第574回二木会講演会記録

『若人へ向けて!?創造性の育み方と思い込みの怖さ?』
講師:梶山 千里(かじやま ちさと)氏(九州大学前総長)

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574-1.JPG○帆足 31年卒の帆足です。梶山先生と私は九大の同じ研究室で、私が大学院のときに梶山先生の実験指導をしたことがあります。梶山先生は九大からユニバーシティー・オブ・マサチューセッツ(よく「UMass」と言います)に留学なさいました。当時UMassは高分子研究の世界の先端を行っていました。彼は九大でもUMassでもドクターを取っていますが、2007年にはUMassの名誉博士になられ、また優秀なUMass同窓生として表彰もされていて、梶山先生のお名前は、高分子構造・物性分野では世界的に著名な研究者です。
 九大の総長におなりになっても、九州芸術工科大学との統合、法人化、百周年記念の準備等大きな事業を行ってこられました。特に、糸島の伊都キャンパスへの移転に最大の力を発揮され、キャンパスの中に「九大あかでみっくらんたん」という飲み屋までつくるという大変な変革もされました。

■梶山千里氏講演
 
○梶山 本日は二木会にお招きいただき、有難うございました。私自身は修猷館卒業ではないのですが、私の兄やおじや妻の父親は修猷館生でした。そして、私が大学4年のときの教員実習は修猷館でやり、化学の宝珠山先生にご指導いただきました。そのとき、廊下で出会った先生が、私が卒業した鞍手高校の校長をされていた重藤市之丞先生で、鞍手高校から修猷館の館長におなりになっていたのでした。重藤先生のご長男が私と同じクラスでしたから、たまたま私を覚えてくださっていました。そういうことで、修猷館の生徒ではありませんでしたが修猷館には非常に親しみを感じています。
 
■自己紹介

 私の父親は地方で雇われた国家公務員で、私は直方で生まれて直方の鞍手高校を卒業しました。それまでの間に九州各地を転々として、高校生のとき1回転して直方に戻ったことになります。兄弟は3歳上の兄と私の2人兄弟でしたが、残念ながら兄は昨年の12月に亡くなりました。
 高校は長崎西高校に入学して鞍手高校を卒業しました。長崎西高校というのはすばらしい学校で、1年は7組まであるのですが、1年生の数学の時間は同時に7組で数学の授業をやるのです。先生7名が同時に数学をやり、どの先生を選ぶかは生徒が決めます。定員に達すると終わりです。先生たちを競争させるということですから、授業は非常にサービスのいいものでした。クラスメートに会うのは、朝と帰りのホームルームだけです。これは教育・授業の仕方の一つのタイプでしょうが、私は「これが高等学校だ」とすごく感激しました。
 ところが鞍手高校に移ったら、授業制度が違っていましたので、物理も数学の微積も完全に習っていません。そういう意味では転校は大変だなと思いますが、私はあまり不安ではなく、学校で習ってなければ自分で勉強すれば良いという感じでした。ただ、鞍手高校では非常に良い先生に出会えて、私にとっては別の意味ですばらしい高校だったと言えます。
 私の大学時代は、安保のころで授業がありませんでしたので、本を読む時間があり、年間、欧米文学を中心に大体400冊読みました。今でもときどき、ふと、ある本の1章を思い出したりします。あのときは授業はありませんでしたが、かなり人生の潤いの時期になっていたような気がします。
 その後、マサチューセッツ大学に行きました。よく「MITですか」と言われますが、私が勉強したのはマサチューセッツ州立大学です。当時は、世界トップの高分子研究室があるのはマサチューセッツ州立大学で、その様な理由でUMassを選んだのです。この大学の2代目の学長は、皆さんご存じの「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のクラーク先生です。
 私は平成20年まで九大の総長をさせていただきました。総長時代には、芸術工科大学との統合があり、次に法人化が始まり、そして伊都キャンパスへの移転がありました。終わりのほうでは百周年記念事業というのがあり、大変と言えば大変でしたが、このようにいろいろなことが一緒にあると、九大の変革ができる絶好のチャンスかなと思いました。
 
