第628回 二木会・新入会員歓迎会記録

『外国での日本文化史講義-北京・ソウル・ブタペストの大学で』

講師:大隅 和雄 氏 (昭和26年卒)

■講師紹介

○中村 私どもは昭和20年に福岡県中学修猷館に入学した仲間です。昭和23年に福岡県中学修猷館併置中学校を卒業し、4月に福岡県立高等学校修猷館に入学しました。そして昭和26年に福岡県立修猷館高等学校を卒業しました。当時は学制改革で、入った時から出るまでいろいろ違った名前でした。
 大隅君のおじいさまが九大の名誉教授で、高校2年の時に、都府楼・太宰府の古いお寺や旧跡を、そのおじいさまに案内していただいたことがあります。その後、私は九大に入ったのですが、そこでお父さまが工学部の教授をされていました。そして、弟さんが東工大の栄誉教授でいらっしゃってノーベル賞を受賞されているという学者一族でいらっしゃいます。われわれはこのような立派な人と同期であることを誇りに思っています。

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■大隅氏講演

○大隅 私は長年教員を務めていましたので、椅子に座ってお話しするのは調子が出ませんので、立ってお話しさせていただきます。
 私は、もう10年くらい前になりますが、ここでお話をしたことがあります。その時は、二木会は現代の政治・経済の問題をめぐる話題が取り上げられることが多いので、たまには文学部系の話題も、ということでした。今日は、年度始めの会であり、それに相応しいお話ができるかどうかと心配しています。
今日は、新しい目標に向かって第一歩を踏み出された新卒の方々、新年度から東京にお出でになった方々を、東京修猷会にお迎えする会です。初めて参加された方々に、心から歓迎の意を表して、皆さんの今後の発展をお祈りいたします。
 私は、1945年に福岡県中学修猷館に入学しました。入試の途中で空襲警報が出て、試験は中止になり、内申書の選抜で入学した学年です。その上、旧制中学の4年生になる心算が、学校制度の改革で、そのまま高等学校一年生になりました。ですから、私の学年は、入試なしで6年間過ごした学年ですが、敗戦後の混乱と解放的な雰囲気の中で、自由で大らかな日々を送った修猷館の6年は、他に比較するもののない貴重な学校生活でした。そのことを大変誇りに思って修猷館に感謝しています。
 年寄りの思い出話をすればきりがありませんが、今日は、日本文化というものを巡って、わたしが外国で感じたこと、考えたことを、少しだけお話しようと思っています。

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■はじめに

 3年後に東京でオリンピックが開かれます。私は、オリンピックで競技以外にも、開会式にとても興味を持っています。
 1936年のベルリン・オリンピックの記憶からか、第二次大戦後、開会式に強烈な主張を込めることは控えられるようになりました。それが、私の記憶では、ミュンヘンの開会式で、バイエルンの歴史を表わす演出が行われたあたりから、開会式で、開催地の歴史と文化を披露することに力を入れるようになりました。アボリジニの歴史を表そうとしたメルボルン、夜のゲレンデで行われた美しいリレハンメルの開会式は見事でしたし、ソウルの開会式も立派で、野外の大行事の伝統に乏しい日本で、これだけの演出ができるだろうかと思いました。長野の開会式では、縄文文化の面影を残すと云われる諏訪大社の御柱、伊藤みどりの女神、曙の土俵入りなど、日本の珍しいものを見せようとしましたが、見ている人を感動させるようなものにはならなかったと思います。
 私は、東京オリンピックの開会式で、日本の歴史と文化をどんな形で表現するのか、先ほどお話しした通り、強い関心を持っています。あと3年、生きて見たいと思っています。
 そんなことから、私が外国の大学で日本文化の話をした時に感じたことを、お話ししようと思ったわけです。

