P2210022.JPG 「500回を記念して作られた二木会旗」  

<第500回二木会>     

               現在の危機と2人の新聞人


講師 朝日新聞社代表取締役社長 箱島信一氏(昭和31年卒) 

2003年2月13日(木) 学士会館 午後6時から 食事
                        7時から 講演


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「講演される朝日新聞社・箱島社長」             「250名の盛況だった会場」                  「福岡同窓会本部・大島副会長ご挨拶」 

 第500回二木会という記念すべき節目に講師としてご指名を受けたことは、はなはだ名誉なことです。東京修猷会会長の藤吉先輩には、まず懸命に固辞いたしましたが、先輩に弱いというのは修猷同窓生共通のアキレス腱です。本日、ここに講師を務めることになりました。
 きょうは、私の仕事である新聞をテーマにお話をしようと思います。演題に掲げました2人の新聞人は、波乱の多かった昭和という時代に、朝日新聞というよりは日本を代表するジャーナリストとして屹立した緒方竹虎さんと笠信太郎さんです。この修猷館の大先輩でもある2人のことを中心にお話をし、混迷のいま、同じ朝日新聞を預かる立場の私として2人から何を教訓とすべきかを述べてみたいと思います。
 緒方さんは明治の、笠さんは大正の修猷館卒業ですから、今生きておられたら優に百歳を超えておられます。私自身、その最晩年をかろうじて存じているぐらいですから、若い皆さんには2人の略歴を説明しておいたほうがいいでしょう。

二・二六事件での緒方さんの豪胆な対応
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 「大正14年、38歳の若さで東京朝日編集局長に就任した緒方竹虎さん」
                                        
 緒方さんは早稲田大学を経て明治44年、朝日新聞に入り大正14年、38歳という若さで編集局長を務めた後、主筆、副社長などを歴任し、請われて昭和19年、小磯内閣の国務大臣となりました。戦後は政治家として再出発し、吉田内閣の副総理や自由党総裁を歴任しました。
 緒方さんは昭和30年、修猷館創立70周年の記念式典に来館し講演されました。私は当時3年生で、運動場のテント張りの会場でこれを聞きましたが、「予算折衝という政党総裁にとって大事な時期にわざわざやってきたのは、これからの日本を背負って立つ君たちにしっかりしてほしいと伝えたかったからです」と述べられたことを、半世紀近く経った今も鮮明に覚えています。
 その翌年、緒方さんは急逝され、この講演は文字通り後輩に対する遺言となりました。もう少し生きておられたら、間違いなく総理大臣になられ、日本の政治が違うコースをたどっていたかもしれません。政治というものがもっと清潔で、政治家が今より格段に尊敬される存在になっていただろうことは、断言できるでしょう。
 今も館長室に「心外無刀」という緒方さんの揮毫が掛かっているはずです。在学中は剣道に打ち込み、若くして大人の風格があるといわれた人でした。新聞記者としても敏腕で、駆け出し時代に「大正」の元号をスクープし、後に政治部長、編集局長に抜擢されました。以来、「朝日の緒方か、緒方の朝日か」とまで言われる存在となりました。
 しかし、緒方さんが朝日の社論をリードしたのは、日本の歴史が軍部支配へと暗黒の道をたどった時代と重なります。若い頃にロンドン留学をしたことがリベラリストとしての緒方さんの精神的支柱を形成したようですが、軍部や右翼からは目の敵にされ、実に3度にわたって暴漢などに襲われます。
 二・二六事件の際は、青年将校に率いられた反乱部隊が有楽町にあった朝日の東京本社を襲撃しました。彼らが責任者との面会を要求してくると、緒方さんは「俺が出る」と社の正面入り口に応対に出ました。緒方主筆の悠然とした態度に気合負けした将校は、突きつけたピストルをついに発射できず、「国賊朝日新聞を倒せ」と叫び、印刷工場の活字台をひっくり返しただけで引き揚げました。
 私自身、編集局長になり、社長になるそのつど、この豪胆なエピソードを想起しました。ジャーナリストという仕事を覚悟なしにやってはいけないと自分に言い聞かせています。
 それでも軍部の暴走を阻止できなかったばかりか、結果的にはその流れに加担する役割を果たした新聞の責任について、敗戦で蟄居していた頃に緒方さんはこう書き残しています。「如何なる国内情勢があったにせよ、日本国中一つの新聞すらも、腹に反対を懐きながら筆に反対を唱えなかったのは、そもそも如何なる悲惨事であったか。日本一の新聞の主筆であっただけ、自分は自分を責めなければならぬのである」。
 歴史は繰り返すといいますが、厄介なのは同じスタイルでは決して繰り返さないことであり、ここに歴史を学ぶことの難しさがあるわけです。緒方さんの反省を繰り返さないために、新聞は日々生起する事柄をどう伝え、どう論じていくか。世間に謙虚に学び、しかも時流に流されないという永遠の課題に向かって試行錯誤でいくしかないと思っています。


