第537回二木会


<日時>        H19712日(木) <場所>学士会館

<参加人数>  78

<テーマ>      『ニッポンの達人たち〜私がお会いした素敵な人々〜』

<講師>        作家 清水 久美子(S43年卒)

<運営/進行>  S.55年卒(GOGO会)間中紳介

<内容>

○講師紹介(司会及びS43年卒/高畠太郎氏)

◇昭和43年修猷館卒。在学中は、一般社会研究部から文芸部へ。

東京女子大社会学科に進学。

◇卒業後、広告代理店勤務(1年)、女性週刊誌記者(ヤングレディ)記者を経てフリーに。

◇最近は人物インタビューを中心に執筆活動を行う。

◇主な著書に「君のためならがんばれる」(日本文芸社)、「夢がかなう日」(偕成社)、

 「私は総合職の女」(講談社)など。(「夢がかなう日」は多くの地域の小・中学校で

2002年の推薦図書の指定を受ける。

◇絵本の創作にも取り組まれ、「大輝くんのくじら」(講談社)、「しょうちゃんの夢のバス」、「和也くんの雪だるま」、「たまみちゃんの青い海」(以上騒人社)等の作品を出版。騒人社の絵本は、多くの小学校で、「命の授業」の教材として取り上げられる。

 (司会)

◇修猷在籍時、同期550人のうち、女生徒の比率は1割程度。マイナーなはずが、いつも中心的存在で、同期の「マドンナ」のひとり。卒業アルバムの「凛々しい顔立ち」が印象的。

◇「市井に埋もれてはいるが、宝石みたいな人の語り部になりたい」と。

 この思いが、彼女を支えるバックボーンになっていると思う。

◇「もの書き」の仕事を20台前半から続けているエネルギーはものすごいと感じるが、

 そのエネルギーが小さな体のどこにあるのか、どこから湧き上がってくるのか、その秘密が解き明かされると思うと、とても楽しみ。(高畠氏)

 

 


清水講師 会場風景

○講演

     講演の依頼がきて、「ダメな私」とか「ドジな私」といったエピソードであれば、いくらでも話ができると思ったが、今年の二木会は、「ニッポンの今」という通しタイトルで運営している旨を幹事学年から説明を受け、「苦肉の策」で、これまで出会った達人達の話をすることにした。 

 

     自分が物を書き始めたころは、仕事を聞かれて、「ライター」と言えば、百円ライターの行商人と間違われる時代。カメラマンと一緒に出張にゆけば、「ご夫婦でお仕事、いいですね」といわれ、困惑するような頃であった。

     大学を卒業して、新橋の広告代理店に就職したが、社長秘書兼受付兼庶務係兼 といった「なんでも屋」であったが、あまり仕事はなくヒマだった。

     この会社の社長は、英語もできないのに海外向けに英語の広告を作る仕事をするほどの「スゴ腕」で、銀座のバーにもよく連れて行ってもらった。

     その社長は「何かを学ぼうと思ったら、一流にアタックしろ」と教えてくれた。よいことを教わったと思っていたら、会社は不渡りを出し、その社長は雲隠れしてしまった。人間はまか不思議で、分からないと思った。

     実は、会社がつぶれる前に既に辞める手続きをとっており、女性週刊誌のライターの仕事が決まっていた。広告代理店とは全くの別世界。例えば、水曜日に取材の打ちあわせをして、月曜日に原稿締め切りとなるようなすさまじいシステム。その間に取材のアポ取り、取材、データ原稿書きをしなければならない。何人分かのデータ原稿を1本の記事にまとめるのは、「アンカー」と呼ばれる書き手で、それを一晩で書き上げる。締め切り間際には、大きな机にライターが居並んで懸命に原稿を書くといった世界だった。

     当時も失敗の連続だった。取材にゆく、著名人の顔がわからない、階段から落ちる等など、あげればきりがないほど。

 

     弁護士の円山雅也氏にインタビューした時のこと。とにかく忙しくて、全く下調べをせずにインタビューに臨んだら、途中から表情が険しくなり、「君は僕の本を一冊も読んでいないな。それは失礼ではないか。僕は君に法律を一から教えるつもりはない。帰れ!」と怒鳴られた。パニックになったが、その日が締め切りなので、おずおずと「帰れません!」と。「帰れ!」「帰りません!」の押し問答となった。結局、円山さんが折れてくださって、「仕方ない、時々君のような強情な人がいるのだ」といって、応じて頂けた。「取材には下調べが必須」を教わった訳で、円山氏は恩人だと感謝している。