 私が中学修猷館の1,2年生の頃、戦後の混乱で教科書がありませんでした。数学や理科の教科書は、新聞紙を折り畳んだような形の教科書が何回かに分けて配られ、歴史や国語の教科書は、戦時中の本に細かな指示をうけて墨を塗りました。一番ひどかったのが国史の教科書で、こんな全体の筋が分からなくなってしまうような教科書は一体どんな人が書いたのかと思った私は、自分で歴史を確かめたい、歴史とは一体何なのか考えたいと思って、文学部国史学科に進学しました。
 戦前の日本史の教科書は否定されたのですが、外国では日本史研究が盛んで、ノーマンの『日本における近代国家の成立』、ドーアの『江戸時代の教育』、ジャンセンの『徳川時代の宗教』を始め、優れた成果が次々に紹介され、私たちを驚かせました。ただ、私もそれらの本は読んだのですが、当時の外国人の日本研究は、日本の近代化の問題に集中していましたから、中世文化について考えていた私は、外国人の研究から直接の影響を受けることは余りありませんでした。
 ところが、日本の経済発展で、外国の人達の日本に対する関心が高まり、外国の大学で、日本の歴史と文化に関する講義が行われるようになったのです。私の近くでもそのために、イギリスやアメリカ行った人はたくさんいました。それでも私は中世の仏教とか文学が専攻でしたので、私には関係ないことと思っていたのですが、日本の経済的な進出の影響は大変なもので、とうとう私も駆り出されて、外国に出かけることになりました。

■中国

私は1988年の前期に4カ月、北京の日本学研究中心に出張することになりました。日本語で云えば日本学研究センターは、日本の外務省と中国の国家教育委員会との合作で創設された日本研究の大学院で、もとは大平首相の訪中の時に、中国で活動している大勢の日本語の先生たちの、レベルアップのための研修事業が始まり、それが大平学校と呼ばれて大きな成果を挙げたので、第一期5か年計画が終わった時に、さらなる継続と発展のために、日本研究者養成の大学院をということになりました。私はそこに行ったわけです。
 大学院は、碩士(日本の修士)課程、2年目の前期は日本の大学で研修し、各自資料を集めて、後期に中国で碩士論文を書くことになっていました。政治社会コース、言語文化コース、各15名で、政治と日本史の二科目の講義は日本に任せないで中国が行い、法学、経済学、社会学、思想史、文化史、日本語学、日本文学などの講義のために、日本から10数人の客員教授を、国際交流基金が派遣することになっていました。
 私は入学したての三期生を相手に、日本文化史という講義とゼミを受け持つことになりましたが、北京に行く話が決まってから、2年間の時間があったので、中国でどんな授業をしたらいいのかあれこれ考えました。アメリカ人を相手の日本文化史なら、授業計画はすぐに作れそうな気がしたのですが、20代の中国の若者が相手となると、どんな話題でどんな説明をしたらいいのか全く見当がつきませんでした。
 外国人を対象にした日本史、日本文化史、日本美術史などの教科書的な本はいくつも出ていますが、どれも欧米人相手のものばかりで、中国人相手の本は一冊もありませんでした。行く半年前ぐらいになると、少し開き直って、もう講義ノートをつくるのはやめて、その代わりに学生との話の糸口を探したり比較をするために、昔読んだ中国古典文学大系に入っている日本語訳の『三国志』と『水滸伝』を読み返して行くことにしました。それに何度も読んだ『紅楼夢』を加えた知識が、行ってみて学生と話をする時に大変役に立ちました。

