第587回二木会講演会記録

『日本のODA(政府開発援助)の果たす役割』

講師:堤 尚広 氏 (昭和55年卒)

○大石 堤さんと私は生徒会で一緒で、彼は総務を務めていました。当時はよく将来のことを語り合いましたが、堤さんは当時から夢に描いていた職業にまさに今お就きになっていて、その意思の強さと並々ならぬ努力に本当に頭が下がる思いがします。当時は一緒に相撲を取ったり、一時期は週に3回ぐらいボウリングに行ったりして、いろいろと思い出は尽きません。彼はバンド活動にも積極的で、高校2年の文化祭で堤さんがドラムをたたきながら熱唱した姿と声はいまだに忘れられず最高の思い出として残っています。

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■堤尚広氏講演

 私は外務省の出身ですが8月から防衛省に出向しています。なぜ防衛省に来たのかなと考えて、過去防衛省との関わりとして思い当たるのは、2004年から2006年まで外務省の沖縄事務所で仕事をしたことです。当時の沖縄担当大使は、その後中国大使になられた修猷館の先輩の宮本雄二さんでした。(堤注:外務省沖縄事務所は、那覇に所在し、沖縄駐留米軍に関する沖縄県民の意見および要望を聴取して外務省本省に伝えるとともに、必要に応じ、沖縄駐留米軍との連絡・調整に従事しています。当時の那覇防衛施設局に仕事上大変お世話になりました。)

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■ODAの具体例

 私は7月末までアフリカ・中東・ヨーロッパ向けのODAを担当していました。まずODAのイメージをつかんで頂くためにについて、エチオピア等の実例をご紹介します。 

 エチオピアでは日本が協力して幹線道路を整備しています。エチオピアは高原で切り立った地形が多いので整備した後のメンテナンスが大変です。また日本の草の根無償資金協力資金で学校も建てました。そしてナイルの中流域には日本が得意の技術で橋をつくりました。

 日本らしい協力の話をご紹介します。エチオピアの紳士服の縫製工場で日本の技術協力として世に言う「カイゼン」を導入して生産性を上げました。何のことはありません、整理整頓したら生産性が上がったという話です。そのような我々にとっては当たり前のことで圧倒的に生産性が上がるのです。生産性が上がり、給料が上がり、評判が上がるという、会社も社員も顧客も国も喜ぶ結果となりました。このメーカーの名前はアンバサダーというのですが、ここの紳士服はいまやエチオピアではブランドになっていて、このスーツを着て仕事をすることがビジネスマンのあこがれになっています。

 日本のODAで地熱発電の実現可能性調査もしていて、エチオピア政府はこれに随分期待しています。

 コンゴ民主共和国の中部では町の中心から空港につながる幹線道路を日本の建設会社が現地の人を雇って建設しています。ここでは中国が並行したところにつくっているのですが、そちらは大渋滞を起こしていて、一方日本側は車が通れる場所をきちんと確保して工事を進めるので渋滞が起こらないと非常に高い評価を受けています。

 コンゴ民主共和国の職業訓練センターでは、30年以上前に日本の国際協力機構(JICA)が施設整備の協力をしました。その当時に設置した機器が今でも大事にメンテされ訓練に使われていました。

 エジプトでは、ピラミッドに通ずる地下鉄、博物館などの施設の建設に日本のODAが投入されています。

 モザンビークでは地雷の除去にも協力しています。そこで使われている地雷除去の建機は日本企業のものです。 


■ODAの全体像

1.歴史

日本のODAは賠償と共に始まりました。ビルマをはじめ東南アジア諸国韓国等の国々との賠償と経済協力がセットになって1952年にサンフランシスコ平和条約が発効しました。そして1954年に日本がコロンボプランに加盟して技術協力を開始したのがODAのスタートです。1958年に円借款が始まり1964年にはOECDに加盟し、これで先進国入りしました。そして青年海外協力隊や無償資金協力を始めました。オイルショック後大きくODAの額が伸びていく時代になります。そして1989年に日本のODAは初めて世界一になりました(堤注:講演当日のパワーポイント資料の数字も間違っていました、お詫びして訂正します)。1992年にODA大綱が策定されました。これはODAの基本方針をまとめたものです。1993年に第1回のアフリカ開発会議(TICAD)が開催されました。1997年にはアジア通貨危機があり、1998年からはODAの予算は減少に向かいます。2001年にアメリカで同時多発テロが起こります。2003年には10年たったODA大綱が改正されました。一番新しい動きとしては2011年から3年以内に、ODAの対象国全部について、国別援助方針の策定が開始されました。


2.ODAの目的

 ODA開始当初、日本のリーダーがこれをどのように捉えていたのかを探してみましたら、1954年の吉田総理の施政方針演説がありました。これによると、特にアジアの自由諸国との友好関係が大事で、その中でも東南アジア諸国に対して賠償の早急なる解決を期して国交樹立を急ぐと共に「経済協力を通じて相手国の繁栄に寄与し、善隣相助けて世界の平和に貢献したい」という抱負が書かれています。これは今も基本の考え方としてずっと受け継がれてきていると思います。

