『博多と生きる。地域のチカラ〜老舗酒蔵の大火事からの復興』
講師:石蔵 利憲 氏(平成2年卒)
■講師紹介
○三戸 本日は同期の石蔵君の紹介のためだけに福岡から参りました。在学中の彼はヨット部、私は山岳部で、部室は近かったのですが、海の者と山の者が交わろうはずはなく、当時は彼のことは全く知りませんでした。ただこの10年は、福岡で商売をやっている者同士として会うことが多く、晩飯は家族とより石蔵と一緒のことのほうが多いぐらいです。
彼は何とヨットでインターハイに出場し、大学でもヨットを続け関東代表に選出されていたそうです。平成4年卒の石橋君がヨットで北京オリンピックに出場した時は、ヨット部の先輩として地元後援会の事務局長を引き受けたりと、結構すごい奴です。
そんなヨットマンの彼ですが、最近は私と一緒に山に登っています。昨年は北アルプスの常念岳、その前には槍ヶ岳に一緒に登りました。また彼とシーカヤックに乗って旅に出たこともあります。頼りがいがあって情熱的で粘り強くて、とにかくすごい奴の石蔵君です。
■石蔵氏講演
私は博多で小さな造り酒屋をしています。もともとは黒田家の御用商人を務めていましたので、黒田官兵衛(如水)から採った「如水」というお酒と、蔵の愛称から採った「百年蔵」というお酒を造っています。
2月はお酒を通じて地域の方と交流する大事なイベントが二つあります。一つは、十日恵比須神社での新酒奉納祈願です。これは2月10日と決まっていて、それは明日です。私は明日朝6時10分の便で福岡に戻り、10時には祈願を受けて12時には振る舞い酒をする予定です。そしてもう一つは、翌週に開催される酒蔵開です。これには2日間で6千人から8千人の方がいらっしゃいます。
イベントなど地域とのつながりは、私どもの会社の場合は1年を通じていろんな場面であります。地元で商売をするのに地域とのつながりは大事だということは、昔から感覚としては持っていましたが、2011年の火災の時にその本当の力、大事さを痛感しました。
■日本酒業界
日本人が一番日本酒を飲んでいたのは昭和48年で、それからは一貫して右肩下がりという厳しい状況です。今はピークの3分の1にまで消費が減っています。この20年では半減しています。その中で当然酒蔵も減ってきています。ピーク時には全国に3,200の酒蔵がありましたが、多くは廃業や倒産し、現在では約1,600になっています。そして1998年から段階的に進められた酒類の小売業免許の自由化で、スーパーやコンビニでお酒が取り扱われるようになり、町の昔ながらの酒屋さんがみるみるうちに消えていきました。この20年は日本酒業界全体にとって、特に中小酒蔵にとっては厳しい時代でした。
その中でいいこともありました。日本酒が確実においしくなりました。日本酒全体の消費量は落ちているのですが、純米酒や吟醸酒のようなプレミアが高いお酒は、逆に消費量が少しずつ伸びています。今の日本酒ブームというのは、本当は純米酒・吟醸酒ブームと言うのが正確なところです。これは中小の酒蔵にとっては、大量生産に向かなくて、大手があまり積極的ではなかった純米酒や吟醸酒で頑張らざるを得なかったということがあります。
そして、この20年で製造現場の構造変化がかなり進んだということも関係しています。かつての蔵元というのは、基本的には酒造免許と生産設備の所有者で、実際にお酒造りをするのは杜氏集団でした。杜氏集団というのは、農繁期は農業に携わり、冬場の農閑期に技能集団としてお酒造りをする方々です。資本と生産現場が完全に分かれていたわけです。その技能集団のリーダーが杜氏と言われる人で、その杜氏が連れてくる村の若い人たちを蔵人とか蔵子と呼んでいました。しかし時代が変わって、昔ながらの杜氏集団の長期出稼ぎを前提とした酒造りが成り立たなくなり、多くの地方の中小酒蔵は蔵元自らがお酒造りの現場に入るようになりました。そのころから蔵元杜氏という言葉も言われるようになりました。蔵元自らが杜氏となり常勤の現代的な社員と一緒にお酒を造るようになって、それまでは杜氏集団において、ある程度ブラックボックスのかたちでお酒造りの技が伝承されていたのが、客観的な数値や理論に基づくお酒造りが求められるようになりました。
かつても高品質のお酒はありましたが、再現性がありませんでした。しかし分析機器の発達や、新しい酵母の開発や、情報量の増大などが重なって、今は高品質なお酒を、再現性高く造ることができる時代になりました。