 

     当時はまだフリーのライターではなく、事務所に所属していた。その事務所のトップが現在「日刊ゲンダイ」の広告局長の並木昭さん。とにかく仕事好きで、23日徹夜しても、活き活きして、うれしそうにしている。「この事務所では、本音で語り合いたい。思っていることがあったら、何でも言ってほしい」といつも皆に話すが、誰も彼の前では意見を述べない。で、「実は・・・・」と切り出したら、「10年早い!」とさんざん怒鳴られ悔しい思いをした。が、いまでも、いろいろとお世話になっている。

     ナンバー2は、浅草のロック座でコント演じたり、脚本を書いていたこともある齊田政則さんだった。筆は立つ気の良い方だが、あわてもので、受話器を逆さにもって、「この電話、壊れている!」。私も同じようなミスをするので、親近感を抱いていた。彼には武勇伝がある。締め切りを終えた夜には新宿に繰り出して、深夜23時まで飲むのが恒例だった。齊田さんは反骨の人で、酔ってくると国家権力に対する怒りが高まり、交番に行って挑発行為をとることしばし。翌日、誰かが引き取りに行くことはめになるので、監視役が必要だった。その任を命じられたのが、飲めない菊地秀行さん(「新宿魔界都市」などの著作がある流行作家)。誠実でまっとうな人で、今でも何かコメントがほしい時など快く応じてくれる。

     女性週刊誌の仕事は1年で辞めた。「産婦人科医100人に聞きました」シリーズなど興味本位の仕事もあり、さすがにやっていられなかった。

 

     その後、月刊誌に移った。それだけでは食べていけないだろうと、紹介してくださる方があり、下重暁子さん(元NHKのアナウンサーで、エッセイストとして活躍)のアシスタントとなった。下重さんには、公私共にお世話になった。知的な方だが、実はそそっかしいところがある。「地方に仕事に出かけたとき考え事をしていて、目的地に着いた時、荷物をみんな忘れてきた」といったエピソードもあるくらい。

     下重さんには持論がある。「やりたいこと、こうしたいと思うことがあれば、ずっと持ち続けなさい。持ちつづければ、必ずチャンスがある」と。「持ちつづけるだけなら簡単なこと」と思ったが、実はこれがものすごくエネルギーが必要なことがわかった。持ち続けていれば努力もするが、自分の才能に絶望したり、いらだったりもする。あきらめる方が簡単かもしれない。自分が本を書くことができたのも、自分の思いを持ち続けたおかげだと、下重さんに感謝している。

 

     料理とファッション以外の実用記事はだいたい手がけてきたことから、その中で色々な方と会う機会を得た。

     例えば、芸能レポーターの梨元勝氏。話術に長けた方なので、「上手になるコツはあるのか?」とたずねたら、「タクシーに乗ったら、運転手さんに話し掛けて、何か一言引き出すことを心掛けていた」と。昔は東京のタクシーの運転手さんは、無愛想な人が多かった。エジソンは「天才は99%の努力と1%のひらめき」といったが、(梨元氏も)やはり努力をされていた。

 

     奈良林祥さんとも一緒に仕事をさせて頂いた。奈良林さんは、「HOW TO SEX」という本を出版し、いろいろと物議をかもしながらも、250万部のベストセラーとなった。20数年前のことになるが、主婦の友社で電話相談が実施されており、奈良林さんは回答者、自分がその助手をやった。助手の仕事は読者からの電話を受け、プロフィールを聞いて、奈良林さんに渡し、答えてもらうというもの。イタズラ電話もあったが、困っている私に代わって応対して下さるなど、とてもやさしい方だった。相談者相手に親身になって話され、身勝手な男性に対しては激昂することもしばしばで、熱い方であった。

 

ある時、奈良林さんは、「僕は養子なんです」と話をされたことがあった。実の父親が、外の女性との間で子供をもうけ、子供のない親戚のうちに養子として引き取られたとのこと。後に自分を産んだ母親を探したが、すでにひっそりと亡くなっておられた。常に弱いものの味方となられた背景には、お母様への想いがあったように思う。女優の赤木春恵さんのファンで、お花をもってよくお芝居を見に行ってらっしゃった。世の中の偏見と闘った方で、もっと評価されてよい人だと思っている。

