『9・11』

〜ワールド・トレード・センターで見たもの〜


株式会社スクウェア・エニックス 西嶋剛先輩(昭和48年卒)
2006年4月13日(木)学士会館にて

私は日本興業銀行ニューヨーク支店に勤務している時に911に遭遇しました。旧第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行の3行が統合することになり、統合実施のため2000年から2度目のニューヨーク勤務となりました。この3行統合に伴い旧興銀の私の部署は2001年9月3日にニューヨークの中心部(ミッドタウン)から1WTC (North Tower)の49階に移転しました。移転後1週間たった9月11日午前8:45、いつものように東京からのメールをチェックしている時にそれは起きました。突然ビルが大きく揺れて机の上の端にあったものがザーッと床に落ちました。大きな音と同時にビル全体がねじれるように感じたことや、窓の外を見ると上から大量の何かの破片が降ってきたことから、「小型飛行機がビルにぶつかったのでは」と思いました。それがまさかジェット機とは思いもよりませんでした。アメリカ人スタッフはすぐに避難を始めましたが、私はビルの揺れが収まるまでじっとしていようと思いました。しかし、私の後ろの窓ガラスが大きく振動し始めて危ないと感じて席を立ちました。私も早く避難しなくてはという気持ちもありましたが、職場のマネージャーでしたのでアメリカ人スタッフがみんな避難したかを確認していると、NY市警の警察官から転職したという経暦を持つ部下が「ミスター西嶋、早く逃げろ!」と言って私を非常階段に押し込んでくれました。この時避難が遅れていたら、ビルから脱出するのもずっと遅れて危なかったかもしれません。

講師:西嶋剛さん

非常階段には多くの人が緊張した顔で階段を走り下りていました。最初の4〜5階は比較的スムーズに下りることができましたが、避難者が徐々に増えてその後は立ち止まることが多くなり、40階くらいで完全にストップしました。非常階段は二人が並んで下りられる程度の小さなもので、下をのぞいても2〜3階下までしか見えず、全体の様子はわかりませんでした。皆パニックはしていませんでしたが、「なぜストップしたか順送りで前方の人に聞いてくれ」との声を真剣な顔で聞いていました。しかし下の階から答えは返ってこず、そのうち列はまた少しずつ動き出しました。何人かの人が携帯電話で外部に電話をしようとしましたが全くつながりませんでした。「テロじゃないか?」と言う人もいましたが、確かなことはわかりませんでした。ましてや、この頃2WTC (South Tower)に2機目のジェット機が激突していたことなど考えも及びませんでした。35階くらいのところで上の階から「けが人が来るから道を空けて下さい!」との声に続いて太った女性が同僚に付き添われて今にも死にそうに喘ぎながら下りて来ました。みんな心配そうにその女性を見ていました。更にショックだったのは、全身に火傷を負った人が降りてきた時です。髪の毛がチリジリに焼け、服も破れ、前に突き出した両腕の皮膚がだらりと垂れて、裸足で死んだように歩いていました。多くの人が“Oh, My God!” と絶句し目をそむけていました。その後も火傷を負った男女数人が下りて来ました。2列で下りていた列をけが人のために1列空けたために下りるスピードが更に遅くなりました。25階あたりで、最初の消防士4〜5人が上がってきました。酸素ボンベ等の重装備で地上から階段を上ってきたらしく皆ぐったりした様子で2〜3歩登るたびに立ち止まって息を整えていました。誰かが「いったい何が起きたのか?」と消防士に聞いて、消防士はそれに答えていましたが、私には「 ----- crashed building.」としか聞こえず状況はよくわかりませんでした。しかし消防士に会えたことで少し希望が出てきました。20階くらいまで下りたあたりでは、各階の非常口が開いていて、廊下に待機している大勢の消防士も見え「これで何とか助かりそうだ」との思いを強く持ちました。この後もたくさんの消防士達が喘ぎながら非常階段を上へ上へと登ってゆくのを頼もしく思いながら見ていました。しかし彼らの多くは生きて再び地上に戻ることはなかったのです。地上7〜8階あたりから下りるスピードが速まると同時に非常階段に水が流れ始めました。地上3〜4階は流れ落ちる5〜6センチの水の中を滑らないように走り下りました。ようやく地下街のロビーにたどりついたのは9:40頃ではなかったかと思います。地下街は壁の大理石が崩れ落ち、天井のあちこちから水がザーッと流れ落ちるなど想像以上に壊れていました。