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 私は中国の歴史と文化について、二度の中国旅行の見聞もあり、一通りのことは知っているつもりでいました。ところが中国の学生が知っている中国史は、それとはかなり違った物のようでした。また、日本について学ぶために大学院に入学した学生は、日本史を学んではいるのですが、彼等が知っている日本史は、私が考えているものとは別物のように思われました。
 さて、教室に行って、30人の学生に日本文化史の講義を始めました。まず日本人は中国の文物を受容することで、未開から抜け出して文明社会に入り、国の制度を整えたこと、中国の暦を学んで同じ年月の数え方をして、東アジアの一員になりました。ですから、これももとは中国のものでした。これも中国から伝えられました。これは中国へ行った使節や留学生が学んできました。儒教の経典、律令、都城の建設というように説明して行くと、聞いている学生は大いに満足しているように見えました。
 ただ、日本文化にとって重要な仏教の話になると、天台教学を大成した智顗や、法然に大きな影響を与えた善導などの名をあげても、そんな名前は聞いたこともないというので、中国仏教史の説明から始めて、その教義教説が日本に伝わったと云う説明をしなければなりませんでした。日本人が知っている中国史の知識が、通じない例の一つです。
 そういうわけで、文化や思想・宗教が中国から伝わったという話ばかりしていると、中国からという話は分った。それで、日本人は自分でどんなものを創ったのかを話してもらいたいという学生が出てきました。それは、至極当然のことなのですが、私は、それは大変難しいことだと思いました。
 日本人が、日本列島で一から始めて、自分でどんなものを創り出したのか話すこと、何故それを難題だと思ったのか、少しだけ説明させて頂きます。
 中国の学生の日本語の学力は高く、日本の本もよく読めるようでしたが、文章を書かせるとまだまだだと思ったので、私は作文の訓練のためにレポートを書かせることにしました。君達は日本のことを知っているが、日本について何も知らない周囲の人に知らせる心算で書いて欲しいと云って、「日本神話について」、「かな文字について」という題を出し、それを2千字で書きなさいといい、出されたものを添削し批評を書いて返したわけです。
 受け取ったレポートを読んでいると、日本の神話は政治的な意図が露骨で、神話本来の姿が歪曲されているし、中国の古典の一部を借りた所も多いということが書かれていました。かな文字については、固有の文字を持たない日本人は、漢字の一部を取って自分達の文字を作ったというように、日本人の苦労や努力の跡を理解するというよりも、批判的な目で説明したものが多いように思いました。私は書かれていることはその通りだと思いましたが、そういう文章を30通も読んでいると、段々気分が悪くなって、中国人は若者に至るまで、度し難い中華思想の持ち主なのだと思いました。
 レポートを返す時に「君たちは、日本神話は政治的だとか中国の古典の借り物だとか言うけれども、8世紀の段階で、自分の国に伝わっている伝説や神話を本にまとめた民族は世界にいくつあるだろうか」と言いました。中国、ギリシャ、エジプト、メソポタミア、インドとかは別格ですが、それを除くとそんなにないのです。ワーグナーのオペラの元になっているニーベルンゲンの歌というのが本のかたちになったのが、13世紀の初めの話です。ですから日本が8世紀という時代に、自分の国の伝説や神話を本にまとめたというのは、中国との緊張関係の中でそういうことになったのですが、そういうことに少しは思いを致してして欲しい、といいました。
 ところがその後、センターの図書室は毎年日本から大量の本が寄贈されて、充実した資料室になっています。そこで日本の百科事典を見ていたら、日本神話の項目もかな文字についても、同じような書き方をしているのを見て驚きました。他の百科事典を見ても同じようなものでした。
 それは、つまりこういうことです。日本の知識人は何かを客観的、一般的に考えようとすると、基準になる物をいつも外国に求めるのです。古くは中国、近代になってからは欧米を基準にしました。日本の資料室にあったいくつもの百科事典を念のために調べてみましたが、どれも日本人が文化を生み出すためにどんなに苦労したかということは書かれていませんでした。神話はギリシャ、近代小説はイギリス、演劇はシェイクスピアが基準だ、というかたちで書かれているのです。そして日本の文化の中に、基準から外れている所を見付けて、それを日本的なものの特色だと考えるのが普通なのです。いわば外国コンプレックスを前提として書かれた日本の知識人の記述を、中国人の学生がそのまままともに受け取ってレポートに書いて、北京にいて学生に取り囲まれている私が読むと、これは度し難い中華思想だと思ってしまう、という奇妙な状況に気が付きました。
 外国と比較して日本にしかないものを一生懸命に探す、外国の思想や文化を受け容れて、日本人が創るものは、もとの物とは違ってきますから、日本文化の研究者はその基準からずれてしまったところに、日本的なものを見出そうとするわけです。
 外来の完成品を基準にしてそれと比較してばかりいると、外国の水準に近づこうとして頑張るのはいいのですが、自分の生活の中から生まれ生活に根ざした文化の根っこの部分には、関心が向かなくなってしまう。日本の知識人は、外国の学者、外国のことを研究している日本の研究者の意見を重んじて、日本の思想や文学をそれと比較しながら考えてばかりいる。それは、いかにも学問的な手続きを踏んだ立論のように見えますが、外国の文化について花の部分しか見ていなくて根っこには関心がない。自国の文化の根っこの部分には関心が向かなくなっていて、それは必ずしもいい見方ではないと感じました。日本列島で日本人が、自前で何を作り出したのかを話してくれといわれて、私が、そういう日本文化研究の中にどっぷりと浸かっていることに気付いたわけです。

