第607回二木会講演会記録

『日本人の海外旅行の歩み50年』

講師:二宮 秀生 氏(昭和55年卒)

■講師紹介

○真砂 二宮さんは3年間男子クラスに在籍されていたのでほとんど話をしたことはありませんでしたが、バレー部のエースでその雄姿は有名でしたので、お顔とお名前はよく知っていました。
 高校3年の時の物理の香月先生は難解な問題を出されることで有名でしたが、中間試験の10組の平均点が25点で、平均点が赤点でしかも25点というのはさすがにまずいだろうと、先生から「全員に25点の下駄をはかせてやる」となったそうですが、その時のクラスのトップが二宮さんで、何と92点だったそうです。それにプラス25点で、まさかの100点超えをされたという伝説の男です。 

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■二宮秀生氏講演

○二宮 実は二木会にはほとんど出席してなくある意味で劣等生ですが、ご指名をいただきましたので少しお話をさせていただきます。

■はじめに

 日本人の海外観光旅行が自由化されたのが1964年の4月で、それからほぼ50年経ちました。ジャルパックもその頃からありますので、ジャルパックの商品のご紹介等もしながら、この50年間の日本人の海外旅行の歩みをざっくりとご紹介させていただきます。

■1964年~1984年(海外旅行自由化からプラザ合意前まで)

 この期間は第一次海外旅行ブームと第二次海外旅行ブームの期間ですが、ほとんどがテレビの「アップダウンクイズ」をやっていた時期と重なっています。10問正解するとハワイ旅行がプレゼントされる番組でしたが、海外旅行ブームの中でのこの番組との関連はあったのかもしれません。

(1) 第一次海外旅行ブーム

 観光目的の海外渡航が自由化したのが1964年で、ここから第一次海外旅行ブームが始まります。海外渡航自由化と言っても、それまで海外旅行ができなかったわけではありません。業務(ビジネス)目的とか大学に行くとかの就学目的のパスポートは発行されていたのですが、純粋な観光目的のパスポートというのは発行されていなかったのです。しかし1964年に東京オリンピックが開かれて多くの方に日本に来てもらうのに、逆に日本からも出ていかなければならないという政策もあって、1964年4月に観光目的でパスポートが発行されるようになりました。
 それまでの航空会社や旅行会社の仕事は、存在している需要を頂くだけだったのですが、海外観光旅行自由化によって初めて需要を作っていくことができるようになりました。そういう意味では64年の海外渡航自由化というのは、旅行業界にとって大きな転換点となりました。
 では、この64年の自由化の後、日本航空は何をするかとなるわけです。自由化しても皆さんは海外のどこに行って何をすればいいのか、そしていくらで行けるのか何も分かりません。それでモデルプランを新聞広告で出しました。そして、お客様の声として言葉、治安、ホテルでのマナーに関する不安が大きくあることが分かりましたので、それを反映させたセット旅行をつくろうと立ち上げたのが、JALで行く海外旅行のパッケージ旅行「ジャルパック」です。
 実際に商品化して新聞の宣伝をしたのが、翌年1965年1月20日です。その広告では7コース出しました。お客様の声を反映させて「コンダクターがご案内」、「日本語で行けます」、それから結構お高いツアーだったので「月賦がききます」、そして「お一人でも参加できます」という謳い文句で出しました。
 最初に出発したのは、16日間でヨーロッパ7カ国を巡る67万5千円のコースでした。当時の大卒の初任給が2万1千円ですので、それを考えるととても高い料金で、頭金と月賦が必要だったことが理解できると思います。その時の記念写真を見ると、女性は着物で男性はほぼスーツという正装です。海外旅行に行くというのは、一大行事でした。当時ジャルパックでは出発時に記念写真をお撮りして、その写真を先にご自宅にお送りするサービスをしていたことがあったのですが、男女でも必ずしもご夫婦とは限らずトラブルもあったようで、程なくこのサービスは終了したということです。(笑い)
 その頃の人気のお土産の定番は「ジョニ黒」でした。私にとっても、それが一番印象深いお土産でした。マナーについては、事前にマナー講座もしていたのですが、例えばお客様がハワイで下着で泳いで怒られたとか、バスタブの外で体を洗って水があふれてホテルからクレームがあったとか、備品を持って帰るということもあったようです。みんながそうだったのではないと思いますが、そのようなことが起こっていたようです。
 大卒初任給と旅行代金の推移を比較してみます。大卒初任給は64年が2万1千円で、その後は右肩上がりで75年ぐらいに9万4千円になり、そしてバブルが崩壊して頭打ちになり、以後ほぼ変わらない状況で推移しています。一方、旅行代金の価格をハワイで見てみると、64、5年のところは36万とか37万です。初任給との比較でこの金額を見るとかなり割高です。ジャンボが入った70年の手前でもまだ28万円ぐらいでしたが、ジャンボが導入されて運賃が安くなり、17万円くらいになりました。そしてその価格帯のまま、今に至っています。もちろん商品数が増えていて安いコースと高いコースがありますが、平均的なもので見ると全体の価格水準は、ジャンボ時代からはあまり変わっていません。年収が上がっている時にはツアー料金は割安になっていきましたが、年収が頭打ちになるとツアー料金も変わっていないので、年収とツアー料金の関係の変化はなくなってきています。
 世界では、1964年にスイス航空の「プッシュボタン」というのが初のパッケージとして登場したのですが、これはツアーコンダクターが付いていないものでしたので、ツアーコンダクターが付いた本格的なパッケージツアーとしては、「ジャルパック」が最初ということになります。