■個性・独創性・創造性

 日本人には独創性がないと言う人もいますが、私はそうは思いません。その証拠は、日本人の文化や科学の多様性にあります。例えば、漢字が中国から入ってきましたが、万葉仮名や平仮名は日本人がつくったものです。このような多様性を持った文字での表現の仕方ができる国は他にほとんどありません。そして、そのような文字を使って源氏物語や数多くの珠玉の作品が生まれ、また和歌や連歌、それから俳句や川柳が生まれました。これほどの表現する道具と表現の仕方を持っている国は世界にはそうないと思います。日本人はすごい創造性を持っています。サイエンスの世界でも同じようなことが言えます。
 ただ、なぜ「日本人には創造性がない」と言われなければならないのかというのは、「乳幼児教育」と「少人数教育」に原因があると思います。2歳から3歳にかけては身の回りに起こることすべてがほぼ初体験ですから、不思議のことを必ず親に聞きます。子供から尋ねられた直後に、「いい質問をしたね」と褒めることです。褒められると、質問をする喜びが育まれます。
 そして、小学校、中学校までは少人数教育をやってほしいと思います。生徒と先生のやり取りができるのは、大体20名までです。乳幼児から小学校、中学校までは、質問をしてそれに対して受け答えができる環境が大切で、そのことが創造性を育むのです。そして質問されたら、子供に対して答えるのではなく、大人に対するのと同じようにきちんと正確に答えることが重要です。
 私達はいつの年代でも、自分の身の回りに起こることに興味や疑問を持ち、それに対して自分なりに答えを見つけるという習慣と訓練が重要です。答えは間違っていても構わないのです。自分で考えた答えが人の答えと違うこともありますので個性になります。個性の集まったものが独創性です。独創性が集まったものが創造性です。サイエンスの世界では、独創性というのは自分でつくるものです。よく高校生に「私は独創性がありません。どうしたらできるのですか」と聞かれますが、独創性は自分でつくるものです。
 それから、日本語というのは非常に論理的にできていると思います。ですから日本語がきちんと書けるということと論理的思考の展開というのは同じではないかなと思っています。

■リーダーになること、リーダーであること

 リーダーになるための訓練とリーダーであることは別の問題です。リーダーになるためには訓練が必要ですが、リーダーであるためにはトップとしての見識と信念を如何に維持するかです。
 リーダーシップの条件と例をいくつか挙げてみます。「正しいと信ずることをすぐ行い、結果に対して責任を取る」。「決断をしたら、即実行する習慣がないと重大問題は先送りになる」。「一旦決めたら腹を括ってやる」。「いくら状況を正確に判断しても決断しないと意味が無い」。「首をかけて退路を断つ決意が必要」。「知・情・意を込めて決断する」。それから「人を動機付けること?行動を促す」ということです。そしてもう一つ、信念、考え方や決断の軸が「ぶれない」ということがトップとして重要なことです。

■人生を決める教師

 私は鞍手高校で2人の大切な先生に出会いました。お一人は数学の蟹川先生です。私は、転校で微分積分の一部しか習っていませんでしたので、良く理解できないところを先生に質問していました。蟹川先生は、その場で解答がわからないときには「家に帰って解いてくる」ということで、必ず次の日の朝に答えてくれました。私も一生懸命に解きましたが、私の解き方と先生の解き方が違うものが結構ありました。数学というのは解き方とその経路が一つではないというのを自分で経験して感動しました。これは人生において幸せな経験だったと思っています。
 もう一人の先生は化学の日高先生です。鞍手高校に転校したときには、私は人数合わせのために文系のクラスに入れられていて、理系のクラスの科目の授業を受けるためあちらこちらの教室を動いていました。そのときに、日高先生が化学の面白さを教えてくれたのです。教科書そっちのけで教えてくれました。私はそれで化学が好きになって九大の応用化学に行きました。結果的には、先生は九大の応用化学の先輩となりました。その日高先生の息子さんは、今、嘉穂高校でやはり化学の先生をしておられます。
 蟹川先生と日高先生という本当に教師として素晴らしい先生にお会いできたというのは、私の人生にとって幸せだったと思います。若いときにそのような出会いは大切だと思いますが、素晴らしい出会いがあっても気づかないということもあるかもしれません。気づくというのも重要です。

