『白血病闘病記~2度のがん治療から学んだこと』
講師:池辺 英俊 氏(昭和60年卒)
■講師紹介
○志田 池辺さんとは中学、高校と同窓でしたので、ちょっとした暴露も含めて、お話をさせていただきます。城西中学2年の時に東京の町田から転入されてきました。過去の栄光かもしれませんがイケメンでいらっしゃいますし、とにかくその時の彼は、東京からということであか抜けて見え、シティーボーイとして学年中に噂が広まりました。しかし暫くして今度は横浜から女の子の転入生があり、町田は田舎である、との説明があり、かくしてシティーボーイという彼の称号はあっけなく崩れてしまいました。後に彼は「別にだましたわけではない。シティーボーイと自分から言ったわけでもない。最初から町田と言っていた。ただ町田と言っても多分分からないだろうな、とは思っていた」と言いました。これを法律用語では、不作為の欺罔(きもう)行為と言います。 そんな彼も大学を卒業後、新聞社で活躍しています。そして二度の大病を患ってもなお、ご自身と病とに対し、記者としての冷静な視線を持ち続けたその姿勢を、同期として、友人として、誇りに思っています。
■池辺氏講演
町田出身の池辺です(笑い)。私はこの夏まで政治部の記者をやっていて政治の講演は何度も経験しているのですが、自分の体験談を語るというのは初めてですので、先ほどから大変に緊張しています。こんなに緊張するのは、入社最終面接で当時の渡辺恒雄社長と一対一で向き合った時以来です。今はその時を思い出しています。
■はじめに
私は町田と福岡がちょうど半々ですので出身を聞かれると困ります。町田というのは、都会でも地方でもないという中途半端な所ですが、そこが私は好きです。私自身も特に人より秀でているところもない、平凡な人間なのですが、一つだけ普通の人とは違うところがあります。それは今の私の血液が人様からいただいたものだ、ということです。急性骨髄性白血病を患って、2010年に東京で誕生した男の子の造血幹細胞を頂戴して、現在元気に生活をしています。
私は白血病を2013年と2015年と二度、患っています。私が白血病経験者だと言うと、大体相手の方に深刻な表情をされてしまいます。ですので、必ず付け加えて言っていることがあります。それは、私は今年50歳なのですが、血液は今年6歳になる男の子からもらっていて、私の体は平均28歳、同期の仲間よりはずっと長生きしてみせます、というハッタリをかましています。
もう一つ珍しいことがありました。私の主治医と、セカンドオピニオンとして専門的なアドバイスを送り続けてくれた医者のお二人が共に修猷館のご出身だったのです。私の主治医は、5期先輩のT病院分院血液内科部長のW先生です。そして入院中に、不安と恐怖で弱気になりがちな私を、何度も電話やメールで励まし続けてくれたのは、同期でK病院の血液内科医師のO君です。今日の講演はお二人への感謝を込めて行わせていただきます。
白血病というのは、少数派のがんと言えると思います。ここにいる皆さま方が白血病を患う可能性は、極めて低いと思います。ただその一方で、2人に1人ががんになる時代です。がん患者の3人に1人が20歳から60歳の働く世代という今日、不吉なことを言うなと怒られるかもしれませんが、私の闘病と社会復帰の体験が何かしら皆さま方のご参考になれば大変幸いです。
■発病
(記者時代の写真を写す)私は政治部の記者をやっていましたので、総理大臣に同行することが多くあり、このように総理と写真を撮っていただく事が何度かありました。この写真は2005年、日中関係が非常に緊迫した時期の首脳会談の時であり、息詰まる小泉対胡錦濤のやり取りをこの目で見ました。ただ、今日は政治講演ではありませんので、この話は省略させていただきます。
そんな私が(入院時の写真を写す)このように発病したのは、3年前の6月でした。前兆はなかったか?とよく聞かれますが、ストレスはかなりあったものの、際立った体の異変はありませんでした。あえて言えば直前に味覚の変化がありました。その日の夕飯は会社の食堂でカレーを食べたのですが、ひどくまずく感じられて半分以上残しました。もしかしたらそれが体の変調を告げるサインだったのかもしれません。同じ日の夜、珍しく腰痛がしました。その痛みが強くなってきて、ゆっくりと背中を1周して、最後はみぞおち辺りに集中して、あまりの痛さに妻を起こして、救急車で横浜市内の病院に運ばれました。そこでCT検査などを受けたのですが、原因が分かりませんでした。座薬で一応痛みは取れ、週明けにまた来なさい、と言われて家に帰されました。日曜日も薬でごまかしながらデスク業務をして、週明けに病院に行くと、白血球の一部である顆粒球が著しく減少している無顆粒球症と診断され、緊急入院するように言われました。
