<日時> H19年4月12日(木)
<場所>学士会館
<参加人数> 133名
<テーマ> 『ニッポンの指導力〜指導者達の言葉〜』
<講師> ジャーナリスト 松瀬 学氏(S54年卒)
<運営/進行> S.55年卒(GOGO会)間中紳介
<内容>
○ 講師紹介(司会及びS54年卒/下村光氏)
○ 昭和53年にラグビー部が全国大会出場した際の主力選手で、早稲田大学でもレギュラーとしてご活躍。 ○ 大学卒業後、(社)共同通信社へ入社。一貫してスポーツの取材活動に携わられ、平成8年から4年間のニューヨーク駐在を始め、ソウル以降の五輪など、海外取材も多数。 ○ 平成14年に同社を退職、東京大学教育学部の研究生となり、スポーツを通した指導体系の研究に 携わられる一方、現在はスポーツ界を題材にした著作・記事を多数。 (以下 下村氏からのご紹介) ○ 30年前、花園(全国高校ラグビー大会)に出場。福岡での県大会決勝相手は福岡工業戦。4-3で勝利した際のトライゲッターが松瀬氏。ポジションはロック(フォワード第2列)。スクラムでは「お休み」状態だったが、よく走り、決勝のトライをとった。 ○ 早稲田大学に進学後プロップ(フォワード第1列)に転向し、2年生からレギュラーに。 ○ 本人は素朴な人柄なので、「ジャーナリスト」「NY駐在」という経歴とのイメージギャップあり。 ○ 処女作「汚れた金メダル」の「著者経歴」の欄には、「修猷館卒」と書いてあった。 ○ 高校時代は、「無骨、武闘派」のイメージで、コミュニケーション能力が高いとは、とても思えなかったが、ジャーナリストという職業を通じて、成長されたと感じる。
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○講演
(はじめに)
・ 先月の二木会でご挨拶したときと、ひとつ変わった点がある。なにか?正解は、髭を剃ったこと(20数年ぶり)。先日取材で福岡に行き、修猷の同窓生と飲んだときに、同期から、「先輩のまえで話すのに、髭はまずかっちゃなかとや」との指摘あり。心機一転。日ハムから巨人に移籍した小笠原選手の心境。
・ 野球/大リーグが盛り上がっている。松坂対イチローの対決など大きくメディアも取り上げている。以前、共同通信にいたころ、1996年から4年間に、ニュヨークに駐在した。その頃大リーグには、日本から野茂や伊良部が来ていた。伊良部は当時156kmのスピードボールを投げていたが、調子が良いときは、機嫌が良いが、調子が悪いと、ムスッとしている。伊良部の取材を担当したとき、1回でノックアウトされたときがあった。試合後、ロッカールームを訪れ、「どげんしたとか?」と問うと、顔を真っ赤にして怒った。殴られるかと思ったが(怖かったが)その後も、「修猷魂」で、しつこく話を聞きつづけた。
・ 伊良部はもともとチャレンジ精神が旺盛で、向かってくるものには、好感を持つタイプ。そのうちすっかり仲良くなった。今はロスアンゼルスでうどん屋を経営している。
・ こんな伊良部に対し、もう一人「向かってゆく」タイプの記者がいた。報知新聞の記者で、あるとき気に障る質問をして、(伊良部に)テープレコーダーを壊された。その記者は、「弁償しろ」と伊良部に迫った。「すごい気骨のある記者だ」と思った。その記者の名前は、林直樹さん。同じ福岡出身で、修猷館s55年卒の出川さんのご主人だった。(林さんは今年2月27日に病気で亡くなられた。享年47歳。自分よりも1歳年上。どこかにいる林さんにも、自分の話を聞いていてほしいと思う。)
・ スポーツライターは「良い仕事」ですばらしい監督や選手と話をすることができる。
・ ママとなったヤワラちゃん、マイケル・ジョーダン、タイガーウッズといった超一流選手、星野仙一や王貞治監督など。「情熱、目の力、言葉の力」が一流選手や名指導者の共通のキーワード。
・ 「ニッポンの指導力」という演題だが、好きな指導者の言葉を紹介してゆこうとおもう。
[淵本武陽氏:元修猷館ラグビー部顧問]
・ 修猷館は人格形成の場であった。自分は、3年間ラグビーに熱中した。その頃の目標は全国大会出場。「いくぞ花園」というスローガンがプール下の部室に書いてあった。(ちなみに水泳部は「打倒!尾道」)
・ あるとき部室にいったら、いたずら書きがしてあり、「いくぞ花園」が、「いくぞ『香椎』花園(かしいかえん)」になっていた。この修猷のユーモアのセンスが好きだ。
・ 2年生の時、念願の全国大会への出場を果たした。3年のときは、準決勝にて敗退。卒業のときに顧問であった淵本武陽先生から記念のマスコットボールをもらった。
「直実に前進せよ」との言葉が記してあった。