 ODAの目的については、岸総理大臣代理・外務大臣(当時)が外交演説で言及されています。日本が当時の国際社会において落ち込んでいた地位を回復させるためにはアジア全域、特に東南アジアとの友好関係の増進に務めなければならない。そうすればそれが最後に巡り巡って日本の経済発展にもつながると述べておられます。これも今に至るまで受け継がれている考え方です。

平成15年のODA大綱においては、上述のような考え方に基づき、その後の我が国の国際的地位の変化も踏まえ、「我が国ODAの目的は、国際社会の平和と発展に貢献し、これを通じて我が国の安全と平和の確保に資することである。」としています。


3.総合安全保障の概念と最近の国際協力

 1979年に大平総理大臣が政策研究会をつくられて、その議論から「総合安全保障」という概念が出されています。日本の安全保障を確保するためには、自衛力の強化や経済・貿易の発展と併せてODAを含む経済協力、技術協力を積極的に実施しなければならないと述べられています。

 最近のものでは玄葉外務大臣が昨年の2月の政策研究大学院大学でのスピーチで国際協力の方針を発表しています。その中でポイントとなる取り組みとして「人間の安全保障」「強靭な社会づくり」、「平和構築のための人づくり・国づくり」、「グリーン経済・低炭素社会への移行のためのルールづくり」を挙げています。そして「フルキャスト・ディプロマシー」と言って、日本は全員参加型外交でやるのだということを強調しています。


4.ODA政策枠組みとODA大綱

 ODA政策の頂点にあるのがその理念を定めた「ODA大綱」です。これは1992年につくられました。その下に「ODA中期政策」があり、そしてその下に「国別援助方針」があります。これは岡田外務大臣のときの指示で今動いています。それから「国際協力重点方針」というのもあります。このような枠組みの中で個別のプロジェクトが実行されています。

 ODA大綱には、「理念」として、その目的、基本方針、重点課題、重点地域が記されています。そして「援助実施の原則」として、環境と開発の両立、軍事的用途の回避、開発途上国側の軍事支出・大量破壊兵器等に十分注意、民主化の促進・人権の保障状況等に十分注意となっています。この関係で中国の、インド・パキスタンが核実験を実施した際、また、ミャンマーの人権抑圧を理由として無償資金協力が停止されました。


5.ODA予算の推移と実績

 ODA予算が最高額だったのは1997年でした。2012年はその半分以下になっています。1989年以降(90年は除く)2000年まで日本のODA実績はトップだったのですが、2011年では世界第5位です。日本の順位が落ちた原因は二つあります。一つは日本自身の財政事情が苦しいため、予算が減少し続けたことです。もう一つは、2001年に同時多発テロがあり、欧米諸国は貧困があるからテロがあるのではないかと考えODAを大きく増やしたことです。


6.ODAの地域別配分と成果

 日本のODAの行き先を地域別に見ると、アジアが圧倒していて7割近くをキープしています。それからアフリカも多いです(2011年実績で日本の二国間ODAの約12%)。中東も同じ規模です(同約12%)。この地域向けの大きな部分は、イラク、アフガニスタン支援がかなりの部分を占めます。意外に少ないのが中南米(同約6%)です。欧州(旧ソ連、旧ユーゴ諸国等)も少ないです(同約1%)。中央アジア・コーカサスも少しです(同1%)。支援があるためです。

 ODAの成果を一言できれいに語るのは難しいですが、2004年版のODA白書によると、日本のODAは途上国のインフラ整備や人材育成に大きく貢献しておりそれは高く評価され感謝されているということが記されています。

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■ODAの成果:堤の補足

 私もODAに多少かかわっていましたので違った角度で補足したいと思います。先日亡くなったエチオピアのメレス首相は、日本の「カイゼン」に大いに注目しました。同首相は、カイゼンの核心部分は、単なる生産性向上ではなく、教育であると見抜かれました。そして、これをエチオピア国内の学校教育にも全面的に導入するとおっしゃいました。これには大変感銘を受けました。

 日本のODAは、技術協力でもインフラ建設でも、その過程で人を育てることを重視してきました。日本の技術者、指導者の徹底した現場へのこだわりや完成させるまでは諦(あきら)めないその姿勢は、指導されている人々に伝染してきています。そしてその活動の中で、相手の心の中に、人間にはお金よりも大切なものがあるという哲学が刷り込まれていきます。日本のODA関係者と付き合いが長くなると性格が変わってきたという話も聞きます。


