『Rio to Tokyo~数字で読み解く五輪・パラリンピック』
講師:森田 博志 氏 (昭和58年卒)
■講師紹介
○佐伯 森田君と私は修猷館ラグビー部で3年間一緒でした。われわれが小学生の時に、草ヶ江ヤングラガーズというラグビークラブができ、彼は初期のメンバーとして活躍されていました。創設時は修猷館の守田先生と淵本先生が指導に当たられていて、後にはそこから日本代表を10人以上輩出するという超名門ラグビースクールになっています。
■森田氏講演
今日はオリンピックをテーマにしているのですが、私は今回リオに取材には行っていません。その代わり、リオに取材に行った人にしっかりと話を聞いてきました。
■パラリンピック
今回は金メダルはゼロで、銀が10個、銅が14個でした。入賞は138もありました。日本がパラリンピックに初めて出たのは1964年の東京大会からで、それからずっと金メダルを取ってきていましたが、今回は初めて金メダルがゼロでした。今回はリオにハイパフォーマンスサポート・センターというのを建てて日本選手をサポートしましたが、成績的にはうまくいきませんでした。それだけ、世界のレベルが飛躍的に上がっているということです。
陸上の中距離の男子1,500メートルの視覚障がいのクラスでは、先に行われていたオリンピックの1,500メートルの優勝タイムを4人が上回りました。簡単に比較はできませんが、能力的にはパラリンピックが遜色ないレベルまで来ているということです。実際に卓球とかアーチェリーでは、オリンピックに出た後にパラリンピックに出た選手もいます。メダルの数が上位のウクライナと中国は、パラリンピックの選手がプロとして生活していけるように、国ぐるみで力を入れて育てています。
パラリンピックの発祥は、第二次世界大戦後の1948年、英国のストーク・マンデビル病院で、入院していた負傷兵のためのリハビリの一環として、ここでアーチェリーの大会を始めたのがきっかけです。2012年のロンドン大会では史上最多の国と地域からの参加があり、そういう意味で英国はパラリンピックの先進国です。今回のパラリンピックは、12日間に22の競技と528種目で争われました。パラリンピックの種目が多いのは、障がいの種類や程度によって細かくクラス分けされているからです。
国際パラリンピック協会(ITC)が公認するクラシファイヤーという判定員が、選手の能力を判定してクラスを決めます。ちなみにロンドン大会前のクラシファイヤーの検査では、約40人のクラスの変更があったと言われています。またパラリンピックでは、治療のために薬を飲んでいる選手も多くいますので、クラス分けの話と共に難しい問題となっています。
日本の障がい者スポーツ協会は、次の2020年の東京大会には金メダルの目標を7位に設定しています。7位というと、金メダルを20個取らなければならず、簡単ではありません。施設もパラリンピアン専用のものが無かったり、障がい者がスポーツ施設の利用を断られたり、あるいは、スポーツをする障がい者が少ない等、制約も多いのが現状です。東京に向けて、このようなことを一つ一つ解決していかなければならないと思います。取材した人は皆そう思っています。それから、強化ばかりではなく、一般の障がい者の方がスポーツに親しめる機会を失っては、これは何もなりません。
ビデオを見ていただきます。担当記者がご家族から借りてきたビデオです。
(ビデオ放映)長崎の県立大崎高校3年生、鳥海連志君です。彼はリオパラリンピックの車いすバスケットボールの日本代表に、最年少の17歳で選ばれました。彼は骨形成不全で生まれ、膝から下の骨が極端に細く、3歳の時に両足の膝から下を切断したそうです。最初の運動会のような映像は5歳の時だそうです。彼は生まれながらにして不自由で、普通に歩くという感覚がないので、あの様子が普通に遊んでいる様子だと語っています。両手の指も欠けていますが、のぼり棒や鉄棒に果敢に取り組んでいました。もちろん彼の並外れた運動神経があったからこそでしょうが、やりたいことを自由にやらせてもらえる環境が、彼を大きく育てたと言われています。責任が持てないからと幼稚園が激しい運動をさせなかったり、ご両親が止めたりすることもなかったそうです。この動画を担当記者が借りてきて、朝日新聞のホームページにアップしたところ、6万回以上再生されたそうです。
■オリンピック
