東京修猷会・会報 第9号 1997年(平成9年)1月1日発行

news_daiji_s.jpg (3620 バイト) Taiyo_s.jpg (5599 バイト)撮影:大森正憲氏(S29) kaiho9-1_s.jpg (4953 バイト)第1面画像

目次 (中項目の下線がある部分をクリックするとその文面に飛びます)

大項目 中項目 筆者 卒年
巻頭言 21世紀、日本は大丈夫か 藤吉敏生 S26
館友だより インドとパキスタンを訪ねて 深町宏樹 S37
  米大統領選を取材して 渋田民夫 S40
母校便り 現代修猷生気質 新谷 勉 S56
修猷ものしり百科 「私が体験した中学修猷館から・・」 福田純也 S27
’96二木会から 平成8年二木会 棚町精子(抜粋文責) S40
  第435回:作者と作品の間にあるものは   講師:原口真智子 S45
  第411回:魅力あるライフスタイルを求めて   講師:宮崎暢俊 S35
福岡から/東京から クラブOB会(ESS、無線部)短信 東京修猷会事務局 ---
若い広場 真面目って何ですか 松岡 烈 S59
学年だより 卒業40周年記念同窓会 中村保夫 S31
  卒業35周年記念行事 井島 稔 S36
  卒業30周年記念にネパールに校舎を寄附 学年幹事 S40
’96総会報告 「平成8年度総会は6月14日・・」 渕上一雄 S45
ニューヨークより ニューヨーク修猷同窓会短信 水月文明 S29
ご案内・お願い ゴルフ会の案内、二木会記録蒐集お願い 東京修猷会事務局 ---
  編集後記 会報事務局 ---
  平成9年度東京修猷会総会の案内 担当学年幹事 S46

hujiyoshi_s.jpg (6269 バイト)   Sijo_s.jpg (12717 バイト)巻頭言

二十一世紀、日本は大丈夫か
藤吉 敏生 (昭和26年卒) 日刊工業新聞社会長

 世界的な大競争時代の中にあって、日本は今、国全体を覆う閉塞感で将来への目標を失いかけているように思える。 第二次大戦後の荒廃から見事に立ちあがり、今日の繁栄を築き上げた国全体のエネルギーはどこへ行ったのか。私はあのエネルギーが消えたとは決して思いたくないし、再びエネルギーを燃やすことは可能だと信じている。問題は誰が、何が、その発火源となるかである。この発火源を早く、しかも計画的に創らなければ二十一世紀の世界での日本のポジションがみえてこないといえば言い過ぎだろうか。

 今の日本は政治、経済、社会、教育―どれをとっても戦後五十年間続いたシステムが通用しなくなっているのではないか。その背最にあるのは、いずれのシステムも長い間の右肩あがりの経済成長を前提に構築されている点を指摘せざるを得ない。しかも、その改革へのエネルギーが乏しいところに問題がある。
 九一年にバブルがはじけて始まった今日迄の長期不況は、これ迄と違って明らかに構造的な問題から派生しているようである。実質GDP成長率でみると、九一年度から景気が悪化しているのがはっきりする。その以前は五%成長だったものが、九一年度に三・一%に減速し、九二年度〇・四%、九三年度〇・二%、九四年度〇・五%、九五年度二・三%と推移した。九二年度から地価が下落し、緊急経済対策、公定歩合の相次ぐ引き下げなど一連の景気対策を取り続けても三年間ゼロ成長が続くという、わが国にとって戦後初めてという異常事態が続いているのはご承知の通りである。

 これ迄の循環的な景気下降であれば日銀の公定歩合の引下げ、大型補正予算による公共投資という財政金融対策で景気上昇局面も期待できたであろうが、今回は何故十分な効果を発揮できず、立ち直れないのか。私は@企業の国際競争力が低下したA資産デフレ圧力B行、財政改革の遅れ―といった問題に対する対処のまずさ、遅れをあげたい。しかも、このいずれもがデフレ圧力となって景気上昇の足を引っ張っているのである。今、米国は先進諸国の中で唯一といっていい程.好景気を続けている。一九九〇年代に入って日本と米国の立場は逆転したのである。一九八〇年半ばの米国の苦悩ぶりがウソのようである。十年間苦しみながら米国が立ち直った理由をあげるなら@基幹産業が軒並み競争力を失った中、脱工業化に積極的な手を打ったAその中心が情報通信産業へのシフトBその結果、企業内情報化投資が日本よりはるかに進んだCベンチャー精神で新規産業を創出した―などである。なかでも企業内情報化投資、つまりイントラネットの急速な進展によって、企業の間接部門の簡素化、組織のフラット化が進み、これが企業の収益力をひき上げ、産業の競争力強化を引出した。その背景にあるのはクリントン―ゴアコンビによる「情報スーパーハイウエー構想」の推進だろう。つまり、社会資本整備の新しい柱に情搬通信インフラを据え、ここに大規模な財政を投人したのである。日本が相も変らずといおうか、景気テコ入れ策として公共投資に大幅な財政を投入し続けたのとは違うのである。

