<日時> H19年3月8日(木) <場所>学士会館
<参加人数> 84名
<テーマ> 『ニッポンの海外ボランティア活動〜バリ島での日本語教育への取り組み』
<講師> インドネシア/バリ島 日本学校主宰
城戸 秀夫 氏(S26年卒)
<運営/進行> S.55年卒(GOGO会)間中 紳介
<内容>
○ 講師紹介(司会及びS26年卒 大平氏)
○
九大地質学部卒。資源開発の会社に就職。国内では、北海道での探鉱、海外ではマレーシア、カンボジアなどに滞在し、業務に従事。インドネシアもs42-45(北スマトラ油田)、H4-7(ジャカルタ)に2度滞在。 ○
H9年に修猷館の先輩である真武先輩(S9卒)の紹介で、バリ島を訪問。その後準備期間を経て、H16年に図書館及び日本語学校を開設。(この間に奥様ご逝去) 現在、たった一人で、図書館及び学校の運営費、教材費など、全て自費で賄っている状態。 |
木 戸 講 師 | 会 場 風 景 |
○講演
(はじめに〜バリ島に学校、図書館を開設するに至る経緯〜)
・ 10年前は、東京におり、二木会にも、よく参加していた。
・ 船橋駅で怪我をしたことが、きっかけで、故郷である福岡に戻る決心をした
・ 帰福した後、外国人にボランチィアで日本語を教える団体主催の「外国料理の講習会」に出席する機会を得たことがきっかけで、ボランチィア活動に参加するようになった。
・ これはアジア各国からの留学生の(日本語)補修授業を行うボランチィア活動で、これに参加するため、日本語を外国人に教える教師養成の為の講義を受け、「日本語の教え方」を習得した。
・ その後、旧友(林氏)とであった際に、「インドネシアで日本語を教えている真武先輩がご高齢で、後任を探しているが、興味ないか?」と持ちかけられた。
・ 真武氏へもコンタクトを図ったが、奥様の発病(その後、ご逝去)、真武氏ご自身が体調を崩されたことなどの問題等があり、なかなか話を進めることができなかったが、1年以上経ってから、やっと(真武氏と)話をすることができた。
・ 真武氏からは、「子供の役に立つことならば、何でもいいからやってくれ」と言われ、様々なアイディアを出された*が、資金の問題などもあり、どれも実現可能性が低いと感じられたが、「まずは行って、見て見よう」と現地視察に赴いた。
(*真武氏のアイディア例)
・日本語、英語、コンピューターを教える、うどん屋を経営する、果樹園を作る、湖畔にキャンプ場を開設する等
・ 現地に着いてみると、ガイド組合の委員長、レストランのオーナー、郷土芸能の主催者などの名士が、真武氏の「マタケン学校」の卒業生としてグループを作り、出迎えてくれた。
・ (日本の事業家が、真武氏の事業に共感し提供した)かなり広い土地が観光地の傍にあったが、20年契約で、華僑に貸し出しており、賃料も全て前金で受け取っていた。このお金で、「マタケン学校」の土地、建物を作ったため、お金は残っていない。使えるのはこの建物だけで、これも既に一年契約で、他の人に貸し出しており、家の補修費もでない状況であり、すぐにできる仕事はなにもない状態であることが判明。
・ できるとすれば、建物の借用期限が過ぎた後に、建屋を補修し、活用することとぐらい。この建屋はユースホステル風の造りで、寝室が4〜5部屋程度はある大きさ。「子供に本を読む習慣をつけさせたい」との思いから、これを活用し、図書館を開くことにして、改装を行った。
(日本語学校の開設〜今)
・ 2003年3月に図書館をオープン。70名程の来訪者があって、じっと座っている。
「先生、いつから日本語を教えてくれるのか?」といわれ、(当初は教えるつもりは無かったが)日本語学校に切り替えた。
・ このため新に机、いす、家具も増やし、インドネシア語の本(薄い本ばかりだが、200冊程度)やLife-Time社の百科事典(インドネシア語版)も用意をした。
・ 最初は70人くらい集まったが、1週間ほどたつと、はじめから来ていたメンバーは約半分になり、また新しい人が集まってきた。現在生徒として登録されているのは、子供=350人、大人=300人だが、実際受講しているのは、50人程度。
・ 現在は、授業は週5.5日。もともと週5日で、一日は、自分がインドネシア語を勉強する日、もう一日は休みの日(日曜日)としていたが、「もっとやってほしい」との要請があり、日曜日の午前中だけやることにした。インドネシアの学校も午前・午後の2部制なので、日本語学校もこれに倣っている。
・ 3年程度経つと、能力に差が出てきて、クラスを分ける必要が出てきて、現在子供は3クラス、大人を4クラスに分けている。(子供の日を4日、大人を2日と割り当てている)
・ 開設当初、小学校の古い教科書の寄付を受けたが、中には、4年生の教科書をすらすら読めるレベルの子供もいる。大人のレベルはバラツキが大きい。
・ 教材を作るのが大変だったが、2年たって、一通りの教材が整い、余裕ができてきた。
・ 子供は、親が同伴して連れて来る。最近は塾通いが盛んになってきている。
・ 教師は、以前もう1名いたが、一昨年から自分ひとりとなった。
・ バリ州には、国立大学が3つあり、このうちひとつに日本語学科があり、50名程度の生徒がいる。先生はJAICAからの派遣。
・ 就職面でも、収入面でも外国語習得は有利であり、日本語のほかにも、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語などが教えられている。
