題字・箱島信一書
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修猷館同窓会
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「浩々たる丹心万古に輝く(大きな真心は永遠に輝く)
同窓会会館にも掲示されている広田弘毅先輩の座右の銘です。
吉田松陰の「留魂録」にもある中国明代の官僚楊継盛が、時の政治を批判したために罪を得て刑死するに臨んで残した詩「浩気還太虚、丹心照千古(浩気太虚に還り、丹心千古を照らす)」を踏まえたものとされています。伝えられてきた「自ら計らわず」「風車、風の吹くまで昼寝かな」、そして、最晩年の「物来順応」などの座右の銘に比して、その言葉の持つ清冽な力強さに打たれます。改めて、後輩への力強い励ましのことばと受け止められるところです。
「浩々」の語は、本報20号に掲載された、広田弘毅先輩創設の学生寮「浩浩居」にも用いられています。
明けましておめでとうございます。去年6月の総会のテーマは「修猷魂を次代に、そして世界に繋ぐ」でしたが、年頭に当たって私も「修猷魂」について改めて考えてみました。当然のことながら魂や精神の実体は、言葉という柄杓ではなかなか掬いあげにくく、ここでは抽象論に替えて二人の館友について書くことにします。
昭和31年卒業の同級生の一人に松汐悟君がいます。彼は修猷卒業後、裸一貫で社会に飛びこみ、時に苦杯をなめながら様々な事業を手掛けた後、晩年は警固校区自治協議会会長として新旧住民の融和に心を砕くなど、地域社会のために貢献することを生き甲斐とした人生を送りました。過去形で書くのは、残念ながら昨年9月、急逝したからです。
在校中は小柄ながらラグビー選手として活躍し、卒業後は束縛の少ない自営業者という立場もあって私たち31会の永久幹事の役割を果たしてくれていました。飄々かつ直情の男。福岡での通夜では財務省勤務の息子さんが威厳に満ちた父親像を述べ、地域のリーダーとして頑固で人情に厚い故人の人柄が出席者からこもごも語られました。会場には警固子ども会育成会の小中学生が多数参列して壇上に整列し、「会長さん、有難うございました」と言って合掌。この光景に松汐君の見事な人生が凝結されたような思いがして、深い感銘を受けました。
彼は31会卒業50周年記念誌に寄せた「私の恩人」と題する一文の中で、勉強嫌いの超低空飛行ぶりを軽妙な筆致で述べながら、先生方に如何に愛されたかを懐かしそうに振り返っています。カンニングのお目こぼしもあったとか。"劣等生"切り捨てや排除の論理とは対極の温かい空気が松汐君を守り成長させた事情がよくわかります。
東中洲でスナックを開業の際、創業資金を申し込んだがどこも相手にしてくれない。思いあぐねて、修猷生の時しばしばお宅を訪ね息子同様に遇してくれた同窓の蒲池徹志君のお母さんに借金の保証を頼んだら二つ返事で了承、歯科医院長夫人の保証を確認した銀行は直ちに融資に応じてくれたというのです。それから数十年を経てその恩義のことを蒲池君に言ったら、「なんのことや?」。お母さんは何も息子に話していなかったのでした。
これを読んだ時、修猷館のこととなるとなぜ夜も日もないほど熱くなるのか、その秘密が分かったような気がしたものです。
その彼が50歳台半ばのころ、雑談の中で修猷気質についてこんな風に言ったことを覚えています。
「修猷を出た人間は頭も人柄も良かけん、会社でも役所でも良かところまで行くばってん、肝心の最後の所でよう行かんことが多いもんね。腰に一本下げとるとが邪魔するったい」
腰の一本とは、人間としての尊厳、信念、使命感といったものを指すのでしょうが、自由人松汐君もその例外ではなく、だから懸命に働いたのに博多の街に松汐ビルや悟タワーが建つことはありませんでした。
多くの館友が「腰の一本」にこだわる傾向は、10歳代後半の多感な時期、修猷生として自由な空気をたっぷり吸ったことと関係しているような気がします。自由と自主尊重の校風に育まれた精神は、社会の荒波にあってもそう簡単に劣化するものではありません。
もう一人は伊藤正孝さん。後に朝日新聞の国際記者として鳴らした私の1級上の先輩です。もう20年近く前のことですが、為替相場の見通しについて質問を受けたことがあります。後でわかったのは、伊藤さんはエチオピアの反政府ゲリラをたびたび現地取材して多くの戦士たちと心が通じ合うようになり、出版で得た印税を彼らに送金しようとしていたのでした。組織に属する記者としていささかルール逸脱のそしりを免れませんが、抑えがたい正義感と熱情のなせる業だったのだと思います。
伊藤さんが初めて衆議院選挙に出る親友の山崎拓さんに、貰ったばかりのボーナス袋を封も切らずにそっくり手渡したという話は今も語り草です。まだ駆け出しの薄給時代だから奥さんはたまらない。後できついお灸をすえられたそうですが、この二人はイデオロギーや政治的信条では相当隔たりがあったはずなのに、修猷という触媒がはいると忽ち一体化の化学反応が起きてしまったようです。
このように情や心意気といった要素がかなり濃厚なのも修猷魂の特徴と言えるでしょう。世界百都市でのジョギングを目指していた伊藤さんも既に鬼籍の人となって久しいのですが、感性に触れた事柄は経年風化に対する耐性が特別なのか、いつまでも懐かしく私の胸に留まっています。
二人を支えた修猷魂について思いつくままに書いてみました。ともに母校を終生誇りとし、熱くそして爽やかにそれぞれの生を全うしました。天晴れな人生だったと思っています。
2009年6月5日(金)、恒例の東京修猷会総会及び懇親会が、千代田区紀尾井町のグランドプリンスホテル赤坂で開催された。当日の雨模様、一部会費値上げの影響なく、例年を上回る628名が出席した。初の試みである託児ルームは7名の子供が利用した。
第1部は物故者への黙祷、東京修猷会会長挨拶、修猷館同窓会会長挨拶、館長挨拶、そして報告事項、とつつがなく進んだ。
第2部は、招待恩師の紹介。今回は、3人の先生においでいただいた。バイタリティあふれる3名の先生方に伺った修猷への想いの一部を紹介する。
年々男女比率が推移し、2009年はちょうど同人数、校舎は新装なった現在の修猷館高校。そこで学ぶ現役修猷生の声を、第63回修猷大文化祭にて取材(3月23日)、第2部で放映した。大文化祭運営委員委員長/副委員長、文化祭演劇出演者、卒業したての皆さんの声は、文化祭催しのタイムスケジュールの合間、リハーサルなしの取材に関わらず、修猷魂を感じる、エネルギーに満ち溢れた言葉であった。その一部を紹介する。
今回は、総会と懇親会を同一会場で実施した。懇親会会場準備の待ち時間は、当日福岡からの応援組が空輸した「蜂楽饅頭」480個(50Kg)とお茶でおもてなし、饅頭の山は瞬く間になくなり「白派」と「黒派」、郷愁を楽しんでいただいた。
懇親会が始まる頃、託児ルームでは、7名の子供が託児専門会社のスタッフ2名と、日ごろと違う目新しい玩具で楽しく過ごしていた。初の試みであり利用いただけるか、満足いただけるか不安もあったが、実施して本当によかった。
懇親会は修猷館大運動会伝統のエール『飛燕の舞』、ではじまった。照明を落とした中、飛燕元締が叩く和太鼓の音が力強く響く。壇上でスポットライトに照らされた、平成2年卒の団長率いる、昭和58年卒から平成4年卒までの6学年総勢14名の一糸乱れぬ舞、そして会場からの掛声「ゴー、ゴー、ゴー、ゴーレッツゴー」、会場の各々がそれぞれの運動会の時に戻っていた。
熱気に包まれたまま壇上のエールのもと館歌を斉唱した。ますますお元気な宮川一二先輩(昭和12年卒)のご発声で乾杯した。
歓談の時間は、懇親会から参加した方にもごらんいただけるように、第2部放映の現役の声を再放映した。また、来賓席近くに開設した福岡・九州の地酒・焼酎コーナは、水割り!ロック!のオーダーが絶えず、用意した25本は最後の一滴まで飲み干された。旧友との語らいの場がいっそうにはずんだのだと確信した。
そして満を持して、高校時代から45年の時を経て、おやぢバンド「The New Young Knights」がステージに登場した。昭和41年卒のアラカンおやぢが披露する懐かしのベンチャーズ&ロックンロールサウンド6曲、いつの間にか応援の横断幕が広がり、曲に合わせて手拍子する人、歌詞を口ずさむ人、会場はひとつとなり、熱狂した。
大喝采を受けたバンドが奏でるバックミュージックの中、平成21年卒の新入会員21名が登壇、紹介が行われた。次いで福岡の同窓会の幹事学年(昭和56年卒)の挨拶と続いた。