(2) 第二次海外旅行ブーム

 70年以降が第二次海外旅行ブームになるのですが、その火付け役になったのは、ジャンボジェットの就航です。そこから海外旅行者数が急に増えました。ジャンボジェットは席が多くコストが安くなり、バルク運賃という団体割引運賃ができました。当時のジャルパックの宣伝では、「20万円も安くなった画期的なヨーロッパ旅行」となっています。これで急に海外旅行の裾野が広がりました。その立役者のジャンボジェットは、もう日本では飛んでいません。
 ジャルパックブランドを立ち上げたのは64年ですが、今の「ジャルパック」という会社の前身の「旅行開発」という会社が設立されたのが1969年です。この「旅行開発」は、ジャルパックブランドの商品を一手に引き受ける会社として発足しました。
 1969年というのは私が小学校2年生の時で、アポロ11号が月面着陸した年です。大量輸送に備えて「旅行開発」という会社ができたのですが、一方では人類が月に行っていたということです。
 70年前後になると、各旅行会社さんが自社ブランドをつくっていく流れになります。例えば、JTBさんの「ルック」、日本旅行さんの「マッハ」、近畿日本ツーリストさんの「ホリデイ」、福岡では西鉄旅行さんの「ハッピーツアー」というのが出ました。こうしてジャンボジェット導入をきっかけに、パッケージのブランドがいろいろ立ち上がってきて、日本人の海外旅行者が増えていきました。
 裾野が拡大していくと、当然商品のバリエーションも増えてきました。例えばジャンボジェットが就航した1970年に「ジャルパックSweet」という商品を出しました。これは新婚旅行に特化した商品で、このころから新婚旅行でハワイに行かれる方が増えてだんだん定番になってきました。この年に出国者数は50万人を突破して66万人になりました。
 72年には、「MY PLAN」という商品を発売しました。裾野が広がっていくと、脱団体旅行のスタイルが望まれるようになってきました。ツアーコンダクターが付きませんし、行った先での更なる移動とかがありませんので、価格面でも随分とお安くなりました。この商品がまた裾野を拡大させるのに一役買いました。この年に出国者数が100万人を超えて139万人にまで増えました。
 78年に成田が開港したのですが、この年にジャルパックは業界では画期的だと言われた「zero」という商品を発売しました。これはA地点に行ってB地点から帰ってくるのですが、A地点とB地点の間は自分でプランを勝手につくって下さいという、参加者の企画力と行動力がないとできない商品でした。「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」というフレーズで売り出しました。業界では相当反響がありましたが、ちょっと時代を先取りし過ぎていた感があり、たくさんのご参加はなく何年かでやめました。今ではこのような旅行も珍しくはありません。最初は何も分からないからツアーコンダクター付きで、てんこ盛りに見て回るツアーだったものが、成田の開港のタイミングまでには、究極のこのようなかたちの商品までが出る状況に来ていました。