オリンピックのほうはかなり健闘しました。前回のロンドンの柔道男子は、史上初めて金メダルゼロに終わりましたが、今回は全階級男女合わせて12個のメダルを取りました。井上監督が結果を出しました。
今回目立ったのは、バトミントン、卓球、テニスの錦織さんたちの大逆転劇でした。日本のスポーツは、大舞台になればなるほど善戦はするけれども、最後はやられるイメージが強かったのですが、それをみんなでうち破った大会だったと監督者は言っていました。
メダルの数はロンドンから3つ増えて史上最多になりました。しかし獲得した競技数は、前回の13から今回は10に減ってしまいました。残念ながらサッカーやバレーの団体球技が一つもありませんでした。その中で健闘したのが7人制ラグビーでした。ニュージーランドを破ってベスト4まで行きました。しかしオリンピックの舞台ではメダルを取らないと評価されません。
メダルを取る競技が集中すると一番困るのは記者です。新聞記者は競技ごとの担当制を敷いています。強い競技が集中すると、忙しい記者とそうでもない記者に色分けされてきます。今回は水泳担当や柔道、レスリングの格闘技担当が大変でした。私はアテネ五輪では体操担当で行きました。アテネの時の体操は今のように強くはありませんでしたので、暇なほうの記者と思っていたのですが、団体で金メダルを取り、慌てた思い出があります。
JOC(日本オリンピック委員会)は、東京では金メダル数世界3位を掲げています。30個近くが必要になり、今回の12個から大幅アップが求められます。報道する側からすると、今回ぐらいの数が限度かなと思います。これ以上増えると、銅メダルを取ってもあまり報道されないという心配があります。実際、新聞社に読者の方から電話が掛かってきて、1面もスポーツ、スポーツ面はもちろんスポーツ、社会面もスポーツで、「自分はスポーツ紙を読んでいるのではない」とお叱りを受けることもありました。
■新聞・通信・雑誌社の取材
全世界の新聞社、通信社、雑誌社に約5千枚の取材カードが配布されます。これをIOC(国際オリンピック委員会)がどの国・地域に割り当てるかを決めます。今回のリオデジャネイロでは、約300枚が日本のメディアに割り当てられました。これは多分、東京大会を見据えたIOCの判断だと思いますが、ロンドンから3割増えたそうです。これを実績主義で各社に配分します。
われわれ朝日新聞は数十人の記者が現地で取材しましたが、全ての記者がカードを持っているわけではありません。カードを持っていない記者は、入場券を買って入って取材するのですが、選手には会えませんので、見たままの原稿を書くことになります。弊社は、通訳さんや運転手さんを含めた大掛かりな態勢で取材しました。新聞社は放送社のように放映権を払うことはないのですが、一定の取材スペースの確保にお金を払います。今回はメインプレスセンターの1フロア―を日本の新聞社が全部押さえました。日本人はオリンピック好きで取材者数も世界一と言われています。
最近、「アスリート・ファースト」とよく言われますが、オリンピックの報道現場の世界は「テレビ・ファースト」です。例えば岩崎恭子さんが「今まで生きてきた中で一番幸せです」と言ったり、北島康介さんが「チョー気持ちいい」と言いましたが、あれは全部テレビに向かっての言葉です。各国のテレビ局は莫大(ばくだい)な放映権料を払っていますので、その分優先的に取材ができるようになっているのです。取材はミックスゾーンという所で、まずテレビが取材して、次の所で新聞記者が取材します。
最近では、若い選手と若い記者がSNSでやりとりしている例もあります。これだと深い取材ができ、新しい手法かなと思いますが、私なんかはそういうことはできません。そして今、選手自らも発信する時代になりました。卓球の愛ちゃんが、中国版のツイッター「ウェイボー」で、選手村のトイレが壊れて自分で直したことを、写真付きで中国語でつぶやいたりしていました。
今、新聞社は紙だけではなく、ネットの上でも勝負をしなければならなくなっています。ただ、各社まだ結構おじさんが多いので、ネットの動向というのはつかみ切れていません。朝日新聞には朝日新聞デジタルというのがあって、そこで注目される記事というのは、私のようなおじさんには理解できないものもあります。
競泳の800メートルリレーで優勝した米国チームの、ライアン・ロクテ選手が、大会後に問題を起こしましたが、それとは全く別のことで、リオのプールが微生物の影響で緑色に変色したということがあり、このこととロクテの話を結び付けて、きっとロクテがプールにも立ちションをしたんだという話がツイッターで飛び交いました。ネットでは何が受けて話題になるのかというのは今まだ各社とも研究中です。