そうはいっても、ビジネスとしては全てがうまく行ったとは言いにくく、この20年で恐らく何百という蔵がその方向に向かって競争しましたが、むしろほとんどが厳しい状況にあったと思います。ですがその中でもいくつかの蔵は、マーケットを開拓して今の日本酒ブームをけん引する蔵になっています。山形の「十四代」、福島の「飛露喜」、佐賀の「鍋島」とかは全て蔵元杜氏が先頭に立って造られている蔵です。有名な山口の「獺祭」も、20年ほど前に今の会長が自らお酒造りを始めるところから再スタートを切ったと言われています。まさにそういう流れが今のブームのきっかけになっていると思っています。
■百年蔵
私どもの蔵は、よその蔵とは少し違った推移をたどりました。お取引先の街の酒屋さんが次々に消えていくというのは、よその蔵と同じでしたが、私どもの蔵の場合は、最終消費者となる方々が近隣に沢山いらっしゃいました。併せて私どもには、博多の街で100年以上あり続けて、地域の方に親しまれている「酒蔵」がありました。これは明治3年の築で、現在では国の登録有形文化財として登録されています。今は「博多百年蔵」という愛称で呼ばれています。
他の蔵が新たなマーケットを開拓しようと東京などで頑張っている中、私どもの会社は逆に博多の街に引きこもって、お酒造りを続けながらも、この酒蔵を活用していくことに力を入れてきました。初めはこの蔵の一部を直売所に模様替えしただけでしたが、そのうちにここで食事がしたいというお声が多く出てきました。それでとりあえず営業は事前予約の団体のみにして、福岡市内の料亭の仕出し料理というところから始めました。
また、ここでコンサートがしたいという方も出てきました。声があったら何とか実現しようという気風は、うちの会社の良さでもあるもので、市民バンドさんみたいな方々に何とか応えているうちに、斎藤和義さんとか一青窈さんとかの、プロの方たちもいらっしゃるようになりました。クラムボンというバンドは、ここでのライブの音源で「live at 百年蔵」というCDを出され、クラムボンファンにとっては聖地と呼ばれているらしいです。そうなると今度は若い人たちから「ここで結婚式がしたい」との声が出てくるようになりました。結婚式みたいな大事なことをうちの会社で受けていいのだろうかと、かなり躊躇もしましたが、強い希望も多くあり、いろいろな方のご協力を得ながら何とかこなしていきました。高まるニーズに応えているうちに、厨房もつくり板前さんも雇い、さらにブライダルサロンもつくりブライダルプランナーも雇うようになり、もう何屋なのか分からないようになりました。
■火災
同業が倒産や廃業が続く中で、私どもは少なくともお酒を造り続けられて、かつ量も増えている状況もあり、社内にも活気が出てきて、都会の酒蔵の残り方としての「かたち」が出来てきたかなと思えておりました。その矢先の2011年10月8日に火災が発生しました。消防車が30台以上出動し、4時間以上燃えて1,000平米以上が消失しました。その日は披露宴が2組行われていて、その披露宴を中断するという大変な事態になりました。大規模な火災で、それが国の文化財だということで、燃えている最中からマスコミが押し寄せて騒然となりました。ただ、奇跡的にけが人は1人も出ませんでした。そこが何よりの不幸中の幸いでした。
この火災でうちの会社が突きつけられたことは、酒造事業の再開の目途が立たないということと、火災の日の夜以降、入っていた飲食事業やイベント事業の予約の約200組6,000名様に対して、おわびとキャンセルと会場の振り替え等のお願いをしなければならなかったということです。一番大変だったのがブライダルでした。当日既に2組を中断させてしまっていたうえに、翌日も2組の予定があり、翌週以降60組の予約が入っていました。資金や再生工事のこととかマスコミの対応とかも大変でしたが、一番大変だったのは披露宴のお客様の対応でした。私は、翌日から一軒一軒お詫びの行脚に行きました。
ただそういう中でも、蔵の復興を願う街の声や、社員へのねぎらいの言葉をいただき、また励ましのメールや手紙もたくさん届きました。それらは大変励みになりました。火災の翌朝から、残っている酒があれば買いますという方や、とにかく心配になってお見舞いに来たという方で、行列が蔵の前にできました。社員ももう弱音を吐いている暇もないくらい対応に忙しい状況でした。そして社員へのねぎらいの言葉を掛けていただくと同時に、異口同音に「復興しろよ」と皆さんに言っていただき、それは大変励みになりました。それからメールとか手紙もどんどん届きました。「復興して新しい歴史を刻んでください」とか、披露宴を挙げたお客様からは、「大好きな場所です。頑張ってください」というようなメールが入るようになりました。そうした中で、私どもの酒蔵がいつの間にか博多の街の人々にとってかけがえのない風景の一つになっているということに初めて気づきました。そして、この蔵を復興させることは、私どもの一つの小さな会社の話ではなく、社会的な使命だと思いました。これは社員みんなも同じだったと思います。火災翌日からの地域の皆さんの対応には、本当に何よりも精神的に助けられました。
