『芸術の秋に歌舞伎を楽しもう!~江戸時代の芸能と社会』
講師:神田 由築 氏(昭和59年卒)
■講師紹介
○服部 神田さんとは同じ3年10組でした。このクラスは女子が10名程度の男クラ崩れのようなクラスでしたが、その中で神田さんは周りに乱されずに、自分のスタイルをしっかりと持つ落ち着いた雰囲気の優等生でした。
当時の女子の皆さんに聞いたエピソードをご紹介します。まず門限が5時だったそうで、周りからは「箱入り娘」を通り越して「金庫入り娘」と呼ばれていたそうです。それから、少女漫画が大好きで、授業中に先生の目を盗んで女子同士で回し読みしていたそうです。『日出処の天子』、『ラシャーヌ!』、『摩利と新吾』のような美少年系のキャラクターがお気に入りで、かなりミーハーだったようです。そして運動会では女子の副応コン長として活躍されたのですが、応コン長の話では、神田さんが引き受けるとなった時に、「私たちは新選組みたいなもの。あなたは近藤勇で、私が土方歳三となって全力で支える」と、とても女子高生とは思えない時代掛かったことを言ったそうです。歴史好きで真っすぐで、頑張り屋さんでロマンチストの神田さんらしいエピソードだなと思いました。休み時間には歌舞伎とか花魁(おいらん)の話を楽しそうにされていたそうで、高校の時から江戸文化や歴史が好きだった神田さんがそのまま研究の道に入られて、そして第一人者として活躍されている今に続いているのだと思います。
■神田由築氏講演
○神田 思い掛けない紹介をいただき、高校時代を懐かしく思いました。そして当時から今まで私はあまり変わってなくて、高校時代に少女漫画で男性の漫画を読んでいたのが、今は三次元になったということだと改めて分かりました。
■はじめに
歌舞伎というのは男性だけでやる演劇です。2005年には日本の代表的な伝統芸能としてユネスコの世界無形文化遺産にも指定され、現在でも人気を得ていますが、江戸時代の歌舞伎人気というのは、今日とは比べものにならないくらいすごく、江戸時代の文化で歌舞伎と関係ないものを探すのが難しいくらいです。歌舞伎は、当時の文芸、髪型、着物の模様や色などにも大きな影響を与えました。しかも驚くべきことに、北海道から九州に至るまで全国各地で上演されていて、その箇所は万単位に上るのではないかと思われます。
■歌舞伎との出会い
私が初めて歌舞伎なるものを知ったのは、高校2年の春休みでした。父親が歌舞伎好きで、NHKのテレビで「助六曲輪初桜」、いわゆる「助六」と呼ばれるものの放送を見ました。片岡孝夫、現在の片岡仁左衛門が主演をやっていました。片岡孝夫さんは時代劇にも出ていてファンだったのですが、「歌舞伎役者だったんだ」と思い、そして「これが歌舞伎か」と衝撃を受けました。
この「助六」という演目は、男伊達の助六という人物が吉原の揚巻という恋人の所に通うという、ただそれだけの芝居で訳が分かりませんでした。それで修猷館の図書館で『図説日本の古典20歌舞伎十八番』というのを見つけてそれで勉強しました。本当に面白く読みました。私はこの本のおかげで歌舞伎への興味が高まりました。修猷館の図書館が私の歌舞伎の世界への扉を開いてくれたのです。先日キャリアセミナーで在校生に歌舞伎の話をしてきましたが、その時に、建て替わってはいましたが懐かしい図書館に行って、その『日本の古典20歌舞伎十八番』を探し出し三十何年ぶりに対面を果たしてきました。
現在、福岡では博多座で生の歌舞伎を見ることができ、修猷館では毎年2年生が博多座に歌舞伎を見に行くことになっているそうですが、私が高校生のころは歌舞伎を見るなら東京に行かなくてはなりませんでした。1985年に東京の大学に入学して念願かなって見た最初の舞台は、「十二代目市川團十郎襲名披露公演」でした。実際に見て、「これはまるで江戸時代だ」と第2の衝撃を受けました。