 

     作家の方にもインタビューをしたので、その中から思いつくまま何人か話してみたい。

 

     フェミニストの上野千鶴子さん。ニュースキャスターの女性がインタビュアーで、自分は編集の業務をするはずだったが、彼女が遅刻して間に合わなかったことから、急遽代わりを務めることとなった。緊張している私に上野さんは「あなたはどう思うの?」と答えを返されるので、リラックスできてとても楽しい時間を持つことができた。

 

     吉村昭さんには、ご自宅に伺ってインタビューした。作家の人は締め切りを守らない方が結構いらっしゃるが、吉村さんは、「僕は締め切りを守ります」とキッパリ。締め切り1ケ月前に原稿を送ったこともあるそうで、編集部がうっかり締め切り前に督促の電話をかけてきたとのこと。飲みに行ったときに、土建屋さんに間違えられたこともあるそうで、「水道が壊れているので修理して」と言われて困ったというエピソードも聞いた。取材のとき、慌ててかばんをひっくり返してしまったが、後日、吉村さんから封筒が届き、「お忘れではありませんか?」と私の口紅が入っていた。「粋な方」だと思った。亡くなられたのはほんとうに残念だが、吉村さんらしい最期だったと思う。(注:2006731日すい臓ガンのため死去。無用な治療を拒み、自ら点滴の管とカテーテルポートを引き抜き、死を選んだ。)「サムライ」だったと思う。

 

     元警視総監の国松孝次氏(注:1995年に自宅前で狙撃され、重傷を負う)は、退官後スイス大使を務められ、その経験を「スイス探訪:したたかなスイス人のしなやかな生き方」という本にまとめられている。著者インタビューしたときに、「生きていて下さってほんとうに良かったです。嬉しいです」と伝えたら、「現役の警察トップが撃たれて、恥ずかしいことなんですが」と照れていらっしゃって、良い方だなと思った。楽しく話を聞くことができた。酒豪になられた一因は、支局に転勤すると「腹を割って話ができるように」周囲と酒を飲んできたことも預かっているとか。(撃たれて)入院していた時、届いたお見舞いは圧倒的に酒だったと聞いて、人柄を感じた。剣道3段の腕前。きき足に銃弾を受けたので後遺症で試合はできなくなったが、スイスにある剣道連盟(スイス人愛好者が200人ほどいる)に、「日本大使杯」を進呈してきたそうだ。

 

     作家というとお酒が好きというイメージがあるが、お酒がダメな方も多い。 「あかね空」など時代小説の作家・山本一力氏や浅田次郎氏がそのタイプ。浅田さんは話の達人である。最近は「泣き」の小説が多いが、「プリズンホテル」など、抱腹絶倒の小説も多い。浅田さん曰く「『泣き』は、経験。『笑い』は天分」。そして「僕は暗い文学少年ではなかった」と聞いた。

 

     山本夏彦氏のエッセイが大好きだ。一刀両断の語り口で、ご本人もさぞ厳しい人だろうと思ったら、にこやかで、温厚、そして色っぽい。「一目惚れ」してしまった。「山本さんが素敵」と養老孟司氏に言ったら、「自分も好きですが、あんな風に年をとるのは、女性には難しいでしょう」といわれた。

 

     ところが、倉橋由美子さんにお会いして、女性にも山本さんのような素敵な年の取り方をしている人がいることがわかった。倉橋さんも溜飲の下がる核心をついたエッセイを書く方である。お会いする前は、きっと怖い人だとドキドキしていた。新宿の喫茶店でお会いしたが、優しく、穏やかで、話し好き。送った原稿をチェックしたという電話を編集部に頂いたが、「この前はいろいろ聞かれたから、今度は私が聞いていいかしら?」と、プライベートなことも聞かれて、周囲の目もあり、うろたえて、しどろもどろになった。

 

インタビューの時にモノクロの写真を撮ったが、「自分の葬儀用にしたいので、送ってくれないか」と頼まれた。カメラマンが引き伸ばした写真を届けてくれたが、迫力がありすぎてなんだか不吉な印象を持ったので、代わりに手乗り大サイズの写真を数枚お送りした。倉橋さんからお礼の電話があったが、「ほしいのは葬儀用なんだけど」と言われ、仕方なくお送りした。このことがご縁となって、ときどき電話を頂くようになった。