■1985年~(プラザ合意以降)

 プラザ合意とは貿易の不均衡を解消するために円高ドル安を容認したものです。ここから円が急に強くなり高くなりましたので、海外旅行により行きやすくなり、ここから裾野が更に広がりました。
 円レートは固定相場の時は360円で、プラザ合意の85年の前は200円台で推移しています。プラザ合意の後はここで急激に円高になって150円ぐらいになり、それと合わせるように第三次の海外旅行ブームが来ています。86年に国が「テンミリオン計画」という海外旅行倍増計画を打ち出し5年を目標としていたのですが、結果的には90年に実現して1千万人を超えました。
 少し特殊なのは、海外の修学旅行です。修学旅行は80年代から増えてきていますが、海外修学旅行の場合は極端に減る時があります。2001年の9・11同時多発テロや、2003年のサーズの流行の時、2009年の新型インフルエンザが流行った年は急激に減っています。普通の需要よりも学校が絡む修学旅行では、イベントリスクが顕著に出ます。
 裾野が拡大してくると、航空会社もいろんな所に路線展開をするようになり、方面が多様化してきました。JALがアトランタに直行便を出した時に「JALカリブ」という商品をつくりました。それから今はもう運休していますが、JALがデンパサールに飛ばしたときにはバリ島専門のパンフレットをつくりました。
 そして更にラインアップが多様化していきました。もともと「ジャルパック」というブランドは一つだったのですが、87年にお手軽で余計なものを削ったセカンドブランドの「AVA(アヴァ)」、91年に上質な旅を演出する「I'll(アイル)」を作り二つのブランドになりました。このようにして、高額なブランドとそうでないものの二つに分かれてきました。ルックさんもセカンドブランドの「パレット」という商品を出しました。今でも日本旅行さんには「マッハ」と「ベストツアー」という商品があります。それだけ裾野が広がったということです。
 そして時が経つにつれて、商品内容も少しずつ工夫がされてきています。例えば88年のハワイの「わ・イキイキプラン」のパンフレットには、「ジャルパックハワイなら、ホテルにダイレクト・チェックイン」となっています。ハワイというのは到着が午前中ですので、そのままホテルにチェックインができません。それをそのままホテルにチェックインできる仕組みを標準装備しました。これは今では当たり前になってきています。
 この他にも、ホテルの部屋指定をするようになったり、ヨーロッパもそれまではロンドンとパリとローマという定番のコースが主流だったのですが、イタリアだけとか北欧とか東欧のコースとか方面も多様化したり、連泊をする体に優しいコースをつくったり、商品内容も工夫をするようになってきました。
 今年にはおひとり参加の方しか申し込めない「ひとり参加で楽しむ旅」というのを出しました。全員ひとり参加ということです。このコースには想定の倍ぐらいのお客さんに来ていただきました。