1985年のこの12代目團十郎襲名で、当時は世間の注目が歌舞伎に集まっていました。そのような時代の空気もあって、私も知らず知らずのうちに生の歌舞伎に魅了されていったということもあるかもしれません。ただこの時点では、歌舞伎が一生の仕事になるとは思っていませんでした。日本史を専攻していたのですが、卒論を書く段になってテーマに困り、歌舞伎も江戸時代に始まったものなので、歌舞伎の歴史をテーマにしようと安易に思ったのです。
卒業論文のテーマは、香川県の琴平に今でも建っている天保6年(1835年)建築の芝居小屋と門前町金毘羅の関係についてでした。ここでも多分私は、知らないうちに時代の流れに後押しされていたのだと思います。この芝居小屋は、当時、国の重要文化財に指定されていたのですが、先代の亡くなられた中村勘九郎さんたちの呼び掛けで、実際の歌舞伎の公演が1985年6月に実現していたのです。江戸時代の小屋で歌舞伎をやるというのは画期的なことで、歌舞伎の研究者の間でもこの芝居小屋の復活は非常に注目されました。私が歌舞伎研究者の1人である服部幸雄先生に卒論のことを相談したら、ちょうどその金毘羅の芝居小屋の復活が話題になっていた時期だったので「金毘羅で卒論を書いたらどうですか」と言われて決めたのです。私が初めて東京で生の歌舞伎を見たころ、遠く離れた四国では芝居小屋での上演が復活して、そしてそこが私の研究の起点になったということを思えば実に不思議な縁だなと感じます。
■歌舞伎と歴史学
今から100年くらい後に歌舞伎の歴史を振り返るときに、1985年という年は恐らく一つの大事な年になるのではないかと思います。一つには襲名などの記念碑的な興行によって歌舞伎を商業ベースに乗せることが問われるようになったということです。もう一つは、歌舞伎が、芝居小屋を活用した町おこし、いわゆる地域振興と結び付いたということです。
歌舞伎というものは400年間一定のかたちを変わらず保っていたわけではなく、時代の変化に応じてその姿や人々との関係、社会的な意味を変えてきています。しかしこのような商業主義とか地域振興と結びついたあり方というのは現代だけのものではなく、むしろ江戸時代の歌舞伎こそが芸能を商品化して、それが地域活性化に利用される素地をつくったということが言えます。
私の研究テーマも、まさに芸能の商品化と地域社会との関わりというところにあり、主に以下の3点の切り口から江戸時代の芸能文化について考えてきました。第1に、「芸能が成り立つ『場』や、それにたずさわる人々の『関係』といった視点から、当時の社会構造の中で芸能をとらえること」です。江戸時代はさまざまなものが商品化を遂げた時代ですが、その商品化の過程にも段階があって、それは社会の変化と結び付いています。
第2は、「芸能文化の伝播の様相を立体的な視点でみること」です。18世紀後半にはもう北海道から九州まで芸能者が往来して、多くの都市や村落で興行形態や演目の内容などある程度の共通性を持って芸能が享受されてきました。そしてそのことによって、かえって地域間の文化格差や序列が明るみになりました。例えば、有名でいい役者がうちには来ているけれども、あそこは呼べないというようなことで、地域の芸能文化の格差を生んだということです。
第3に「芸能作品も一種の歴史の資料として分析対象とすること」です。江戸時代の民衆は、歌舞伎の何に熱狂してこれをどう受け止めたのかということです。当時、各地で繰り返し上演された演目の多くは、一見民衆の地域とも生活とも全く乖離(かいり)した物語でした。しかし江戸時代の庶民は、芝居に描かれた世界を大いなる共感を持って受け止め惜しみなく笑いや涙を注いだのです。それはなぜだったのかということです。
■芸能文化の伝播
