「広瀬淡窓と日田」
広瀬家第11代 廣瀬貞雄氏(昭和26年卒)
2005年2月10日(木)学士会館
- 江戸時代の日田
日田は九州の山間部の一小都市であるが、江戸時代中期以降は、九州の政治・経済・文化の中心地としての地位を得た。
政治面では幕府直轄地として西国筋郡代が置かれた天領であり、経済面では掛屋と称される日田商人が活躍し「日田金」と呼ばれた金融資本が蓄積された一大金融の中心地であった。また、文化面でも江戸、上方文化の影響を受け、俳諧文芸が盛んな地であった。
- 廣瀬淡窓の年譜
西暦(元号、年齢)
1782(天明2年、1歳)4月
日田豆田魚町の商家、廣瀬家に長男として生まれる。幼名寅之助2歳から6歳まで伯父夫婦のもとで養育される
1787(6歳)
1793(寛政5年、12歳)
父と親交のあった高山彦九郎が目田に来遊。淡窓の才を賞讃、和歌を贈られる
1795(14歳)
1797(16歳)福岡藩校甘棠館学長の亀井南冥の主催する亀井塾に入門
1798(17歳)帰省中に甘棠館・亀井塾消失。その後、昭陽の開設した甘古堂に再び就学
1799(18歳)
1800(19歳)
1802(享和2年、21歳)
秋、代官羽倉秘救より、月6回の四書講義を命ぜられる
1803(22歳) 妹アリ、兄(淡窓)の命に代わらんとの大誓願を仏に誓い豪潮律師の加持を受ける
7月に律師の勧めで京都に赴き、官女風早二位局の下で、秋子(ときこ〕という一名を賜り宮中に仕える
1804(文化元年、23歳)
倉重湊に自己の進路を問い、その忠言により儒を以て講業に専心することを決意
1805(24歳)
8月 家を借り、長福寺より転居、成章舎と名付ける。初めて「月旦評」作成
1807(26歳) 6月 豆田裏町に桂林園を建築、移転
1810(29歳)
1815(34歳)12月 父三郎右衛門隠居、弟久兵衛が廣瀬家6代となる
1817(36歳)
1818(文政元年、37歳)
1819(38歳) 9月 父等の強い勧めにより、塩谷代官より用人格に準じられる
1825(44歳)
1830(天保元年、49歳) 閏3月 塾政を弟謙吉(旭荘〕に譲る。自らは講義のみを行う
1831(50歳)4月 「月旦評」について塩谷郡代の介入による「家難」起こる
1833(52歳)
5月 代官の意向により謙吉に代わって暫く淡窓が塾政を執る(12月謙吉に再び塾政を託す)
1834(53歳)
5月 郡代塾式規約を強制
7月 淡窓郡代の圧力干渉に対し塾生に小結社(日新杜、廻欄杜讐)を作らせ団結を固める
1835(54歳)
郡代幕命にて東上、解任される(翌年二の丸留守居に転ず)
1836(55歳)
1842(61歳)
1848(嘉永元年、67歳)
1852(71歳)
11月25日「是日通計入門簿合2675人、州55、島2」と記録
1854(安政元年、73歳)1月 池田郡代に従い肥前田代に赴き勘定奉行川路聖謨、大目付筒井政憲に相見
1856(75歳)
10月23日 悪寒があり、25日病が革り、11月1日逝去
- 咸宜園
咸宜園は近世最大規模の漢学塾で、在学者は常に30人から80人を数えた。文化2年から明治30年までの92年間の塾生数は4,617人、実数は6,000人前後と考えられている。淡窓が塾主だった50年間には3,081人を教えており、女性も2名入門し、塾生は下野と隠岐以外の全国からやってきた。
(1)咸宜園の教育方針
@塾生をその身分、年齢、学歴で差別しない(三奪法)
*「三奪法」淡窓教育の最大の特色、入門時に年齢・学歴・身分の三つを奪い、全て平等に最初の無級からスタートさせる。
