第594回二木会講演会記録

『邪馬台国は福岡市付近にあった』

講師:貝島 資邦 氏 (昭和39年卒)

■講師紹介

○久保田 貝島くんと私は中学・高校・大学と全く同じコースをたどり、高校では執行部に一緒に所属していました。私や東京修猷会の副会長の清田くんなどは夏休みに中洲に繰り出したりしていましたが、貝島くんはそのような仲間には入らずに真面目でした。

 東京大学の法学部に進学され、所属されていたESSにたまたま私の兄が2年上にいましたので、今回の著書で冒頭の「推薦の言葉」を書いています。

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 大学卒業後は三井銀行に入行されて主に国際部門で活躍され、有斐閣から『国際金融取引(1)実務編』と『国際金融取引(2)法務編』という2冊を共著で出版されています。

 退職後は邪馬台国や卑弥呼の研究に没頭され、アマチュアながら2冊続けて本を出されています。このことは彼の研究に賭ける熱意と成果を示していると思います。

■貝島資邦氏講演

○貝島 暑くなると博多山笠を思い出します。今日は館友の皆様方と故郷のことなどを懐かしく思いながら、お話を進めていきたいと思います。

■はじめに

 私が卑弥呼や邪馬台国について論じると、「福岡生まれだからだろう」と必ず言われます。またそう思われますので、そのような地元びいき、お国自慢のような偏った見方にならないように常に留意しています。

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 コピーでお配りしていますが、多くの歴史ファンが読んでいる『歴史読本』という月刊誌の3月号に私のペンネームの萱島伊都男の名前で投稿したものが記事になりました。ここに出たということは、私の意見が一方的なものではないと一応認めていただいたと私は心強く思っています。

 それから、日本中の30近くの図書館でも、寄贈ではなく図書館が購入して私の本を置いてくれています。これは大変ありがたいことで、そのことが私の一つの大きな支えになっています。

■魏志倭人伝

 邪馬台国は福岡市付近にあったという根拠は主に二つあります。一つは、『魏志倭人伝』の伊都国に関する記述と、もう一つは弥生の絹の出土状況です。

 まず『魏志倭人伝』ですが、これの信頼性を疑って独自の解釈をしているものも見掛けますが、私は『魏志倭人伝』は正確に「倭人・倭国」のことを記していると思います。

 『魏志倭人伝』には伊都国に関する記述が多くありますが、その中で最も重要だと考えられるのは、一大率(いちだいそつ)というのが伊都国に常駐していたということです。現代語訳では「女王国から北には、特に一大率を置き、諸国を監察させている。諸国ではこれを畏れはばかっている。(一大率は)伊都国に治所を置き常駐している」となっています。私はこの点を最も重視しています。

 邪馬台国が大和だと仮定するとつじつまが合わないと思います。女王国近辺の内陸国で謀反や反乱が起きた場合に伊都国に常駐している一大率が現地に急行できたのかということです。もちろん行けたのかもしれませんが、私には非現実的に思われます。これが一つです。

 これと関連するのですが、現在の韓国のソウル付近にあったと考えられている帯方郡に魏の国の出先機関があり、そこから卑弥呼宛に魏の使者が来たと考えられていますが、そのときに伊都国について「(帯方)郡の使者が往来する時は、いつも駐在する所」だとあります。魏の使者が大変な船旅を終え伊都国にやっと着き、そこで一息入れてから威儀を正して女王に謁見したに違いありませんが、それが奈良だとすると、伊都国からまた延々と船で大和まで行くことになります。それは少し考えにくいのではないかと思います。

 それから更にもう一つ関連したことで『魏志倭人伝』の現代語訳で、「郡の使者が倭国に行く時には皆、(伊都国の)港で所持品の検査を受け、外交文書や贈り物、貢ぎ物のうち女王あてのものは(一大率が)転送し、間違いがあることは許されない」と書いてあります。所持品の検査や文書・荷物の転送を伊都国でやったというのは、それはやはり女王の近くで行われたのだと思われます。女王が大和にいるのでしたら難波の港のほうがいいと私は思います。

 このように取り上げられている伊都国は邪馬台国の近くにあって非常に大きな国だったということだと思います。伊都国は現在の糸島市だというのはほとんどの学者さんの一致した意見です。

 邪馬台国の所在を調べるときに、邪馬台国というのは実は「邪馬壹国」だということを申し上げておきます。私の本の口絵にもありますが、『魏志倭人伝』にも「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」になっています、近畿の大和に当てるために音の似ている「邪馬台」に勝手に原文を変えているという話もあります。本日は邪馬台国を「邪馬壹国」として説明をさせていただきます。