その病院の医師は、薬物かウイルスが原因と思われるが、念のために骨髄検査をやらせてください、と言いました。そして3日後に白血病と告げられました。医師がドアを開けて入ってきた瞬間に、その表情を見て分かりました。まるで階段を転げ落ちるように、運命が悪いほうに加速していく状況に、自分自身が圧倒される思いで、頭の中が真っ白になりました。白血病について何の知識もなかった当時の私は、不治の病だと思って、思わず医師に「それは私が死ぬということですか」と震える声で尋ねました。
骨髄には血液の源である造血幹細胞というのがあり、これが赤血球や白血病や血小板といった血液細胞に分化して、血液ができてゆくのですが、白血病になると、この骨髄の中で分化する過程でがん細胞が増えてしまうのです。私の場合、骨髄の中の90%が、がん細胞に占拠されてしまいました。そのがん細胞が血管に大量に流れ出すと、高熱や意識障害の症状が出る敗血症や重篤な感染症を引き起こす可能性が出てきます。またがん細胞が複数の臓器に入り込んで、正常に機能しなくなる多機能不全になるケースも多い、と言われています。
白血病は、年間5〜6千人と少数派のがんですが、生活習慣も遺伝もほとんど関係なく、原因不明の病と言われ、いつ誰に降り掛かるか全く分からない病気です。しかし知名度は高いと思います。ドラマや映画のヒロインが亡くなる際の定番の病気だからです。悲劇のヒロインがなぜ白血病になるのかが昔から不思議だったのですが、ヒロインが生活習慣病によるがんだと、ストーリーが成り立ちません。やはり原因不明で比較的、若い患者の割合が高いという点が非常に大きいのではないかと、自分がなって分かりました。現実の世界では女優の夏目雅子さんや歌手の本田美奈子さんが亡くなった病気です。その一方で渡辺謙さんのように回復して元気に活躍されている方もいます。私にとって渡辺謙さんは特別な存在で、治療中や今も大きな目標です。自分と同じ病気をして今元気に活躍されている方がいるというのは、大きな心の支えになります。
■化学療法
急性骨髄性白血病の代表的な治療法は、化学療法と移植の二つです。私は3年前に化学療法を受けました。化学療法というのは、抗がん剤を計4回ほど体内に流してがん細胞の全滅を目指す治療法のことです。
白血病を発病した患者の体内には、何と1兆個もの白血病の細胞があると言われています。これらを1回の抗がん剤で全滅できたらいいのですが、それでは患者の体が持ちませんので、4回に分けて抗がん剤を注入します。このうちの1回目が寛解導入療法です。寛解とはがん細胞が一定量減って危機的な状況から脱した状態のことで、白血病細胞は当初の1千分の1の約10億個になるそうです。ここから地固め療法をやります。抗がん剤を更に3回体内に流し続けて、白血病細胞が100万個程度まで減ると、精度の高い遺伝子検査を行っても検出できなくなって、分子生物学的完全寛解と呼ばれる状況になります。これでようやく一段落です。
寛解導入療法も地固め療法も1回が大体4週間です。最初の1週間は抗がん剤を流し続けます。2週間目に白血球が最も下がるのですが、その時は発熱、脱毛、口内炎、吐き気、下痢などに慢性的に苦しめられます。大変辛い化学療法を経験しましたが、私は抗がん剤で治るなら苦しいけれども耐えよう、移植治療には至ってないのだからすぐに死ぬわけではない、と何回も自分に言い聞かせていました。化学療法が駄目な場合には移植治療に切り替えると言われていたのですが、それは生死を懸けた重大な治療になると知っていたからです。
幸いに3年前は化学療法が順調に進み、最初の入院から5カ月目の11月に退院できました。半月ほどリハビリをして職場にもスムーズに復帰し、体力低下や後遺症もなく、これで白血病との付き合いは終わりだと信じていました。実際、それから1年2カ月の間は普通に働き、お酒も飲み、大好きな山登りやゴルフもやっていました。風邪一つひきませんでした。
■再発
しかし安息の日はいきなり崩れます。昨年1月の末に突然、高熱と寒気に襲われました。T病院からは38度以上の熱が出たらすぐに来るように言われていましたので、日曜日だったのですが行きました。私は希望的観測も含めてインフルエンザだと信じていましたが、あっさりと否定され、白血球の一部である好中球が非常に少ないと言われました。悪い予感が頭をよぎりました。骨髄検査の結果を待つまでの24時間は必死に神様に祈りました。本当に、困った時の神頼みでした。