江戸時代、九州北部から山口県に掛けては役者村と呼ばれる芸能者の集住地域がいくつもあって、芸能が盛んに行われていました。糸島半島にあった役者村の一つに泊という所があって、その泊の役者の演目の記録が残っています。それを見ると、演目のほとんどは18世紀半ば前後に初演された歌舞伎や人形浄瑠璃の作品でした。人形浄瑠璃とは、三味線音楽の一つの義太夫節の節回しに乗せて人形が芝居を演じるもので、今日の文楽に当たるものです。当時は人形浄瑠璃が大変人気で、18世紀の半ばごろに新作が次々に生み出され、そしてそれを役者が演じることもよく行われていました。
現在の歌舞伎のレパートリーは、大きく分けると四つです。一つが人形浄瑠璃から輸入された作品で、これは丸本歌舞伎と言われています。2番目が、最初から歌舞伎としてつくられた作品で、例えば歌舞伎十八番の荒事とか四世鶴屋南北や河竹黙阿弥の作品などで、これらは純歌舞伎と言われています。そして3番目は、明治以降になって新しくつくられた作品で、これを新歌舞伎と言います。そして4番目が歌舞伎舞踊です。古典歌舞伎はおおよそこの四つに分けられます。
例えば今月の歌舞伎座の昼の部は、「音羽嶽だんまり」、「歌舞伎十八番の内 矢の根」、「一條大蔵譚」、「人情噺文七元結」という四つの演目で構成されています。最初の「音羽嶽だんまり」というのは、登場人物が暗闇の中を手探りで宝などを探し求めたり奪い合ったりする様子を見せる様式的な場面を描いたもので、これの分類は難しいのですが、あえて言えば純歌舞伎に入ると思います。「矢の根」は荒事です。「一條大蔵譚」は丸本歌舞伎です。「人情噺文七元結」は、落語を原作としている純歌舞伎です。
このように、バランスよくさまざまなジャンルの演目が配置されています。しかもそれぞれの演目同士は、全く無関係です。このようにいろいろな演目があるために、歌舞伎は分かりにくいという印象を持たれるかもしれませんが、逆に言えば多様性に富むということにもなります。どれか一つ好きなジャンルが見つかれば楽しめるということです。
泊役者の演目の一つ目の重要な点は、丸本歌舞伎を主なレパートリーとしていたことです。17世紀が歌舞伎と人形浄瑠璃という新しい芸能が生まれ芸能に革命がもたらされた時期だとすると、18世紀半ばは、新しい人気演目が次々に誕生し、その後のレパートリーの基盤を作ったという点で第2の革命期といえます。今日歌舞伎を代表する3大名作の「菅原伝授手習鑑」、「義経千本桜」、「仮名手本忠臣蔵」の3本は、いずれも1740年代につくられた人形浄瑠璃を原作とする丸本歌舞伎です。
それから二つ目の重要な点は、このような人気作品がプロの芸能者集団だけでなくて小さな家族単位、個人単位の芸能者に至るまであらゆる階層の芸能者によって受容されるようになった。言い換えれば様々な種類の芸能者が同じ人気演目を上演するようになったということです。また別の史料によると、2人の親子連れが「忠臣蔵」の「定九郎場」を演じたという記録があります。そのように極端に少人数の芝居が成立したのは、浄瑠璃が語りと三味線さえあれば成立する究極的には1人でも上演可能な芸能だったからなのです。
歌舞伎の芸というのは極端に言えば、市川團十郎家のような家を単位に継いでいく場合と、この親子のように家どころか集団にも属さずに零細な芸能者が各地を歩き回って伝える場合があったと考えられます。しかし三都の千両役者であろうと泊の役者であろうと、同じく「忠臣蔵」を演じていたというところが重要な点です。それから芝居を見る側にも、例えば「忠臣蔵」の「定九郎場」がどういうものかというのが十分に了解されていました。
私は今趣味で義太夫節(浄瑠璃)を習っています。物語を語るのが面白いのと同時に、大きな声で語るのがストレス発散になります。先の紹介にも副応コン長の話がありましたが、そのころから大きな声を出すのだけは得意で、それが今のこの義太夫節を習う趣味にもつながっているのかなと思って、可笑しくなりました。