消防士や警察官の誘導でやっと外に出て、ビルを見上げると両方のビルからもくもくと煙が出ているのが見えました。その後大きな炎が噴き出しているのが見え、「もうこのビルには戻れないなぁ…」と思いました。ビルの周囲には脱出してきた人がたくさんいて、あちこちで会社や知り合いごとのグループに集まって抱き合って無事を喜んだり、他の人の安否を確認し合ったりしていました。また、恐怖でしゃがみこんで泣いている人や震えている人もいました。ビルの周囲の商店街でも窓ガラスが割れ、衝撃の大きさを物語っていました。我々のグループはできるだけ一緒に行動し、ビルから離れることにしました。ビルが倒壊するとは思っていませんでしたが、ビル内や周辺でのガス爆発の恐れがあると思ったからです。5〜6分くらい歩いたところで突然後ろの方から大勢の人がこちらに向かってワーッと走ってきたため、我々も理由もわからずとにかく走り出しました。その直後に後ろからものすごい量の煙がこちらに向かって襲ってきました。しかし、その場所からは2WTCが倒壊したことはまだわかりませんでした。これからどこに避難しようかということになり、ハドソン川の対岸のニュージャージーには非常時用のバックアップセンターがありましたが、ミッドタウンの興銀NY支店には移転していない多くの人が残っているので、そこに行くことにしました。避難する人の列が前にも後ろにもどこまでも続いていました。我々のグループは女性も多かったので、途中のレストランで何度か休憩をしながら歩きました。これらの店では避難者に飲み物を無料で出してくれるなど、街全体で避難する我々を助けてくれました。そしてレストランのテレビで初めて何が起きたかを知りました。携帯電話や公衆電話はなかなかつながらず、運良くつながった時には一緒にいる人の名前と自宅の電話番号を伝えて、電話をして無事だと伝えてくれるように頼みました。NY支店にたどり着いたのはお昼過ぎでした。仲間と無事を喜び合ったあとはすぐに業務継続の準備に入りました。私の部署は銀行間の極めて多額のドル決済を担当しており、業務の中断は許されません。午後2:00すぎくらいになって、ようやく自宅に電話を入れることができました。連絡が遅れて家族にはずいぶん長いこと心配をかけてしまいました。

家内は9:00 過ぎに福岡の私の姉からの電話で事件を知り、テレビをつけたそうです。すぐオフィスに電話を入れたそうですが留守番電話だったので、「心配しているので電話下さい」とメッセージを残したそうです。しかし、返事は無く不安が徐々に高まるなか、2機目が突っ込み、ビルが一つ、また一つと崩壊し、頭がマッシロになっていったそうです。12:00ころ知らない外人から家に電話があり、「ミスター西嶋は元気で逃げている」と言ったそうですが、状況がわからず安心はできなかったそうです。子ども達は現地校に通っていましたが、家内は心配をかけてはいけないと思い電話をしませんでした。我が家はマンハッタンで働く人の多い地域にありましたので、学校でも飛行機激突のニュースはすぐに生徒に伝えられ、クラスによってはWTCのテレビ中継を見せたところもあったそうです。私の子どものクラスでも先生から「両親がWTCで働いている人は?」との質問があり、手をあげたのは一人だけだったそうです。先生から「家に帰りたいか?」と聞かれて「いや、大丈夫です」と答えたそうですが、後日書いた作文に「本当は心配ですぐ帰りたかった」と書いてありました。家内は2時すぎに私から電話が入るまで「きっと大丈夫。絶対に大丈夫。」と繰り返し自分に言い聞かせることで平静を保ったそうです。「もしかして…」と悪い想像をしたら途端に気持ちが崩れてしまいそうなくらい不安だったそうです。きっと家族にとっては途方もなく長く苦しい時間だったと思います。

