満足は当たり前、その上の感動や幸福感まで提供すべきです。
 また、訪日旅行者は短期の滞在です。外国人の就労・就学を中期の移住、さらに期間が延びれば長期の移住と考えてよいと思います。その捉え方の中で、今、われわれは短期の移住に向き合っていきます。
 嬉野でお客様が落とすお金は、あの小さな街で200億円です。それに比して定住人口の減少でその経済力の低下は加速度的で、経済の基礎は人口ですから、それを埋めるには定住者をつくらなければなりません。私は地元の商工会長として、別府のAPUアジア太平洋大学のような日本語の研修センターを嬉野につくろうと思っています。3千人の学生が増えれば、嬉野に経済効果が生まれますし、夜は旅館や飲食店でアルバイトをして労働力の供給にもなると思います。

nimoku644_03.jpg

■嬉野温泉での最新の取り組み

 嬉野にバリアフリーツアーセンターをつくりました。高齢者や障がい者の旅のサポートセンターです。今は全国に約20カ所程度ありますが、嬉野では入浴介助というのを初めてやりました。ヘルパーさんと提携して、1泊2食の料金に5千円を追加してもらって、ヘルパーさん2人に2千円ずつ渡し、1千円をバリアフリーセンターの手数料としています。これは非常に喜ばれています。若いころ嬉野温泉で芸妓さんと遊んだおじいさんが、半身まひになって、ヘルパーさんに入浴させてもらって大変喜んでくれたこともありました。このシステム開発で国土交通大臣表彰をいただきました。今、国連の観光部門にノミネートされているそうです。
 福岡の糸島に「らかん」という民間救急の会社があります。そこと連携して、重篤な入院患者さんの温泉旅行を実現させました。ストレッチャーで運ばれて、初めて嬉野温泉に来ました。来る時から、救急車の中で鼻歌交じりだったそうで、大変喜ばれました。
 それから、車いすテニス大会や、湯らっくすコンサートを実施しています。飯塚国際車いすテニス大会というものがあります。最高ランクのスーパーシリーズに格付けされていて、国枝選手なども参加していますが、優勝賞金はたった30万円です。これはあまりにも安すぎます。裾野の問題があるとは思いますが、もう少し障がい者スポーツを見直したいと思っています。
 障がい者スポーツのボッチャの普及啓発も行っています。カーリングのお手玉版みたいなものです。嬉野で市民大会を4回やりました。嬉野はお茶どころですから、「嬉野は緑茶、紅茶、ボッチャ」を合言葉に活動しています。

nimoku644_04.jpg

■私の失敗体験

 私の最初の失敗体験は、修猷館で不登校になったことです。私は嬉野小学校でも友泉中学でも成績はトップクラスでした。でも修猷館では下位でした。中学時代のガールフレンドのお父さんが亡くなって、修猷館に入った途端に埼玉に移住したので、がっくりきたこともあったのかもしれません。修猷館では追試を3回くらい受けてやっと卒業証書をもらいましたので、今日、私がお持ちした資料に「昭和42年卒?」とクエスチョンマークを付けております。
 二番目の失敗体験は、山陽新幹線博多駅開業で福岡が大きく発展し、その好影響で嬉野温泉の宿泊客が急増したので、黒川紀章さん設計の12階建ての和多屋タワーを20億円くらい投資して建設しましたが、完成後の資金繰りがうまくいきませんでした。私はそれで強度の心身症になり、心療内科に行って薬を飲んでいました。後で聞くと、これは自殺防止の薬だったようです。最後には唐津湾に飛び込みました。自殺未遂に終わりましたが、一念発起し、大型旅館の中に高級部門をつくり、これがヒットし立ち直りました。
 もう一つの失敗体験は、昭和の終わりに、ニューヨークで出されたプラザ合意により、大金融緩和の時代になりました。その波に乗って、1990年に「肥前夢街道」というテーマパークを開業しましたが、当初、一時的に盛況でしたが、10年後破綻し、うまくいきませんでした。

nimoku644_05.jpg

■私の個人的な信条

 一つは「夢は大きく限りなく!」ということです。1m先の安易な目標ではなく、100m先や1㎞先の困難な目標に向かおうということです。人生かけての夢は、ライバルや敵からの逆風で押し戻され、また、身内からも足を引っ張られるかもしれません。人生の夢が例え半分達成したとしても、目標を1mよりも1㎞先に置いていれば、そこには10倍や100倍の栄光と幸せがあると信じてやろうということです。抵抗勢力を、館歌にある「彼の群小を凌駕して」ということです。
 もう一つは、「喜怒哀楽よりもワンアクション」。喜怒哀楽を感じて生きることは大事です。でもそれに振り回され過ぎて布団の中で涙を流しても何の解決もしません。私は自閉症の子供と露天風呂で語り合いたいと思っています。「何を悩んでいるのか。悩んで解決するのか」と言いたいです。勉強するか遊ぶかどちらかを選びなさい、アクションを起こそう!と言いたいです。アクションを起こして、行動で克服したいと思っています。
 三つ目は「事業に先見性はない」ということです。先見性なんて私は嘘だと思っています。生きていく上で選択肢がありますが、大体これだなと思ったらそれを選ぶのです。私はそうしてきました。そして、その選択は正解だったと言えるように、後追いの努力が必要です。先見性の本質は大いなる決断力と後追いの努力です。迷ってばかりいてはどうしようもありません。私はたくさんの失敗をしてきましたが、決断だけは折々にしてきたつもりです。でも後追いの努力が足りませんでした。

nimoku644_06.jpg

■質疑応答

○桐明 私も十数年前から旅館再生、ホテル再生、ゴルフ場再生など、再生支援を行ってきていますので、和多屋別荘さんの件は始まりのところからずっとウォッチさせていただいていました。官公庁がDMOと騒いでいますが、これは本当に観光振興に役立っているのでしょうか?