 私がここで指摘したいのは、今の閉塞感を一掃するには日本も米国が実施した目標を定めた大胆な改革を実行するしかないということである。資源のない日本は資源を海外から輸入し、これを最適に配分して効率のよい経済成長をはかる―ことで今日、経済大国になった。しかし、そのパターンが通用しない時代に入ったことを日本国民全体が認識しなければならないのではないか。その上で、繋急課題として@技術革新による新産業の創出A高度工業化への脱皮、といった二十一世紀型産業の構造改革への明確なビジョンを作るべきである。

 今の日本人は知識があっても知恵が出ない、農耕民族特有の総ヨコ並び状態にあるのではないか。偏差値教育の弊害とはいわないが、二十一世紀、日本が激しい世界の荒波を乗り切り、世界の信用を取り戻すには狩猟民族的な発想が必要ではないか。

 それは各人が個性を発揮し、あまり周りをキョロキョロすることなく自己主張し、常々と一人歩きする勇気と決断を身に付けることだ。今、日本は東南アジア諸国だけでなく、世界中からその進路について注視されている。今こそ、日本古来の伝統ある文化を守りながら、柔軟な発想と行動をとらなければ、二十一世紀世界の中で孤立する恐れさえする。


館友だより

インドとパキスタンを訪ねて
 深町 宏樹 (昭和37年卒) アジア経済研究所主任調査研究員

 昨年九〜十月、三週間ほど政治経済調査のためインドとパキスタンを訪れた。丁度五年ぶりのインドでは私は浦島太郎になっていた。九一年からの経済自由化で、家電製品等々があちこちの店で売られ、新しい五つ星ホテルはシングルで室料だけでも一泊三百五十ドルという超高額。「これが本当にインドなのか?」という感じだった。

 もっとも、経済自由化につきものの汚職でラオ前政権が、四月から五月にかけての総選挙の結果、退場することになったという事実は、これまた紛れもなくインドが「世界最大の民主主義国家」ということによるものである。

 三年ぶりのパキスタンも変化していた―残念ながら悪い意味で。自由化などの経済改革をインドより二年ほど先に始めたパキスタンでも汚職がひどくなっており、それが問題を様々に増大させていた。そのため、私がパキスタンにいた九月下旬から、ブットー政権は崩壊間近との憶測が乱れ飛んでいた。そして十一月五日、大統領の強権発動によって下院が解散され、ブットー首相は自動的に解任された。

 インドとパキスタンのこの相違は何によるのだろうか。歴史を振り返ってみよう。両国は独立前は共に英領インドを成していた。そして非宗教国家としてのインドとイスラーム教徒の国家としてのパキスタンという二つの別々の国として、一九四七年にイギリスから独立した。

 独立後のパキスタンは、ご存じのように一七〇〇キロほど離れて東西に領土(東パキスタンは現在バングラデシュ)を持ち、間にはけんか別れした敵国インドがある。

 この地理的事情のためパキスタンは国土防衛上、建国初期から文民政治家よりも国軍が強い発言権を持っていた。一九七一年に第三次印パ戦争でパキスタンが完敗し、バングラデシュが独立した。残された(西)パキスタンは地政学上デリケートな位置にある。事実、米・ソ冷戦後期の七七〜八九年、西隣の国アフガニスタンに当時のソ連軍人十万が駐留していたため、パキスタンでは国軍の権力は絶対的なものだった。その時期に、当時の軍人大統領が憲法を決定的に「改正」し、自らの大統領権限を絶対的なものにした。彼の死後も、その絶対的権限は維持されている。現在の大統領は文民だが、軍部の政治介入を拒否することはできない。インドと違って、国民の間に民主主義が根づいていないバキスタンでは、悪政は、選挙を通じて解消されるのではなく、大統領の強権発動で内閣を解任することによって解消されるというのがいつものことである。

 ブットー政権を引き継いだ暫定内閣のハーリド氏は八十才。事実上は首相の経済顧問のバルキー氏(パキスタン人で世界銀行副総裁職を休職中)が力を握っているであろうと想像できる。