その日は興銀NY支店に避難してきた人たちで手分けをして夜遅くまで業務を行いました。「もう帰してくれ」と涙ぐむスタッフに「この決済が終わらないと銀行だけじゃなく、アメリカの金融システム全体が大変なことになるんだ」と説得しながら業務を続けてもらいました。この日の業務終了そして帰宅は深夜になりました。「今日はお父さんが帰ってくるまで起きている」と言っていた次男(小6)はよく寝ていました。ほおをなでながら目頭が熱くなりました。この日は朝食のあとは食事をしていなかったので軽い食事をとり、テレビで事件のニュースを見ました。リモコンであちこちのチャンネルに換えながらツインタワーに1機目、2機目の飛行機が激突するシーンを何度も何度も繰り返し見ました。「この時このビルの中にいたのか…」と思いながら恐怖感と安堵感が同時にこみ上げてきました。私は会社への通勤途中に駅の売店でガムを買うことがあるのですが、もしこの日ガムを買って地下鉄に乗るのが一本遅れていたら、飛行機が激突した瞬間にエレベーターに乗っていて、そのエレベーターが地上に激突して死んでいたかもしれないとも思いました。

翌日からテレビでは行方不明者を探して市内の病院をさまよい歩く家族の悲壮な姿を映し出し、新聞には何ページにもわたり行方不明者の顔写真と、そしてもっと多くの死亡者の写真が載せられていました。テレビのある娯楽番組では政治家をコケにするコーナーがあるのですが、この事件から3ヶ月くらいは政治家ネタが全く無くなり、笑いも消えて愛国心を鼓舞するような番組になってしまいました。そんな中、しばらくして修猷館の同級生(昭和48年卒業“しっとーや”)からの激励メールが届きました。全員で「西嶋ガンバレ」というメッセージを手に持った写真が付いていました。緊張する日々が続く中、懐かしい顔に励まされて本当にありがたく思いました。911は痛ましい事件ではありましたが、無事救助された人々の証言から多くの民間人が極限状況の中で勇敢に救助活動を行ったことが報道され、命の尊さと他人の命を救おうとする勇気の尊さを教えてくれました。仕事の方では911による業務上のダメージを受けながらも3行統合は無事終了し、私は2003年に家族と共に帰国しました。これまでの自分の人生を振り返る時、「911のその日その時その場所」に向かってまるで目に見えない力によって引き寄せられていったように感じることがあります。今年は事件から5年の節目の年にあたることから、もし時間が許せば現地に行き犠牲者に追悼の意を捧げてきたいと考えています。最後に、改めて911で無くなられた多くの方々のご冥福を心よりお祈りします。ご清聴ありがとうございます。

『9・11』

〜ワールド・トレード・センターで見たもの〜


早春の候、館友の皆様におかれましては、益々ご活躍のこととお慶び申しあげます。
 さて、4月の二木会は、昭和48年卒の西嶋剛先輩を講師にお迎えします。西嶋先輩は、ニューヨーク在勤中の2001年9月11日に起きた、あの米国同時多発テロ事件にワールド・トレード・センター内で遭遇され、九死に一生を得る体験をなされました。凄惨な現場から生還され、人の運命のはかなさ・難しさを心に刻まれた、その時の貴重な体験をお話いただけるものと思います。
 尚、4月は新人歓迎会を兼ねて開催いたしますので、ご存知の新人の方がいらっしゃいましたらお声掛けいただき、ご一緒に参加いただきますようお願い致します。

 たくさんの館友の皆様にご列席いただけますよう心よりお待ちしております。
 尚、出欠のご返事は4月7日(金)必着でお願い致します。

東京修猷会 会 長 藤吉敏生(S26年卒)
幹事長 渡辺俊介(S38年卒)

1.テーマ 『9・11』〜ワールド・トレード・センターで見たもの〜
2.講師 西嶋 剛氏(昭和48年卒)
株式会社スクウェア・エニックス勤務
3.日時 2006年4月13日(木)
午後6時より講演、午後7時より新人歓迎会となります。
*午後5時50分までにはお集まりいただきますようお願いいたします。
4.場所 学士会館
 (千代田区神田錦町 3-28)
電話 03-3292-5931
地下鉄東西線
 「竹橋」下車5分
半蔵門線・都営新宿線・三田線
 「神保町」下車3分
5.会費 3,500円
70歳以上および学生の方は2,000円、新人は招待