第611回二木会講演会記録

『映画製作のプロセスと業界の現状』

講師:入江 信吾 氏(平成7年卒)

■講師紹介

○松隈 私は昭和61年卒で、入江さんより9歳も上ですので当時は入江さんとは面識がありませんでしたが、映画研究部の部長として運動会を撮影したり自主制作映画をつくったりしていました。私の時は「映画研究部」と言っていたのですが、どうもその後、廃部になっていたらしく、入江さんの時に「映画制作部」と名前を変えて復活させたということです。われわれの時は8ミリフィルムを回してカメラのドイに現像を頼みにいったりしていたのですが、その後、ビデオの時代が来てやる人がなくなったということのようです。  その後、入江さんが映画制作部として部を復活させたのです。入江さんとは一昨年の秋の「Salon de 修猷」の時に初めてお会いしました。その時に彼から映画を撮りたいという話は聞いていたのですが、そこから1年半でこの『なつやすみの巨匠』という立派な映画が完成するなんて、正直舌を巻きました。4月に試写会で見せていただきましたが、私はこの映画が大好きです。1人でも多くの方にこの映画を見てほしいと思います。

■入江信吾氏講演

■脚本とは

 脚本とはシンプルなもので、「柱」と「ト書き」と「セリフ」の3要素で構成されています。「柱」というのはシーンの場所のことです。「ト書き」というのは、役者のセリフに続けて「ト何々する」という感じで書くのでト書きと言われています。キャラクターの挙動や情景を描写します。そして大事なのが「セリフ」です。これはモノローグやナレーションも含めます。
 小説との大きな相違点は、小説はそれだけで完結しているものですが、脚本はあくまでも映像の設計図ですので読み物である必要はないというところです。むしろなるべく簡潔に書くのがよしとされています。心情描写は書きません。例えば「彼は悔しい」とか「怒っている」とかいうカメラに映らないことは書きません。それは役者さんや監督が考えることで脚本では余計な指定はしないというのが暗黙のルールになっています。