■記録
われわれ昭和58年卒のヒーロー水泳部の国代君は、高校総体の男子100メートル自由形で優勝しました。この時の54秒15の記録は大会新記録でした。それから34年、今年の夏の広島での第84回大会は、報徳の溝畑樹蘭君が50秒21で優勝しました。4秒近くも縮まっています。34年たって、高校記録は49秒台に突入しています。高校総体に参加できる標準記録が、今は52秒85ですから、国代君は大会にも出られないということになります。
女子の日本記録は、ロンドンオリンピックのリレーの銅メダリスト、上田はるかさんが、4年前に54秒00というのを出しています。そして今年、池井璃花子さんが、中学3年生だった1月に、初めて53秒台に突入する53秒99で泳いで、さらに6月に53秒69にまで記録を伸ばしました。
われらの大先輩の葉室さんが金メダルを取ったのは、1936年昭和11年の第11回ベルリンオリンピックでした。この大会ではあの有名な「前畑がんばれ」の前畑秀子さんが、同じ200メートル平泳ぎで、五輪史上初めて日本女性で金メダルを獲得し、男女同時優勝しています。その2大会前の1928年昭和3年のアムステルダムオリンピックで、鶴田義行さんという方が、競泳初の金メダルを取り、次の1932年昭和7年のロサンゼルス大会でも、鶴田さんが優勝して、日本人初の五輪連覇を成し遂げていて、その後も葉室さんが優勝して、日本がこの種目に3連覇をしたということになりました。
葉室さんがオリンピックに行かれたのは18歳の時で、この時は平泳ぎの泳法が確立されてなく、葉室さんは25メートル近くを潜水で泳がれたそうです。当時の平泳ぎは、左右対称の動きをすればいいということで、その時の外国勢の中には、足は平泳ぎで腕はバタフライのような動きで泳ぐ選手もいたそうです。
葉室さんは、オリンピックの翌年には世界新を出されています。その後は水球のゴールキーパーとしても活躍され、引退後は西日本新聞から毎日新聞に移られて、スポーツ担当記者として健筆を振るわれたそうです。毎日新聞ではアメリカンフットボールの大学日本一を決める、甲子園ボールの創設にご尽力されたと聞いています。
1964年の東京五輪での競泳陣は、男子800メートルリレーで銅メダルを取っただけで、大惨敗を喫しています。そこで関係者は、各地にイトマンとかのスイミングスクールをつくり、復活を目指しました。その努力が実って、今の競泳日本の状況をつくっています。
記録ついでにご紹介します。義足のランナーがボルトを超えられるのかという話です。研究者の話では、義足のランナーは2068年に9秒04で走ることができ、その時の世界記録は9秒05と予想され、そのときが抜く時だということです。今の義足ランナーの世界記録は10秒57で、ボルトの記録が9秒58です。その差は0秒99です。1900年のパリ五輪の優勝タイムは11秒00だったのが、ロンドンでボルトが出した記録は9秒63でした。112年たっても、2秒も縮まっていません。一方パラリンピックは、切断者が最初に出場した1976年の大会では14秒30で、今回のリオでは10秒57でしたので、わずか40年で、3秒73も縮まりました。カーボン製の義足ができたのが80年代で、ここで一気に記録が進みました。
「義足の人もオリンピックへの参加を認めるべきだ」という意見が結構多くあります。義足の人は、確かに義足による反発力は得られるのですが、その義足を付けて反発力を受ける、体力とか忍耐力を鍛えなければなりません。走り幅跳びについても、助走のスピードが、飛ぶ距離の8割を決めると言われていますが、義足のランナーは、ほとんどが義足側の足で踏み切るので、その反発力を通常以上に得られたとしても、助走のスピードがないので、圧倒的な有利とは言えません。義足が進歩してくると、公平性の問題が出てきて、この辺りはまだ議論が続いています。今は義足の材質の制限はありませんが、科学的な検証が進んで義足のルールが統一されてくると、オリンピックにパラリンピアンが出る日も近いかもしれません。
■東京オリンピック
日本でやるオリンピックは、冬季も含めると今回で4回目なのですが、私が残念に思っているのは、これまでの日本の組織委員会会長に、スポーツ関係者が就けなかったことです。一応大学ラグビーの先輩なので、今の森さんがだめと言っているわけではないのですが、例えばロンドンでは、陸上の五輪金メダリストのセバスチャン・コーさんがやりました。今回のリオは、東京にバレーボールで出たカルロス・ヌズマンさんという方が務められました。