しかしあっけなく再発を宣告されました。再発は最初の発病の時以上に精神的にショックでした。化学療法よりもずっと過酷な生死を懸けた移植治療を受けなくてはならないということに加えて、インフォームドコンセントの場で移植治療の生存率を示すグラフを示され、「死」という言葉がよりリアルに私に迫ってきたからです。
その時のグラフがこの画面です。左の縦軸が生存率です。横軸が移植日を起点にした年数です。ひらがなの「し」の字を平たくしたような曲線のグラフが生存率です。移植から100日以内に死ぬ確率が20%から30%、100日生きたとしても、その後3年までに死ぬ確率も20%から30%、それをクリアしての長期生存は40%から50%、つまり40%台だということです。このグラフを初めて見せられた時、私は移植治療は生きるか死ぬかの一種の賭けのようなものだと思いました。今でもこのグラフを見るととても憂鬱になります。
死の恐怖、移植治療に耐えられるのかという不安や、子供の教育費など経済的な心配が混ざり合って、私の心に重くのし掛かってきました。白血病患者の人ががんを宣告されると、第1段階で茫然自失、第2段階では、どうして自分がこんな目に遭うのかという不条理な思い、そして第3段階で、現実をしぶしぶと受け入れるという共通した過程をたどるケースが多いようです。
私の場合は第3段階で、自分自身に「全てが絶望的な状況ではない」と何度も言い聞かせました。今の自分の環境は、医師から余命何か月などと宣告されるよりはるかにいい、と考えるように努めました。心の基準を変える、という言い方もできると思います。便利で快適な生活に浸っている日常生活から、一気に病院に閉じ込められるというのは、とても耐えられないものがあります。ですから心の基準をぐっと下げて、死の一つ手前の絶望的な状況にセットし、そこから、歌の歌詞ではありませんが、希望のかけら、プラスの部分を拾い集めました。私の場合はそれがとても有効でした。もちろん簡単には割り切れるはずがなく、まだ40歳代なのにどうして、という葛藤の繰り返しでした。
■修猷館
こうした私を救ってくれたのが2人の修猷館出身の医師でした。再発時、病院側は私に、さい帯血移植をするように勧めてきましたが、本当にそれしか選択肢がないのか、もう一度化学療法では駄目なのかと、私は精神的に混乱しました。
そんな時にふと修猷館の同期に、血液内科医のO君がいることを思い出しました。ちょうどその前年の修猷館でのキャリアセミナーで、共に講師として授業をして、その時にO君とも話をしていたのです。そのO君に、空いている時間をメールで聞いて電話をしました。O君は1時間も私の電話相談に応じてくれ、さい帯血移植を丁寧に説明し、そして強く勧めてくれました。そして何よりも私が励まされたのは「気休めを言うつもりはないけれども、勝算は十分にある」というO君の言葉でした。また、ささいなことに聞こえるかもしれませんが、私がメールの書き出しに「O様」と書くと、彼は高校の友達同士のメールで「様」はおかしいだろう、呼び捨てかせめて「君」にしてくれと言いました。このような心遣いは、弱り切った患者にはとてもうれしく、友情のありがたさを感じる瞬間でした。
もう1人のW先生は、化学療法の時にも主治医だったのですが、同じ高校出身だとは全く知りませんでした。W先生はあまり無駄話をされない方なのですが、再発を告げられて1週間ほどたった日に、先生が「池辺さんの出身はどこ?」と話し掛けてくださいました。ちょうど私の枕元に高校3年の時の同級生が励ましに送ってくれていた『修猷館高校あるある』の本がありました。これを見たW先生は驚かれて、うれしそうにこの本を手に取られました。この前年に修猷館のOGがミス東大に選ばれた、というニュースがありました。このミス東大のお母さまが、W先生と修猷館で同期の方なのだそうで、先生はこのミス東大の選出のために、事前のネット投票はもちろんのこと、本番の駒場祭にまで出かけて投票するなど、ご自分がいかに尽力されたかをとうとうと語ってくださり、それまで張りつめていた病室内の雰囲気が一変しました。W先生とその話をしている間、私は自分が久しぶりに笑っていることに気が付きました。「あれ、俺、久しぶりに笑っている」と新鮮に思ったのを今でも覚えています。2人の修猷館高校卒の医師のサポートを受けて、本当に私は贅沢で恵まれた患者だと思っています。
■さい帯血移植治療
まず白血病細胞を大幅に減らすための寛解導入療法を受けました。このとき極端に少なくなった赤血球、血小板を補うための輸血を受けるのですが、私は血小板の輸血の際に激痛を味わいました。ものすごい痛みで、大量の汗による水たまりができるほどでした。更には、ちょうど白血球が少ない時に歯で舌をかんでしまい、もう血小板が少なくなっていましたので傷口が何日たってもふさがらず、痛くてしみる状態が何日も続いて、血小板のありがたみを痛感しました。