■私の経歴

 私は福岡市早良区出身で4人兄弟の末っ子です。昔からテレビばかり見ていて、『太陽にほえろ』とかが大好きでよく真似をしていました。さらに書くことも好きだったみたいで、小学校のころは小説家のまね事らしきことをしていました。
 中学時代はバレー部に所属していて、修猷館に入ってからも特に何も考えずにバレー部に入ったのですが、ずっとベンチウオーマーで、2年の時に迷った末に退部しました。
 その時は何をするのか決めていなかったのですが、ある時にふと映画研究部らしきものがあるというのに気付きました。当時はまだ古い校舎で、プールの下の通り沿いにコンクリートの部室があって、そこの「映画研究部」という看板だけは見ていて知っていました。松隈さんがおっしゃっていたように、そのころはフィルムからビデオへという過渡期で、もうフィルムで撮ろうなんていう人はいなくて、廃部寸前の状態でした。
 その時に私は逆に好き勝手ができるチャンスだと思いました。それで当時顧問だった世界史の吉永暢夫先生に入部を申し出たら、「入るも何も部員はきみだけだ。どうするの」と言われました。入ったのはいいのですが、部員は私1人で予算も下りず機材もありませんでした。私はビデオカメラで撮りたいと思っていたのですがビデオカメラすらありません。自分で買うにも貯金も足りず、父に泣いて頼んで何とか半分は出してもらいました。もはや部ではなく趣味じゃないかという話です。
 私が急に運動部から文化部に転部したので、みんなは変に思って誰も近寄ってきませんでした。それでみんなの信頼を得られるように大運動会のドキュメンタリービデオを撮ることにしました。夏休みの準備の様子からカメラで追い掛け、運動会の本番も全ての流れを把握して一番いい場所にカメラを設置して、1人で何とか撮り切りました。そして2、3カ月かけてそれを2時間にまとめ上げ披露したら、みんながけっこう喜んでくれました。その時に「こういうことをすればいいんだ」と思いました。みんなも少し態度が変わってきて、他の部との掛け持ちでうちの部に入ってくれて部員が11名になりました。その後、後輩も入ってきておかげさまでこの部は今でも続いているようです。
 勝手に部の名前を変えてしまったことについては松隈先輩に謝らなければなりません。「研究部」というイメージが、いかにも研究しているという感じで引っ掛かりましたので、映画をつくってなんぼだろうということで「制作部」という名前に変えたのです。
 やっと部としての体裁が整ったので自分で脚本を書いて60分ものの長編を2本つくって文化祭で上映しました。1本は『太陽にほえろ』のパロディーで、もう1本は真面目な青春映画でした。その上映が終わった時に、どこからともなく拍手が沸き上がりました。その瞬間のことは今でも鮮明に覚えています。「自分がやってきたことは間違いがなかった」と思って、その拍手に今まで支えられてきたような気がします。今でもへこんだりした時にはその時の拍手のことを思い出しています。
 大学は、親や兄弟から勧められて経済学部に入りました。サークルで好きな映画でもつくればいいと思ったのです。でも当時の神戸大学の映画研究部というのは、みんなで「ゴダールがどうとか」という映画の批評のようなことばかりしている文字通りの映画研究部でしたので、がっかりしました。もともと主体性を持って大学に入ったわけではなかったので授業も面白いと思えずに、アルバイトばかりしてだんだん学校にも行かなくなりました。
 ただ一方ではコンクールにも応募していました。たまたまその時期に、フジテレビのヤングシナリオ大賞という脚本のコンクールで最終選考に残ったのです。これはけっこう権威のある賞でして、そこに2年目の挑戦で最終選考まで運良く残ったのです。2,600人の応募の中から最終に残ったのは13人でしたから200倍でした。この時に「自分はもしかしたら脚本家になれるかもしれない。ここで挑戦しないと一生後悔する。」と思い、それまでは半分は就職するつもりでいたのですが、もう就職せずに挑戦し続けようと決め、そこからは人が変わったように大学の勉強もして、5年かかりましたが何とか卒業することができました。
 後は親です。父は脱サラして苦労したので、子供たちには安定した道を選んでほしいと、在学中からなかなか理解を得られずにいました。脚本家とか物書きになれる人はほんの一握りで、さらにそれで食べていける人はひとつまみなのだから止めておけというのです。
 それが、卒業して上京するという時に父に会いに行ったら、あれだけ反対していた父が急に「分かった。大学を卒業させるまでが親の義務だ。後はおまえの人生だから好きにしろ。」と言いました。そして駅のホームまで見送りに来た父が突然ぶっきらぼうに私の胸ポケットにくしゃくしゃの5千円札を押し込み、「これで何かうまいものでも食え。」と言うのです。憎いことをするなと思いました。その5千円札はいまだに取ってあります。そんな感じでやっと親も納得してくれました。
 それからは張り切ってコンクールにもコンスタントに挑戦していたのですが、書いても書いても落ちまくりました。最初のことはただのビギナーズラックだったのかなというぐらいでした。自分では力が付いていっているつもりでしたのに、逆にどんどん結果が悪くなっていきました。世の中ってうまくいかないものだなと思って気が付いたらもう27歳でした。みんなはどんどん立派になっていくのにと思うと同窓会にも行きたくない、みじめな日々が続いていました。
 そんなころにやっと転機が訪れました。映画会社の東映が芸術職研修生の募集を始めたのです。最低の年俸を3年間保証して脚本家を育てますという制度です。こんなチャンスはもう二度とないと思って頑張って受けました。いろんな試験がありましたが、その中で一番大変だったのが、お題を与えられて3時間ぶっ続けで脚本を1本書き上げるというものでした。この時は人生で一番集中しました。おかげで何とか合格することができました。やっと自分にも運が巡ってきて、その後『相棒』でデビューすることができました。
 デビューして今年で10年になります。今は東映を離れてフリーランスで活動しています。主に2時間サスペンスの事件物やアニメ作品の『黒子のバスケ』などに参加しています。

■『なつやすみの巨匠』

 昨年、『なつやすみの巨匠』という映画をつくりました。父親から譲り受けたビデオカメラで映画づくりに熱中する少年の成長物語です。実はここで使ったカメラがおやじと折半して買ったカメラなのです。ここで役に立ったかという感じです。福岡の能古島が舞台になっています。監督は以前『RISE UP』という青春映画で私と一緒に仕事をした中島良という男です。