笠さんの思想の根底にあった「自由の尊重」   
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「笠信太郎さん、茅ヶ崎の自宅で」(昭和40年4月撮影)   「笠信太郎氏のご長男・笠大炊様」

 緒方さんが朝日新聞の社論形成の最高責任者だったのは、ほぼ昭和の始めからの18年間でした。一方、笠信太郎さんが論説主幹だったのが昭和23年から37年までですから、64年に及んだ激動の昭和のちょうど前半分の期間、この2人が朝日の社論をリードしたことになります。
 この修猷コンビは個人的にも深い信頼関係で結ばれていました。緒方さんが朝日新聞に入社したのは、修猷での1年先輩でひと足先に朝日に入っていた中野正剛さんの勧めによるものでしたが、笠さんの入社には緒方さんがかかわっていました。
 笠さんは東京商科大を出た後、大原社会問題研究所に入り、経済学や歴史哲学に取り組む学究生活を送っていました。緒方さんは自分の将来の後継者が社内にいないと判断し、東大の大内兵衛教授に推薦を依頼したところ、大内教授が名を挙げた2人のうちの1人が笠さんでした。もう1人は、後に東京都知事となる美濃部亮吉さんだったと言われていますが、緒方さんが笠さんを選んだことについて大内教授は、「やっぱり同郷だからな」と言ったそうです。
 その笠さんの人柄と秀才ぶりに緒方さんは大いに満足し、軍部から「アカ」と睨まれた笠さんを守るために昭和16年、ベルリン特派員として送り出します。海外に一種の避難をさせたのです。
 笠さんは敗戦をスイスで迎え昭和23年に帰国しますが、7年間に及ぶ欧州滞在中に見聞したことを踏まえて書き下ろした『ものの見方について』は、昭和25年に出版されるとベストセラーになりました。当時、知識人や学生の間でそらんじられるほど有名になったその書き出し、「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。スペイン人は走ってしまった後で考える」を覚えておられる方もいらっしゃることでしょう。
 帰国の年に論説主幹となった笠さんは、学問と、深い思索に裏打ちされた論説で、戦後日本を代表するジャーナリストの名をほしいままにしましたが、その思想のバックボーンは、人間にとって不可欠の要素としての「自由の尊重」でした。
 今をさかのぼる41年前、私の新入社員研修の際、笠論説主幹から言論の自由についての講話を大変新鮮な思いで聞いたことを覚えています。笠さんはイギリスを始めヨーロッパの人々の、自由を求める強い執念の由来を、町人たちの自立と自己防衛に求めていました。すなわち、言論や表現に携わる仕事は、たびたび発刊停止や投獄の憂き目にあうと飯の食い上げになるので、町で新聞発行を職業としている一家の主は、妻子を養うためにも言論の自由確保のために戦わなければならない、というのです。
 一方、日本で明治10年前後に創刊された新聞の多くは、旧幕臣や不満武士が薩長政府を弾劾し闘うための道具であり、相手を倒すまで容赦しない、というものでした。営業的には、所詮は武家の商法、どこか腰に大小を二本差したような風情がありました。このような新聞は「政論新聞」とか「大新聞」と呼ばれ、内紛や経営破綻でほとんどが数年で姿を消していきました。
 さて、どちらが自由のためにしぶといか。
 それは歴史が示しています。現存する日本の多くの新聞は、この頃に創刊された、市井の話題をもっぱら取り上げる「小新聞」にそのルーツをもっているのです。さらに笠さんは、イデオロギーの有効性についても疑問をはさみ、ジャーナリストにとって肝心なことは真実の究明と伝達であると強調しました。