A門人各人の個性と才能を生かすことを基本とする個性尊重主義
B学力を厳格に成績によって評価する実力主義
*「月旦評」塾での学習の成果を厳格に等級にランクづけしていく成績評価(無級〜九級)
C学問の実用重視・塾の共同生活での職務分担を通じて学ばせる実学主義
D>詩作を奨励し人情の陶冶を図った情操教育
- (2)門下生で特に有名な人物
淡窓の代
○蘭医の高野長英、○同じく蘭医岡研介、○軍政家の兵部大輔大村益次郎、○写真術の元祖上野彦馬、○儒者中島子玉、○太政官書記官・東京府知事松田道之、○勤皇家で文部大丞長三州、○岩手県令・茨城県令元老院議員島惟精、○内務次官・貴族院議員中村元雄、○歌人大隈言遺、○画家帆走杏雨、○詩・書・画で有名な僧侶平野五岳等。
淡窓以後の代
○大審院長横田国臣、○首相清浦奎吾、○海軍軍医総監河村豊州、○三井系実業家朝吹英次、○東京女子師範学校長・貴族院議員秋月新太郎
- 淡窓の思想
(1)淡窓の詩
淡窓は、当時は詩で有名であった。淡窓は詩人であって学者ではないのではないか、と言われていたくらいである。
*桂林荘雑詠示諸生より
林道他郷多苦辛 道うことを休めよ他郷苦辛多しと
同袍有友自相親 同袍友有り自ら相親しむ
柴扉暁出霜如雪 柴扉暁に出づれば霜雪の如し
君汲川流我拾薪 君は川流を汲め我は薪を拾わん
遙思白髪倚門情 遙かに思う白髪門に倚るの情
宦学三年業未成 宦学三年業未だ成らず
一夜秋風揺老樹 一夜秋風老樹を揺がし
孤窓欹枕客心驚 孤窓枕をそばだてて客心驚く
(2)淡窓の思想
淡窓は墓碑の銘に「我が志を知らんと欲せば我が遺書を視よ」という言葉を残している。
【万善簿】
自分の行いを採点し、自分を律する。67歳で1万善を達成。
【約言】
「六経の旨、一言にて尽くすべし。敬天これなり」「天」とは何か。それは宇宙の主宰者のことである。「天」人知を越えた不可知の存在で、聖人のみこれを知ることが出来る。聖人は天命を受けてそれを人々に伝え、人々に守るべき道を説いて教え導くのである。
人々は聖人の教えに従い、敬虔な態度で「天」を敬すべきだとする。その「敬天」の行為とは、天の好むところの善を行い、天の憎むところの悪を行わないことである。
【析玄】
老子の思想から導き出した考えで「数を制する」との意義を説く。運命は変えられないが、その到来をコントロール出来ると考えている。
【義府】
「天地の間、陰陽の二字にも泄るることはなし。」「物に在るを理となし、物に処するを義となす。」
【迂言】
経世論。支配階級の意識改革の必要性から、国防のための農兵制までを論ず。身分の別がない学制も提唱している。
【論語三言解】
府内侯の需めに応じたもの(嘉永7年、安政2年)。海防策と外国と通商を開く際の対策などを論ず。
淡窓は自身病弱であったために、修養し善行を積みながら体をよくしたいという思いが強かった。そして塾生の指導に工夫をこらした月旦表や三奪法で全国的な評判を得たことから、優秀な人材が全国から彼のもとに集まった。
厳しい勉強だけでなく、一ヶ月に3、4回の休日があり、ときにハイキングなど塾の行事やその他の理由による「放学」という休みの日があった。また塾には厳しい規律や役割分担があったが、それは淡窓の「まず治める事から入って次に教える」という方針によるものであった。
月旦評の授与は一人一人手渡すもので、その日は塾で塾生と飲食を共にするのが毎月の恒例であった。
代官所の介入もあったが、このような事で咸宜園は栄えたといえるだろう。
|