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 普通、脚本家はプロデューサーからオファーが来たものを書くのが仕事ですが、どうして私のような一介の脚本家が自分で映画を立ち上げようと思ったかというと。
 その理由の一つは、現在一般公開されている作品の偏りが気になったからです。35年前の1980年の日本映画のランキングを見てみると、1位が黒澤明の名作『影武者』、2位が小松左京さんのSF小説が原作の『復活の日』、3位が日露戦争の『二百三高地』、4位が『ドラえもん のび太の恐竜』、5位が『戦国自衛隊』、6位が『ヤマトよ永遠に』となっています。そしてその次に『男はつらいよ』が二つ続いています。
 次に去年のランキングを見てみると、1位が大ヒットした小説の『永遠の0』、2位は『STAND BY ME ドラえもん』、3位が『るろうに剣心』、4位が『テルマエ・ロマエ』となっています。5位以下もアニメや漫画の実写化したものや原作物とかドラマの劇場版ばかりです。少し偏り過ぎていると思うのです。最近は原作があるということが企画を通すための前提みたいになっていて、私はそのことに疑問を持ってきました。リスクを冒さずにある程度のヒットを見込めるのが原作付きであることの理由だと思うのですが、誰も挑戦しようとしていないということです。原作物が全部駄目だと言っているわけではありません。ただ映画がそればかりになっていいのかということです。もっと多様性があっていいはずで、話を知らずに映画館に行って、あの暗闇の中に自分の身を投じるのがいいものだと思っているのです。
 漫画というのは、もう既に漫画家が監督も脚本も美術も演技も全部1人でやってビジュアル化したものです。それを実写化するというのは、それを単になぞる作業に過ぎないわけです。そこに創造性は感じられません。ストーリーも原作ファンに怒られないように、なるべく原作に忠実にやろうとします。だから映画を見終わっての感想といえば、「原作のあのシーンをどうして削った」とか、「主役のビジュアルが全然違う」とか、そんなものばかりで肝心の内容に全く触れられなかったりします。役者のほうもいかに原作のビジュアルに見せるかということばかり考えて、自分の頭で役づくりをしようとしなくなります。
 こうなると、オリジナルでつくる才能や環境が映画の業界からどんどんなくなっていくことが懸念されます。オリジナル作品というのは、つくるのも宣伝して世間に認知させるのも大変です。だから原作があるほうが企画も通りやすいし、こけるリスクも少ないのです。私は今の映画業界のその風潮に一石を投じたいと思ったのです。業界の内側にいる人間こそ動かないと駄目だと思って、巨象に立ち向かうアリのようなものですが、何かやってやろうと思いました。義憤に近いものがあります。

 二つ目の理由は、自分の仕事のキャリアの幅を広げようと思ったのです。私が仕事で常に意識しているのは、「やりたいこと」、「できること」、「求められること」の三つです。これらが満たされているのが理想ですが大体どれかが欠けています。私の場合、欠けているのは「やりたいこと」です。私にも書きたいものがあるのです。『相棒』でデビューし『相棒』で鍛えられましたので、事件物やサスペンスの仕事は「できる」し「求められ」ます。でも決して「やりたいこと」ではありません。今の状況では事件物以外のオファーが来るということはまずありません。それなら自分で企画を立ち上げて自分でやるしかないということです。

 三つ目の理由は父親の存在です。父は糖尿病を患っています。糖尿病は血流が侵されますので末梢神経がまず駄目になって、まだ73歳なのですが自力では歩けなくなって、数年前から寝たきりの状態です。もっと大変なのは目です。緑内障を併発して数年前から完全に失明しています。
 私は他の兄弟と違って独り者で、そういう意味では親孝行ができていません。代わりに自分の関わっている作品を親に見せたいのですが、目が見えませんのでそれはできません。父がまともに私の作品を見たのは、多分私がまだ『相棒』を書いていたかなり初期のころだけで、それ以降はもう耳で聞くぐらいです。サスペンスだと耳で聞いてもさっぱり訳が分かりませんので、サスペンス以外を書きたいと思った理由はそこにもあるのです。
 自分なりの親孝行ができないかなと思った時に、「そうだ、博多弁だ」と思ったのです。見えなくても耳になじんだ博多弁のやり取りを聞いたら、多分喜んでくれるのではないかなと思いました。父の病院にはラウンジがあるので、夏の前に上映会を開いて他の患者さんと一緒に見てもらうつもりです。以上が今回映画をつくろうと思った三つの理由です。