江戸時代から、プロの芸能者ではない人が浄瑠璃を習う素人浄瑠璃は大変な人気でした。糸島半島でも素人浄瑠璃は根付いていて、東村とか遠賀郡の若宮村の者によって、音曲会というおさらい会みたいなものが開催されていました。ですから泊役者のようなプロの歌舞伎役者だけではなくて、ごく零細な芸能者や素人が口ずさむ浄瑠璃などを通して、人々は物語を共有していたということが言えます。
■民衆と物語
彼らを熱狂させた物語の1例として、「仮名手本忠臣蔵」を取り上げてみます。これは元禄15年(1702年)に起こった赤穂事件を描いた作品で、現在では「忠臣蔵」と言えばイコール赤穂事件、そして47人の武士の忠義をストレートに描いた物語となっています。その主役と言えば大石内蔵助ですが、江戸時代の民衆の間でもっと人気があったのは、早野勘平という青年でした。
早野勘平は塩冶判官(浅野内匠頭)の側近です。その主君が高師直(吉良上野介)を切りつけた大事な場に居合わせず、そのまま恋人の腰元お軽と姿をくらまし、山崎のお軽の実家に身を寄せます。そして勘平は、不忠の罪を敵討ちに必要なお金を用意することで償おうと考えます。それを察したお軽の父親の百姓与市兵衛は、勘平に内緒でお軽を京都の祇園町に売るのですが、その祇園町から家に帰る途中で盗賊の斧定九郎に殺されて、持っていた50両(身売りの契約金100両の半分)を奪われてしまいます。「定九郎場」というのは、この場面です。
与市兵衛が定九郎に殺された直後に勘平がその場を通りかかり、その定九郎をイノシシと間違えて撃ち殺してしまいます。イノシシだと思って触るとそれは人で、50両の包みが手に触れ、思わずこれを奪って家に帰ります。すると間もなく殺されたお舅さんの死体が帰ってきます。舅与市兵衛が殺されたということで、勘平は自分がその犯人だと思い込み、思い余って切腹をしようと腹に刀を突き立てます。しかしその死に際に、勘平が殺したのは実は定九郎であり、むしろ舅の敵を討ったのだということが明らかになり、名誉を回復して46番目の義士になることを許されるという物語です。
昭和を代表する浄瑠璃太夫の豊竹山城少掾が、この場面に「金」という文字が47回出てくることを指摘しています。この数字はもちろん四十七士の47で、作者の意図によるものです。つまり勘平にとって「金」こそが忠義の証ということなのです。そしてまたこの「仮名手本忠臣蔵」は赤穂事件から47年後に書かれたという、奇しくも偶然にもそういう作品ですが、そこに書かれたのは抽象的でストレートな武士の忠義ではなくて、「金」という屈折した忠義のかたちだったのです。
それから勘平というのは武士ではありません。身分的には浪人で、現在は獣を撃つ猟師として生計を立てています。その勘平をお金によって武士に返そうと心を砕いている恋人のお軽一家は、百姓身分です。更に言うと、お軽のお兄さんの平右衛門も塩冶家に足軽奉公をしていて、この次の場面では平右衛門が47番目の義士として敵討ちの一味に加わることになります。つまり作者は、浪人とか、百姓の子供で武家奉公に出た腰元や足軽という、武家社会の周縁の人々を物語の主軸に据えたのです。
「仮名手本忠臣蔵」が初演されたころには、武家社会の周縁に武士身分でないものが多数展開していて、身分制そのものが複雑な要素を抱え込むようになっていました。そして経済が発展して、金の力が社会に浸透している時代でもありました。この作品にはそのような金の力が拡大して、身分の周縁性が広まった時代を見つめる作者の鋭い視線が貫かれているのです。
このように18世紀の作者たちは、歴史上の事件に骨格を借りながらも、山崎の百姓家などを舞台に設定して、より民衆の生活感覚に寄り添ったところで物語を展開していきました。そして物語に織り込まれた金による忠義とか、都市と農村とか、周縁的な身分とか、同時代的で等身大の感覚が人々を熱狂させ、この物語が長く語り継がれる原動力となったと考えられます。
