第497回二木会


古代インドの生死(しょうじ)観

〜仏教の誕生・2500年前のインドの世界〜



講師  下田正弘氏(昭和51年卒)
東京大学大学院人文社会系研究科助教授・文学博士

2002年10月10日(木) 学士会館 午後6時から 食事
                      7時から 講演


(1)はじめに  学問としてのインド哲学

 現在確かめられる最も古い言語であり、また特殊な宗教世界の言葉であったヴェーダ語は、印欧言語のルーツであるとともにその文化の基礎をなしています。18世紀、植民地学の一つとして西洋によって『ヴェーダ』聖典の解読が始められ、やがて仏教研究へと受け継がれていきました。現在の仏教研究は、実は西洋世界によって作り上げられたものです。
 日本は明治開国以降に少数のエリート研究者を渡欧させることによって、200年の蓄積を持つ西洋のインド学や仏教学を学ばせるとともに、わずか20年ほどで西洋を凌ぐほどのインド哲学あるいは仏教学という学問分野を作り上げました。


(2)楽観的世界観(『ヴェーダ』の世界)

 今から3000年前の『ヴェーダ』には現代人の考える「時間」という言葉はありませんでした。古代インドの人々にとって「時」は予め存在するものではなく創造するものであり、しかも朝誕生し日没に死する1日限りの命を持つものでした。つまり生きていることは、毎日が新たに誕生する時に出会う出来事となるのです。
 『ヴェーダ』の中にある賛歌には、姉妹である暁と夜二柱の女神が、出会いすれ違うことにより「時」が生まれるとされ、新しい「時」の誕生が心からの喜びをもって歌われています。この繰り返しの中にはそのために果たさなければならない約束事があります。姉妹は立ち止まることが許されず、ただすれ違うために出会うのです。そこには、大切なものを手に入れるためには同じように大切なものを犠牲にしなければならないという「供儀(くぎ)」という、宗教にとって大切な捉え方が窺えます。
 古代インドの人々にとって、最も貴重なものである「時」が生まれること、言い換えれば自分が存在することは、大きな代価が支払われた結果と考えました。今の世界に生きていることは、前の命を代価につまり供儀して得たのであり、そして今の命もまたどこかに向かって供儀されなければならないのです。これが「輪廻」という考え方に発展していきます。このように終りのない大きな命に生まれ変わっていくという考え方は、死について積極的な意味を見出す前向きな生死観と言えます。


(3)悲観的世界観(異端派)
 
 しかし私たちは時間が続くことが苦しみであるような辛い経験に出会うことがあります。前向きな明るい世界観に立てなくなったとき、時間の存続は耐えられない重荷になります。
伝統世界の変化の中で共同体や関係性が崩壊していった紀元前5世紀頃は、まさにそんな世界観が強く支配した時代でした。そんな中、自分と切り離され物象化された「時間」という考え方が現れました。言うなれば「時間」はとうとうと流れる運命の河の流れのようなものであり、自分はそこに無力に巻き込まれて流されていき、為す術もないという考え方です。それは、結局は何も意味のあるものは無いという虚無的世界観に通ずるものであり、悲観的な世界観に圧倒されています。


(4)仏教の誕生

 「命の永遠」という考え方が確立したウパニシャッドの時代と、それを虚無思想が押し返そうとする時代の狭間で、仏教は生まれました。仏陀は、「永遠」でも「虚無」でもない中道の世界観を説きました。自分が存在しているという事実は、「永遠」や「虚無」という言葉を超えています。
仏教で説く最も大切な教えである「諸行無常」の「行」とは、「全体として意味を持つ存在を作る」行為を指しますが、それは私たちが生きている実体そのものです。私たちは毎日の経験を積み重ねてそれを生涯繰り返し、その経験の全体を統合して「私」という世界を作っていきます。こうしてそれぞれが言うなれば作品としての「私」を作りつづけているわけです。この世界を「私の世界」と捉えてしまうことに対して、仏陀は次のように言いました。
―――そうして作り上げた世界は、あなたにも私にも属さない―――
これが諸行無常の本来の意味です。自分が世界を包んでいるのではなく、自分が世界に包まれているのですから、自分が生まれている事実は、自分では本来説明できないはずです。それにもかかわらず、自分の中に世界を取り込み、世界の意味を自分が決めてしまおうとしているというのです。そして世界の意味は、行き着くところ、「永遠」か「虚無」という両極になってしまうのであり、そのどちらも自分では受容しきれないものになってしまうのです。それに対して仏教で言う中道という生き方は、変わらない世界や自己を作り上げていくのではなく、変わり行くままに受け容れることであります。変わり行く姿に命の象徴的なありようが表現されているのであり、それをそのまま表現することを教えるのです。
 最後に仏陀の遺言を掲げて、この講演を締めくくりたいと思います。
―――あらゆる作られたものは留まることはない。放逸なることなく、熱心に歩め―――
 あらゆるものが変わっていくことと、熱烈に自分の命を生きていくことは、一つの出来事として成り立っているのです。
 本日は有難うございました。


      




 
 
 
 
 

<第497回二木会のお知らせ>

古代インドの生死観
 

〜仏教の誕生・2500年前のインドの世界〜

 

初秋の頃、ようやく暑さもやわらいでまいりましたが、館友の皆様におかれましてはお元気にお過ごしのことと存じます。

10月の二木会の講師には、東京大学大学院・人文社会系研究科の下田正弘助教授(昭和51年修猷館卒業)をお迎えします。下田さんは、東京大学に入学以来、インド哲学、仏教思想を専門にされており、インド留学経験もお持ちの、古代インドに関する日本屈指の研究家であります。

人が生まれて死んでいくという当たり前の事実が、どんな形で捉えられていたか、下田さんのお話によって、2500年前の仏教が生まれるインドの社会を覗いて見ましょう。私たちが考える生死のありさまとはまったく違った景色がそこには開けており、今の私たちが、いかに限られた小さな世界に閉じ込められているかがわかるのではないでしょうか。

多くの館友の皆様のご参加をお待ちしています。
 尚、出席のご返事は10月7日(月)必着でお願いします。

東京修猷会 会 長 藤吉 敏生(S26)
      幹事長 渡辺 俊介(S38)

 

1.テーマ  古代インドの生死観 〜仏教の誕生・2500年前のインドの世界〜

2.講 師  下 田 正 弘 氏(昭和51年卒)
        東京大学大学院人文社会系研究科助教授・文学博士

3.日 時  2002年10月10日(木)  午後6時から 食事
                            7時から 講演

4.場 所  学士会館 千代田区神田錦町3−28
                電話 03-3292-5931
         地下鉄東西線      「竹 橋」下車5分
         半蔵門線・新宿線・三田線「神保町」下車3分

5.会 費   3,000円(講演のみの方は1,500円)
         学生及び70歳以上の方は1,500円(講演のみの方は無料)