『私の家づくりと、林業再生の先導的ビジネスモデルについて』
講師:伊佐 裕 氏(昭和44年卒)
■講師紹介
○甲畑 伊佐君とは、高校の時は全然お話をしたことがありません。美術部の部長をされていて、運動会の黄色のブロック長で、その時のスタンドの背景の青木繁の「海の幸」がすごいと思ったことは覚えています。
そして東京修猷会の幹事学年になった時、伊佐君は44年卒の獅子の会をまとめてくれ、そして東京修猷会の執行部に私が深く関わるようになったきっかけをつくってくれました。総会の後、二木会の企画を一緒にやることになり、2人で講師のお願いに行きました。熱く「先輩よろしくお願いします」と言うと、それで引く先輩はおられませんでした。熱く突進して、それはドアをたたくどころではなく、かち破るぐらいの勢いでした。仕事でもその勢いでいろいろな苦労や難関を乗り越えて、今日に至っているのだろうと思います。
ある春の二木会では卓上に菜の花を飾り、その時の会場は春を感じる和やかな雰囲気になりました。伊佐君の家づくりの基本にある、日本の心、日本の繊細さ、四季折々の気持ちがそこに表れていたように思います。そしてそれは、幼い頃から培われていたものの反映でもあったのだと思います。
■伊佐裕氏講演
○伊佐 今日は懐かしい同級生がたくさん来てくれています。20年前は幹事学年としてここで甲畑さんと司会をやっていました。今日は修猷館から始まった私の人生、仕事、そして今も修猷館だということをお伝えしたいと思っています。
■修猷館の思い出
私の生家は、西新のリヤカー部隊がいるところを少し藤崎のほうに行った、昔の西福岡郵便局のあった裏手の唐津街道沿いに建つ町屋です。今もそのままあります。私はここで生まれ、9人家族で育ち、学校に通いました。今は福岡市で一番古い建物ということになっているようです。
入学した1年7組では、剣道の金広先生が担任でした。英語はタコさんの中山先生で、タコさんの授業は日本語がよく聞き取れず理解できませんでした。数学は池ぽんで、数学が分かっていない生徒に対して困ったようなお顔をされていました。英数がそういうことで駄目だった中、現代国語が小柳陽太郎先生でした。先生は高村光太郎の「牛」の詩を朗々と読まれました。私はそれまで国語というのは字句の解釈と思っていましたが、ここで生命観あふれる先生の素晴らしい授業に巡り合うことができました。
最初は剣道部に入るつもりでしたが、美術部の部室の前を通った時に油絵の匂いを嗅いで、そこにふらっと入ってそのまま美術部に入りました。その時の部長が一年上の坂口さんで、今は芸大の油絵の教授をやっておられます。この美術部に入ったことが、また後での自分の人生のご縁をいただいたと思っています。
美術の先生は河原大輔先生でした。成績が低空飛行の人間も、美術部に行くと居場所がありました。河原先生には4人のお子さんがいらっしゃって、一番下が、今世界でも有名なラーメン店「一風堂」の河原成美です。そのころまだ中学生の彼は、奇しくも私と誕生日が同じで、キャンプとかに付いて来ていましたが、こうなりたいという思いのある目をしている少年でした。
運動会ではブロック長をさせていただき、さまざまな優秀なメンバーが私を助けてくれました。運動会での1年生から3年生の連帯感は最高の感激で、このことが、終生「組織とは何ぞや」ということについての私の痛烈な体験になっています。
小柳先生との出会い、美術部との出会い、それから運動会での痛烈な体験があったために、私は丸紅を辞めてこの仕事を今やっているのだと思います。
■山寺で思ったこと
東京の大学を七つぐらい受けましたが、全部落ちて小柳先生のところに行きましたら、「山寺に行け」と言われました。それで私は坊主頭にして熊本県菊池市の標高750mの聖護寺というお寺に上がりました。山水とろうそくの生活で、情報は何もないこの山寺に3カ月いました。夜は6時ごろからご住職と般若湯をいただき、夜明けと共に障子越しに光が入り、座禅をし、作務をし、本当に心が洗われた3カ月でした。障子越しの光のすがすがしさや本堂の床板の厚みの足の裏の感覚が体に残り、これからの人生はこれだけで生きていけるという実感を持って山を下りました。ここでの経験で、必ず自分の人生が開けるという感触を持ちました。
山寺での3カ月の経験で、本当に簡素になれば怖いものがなくなるというのを実感し、その勢いもあって、私は絵をかついで武者小路実篤さんの調布のお宅を紹介もなく訪ねました。あのような大家の方と、人生のことや美術のことを2時間話しました。83歳でいらっしゃったと思います。最初、表札を見たときは心が引けたのですが、「自分は伊佐裕たい」。何もない伊佐裕なんですよ。しかしながら「何かある伊佐裕たい」という気持ちがありまして、そう言い聞かせて行きました。