そして、来年度幹事学年である昭和59年卒の代表として、服部豊君が力強く抱負を語り、最後に、飛燕団員で昭和59年卒の諸岡哲也君のエールのもとで「彼の群小」を歌い、懇親会はお開きとなった。
(昭和58年卒 幹事一同)
2年前実行委員長を引き受けた時は、まったくゴールが見えなかったが、気がついたら多くの仲間とともに幸せの絶頂の中、幹事を全うすることができた。このような機会を与えて頂いた同窓会に感謝するとともに、当日は雨の中、また新型インフルエンザ流行の最中、会場まで足をお運びくださった皆様、東京修猷会執行部の方々はじめ、ご指導ご協力くださいました多くの方々に、心より御礼申し上げます。
2009年度東京修猷会総会 実行委員会実行委員長 島 保弘
昭和58年卒:いっちょやる会
「早ようこげんとば聴きたかったバイ!」と大先輩の大声で爆笑が起こり、会場の氣がステージに来た。還暦過ぎたオヤジバンドの演奏を楽しんで頂けている手応えを感じた。同時に45年間の時間の氷結が溶け、初めて修猷館でエレキバンドが誕生し「テケ、テケ...」と講堂でやった時の館友達の声援を思い出した。あの頃はエレキは不良だと学校での演奏は中止された。まだエレキは受け入れられる時代ではなかった。だが、今年の東京修猷総会に初参加した女子大生が「高校時代にドラムをやっていました」と言って来た。嬉しくなった。エレキが作る「青春の楽譜」も捨てたものではない。それにしても「飛燕の舞」は素晴らしかった。学帽、学らんに古き良き修猷を感じた。身体が疼いた。あの動きは、運動会を思い出させた。学校へ行くのが楽しく、頭中が運動会だけの日々だった頃を。破れ帽子、腰に手拭い、高下駄で通学した頃を。「青春の蹉跌で学ばせる方針の高校?」だったせいか、先生もちょっとの無茶?は許してくれた。しかし先生の鉄拳は鼻血がでるほど厳しかった。でも優しさを感じた。東京総会でセピア色に変わったその青春の仄々とした面影を見た。蜂楽饅頭を食べながら58年卒幹事諸君が運動会のあの動きを懸命に後輩達に指導していた。そこに修猷の卒業年度を超えた「絆」を感じた。
絆のある良い山って若木と壮木だけではダメ。幼木も老木も必要。針葉樹林だけでもダメ。広葉樹林も必要。それらの混在とそのバランスの妙が良い山の条件。山に良いバクテリアを育て、良い水を生み、良い風を通し、良い土を作るから。生きる者に優しい良い山...修猷館はそういう山だ。皆と歌った館歌に伝統のある「青春の脈流」を感じ身体が熱くなった。大切にしたい。 (北郷 秀樹)
バンカラで喧嘩に明け暮れと ったワル連中が、異質とも思えるロックンロールにのめり込んだおかげで、その後立派に更生し今日に至った。修猷館時代の公式行事としてのバンド演奏は文化祭などたった3回やったばってん、あれだけ心がときめいた輝く時代が他にあったやろうか?あの充実感がいまだに色褪せとらんけん、メンバー5人の今の音楽活動があるとやろうと思う。変わっとらんとは音楽に対する情熱、ベターサウンドの追求心。そーやけん進化し続けることができるっちゃろーと思う。(宮崎 佳之)
東京で再会したオヤジ達は「ザ・ニューヤングナイツ」("ヤングで無いつ"...と言う人もいるが)を再結成! 月2回4時間の練習と5時間の反省会?の他、キャンプ、合宿、ゴルフ等団塊の世代の手本となるべく第2の青春を謳歌している。(片田 正行)
あんなに大勢の館友の前で演奏できた幸せ!大聴衆の前で演奏するのは大変気分が良く、ノリノリで楽しみました。NYKはお呼びがあれば何処へでも参上します。もちろん、ノーギャラで...幸せなオヤジ達は喜んでやるバイ。また声ばかけちゃりんしゃいね〜(^^♪)(宮原 正治、桑原 昭二、安田 修之助)
今回の総会企画にて、懐かしい「飛燕の舞」を、しかも「団長」としての立場で、諸先輩方の前で舞わせていただくという光栄を賜りました。メンバー中で卒業年次が下から二番目の若輩者(但し、メンバー全員が「アラフォー」であるという括弧付きではありますが...)にもかかわらず、分不相応にも最前列にて参加する機会をいただいたのは、まさに、「修猷魂を次代に、そして世界に繋ぐ」との総会テーマに基づいた、先輩方のお心遣いかと思います。毎回の練習後の懇親会での幹事学年・メンバーの先輩方とのお話、日比谷公園での深夜の直前練習、そして企画終了後の一体感と達成感等の、楽しくかつ貴重な経験を通じて、私が私なりに感じることのできた「修猷魂」を、次は自らが下の世代に伝えていく立場にならなければならないとの思いを、今回の文章を寄稿させていただくにあたり、改めて強くしております。この素晴らしい機会を頂戴したことにつきまして、非常にお忙しい中で様々なご指導・ご準備をいただいた、昭和58年卒の幹事学年の先輩方、更に、現在まで東京修猷会を支えてこられた歴代の諸先輩方に、本紙面を借りまして、心より御礼申し上げます。
昨春修猷を卒業した私にとって、6月の総会が初めての総会となりました。在学中から総会の規模の大きさ、同窓生の繋がりの強さは耳にしていましたが、自分の目で確かめてみると想像以上でとても驚きました。まず、広い会場に溢れんばかりの人の多さ。(実際溢れていたような気もしますが...。)
地元福岡でもないし、各々予定があるだろう中で、これ程たくさんの人がわざわざ集まるのは、やはり「修猷が好き」という気持ちが共通しているからだろうと感じました。また、年配の卒業生の方から多く声をかけて頂き、いろいろなお話を伺うことができました。同学年の友達に会えたのも、高校時代に戻ったようでとても嬉しかったです。幹事学年になったときが今からとても楽しみです。修猷での生活は3年だけの短いものでしたが、長い長い「修猷卒業生」としての時間が今から始まります。先輩方のご指導を受けつつ、頑張りたいと思いますのでよろしくお願い致します。
昭和57年の運動会の開会式で総務の大浦は叫んだ。
「タンブリングで重たくて苦しくなったら、それは六光星の重みと思え!陸上できつくなったら、六光星をひきずって走りようと思え!俺たち一人一人が修猷館を守る!」昭和57年は「もうかり」が廃止された年だった。悲壮感が漂っていた大浦は、成功裏に迎えた閉会式で叫んだ。
「お前らは立派に六光星を支えてくれた。」
あれから27年が経った。次のシーンは今年(平成21年)の運動会の一シーンである。
タンブ長の3体型の「ピーッ」という笛の合図の直後、観衆から「オーッ!」という喚声が沸き起きた。タンブ長が立つ指揮台の正面に立っているはずの7ピラの男達がいないのだ。指揮台の正面は空間だった。その数メートルの空間をはさんで、左右対称に二組の7ピラの男達が立っていた。タンブ長は壇上から飛び降り、汗を拭くための数十枚のタオルを男達に放った。男達の前に仁王立ちし、願いを込めながらも、力強く指揮を執った。3段目までのしっかりとした土台ができた。
タンブ長は腕を振りかざし、「乗り込め!」と叫んだ。「ドンドンドンドン...」太鼓の音が鳴り響いた。4段目から順に乗り込んでいった。観衆にも力が入った。他のブロックからも「頑張れ!」の声援が響いた。5段目、6段目と乗り込むごとに、7ピラのバランスの難易度が増していった。最上段が乗り込んだ後、二組の7ピラは崩れた。完全には立つことができなかった。タンブ長は男達を背に、壇上に駆け上がった。溢れる涙を必死にこらえていた。最後の退場の指揮を執らなければいけなかった。
ブロックのスタンド裏に全速力で走り抜けた男達。込み上げてくる無念の思い。タンブ長の戻りを待った。戻ったタンブ長を男達が囲んだ。タンブ長も、男達も、止めどなく涙が溢れた。タンブ長は力を振り絞って叫んだ。「すまん!乗り込みが遅くなったのは、全部俺のせいや!」男達は叫んだ。「違う!」それ以上の言葉は不要だった。そこには、熱い男の友情があった。男達の手によって、タンブ長は2回、3回と空高く宙に舞った。タンブ長が、男達が、裸足で走った夏が去(い)った。
今年の運動会の一つ一つのシーンに胸が一杯になり、27年前の運動会のシーンが鮮やかに蘇った。翌日は代休というのに、沢山の生徒が登校した。広い運動場の真ん中で、黙々と片付け作業をする生徒、トイレを綺麗にする生徒、広いピロティーの砂を掃き集める生徒、ヘッドキャップを洗って干す生徒、大きなゴミを選別する生徒、自らの使命を自覚し、一人ひとりがみんなのために何かをやろうとする姿勢を見て、幸せ感一杯になる館長先生。最後まで一生懸命にやり尽くす生徒と、生徒を暖かく見守る館長先生との間の奥深い信頼感に修猷の底力を見たような気がした。
大浦が27年前に繰り返し叫んだ「六光星」について確信した。
「六光星」は熱く輝いている。
(平成21年9月 記)