■対アフリカODAとTICAD

 なぜアフリカなのかについては、アフリカの貧困、感染症、食料、教育の問題は国際社会の問題として深刻であり、それらの克服に日本も貢献するということです。もう一つはアフリカには国が54あり、日本にかかわりのある国際問題についてアフリカ諸国の支持を得ることは大切だということもあります。それからアフリカには豊かな資源と拡大する市場があり日本とアフリカ双方の経済発展を促進する可能性がたくさんあります。しかしその一方で、アフリカの抱える問題は、貧困、紛争、難民、インフラ不足、教育、保健、農業、食料、砂漠化、洪水、干ばつ、政府の腐敗、汚職と何でもあります。これらに対して国連が「国連ミレニアム開発目標」という指標をつくって、人間がまともな暮らしができるようなレベルに生活水準を引き上げようとしています。

 「アフリカ開発会議(TICAD)」は日本が主催して国連や世界銀行等が共催しています。1993年から今までに4回開かれていて、第5回の会議は来年横浜で開催予定です。アフリカ開発会議で決まったことが、日本の対アフリカ政策の一つの柱となっています。

 2013年のTICADについての私の個人的意見を申し上げます。まずODAの大幅増といった目標が出てくることは、今の厳しい日本の財政の中では、まずないと思います。私が注目するのは、最近のアフリカには自助努力でやろうという機運が出てきているところです。今までの4回のTICADの協力内容はほとんどが援助側が頑張ってやる協力のオンパレードでした。私としては、近年の順調な成長で自信を増してきたアフリカ諸国自らがどんな行動計画を打ち出していくか、それをどこまで実行できるかです。しかし

 それから経済成長を加速することが重要テーマになるのはわかっていますが、問題は如何にして成長の恩恵が人々に行き渡るようにするかです。いずれにしても蓋を開けてみてのお楽しみというところです。


■質疑応答

○田中 30年卒業のタナカと申します。辛口の質問が二つです。一つは、このような政府間経済援助はざるに水を入れているようなもので、受け手の途上国政府が腐敗していて途中で抜かれてしまい、極めて効率が悪いことが最大の問題だと言われています。曽野綾子さんもその辺りのことをおっしゃっていました。そのような途上国の援助に伴う腐敗、中抜きにどのように対処されているのでしょうか。

 もう一つは、JICAの理事長をやっておられた緒方貞子さんが退任され東大の副学長の方がJICAの理事長になられた人事がありました。これはどういう人事なのでしょうか。この2点についてお尋ねします。

○堤 援助に伴う腐敗や不正行為等の問題については関係者も知っています。もちろん曽野さんのおっしゃるような支援を困っている人々に直接届けるやり方は直接的で確実です。けれどもそれだけで国が発展いけるのかというのがODAの根本議論です。やはり政府をしっかり育てていこうというのが特に日本が取ってきたやり方です。その中の柱として「人づくり」を大切に考えてきていて、それが大変いい事例をたくさん生み出してきています。もう一つはアフリカ側の問題です。経済が発達して国の運営が順調になり自信が付いてくるとそれなりに汚職の度合いも減ってくると思います。アフリカ側の政府が自分で自分にどのような責任を課して実行していくか、その辺りも大切なポイントだと思います。(堤注:日本政府のODA事業においては、日本が定めたガイドラインに従って被援助国が入札を行い、その結果をJICA(国際協力機構)が確認し、受注企業名と契約金額を公表して透明性を高めています。また、ODA事業で不正が行われた場合は、不正を行った事業者を一定期間、事業の入札・契約に参加させない仕組みが整えられています。また、外部監査も実施しています。)

 緒方貞子理事長と田中理事長の人事については、私も知りませんのでお答えできません。田中理事長は国際政治がご専門で、ODAの世界はそれほどご経験はないとのことですが、全体を見渡す視野が広い素晴らしい理事長だと私はお見受けしました。

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○藤本 昭和32年卒業の藤本です。私の長男が先生より5級ぐらい後輩で現在JICAに務めて22年になります。今日は息子のことを思いながら話を聞いていました。一つ質問です。今のJICAが今後どちらの方向に努力すべきかお聞かせください。

○堤 私はJICAの人といつも仕事を楽しくやらせていただいています。昔はJICAは外務省との関係が非常に近く外務省の政策の方針にぴたっと寄り添って動いていました。しかし最近のJICAは成長して機能が強化されてきていて、今は独立性を持って自分の力で動かせる空間がかなり大きくなっています。ともすると自らの政策的な考え方や方向性が外務省と少し合わなくなってきている場合もあるように思います。しかしそれはJICAのいいところでもあります。日本のODAの体制において、政策は政府、実施はJICAという建前がありますので、それを踏まえつつうまく距離感を保ちながら事業を行うことを今から覚えていくということだと思います。


○宮川 具体的に韓国とか中国とか台湾はどのようにODAを使っているのでしょうか。

○堤 台湾はODAの対象国ではありませんし韓国はもう卒業していますのでどちらもゼロです。中国は、今まだ4、50億ぐらいやっています。無償資金協力も人道的なもの、日本に影響のある環境分野など限られたところに絞って実行するかたちに変わってきています。

(終了)

(堤注:本講演の内容は、日本政府の見解を代表するものではなく、堤尚広個人の責任において作成したものです。)