 「だからパキスタンはだめで、インドはいいのだ」などと言うつもりはさらさら無い。両国は今なお敵国同士として核兵器を含む軍備の拡張競争をやめようとしない。それが双方の国内外の政治・経済に及ぼす悪影響は両国自らが最もよく知っている。パキスタンは特に、対印関係の改善がなければ国内の政治も経済も改善され得ない。わが国は、戦後の経済復興のためにインドの鉄鉱石とパキスタンの綿花に大いに助けられた。今度はわが国が、両国の内政に干渉することなく、平和国家として両国の架け橋になるべきである。インド、パキスタンの両国とも、それをわが国に強く期待している。


米大統領選を取材して
 渋田 民夫 (昭和40年卒) 西日本新聞ワシントン市局長

 長かった九六年米大統領選挙は、予想どおりクリントン大統領の楽勝で終わった。
 「長かった」とは言っても、大統領選がいつ始まったかは当地の連邦選挙委員会に聞いても分からない。日本のように選挙が公示されるわけでもない。通常、民主、共和両党の大統領候補を選ぶ予備選(二月初旬)に向けた選挙戦がスタートされ「三百日選挙」といわれるが、私の取材実感から言えば、二年前の一九九四年十一月中旬には選挙戦は始まっていた。

 当時の私の取材日誌にこう記している。「クリントン、選挙請負人のディック・モリスを雇う」「選挙屋のモリスが毎朝のホワイトハウスの戦略会議の最上席に。ホワイトハウスは政策より選挙優先態勢」。

 この年十一月初めの中間選挙で、クリントン民主党は上下両院の多数派を四十年ぶりに共和党に奪われた。大統領の支持率も四割以下に落ち込み、米国のほとんどのメディアも「クリントン再選は絶望」「再選に黄信号」などと伝えていた。

 その時期に、政党の区別なく当選を請け負う「米国一の選挙参謀」モリス氏を迎え入れたのである。クリントン氏は過去、下院選、知事選で二度の落選経験があるが、この時にカムバック選挙を請け負い当選させたのがモリス氏。以来、クリントン政治のすべての照準は二年後の再選に合わされたのである。

 同時期、中間選挙の大勝で勢いに乗る共和党では、実力者が大統領選出馬を表明し始めた。当時の取材日誌にはドール氏はじめ十数人の候補予想顔触れの経歴コピーが挟んであり、そのページに「十一月末、大統領選始まる」とある。

 以後、二年後を目指した大統領と共和党の攻めぎ合いが始まるが、一年四カ月後に共和党候補がドール氏にほぼ決まった時点(九六年三月)には勝負はついていた、と言っていい。

 クリントン氏の勝因は新聞や雑誌が指摘しているように、リベラル路線を捨て保守寄りの中道路線にシフトしたクリントン氏が「中道志向で生活重視が強まった米社会の主流である白人中間層をつかんだ」点にあり、これに「好調な米経済」が追い風となった。開票日に私が送稿した解説記事の見出しも、「好景気が後押し」「中道路線が奏効」「米国の強さより生活選んだ国民」だった。

 共和党の政策をも躊躇なく取り込み、保守中道路線を突き進んだクリントン氏の戦略は、選挙に勝つためには「政治的信念よりも世論調査を優先する」モリス氏の影響によるものであろう。そのモリス氏は選挙二ヶ月前に女性醜聞が発覚して去ったが、その時はクリントン再選は事実上決まっていた。

 この間、共和党は中間選挙大勝の勢いに乗って、保守改革を強引に推し進めてきた。同党右派の改革路線が全面支持されたと勘違いしたのである。景気が上向き政府への不満よりも教育や福祉・医療、地域の安全など身の回りの生活を重視しはじめた米国民―とくに女性には「危険な革命路線」に映った。

 その意味では、共和党を大きく右旋回させたギングリッチ下院議長は、クリントン再選への最大の貢献者かもしれない。

 同党長老で穏健派のドール候補は、懸命に路線修正を図ろうとしたが、共和党主流となった右派の影響から抜け出せなかった。候補として舞台に上がった時には「観客の主流である中道層はクリントン氏に奪われていた」というのが、九六年米大統領選を裏から見た実感である。