「幾度も星は流れ、そして時はめぐる。地上では詩が生まれ歌が作られる。人々は絶えることなく、それぞれの物語を各々の言葉で語り続ける。そして時は流れ、星はまためぐり続ける」(北村薫「リセット」)
君は覚えているか、あの夏の日を。声の限り叫んだ「ミュンヘンへの道」を。物語のすべては輝き続けているか。時の流れを遡ろう。
入学後、大渇水と共に78年修猷の夏到来。しかし、中学軟式テニス部の練習過多で膝を壊した影響で、1年の6月から半年間走れない状態に。ほとんどの競技は見学...。悔し涙にくれる中、人一倍熱心にやったのが、イエロー応コンだった。
72年ミュンヘン五輪男子バレーのTV「ミュンヘンへの道」のテーマが応援歌。6年前の感動を蘇らせた曲に魅了され「3年でもこの曲だ」と誓ったのだった。
2年で思う存分エールや各種競技をし、失地回復。80年、3年の夏に「青ブロック」応コン長へ。「何が何でもミュンヘン」との思いにあきれた(?)応コン委員に助けられ計画始動(この年、幻のモスクワ五輪)。1年のときの曲を基に歌詞とパネル文字を練り上げた。「この日を永久に忘れない」と想いを込めて。ラストのパネルは「わが セイシュンの OLYMPIC INSHUYU」
時は流れた。しかし「あの夏の日の歌」はその後も、人生の日々への応援歌として私の胸で響き続いている。
「友や家族を、何より自分を裏切っていないか。青く輝く空に誓った心、はあるか」と、常に問いかけつつ。
2年後。応コン委員だった島君が応コン長で「ミュンヘンへの道」を引き継ぐと聞き帰福。パネルを眺めて感動し、いつしか自分たちの歌詞で歌っていた。さすがに、その後途絶えたと思っていた「ミュンヘンへの道」が数年前の運動会で歌われたと聞き、驚きを隠せない。
時はめぐる。9月21日で運動会30年。修猷での日々を送った友たちと、グラウンドで再びこの歌を叫びたい。それぞれの旅、それぞれの物語を胸に...。
78年イエローの先輩の皆さん、「80BLUE」野上ブロック長&青組戦士。応コンを競い合った佐伯君・成富君・川端君や同級生、後輩諸君。懸命に応援してくれた亡き父と亡き姉に、時を超えた感謝を捧げる。
「ミュンヘンへの道」。この歌は私にはまさに、天空をかける『星』だった。めぐり続ける星の下でまた会おう、友よ。
【「ミュンヘンへの道 80」歌詞】
何かで燃やすのが若い命
何かに賭けるのが一度の青春さ
苦しい日々には涙もあるけど
それは胸に浸み込む熱い涙
覚えておくがいいよ 一途に燃えた日々
覚えておくがいいよ 二度とない日を
戦え どこまでも力の限り
我らブルーが勝利をつかむまで
すべてが優勝へ続く道
すべてが栄光につながる道なのさ
飛び散る汗にも生きてる輝き
青く輝く空に誓った心
覚えておくがいいよ 一途に燃えた日々
覚えておくがいいよ 今日のこの日を
優勝めざし戦うときに
闘志は燃え上がる 我らブルー ヤー!
2008年、小林・益川両氏と南部氏がノーベル物理学賞を受賞し、素粒子理論物理学に注目が集まりました。この機会に、同じ分野を研究している者として、理論物理学の研究についてご紹介したいと思います。
ミクロの世界における量子論の確立とともに、日本でも湯川氏が量子論における相互作用の導入、朝永氏が量子場の理論における無限大の処理、さらにその後、小林・益川両氏と南部氏が自然界の対称性とその破れに関する研究を行いました。これらの偉大な先人の研究に影響されて、修猷館の先輩や後輩でも多くの方々がこの分野でご活躍されています。
その発展の中で、私自身は弦理論の研究を行っています。近年、あらゆる素粒子が弦の振動により表わされると仮定する弦理論が、自然界を統一的に記述する理論の有力な候補となっています。この弦理論を用いて自然界の物質や相互作用を再現することが、素粒子理論物理学の大きな課題です。
科学は実験事実を基に発展してきましたが、近年の素粒子物理学の発展では多くの場合、実験よりも理論の方が先行しています。それは、設備の巨大化に伴う実験上の困難のほかに、物理法則の理解が進むにつれて、無矛盾な理論体系には強い制限がつくことがわかってきたからです。理論系の研究は紙と鉛筆が基本です。論文の精読や、他の研究者との議論にくわえて、時には大自然と向き合うことを通じて、自分の自然観を数式で表現する試行錯誤を繰り返しています。
科学は人類の自然探究の結晶であり、その学問構造は芸術的な美を内包しています。また現在では、技術の基礎となり経済成長の原動力ともなっています。自身を振り返ってみると、大学入学試験だけでなく文化祭や運動会、日々の高校生活を通じて、忍耐強く目標に専念し達成することをも重んじる修猷魂の薫陶を受けたからこそ、研究に没頭できたように思います。修猷館出身者の研究者が多いのは偶然ではなく、そういった事情の現れだと信じています。修猷館で培った独立不羈の精神を持って、これからも自然科学の世界に多くの後輩たちが羽ばたいていくことを願っています。
2007年、2008年と放映されたNHKの「ジャッジ」はご覧になりましたか?島の裁判官を主人公にした、リアルでよくできたドラマでした。私は、行政庁出向や司法行政担当の期間も長いのですが、本業である裁判官の仕事を紹介します。
第一に、難しく、やりがいのある仕事です。裁判では、当事者双方が満足する結論はないのが通常で、例えば懲役10年の判決に対し、被告人・弁護人は本来無罪で刑も重すぎる、検察官・被害者は刑期が短すぎる、ということもよくあります。したがって、適正な結論を出すことはもちろんですが、判決では、当事者双方に対し、大事件ではさらに社会全体をも視野に入れて、判断の理由をわかりやすく、しかも無用の誤解や反発を招かないように説明することが求められます。検討を十分に尽くした判決は迷いなく宣告できますし、時に自分の思いが伝わったことを実感できることもあり、それが次の事件に取り組む活力、やりがいとなっています。
第二に、責任は重いが自由な仕事です。弁護士は依頼者の利益を守らねばならず、検察官も、公益の代表者とはいえ「被害者と共に泣く」立場にありますが、裁判官は、法と良心に基づいて公正中立に判断するのみです。しかも、職権行使の独立が憲法上保障されていますから、上訴審によって是正されることはあっても、政府・国会はもとより、裁判所内でも裁判の内容について干渉されることはありません。その分、裁判官一人一人が、常日頃から視野を広めるとともに、自らの判断を客観視して研さんに努めなければならないわけですが、仕事上「しがらみ」を感じることがないのはいいものです。
全国で次々と裁判員裁判が実施されています。我々裁判官は、裁判員の方々と仕事をする中で、感覚のずれや足りないところがあれば学んで改め、共によりよい刑事裁判を実現していきたいと考えています。裁判員の方々にとっても、負担になるかとは思いますが、犯罪や捜査・裁判の実情を知り、被告人の行動・生活や被害者の心情について考えていただく、よい機会となり得るのではないでしょうか。修猷館OBの皆さん、機会がありましたら、裁判員裁判への積極的なご参加をどうか宜しくお願いいたします。
2009年は、修猷館を思い出すことの多い1年でした。
昭和55年卒の私たちは、5月の福岡での同窓会総会の幹事学年でした。不思議なのは、修猷館関係で頼まれたことを断わらなかったことです。どうも私だけではないようです。同窓会の日に、修猷館の在校生に卒業生がその後の30年を語る「進路別研究会」が開催され、40人の同級生が講師として参加しました。それも、福岡だけでなく東京や大阪やアジアやヨーロッパの各地から福岡へと参集したのです。私も大阪から駆けつけました。さらに、同窓会総会には昭和55年卒だけで156人の同級生が集まり、はっぴ姿でお世話係に徹しました。
「同窓会当日に来てね」
「はい」
「進路別研究会の講師をやってね」「はい」
「記念植樹の時にスピーチお願い」「はい」
総会が終わって、
「進路別研究会の感想を書いてね」「はい」
そして最近では、なぜか
「東京修猷会会報に原稿を書いてね」「はい」
といった具合です。
福岡在住の同級生に較べればたいした働きもしていませんが、もともと怠け者でひねくれ者の私が「修猷館」と聞くとどうしてこんなにも素直に動くのか、自分でどうにも不思議でした。
やはり、修猷館時代の運動会や文化祭での経験が、私をパブロフの犬状態にするのでしょう。一人一人が全体を考えて、自分の果たすべき役割をきっちりと果たさなければ全体が動かないということを心の奥底に刷り込まれたのです。とはいえ、日頃はそんなことは忘れてしまいがちで、子供のPTA役員選出の時には下を向いて誰かが役員を引き受けるまで我慢比べをしてしまう始末です。きっと、神様が「修猷館の時代を思い出せよ」とおっしゃっているのかもしれません。