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■ハンガリー

 中国で考えたことは沢山ありますが、時間がないので、もう一つ、中央ヨーロッパのハンガリーのことを話します。1956年の10月に、ハンガリー動乱が起こりソ連軍の介入で弾圧され、長い苦難の道を経て、ハンガリーは共産圏の外に出た国家になりました。私が大学院生の頃、ハンガリー動乱を巡って、左翼と右翼の学生が激しく争ったのを思い出します。
ハンガリーの言葉はマジャール語と言い、ウラル・アルタイ語です。ウラル語の中で一番大きな言葉です。日本語はウラル・アルタイ語の中ではアルタイ語に属するとされています。ハンガリーの人は東洋の言語や文化に大変強い関心を持っています。ハンガリー人は一見西洋人のようで東洋人の面影はあまりありませんが、生まれた子供にモンゴル斑があるかどうかが話題になったりします。東洋民族であるということを誇りに思っているかどうかは分かりませんが、インド・ヨーロッパ語族ではないと思っています。ハンガリーは資本主義国家になってから、目覚ましい経済発展を遂げました。日本からも企業がたくさん進出しています。日本からの経済援助もあって、ハンガリーの人は日本に関心を持つようになりました
 それはともかく、私がハンガリーに公的な任務を負って出かけることなど、思ってもみないことでした。ハンガリーについては、リストやバルトーク、ジプシー音楽のことと、昔何度も読んだ『ドイツ文学小史』という本の著者ジョルジュ・ルカーチが、ハンガリーの思想家だということだけでした。
 ところが私は、1998年2月から7月まで国際交流基金から派遣されて、ハンガリーの国立総合大学エオトヴェシ・ローランド大学の文学部、東アジア言語学群日本学科の客員教授として、日本史・日本文化史・日本史史料講読という3科目の授業をしました。
 日本学科の学生定員は一学年10人。日本学の主任教授は、日本近世思想史の研究者の日本人、助教授に日本文学研究者のハンガリー人がいて、あとは日本語の講師数人で教育が行われていました。
 ハンガリーでは小学校から外国語を教えていて、外国語科目の中に日本語があり、高等学校の外国語に日本語を選択し、その成績がAでなければ、日本学科の入試の受験資格がないので、学生の日本語の学力は高く、講義で困ったことはありませんでした。中国の時と同じように、ハンガリーでの講義ノートはどうしようかと思ったのですが、ハンガリーについては何も知らないので、今さら焦ってもと開き直って出かけました。
 しかし、外国の人に自分の国の歴史や文化を説明する時、相手の国の歴史を知らないで説明することが、どれだけ大変なことかを思い知らされました。理数系の学科とは全く違うのです。何人もの学生が、『源氏物語』をアーサー・ウェリーの英訳で読んでいるのを知って、授業で源氏物語のことを引き合いに出しましたが、とにかくハンガリーの歴史を熟知していなければ比較のしようもなく、説明のためのイメージの作りようもありませんでした。
 ハンガリーは国民の6割がローマカトリックの国で、キリスト教の諸派がありますが、キリスト教を受け容れる前、東方にいた頃の信仰も、底流にあるといわれているので、日本の仏教受容、神仏習合のことを丁寧に説明すればよかったと帰ってから思いました。文化史では、日本でその年の4月から始まっていた放送大学の私のビデオテープを使ったりしましたし、山川出版社の高校日本史の史料集から、選んだ史料を読んで解説しました。
 学生たちが(日本学科を専攻した動機)は、高校の時に入っていた合唱団が日本に行って日本の各地を回ってから日本に関心を持つようになった、ヨーロッパ語でないハンガリー語のコンピューター処理に興味を持っているので日本ではどうしているか知りたい、など様々でした。
 或る日、日本から来た国際政治学者の講演会に行ったという学生が私のところに来ました。その先生は、「日本語は難しい言語で習得するのは大変だから、日本語の勉強はほどほどにして英語の文献を読むほうがいい。いまや日本研究は英語で十分間に合う時代に入った」という話をしたというのです。その学生は真剣な顔で、「自分は日本語学科の学生として納得できない。日本から日本語や日本の古典のことを教えに来ている先生はどう思うか」というのです。
 私が行ったエオトヴェシ・ローランド大学は、300年の歴史を持つ大学で、ドイツの大学の伝統を受け継いでいるように思いました。日本学科のプログラムも、言語学と文献学が柱になっていました。私は「言語は文化の基礎なのだから、日本語を学ぶことをしないでよいというのには反対だ。日本の古典を読むことによって、日本文化が理解できる」と答えました。
 ところがハンガリーにもアメリカの影響が浸透してきていて、言語学や文献学を中心にして、漢文なんかを習わされるのはもうかなわないという学生が一方に何人もいるのです。フォード財団などが巨額の研究費を出して、世界各国の社会調査をし、その成果をまとめた報告書を各国に配っています。地域研究です。私が行ったハンガリーの日本学科の図書室にも、その英語で書かれた日本の社会調査の文献がずらりと並んでいました。
 そのころ1人の女子学生が私に、日本の子供の「ひきこもり」について卒業論文を書きたいと、相談に来ました。実はそのころはまだその言葉は一般には使われてなく、私はその言葉を知りませんでしたので、その学生から学校に行かない子供のことだと教えてもらいました。そして資料室に行ってみたら、英語で書かれた日本の不登校とひきこもりについての調査報告というのがあるのです。そのようなことに関しては、日本語ができなくても英語で日本研究はいくらでもできるのかもしれません。
 日本の大学は、19世紀のドイツやイギリスの大学のまねをしてつくりましたので、大学の学部・学科の組織はそれを受け継いできています。そして私は、そのような文学部の史学科で勉強して、その後も長くその組織の中で生きてきましたが、今、その学部・学科の組織が急速に変わりつつあります。
 例えば日本の女子大学には、国文学科、日本文学科、英文学科、英米文学科というものがたくさんありました。しかしそのようなところにだんだん学生が来なくなって、受験生が減るからと、多くの大学で日本文学科は日本文化学科とか、英文学科もアメリカの社会と文化とかいう名前に看板を替えて学生を集めるようになりました。しかし日本文化学といっても、日本文化とは何かと問われたら明確な答えはないのです。それは文学部だけではなく、工学部とかでもそうです。私が知っているような電気工学、機械工学、応用化学なんていう名前の学科はほとんどなくなってきていて、いろいろ新しい名前になっています。私のような年寄りには、一体何をやっているのか、どのような勉強をするのか、学科の名前を聞いてもすぐには分からないことがしばしばです。
 そのように、19世紀の学問が今変わろうとして苦しんでいるのですが、それはハンガリーでも日本でも同じだと思いました。