Bunkasai_s.jpg (11899 バイト)母校便り
現代脩猷生気質
 新谷 勉 (昭和56年卒) 脩猷館高等学校教諭 同窓会係

 月日の経つのは本当に早く、今年の在校生はちょうど私が修猷に在籍していた時に誕生した子供達になります。今年度は三十一クラスで生徒数は千三百名を越えます。男女比は約七対五ですが、一年生についてはほぼ一対一になります。男子クラス、いわゆる「男クラ」はありません。一、二年生の時に男クラであった私としては残念というか、うらやましいというか複雑な心境です。ないものといえば「モーカリ」もです。今から考えると「古き良き時代」の話になってしまいました。現在は二年生から理系・文系のクラスに分かれ、それぞれのコースに難関大学志望者のための英数クラスがあります。毎朝や夏冬の休み中には全員参加での補習授業も行われ、東大、京大等難関大学への合格者の増加をはじめ、進学状況も着実な向上を示しています。

 文化祭や運動会をはじめとする諸行事も非常に盛んに行われています。特に運動会の規模縮小が叫ばれる今、生徒の手による運営組職や、タンブリングでの「七ピラ」や騎馬戦・棒倒しの格闘競技はいまだに健在です。三月の「OBによる応援歌指導」は前回で十八回を数え、恒例の行事となっています。昨年、創立二百十周年の記念事業として同窓会の援助により業施された生徒海外研修も今年で二回日を迎え、全学年より選抜されたメンバーにより今年も大いなる成果を収めました.これもまた同窓会の尽力によって実現した二年生全員の県外研修旅行「つくば・東京研修旅行」が今年も八月に行われ、進路選択に迷う二年生にとって、研究や仕事の現場に赴き、その実態を目の当りにしたこの経験は間違いなく大きな財産となったようです。この場をお借りしてお世話にたった先輩方にお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

 部活動はその入部率も高く、放課後の校内は生徒達の明るい声で満たされます。中には「部活命」という生徒もいて、私自身の昔を見るようで学業成績が心配になったりします。運動部には女子マネージャーがいて、かけがえのない存在になっています。

 さて生徒の気質ですが、全体的に少々幼い感じで、よくも悪くもルーズでしたたかというか、これは修猷生に限ったことではなく、現代の高校生に共通する所なのでしょう。ただ行事になると持てる力を十二分に発揮するそのたくましさにはいつも驚かされますし、慌ただしい学校生活の中でそれぞれが楽しむすべを知っていて修猷ライフを楽しんでいるようには見えるところはいかにも「修猷生」といった感じがしてたのもしいかぎりです。教員として修猷に在籍する私としては、校舎全面改築を控え、年々変わりゆく環境の中にあっても決して変わることのない修猷に集う者の持つ「思い」をいつまでも大切に育てたいと思っています。最後になりましたがいつも修猷を愛し、修猷を見守ってくださるOBの皆様の御健康をお祈り申し上げて私の報告を終わらせていただきます。


Bankara_s.jpg (4181 バイト)修猷ものしり百科

私が体験した中学修猷館から修猷館高校への移行の時代

福田 純也(昭27卒相当)

 年頭ではありますが、東京修猷会々報は年一回の刊行でもあり、戦後の教育制度の大改革に従った中学修猷館から修猷館高校への移行の模様について書いておきたいと思います。常任幹事会の度に「昭和二十三年卒と二十四年卒は同学年ばい」との発言がありますが、その解説でもあります。

 戦前、中等学校の修業年限は五年制であり、四年修了で上級学校への進学が許されていたが、昭和二十年三月、修業年限四年制の実施により十五年入学者が二十年五年卒、十六年入学者が二十年四年卒として二学年
同時に卒業した。この四年卒業制度は二十三年三月まで適用された。

 昭和二十一年三月、中学校の五年制度が復活したが、六十三名が四年卒となり、他の四年は五年に進級した。四月、私たちは「福岡県中学修猷館」に入学した。旧制中学校として一年から五年まで揃った最後の年度となった。十一月三日、修猷館同窓会が創設された。

 昭和二十二年四月、戦後教育制度の大改革の第一歩として新制中学校が発足し、私たち二年は「福岡県中学修猷館併置中学校」二年となった。三年、四年、五年は、中学修猷館の三年、四年、五年であった。私たちは旧制度の中学修猷館に併置された新制中学校の生徒というわけであった。修猷館では、この年新制中学校への入学はなく、この年度は一年生は居なかったのである。

 昭和二十三年三月、五年が卒業したが、この時が、中学修猷館の最後の卒業とされている。また、三年は新制度扱いとなり、形式的に中学修猷館併置中学校卒業生とし、卒業証書が授与された。四月、「福岡県立高等学
校修猷館」が発足し、中学修猷館五年卒の三百四十名中、二百三名が三年に、旧四年が二年に編入され、併中卒業の旧三年が一年に入学した。私たちは「福岡県立高等学校修猷館併置中学校」三年に進級した。