2人の生い立ちとそのナショナリズム観の相違
   

 緒方さんも笠さんも先祖は武士であり、その末裔に似つかわしい剛直な精神の持ち主でした。中国の古典と西欧流の深い教養の両方に通じていた点でも共通しています。しかし、異なる点ももちろんあります。
 一つは、笠さんがヨーロッパにおける市民階級の実利主義を、歴史を動かす力として高く評価していることです。
 笠さんは、糸島の士族をそのルーツにもちながら、土居町の化粧品店経営の家に長男として生まれた博多っ子でした。修猷館卒業後、東京高商予科に進学したのも、商家の秀才長男にすれば多分自然なことだったのでしょう。ここに笠さんの思想の原点があるように私には思われます。父親が官吏や地方銀行の頭取を歴任した緒方さんとはいささか異なる。牽強付会に聞こえるかもしれませんが、この生い立ちの相違はやはり無視できないと思います。
 ナショナリズムについて、2人の捉え方は対照を示します。緒方さんが国家としてのバックボーンとのからみでこれを重視するのに対し、笠さんはその内向きの排他性に警戒感をもつといった具合です。どちらも軍部の横暴にひどい思いをした個人的体験を有しながら、戦後、緒方さんは憲法改正を主張し、笠さんは熱心に護憲論を唱え晩年には世界連邦の建設に情熱を注ぎました。ただ、この相違はナショナリズムに内在する二面性に由来するものであり、2人が最後まで良質のリベラリストであり、お互いに人間的共感を終生持ち続けたことは申すまでもありません。

私企業だからこそ新聞の使命を担えるという「ねじれ」

 私は、朝日新聞社の社長として、新聞社がそれほど特殊な立場ではなく普通の会社であるということを、社内でことさら強調しています。その意味を簡単に説明いたします。
 新聞社は情報、言論という商品を主に取り扱っており、この点では大変特殊な使命を帯びています。しかも、このきわめて公共性の高い使命は、私企業だからこそ担えるという、ちょっとねじれた、分かりにくい関係にあります。
 常識的には、公的任務を遂行するならば公的機関がふさわしい。もっとも公的な存在は政府であり自治体であり、次には公社・公団でしょう。しかし、こうした機関が情報・言論に携わればその供給する内容をパブリックでフェアなものだと世間が受け止めるかというと、そうではない。政党や宗教団体の機関紙が、ある種の歪みをもっているとみなされていることは否定できません。
 私企業が担う現実の新聞がそれほど立派だと自惚れるつもりはありませんし、それゆえの脆さも確かにあります。ただ、私企業だから読者に支持されなければ存在できません。新聞がもっとも忠誠を尽くすべき対象は大小の権力やグループではなく、お金を払って読んでくださる読者であり市民です。作り手側の好みやわがまま、独り善がりのイデオロギーを持ち込んではならない厳しい世界なのです。だからこそ、公正な言論と情報の発信という公共性の高い役割を果たせるのだと思っています。
 かつて私たちの学生時代、「ブル新」という相当に侮蔑的な意味を込めた言葉がありました。私は、それがインデペンデントな新聞という意味ならむしろ誇るべきことだと今は思っています。商売であるがゆえに恣意的な紙面は作れないということは、新聞の限界であると同時に構造的な強みでもあり、公正さを担保するものであると確信しています。
 むろんソロバンから離れることができないことから派生する危うさを否定できません。読者に迎合し、ポピュリズムに走る恐れもあります。しかし、この現実世界で全く自由なものはあり得ませんし、制約や緊張状態こそ新聞を鍛え上げる所以のものと思っています。

言論機関にとって重要な私企業部分

 町人の強さと、建前やイデオロギーの脆弱さを説いたのは笠さんでしたが、私自身もこのことは皮膚感覚に近い認識として持っているつもりです。
 私の家は筥崎宮の近くで代々醤油の製造と販売を業としておりました。普通のサラリーマンの家庭よりは人の出入りも頻繁で、建前が風船のように軽い人間の露わな姿を見てきたという自負は若い頃からありました。
 私は、新聞は二階建て構造になっていると社員によく言っています。
 1階は私企業として商法を始め一般ルールの下にある、いわゆる普通の会社の部分。財務諸表の世界ということもできます。2階は情報言論機関としての使命を帯びた特殊部分です。社内では、2階部分はよく理解されるが、1階部分は受け入れたくないという気分が強い。
 しかし、1階の私企業部分が強固でないと、言論・報道の自由などといっても砂上の楼閣にすぎません。新聞社は利潤追求が目的ではない。何も必要以上に儲かる必要はないが、企業体としてしっかりしていないと足元を見透かされます。メディアが多様化する中で、この部分が以前に比べ重みを増してきたことは否めません。