■韓国

 時間がなくなりました。ソウルの女子大の大学院で6週間の集中講義をしたことに触れて終わりにします。中国から帰って、歴史教科書の問題を考える会で、私は、日本・中国・韓国の歴史研究者が、相手の国の若者に読んでもらうための自分の国の文化史の小冊子を作ろうという提案をしました。調整が難しい政治史は先のことにして、まず文化史から始めようと考えたのです。
 議論だけは続けたのですが、そのメンバーだった韓国人の先生から「そういうことを考えているのなら、是非韓国の大学で講義をしてきなさい、話は私がつけるから」と熱心に勧められました。韓国を代表するソウル大学、名門女子大学の梨花女子大学には、日本文学や日本史の講義はありませんので。私は1993年の4、5月に、日語・日文学科のある誠信女子大学の大学院で6週間の集中講義を、日本文学科の学生に日本文化史、史学科の学生には日本文学科の学生に通訳をしてもらって日本史の話をしました。
 韓国の学生は大阪に伯母さんがいるとか、日本に何度も行ったことがあるというわけで、共通の話題はいくらでもありましたが、大学の学科のレベルでは意外なことが知られていないのに驚きました。例えば豊臣秀吉の朝鮮出兵について実に細かく知っていて私に質問する学生がいて、私はお手上げで何も答えられませんでした。それはどうしようもありませんでした。ところがその学生が、平安時代と鎌倉時代はどちらが先ですかと大真面目に聞いてきたりするのです。
 しかし同じことが日本に関しても言えると気付きました。日本人に、韓国の歴史上の主要人物10人の名をあげなさい、思想家・芸術家の名を何人挙げられますかと聞いたらどうでしょうか。ほとんどが答えられないと思います。やはり、相手の国の歴史を知らないで、日本の歴史や文化を説明するのが難しいというのは、何処でも同じでした。
 すぐ近くの国で文化も似た所が多いのに、お互いに相手の国の歴史を知らない、知ろうとしない。歴史的に考えると、それは今に始まったことではないのです。朝鮮の三国時代には、日本は朝鮮経由で中国の文化を輸入していましたが、奈良時代に入り遣唐使の時代になったら、直接中国の文化を輸入するようになり、日本人は朝鮮への関心・興味をなくしてしまいました。それ以来、日本人は韓国のことをずっと知らないできているのです。『太平記』という本は、武士の百科事典みたいな本だったということを私は主張したことがありますが、太平記には中国人の名前は200人以上も出てきますが、朝鮮の人の名前は4、5人しか出てきません。それも神功皇后の三韓征伐の時に征伐した朝鮮の王様とか、元寇の時に蒙古の軍隊に付いてきた高麗の将軍が出てくるだけです。それぐらい日本人はずっと歴史的に朝鮮のことを、悪く言えば無視してきました。知らないでもいいとしてきました。
  ハンガリーでも中国でも同じですが、韓国に行って韓国のことを知らないで日本文化史なんかは教えられないと思いました。韓国のことを知らなければいけません。知らなければ将来の日本は絶対に立っていけないと思うのですが、これまでの歴史を考えてみると、それは21世紀に入った今、初めてやることなのです。今初めて韓国、朝鮮の歴史を知らなければならないということが問われているのです。本はたくさん出ています。韓国の高等学校の国定歴史教科書が翻訳されて、明石書店というところから出ています。500ページで値段も結構高いのですが、それを読めば韓国の歴史がよく分かります。また韓国の人が、日本の人に対してどのような思いを抱いているかというのを考える材料にもなります。その明石書店からは、世界の歴史教科書の日本語訳のシリーズが出ています。機会があったらそのようなものも、のぞいてみていただきたいと思います。

