第555回二木会講演会記録

テーマ:  "時代の文化を反映する事典の歴史"?知の集積と伝達?

講師: 大隅和雄(おおすみ・かずお)氏(昭和26年卒)

日時: 平成21年3月12日(木)

○大平 大隅君は、小学校6年のときに『太平記』を読破、中1のときに『古事記』を、2年のときには国木田独歩をむさぼり読んだということです。昭和26年に東大文学部国史科に入学、大学院を出て、昭和39年に北海道大学の助教授、昭和52年に東京女子大学教授に就任され、平成3年に定年退職されました。

nimoku55502.jpeg

 主な著書に『愚管抄を読む』、『中世仏教の思想と社会』、西口順子さんとの共編で『シリーズ女性と仏教』があり、『体系日本歴史と芸能』で第46回毎日出版文化賞特別賞を受賞されています。

■大隅和雄氏講演

○大隅 私は30年近く前に本会で新宗教の話をしました。二木会は時宜にかなったホットな話が多いので、私の出る幕ではないと思っていましたが、推薦してくれた福田純也さんからたまには面白くない話もいいのではと言われ、「辞典の歴史」という面白くなさそうな題で、ということになってしまいました。

■序

 辞典というのは、「辞」の字を使うのが普通ですが、昭和の初めに下中弥三郎が平凡社から日本百科大事典を刊行したときに「事典」という言葉を使いました。私は日本の文化史を専攻していますが、特定の作品や作家や思想家の研究をしてもなかなかその時代の全体像が浮かび上がりません。文化全体の見取図のようなものが作れないかといろいろやっている中で、百科事典というものが一つの時代の文化をよく反映しているように思うようになりました。

■知識を求めて歴史を遡る

 日本の百科事典の源流は菅原道真までさかのぼります。彼は、平安中期の模範的な官僚政治家であると同時に、すぐれた学者・詩人でもあって『類聚国史』という本を作りました。

 そのころ、国家が編纂した歴史書が六つあり『六国史』と言いますが、菅原道真はその全記事をカード化して、その全部が入るような分類項目を作り、さらに項目ごとに時系列順に並べて編纂しました。これは、道真が日本の律令国家を構造的にとらえたことを意味します。

nimoku55503.jpeg

例えば「地震」という項目を『類聚国史』で引くと、『六国史』に出てくる地震の記事が時代順に全部並んでいます。平安中期の貴族は、歴史を調べて前例に背かないように政務を処理して行くのがいい政治だと考えていましたので、この本は前例踏襲主義の官僚の座右の書として大事にされました。

 これが日本の百科事典の最初です。菅原道真の分類はその後の日本の学問研究の基礎になりました。江戸時代の『群書類従』や明治の初めにできた『古事類苑』もその影響を強く受けています。道真は、過去から伝えられてきた知識のインデックスを細かく作る仕事をやったわけです。

■知識を生活空間に広げる

 国家が大事だと思った史実は歴史に載りますが、それとは関係なくわれわれは毎日の生活を送っています。醍醐天皇の皇女の勤子内親王はその時代の代表的な知識人だった源順に、たくさん日本語を集めて字引のようなものを作ってほしいと委嘱し、作られたのが『和名類聚鈔』です。「和名」というのは今で言うと日本語の名詞です。住居や乗り物の項目はなかなか面白く、平安時代中ごろの貴族の生活がわかります。

 『類聚国史』と『和名類聚集』は日本の辞典・事典の源流になり、明治の中ごろまでそういう系統の字引が繰り返し作られました。

■『和漢三才図会』

 私が今日申し上げたいと思ったのは『和漢三才図会』という百科事典です。これは、全105巻の大変大きな字引で、中国の『三才図会』に影響を受けて編集されたものです。元禄につぐ時代に寺島良安が編纂し刊行されました。

 『三才図会』は、明の末に王圻(おうき)が編纂しました。彼は明末期の1607年に106巻の字引を作りました。『三才図会』はすぐ日本に輸入され、江戸時代、文治主義時代の学者や知識人、藩校の先生たちの間で大変大事にされました。

 『和漢三才図会』は1712年に『三才図会』を下敷きにして作られました。中国の事典を下敷きにして、日本の事典を作ったので「和漢」と言ったのです。

 『三才図会』の「三才」というのは「天地人」で「宇宙」を意味します。「天」は天体や暦のことなど、「地」は大地のこと、「人」は人間社会のことですが、寺島良安のものは、順序を変えて「天人地」になっています。

 私が大変面白いと思うのは、中国の『三才図会』の影響を受けて、すぐに日本版を作ったことと、それを出版して売り出したことです。中国からの、図書の伝播はとても早く、たくさんの本が中国から日本に輸入されてきました。これは室町時代以来ずっと続いて、江戸時代になると本の輸入はもっと活発になってきます。オランダの本の漢訳されたもの、聖書の中国語訳など、いろいろな本が日本に入ってきました。

王圻の『三才図会』は古典の世界に埋没して隠居した官僚の著述ですから昔のことしか書いてありませんが、寺島良安はそれを転換させて、当時の日本の百科事典を作りました。18世紀の日本社会の知的水準の高さを示しています。