北朝鮮問題でも憂慮される「国民的熱狂」

 新聞社の社長として常時目を離せないのは、当然のことながら日々の紙面です。あらゆる企業の社長が自社の主力製品の出来ばえや評判を気にし、その改善に心を砕くように、私にとっては紙面が最大関心事です。2週間に1回、私と編集担当専務、編集局長、論説主幹による編集会議を開き、編集の大方針を決めています。ここで北朝鮮問題やアメリカのイラク攻撃、小泉改革に対する社としての対応や方向づけを行っています。
 私がいま憂慮しているのは、イラク攻撃と並んで北朝鮮問題です。拉致はもってのほかであり、この点をあいまいにしては北朝鮮と信頼関係を結ぶことは無理でしょう。
 とはいえ、北朝鮮憎しの一点張りで事態が好転するかといえば、そう単純ではない。日本の安全保障上の重要課題として北朝鮮の核問題も抱えています。先日、ソウルで韓国次期大統領の盧武鉉(ノ・ムヒョン)さんに会ってきましたが、彼は「韓国は、武装ゲリラの侵入や爆弾テロなど北朝鮮からいちばんひどい目に遭ってきたけれど、話し合いしか解決の道はない。だから太陽政策は続けていく」と言っていました。北朝鮮問題は単純な一次方程式で解ける問題ではなく、よほど冷静に対処しなければ国益を損なうと懸念しています。
 ところが現状はといえば、拉致事件で国民感情が沸騰し、冷静さは吹っ飛んでしまいました。「一億一心」、少数意見が許されないような過熱状態が日本列島を覆っています。
 思えばつい60年前、日本は米英憎しで同じような異様な国民的熱狂の中にありました。私が尊敬する韓国のあるジャーナリストはこう言います。「日本の皆さんなら、ほんの数十年間の日本がそうだったのだから、北朝鮮の異様な現状を理解できるはずです」。盲点を突かれた思いでショックでした。他人の欠点はよく分かるけれども自分のことは一向に見えないものです。
 笠さんは42年前の昭和36年にこう書いています。「今の日本は一見言論自由の花盛りのように見えていて実はどこか古い時代から命じ大正にかけて生きてきた、ものを言わせない精神が残留してはいないか。昔は刀にかけて次は国家権力にかけて人にものを言わせなかった」。
 それでは今は何か。笠さんは断定してはいませんが、私は集団的熱気だと思います。これに逆らうとレッテルを貼られます。国民感情が同じ方向に沸騰するのを煽るメディアの傾向が昨今目立ちますが、朝日新聞はたとえ風当たりが強くとも、これに迎合せず冷静に対処していくつもりです。
 多様性が許されないことほど怖いものはない。緒方さんも笠さんも集団の熱狂を嫌い、孤独な自分だけの時間を大切にする人でした。ジャーナリストとして、いや人間として、これは個の確立や自立のために大切なことだと思います。
 日露戦争後のポーツマス条約に、朝日を含めた当時の新聞は猛反対し、国民は「国辱外交だ」といきり立ち、日比谷交番の焼き打ち事件が起こりました。昔から外交案件は安っぽいナショナリズムをかき立てる恰好のテーマです。残念ながら新聞のこの点に関する実績は芳しくありません。心すべきことです。