 

倉橋さんは「私に物を書かせるのは『怒り』ではなかったか」とエッセイに書いていらっしゃるほどで、いつも何かに憤っておられた。ひとつの怒りが次の怒りを呼ぶという具合で、その怒りはエンドレス。私も何かに対して常に怒っている方なので、話は尽きなかった。ただ私は「かっかと怒る」が、倉橋さんは「穏やかに怒る」。見習わなければと思った。

 

倉橋さんの話があまりに面白いので、中高年向けの雑誌(「ゆうゆう」主婦の友社)で倉橋さんのインタビューの連載を始めた。心臓がお悪く、スタートして2回目のとき、かなり体調が悪く心配した。ところが「私には(残された)時間がありませんから」と、最後まで付き合って下さった。3回目の取材の直前に訃報が届いた。切なくて、いつものように待ち合わせ場所に向かい、来るはずのない人を待った。お送りした写真は、葬儀で使われていた。

 

倉橋さんは、「いまの日本には精神がない。精神をもっと鍛なければならない」と憂いていらっしゃった。精神は襟を正して生きないと身に付かない。倉橋さんの人生を貫いていたのは、強靭でしなやかな精神ではなかったかと思う。

 

     色々な達人にお会いして、何が「達人」なのか、共通項を探してみた。「信念を持っている人」「くじけず、あきらめない人」「自然体で、しかも上品な人」。そして「温かみ」も必要十分条件であると思う。

 

     忘れてはならない「達人」がいる。病気と闘っている子どもたちだ。彼らは、本当に我慢強く、勇気がある。「メイク ア ウイッシュ」という、病気の子供たちの夢をかなえるボランティア組織で、夢をかなえた子どもの絵本や本をつくったが、その仕事を通じて何人かの子どもたちに会った。

 

     「ガラパゴス諸島に行く」夢をかなえた白血病の亜生ちゃんは、名古屋の高校年。2回目の取材で名古屋駅についたときに、その朝、亡くなったとの知らせを受けた。「雪だるまを作りたい」夢をかなえた博多の少年にも会った。「和也くんの雪だるま」という絵本にしたが、ガンが再発し、絵本の完成前に急逝した。

 

     出雲商業高校のサッカー部の副キャプテンの佐々木諒平くんは、2年生の地区予選の前々日に悪性脳腫瘍と診断された。何度も手術を受け、つらい闘病生活を送ったが、決して弱音を吐かず、愚痴も言わなかった。サッカー部の仲間は「諒平11番」という白いテープを腕に巻いて、彼のために地区予選を勝ち抜いて行った。このことを「君のためならがんばれる」という本にした。

 

これは、男の友情物語である。それを何故女性の私が書けたかを考えると、修猷館で過ごしたことが影響していると思う。修猷では周囲は男ばかりで、男の友情を肌で感じることができた。黙っていても感じる男同士の心意気、あの運動会の熱気を知っていたから書けたのだと思う。今回、そのことに気づいて、この場(二木会)で報告できるのは嬉しいこと。「友の憂いに我も泣く」といった思いは、自分の学年にも確かに残っていた。

 

     「がんばらない」を書いた鎌田實医師に、「ガンと闘っていてもすばらしい時間を過ごす患者さんに、共通していることは何か」と質問したことがある。「希望を持っていること、日常のささやかな営みを大切にすること」と言われた。電子レンジでチンするご飯から人は元気を得られない、「ご飯の炊き上がるにおいに元気を与えられる」と。IT化が進み、合理化が進行し、世の中がどんどん便利になっていくが、ひ弱な人間ばかりができるのではないかと心配になる。

 

     ノンフィクションを書くことは、つらく、厳しい仕事だが、市井に生きる人の埋もれたうつくしい物語を書いてゆきたい。夢と希望の物語は、悲しみと苦しみの物語である。悲しみや苦しみがないところに、夢と希望の物語は生まれない。悲しみや苦しみの物語こそが、夢と希望の物語になりうる。そのことを信じてこれからも生きてゆきたい。

 

〇質疑応答

Q:「君のためならがんばれる」を読んだが、どこから情報を得るのか(取材のきっかけは?)