■思い込みの怖さ

 「思い込みの怖さ」を払拭するには、「考え方、結論はフレキシブルに」というのがその解決方法です。
 2004年の1月30日の朝日新聞の夕刊の記事を紹介します。熱海のMOA美術館にある尾形光琳作の紅白梅図屏風について、東京文化財研究所が初めて科学的なメスを入れて調査し、新しい説を出しました。江戸時代の屏風(びょうぶ)は金箔や銀箔を使うのが一般的な常識だったらしいですが、この屏風を蛍光X線で調べて、金箔ではなく金泥を使ったのだろうと結論付けたのです。それから、流水の部分も銀箔でなく藍という有機染料だったということが赤外線吸収スペクトルの測定ではっきりわかっています。金箔なのか金泥なのか、本当のところはわかりません。しかし、昔の屏風やふすま絵は金箔や銀箔を使うという思い込みをしていると、いろいろな間違いを生むかもしれないという一つの例です。
 次に、東大の造船学の教授をしておられます宮田先生が1984年に書かれた論文の話しをします。それまでは、船が海水の中を進むとき、波は造波抵抗にはならないと考えられてきました。その考えだと、船の先が丸いほうが有利なので戦艦大和も武蔵の先端は全部丸いです。ところが宮田先生は「それは間違っている。衝撃波という非線形の波があって、船に戻ってきて造波抵抗になる」という論文を書いたのですが、最初、日本の造船学会はこの考えを認めなかったのです。これを最初に認めたのはアメリカの造船学会でした。アメリカの造船学会が認めると日本の造船学会もすぐ認めました。
 八木アンテナもそうです。今ではどこにでもあるテレビのアンテナの原型になっていますが、この八木アンテナも、優秀なアンテナとして日本より先に、最初は外国の軍用に使われていました。それから、東北大学の安彦教授の99.99位の超高純度鉄もそうです。それはすばらしいものでしたが、アメリカの鉄鋼学会で先に認められています。映画でもそうです。『おくりびと』というのは、アメリカでアカデミー賞をもらったら日本ではやりました。逆輸入みたいなものです。どうして日本人はいいアイデアを出すのに日本で認めないのかということです。
 宮田先生の船の話ですが、衝撃波という考え方は1980年以前は非常識だったのですが、それが常識になって初めて船の科学が進歩したわけです。世界最大のヨットレースで、国のチームが最高のかたちで結集するアメリカズカップでは、ヨットの幅や船底の形状について、それまでのヨットの常識を覆しながら新しいアイデアでヨットレースを戦ってきて、それが今の高速ヨットの歴史になっています。以前の考え方は間違っているよという、科学の常識が非常識になっていく過程で繰り返し科学は進歩してきているのです。
 その極め付けが、ラングミュア(Langmuir)膜というものです。ラングミュアという人は、単分子膜と界面の研究で1932年にノーベル化学賞をもらっています。彼は、石鹸の希薄な溶液を水面に拡げると石鹸の分子一つずつが単独に分散し、水面上の石鹸分子を集めてみると、ガス状態から液体になり固体になりますよということを言ったのです。水面上の石鹸分子を集めて圧縮することによって固体の単分子膜になるという考え方はものすごくわかりやすく、教科書にも長い間載っていましたが、実際にはこういう状況はほとんどないのです。
 私は1990年に脂肪酸の単分子膜をつくりたいと思いました。それは隣の分子の間で情報のやり取りができて、例えば分子間で水素結合を作る・切るといったことで情報の変換が可能になるということです。この様な単分子情報膜の作製が可能となれば、微小面積内にものすごい数の情報を入れることが可能になります。しかし単分子膜内に分子の存在しない欠陥があると分子間で情報のやり取りができません。ほぼ無欠陥の完全に分子の詰まった単分子膜を作製することは、ラングミュアの説明はとても単純で、ゆっくり水面上を圧縮すれば可能になるのですが、実際には結果は予測通りになりません。
 石鹸や脂肪酸の分子が集まると配列の規則正しい固体になります。その理由の一つは、体積に対して表面積が一番小さいものが最もエネルギー的に安定だからです。例えば、ハスの葉の上の水滴や水銀は丸くなっています。表面積が大きいのは不安定なのです。体積に対して表面積を一番小さくするのは球状しかありません。ガス状態は分子1個ずつが単独に存在していますが、このような場合には、分子1個の体積に対して表面積が最も大きいのでエネルギー的には最も不安定です。そのため、分子が寄り集まって一つの単分子膜結晶や島状のフラグメントをつくったほうがいいわけです。ラングミュアが提案した単分子膜形成過程がガス状態から液体から固体まで相変化するということは、非常に単純でわかりやすいことなのですが、その様な例は非常に稀です。
 新しい考え方は、石鹸や脂肪酸分子を水面上で展開しても、集まることのできる分子が寄り集まって単分子膜のフラグメント(島)が形成され、それを集めても島と島の界面があり、界面というのは欠陥ですから情報のやり取りができるような無欠陥単分子膜は基本的には作製できないのです。
 ラングミュアというノーベル化学賞をもらった方の説や提案は、つい全て正しいと思い込むわけですが、その当時認められている科学の常識の裏に真実があったということです。私どもはそれをどこで見付け気が付くかということです。そのことはぜひ知っていただきたいと思います。