nimoku644_07.jpg

○小原 痛いところを突かれました。なかなか難しいと思います。というのは、各地の温泉地はそれぞれいろいろな絡みがありますから、いきなり肩を組んで地域経営を一緒にやるというのはかなり難しいと思います。小異を捨てて大同に就く地域が発展すると思いますが、観光庁がおっしゃるほどDMOはスムーズにはいかないのではないかと危惧しています。

○片山 私は看護師をしています。関東圏内のバリアフリーツアーセンターを教えてください。それから利用するときの注意点やアドバイスをお願いいたします。

nimoku644_08.jpg

○小原 一番近い所は湘南バリアフリーツアーセンターです。利用する時はどのような症状で何をしたいかを伝えてください。それに応じて適した所を紹介してくれます。職員は旅館の部屋の構造まで頭に入っていて、親身に相談に乗ってくれます。

○渡辺 嬉野温泉の魅力を教えてください。

nimoku644_09.jpg

○小原 嬉野温泉は、温泉観光とお茶と有田焼の大外山があります。温泉はpH8で、アルカリ性でぬるぬるします。嬉野温泉と島根県の斐乃上温泉と栃木県の喜連川温泉の三つを「日本三大美肌の湯」と言うそうです。それから温泉湯豆腐がおいしいです。温泉水で炊くと豆腐が溶けるのです。昔は芸妓さんが300人くらいいましたが、今は15人くらいです。そのようなものを求めて来られると違うかもしれませんが、サービス精神は旺盛です。

○島津 私は旅行で佐賀の国際空港に降りて、嬉野から長崎に行きました。嬉野温泉に入って肌がすべすべになる体験をしました。そしてバスはシュガーロードを走って長崎に行きました。長崎ではシュガーロードの説明がありましたが、嬉野のバスではその説明がありませんでした。これはもったいない話だと思います。その辺りいかがでしょうか。

nimoku644_10.jpg

○小原 確かに、小城羊羹(ようかん)などがあり、お菓子屋さんたちはシュガーロードの意識は強くあるようですが、旅館組合ではあまりその意識はないようです。その話は後輩たちに伝えたいと思います。

○田中 私は会社でボッチャ部に入っています。今日はボッチャの話が出て驚きました。私は福岡に帰るとホテルに泊まることが多いのですが、学会とかコンサートがあるとすぐにホテルがいっぱいになります。これから東京オリンピックもあり観光客は増えると思われますが、人口が減ってくるとホテルは余るようなこともあるのかもしれません。今後の旅館業、観光業はどのようになっていくとお考えでしょうか。

nimoku644_11.jpg

○小原 旅館は減っていてホテルは増えています。今後は、日本人だけを相手にしていると100年後には半分になると思いますから、インバウンドが大切になってきます。私は東アジア観光コンソーシアムをつくりたいと思っています。日本と韓国と中国と台湾と4カ国が共同で出資して極東の観光振興を進めると、稼働率が安定してくると思います。稼働率はホテルの使命です。今日足りているかいないかという話ではなく、年間稼働率をしっかり見ていかなければなりません。
 家内がやっている福岡の原鶴温泉は、一昨年の8月の大災害のときは、原鶴温泉の旅館15軒全部がお手上げで売上がゼロに近かったのですが、うちは報道関係者が使ってくれて100%稼働しました。ピンチはチャンスなのです。ビジネスにはいろいろな視点が大事です。

■会長あいさつ

○伊藤 今日はこの二木会のためにわざわざ福岡から来ていただきました。彼と私は42年卒の同期生で、クラスも3年生の時は一緒で、結構顔を見ていましたから、彼が言うほど不登校ではなかったような気がします。
 大学を出てから地元で嬉野の旅館をやっているということは聞いていましたが、旅館業もこの50年間、いろいろな浮き沈みがあったということを今日のお話を聞いて知りました。肥前夢街道をやっているという話も聞いたことがありましたが、その後、山あり谷ありの中で、その谷を乗り越えて今日まで来られて、全国の旅館業のため、自分の旅館経営のため、そして嬉野のためにやっていらっしゃるということを今日つぶさにお伺いしました。自分で言うのも何ですが、昭和42年卒というのは立派な人間が多いなと思いました。(笑)
 日本は、インバウンドで来年は4千万人を目指すと言われています。確かに東京も中国語やハングルが飛び交うような時代になってきました。これからの観光業、旅館業の発展のためにご尽力ください。

nimoku644_12.jpg

(終了)