寛解導入療法の後、家に1週間帰っていいと言われました。一時退院です。生死を懸けた移植治療が待っている1週間の中で、私は毎日私を支えてくれた妻に感謝の気持ちを伝えたく、横浜のインターコンチネンタルホテルで食事をしました。私たちはそこで結納を交わして、ちょうどこの年が結婚20周年の年でした。このころは怖さ半分、残りはもうやるしかないという気持ちでいました。
そして移植のために入院し、前処置と言われる抗がん剤が大量に投与されて、移植された造血幹細胞が住み着きやすくするように、白血病細胞もいい細胞も含めてほぼ全滅させます。この時も副作用がいろいろありました。
移植本番の時には、たくさんの医師や看護師が来てくれました。私も気合いを入れて臨んだのですが、5分ぐらいであっけなく終了しました。命の種を頂戴したという感慨に浸る暇もありませんでした。医療関係者は移植の日を「第2の誕生日」と呼びます。この時は4月で私の誕生日も同じ4月ですので、私は4月に二つの誕生日を迎えることになりました。
移植後に食べられるものは、加熱処理したものだけですが、病院食は見るだけで吐いてしまう状態でした。その中で、私はバウムクーヘンとお餅の二つだけは食べられましたが、これは全く個人的な感想だと思います。
この後は比較的順調に行って無事に生着をしますが、その後にGVHDで腸内が荒れて苦しめられ、ステロイド点滴を始めました。さらに、出血性ぼうこう炎にも悩まされ、いつも尿意を感じて、尿をすると飛び上がるような激痛が走りました。2、3週間ほどでしたが、長く辛い日々でした。トイレの後はトイレのことなど忘れて過ごせるという普通の生活が、いかに贅沢でありがたいかを痛感しました。これを経てようやく退院の日を迎えました。
■闘病で学んだこと
一つ目は、病気について正確な情報を集めることの重要性です。主治医を最大の情報源とすることが原則なのですが、一般の患者さんにとっては、便利で手軽なネット情報に頼るのが現状だと思います。しかし病名だけで検索しても情報は玉石混交ですので、サイトを選ぶ必要があります。私が見たところ、国立がんセンターが運営する「がん情報サービス」が内容が正確で分かりやすくてよいと思います。検索は病名の後に「学会」とか「協会」と入力して検索すると、病気の知識の普及に努めている学会や公的機関のホームページを探すことができます。更に、手前みそで恐縮ですが、読売新聞では「ヨミドクター」という医療健康サイトを設けており、医療に詳しい記者が書いた記事なので、より分かりやすい表現になっています。
二つ目は、メンタルケアの重要性です。苦しい入院生活の中で、人と話すこと、自分の好きなことに集中する時間を持つこと、体を動かすことの3点がとても大事だと思いました。病気への心構えを固めることも大事です。私の場合は不安や恐怖に支配されないように「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を何度も自分自身に言い聞かせました。がんとの戦いでは、特に序盤は肉体よりも精神的な闘いのウェートが大きいものです。私の場合は、笑いによってリンパ球の一種、ナチュラルキラー細胞が刺激されて、免疫力が高まると聞いて、お笑いDVDを時々見て、無理しても笑うように努めていました。
闘病で学んだことのもう1点は、チーム医療の重要性です。いまや患者と医師の1対1の時代は終わっていて、病院の薬剤師、栄養士などの専門医をフル動員して自分のために活かす時代に入っていると実感しました。私は心理カウンセラーによる1日1回の面談が、自分の心の平静を保つ上でとても効果がありました。
そして体を動かすことの重要性です。理学療法士はとても優しい女性だったのですが、重病の患者とは思えないようなきついトレーニングをたくさんやらされました。修猷館の運動会の練習もこれほどきつくはなかったなと思いました。そのおかげで体力低下は最小限に抑えられました。
合計すると136日間の入院生活でした。入院時の体重は67㎏だったのですが、退院時は57㎏でした。今は63㎏まで回復しています。私は「ヨミドクター」で闘病記を書いたのですが、退院時の心境について「W先生をはじめとする医療スタッフ、O君、献血をしてくれた方々、ドナーとそのご家族、そして1日も欠かさず病院に来てくれ、明るく身の回りの世話をしてくれた妻、何よりも心の支えになった娘たち・・・。多くの人に支えられ、生き続けることができるという事実と、感謝の気持ちを忘れないように」と書きました。