 昭和二十四年三月、「福岡県立高等学校修猷館」の第一回卒業式が行われた。この学年は、前年中学修猷館を卒業し、高校三年に編入され、この時高校を卒業したのである。この年は中学五年卒業が認められ、二年修了の五名が卒業したよしである。私たちは「福岡県立高等学校修猷館併置中学校」を卒業した。

 四月に、私たちは「福岡県立高等学校修猷館」に入学した。男女共学制となり、福岡中央、西福岡、第一女子の併中その他から約八十名の美女(波呂喜代子修猷館同窓会事務局長談)が同級生となった。学校区制も実施され、これを巡る話題も多かった。この年、館名(校名)問題が起こり、八月、「福岡県立修猷館高等学校」と改称された。

 昭和二十五年三月、「福岡県立修猷館高等学校」の卒業式が行われた。高校通算二回目であるが、新校名としては、この時が最初である。四月に、新制中学校の全課程を了えた新入学生を迎えた。

 これ以後、修猷館の生徒は「福岡県立修猷館高等学校」に入学し、これを卒業することとなり、男女共学制も、多少の改変はあったにせよ学校区制も続いているのである。

 以上、修猷館の卒業ということについて、昭和二十年三月には、中学五年卒と四年卒があり、二学年が同時に卒業したこと、同一学年としては、二十一年中学四年卒と二十二年五年卒とがあり、また、二十三年中学卒と二十四年高校卒も同一学年であることが御理解いただけたと思います。


’96二木会から 講演抜粋(文責・棚町精子S40年卒)
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◆作者と作品の間にあるものは◆
第435回 原口 真智子(昭45卒)作家

 -平成7年「クレオメ」 で芥川賞候補。主著は「神婚(かみよび)」(立風書房)-

 私がまだ学生の頃ですが、『月山』という小説が世に出ました。この作品で、森敦さんが六十二歳で芥川賞を受賞したのです。

 私はその『月山』を初めて読んだ時、なんてスゴイ小説があるんだろうと、スケールの大きさに衝撃を受けたんですね。この森敦という人は一体どんな人生を送ってきたんだろうか、と。

 両白いことにそれから十年余り経って、ある文学賞をきっかけに私は森先生とお近づきになることができました。学生時代に受けたあの感動の源を探るチャンスを得たわけです。

 森先生という方は、非常な電話魔でありまして、しょっちゅう私の家に電話をかけてこられた。そのおかげで、私はたくさんのことを教わりましたし、また『月山』という小説に秘められた複雑な構造を知ることもできたのです。

 森先生は四十年近くの間、何度も放浪を繰り返しているのですが、その中で得た宇宙観のようなもの、大変ややこしい内容なのですが、無理やり一言で言うなら、「一微塵(みじん)の中に宇宙がある」ということを、月山の美しい自然描写、人物描写の中で表そうとしたのでした。ご興味をお持ちの方は、森敦著『意味の変容』をご覧下さい。

 しかし複雑に絡み合った思想、構造が、直接小説に出るわけではありません。小説というものは、様々な構造を裏に隠しながら、さらに作者自身をも浄化して、初めて一つの物語世界を創ることができるわけなのです。だからこそ読者は、自分のものとして感動することができるのです。

 ところで、この感動とは一体何なのでしょうか。

 大江健三郎氏が『新しい文学のために』という本の中で、「文学の秀れたものは、なにより僕らに励ましを与える」と書いています。確かにそのとおりで、たとえばどんなに悲惨な内容の小説を読んでも、感動し励まされた記憶を皆さんもお持ちではないでしょうか。つまり絶望でも描き尽くされていれば、その向こうに何か別のものが見えてくるんですね。

 人生の途上で、誰でも絶望せざるをえない時があると思います。でも、その絶望を妥協することなくどこまでも見つめていくと、対岸に違うものが見えてくる。可能性というか、希望というか、それを文学は描くんですね。

 人間とはなんて悲しい生き物だろうと思う。なんてつまらない、卑劣な生き物だろうと思う。しかし、それがある高みを越えた瞬間、ああ悲しい、だからこそ愛しいと感じるんです。これが文学の神髄だと私は信じています。そして人間を愛しいと感じることは、生きることにおいて励まされているということなんですね。

◆魅力あるライフスタイルを求めて◆
第441回 宮崎 暢俊(昭35卒) 熊本県小国町長
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 -小国町は杉の木造建築を軸にしたユニークな町づくり、人づくりを推進して仝国から注目を集めている。人口一万、林業・農業中心の典型的過疎の町。八三年から現職-