 次に具体的な制作の話です。まず資金です。自分が全くリスクを負わずに人に援助を求めるのは筋違いですから、自己資金として400万円を準備しました。私にとって400万円というのはかなりの大金でした。それはこつこつと積み立てていた、婚活資金も含めた結婚資金だったのです。でもしょうがない、結婚なんかいつでもできる、もう映画と結婚してやるぐらいの気持ちでこちらにつぎ込むことにしました。後悔はしていません。はい。(笑い)
 また今はやりのクラウドファンディングというのに目を付けました。これはネットを通じて不特定多数の人から少しずつ援助をいただくというシステムです。海外では割と普及していて映画制作なんかにも使われたりしています。これを利用するためには何らかの社会的意義が必要ですが、今回は、業界の中にいながら業界の風潮に一石を投じたいという姿勢に共感していただけたのかなと思います。同業の方や知らない人からも「頑張ってください」みたいな感じでけっこう支援が集まりました。

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 その一方で福岡の人脈を生かしたいと思っていた時に、「リトル・ママ」というフリーペーパーを発行している平成3年卒の森光太郎さんという先輩に「『菁莪』に投稿してみたら」と言われて、2年前の「菁莪」に、福岡を舞台に映画をつくりますという記事を書かせていただきました。そうしたら各方面から反響がありました。中でも昭和31年卒の西牟田耕治さんという方がわざわざ同窓会名簿で私の住所を調べて協力を申し出てくださいました。しかもその西牟田さんは能古博物館で副理事をやっていらっしゃるということで、島の世話役の石橋さんや、西牟田さんの高校時代からの大親友で新出光の会長の出光芳秀さんという方ともつないでいただきました。
 それから映画研究部の先輩方、特に松隈さんをはじめ昭和61年卒の先輩の皆様にはとてもよくしていただいています。そんなつもりは全くなかったのですが、つぶれかけの映画部を私が復興させたみたいに思ってくれてとても応援してくださっています。
 私の5歳上の兄も修猷卒で山岳部の部長をしていました。その兄にも相談したら、同じ山岳部の大親友だというマイマイスクールの社長の三戸宗一郎さんを紹介してくれました。あいさつに行くと、「きみが入江の弟か。入江の弟なら俺の弟も一緒だ。俺が何をすればいいか言ってくれ」と言ってくださいました。めちゃくちゃ格好いいなと思いました。その三戸さんから同じ修猷の同級生である、明太子のふくやさんの統括部長の川原武浩さんを紹介していただきました。そんな感じでどんどん広がっていきました。修猷の縦横のつながりはすごいなと驚きました。
 それから福岡市役所にフィルムコミッションという事務局があります。これはどこの自治体にもあって、その地方でロケをするにもオーディションをするにも、フィルムコミッションの協力がないと何もできません。監督と一緒にそこに行ったら、富田雅志さんというそのコミッションを統括する立場にあるコンテンツ振興課の課長さんがふらっとおいでになりました。富田さんは兄と同じ山岳部だったそうで、このつながりにも驚きました。このような感じでどこの組織の要職にも修猷卒の人がいて、びっくりしました。
 この映画の主題歌は井上陽水さんの「能古島の片想い」です。これは43年も前の曲です。能古島を舞台にするなら絶対にこの主題歌がいいと、かなり早い段階から自分の中では決めていました。でも既存の曲を主題歌にするというのは業界的にはかなりハードルが高く、ましてや陽水さんぐらいの知名度になると相当ハードルが高くて大変です。使用料もかなり掛かります。今回の映画で一番お金が掛かったのはここです。でもプロデューサー的な感覚から、この作品にはこの曲が絶対に必要だ、ここはけちるところじゃないと思いました。
 後はオーディションです。これは子供が主役の映画です。しかも福岡が舞台ですのでリアルな博多弁でないと意味がなく、子役は現地でオーディションをしようと思い、フィルムコミッションやRKB毎日放送の三浦良介くんという私の同級生の協力を得て告知をしてもらいました。そのおかげで応募者が400人を超えて、そして結果的に素晴らしい子たちに出会うことができました。
 大人キャストで最初に決まったのは国生さゆりさんでした。それまでに私の書いたドラマでいくつかご一緒したことがあって、撮影現場におじゃました時に出演をお願いしたら快諾してくれました。国生さん級のベテラン女優さんに自分の自主制作映画に出てくださいなんて普通は言えませんが、怖いもの知らずでお願いしました。国生さんが出演を決めてくれた瞬間からこの作品はもはや自主映画ではなくなり、一般の商業映画と遜色のない映画になったと思います。次に決まったのが博多華丸さんです。さらに福岡出身の板谷由夏さん、そして、リリー・フランキーさんと出演が決まりました。
 やっとキャストもスタッフも揃い、去年の9月11日にクランクインしました。制作費はおよそ2千万円です。当初の予定の倍掛かっていますが、それでも大手の大作映画でしたら冒頭の2、3分で使い切ってしまうぐらいの、映画にしては本当に少ない予算です。逆に言うと、その予算規模でこれだけのキャストが集まったのは奇跡と言ってもいいと思います。コストパフォーマンスの非常にいい作品ですので、自主映画と商業映画のいいとこ取りみたいな、ハイブリッド化に成功した映画だと思っています。