近況を書き出す前に紙幅が尽きてしまいそうですが、私は長年ごみ問題に関わってきました。「リサイクルすりゃいいんでしょ」というほど簡単ではない循環型社会への道程を、一緒に考えネットワークするために「3R検定」という検定を昨年度から立ち上げました。今年度は京都、大阪、東京、福岡、兵庫の5会場で1月10日に実施します。全くのボランティアで、なぜそんなことをやっているのか。きっと修猷魂のせいだと思います。
2001年9月、日本第1号のBSE牛が確認されました。私がらでぃっしゅぼーやに着任して1年半が経過したころでした。以来、数多くのメディアにおいて「食の安全」に関する記事が報じられてきました。先進国である日本において「食の安全」はすでに確立されているものであり、危険な食べ物など流通しているはずがない、といった幻想が音をたてて崩れていくような感覚をもったことを覚えています。
一言で「食の安全」といいますが、実際は大きく3つの要素から語られるべきだと考えます。一つは人体に直接的、劇症的に関わる「食の安全」、いわゆる食中毒などです。二つ目は長期的視点にたった「食の安全」です。昭和34年の厚生白書に食品添加物の増加に関して慢性的な毒性に対する将来の健康被害への懸念が記されています。しかしながら以来50年で食品添加物の種類は約15倍の1500種あまりに及んでいます。そして三つ目が安全な食べ物を「作り続けられる環境」を作ることです。食品添加物や農薬、化学肥料が普及してきた背景には「手軽に」「安く」「いつでも」といった消費者ニーズがあったことは否めません。
確かに化学物質に頼らず食品の生産をすると、コストは上がります。結果として20%〜50%程度価格が上がることになります。しかし家庭から排出される生ゴミの約30%は「未使用残渣(買ってきて使われることなく捨てられた食べ物)」という調査結果も出ています。要するに安いからといって不必要な食べ物を大量に買って捨てる、というライフスタイルから質の良いものを必要なだけ買って食べきるというライフスタイルへのシフトが安全な食べ物を「作り続けられる環境」を作り出すことになると思います。
もちろん作り手側も少しでも手にしやすい価格を実現するための「化学物質に頼らない」生産性の向上に努めなければなりません。そのためには私たち流通に携わる企業がリスクをとって生産にまで踏み込んで合理化を進めなければならないと考えています。
らでぃっしゅぼーや(株)は1988年、「持続可能な社会の実現」を目指して、当時の環境運動団体(今で言うNPOですか)が母体となって設立された会社です。その手を離れた今でも、その志は私たちの経営理念として息づいています。
私たちは今「全国のこどもとお母さんから最も愛され、信頼される食品流通企業」を目指しています。一人でも多くのこどもたちに良質な食をお届けしたい。未来の社会は今のこどもたちが選択します。良質な食に触れた多くのこどもたちが選択する未来、それは必ず「持続可能な社会」であると信じています。
平成21年東京修猷会総会へ出席させていただいたが、ここで勇壮なる飛燕の舞を披露してくれたのは私の空手道場の門下で指導的な立場であり昭和58年卒幹事学年の伊藤盛明君、尾崎哲郎君、そして世代を超えた修猷卒の勇士たちであった。
それぞれ社会の中枢を担う多忙な面々がわずかな稽古時間にも関わらず一糸乱れぬ見事な演舞に感動した。そして、そこで放映された現役修猷館生の生の声を収録したビデオで心を大きく揺すぶられることになる。この理由は最後に述べよう。
私は現在、IT関連の会社を経営しながら非常勤講師として芸術系の大学でコンピュータ概論の講義を行っている。その一方、新しい考え方で空手道場も運営している。こうした立場で様々なタイプの若者と毎日接する。
IT関係の仕事で接する若者は、オタク的、良く言えばマイペース、悪く言えばエゴイスティックな感じを受ける若者が多い。
芸術家の卵である大学の学生達は、ユニークだが教える立場で見れば二極分化の典型である。
畑違いの理数系の高度な才能を示す者も居れば、好きな事以外は全く興味を示さないような若者まで、総じて個人主義的な傾向が強い。
いずれにせよ現代の若者の標準から大きくは離れていない。
一方、空手道場に通う若者は、あきらかにこの二者とは異なる集団だ。彼らは義務として道場に通っているのではない。自らの意思で過酷な稽古を志願して通っている若者だ。
運動不足解消、健康志向といった表向きの理由だけでは説明できないエネルギーを彼らに感ずる。その根源は突き詰めれば武士道に行き着くと私は思っている。
規範としての武士道は山鹿素行、佐賀藩の葉隠、そして新渡戸稲造など時代背景により解釈は大きく変わっている。しかしその底流となる心情は日本の風土を土台とした日本人に脈々と受け継がれた名誉や誇りを命をかけて守りたいという精神的な伝統である。これは現在世界の主流となっている成果主義、個人主義、拝金思想と真っ向から対峙する思想である。
共産主義は20世紀を活性化し、そして衰退させた。成果主義は21世紀を活性化し、そしてやがて衰退させると私は予想している。そして誤解を恐れずに言うと、新しい武士道が世界を救うと思っている。
ただ、この一見唐突な考えを狭小な国粋主義と勘違いしないでいただきたい。名誉を重んずる考えは、自分の名誉だけでなく相手の名誉も重んずるということでなければならない。これは品格のある共存共栄を意味する。そして、こうした考えは、どこの国でもその核になる行動原理(コアパーソナリティー)としては存在しているもので、本来の意味の国際的標準化規格(グローバリゼーション)と矛盾しない。真の意味での自主独立と自尊他尊、永遠なる人類の発展に寄与する考え、そしてそれを具現化できる新しい武士道を空手を通して創っていきたいと常々思っていた。
これは伝統的な修猷魂と多くの点で共通する考えだと今回気づかされた。
そして、私の心を強く揺すぶった出来事に遭遇する事になる。それが最初に述べた現役修猷生の生の声だ。新しい武士道精神の息吹を我が修猷館の後輩たちに感じたのだ。
修猷館同窓であることの誇りと未来への希望。そしてすばらしい感動をありがとう。
2008年12月30日、私が作詞、作曲そしてプロデュースを手がけたEXILE「Ti Amo」は第50回日本レコード大賞をいただいた。音楽の作り手にとってこの賞がとくべつな意味を持つのは、ほかの多くの賞と違ってこれが歌い手のみならず作家陣も授賞対象にふくまれるという点だ。授賞式に登壇した模様がテレビ中継されたせいもあって、修猷時代の同窓生からもたくさんの連絡があった。親しい中本純徳君から贈られた鉢植えは今でも福岡の実家で家族や客人の目を楽しませている。実にありがたいことである。
話は昭和50年代にさかのぼる。
小学3年生の時だったとおもう。私は父親の仕事の都合で住み慣れた福岡市を離れ、佐賀市に移り住んだばかりだった。市民会館で文化講演会が催されることになり、そこに江藤淳と永六輔の名前を見つけた母は、幼い姉と私を連れて会場へと足を はこんだ。当時もっとも高名な文芸評論家のひとりであった江藤の諸作に、同世代にして読書好きの母は強く惹かれていたようだ。あるいは自分の子どもたちを江藤の謦咳に触れさせたいという意図があったのかもしれない。アカデミズムという名の鱗粉を浴びさせようと。
がしかし、彼女のお目当てである江藤淳の話は、私にとっては退屈きわまりないものだった。英国留学時代の夏目漱石についての講演だったように記憶しているが、何しろ私はまだ8歳かそこら。欠伸をおさえるのがやっと、という豚に真珠の態。
それよりは、会の後半に登場し、尺貫法についての行政の横暴を平易なことばで面白おかしく語る永六輔に興味をいだいた。ときに素っ頓狂な高音の早口でまくしたてるこのオジサンは、いったい何なのだ? 私の問いに母は答えた。日本でいちばん有名な作詞家よ、と。私は作詞家という職業があることを知った。
江藤淳のサインを欲した母は、彼の著書『海舟余波』を手に、講演会を終えて市民会館を出てくる江藤を待った。だがすでに彼はそこを後にしたようだった。事態がつかめた母は落胆していたが、気をとり直して帰路に着くべくバス停へと向かった。
その道すがら、信号待ちで偶然にも永六輔を見つけた。するとどうしたことか、母は「サインをください!」と言うや『海舟余波』を差しだすではないか。幼い私にもそれが礼を失した行為だとわかる。母さん、それはエイさんではなくエトウさんの本でしょう!