■最後に

 外国の人に日本文化史の講義をするというのは、大変大事なことだと思います。なかなかそのようなことにはなりませんが、例えばヨーロッパの英独仏ぐらいだったら1種類の教科書で日本文化史の講義はできそうな気はします。しかし、タイ、ベトナム、インド、など、アジアに関しては相手の国の数だけ日本文化史の本が刊行されるようになることが、日本文化の国際化なのだと思います。

■質疑応答

○中島 先生からご覧になって、日本人が自前でつくった文化というのは何なのでしょうか。

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○大隅 それを明らかにする研究をやってきていないということなのです。つまり、ヨーロッパや中国でもそうですが、一番上のきれいに咲いている花の部分にだけ関心があって、根っこがどうなっているかに関心がないのです。日本文化についても、本当に生活に根差してそこから日本人が築き上げてきた文化は何なのかという研究はなされてきていません。私自身がそのことを痛烈に反省しています。
 日本人が何を一からつくり上げたかというのは、簡単には言えません。文化という言葉は日本では実に多用に使われていて、定義もさまざまです。文化人類学などでは自然でないもの、人間がつくったものは全て文化だという文化の定義もありますが、日本では明治以来ずっと、物質文明、精神文化というようないい方をして、高度に精神的なものを文化と言ってきました。
  このごろ、和食が日本文化だとか言うようになりました。2、30年前にそのようなことを言ったら笑われたと思うのですが、今はそれが通用するようになりました。ですからだんだん文化ということばの使い方も変わり、内容も拡がっていると思います。私たちが、一から自前で何をつくったかということを、もう少し自覚して、そして自分の国の文化をもう一度考えなければならないと思います。

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(講演終了)


<新入会員歓迎会>

講演の後は引き続き、新入会員歓迎会として、入学・入社などで新たに東京修猷会に入会した初々しい同窓の後輩たちを交えた懇親会を行いました。
 事務局を含め170名を超える多くの館友が参加し、高校を卒業したての若者から大先輩に至るまでの、実に幅広い世代にわたり交流していただきました。学生と社会人、或いは業種の垣根を超えて、館友同志が活発に意見交換しあえる場となりました。

nimoku628_07.jpg大須賀会長 ご挨拶、乾杯


nimoku628_08.jpg東京修猷会の紹介(松尾幹事長)


nimoku628_09.jpg新入会員代表挨拶(平成29年卒)


nimoku628_10.jpg福岡総会案内(昭和63年卒)


nimoku628_11.jpg東京総会案内(平成3年卒)


nimoku628_12.jpg館歌斉唱


nimoku628_13.jpg伊藤副会長による中締め


nimoku628_14.jpg新入会員集合写真(平成29年卒)


(終了)