それから火災の翌々日には消防が記者会見で、火災の原因が漏電であり、石蔵酒造は消防法に関する設備は全てきちんと対応していたということ、それからけが人は1人もなかったということを発表していただきました。当初は私もマスコミから責め立てられているような感じもあったのですが、消防の発表と街の人たちの応援を受けてマスコミも応援モードになってくれました。
■復興
建設会社とか設計士さんとかにも助けられました。彼らの酒蔵への愛着と奮闘がなければ復活はなかったと思っています。安恒組さんの社長は昭和31年修猷館卒業の安恒忠男さんで、私どもの会社とは先々代から数十年の深いお付き合いがありました。安恒組さん自身も博多で百年以上の歴史を持たれていて、櫛田神社や十日恵比須神社も手掛けられています。それから設計に関しても、たまたま修猷館の先輩で昭和63年卒業の高木正三郎設計士がうちの蔵をずっと見ていただいていました。安恒さんも高木さんも、それから安恒組の職人さんたちも、燃えている最中に関係者が全員集合してくれていました。皆さんはずっとこの蔵に長年かかわっていただいているので、蔵のことを熟知し愛着も持っていただいていました。そういうことがなければ物事は進まなかっただろうと思います。その当時は、とにかく再生はしたいという意志を伝えるのと、持ちこたえられる限界の3〜4カ月で、何とか営業が再開できるようにしてもらえないか、と懇願するのが精一杯でした。従業員たち事も含めて、経済的にも精神的にもそこが限界だろうと思ったのです。
安恒組さんと高木設計士は、翌日の消防の見分の後、直ちにがれきの中に調査に入ってくださり、何と火災の3日後には、どの部分は従来のものを生かすか、どの部分は取り壊してつくり替えるかという、あらかたの復興への青写真も書いていただきました。そして「3カ月でとにかく営業再開できるようにしてみせる。これは公表してもらってもいい」と言っていただきました。これがなかったら本当にどうなっていたかなと思います。火災の4日後には再生工事が始まりました。新聞記事では「百年蔵復旧へ一歩」と出ました。皆さんが仕事のレベルを超えて、わが事のように対応していただきました。
それからもう一つありがたかったのは、福岡市内のホテルや結婚式場から、空いている日には結婚式に使ってもらって構わない、というお申し出をいただいたことです。最初は「申し訳ありません」としか言うことができなかった状況から、蔵の再開予定とか酒の出荷予定とか結婚式の代替会場の提案とか、具体的な話ができるようになっていきました。さらにお客様からも、私たちも披露宴を延期して復興を待ちますと、思いがけないことをおっしゃっていただきました。火災後の披露宴を予定されていた25組のお客様のうち、最終的には14組のお客様が、披露宴を延期して、復帰後の酒蔵で披露宴を挙げていただきました。他に会場を振り替えられたお客様にも、私どものお酒で乾杯をしていただいたり鏡開きをしていただいたり、本当に良くしていただきました。このように一軒一軒回る中で、この酒蔵の古いものの力を感じ、これは私どもの力というよりは、古いものの持っている力、唯一無二のものの力だと思いました。
そうは言いましても、私どもが起こした火災で2組の方が披露宴自体を取りやめられました。本当にご迷惑をお掛けしたということは、私の気持ちとしても会社としても一生背負っていくものだと思っています。
高木設計士、安恒組さんたちの尽力、それから県外からもたくさんの職人さんが来てくださり、工事も急ピッチで進みました。その間も、激励の手紙やメールもびっくりするぐらい増えていきました。本当に周囲の激励が再建の力になりました。火災から2カ月後には少量ですがお酒造りも再開することができました。自分でも驚くほどのスピードで物事が進んでいきました。
そして、火災から3カ月後の1月7日に、本当に再開できました。火災の原因になった漏電を防ぐために、全ての電気配線をつくり替えたので、お客様に見えない部分での工事がそのあと数カ月続きましたが、とにかく公表していたとおり「3カ月後からお客様をお迎えする」ことができ、これは感謝に耐えない日となりました。