■弥生の絹

 邪馬台国の所在を解く鍵は弥生の絹が握っていると言っても過言ではありません。邪馬台国の所在を論じるときに、遺跡・出土物が大事になりますが、その中でも私は絹に注目しています。絹を出土した遺跡を調べてみると、古墳時代の絹は奈良とかでもたくさん出ているのですが、弥生時代の絹が出土しているのは北部九州に限られています。

 また『魏志倭人伝』には、「蚕を桑で飼って糸を紡ぎ、絹糸、綿布を産出する」という意味のことが書いてあります。ここに出てくる「綿」というのは、いわゆるコットンではなく、当時では絹織物のことでした。いわゆるコットンは、鎌倉・室町時代になって入ってきて、普及したのはもっと後なのだそうです。

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 日本の古代絹の分析の第一人者の布目順郎博士によると、中国から伝来した絹文化は、はじめの数百年間は北九州の地で醸成されて、古墳時代前期になって本州に伝播したと考えられるということです。ですから、弥生後期に比定される邪馬台国の所在地としては、絹を出した遺跡の分布から考えると北九州にあった公算が大きいということです。

 資料によると最古の絹製品が出たのが、「福岡市早良区有田遺跡(前期末)」となっています。弥生前期の遺跡はここだけです。この有田遺跡は室見川流域にあり姪浜から約1キロのところです。正直に言うと私はこの有田遺跡のことを知りませんでした。それで5月に福岡に行ったときに行ってみようと姪浜でタクシーに乗りました。ところが運転手さんが有田遺跡を知らないのです。私はあらかじめ調べていましたので探して行きましたら、有田遺跡はありました。そこにはいろいろな説明が詳しく書いてありましたが、日本最古の絹が出たというのはどこにも書いてありませんでした。

 タクシーの運転手さんも有田遺跡を知らない。そこに看板があっても弥生時代の日本最古の絹のことは書いてない。これはどういうことかと思いました。私は邪馬台国論争の中で絹のことが抜け落ちているのか、あるいは軽く扱われていて記憶のかなたに消え去っているのではないかと思いました。絹のことを抜きにしたら邪馬台国は奈良でもそれなりの説得力があるのかもしれません。ただ絹のことを考えたら、現在の状況から大和の奈良とは到底考えられません。それなのに、福岡の今の有田遺跡の様子やタクシーの運転手さんが有田遺跡のことを知らないということは、地元の発信が足りないのではないかと思いました。

■中国産の絹

 唯一弥生の中国産の絹が出土したのは春日市にある須久岡本遺跡です。春日市のホームページに須久岡本遺跡のことが詳しく出ていますが、そこにも「絹」という言葉は一つも出てきません。こちらもやはり発信が足りないと思います。

 布目順郎先生の『養蚕の起源と古代絹』という本に須久岡本遺跡のことが書いてあります。須久岡本遺跡で出た重圏四乳葉文鏡という名称の鏡の鈕(ちゅう)という取っ手にひもが結び付けられていて、その房糸が絹で、これが最初から鈕に付いていたと考えれば、鏡の産地とその房糸の産地は同じと考えられるということです。そして「この鏡は舶載品とみられているから、その房糸は楽浪産か華北産の可能性が濃い」ということです。これが中国産の絹と断定された訳ではありませんが、楽浪か中国本土華北の絹の可能性が濃厚だということです。

 それにしても中国産の可能性の高い絹が出たということ自体が大変重いことだと思いますが、それがどこにも出ていません。それが私は腑に落ちません。

■天孫降臨

 私は天孫降臨の地の日向は日向(ひなた)峠だということで話を進めています。

 弥生時代の区分は、紀元前300年から始まって200年刻みで前期・中期・後期となっています。そして天孫降臨は紀元前100年ごろの弥生前期の終わりごろかと思います。

 弥生前期末の絹が福岡市早良区有田遺跡で唯一出土していますが、これは天孫降臨の時期とちょうど重なっています。その有田は姪浜の少し南の室見川沿いにあります。日向峠は室見川からもう少し下流にあります。日向峠の下に当たる位置に有田遺跡はあるのです。

 天孫降臨の地は「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂のクシフル峯(だけ)」ということになっていて、私も最初はその竺紫は九州全体を指していて日向は宮崎だと思っていました。

 万葉集336番の歌に「しらぬひつくしのわたはみにつけていまだはきねどあたたけくみゆ」というのがあります。この歌は、筑紫の綿はまだ身につけて着てはいないけれども暖かそうに見える、という意味だそうです。ここに「わた」が出てきています。もちろん綿は絹のことです。

 さて、「つくし」の枕詞「しらぬひ」は、八代海の不知火のことだという説があります。しかし古代には上代特殊仮名遣いが使われていて、それには甲類・乙類という二つの書き分けがあり、「しらぬひ」のヒはfire(火)ではないという説明が辞書にあります。