経済の成長と停滞を予見した笠さんの卓見

 日本経済は10年以上にわたる長期低迷の中にあります。1960年代以降のほぼ30年間、調子が良すぎただけに、多くの国民は現状について何か狐につままれたような気持ちでいるように思います。
 その原因や治療法について様々なシナリオや論が賑やかですが、日本経済の深い病巣と異常さについて40年前に笠さんが発した警告を思い出します。その著書『花見酒の経済』(昭和37年)で、異常に高騰した土地が信用膨張のテコになって経済の高度成長をもたらしているメカニズムに初めてメスを入れました。いま振り返れば大変な卓見です。現在問題になっている26兆円にのぼる金融機関の不良債権の多くは土地を担保に貸し出したものです。その地価は、バブルで異常な価格をつけていましたから、銀行は採算性とはほとんど無関係に融資を拡大しました。
 これ以上は触れませんが、笠さんの見解にしたがえば、高度成長といまの長期停滞は実は同じ根っこを持つものであり、経済の体質に問題がある以上、ちょっとやそっとで解決できる代物ではない。暗いトンネルを抜けるには、なお相当の月日を要すると覚悟する必要がありそうです。

若者に読まれる新聞作りの努力を

 同方向に流れやすい集団的熱狂とともに気になるのは、最近、大学生を始め若者が新聞や本をあまり読まなくなったことです。言うまでもなく民主主義は国民が一票を投じる際、必要な情報と判断力を持っていることを前提とした政治体制です。でなければ民主主義というのは最悪に近い政治体制かもしれない。
 その情報と判断力は、新聞から最も確実に得ることができると私は思います。テレビなどたくさんのメディアがありますし、いくつかの面で新聞より優れた機能を持つことを否定しません。しかし、情報の片々だけでなくそれらを組み立て、整理し、個々人の主体的な判断に供することが最も確実にできるのは新聞だと、これは手前味噌ではなく確信しています。
 理屈はともかくとして、皆さんの周囲を見ても、活字人間ほど自分の言葉と論理を持ち、人間的な深みもあるということは経験的に言えると思います。しかし、次代の日本を背負う中核であるはずの大学生が新聞を読まない。購読しているのは1割かせいぜい2割でしょう。学生は周囲にいろいろ刺激があって忙しすぎるし、携帯電話にお金を持っていかれるという事情もあるようですが、新聞の作り手側としてもっと若者に魅力的な紙面を提供する必要があると大いに自覚し、また努力してもいるところです。
 さいわい新聞は、すべての世論調査で情報が最も正確で信頼性が高いメディアであるという結果が出ています。「国民はその水準にふさわしい新聞しか持つことはできない」といわれますが、私にとって新聞は生涯をかけた仕事であり使命です。何としてもこの信頼や期待を裏切ってはならない。
 緒方さんや笠さんが心血を注いだのもまさにこの一点にあり、私の残りの人生をかけるに値するチャレンジだと思っています


<第500回二木会のお知らせ>



現在の危機と二人の新聞人



 館友の皆様、新年明けましておめでとうございます。
 本年も皆様にとって輝かしい年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

 修猷二木会も昭和27年4月より開催されて以来、ついに500回を数えるに至りました。半世紀にも及ぶ歴史に、修猷館の伝統と卒業生の皆様の熱意を感じ、改めて感慨を深くするところであります。

 この記念すべき第500回の二木会の講師には、朝日新聞社社長の箱島信一さん(昭和31年修猷館卒業)をお迎えします。
箱島さんより、朝日新聞でかつて論陣を張った緒方竹虎、笠信太郎という、修猷館の大先輩をあらためてご紹介いただきます。
 現在、海外では度重なるテロや一部国家の核開発問題、国内ではデフレ、失業率の増加など、「危機」が感じられる状況にあります。このような現在の危機を考えるにあたって、この昭和を代表する二人のジャーナリストの考え方や気概を学ぶことは、われわれが21世紀に進むべき道を探る手がかりになるのではないでしょうか。

 多くの館友の皆様のご参加をお待ちしています。
 尚、出席のご返事は2月10日(月)必着でお願いします。



東京修猷会 会 長 藤吉 敏生(S26)
      幹事長 渡辺 俊介(S38)




テーマ  現在の危機と二人の新聞人     
講 師  箱 島 信 一 氏(昭和31年卒)
 朝日新聞社 代表取締役社長
日   2003年2月13日(木) 午後6時から 食事
              7時から 講演  
場   学士会館 千代田区神田錦町3−28
           電話 03-3292-5931
  地下鉄東西線      「竹 橋」下車5分
  半蔵門線・新宿線・三田線「神保町」下車3分
会   3,000円(講演のみの方は1,500円)
  学生及び70歳以上の方は1,500円(講演のみの方は無料)