[結城昭康氏:修猷館/早稲田大学 ラグビー部OB]
・ 修猷館S.30年卒の先輩、結城昭康氏。修猷時代、最初野球部に入ったが、上級生を殴り、ラグビー部へ。その後早稲田に進学され、ラグビー部でもレギュラーを張り、監督も務められた。逸話・武勇伝には数知れず。(大学卒業後、コーチ時代にラグビーの試合で、タッチジャッジ(審判)としていたが、自分のチームがあまりにタックルしないのに怒って、自分が相手チームの選手にタックルした 等)
・ 結城先輩から「おまえは早稲田向き」といわれ、早稲田進学を決意。「素質はなくても、頑張れば、評価され、活躍できる」という意味だったか。
・ その人の言葉「目で勝負しろ!」。実に名言。殆どの指導者が同じ意味の言葉を言う。この言葉を忠実に守り、練習中・試合中も同じポジションの選手、監督、コーチをずっとにらみつけていた。にらみつけるのは、結構シンドイこと。一生懸命練習していないとにらめない。集中力も必要。その成果あって、自分も2年の終わりからレギュラーの座を取った。
[大西鉄之祐氏:元ラグビー日本代表監督/元早稲田大学監督]
・ 早大3年生の時のラグビー部監督、大西鉄之祐さん。日本ラグビー伝説の監督。1968年ニュージーランドの(ナショナルチーム)オールブラックスJr.に日本が勝った時の代表監督。「接近、展開、連続」の理論。1971年に強豪イングランド代表相手に3-6で惜敗したとき、試合前に水杯を交わし、「死んで来い!歴史の創造者たれ!」と選手達を送り出した。
・ 自分の修猷ラグビー部時代のポジションは「ロック(フォワード第2列目)」だったが、大学に入り「プロップ(フォワード第1列目)」に転向した。このポジションは痛いし、きつい。スクラム組み時は「下半身で組む」ことが必要で、膝や足首は強靭さと柔軟性が必要。大西先生から「トイレは和式以外使うな!」と厳命された。自分はこれを忠実に守り通して、自信がついた。
・ その大西先生の言葉「信は力なり」。
・ その年の早明戦、試合前の下馬評は圧倒的に「明治有利」。フォワードの平均体重は、明治=92kgに対し、早稲田はたった80kg。それでも大西先生は、「信は力なり。自分とチームメートを信じれば、勝つ!」と断言。結果は21対16で早稲田勝利。
・ 新聞は「大西マジック」と書いた。大西先生の「言葉の力」が勝利を導いた。
[藤島勇一氏:修猷館/早稲田大学 ラグビー部OB]
・ 早稲田のラグビー部の先輩で藤島勇一氏。(修猷館S27年卒)。おとこまえで、大の酒好き。「よか晩じゃ」と後輩(自分)もよく飲みに連れて行ってもらい、酒の飲み方を教わった。はじめての銀座も藤島先輩に連れて行ってもらった。
・ 5年前に他界されたが、先輩の勧めで、共同通信社に入社した。
[長嶋茂雄氏:元読売巨人軍監督]
・ 共同通信に入り、大阪で南海の担当となった。キャンプ地の広島/呉で取材していたとき、九州のキャンプ視察を終えた長嶋茂雄氏がきた。当時長嶋氏はフリーとなって、各球団のキャンプを見て回っていた。さすがに光り輝く、オーラがある。
・ 「九州(の各球団のキャンプの様子)は、どうでしたか?」と聞いたら、
「福岡のヌードルは美味しかった」との答え。「福岡のヌードル」=「博多ラーメン」のこと。カルチャーショックを感じた。
[山田重雄氏:元全日本女子バレーボール監督]
・ 1976年モントリオール五輪で金メダル獲得。世界選手権、ワールドカップも制した、日本唯一の「世界三冠監督」。紳士でダンディ。
情熱家で「狂気」を併せ持つ。反面選手に対し、深い愛情を持っている。
・ 1988年ソウル五輪前の合宿。男子相手の練習試合のとき、選手達に「オリンピックのつもりでやれ」と指示。試合に負けたとき、はさみでボールを突き刺し、ネットも切り刻んで「おまえ達にオリンピックはない。」「命をかけてやるから、メダルにチャレンジできるのだ」。
・ 口癖は「常に世界を意識せよ」。日本リーグ(現vリーグ)の試合でも「相手はソ連のつもりでやれ」「おまえ達がソ連を倒すのだ。」と選手達を鼓舞。
・ 情報収集についても真摯で、大学ノートに一杯記録をつけている。元々自分は柔道の選手。バレーボール以外でも、強いチームの監督や新聞記者などとの話をテープにとり、常に何かをつかもうとしていた。
・ ソウル五輪で4位。再生の道は「プロ化しかない」と、実感。新宿のホテルのスウイートルームに呼ばれ、意見を聞かれた。「世の中の雰囲気は違うのでは?」と答えたら、その必要性を切々と説かれた。プロ化推進のために、メディアも活用しようとしたが、急ぎすぎて頓挫。