■がん患者の就労問題
日本人の2人に1人ががんに罹患(りかん)する時代です。年間に約85万人が新たにがんと診断され、そのうちの約3割が勤労世代です。仕事を持ちながらがんで通院する方は、私も含めて約32.5万人もいらっしゃいます。がんは「不治の病」から「長く付き合う病気」になっています。その中で、治療と職業生活の両立に悩む患者、企業も少なくありません。
こうした情勢を受けて、厚生労働省は今年の2月に「治療と職業生活の両立支援のためのガイドライン」をつくりました。柱は二つあります。一つは「両立支援の環境整備」で、企業の相談窓口の明確化、通院日に備えた休暇制度、時差出勤、短時間勤務制度などの検討・導入などを、企業に促しています。もう一つは「両立支援の進め方」で、がん患者と主治医、産業医・会社とのトライアングルの関係を提案しています。
現実の問題として、二つの壁があります。一つは、40歳から50歳代の働くがん患者は、乳がんや子宮頸がんの女性が圧倒的に多いのですが、女性労働者は非正規労働者の割合が多くて、治療と就労の問題を複雑に難しくしています。もう一つの現実として、大企業と中小企業の対応の格差の問題があります。
またがんを患い、会社に迷惑を掛けてはいけないと、自ら退職の道を選ぶ方も3割近くいるそうです。いずれの道を選ぶにしろ、がん患者を孤立させずに、患者、医師、会社産業医の3者で話し合う態勢づくりが急務だと思います。
■健康対策
今、私が頻繁に口にしている3食材は、ブロッコリー、黒ニンニクとラッキョウ、それから豆腐・納豆です。そして、うがい・手洗いの励行が大切です。白血球がゼロに近い状態では、うがい・手洗いを2時間ごとにやっていて、このようなことが免疫力を高めることにつながる、ということを体で感じました。
そして社会復帰後に立ちはだかる大きな課題は、ストレスです。今の私にとっても、これが最大の懸案です。その対策としてNHKスペシャルで紹介されたのが、「運動」、「マインドフルネス」、「コーピング」の三つです。このうち「コーピング」は、自分のストレス解消法をいくも書き並べておくというもので、強いストレスを受けたときに、それがディフェンスの役割を果たすそうです。質より量で100ぐらい書いておくといいらしいです。
予防医学研究者の石川善樹さんの話では、たばこをやめたり、お酒を控えたり、運動するよりも、長生きする上でずっと大事なことは、「つながり」だそうです。孤独な人は死亡率が2倍だそうで、男女別では、女性のほうが「つながり」をつくるのが得意で、男子校出身者はつながりが少なく、未婚率も高くて比較的短命というドキッとする情報も紹介されています。
■最後に
献血、さい帯血提供のご協力のお願いです。人の命を救うというのは、特別な技能が必要というイメージがあるかもしれませんが、そればかりではありません。私は献血を20回ほどしましたが、倍返しどころか10倍、100倍にして返していただきました。
一方のさい帯血については、へその緒から造血幹細胞を採取するだけですので、ドナー側に肉体的な痛みとかはありません。ただこれができる産婦人科病院は限られていて、今年2月現在、全国で86カ所です。W先生によると、設備とスタッフの両面でしっかりしている病院が選ばれるということです。これを事前に調べておくことは、より安全な出産という観点からも参考になると思います。尊い命の誕生とともに、もう一つ救われる命があります。身近な方が出産される際には、ぜひこの造血幹細胞移植情報サービスのサイトに掲載されている産婦人科病院を参考にしていただければ幸いです。
■質疑応答
○喜多川 昭和62年卒の喜多川です。子宮頸がんの治療の研究を中心にやっている産婦人科医で、さい帯血にも関わることも多くあります。さい帯血の採取も大変ですが、分娩後のお母さんの出血もけっこう大量になることが多く、その両方に対応するために、医者が2人必要です。多分マンパワーがしっかりしている病院が選ばれて、86という限定された数になっているのだと思います。私からも、ぜひ皆様の理解と協力をお願いしたいと思います。
■大須賀会長あいさつ
○大須賀 最初に申し上げておきますが、町田というのは昭和39年からロマンスカーが止まって、小田急線では新宿に次ぐ乗降客数があります。(笑い)
闘病のお話がまるで実況中継を聞いているようで、他人事とは思えずどんどん引き込まれてしまいました。人との「つながり」が大切とのことでしたが、まさに修猷人のつながりのお話があり、そのようなものも大事にして生きていかなければならないと思いました。
(終了)