 都市生活は刺激的で魅力的と思われてきましたが、気持ちの中では、緑豊かな安らぎのある場所で暮らしたいと思うようになってきています。それを地方自治体が叶えられないか、というのが今日の話の中心です。

 戦後、経済成長を追求してきた中で、バブルを頂点に成長の善悪が見えてきた、今までは何か違っていたんじゃないか、という気持ちを国民が持つようになってきています。例えば高齢者がリタイアして故郷に戻るというのが多くなっていて、価値観、人生観に変化がみられます。どんな生活が夢かと考えてみますと−例えば、森の中にログハ
ウスを建てて、横には小川が流れている。朝風呂の温泉にはいる。朝食は屋外のテラスで近くでとれた牛乳、無添加ハムやソーセージ、近くでできたバターとバン、自宅の菜園からの野菜を食べる。仕事をし、芸術に触れ、趣味を楽しみ、たまにはおいしい肉料理をレストランで食べ、酒を飲む。小国に住んでいる人達が、そんな暮らし方をし
てみようというのが、今やっていることです。

 そのライフスタイルをやっていくには、そのような場所を自分達で作り出していかなければいけない訳です。自然景観には恵まれているが、人間が作る景観−建築物、河川や道路の構造物−には、これまで美しさやデザイン、日本の風土に合っているかなど、ほとんど考えられていません。行政が「美しさ」をいうことはタブー視されてきまし
た。しかし人が自然から美しさを感じたり、安らぎを感じたりするんだったら、人間が作る物も人の心を満たすようなものを作っていかなければいけないと思います。小国には小国杉でドームや物産館・林業センター・人々の交流のための木魂館など多くの建物を、葉祥栄さんを初め何人もの建築家によるデザインで作っています。

 次に地域を創造的な場所にしなければなりません。山村は新しい魅力を作り出していく努力をしなければいけないと思います。自分達の地域にある資源−農産物、林産物、歴史的遺産、文化的活動、雰囲気、芸術家の方々、地域に縁のある人達、地域の風土、そういう全てのものを自主的に活かしていこう、というのが地域作りの考え方で
す。イベントをたくさんやります。美術フェスティバルを行なって、坂本善三美術館を作りました。音楽会はほとんど毎週あります。「町を自分達で変え、新たなものに挑戦していこう」という雰囲気が町全体に感じられるようになってきました。小国が気に入って移り住む方々も増えてきました。自分達の努力に外部からの人の力が加わって、小国での暮らしの魅力が増してきていますし、新しい活動もネットワークも広がってきています。ぜひ一度小国に来て、見ていただきたいと思います。


福岡から/東京から

ESS創部五十周年を祝う

 英語研究会は創部五十周年と英研同窓会創立三十周年を記念して、昭和三十七年卒の石橋靖雄氏ら東京と福岡の卒業生達が協力して、英研の生徒達が使えるように、母校にコンピューターを贈った。東京では創部当時の部長だった浅山寛厚青山学院大学教授(昭和二十二年卒)を招いて記念講演も行なった。

無線部OB会

 今年は、修猷無線部が出来て50年になり、有志で記念行事を計画しています。詳細は決まり次第、以下のホームページに掲載しますのでご覧下さい。 http://www.higuchi.com/JA6YAF/

 また、無線部OBの皆さんや、戦前の修猷ラヂオクラブの情報をお持ちの方はご連絡下さい。


Matsuoka_s.jpg (4469 バイト)若い広場

真面目って何ですか 松岡烈(昭和59年卒)

 「大人ってすぐに真面目とか不良っていうけど、それって何ですか。悪いことしても、大人にバレなきゃ真面目ってことでしょ。要領悪くてバレちゃう子が、不良ってことでしょう。」