永六輔ははっとした表情で「......この本に?」と訊きかえしたが、母に隠れるようにして自分を見あげている私に気づくと、やさしい表情を浮かべて「アナタも講演会に来てたの?」と頭を撫でた。けっきょく母の無礼を咎めることもなく『海舟余波』にサインをし、「じゃあまた」と笑って雑踏に消えた。
そのあと私たちはバスではなくタクシーに乗って家に帰ったのではなかったか。質素な生活をこのむ母にしては珍しいことだった。が、興奮していたのはむしろ私のほうで、それから数日のあいだはずっと永六輔のことばかり考えていた。アカデミズムの泰斗よりも大衆文化の巨人に心酔してしまった息子のことを、母はどんな目で見ていたのか。かつて江藤と永が「若い日本の会」の同人として、ともに60年安保に反対していたことを私が知るのはずいぶん後になってからである。その江藤淳も1999年に亡くなった。
2009年春、永六輔さんのTBSラジオ番組にゲスト出演した際にお話ししたのは、この時の思い出である。番組ホストの永さんとの初顔合わせ対談という企画で私は招かれたのだった。TBSの後援により半世紀の歴史をもつレコード大賞であるが、第1回受賞曲「黒い花びら」の作詞者は永さんであり、最新回となる第50回の受賞作家が私である。が、先に述べたように、これは実はふたりの初対面ではなかった。
私がスタジオに持参した『海舟余波』を手にとった永さんは、ご自身のサインをしばらく眺めておられた。そして私に母の名を訊くと、30余年前のサインのとなりに新たに書き添え、その日の日付を記された。いま『海舟余波』はふたたび実家の書棚に還っている。
ベネズエラにきて一年が過ぎました。
この一年は、初めての南米生活に加え、日本でも経験したことがない労働争議と大変な年でした。
MMC AUTOMOTRIZという従業員1800人を抱える自動車組立・販売会社の社長ということで、今回ベネズエラに赴任いたしました。この会社は商社である双日が93%のシェアを保有しており、一方自動車メーカーの資本参加が全くないという商社にしては型破りの事業会社で、三菱、現代、FUSOの車の組立生産をおこなっています。入社以来自動車畑を歩んできたとはいっても、あくまで商社での経験であり、製造現場というのは未知の体験です。しかもボリバリーノ社会主義革命を掲げるチャベス政権下にあって、労働問題は過激化する一方で、生産現場においては、サボタージュが横行し、不法なラインストップ、40%を超える欠勤率とこのままいけばこの国の製造業は全滅ともささやかれるほどのひどい状況です。この原因は、政治的な野心を持つ労働組合幹部と労働者の解雇を禁ずるチャベス政権の方針により労働者が何をやっても解雇されないという甘えがあります。笑い話のような話ですが、会社に酔っ払って来ても、部品を盗んだのを現行犯で発見されても解雇できないというのが現状です。
社長就任早々の1月には正規の手続きを踏まない労働者による工場乗っ取りで、約3か月間生産を止めざるを得ない事態となりました。しかも裁判所が不法な工場占拠という判断を下しているにもかかわらず、国民投票で1票でも票が欲しいチャベス政権では、労働者側に不法性を問わず、会社に譲歩を迫り問題解決を図ろうとしました。労働省の仲裁で工場を再開した後も労働組合は約束の生産を守らないどころか、サボタージュを先導して、また脅迫、暴力行為に及ぶなど目に余る行動が絶えず、結局会社として8月に工場を一時的にCLOSEすることを発表しました。
CLOSEを発表すると労働省は、その日のうちに今度は「不法な工場閉鎖」ということで会社側を非難しましたが、会社としてはベネズエラからの撤退も辞さない覚悟で政府との交渉に臨み、ようやく組合幹部の解雇および勤務態度の悪い労働者の解雇手続きを労働省として行うという言質をとったうえ、9月末に工場生産を再開しました。
現在のところ、約束通りの労働者の解雇が実行されるかまだ最終的な結果は出ておりませんが、少なくとも手続きは進んでおり、工場は平穏を取り戻し2年ぶりに会社側の計画した台数を日々生産しています。
今回の交渉は、日本からのさらなる投資を望むベネズエラ政府の日本に対する友好政策、および日本政府からの支援によるところは大きいものの、この数年ベネズエラの外国企業で実現できなかった労働者の解雇というところに一つの前例を作りつつあるということは大いに意味のあるものと考えています。
まだまだ駆け出しの社長ではありますが、ベネズエラという国で前例にとらわれず新しいことにチャレンジして、自動車生産を通じてこの国に貢献をしていきたいと思っています。
最後に、ベネズエラにはギアナ高地に広がる原生林、エンジェルフォール、カリブ海のビーチなどまだ日本にはよく知られてない観光名所もあります。これを機会にベネズエラという国にぜひ興味をもっていただければと思います。
修猷の熱い、熱い、長い夏だった。胸を熱くときめかせた夏だった。夏の甲子園出場をかけ、20年振りの県大会ベスト4(20年前の準決勝の相手は新庄剛志選手のいた西日本短大附)に躍進。全校応援3回。グラウンドの選手と全校応援のスタンドが一緒になった勝利の館歌が球場に轟くこと2回。誇らしかった。心が震えた。惜しくも甲子園初出場とはならなかったが、大濠や筑陽学園といった強豪校に堂々たる戦いを演じた修猷野球部の闘志溢れる勇姿は、修猷関係者のみならず多くの高校野球ファンを魅了した。
道のりは決して平坦ではなかった。秋の大会、春の大会と初戦で敗退し、公式戦未勝利のまま迎えた今大会。篠田悠主将(3)は「当初は昨年のチームのようには勝つことができなかった。しかし、一冬越えて確実に力をつけることができた。」と今大会に臨んだ。
一回戦の香住丘戦は4対3の逆転勝ち。二回戦の福翔戦は2対1の逆転サヨナラ勝ち。三回戦の九州産業戦は離されても、離されても、食らい付いた。2点先制された直後の1回裏に同点とし、一進一退の攻防が続いて延長戦。1点リードされ万事休すと思いきや、10回裏に2点を返し、2試合連続の逆転サヨナラ勝ち。
県大会初戦は、後にソフトバンクホークスがドラフト2位で指名する、最速144キロ、185センチの大型左腕の川原投手を擁する大濠戦。大濠打線の振りは鋭く、打球は速い。しかし、修猷の守備は鉄壁。8回表まで4対0と零封。8回裏の反撃を2点で抑え、9回裏の最後の打者を中飛で打ち取った瞬間、全校応援のスタンドは総立ちの大歓声。川原投手を打ち崩し、一度もリードを許さず、篠田主将が川原投手に完全に投げ勝った。吹奏楽部全員が駆けつけた全校応援でも大濠を圧倒した。
準々決勝の糸島戦は皆既日食の日。この試合からNHKテレビが放送。取られたら執念で取り返す、両校の魂が激突する壮絶な試合だった。先制、被逆転、逆転、被同点で迎えた9回裏、四球の走者を進め2死3塁。俊足の金子和弘選手(2)の3塁線の打球が1塁悪送球を誘い、今大会3回目のサヨナラ勝ち。この日は、学校で1時間の課外を受けての球場入り。流石は修猷健児。甲子園まであと2勝だ!