■おわりに
歌舞伎は400年の歴史と言いますが、出雲阿国が始めた歌舞伎のスタイルがそのまま今に伝わっているわけではありません。全国規模で伝播した歌舞伎文化の基本的骨格がつくられたのは18世紀半ばと言えますし、また極端に言えば、現代の歌舞伎のスタイルは戦後につくられたものだと言うことも可能です。伝統というのは、常に歴史的段階と照らし合わせて捉えなければなりません。
明治になると赤穂事件は武士の忠義の物語として定着し始め、新たな「忠臣蔵」作品がつくられるようになりました。恐らく今年も12月になると、何かしらの「忠臣蔵」作品が放送されると思います。そのようにして再生産されていくのですが、しかし一方で早野勘平の物語は、地芝居とか素人浄瑠璃で演じられ今でも根強い人気を誇っています。現代の伝統芸能というのは、そのような重層的な構造の中で展開してきた結果なのです。
もし今後歌舞伎をご覧になられることがありましたら、そのような伝統の段階性や江戸時代の人々がどのようにこの芝居を受け取ったのかということも考えていただけたら幸いです。
■質疑応答
○45年卒の吉田です。よくお芝居で、子供を殺したり子供の自殺を褒めたりということがあります。それでも民衆に受けたのはどうしてなのでしょうか。
○神田 どなたかがお書きになっていたもので、子供が成長する前に死んでしまうことが多くあった時代でしたので、子供が死ぬことに何かしら意味を付与して、その場面を見ることで少しは慰められたのではないかという解釈がありました。その辺り難しい問題だと思いますので、今後の課題にさせていただきたいと思います。
○海外の演劇は悲劇と喜劇に明確に分かれていますが、歌舞伎の場合はどうなのでしょうか。
○神田 大体において悲劇的だとか喜劇的というのはありますが、人形浄瑠璃から移行された歌舞伎では、人形浄瑠璃は泣き笑いの文化の大阪で生まれたものですので、どんなに悲劇的なものでも必ず笑いの要素が入っています。それでかえって悲しくなる、その落差を狙っているようにも思います。
○46年卒の栗山です。歌舞伎にはさまざまな演目があり、私は歌舞伎座で歌舞伎の俳優さんたちがやっているものが全て歌舞伎だと思っていますが、学問の世界では歌舞伎とはどのような演劇と捉えているのでしょうか。
○神田 私が研究で扱う歌舞伎はおおよそかたちが決まっていて、義太夫節に乗せてある一定の様式を見せながら演じるというものです。江戸時代において丸本歌舞伎が大変流行したというのも、義太夫節を語る人がいて決められたせりふを言えばそれで歌舞伎らしく見えるという、その型に乗ってしまえば簡単だということがあったと思います。
ところが今は混沌(こんとん)としている時代です。一昔前だと、生の音楽を使うのが歌舞伎の条件だったのが、猿之助さんのスーパー歌舞伎の時に録音の音を入れて、今では歌舞伎と言っても生でないものもあったりします。ですから現代的な視点で言えば定義は難しいと思います。
■大須賀会長あいさつ
○大須賀 これまで歌舞伎というと、演技の素晴らしさとか舞台のしつらえの様式美とかばかりに関心があったのですが、神田さんは、歌舞伎を通してその時代を分析し社会の実相を知るという一つの学問を確立されていて、素晴らしいと思いました。
この2、3年、インバウンドで外国人が増えています。それの一つの大きな理由として、日本文化が世界に認知され評価されてきたということがあります。まさに歌舞伎もその一つだと思います。今は日本人よりも欧米の方々からはるかに評価されている実態もあります。われわれは歌舞伎に限らず、もっと日本文化に関心を持ってもっとレベルアップしていかなければならないと思います。これからの日本は、重厚長大ということよりも観光立国にしていこうとなっていますので、そういう意味でも歌舞伎というものにもう一度関心を持っていきたいと思います。
(終了)