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 そして地元の人たちの協力が大きかったです。われわれは何度も福岡の人たちの熱さとか乗りの良さとか親しみやすさに感動しました。何としてもそれはクオリティでお返ししないといけないなと思っています。
 監督も今回の映画制作を機にすっかり福岡が気に入ってしまって、今、西新に住んでいます。(笑い)
 おかげさまで7月11日に中洲大洋劇場さんでのロードショーが決定しました。ここは地下鉄の中洲川端駅から上がってすぐ目の前にある、戦後間もない1946年にオープンした老舗劇場です。福岡の復興をずっと見守ってきたような存在の映画館でこの作品を公開できるのはうれしいです。これからも1人でも多くの人に見ていただけるように皆で努力していくつもりです。いずれ東京でも上映できればと思っています。

■質疑応答

○丸山 平成9年卒の丸山です。私が1年の時に入江さんが3年生でキャップをかぶって歩いていらっしゃる姿を拝見したことがあります。
 今回のチラシには監督の紹介らしきものが見当たりません。監督はどういう方なのでしょうか。それから、この映画をどこかの映画祭に出すことはお考えでしょうか。

○入江 監督は内気な男で、最初はチラシの裏側に監督の紹介文を載せていたのですが、「私はいいから」と遠慮されたのです。決して監督をないがしろにしているわけではありません。
 もちろん映画祭に出すことは考えています。今、監督がベルリンかどこかの子供向けの映画祭に出そうと考えているようです。

○大須賀 この映画の英語の題名が「Summer Breakers」となっています。どうしてこの英語の題名になったのでしょうか。

○入江 これは造語に近いものです。最初は直訳で「The Great Master of Summer Vacation」と書いてあったのですが、もう少しインパクトのある言葉がいいと思って、夏休みを堪能するものという意味と、子供たちの映画だという勢いのある感じを出したかったので、「Summer Breakers」としました。本当はこんな言葉はないのかもしれません。イメージ、雰囲気で決めました。

○田平 62年卒の田平です。東京でこの映画を見るためにわれわれでできることが何かありますか。

○入江 全国的なメディアで話題になると東京の興行主も興味を示してくれる可能性がありますので、話題にしていただくのが一番うれしいです。予算は全部制作に使ってしまい宣伝費がありませんので、口コミだけが頼りです。

○栗山 46年卒の栗山です。今、年間数百本の映画がつくられているそうですが、商業ベースに乗った映画、また公開されている映画というのは半分もないという話を聞いています。どうやれば商業ベースに乗せられるのでしょうか。

○入江 最近は本当に数多くの映画がつくられていますが、つくっても埋もれていく作品のほうがはるかに多いです。今回の私の作品は運良くロードショーが決まりましたが、公開が決まったのはつい先々月でした。
 商業ベースに乗せるにはある程度プロデューサー的な視点も必要だと思います。今回はそういう意味では割と商業に寄ったつくり方を意識したと思います。お客さんが来てくれないことには話になりませんから、格好いいことばかりは言っていられないということです。

■大須賀会長あいさつ

○大須賀 私の記憶では今までで一番若い二木会の講師だと思います。総会の幹事も今年から平成卒になりました。いよいよ平成の時代になりました。
 今日は「やりたいこと」「できること」「求められること」の中の「やりたいこと」のお話で来られたわけです。最近の映画のほとんどがアニメや漫画を映画化したようなものだというのに反発して、そしてプロデューサー的に企画をされてこの『なつやすみの巨匠』ができあがったということです。
 皆さんもこの映画を見たいと思われていると思います。東京修猷会としても何とかこの映画が東京でも見られるように精力的に検討していきたいと思います。
 40歳前のお若い入江さんですからこれからも大いに飛躍していただきたいと思います。今日のお話を聞いて、次回の作品は私が勝手に題名を付けました。『父の5千円札』という題がいいと思いました。(笑い)

(終了)