■その他の事典

 『厚生新編』という事典は、1709年にフランスのリヨンで出た『Dictionnaire Economique』という百科事典のオランダ語版の『Huishoudelijk Woordenboek』を幕府内の部署で翻訳したものです。

幕府が、オランダ語の百科事典を翻訳して西欧の知識を得たいと思ったところまではよかったのですが、苦労して積み上げた原稿は幕府の要人だけが回読して、一般に出ないままでオランダ語の時代は終わりました。幕府が最後にやったヨーロッパの知識を輸入するための事典は不運な結果に終わりました。

 維新後に明治政府もまた百科辞典の翻訳をやろうとしました。Chambers兄弟が作った『Chambers's Encyclopeadia』という百科事典 の普及版『Information for the people』を大変なお金をかけて翻訳しました。これは「チャンブルの百科全書」と呼ばれています。

 ヨーロッパの本ばかり翻訳していたのでは困るということで、苦労の末、日本の歴史の資料を集めて、1,000巻の『古事類苑』もできました。これは現在でも歴史学者の間で使われています。

 奈良・平安時代に遣唐使が中国にたくさん渡り、競って本を持って帰ってきました。持って帰った膨大な本の目録を朝廷に献上して、それが業績目録のようになりました。その後の時代も本の輸入はとても盛んで、そういう知識欲が強いのは日本人の一つの特色のように思います。

■その他の事典

 今の百科事典の原型になったのが『日本百科大事典』です。自国の言葉で、10冊以上になる大きな百科事典を持っている国は、世界にそんなにありません。日本はその動きがとても早くて、明治の終わりに始まっています。

 始めたのは三省堂の創業者亀井忠一です。彼は、文明開化の世に出版で寄与しようと英語の辞書を作って成功しました。それが『ウェブスター新刊大辞書和訳辞彙』です。この英語辞書は、一つ一つの言葉を専門家に校閲してもらいましたので大変信頼性の高いものでした。

 これを発展させて専門用語辞典を作りたいという計画が膨らみ、それなら百科事典をということになり、1908年に『日本百科大辞典』第1巻が出ました。三省堂は出費がかさみ倒産しましたが、大隈重信が中心となって三省堂再建運動が起こり1919年に全10巻が完成しました。その後、昭和になって下中弥三郎が平凡社から百科事典を出しました。

 百科事典の歴史を見ていくと、日本文化の歴史がわかるのではないかと思っています。ただ、その研究者はあまりいません。そういう研究が盛んになれば文化史の基本的な座標軸ができて、自分勝手な感想などを述べて文化を論じるような傾向が、だんだん矯正されると思っています

■質疑応答

nimoku55504.jpeg

Q 20年の野上です。先生は、日本で出た百科事典の中で、いつごろの何が良かったと思っていらっしゃいますか。

A 大隅 それは簡単には言えませんけれども、私は数種類の百科事典を使っていますが、平凡社の『日本百科大事典』の編集に参加して苦労した思い出もあり、あの事典が一番いいのではないかと思っています。

 私は歴史をやっていますから、歴史関係、日本関係、人類学関係の項目が充実している事典がありがたいと思っています。ただ、使う人によっていろいろですから簡単には言えないと思います。

 修猷館の中学3年のとき、岡田武彦という国語の先生から「英語の字引は毎日のように引くでしょう。同じように漢和辞典を毎日引かないようではだめですよ」と言われました。実行したわけではありませんが、何となくその言葉は忘れられません。

 今、事典が何種類も入っている電子辞書があります。一つの言葉を見て簡単に情報を得るのはいいですが、たまには大きな字引や百科事典を引いてみて、全体の中でどうなっているのかを調べ、納得できなかったらほかの百科事典も引いてみるということをやらないと、岡田先生に叱られそうな気がしています。

Q 百科事典の話とはちょっとずれますけれども、今の電子辞書には『広辞苑』ばかり入っています。『広辞苑』は大変いい辞典だとは思いますが、やはりプラスマイナスがあると思います。日本の国語辞典の歴史もいろいろあったのではないかと思いますので、その辺の日本語の辞書の移り変わりの大まかなことをちょっとお話ししてください。

A 大隅 それは今日の話題以上に大きくて重い問題で、ここでお答えする準備がありません。今日は百科事典の話、事典(ことてん)の話のつもりでした。江戸時代の初めに、ポルトガルの宣教師が『日葡辞書』という日本語とポルトガル語の辞書を作りましたが、私はそれに大変興味を持っています。

 『日葡辞書』は、たくさんの日本語をポルトガル語風のローマ字表記にして項目を挙げています。日本語は発音通りに表記しているわけでなく、よみがわからないところはたくさんあります。この宣教師が作った日本語辞書を見ると発音がわかります。また、日本人だったらわざわざ字引に書かないような言葉がたくさん採られていますので、『日葡辞書』は文法的に日本語を考える基礎になりました。

 日本では、江戸時代まで漢語以外に自分の国の言葉について考えることがあまりありませんでした。明治に大きな国語辞典ができるようになりましたが、いろいろな問題もあります。日本語辞典もこれからいろいろ変わるのではないかと思っています。