また、火災当日披露宴を中断させてしまった2組の方たちは共に、全てのゲストをお招きして披露宴を再度挙げていただきました。本当にあり得ないようなご迷惑をお掛けしたのですが、逆にご本人やご両親から感謝のお言葉やお手紙をいただき、ただただありがたく思いました。
復興の兆しが出てくると、博多の方はこれを楽しく活気を持って迎えてくれるようになりました。例えば、博多百年蔵の応援歌をつくったとCDを持ってきてくれ、それは次の日に新聞発表までされていて驚きました。また博多町人文化連盟というところから、なぜか感謝状をいただきました。これは全て博多弁で書かれていて、大変な火災からあっという間に営業再開し、それは博多商人の鑑です、という内容でした。これを渡すためにホテルオークラの一番広いホールで数百人集まって、「もらってつかあさい」と言われて「ははっ」って言ってもらって、その後はみんなでどんちゃん騒ぎという楽しい会でした。そんな気風が博多にはあるなと思いました。
■博多の町と石蔵酒造
この体験から、小さな会社であっても、地域に根差して長く続けていれば地域から無形の財産をいただいていて、普段はそれをあまり強く感じることはありませんが、このような危機に陥ったときにそれが大きな力につながることを実感しました。そして復興を遂げることができました。2度と経験したくはありませんが貴重な経験をしたと思っています。苦しかった時期を乗り越えて早5年が過ぎました。
おかげさまで酒蔵への人の流れは増えています。披露宴は、皆さん和装で住吉神社や櫛田神社や十日恵比須神社で挙式の後、日本酒で乾杯され日本食を召し上がられ、ケーキカットではなく鏡開きをされます。街の中での博多らしい日本文化にあふれた結婚式ができています。宴会やパーティーも増えています。近年では学会とか文化交流、経済交流のレセプションでも使われるようになり、外国人の方もたくさん来られるようになりました。そのようなところにも存在価値を生み出せていると思っています。
将来の投資も、少しずつですができるようになってきています。私どもにとっての将来の投資というのは、逆説的ですが古いものを守っていくことだと思っています。私どもが守るべき古いものとは、大きく二つあって、一つは歴史的な建物である「酒蔵」、もう一つは博多で唯一残る造り酒屋としての「酒造り」です。
酒蔵については、火災の翌年以降は、毎年夏の間は約1カ月、大部分を閉館してメンテナンスに充てています。漆喰の塗り替えだとか瓦の架け替えだとか構造補強とか、それなりのお金をかけながらでも守っていかなければと思ってやっています。火災の後の皆さんの声援を1回受けると、これを守り続けることは、一つの使命だと思っています。
お酒造りについては、かつて博多だけでも15軒、福博では30軒ほどの造り酒屋があったと言われていますが、今では私どもだけになっています。守り手としても頑張らなければならないと思っています。
またこのような古いものを残し続け、併せて街の方のいろいろな声を聞き続ければ将来新しい役割をこの古い建物に担ってもらうこともできるのではないかなと思っています。お酒造りについては、私は銀行勤めから戻って10年間は残れる会社にしたいと、どちらかと言えばお酒造りから一歩引いて蔵の活用ということに努めてきましたが、この20年ぐらいの日本酒業界の進歩も見ていましたので、心の中ではやはり日本酒造りを再興したいという思いもありました。おかげさまでいろいろなものが好転する中で、2年前に蔵の中の小さな敷地に新しい醸造所をつくることができました。真っ白な蔵で白壁蔵と呼んでいます。設計は修猷63年卒の高木さん、構造設計も63年修猷卒業の高嶋さん、そして建設も昭和31年修猷卒の安恒さん、オール修猷で建てていただきました。また、いろいろな設備や分析機器を導入し、一年を通じて醸造できる設備となり、昔のように杜氏さんに冬場に入ってもらうということではなく、社員みんなで一年を通じて造っていく土台ができたと思っています。この20年間進んできた日本酒業界の新しい技術に少しでも追い付ければと思っています。
数年前からは、東京修猷会の総会にもお酒を提供させていただいています。特に昨年は同期が幹事でしたので、同級生がうちの法被を着てお酒を注いでくれました。その時に提供したのが吟醸酒と大吟醸酒だったのですが、それから3カ月後の福岡県の市販酒の鑑評会で、同じタンクのものが2本とも金賞を取ることができました。