・ バリ州の高校約200校のうち、約半数で、日本語の授業があるが、日本人の教師はおらず、日本語ができるインドネシア語の教師が、ローマ字を使って教えている。
・ 教え方は、「文字」から入るのではなく、「耳」から入るのが殆どで、文章を読める人は稀なのが、実情。
・ ニーズからすれば、まず話すこと(=ガイドとして話せば、すぐお金になる)だが、自分は文字から教えることにこだわっている。
・ 生徒には「日本語検定試験」を受験させ、実力の目安とさせている。
・ 「日本語検定試験」には、4つのレベルがあるが、現在4級合格者は、4名(受験者は30名)、3級は2名(〃4名)、2級は1名(〃1名)、1級はゼロ(〃1名)。2級合格者は、大学を卒業して、補習に来ている人。
・ 問題点は、「自分の代わりがいない」ということ。現在(講師が日本に来ている間)は、学校は休校している。なんとか、修猷館ゆかりの人に、後任を託したいと思っている。
・ インドネシアには、複数のvisaがあるが、55歳以上なら(Retire visa)というものもあり、銀行に200万円の預金があるもしくは、一定以上の収入があれば、受給できる。(その他は、Multi-Business VISA、Social VISA、Working VISAなど。Working VISAはJAICA職員ならば良いが、とりにくい)
(写真紹介)
@ マタケン学校風景(その1)
A マタケン学校風景(その2)
B バリ礼服姿(講師)
C マタケン学校改装完了直後風景
D 授業風景
E 開校当時の風景
F バリ結婚式風景 など
○質疑応答
Q:インドネシアでの生活費はどの程度?
A:宿泊費は朝食つきで、3万円/月程度。これに運営費が4-5万円掛かっている。
Q:家一軒買うとどのくらいか?
A:法律的に、外国人は不動産を取得できない。借りたほうが割安。女中さんも1万円/月(食事込み)で雇える。
Q:バリ市内の識字率はどうか?
A:アルファベットの識字率は高い。インドネシアには250の民族と、200の言葉があるとされるが、共通語(インドネシア語)はほぼ通じる。
Q:昔、インドネシア人に金を貸したが、返さない。理由は、「貴君を天国に行かせるため」との弁明を受けたが、いまもこんな風か?
A:イスラムには、「持たない人に与えて、施しをする」ことを推奨する風潮はあるが、いまがどうかよくわからない。(金は貸さないに越したことはない)
Q:奥さんも3人までOKとされるが、いまでもそうか?
A:イスラム教では、4人まで認められるが、社会的に、そのような人は、「うとんぜられる」傾向があるようだ。
Q:日本人が、インドネシア語を学ぶのと、インドネシア人が日本語を学ぶのと、どちらが速いか?
A:一般的にどちらとはいえないが、お金に直接結びつくほうが、インセンチィブになるのではないか?言語的にいえば、インドネシア語には、「助詞」が殆ど無いし、漢字などを覚える必要性からすれば、日本語は難しい。
Q:食べ物はどうか?(魚などの種類は豊富か?)
A:太刀魚や鯛の仲間は手に入る。マグロもあり、カルパッチョなどは、わりとおいしい。
Q:公務員、軍人などの「公私混同」は?
A:あまりないように感じる。
Q:中国人に対する感情は?(蔑視感情)
A:地域によって、差もあると思うし、経済的には華僑が押さえていることもあり、「特別な感情」は少なからずあるとおもう。
Q:バリ島は大きいのか?
A:東京都の2.5倍くらいの大きさ。大きな観光スポットが5つくらいあり、学校は、そのうち一つのスポットに隣接している。
Q:これだけの活動を手弁当でやられているのはすばらしい「民間外交」だ。
この活動をたった一人で支えておられるようだが、なにか組織をつくって、フォーマルな形として、継続してゆく方法は無いのか?
A:NPO組織にするか、という話しもあったが、いろいろな意見や制約もあって、現段階では取りやめとなった。私自身、「老後の楽しみ」ではあるが、是非とも「後継者」がほしいと考えている。(できれば、修猷館ゆかりの人が引き継いでくれればありがたい)是非皆様、どなたか、心当たりがあれば、連絡ください。
<その他:交流会での意見交換/今月のお題=「心に残る名曲」>
○
「バッハ ゴールドベーグ協奏曲」
(戦後まもなく、文部省新人音楽賞受賞者コンサートで、山根ルリコ氏が演奏途中で立ち上
がり、一礼をして「間違えました」。再びはじめからひき直した。演奏が終えた
ときに、万来の拍手(+アンコール要請)が起こったエピソードをご紹介。)
○
「海ゆかば」
(武人大伴氏の味わい深い歌詞。新保祐司氏の著作『「海ゆかば」の昭和』もあわ
せてご紹介)
○
浜崎あゆみの歌
(慶応ラグビー部に所属。試合前に気持ちを高めるために聞いている)
○
「フォーレのレクイエム」
(高校時代も合唱部。現在も地元の混声合唱団に所属。様々なレクイエムの中で、フォーレのレクイエムがベスト。映画「愛情物語(1956年米国)」の中でも印象的に使われていた。)
など
<その他:石橋 顕君(H04卒)北京オリンピック(ヨット競技)に向けた活動についてのご紹介>
石橋顕氏及び牧野幸雄氏(北京オリンピック ヨット競技) | |
以 上
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