それから大学に入って、東山魁夷さんのご自宅に押し掛けて入門のお願いをしたこともありました。このようなことが、後で、何かをやろうとした時の種になったように思います。
■独立
丸紅で14年間、大いに元気にやりました。そのころは輸入住宅とかイタリア風とかの家が売れていましたが、それは私にとっては異文化でした。家というのは質素であっても文化だと思いますが、家を売ったり買ったりするのを見るうちに、家という文化がなくなったと思い、それなら自分で会社をつくろうと思って独立しました。何もない独立でした。大工さん探しから始めました。全ては小柳先生の教え「いきいきと生きよ」というお教えと、美しいものと簡素ということを求めて、好きなことをやろうという気持ちだけでした。
そして、今から28年前の昭和63年5月27日に会社をつくりました。8畳のプレハブから始めました。机と椅子は中学生の要らなくなったものをもらってきたものでした。そこで半年を過ごしましたが、ここは大変暑くて、夏は水を屋根に掛けて仕事をしていました。電話1本鳴らないので、セールスの人が来てもうれしくて応対したことを思い出します。社員は3人で、電話が掛かってくると、私はすぐ横にいるのですが、さも大きな会社のようにしばらく間を置いて「社長です」と電話を代わっていました。本当に素朴な会社の始まりでした。
■研究開発
そしてこの10年間は、芸術的にいいものをつくるということに加えて、それがビジネスとして成り立つことを研究してきました。
その中の一つが、3年前に特許を取りました「新しい家 校倉」という設計方法です。特許庁によると、設計というソフトで特許を取るのは大変珍しいということでした。これは間取りが半日で変えられることが売りです。外壁もパネル化していて生産性が高いので、工期の短縮とコストダウンになりました。これは特許とともに同年にグッドデザイン賞を頂戴しました。
今は国を挙げての木造化の問題や地球環境の問題があり、地方創生もあって、林業との問題が大きくなってきています。私もサプライチェーンの問題がありますので、秩父で林業との取り組みを進めてきています。ここには「秩父百年の森」と呼ばれている大変しっかりとした森林があります。この秩父の森には、1ha(ヘクタール)に800本の杉がありますが、3Dレーザースキャナーを使って、木の場所、樹高、材積、全てが1日で計測できる技術が可能になりました。これによって私たちと林業との関係が進みました。私どもが設計した情報を山に送ると、最適な造材方法をシミュレーションし、これでトヨタと同じように在庫がないシステムができました。それによってトラックの走行距離や木材の保管料がかなりカットされますので、それらを山に還元することができます。日本最初の取り組みだと林野庁は言っています。これを広めて林業が盛んになるようにしたいと思っています。
今、日本の木材事業の国産材利用は、日本の森林の年間成長量に及んでいません。過剰生産になっています。ですから伐採しないと森林の環境を保てません。密になり過ぎて駄目になるのです。国産材はそのような危機の状況にあります。
引張強度、圧縮強度を鉄と比べると木のほうが強いのです。それから火災に対しても鉄骨のほうが先に曲がります。木は、燃えしろ設計によって表面が炭化して、構造体を保つことが可能となっています。ですから、今、国を挙げて高層まで木造化しようとして、今は10階建てぐらいまで可能になってきています。日本は国土の65%が森林ですから、世界有数の資源国です。この無限の森林資源が有効に使われると国は、大変大きな産業を興すことになります。そして地方が創生できるチャンスになると思います。
■結び
当社は、生活シーンのいろいろな展覧会をやりたいと思って、当初からギャラリーをつくっています。ここで今まで70回ぐらいの展覧会をやりました。細川元総理が陶芸をやっておられて、3回目の頃ここで細川さんの陶芸展をやりました。それを皮切りに家具展とかいろいろ企画・運営しています。修猷館美術部OBの修美展も行っています。■大須賀会長あいさつ
○大須賀 今日は当初用意した席が足りずに、もう一回り大きい部屋にすべきだったと反省しています。
今日は伊佐さんの人生が修猷館への思いと重なった、熱い伊佐節を聞かせていただきました。西洋を金属と石の文化と言うなら、中国は土の文化で、そしてまさに日本は木の文化だということを改めて感じました。その中で伊佐さんの家づくりへの思いを聞かせていただきました。そして更に環境問題とか地方創生の問題とかにも及んだお話でした。日本人が家というものを昔から大事にしてきましたが、その原点にもう一度戻って考えてみたいと思いました。今日はありがとうございました。
(終了)