 麻薬を密売する十八才の少女へのインタビューの一節だ。

 十三才の時に大麻や覚せい剤を覚え、やがて密売を始めたというが、一見可愛らしい普通の女の子にしか見えない。

 学校にもちゃんと通っていて成績も悪くないという。

 「君みたいな、真面目な子がなぜ薬物の密売を」。この質問への答えが冒頭の言葉だった。

 NHK・社会部の記者として警視庁の取材を担当して二年、少年犯罪の広がりと深刻さを、日々痛感させられている。

 かくいう私も高校時代、無期停学や謹慎処分をたびたび受け問題児とされていた。しかし、今の少年犯罪の実態は、我々かっての不器用なツッパリとはかなり違っているようだ。

 少年犯罪の中でもっとも深刻なのは薬物犯罪だ。覚せい剤の乱用で検挙された高校生は、この一年間でも四倍に増えた。

 最も問題なのは、覚せい剤があまりに簡単に手に入る点だ。

 ここ数年、繁華街や駅前で、外国人の密売人が、子供相手に覚せい剤や麻薬を密売する構図が出来上がっている。

 子供たちを新たな市場として狙う暴力団が、足がつきにくい外国人を利用して、薄利多売の街頭販売を展開しているのだ。

 それに加えて、子供の側の意識の変化も、覚せい剤の広がりの大きな要因となっている。

 覚せい剤は、子供たちの間ではエススピードと呼ばれている。使い方も、注射ではなく、火で炙って鼻から吸う方法で、一種のファッション感覚だ。「人間やめますか」の、かつての暗いイメージはない。

 街頭で話を聞いた、制服姿の真面目そうな高校生たちの口から、覚せい剤にまつわるこうした話がぽんぽん出てくる。

 始めたきっかけも「みんながやっているから」「痩せるから」と屈託がない。

 悪いこととは思わないのという質問は「人に迷惑かけてないから」と一蹴され、法律違反だと迫れば「バレなきゃいいじゃん」とかわされる。

 共通するのは、大人が決めたルールと、自分たちの価値観は別だという、ダブルスタンダードの存在だ。

 覚せい剤を乱用しながら、大人の前では真面目で良い子を演じきる、こうした子供たちの存在に、空恐ろしさすら感じる。

 しかし一方で、子供たちは、建前と本音の二つの顔を自己矛盾なく使い分ける大人の世界の縮図を、端的に反映しているだけなのかもしれない。

 冒頭の少女の言葉だ。「制服で歩いていると、普通のサラリーマンのおじさんが、“いくらでホテルへ行く”って声をかけて来るんだよ。父親だって、外では何してるか分からないって思っちゃうよね」。


学年だより

卒業四十周年記念同窓会

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三一会東京幹事 中村保夫

 昭和31年に卒業した我々(三一会)は今年で卒業40周年になります。3035周年と記念同窓会を行いましたが、還暦を迎えようとする40周年は感激でした。

 平成八年九月二十一、二十二日に行いました。福岡カントリークラブ和白コースでのゴルフ大会(52名参加)、ホテル海の中道での祝賀パーティ(庵原、柴田、石田先生を含め136名出席)、そして翌日の母校訪問と博多湾クルーズ(62名参加)と盛沢山の企画を地元組のご努力と素晴らしい天候に恵まれ楽しい一時を過ごすことが出来ました。

 ゴルフ優勝者には木戸龍一君(九州造形短大学長で著名な彫刻家)の力作裸婦像が送られました。母校では館長に迎えられお話を伺い、箱島信一君(朝日新聞社、取締役)より大先輩広田弘毅先生の書を寄贈しました。

 祝賀会では40年の歳月がなかったかの様にオレ、オマエの世界に戻り大いに盛り上がりました。90歳にならんとする先生方に、若僧あつかいをされハッパのかけられどうしでした。これからもお互い元気で4550周年での再会を約して会を終えました。

 故郷に

  仲間(とも)が集いて

 語らいぬ

  つきぬ思いに

  秋の夜白らむ

       中村

 

卒業三十五周年記念行事

三六会 井島 稔

 九月二十日夜、てんぷら「岩永」に有志若干名が集まって、打ち合わせと遠方より来る友を歓迎した時から記念行事は始まった。

 二十一日()は、福岡カントリークラブにて21名の参加によるゴルフコンペを行い、夜には96名の同窓生と4名の来賓の先生(池、石田、長島先生と船津現館長)がホテルニューオータニに集い懇親会を催した。クラスごとにテーブルを囲み、あの日あのときを語り、現在・未来を語る楽しい夕べとなった。

 二十二日()は、修猷館に午前九時に集合し、立替が計画されている館内を見学のうえ集合写真を撮り、バスで市内の新名所(福岡タワー・ベイサイドプレース・聖福寺・福岡城址・鴻盧館跡・西新商店街等)を見学して回った。総勢35名。

 午後3時には、出発地に戻り、29名が修学旅行に参加した。一路西海橋コラソンホテルへ急ぎ、地中海料理とワインのもてなしを受け、カラオケで、あの頃の歌を歌いまくり夜は更けていった。

 二十三日()は、ハウステンボスを見学し、JR全日空ホテルで同期の速水社長のご厚意で昼食を取り、帰途に就いた。うち8名は早朝より同期の西肥自動車の井上専務のご厚意により再びゴルフをして、同じバスで帰福。5時前に福岡空港で解散となったが、まだ去りがたく、てんぷら「岩永」にて反省会と40周年の企画会議に早変わり、楽しき三日間が終わった。