準決勝の筑陽学園戦の直前、全校応援のスタンドから「玄南の海」。「修猷健児今立ちぬ。颯爽の勇姿翻る。」の歌詞そのままの光景に感慨無量。3回裏の筑陽学園の攻撃。2死1、2塁から左前打。被先制の大ピンチ!吉野聡志選手(3)のレーザービーム本塁好返球を、上田啓祐選手(3)がダイレクト捕球、必死のブロックで本塁死守!最高のプレーに、球場が大きな拍手と大歓声に沸いた。4回裏に1点リードされた直後の5回表、2死1、2塁から村山智洸選手(2)の左中間2塁打で2対1と逆転。8回裏に同点とされ延長戦。10回裏2死1、2塁から篠田主将の165球目が左翼に抜けて行った。修猷の一つの夏の終焉だった。
今大会5勝は、1点差ゲーム4回、サヨナラ3回。死闘、激闘の連続。ミラクルかもしれない。しかし、それは不断の練習で培われた「実力」と「魂の力」の証(あかし)である。一戦ごとに力を付けていった。全校応援の中、県大会の晴れの大舞台で大活躍した野球部員の勇姿は立派だった。186センチの長身から丁寧に低目をつく変化球を武器に、走者を背負っても怯むことなく、冷静な投球を続けた篠田主将を、鉄壁の守備、ベンチとスタンドの野球部員、全校生徒、全世界からの修猷応援者の大声援が盛り上げた。眞鍋治彦さん(昭和46年卒)が中心となり、野球部OB会がAED(体外式自動除細動器)を寄附し、野球部員の健康と安全を支えた。
試合後、165球の熱投後も気丈に振舞っていた篠田主将が保護者の方を前に涙をこらえた。最後の力を振り絞って「甲子園に行きたかったけれど、ここまで来ることができたのも、秋の大会、春の大会と初戦で敗れたときに優しい言葉を頂いたからだと思います。」と感謝した。翌日、課外前に野球部員が各教室へ応援のお礼に回った。一年生はこの夏の感動を漢詩に歌った。
「高校球児」
我感動今夏 誰思夏最後
改欲甲子園 更上夏一層
「高校球児」
我は今夏に感動す。
誰か思はん夏の最後を。
改めて欲す甲子園。
更に上らん夏一層。
今大会の試合前、野球部員は修猷魂が宿る「修猷生、純愛の木」を前に必勝を誓った。篠田主将は「修猷が一度も行ったことのない甲子園に行って欲しい。」とその熱い修猷魂を後輩に託した。新チームを率いる村山新主将は「先輩たちが偉大な目標を作ってくれたので、甲子園目指して頑張ります。」と力強く宣言した。熱い修猷魂が次代に繋がれた。
(注)括弧内数字は学年を表す。
8月23日、第54回九州吹奏楽コンクールが福岡サンパレスで行われ、修猷館高校吹奏楽部の金賞受賞が決まった。各県の厳しい予選を勝ち抜いた26校が顔をそろえた今回の九州大会であったが、「今年こそ金賞を」との想いで苦しい練習を重ねてきただけに、75名の部員達、西嶋克豊先生をはじめ、関係者の喜びもひとしおであった。
平成18年秋、西嶋先生が顧問に就任された当時の吹奏楽部は、お世辞にもコンクールで入賞を狙える水準にはなかったそうである。しかしながら「吹奏楽部でもリーダーシップをとるべき修猷生を育てなければ!」との思いから、部員達に基礎の重要性を説き、苦手だった反復練習を繰り返すことで安定したスキルを身に付けさせる一方、他校との合同練習を組み、そのよい面を吸収させつつ競争心に火を点けるといった様々な工夫をこらすことで、部員達の気持ちを一つにまとめあげることに成功。地道な努力を積み重ねた結果、平成19年・20年と連続して九州大会銀賞という好成績をあげるに至ったのであった。
そして平成21年も、支部予選、県大会と順調に進み、九州大会での金賞受賞。しかし全国大会への切符はわずか3枚。残念ながら今回その栄冠を戴くことは出来なかったが、着実に実力をつけていることが証明された大会であった。
全国大会という夢に手が届くところまで来ていることを知った1・2年生部員達は、この悔しさをバネに、3年生が果たせなかった全国大会出場という新たな目標を目指し、今日も練習に励んでいる。
新聞部 | 第33回全国高等学校総合文化祭出場 優良賞 |
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ディベート部 | 2009年全国ディベート選手権 出場 |
陸上部 | 【男子・女子】 インターハイ・国体出場 |
サッカー部 | 【女子】 第64回国体女子サッカー 福岡県代表に選出 |
化学部 | 全国高校化学グランプリ2009 日本化学会九州支部 支部長賞 |
吹奏楽部 | 第54回 九州吹奏楽コンクール 九州大会 金賞 |
文体総合(囲碁) | 福岡県高等学校総合文化祭 3位 九州大会出場 |
その他 以下の部が県大会に出場し、好成績をあげました。
【文化部】 | コーラス部、E.S . S. 、書道部 |
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【運動部】 | ヨット部、弓道部、野球部、卓球部、柔道部、ソフトテニス部、バドミントン部、サッカー部 |
毎年5月、創立記念行事の一環として、また福岡での同窓会総会の際のイベントのひとつとして、卒業後30周年を迎える幹事学年が中心となり開催されるのが「進路別研究会」である。
平成12年、その年の福岡での同窓会総会の幹事学年であった昭和46年卒の方々の発案により始まった企画であり、各界で活躍する卒業生が講師となり、基調講演、ならびに30〜40の様々な分野に分かれて、90分程度の講義が行われる。
今年度は昭和55年卒の41名が、各々の高校生時代を振り返りつつ、卒業後のキャリア、仕事、人生について熱く語った。1年〜3年までの全校生徒1,200名は、自らが希望する講座を聴講することができ、第一線で活躍する先輩方から生の体験談を聞くことで、自らの将来についてより具体的に思い描く貴重なきっかけになったことであろう。そして講義を担当した先輩諸氏にとっても、現役生と触れ合うことで、若き日の新鮮な気持ちを思い出し、新たなパワーを貰うことが出来た有意義な時間を過ごしたとのことである。
「世のため人のため」という修猷魂を次代に繋ぐ行事として、これからも卒業生と在校生とが一緒になって、新たな伝統が継承されていくことを期待したい。
以下、今年度進路別研究会の講師として母校の教壇に立った卒業生から寄せられた感想と、昨年度の進路別研究会で講義を受けた生徒達の感想を雑誌『修猷』から抜粋して、それぞれ紹介する。
「レモン1個とイチゴ20個では、どちらの方がビタミンCが多いですか」「長く走るのと速く走るのとでは、どちらの方が難しいと思いますか」「今、100万円あったら、何に使いますか」「きのうの夜8時頃、あなたはどこで何をしていましたか?」
なんだかバカな質問のように思えるだろうか。これらは、私たち日本語教師が初級の日本語のクラスで、「学生にいかに多く発話させるか」と考えながら、日々繰り出している質問の一例である。大学で日本語を"教える"と言っても、留学生相手に講義をするわけではない。初級でも上級でも、90分の授業の間に、いかに学生たちに、聞く・話す・読む・書くという4技能を駆使して日本語を"使わせる"かが勝負である。ただし、教室活動をうまく組み立て、上手に流れを作っていくのは教師の役目だ。
私は今、東京外国語大学留学生日本語教育センターで、世界各国からの様々な留学生を対象に日本語教育を行っている。「あいうえお」からのクラスもあれば、現代文学を読んだりする超級レベルのクラスまである。大学院の日本語教育学コースでは修猷士論文、博士論文の指導も行い、未来の日本語教師の養成にも携わっている。共同研究プロジェクトで教科書作成や学習者の作文データベースの構築などを進めつつ、一方で自分の研究テーマの論文を書き、忙しい毎日である。しかし、これらのことが、私にはおそらく楽しくてしようがない。その根底にあるものは何だろうか?