■ツールの変化

 1984年に「AB‐ROAD(エイビーロード)」という月刊の海外旅行情報誌が創刊されました。旅行会社がパンフレットを作らなくても、これに載せてコールセンターで受けるというやり方が流行っていきましたが、2006年に休刊しました。なくなった理由はウェブです。インターネットは、旅行業界だけではなくて世の中を相当変えたと思います。これで流通の仕組みが変わりました。今「AB‐ROAD」はウェブでやっています。
 ウェブが台頭してきてからは、状況がだいぶ変わりました。テレビCMのような露出をする必要がなくなり、効果がない時代になりました。逆に今は情報が氾濫していて、選んでもらうのに苦労をする感じになってきています。航空運賃も多様化して、お客様も旅行会社を介在せずにご自身で航空会社とホテルを選ぶようになります。そうなると旅行会社は、個人ではなかなか手配ができないツアーとか、手配が面倒なものを簡単にするとか、ツアーの内容、スキーム、仕組み、ブッキングの仕方等に何らかの付加価値がないと旅行会社の活路はありません。
 その付加価値の最近の例で、「ファミリージェット」というのがあります。これは12歳未満のお子様を連れた方限定の夏場のチャーター便です。お子様がいらっしゃると周りに迷惑を掛けるからと旅行自体をやめる方がいるのですが、それを逆手に取ったものです。お互い様ですということです。これは評判が良く、2009年から毎年チャーター便を2本出しています。

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 今度ジャルパックの50周年の記念商品をつくりました。一つは「アメリカ宇宙開発の足跡を辿る」というケネディ宇宙センターとヒューストン宇宙センターの二つの宇宙センターとスミソニアン航空宇宙博物館を楽しもうという企画です。もう一つは、「至極のワイキキ」という、ハワイのモアナサーフライダーというホテルの最上階の会員限定のスイート2110号に泊まるという究極の部屋指定のコースです。ホテルと交渉して旅行会社として初めて仕入れました。それから「南半球ベストセレクション」です。ナスカの地上絵やマチュピチュ遺跡、イースター島、エアーズロック、ボツワナでのサファリ体験など南半球の観光スポットを巡るツアーです。そして、ちょうど終わったばかりですが、年末年始の「ウィーン夢の休日」というコースです。下期で一番売れたのは「天空鏡ウユニ湖と神秘の空中都市マチュピチュ遺跡」という商品です。
 去年、『JALパック「いい旅、あたらしい旅」の創造者たち』という本を出しました。ダイヤモンド社から出ていますので、よかったらお読みください。

■質疑応答

○箱島 これから10年20年先は、どのようなことがメインになるのでしょうか。その中で宇宙旅行は、ジャルパックの検討の課題の中に入っているのでしょうか。それから日本発海外旅行に、外資は入ってこないのでしょうか。

○二宮   これからについては、インターネットを使って販路を拡大していくということと、パンフレットは直接お届けするやり方になっていくということです。
 宇宙旅行については、日本航空が飛んでいる所というのを前提で商品を考えていますので、さすがにまだ考えてはいません。
 外資については、旅行業界はそんなにおいしい商売ではありませんので、外資が狙うというのはまずないと思います。ただウェブは国籍を問いませんので、今はエクスペディアのようなウェブ上の会社が日本でも販売を伸ばしてきていて、むしろそのようなところが競争相手になってくると思います。

○重富 平成15年卒の重富と申します。訪日外国人は外資系の航空会社が多いのでしょうか、それともJALさんとかの国内系の会社を使っていらっしゃるのでしょうか。

○二宮 一般的に外国の航空会社は、その国の方が乗る率がやはり高いです。逆に日本の航空会社は、日本の方が利用されるケースが多いです。ただ日本航空の台湾線には半分以上、韓国線にも半分ぐらいは外国の方が乗っていますので路線によって違います。 

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○草柳 平成23年卒の草柳輝です。今は以前に比べれば規制が緩和されてきているようですが、二宮さんがお仕事をされている中で、この規制が緩和されたらいいなとか、これが今ネックになっているということがありますか。

○二宮 細かいことを挙げていくと切りがないのですが、今は比較的何でもできるようになってきています。
 ただ中国から日本に来るツアーは、ほとんどが中国の旅行会社さんがやっていて、そのままだと赤字の考えられない安い値段のツアーです。そしてお土産屋さん等からコミッションをもらうというビジネスモデルで数を伸ばしています。ですから、日本の会社のツアーの品質感とは全然違います。ウェブの世界でも、責任を取ることはしないけれども安くしているというのが外国の業者にはあります。日本の会社には日本の規制が適用されるのですが、日本以外の会社は法の網と関係ないところで商売をやり、品質を下げること等、やってはいけないことをやります。そのようなことはありますが、それでも私たちがやりたいことは比較的できるようにはなってきていると思います。