 

574-3.JPG■誰でも大科学者になれる

 アインシュタインの話を少しします。アインシュタインは、1905年、26歳のときに、1年間で「特殊相対性理論」と「光電効果」と「ブラウン運動」の三つの画期的な理論を発表しています。けれども、アインシュタインは物理や数学も含めて天才というわけではなかったのです。彼はそのことをよくわかっていて「私は特別な能力があるわけではなく、ただ、周りのことに非常に興味があるのです」と言っています。それは、「身の回りのことに興味を持って疑問を持ち、不思議に思いなさい」という、私がいつも言っている創造性を育むことと一致しています。
 アインシュタインは、ノーベル賞受賞の知らせは日本に来る船中で受け取っていて、日本訪問中には福岡に来ています。その理由には、九大の2人の先生との交流があったのです。お一人は、桑木或雄先生で、先生がドイツに留学していたとき、アインシュタインはスイスの特許局で働いていて相対性理論を発表するのですが、桑木先生は、こんなにすごい理論を持った人がいるというので、帰国後、いち早く日本で紹介したのです。アインシュタインはそれをありがたく思っていたということです。そしてもうお一人は、三宅先生という九大のお医者さんです。日本へ行く船の中でアインシュタインは体調不良を訴え、偶然同じ船に乗り合わせた三宅先生が一生懸命に看護して、それをとてもありがたく思っていたのです。そういうこともあって福岡に来たということです。
 アインシュタインのような大科学者でも100%完全な天才ではないということです。若い人は自分の能力をいかに発揮させるかということを真剣に考えて、ぜひ頑張っていただきたいと思います。

新入会員歓迎会
講演会に引き続き、東日本大震災後という特別な状況の中、30名を超える新入会員をご招待し、歓迎会を開催しました。

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(終了)