今年度、同窓会幹事学年として、母校修猷館高校の進路別研究会で講師の一人を務めさせていただいた。そこで話すことができたのも、おそらくこの一点に尽きるだろう。私は「言葉」と関わることが好きなのだ。そして、何かを"追究"したい気持ちがいつも根底にある。目をきらきらと輝かせ、話に聞き入る現役修猷生の顔を見ていると、運動会で真っ黒になって駆け回っていた30年前の自分が重なって見えた。「言葉」をきっかけに世界中の人々と出会える仕事が待っていることを、あの日の私も、きっとどこかで予感していたに違いない。 鈴木 智美(昭和55年卒)
私は、医学部の人が卒業したあとの進路が以前から気になっていた。今回の進路別研究会では、それを経験した人にしか分からない視点で教えていただくことができた。
日本とアメリカの医療費の違いや、平均寿命の高さなどを見て、日本の医学のレベルの高さを知るとともに、医師不足などの問題点も存在する日本の医療の状況も知ることができて、とてもよかった。
また、先生が医師という仕事を続けている理由として、「生死に関わる事柄で感謝してもらえる」とおっしゃったことが心に残っている。
人から感謝されるということはやはり素晴らしいと思うし、先生もそのことの大切さを伝えるために、一番目に挙げられたのではないかと思う。
私は医師を目指している。実は先生のおっしゃった医師を続ける理由は、私が医師になりたいと考える最も大きな理由の一つである。この講義は、今後の私の人生に大きく関わってくるものだろうと感じた。これからしっかりと勉強をして、人の命を救うことに喜びを感じることができるような医師になりたい。(1年男子)
今回の建築についての講義を受けるまでは、私は建築の仕事はそれほど人脈が広がるものではないと思っていた。しかし講師の方のお話を聞くと、地域の人、更には建物が建つことで影響が出てくる人達とのつながりも深まるのだということが分かった。
この仕事では相手に自分の考えを伝えなければならないため、建築の能力と同じくらい、プレゼンテーション能力やコミュニケーション能力が必要とされていることも初めて意識した。
また、中国の建築との違いを見つめることで、自分がいかに自らの価値観を信じきっているかを痛感することができた。そのため、海外に出ようと考えている私にはとても有意義な講義だった。
建築の仕事を通して学ぶ重心主義、現場主義、共感能力、臨機応変な対応などは、建築という分野に限られたものではない。これからの日常生活、特に運動会に向けてこういったことを念頭に置きながら、目標に向かって一歩一歩進んでいこうと思う。(3年女子)
講義の中で話された「この世の中は物語によって構成されている」という考え方に私はこれまでの人生で初めて出会い、それと同時に大きな衝撃を受けた。
浦島太郎の物語の真実や、どのように伝えようかという気持ち次第で簡単に変化してしまう物語を目の当たりにして、とても面白いと思った。そして、そんな物語に満ちた世界で生きていく上では、物語との距離のとり方が最も難しく、最も重要であるということを痛感した。
今回の先生の講義は、私の人生観を変えたと言っても過言ではない。私は物語を読むことが好きなので、これからも物語とともに生きていき、距離のとり方を模索していきたい。(2年女子)
東京修猷会の皆様、明けましておめでとうございます。
昭和36年卒の我々は、早67〜68歳になる歳であることを認識はしていますが、我々が高校生の頃抱いた老人のイメージと違い、東京修猷36会有志一同、元気に第二の人生を楽しんでおります。
東京修猷36会は毎月一回集まって酒を交えて、友好を深めています。奥様同伴の同窓会として「歩こう会」をつくり、2ヶ月に1回、最近は少しペースが落ちましたが、都内の名所めぐり、郊外の自然散策をやっております。大体1日10kmは歩いております。
この歩こう会の有志が企画して、エジプト・ピラミッド調査旅行、中国大連・北京旅行、ペルー・インカ遺跡調査旅行を実施しました。毎回20人前後の参加者があります。今年は、トルコや中近東の世界遺産旅行を計画中です。
ゴルフは九州修猷36会と年に1〜2回対抗戦をやっております。又情報化の波を先取りして「バーチャル同窓会」のサイトを作り、36年卒の全国ネットで、知的な情報交換や重要テーマの議論、問題解決の専門的アドバイス、等で大いに盛り上がっております。
我々の同窓会のモットーは「とにかくオーマンにやろう!」であります。「オーマン」の定義は何か?と問われると、「うーん、それもオーマンに考えよう」という回答が我々の合意された考えです。お互いを認め合えば、多少の同窓生間の問題は「修猷館はいいね」で解決するようです。
それから、不思議なことに「困っている人を助けよう」という助け合いの「心」が全員にあり、一人の同窓生の困っている問題に関し、各自の経験や専門的知識を提供しております。
この心は禅の教えで「和光同塵」というのがあります。分かりやすくいうと、困っている人には、その困っている人の目線に立って無心で手を差し伸べるという意味だそうです。我々東京修猷36会はみんな、不思議なことに「和光同塵」なのです。
最後に新年が東京修猷会一同様にとって良い年でありますように、心よりお祈り申し上げます。神崎 修(昭和36年卒)
3月14日福岡県人会青壮年会主催「桜花見会」に便乗しLA修猷会同窓会を開催。からしめんたい、バーベキュー、焼きそば、いなりずし、きんぴらごぼうなどなど、とても美味しかったです。新メンバーも参加され楽しい同窓会となりました。賞金を掛けたじゃんけんゲームや桜も楽しみました。
アメリカは車社会です。公共の電車、地下鉄、バス路線はありますが8割は自家用車通勤。広大なため全地域を公共交通機関で網羅できない、夜間や週末の本数が少ない、夜間の治安が不安です。運転免許取得と車購入は必須です。
その週末はWBC野球試合がサンディエゴで開催されました。メジャー野球、フットボール、バスケットボール観戦ができるのもアメリカ生活の醍醐味です。
参加者:西山薫、松井美詠子、宮原ゆかり、和田佳織、池田紀子、河野友見、樺島那央、蓑原ちずる(詳細、http://lashuyu.blogspot.com/2009/10/20093.html)
樫山(宮原) ゆかり(昭和57年卒)
10月始めの前期終業式で、昭和57年度雑誌「修猷」に掲載された小柳陽太郎先生の「『修猷』は生きている」を紹介した。
〜昭和57年9月21日午後四時、日影はやや西に傾いてはいたが、すみわたった秋空を背景に国歌の演奏とともに、ポールの頂きにかかげられた日の丸の旗が静かに降りていった。〜
〜伝統を守るというのは、自在なる生き方を支える「活力」を守り伝えることであり、その活力の源泉は学園全体に漲る相互の信頼感、さらには創立以来の先輩たちも含めて、そこに生まれる一体感の中にある。その一体感を内心深く味わうこと、それ以外に、修猷の生きてゆく道はない。〜
私は、この文章を何度も読み返し、小柳先生の想いを胸に抱いて今年の運動会を見つめた。8時ジャストに入場の掛け声、11時1分に午前の部終了、12時1分に午後の競技が始まり、騎馬戦で予想外の大将戦が行われるも、それが想定内であるかの如く3時36分プログラムの予定時刻どおりに閉会式が始まった。それは小柳先生が述べられている修猷をして修猷たらしめているもの、信頼であり、一体感であった。30年近く経っても変わらないものがここにはあるという強い誇りで胸が一杯となった。
20分近い長い式辞となった。期末試験を終えた直後ではあったが、全校生徒が耳をそばだて、食い入るように前を見つめていた。想いは通じた。
3年前、文化講演会でJT生命誌研究館の中村桂子館長にご講演をいただいた。先生は「どんな小さなものにも必ず38億年という歴史がある。古木のような対象の中に存在する時間も意味を持っている。生き物は何が作ってきたのかというと、38億年の時間がつくったと言える。」と語られた。
『修猷』とは何か......それは、創立以来の226年という歴史そのものであろうし、その歴史が紡いだもの、紡ぎ続けているものがこの「生命体としての修猷」であろう。
まさに「修猷は生きている!」それも、強(したた)かに生き続けている!