前回の東京大会は、最初は津島さんという政界の方だったのですが、ジャカルタであったアジア大会で、インドネシア政府のIOCの主義に反する行為の中で、日本選手が全競技に参加したことを理由に、津島さんは辞任されました。オリンピック開催のわずか2年前のことで、そこで火中の栗を拾ったのが、安川第五郎先輩です。安川さんは1963年2月に就任されましたから、待ったなしの状態でした。それでも、例えば開・閉会式の入場券も、絶対に半分は一般の人に売ると、きっちり確保して公開抽選会までやって対処しました。普通と言えばそうですが、真摯に一つ一つの物事に対処されたそうです。1964年1月に日比谷公会堂で抽選会が行われましたが、開・閉会式の入場券の発売枚数が合わせて60,500枚、それに対して応募が3,545,144枚で、ざっと60倍という宝くじみたいなものでした。
10月10日の開会式当日は、前日は大雨が嘘のように晴れて、航空自衛隊のブルーインパルスが上空3千メートルで五つの輪を描きました。これ以来、安川先輩は人に何かを頼まれると、「至誠通天」という言葉を必ず書かれたそうです。
安川さんは見事、東京五輪を成功に導きました。その時に国際オリンピック委員会のブランデージ会長が、感激されて五輪旗を渡しました。それが修猷館にあることは皆さんご存じだと思います。
最後に、これから東京オリンピックの後に向けて、日本がゴールデン・スポーツイヤーズというのを迎えます。まず、夏の高校野球が再来年に第100回を迎えます。2019年にはラグビーワールドカップがあります。そして2020年には東京オリンピックとパラリンピックがあります。2020年が終わると、2021年に関西ワールド・マスターズ・ゲームズというのがあります。実は葉室さんの奥様の三千子さんが、今はもう96歳ぐらいになられていますが、前回のトリノ大会に娘さんと出られて、まだまだお元気で泳がれているそうです。
私はたまたまスポーツだったのですが、皆がそれぞれのスポーツや文化関係や仕事関係の中で、肩肘張らずに東京オリンピック、パラリンピックを迎えられればいいと私は思っています。
■質疑応答
○福寺 昭和43年卒の福寺です。私は修猷館でも慶応大学でも陸上をやり、今は大学競争部のOB会長をやっています。
今回のパラリンピックに出場した高桑早生さんは、慶應の競争部出身です。彼女はT44というクラスで、ロンドンに次いで、100メートル、200メートル、走り幅跳びの全部で入賞しました。彼女が慶應競争部に入部したときは、もちろん障がい者はいなかったのですが、彼女は陸上をやりたくて門をたたきました。自分が障がい者だから、みんなと一緒に練習できないのではないか、と怖がっていたら、監督と部員全員が「早紀ちゃん一緒にやろうよ」と言ってくれて、そのことが彼女のモチベーションになって、いまだにやっているのだそうです。
義足は1本50万円以上します。そんな中、障がい者のアスリートが、競技をやりながら仕事をするとなると、企業の側にも難しく感じる意識の問題があり、就職が難しいのです。でも彼らは、車いすだとか、手がないとかいうのはあるのですが、逆に頭がクリアだったり頑張り屋だったりすることもあります。
今回、パラリンピックがオリンピックと同じように注目されて、それは本当にうれしいことでしたが、これからもっと障がい者も住みやすい社会になっていくように、マスコミでも発信していただきたいと思います。
■大須賀会長あいさつ
○大須賀 今日は数字を挙げて多面的にお話を聞かせていただきました。感じたのは、障がい者の方が、残った機能を最大限に生かすような努力が進められていて、器具が発達してくると、今度はオリンピックとパラリンピックを区分するのは差別だ、という議論が出てくるのではないかということです。そんな時代が近いような気がしました。人間が考案した素晴らしい補助機能ですので、それらを使わない手はないのですが、その辺の考えをどうまとめていくかということで、スポーツも新しい世界に入ったなと感じました。
2020年の東京オリンピック、パラリンピック、そしてその前年の2019年のラグビーのワールドカップの大成功を祈りながら、その中で森田さんの記者としてのご活躍を大いに期待しています。
(終了)