○土肥 ハンディキャップをお持ちの方々のツアーはあるのでしょうか。それからシニアのマーケットについてはどのような認識をお持ちでしょうか。

○二宮 ハンディキャップをお持ちの方専門のコースはありませんが、車いすの方も大丈夫ですというコースはいくらでも用意しています。
 シニアのマーケットは、人口も多いですし時間もお持ちですから、ターゲットとしては最大の関心事です。ただ今のシニアはお元気でそれぞれが趣味をお持ちで小集団の集まりのような感じですから、一括りにシニアとは言えません。それぞれはばらばらだと考えていますので、いろいろなことを出していかなければならないということです。先ほどお話ししました、おひとり様なんかもそうです。大量の集客はないのですが、そのようなことで多様化していくことがポイントだと思っています。塊としては素晴らしい大切なマーケットです。

○黒岩 41年卒の黒岩です。日本の超少子社会、超高齢社会、多死社会に対応したツアー企画があるのでしょうか。例えば孫を連れた高齢者が参加するツアーとかです。もう一つはメディカルツーリズムの企画はあるのでしょうか。

○二宮 いわゆる三世代向けの旅行は結構お出ししています。ハワイとかの少し大きめのお部屋ですと、そのような方たちに対応できています。三世代の方限定というやり方はしていませんが、実際には孫とおじい様おばあ様で参加されている方たちは結構いらっしゃいます。実際のツアーの参加を見ていると、割と多いのは、母子とか女性のお友達同士とかが多いです。どちらかというと女性が多く、男性はそれに引きずられて行くというのが旅行のパターンです。
 例えば定年を迎えて退職金で借金を返したとか、ライフスタイルが変わったタイミングでちょっと旅行にと行かれる方は多いと思います。
 国内の商品では、地方からディズニーランドに来られる人たち向けに「三世代にお勧めです」と謳っている商品はあります。海外については、三世代を限定で受けるような見せ方はしていません。これからはそのような見せ方をしていくのが、一つのやり方かもしれません。
 メディカルツーリズムについては、帯広の病院と連携をして「十勝帯広PET‐CTがん検診ツアー」というのをウェブで販売していますが、それについはあまり積極的にはやっていません。それから、外国人の方を日本にという外国人向けの商売はほとんどやっていません。日本人向けの商品がメインです。

■大須賀会長挨拶

 今日はありがとうございました。戦後の日本は、特に高度経済成長に乗って日本人の衣・食・住に遊びをプラスした衣・食・住・遊のすべてが大きく変わってきたわけですが、その「遊」の中の海外旅行に焦点を絞ったお話を聞きながら自分の人生と重ね合わせていました。
 印象に残ったお話は、つい50年前は観光だけの海外旅行はできなかったということでした。そして3、40年前の日本人の海外のマナーの話を聞いていると、最近のアジアの一部の方の日本でのマナーの悪さが顰蹙を買っていますが、日本人も昔は同じだったのだなと思いました。ですからそのようなアジア系の方も20年30年すると全く変わってきて、今は一時的なものではないのかなと感じました。
 実は私も同じような仕事に携わっていますが、今日のお話のポイントの一つは、今は皆さんが自分で組み合わせてインターネットで取るという時代になっているということ、そして円安が定着してくることだと思います。もう一つは事故・事件です。マレーシア航空の問題や、パリの銃撃事件とか、イスラム国の問題もあります。またエボラ出血熱の問題もあり、このようなマイナス要因がいくつもあります。そういう中で大変だと思いますが、ぜひ魅力ある商品を開発していただきたいと思います。

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 今、日本の経済を引っ張っているのは元気なシニアです。その中でも団塊の上の世代、昭和10年代の生まれの人たちは非常に元気です。その連中も後10年が勝負だと思います。いっそう頑張っていただくことを期待してお礼の言葉といたします。

(終了)