「土曜の午後に、文化・芸術に接しながら同窓生の輪を広げよう」との趣旨から生まれた「サロン・ド・修猷」も3回目を迎えた。今回は現役のプロ歌手である森田澄夫氏(テノール・昭和41年卒)と小野山幸夏氏(メゾソプラノ・昭和53年卒)によるコンサート。参加者は30歳代からなんと90歳代まで幅広く総勢83名。
第1部は小野山氏出演。スペインの粋な小唄はじめ、チャップリンの映画に使われた歌などで会場は華やかに彩られた。ちなみにピアノ伴奏は岩城美智子氏(昭和59年卒)。これまでも小野山氏ほか多くの声楽家や器楽奏者と共演されている。
第2部は森田氏出演。家族の絆をテーマに、息子の母への慕情、父の娘への慈しみ、そして夫婦の絆などドラマチックに熱唱され、会場は深い感動に包まれた。ピアノ伴奏は宮崎滋氏。ピアニストとしてだけでなく作曲家としてもご活躍中である。
第3部は森田、小野山両氏が出演。会場への挨拶を交えながらフランクな雰囲気の中で進行した。途中「百道浜」「玄界灘」といった福岡の地名が、お二人の演出により替え歌で盛り込まれると、遠い故郷そして修猷生時代が懐かしく思い出された。最後は全員で「ふるさと」を合唱しお開きとなった。
後日、小野山氏から「皆様が笑顔で帰られるのを見送りながら、少し幸せな気持ちになっていただけたかな、と嬉しくなった」とのご感想をお寄せいただいた。そのとき「芸術は人を幸せにするものである」という、ある彫刻家の言葉を思い出した。そんな"芸術"を基調とした「サロン・ド・修猷」が、今後同窓生の大きな楽しみとなり、また同窓生の絆を強めるイベントとなるよう願ってやまない。小林 大輔(昭和57年卒)
秋の修猷二木会ゴルフコンペを実施しましたのでご報告します。
10月4日(日)神奈川県相模原市津久井町の長竹カントリークラブに老若男女の37名が集まり10組に分かれゴルフの腕前を競い合いました。
前週までの長雨も止み翌週からは台風接近という天候状況の中、当日は曇りのち晴れ、風もほとんど無い最高のコンディションに恵まれ、70台が3名 80台が7名も出る大激戦でした。ダブルペリア方式でHCを集計した結果、優勝 芦原直哉さん(昭和45年卒)NET70・8、準優勝 松尾隆広さん(昭和54年卒)GROSS79 HC7・2、ベスグロ 鹿児島正信さん(昭和46年卒)GROSS77 HC4・8、女子ベスグロ は107で伊藤洋子さん(昭和35年卒)と前原豊美さん(昭和56年卒)が同点でした。今回の参加者のうち初出場は14名、女子が5名含まれており、皆さん大健闘されました。お昼のランチではあちらこちらで世代を超えて新しい館友の輪が生まれ、親睦を深めることができました。
今回も多くの皆様から多数の賞品の提供を頂きました。また急用で残念ながら参加できませんでした岡本泰仁先輩(昭和28年卒)、箱島信一会長(昭和31年卒)、西村英俊先輩(昭和36年卒)からも貴重な賞品をお送り頂きました。あらためて御礼申し上げます。
お陰さまで一人のケガ人もなく無事クラブハウスへ戻って来られ、表彰式とその後の懇親会は多いに盛り上がる事ができました。卒年の差三十数年あるもののこの時ばかりは全員が十代の高校時代へタイムスリップしているようでした。
次回、春の大会は2010年4月18日(日)、会場は千葉県方面で検討中。2月にはホームページ等でご案内致します。二木会コンペではアスリート系の方、ファッションや道具にこだわる方、旧友との再会を楽しむ方と皆さん様々です。ゴルフを愛する方なら参加資格ありですので、多数の参加をお待ちしております。
二木会ゴルフ幹事 端野 智幸(昭和58年卒)
第553回 |
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第554回 |
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第555回 |
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第556回 |
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第557回 |
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第558回 |
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第560回 |
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第561回 |
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講演内容は、下記HPにアップしています。
東京修猷会 二木会 http://shuyu.gr.jp/tky/nimoku/
2008年11月1日から2009年10月31日までに167名の皆様から寄付金が納入されています。ありがとうございました。お礼の意味を込めてお名前を掲載させていただきます。(敬称略・卒年別)
また、年会費の納入をまだ済まされていない方は、同封の郵便振替用紙にて早速ご送金くださるようお願い申し上げます。(一口3000円)。3000円を超えた額は寄付扱いとします。
00170-6-172892 東京修猷会事務局
福岡同窓会本部、中嶋利昭(館長)、新谷尚子(恩師)、(昭9)冨田明徳、(昭11)橋本胖、(昭12)鎌田正行、宮川一二、(昭15)明石隆次、高川正通、(昭17)林健児、(昭18)山手愼吾、(昭19)早野俊一、中島睦月、田尻重彦、毛利昂志、(昭20(4))田中庸夫、野上三男、(昭20(5))ジャニイ岩橋、尾島成美、井上晋、(昭21)稗田孝道、(昭22)伊藤輝夫、小池啓雄、増崎昭夫、木下洋一、濱田理、南雲進、有吉繁樹、(昭23)荒谷俊治、大西勇、白木彬雄、林圭之助、柳泰行、(昭24)安藏復也、(昭25)山本義治、松岡肇、(昭26)小西正利、太田進、大平修、中村道生、中村勉、藤吉敏生、廣瀬貞雄、渕上貫之、(昭27)吉田耕、金田久仁彦、甲木千枝、飯田英子、福田純也、(昭29)高木道子、斉藤弘子、村越登、長野倬士、(昭30)遠山壽一、喜多村寿信、久保久、原田雅弘、青柳昭幸、堤正、田中栄次郎、(昭31)阿部浩、伊達直哉、丸山嘉宏、近藤徹、溝部信介、高崎洋一、城戸弘、石井英明、石橋明、村田和夫、中村保夫、箱島信一、阿部公明、(昭32)井上智晴、鳥居健太、島上清明、平野煕幸、野間正己、林克己、國分英臣、(昭33)河野理、寺澤美和子、松永貴子、大西正俊、武石忠彦、米倉實、(昭34)加藤泰、岩田龍一郎、行武賢一、讃井邦夫、服部富美子、(昭35)伊藤洋子、羽立教江、可児晋、江川清、中川勝弘、中村清次、(昭36)安藤誠四郎、宇山博藤、吉次晃二、光安哲夫、山本博、西村英俊、倉成洋三、中島成之、添田栄一、田中直樹、土井高夫、石田洵一、(昭37)大須賀頼彦、(昭38)池永慶章、渡辺紀大、(昭39)貝島資邦、久保田康史、橋野紘樹、松本睦彦、清田瞭、(昭40)森秀則、泉和雄、棚町精子、長谷川閑史、由良範泰、(昭41)吉武和則、桑原昭二、高尾義行、三上博民、南洋、淀川和也、林田健、(昭42)溝上雅史、(昭43)伊藤裕介、伊豆安生、宮地徳文、広瀬豊、山田久男、(昭44)甲畑眞知子、(昭45)本田由紀子、(昭46)鹿児島正信、(昭47)塚本幸一、(昭49)井手富士雄、橋村秀喜、古森光一郎、(昭50)古賀隆太郎、秀島健一、野中哲昌、(昭51)安東泰隆、加藤純一、油田哲、(昭52)古賀敏文、江藤和実、寺岡隆宏、田代桂子、(昭53)廣西一夫、上薗勉、西村健志郎、(昭54)安河内信之、中原誠也、(昭56)岩崎早苗、(昭57)光宗信吉、(昭58)伊藤盛明、井手慶祐、齋藤百合子、小川耕太郎、(昭59)瓦林晃、服部豊、(昭60)朱雀誉史、(平16)辻岡昌浩
(二木会は6、8月を除く毎月第2木曜日(※2月は第二水曜日)6時から食事、7時から講演
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今年の二木会は「修猷魂を次代に、そして世界に繋ぐ」を年間テーマに、各界でご活躍の修猷卒業生から、その分野の最新状況をお聞きします。奮ってご参加下さい。
あけましておめでとうございます。
昨年は世界中が揺れ動いた一年でした。そのような社会状況にあって、我が東京修猷会は、全ての行事を通して修猷OBOGの不動の底力を見せてくれました。
慣例の二木会、土曜日開催の「Salon de 修猷」では、幅広い分野にわたり国内外で活躍の方々がご多忙にもかかわらず、館友の為ならばと講師をお引き受けくださり、充実した会を開くことができました。6月の総会は、近年増加の参加状況に対応しての会場変更、新型インフルエンザの流行報道、あいにくの空模様でしたが、予想を遥かに超える参加をいただき、盛会に行うことが出来ました。ここに改めて皆様のご協力にこころより感謝申し上げます。
さて、昨年の執行部の取り組みについてご報告いたします。
一つは、十年ほど前に総会担当の幹事学年の方々が立ち上げてくれましたホームページを、より利用しやすいようにと改訂をいたしました。トップページには中嶋館長ご提供により、高校の四季折々の写真を載せております。また、総会開催に際しては、参加人数増加による経費増の対処として、先輩方のご支援を得て、参加費の一部改定を行わせていただきました。
大きな取り組みとして、近年の行事担当幹事学年からの問題提起や、社会的な諸状況を鑑み、今後の東京修猷会全体の安定した運営方法の策定をめざし、抜本的な見直しを行うプロジェクトを昨年9月に立ち上げました。秋期常任幹事会では、総会および二木会の運営に関する執行部素案について幅広い年代の方々から、率直な思いや建設的なご提案・ご意見を伺うことができました。貴重なご意見を基に、執行部で更なる検討を重ね、3月の春期常任幹事会で合意を戴く方向で準備を進めております。皆様には6月の総会で最終的にご報告いたします。世の中の大きな変革の中で、これらの事に真剣に取り組めましたのは、館友の皆様の伝統ある東京修猷会への誇りと、副幹事長の皆様の献身的な働きがあればこそと痛感しております。
毎回「二木会」後、居酒屋「九州」で開かれる2次会では、世代を超え、学生も社会人も一同窓生となり親睦の輪が広がっています。
執行部一同一丸となって、明るく、おおらかな修猷会の運営を今年もめざします。
幹事長 甲畑 眞知子(昭和44年卒)