 要するに、竺紫(つくし)は八代海を含まない、竺紫は九州全域を指すのではないということです。つまり、日向(ひゅうが)は含まない、いわゆる宮崎は含まない。竺紫と言ったら筑前・筑後だけで、「竺紫の日向」と言う場合の日向は、その筑前・筑後の中にある、つまり日向峠なのだと思います。

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■邪馬壹国

 邪馬台国は『魏志倭人伝』に7万戸の戸数があったと書いてあります。1戸に何人いたかによりますが、現在の久留米市の人口36万人ぐらいのものが古代弥生時代に福岡平野にあったとすると、油山の北麓の有田遺跡と須久岡本遺跡がつながっていて邪馬台国だったのではないかと考えられます。

 弥生の絹については最近少し動きがありました。新聞記事に、「邪馬台国の有力候補地・奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡で1991年に出土した3世紀後半の巾着袋が、野生の蚕(かいこ)「天蚕(てんさん)」の糸で織られていたことが、市纏向学研究センターの調査でわかった。『魏志倭人伝』には卑弥呼が243年に中国・魏に絹織物を贈ったと記されて、天蚕の献上品が海を渡った可能性もある」と書かれていて、その最後に兵庫県立考古博物館長の「古代の絹製品作りは畿内より九州が進んでいるとされてきたが、畿内でも多様な品を作っていたことがうかがえる」というコメントがありました。福岡の絹の発信力が足りないと懸念していたのですが、この方は福岡の絹についてご存じだったのです。それでも記事の最初には「邪馬台国の有力候補地・奈良県桜井市の纏向遺跡」とあり、これは大変残念なことです。

 諸説ある「水行十日、陸行一月」という有名な下りについては、帯方郡から邪馬台国までの総日程だから改めて足してはいけないという説が有力だと思います。

 金印については、「漢の委(わ)の奴(な)の国王」ではなく、「漢の委奴(いど)の国王」というのが正しい解読で、「委国」の中の1国である「奴国」が金印を貰ったのではなく、「倭国王」が貰ったというのが理にかなっていると思います。

 そして卑弥呼の墓について『魏志倭人伝』によると、「卑弥呼が死んだので大きな塚を作った。」とあり、それは箸墓古墳だという話になっています。ところが、これがもっと小さいのではという異なった解釈があり、そうなると、平原遺跡が卑弥呼の墓ではあるまいかということにもなるのです。

 もう一つ、『魏志倭人伝』に「大作冢」「大いに冢(ちょう)を作る」と書いてあります。これは大きな冢、つまり墓を作ったという、「大」が「冢」を修飾しているというのが通説になっていますが、実はそうではなく、「大」という字は副詞的に使われて、大いに人々が寄りつどって墓を作ったという意味だと理解できます。

 時代が卑弥呼の死んだ248年に近いからというだけで箸墓古墳が卑弥呼の墓だというのは、少し結論を急ぎ過ぎているのではないかと思います。私はそこに絹の議論をぜひ入れていただきたいと思っています。そうでない限り近畿説を認めることはできません。今の状況では、近畿説はまだ一方的すぎる議論だと思います。

 ご清聴ありがとうございました。

■質疑応答

○久家 27年卒の久家です。大きな前方後円墳である箸墓古墳を論拠とする邪馬台国畿内説についてのお考えはいかがでしょうか。

○貝島 あのように大きくはなかったのではないかというのが私の考えです。詳しくは本の64ページ以下をお読みください。

○?? 46年の****です。今日のお話では「邪馬台国」が「邪馬壹国」であり、その「壹」がいつの間にか「台」に切り替わっているということでしたが、今の様々な学説の中で「台」と「壹」についての議論はなされているのでしょうか。

○貝島 「台」という字は「壹」という字を簡略にしたものだと言われていましたが、それを古田武彦という方が「そうではない」と『「邪馬台国」はなかった』という本に詳しく書いています。これについて話すと1時間ぐらいかかりますが、素直に考えるとやはり原文どおりということだと思います。

○山本 25年卒の山本です。私は理科系で修猷館のときは化学部に属していました。言語をさかのぼると、日本語はいろいろな漢字が書かれていたというような何か謎めいたものを感じることができます。今日の話からは少し脱線するかもしれませんが、私は、我々はインド・ヨーロッパ語圏に入ると思っていますが、言葉をトラッキングするような研究で、我々でも参考になるようなものがあるのでしょうか。

○貝島 大変難しいご質問です。ただ、日本語のルーツは、インド辺りから来ているということで研究されている方もおられるように聞いていますが、私はそこまで手が回っていません。申し訳ありません。

(終了)