そうは言いましてもまだまだ全国の名醸蔵と呼ばれるところには及ばない、少しずつでも改善を続けていきたいと思います。そして、地域の人、博多の人に、百年蔵という建物への愛着を持っていただき、またわが町のお酒として語ってもらえるよう頑張る。これが私のテーマだと思っています。
私の個人的な話ばかりになりましたが、話の中で皆様の故郷の、福岡・博多の方々の暖かい思いを感じていただければ幸いです。
■質疑応答
○日野 昭和63年卒の日野です。ヨット部の二つ先輩です。石蔵さんが高校1年生で入部してこられた時は、今の風貌とほぼ変わらない1年生で、私はどこのOBかと思いました。今日お会いして、ご立派になられていて、やっと年齢が追い付いてこられたのかなと思った次第です。
火災後の復興は大変だったと思うのですが、どのようにして社員さんたちの士気を高め、またリーダーシップを発揮されたのでしょうか。
○石蔵 私は常に10年先の年齢を行っていると言われています。今、年齢が追い付いているかどうかはよく分かりません。
おっしゃるとおり大変でした。火災の翌朝は、泣いて出勤する女性社員もいましたが、みんな来てくれました。その日の朝からお見舞いの方が途絶えないので、その対応にてんやわんやでしたが、そんな中で、本当は叱られてもいいのに逆に励まされることが多くありました。励ましの手紙もたくさんいただきましたので、私は意識的にその手紙を壁に全部貼りました。そのような応援が力になったと思っています。
○山口 33年卒の山口です。同期に石蔵ユウキというのがいて春吉中学校の時に石蔵の蔵に遊びに行ったことがあります。
日本酒は今後世界に出ていかなければということがあると思いますが、「如水」が海外に出ていくのはいつごろでしょうか。
○石蔵 海外輸出の話はいただいていますが、全てお断わりしています。というのは、報道等を見ていると海外で売れているように感じられるかもしれませんが、実際にはなかなか商売にはなっていないというのが多くあり、とても難しいことだと思っています。私どもの体力の問題、そして力を分散させたくないということ、それから小さな組織にとっては何よりも地元に密着することが大事だと思っていますので、今は海外に出すつもりは全くありません。逆にうちには海外の方がたくさんいらっしゃっていますので、海外の人が飲んでいるお酒としては結構上位にあると本気で思っています。インバウンドの方に喜んでもらうためには、外国人のためにつくった施設ではいけないのだと思います。日本人が「日本らしい」とか「懐かしい」と思うものこそインバウンドの方も喜んでもらえると思っています。海外に出ずに海外に売ることを実践したいと思っています。
○樋口 昭和50年卒の樋口です。私は大学で発酵を専攻して、今の日本酒の盛衰はずっと気にしてきています。母の実家が唐人町で造り酒屋をしていたのですが、古くに廃業して後、酒屋をやっていましたがそれも10年ぐらい前に廃業し、酒屋がなくなっていくというのを見事に体験しています。ですから石蔵さんにはぜひ頑張って継続していただきたいと思っています。
続けていくことが使命だというお話でしたが、今後の会社経営をどのようにバトンタッチしていくのかをお聞かせください。
○石蔵 私は分家で、今の社長は私の親戚ですが3代か4代前から分かれた血のつながりは遠い親戚です。そのような感じで一回りぐらいずれていて、常に会社の中にピンチヒッターがいる状況が自然とできています。そしてこれまでみんながあまり我を出さず、けんかせずに次につなげていくことを優先してやってきた成果かなと思います。明確なビジョンというよりは、そのような歴史を繰り返していくことで続いていければいいと思っています。
○西嶋 昭和34年卒の西嶋です。東京で飲めるところがありますか。
○石蔵 かつては百貨店とか物産展とかに出ていたのですが、今は、とにかくお酒は地元で売ろうと、百貨店などに出すのは一切やめています。ですから今は関東では基本的には買えません。ただインターネットでは購入いただけます。
○島津 昭和38年卒業の島津です。普通に食事をするとか、見学をさせてもらうとか、試飲するとかができるのでしょうか。
○石蔵 試飲やお買い物は直売所で毎日できます。食事については、事前予約の団体のみでやっています。酒蔵の製造所の見学は小売店とか飲食店の方のみとさせていたただいています。
■大須賀会長あいさつ
○大須賀 毎日寒い日が続いています。このような日は燗酒ですね。私は50年以上飲んでいますが、冷酒でも燗酒でも、日本酒がおいしくなったというのは私も実感しています。本当に年々おいしくなっているように思います。
(終了)