・ 現在、世界の強いチームは全てプロ。日本はプロ化に失敗し、世界の部隊では、苦戦を強いられている。高い先見性も併せ持った人。
・ 晩年はセクハラ疑惑、外為法違反などで、7年前にひっそりと他界。選手からもらったお守り、選手の写真を大事に持っていた。選手のことが好きでたまらない人。その中から信頼関係を作っていった。中田久美などは、いまだに山田氏の話をすると泣く。
[柳本晶一氏:現全日本女子バレー監督]
・ 選手からは気楽に「晶ちゃん」と呼ばれている。情熱家で実利主義者。
・ 東京は「おいしい店がない」と。東京の美味しい店は高い。安くて美味しいものを出す店が本当の「おいしい店」。大阪人気質が見える。
・ 勝負哲学「人生 負け勝ち」。負けの中に、勝ちの芽がある。
・ 苦労人で、監督をしていた東洋紡を優勝に導いたが、会社事由で廃部に追い込まれる。選手の行き先などを気遣い、ノイローゼ状態に。閉所恐怖症などにも苦しんだが、お寺回りをして、「自分のできることをやろう」と、克服。
・ 「一業に徹し、一隅を照らす」「目がポイント」「夢は自分でつかめ」。
・ 「どんな選手が伸びますか?」の問いに、「素直な目、まっすぐな目をもつ子」「食いつきの悪い目」は使えない。レギュラーからはずす。いじめて闘志に火をつける。それでもダメなら「さようなら」。大山加奈選手はアテネ五輪前に1ケ月干した。「すき焼き」のたとえ。(=いつも牛肉が入ったすき焼きを食べていると、ありがたみが感じられない。牛肉のないすき焼きを食べさせて、本当のすき焼きの美味しさを感じさせる。)練習は厳しく、監督と選手の間でも、怒鳴りあいもある。
[宇津木妙子氏:ソフトボール元全日本監督]
・ ソフトボール元全日本監督の宇津木妙子監督。(シドニー、アテネオリンピックオリンピック時の監督)こわい。速射砲ノックで「ノック肘」になっている。本人も30年間腹筋500回と1時間のランニングを欠かさない。合宿所には、30足の靴がビシッと整列している
(「強いチームの玄関はきれい」といわれる)。何事も「礼に始まり、礼に終わる」。
ソフトボール=生活、生活=規律、規律を守れないものは土壇場で良いプレーができ
ない。選手に3つのことを約束させる。@挨拶、A全力疾走、Bチームワーク。
・ シドニー五輪の決勝で「サヨナラ(負け)落球」をした小関選手は、今でも獲得した(銀)メダルもみれない。宇津木監督は「あれは、チームのエラーだよ」と励まし、チームを辞めさせず、「もう一度元気にさせる」とずっと傍で見守っている。
・ 信念は「逃げないこと」。「人生に夢があるのではない、夢が人生を作るのだ」「信念と聞く耳を持つこと」。そして「努力は裏切らない」。
[清宮克幸氏:元早稲田大学ラグビー部監督/サントリーラグビー部監督]
・ 早稲田ラグビー部前監督、清宮克幸氏。早稲田ラグビーを低迷から脱出させ、5年間で3度優勝に導く。現サントリーラグビー部監督。
・ 東芝との3番(トップリーグ、マイクロソフトカップ、日本選手権)勝負。トップリーグで東芝優勝のとき、「3タテ(3連続負け)はない。あと2つ勝たせてもらいます。」とコメント。マイクロソフトカップでも惜敗。「これで熱くなれる。一緒にベストセラーになるストーリーを作りたい。最後に1つ勝たせてもらいます。」と熱い涙での発言。
・ 日本選手権では、準決勝で敗退し、東芝と試合できず。「日本ラグビーのレベルは高い。来年はもっと面白くなります」とコメント。(東芝は決勝に勝ち優勝)
・ 「アルティメット クラッシュ(徹底的な破壊)」「アライブ(生きる)」「ネセサリー ロス(必要な敗戦)」発言もズバズバと過激。マスコミ露出も意識している。一方で超プラス思考。
「人生はギャンブルである」。
・ 彼(清宮氏)は、右手に結婚指輪をしている。昔ラグビーで左手の薬指を脱臼し、右手にはめた。そのときにマージャンで大勝。以来右手薬指。
(終わりに)
・ 色々な優れた指導者・選手の共通点を挙げれば、
@情熱、A信念、B目力の3つを備え、意識していること。
<新人歓迎会>
○
今年度の修猷館卒業者を迎え、新人歓迎会を実施。(新人の参加=19名)
○ 特別企画として、シンガーソングライターの宇佐元 恭一氏(昭和53年卒)に
よるミニコンサート「少年の僕に手紙を書いた」を実施。
○ オリジナル曲「少年の僕に手紙を書いた」「晴れたり曇ったり」「海の中道」「鏡の
ドレス」「雨ニモ負ケズ」等、新人への励ましの歌を披露。絶妙なトークと、美しい歌
声に、会場は大いに沸いた。
アンコールの声にこたえ、宇佐元氏のピアノ伴奏で、全員で「館歌斉唱」。
〇 最後は岡部高志氏(s55卒)の「フレ!フレ!修猷」のエールでお開きに。
以 上