A:「君のためなら.」の場合は、以前「しょうちゃんの夢のバス」という絵本を書いたが、しょうちゃん(主人公)のお兄さんが諒平くん(「君のためなら・・・」の主人公)だった。ご両親から、依頼を受けて、取材をした。

Q:病気の少年少女の取材が多いように思われるが?

A:「メイク ア ウイッシュ」という運動に共感するところがあって、何冊かの本を書いた。病気の子供ばかりを取材の対象にしているわけではないが、その中にはドラマがあることも事実。

Q:今後書きたいテーマは?

A:これまで温めているテーマを公の場で口にすると、いつも実現しないので、発言を差し控えたい。「言わぬが華」です。

 

〇交流会(お題「思い出の旅、お薦めの名所、旧跡」)

 中原氏(S54):20歳のころ、夏休みを利用していったメキシコの旅

 藤本氏(S32):八王子高尾山の緑(1300-1600種類もの植物)、

長野/上高地(河童橋からみる穂高山脈の景観のすばらしさ)

 白木氏(S35):42年間勤務した会社を退職し、リスクマネジメントのコンサルタント会社を設立。

        結婚記念日には毎年奥様と旅行。昨年「今年もよろしく」といったら、

        奥様も「よろしく」、今年は「前向きに考える」との答え。状況が変われば対応が変わる。これがリスクマネジメントの要諦。

 

〇連絡事項

(1)  新企画「Salon de 修猷」の紹介

     通常の二木会(平日夕刻開催)に出席が難しい方々にも広く参加して頂くため、週末昼間に、文化・芸術を中心としたテーマで年2回開催予定。

     初回は11/24(土)1330から、歌手の宇佐元恭一さんとNHKアナウンサー青木裕子さんをお招きし、ピアノの弾き語りと朗読を予定。

     改めて二木会同様にご案内予定。

(2)  幹事学年交代

今、二木会(540)をもって幹事学年が交代(S55年→S56年へ)。両学年に対し、慰労と励ましの拍手あり。

 

                                  以 上


第537回二木会
ニッポンの達人たち
〜「私がお会いした素敵な人々」

 梅雨の候、館友の皆様におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申しあげます。  
 さて、7月の二木会はノンフィクション作家であり絵本作家でもある清水 久美子氏(昭和43年卒)を講師にお迎えし、取材を通してお会いになられた心に残る人々や様々に見聞されたことをお話頂きます。
 清水氏は修猷館では文芸部に所属され、ご卒業後は東京女子大学社会学科に進まれました。その後、会社勤務、週刊誌記者を経てフリーとなられ、最近は人物インタビューを中心に執筆活動を行われております。
 主な著書に「君のためならがんばれる」(日本文芸社)、「夢がかなう日」(偕成社)、「私は総合職の女」(講談社)などがあり、特に「夢がかなう日」は多くの地域の小・中学校で2002年の推薦図書に指定されました。
 また、絵本の創作にも取り組まれ、「大輝くんのくじら」(講談社)、「しょうちゃんの夢のバス」、
「和也くんの雪だるま」、「たまみちゃんの青い海」(以上、騒人社)等の作品を出版されておりま
す。騒人社の絵本は、多くの小学校の命の授業で教材としても取り上げられています。
 なお、講演前の交流会では夏休みシーズンを前に「思い出の旅、お勧めの名所旧跡」について、皆さまからお話を頂きたいと思います。
 多数の館友のご列席を、心よりお待ちしております。 尚、出欠のご返事は7月6日(金)必着でお願い致します。

                          東京修猷会  会 長  箱島 信一  (S31年卒)
                                    幹事長 甲畑 眞知子 (S44年卒)



1.テーマ ニッポンの達人たち〜「私がお会いした素敵な人々」
2.講師 清水 久美子 氏(昭和43年卒)
ノンフィクション作家、絵本作家

3.日時 2007年7月12日(木)
午後6時 〜 食事、 午後7時 〜 講演
*食事を申し込まれた方は、遅くとも6時30分までにお越しください。
4.場所 学士会館
 (千代田区神田錦町 3-28)
電話 03-3292-5931
地下鉄東西線
 「竹橋」下車5分
半蔵門線・都営新宿線・三田線
 「神保町」下車3分
5.会費 3,500円(講演のみの方は1,500円)
70歳以上および学生の方は2,000円(講演のみの方は無料)