 なお、二月には東京三六会は厚木の七沢温泉でしし鍋を囲んで、珍しい大雪の中、露天風呂につかりながら楽しい一夜を19名で過ごしたことを報告しておきます。

 

昭和四十年卒しっとう会

 卒業三十周年にネパールに校舎を寄付

 昭和四十年卒業のしっとう会は、卒業後三十周年を記念して、ネパールのマレクー(カトマンズの西八十q)の町にある学校に、炊事室とトイレつきで三つの教室のある校舎を寄付した。平常は八、九、十年生が使い、トリブバン大学の学生も実習に使っている。しっとう会の川村啓造氏ら十二名が完成を祝って、95年の12月に現地を訪問した。


‘96総会報告 渕上一雄(昭和45)

 平成八年度総会は六月十四日、開催されました。

 今回は、初めての金曜日開催に加え、前々日福岡空港におけるガルーダ航空事故のため、最後まで不安がありましたが、有吉会長をはじめとする皆様のご理解と、新幹線などで駆けつけていただいた川村同窓会長、船津館長、恩師の方々の熱意に助けられて475名もの出席者を得て開催することができました。まず、皆様に厚く御礼申し上げます。

 総会では、有吉会長のご挨拶のあと、船津館長より、学生によるアメリカ研修、新校舎建設計画の報告がありました。

 懇親会では、テーマ「懐かしい出会いと新しい出会い」のもとに、今年の文化祭、昨年の運動会の映像をTVで放送し、雑誌「修猷」、運動部ユニフォームの展示を行ったほか、湯本(旧姓井上)君の名司会により、クラブ紹介をしました。文芸部からは、ドイツ文学の村上(旧姓山下)君と芥川賞候補の原口(旧姓大和)君、バスケット部からは全日本の後藤君が話をし、剣道部からは千田六段と宮崎四段が日本剣道型を披露しました。会場のあちこちでは、同期の輪、恩師を囲む輪、そして同年代を超えた話の輪の花がいくつも咲き、記念写真のためのフラッシュに覆われました。

 開始後一時間半で食料は完全になくなりましたが、様々なグループが壇上に上がったのち、船津館長と新卒9名を含む学生46名の集合写真で会は一段と盛り上がりました。締めは木村君の三々七拍子と彼の群小。名残りを惜しみながらも、全員が修猷新聞、学校案内と西新の蜂楽饅頭一個を持って二次会へと散会しました。

 最後に、総会が無事終了しましたことに対し、東京の方々、福岡の方々に深く御礼申し上げます。どうもありがとうございました。


ニューヨークより

ニューヨーク修猷館同窓会 会長水月文明(昭和29年卒)

 ニューヨークの修猷館高校同窓会は、いくつかあったごく小さな集まりから、当地で長年独立して事業をしておられる江川清氏(昭和35年卒)が、いろいろな情報をもとに、米国東部地区在住修猷館卒業生名簿を作成されたときに始まる。そしてこの名簿に載っている26名のうち16名の出席により、19945月に誕生した。現在、年一回の総会と春秋のゴルフ会を開催して、卒業生間の親睦を図っている。

 この小さな同窓会が母校に知られるようになったのは、958月に母校の創立二百十周年記念行事の一つとして、学生の海外研修団が、当地とワシントンを訪問した時からであろう。同窓会設立後一年目で、母校の館長、先生、学生の総数19名を歓迎することが出来、マンハッタンのビルの谷間に大声で館歌を響かせた時は、これはではないかと思ったものである。また、967月にも、第二回海外研修団を迎え、母校の状況や学生生活について話を聞くことが出来、卒業生冥利に尽きたものである。

 同窓会の通知、海外研修団の歓迎会の通知を当地の読売アメリカ新聞に広告掲載し、また、学生の歓迎会が写真入りの大きな記事として取り上げられ、全米に在住しておられる卒業生の方々からご連絡を頂くという嬉しいこともあった。

 この記事を読まれた方々は、ニューヨークに修猷館の同窓会があることを覚えておいていただいて、ご自身やお知り合いの卒業生が、仕事で赴任される場合や永住される場合にはぜひご連絡ください。お待ちしております。 


ご案内・お願い

 今年は、従来からの東京修猷会の行事である総会や二木会、それに会報の発行の他に、会員の皆様に楽しんで頂けるスポーツや文化的な集いを持ちたいと思っております。

 詳細が決まり次第、二木会の案内等にてご案内させていただきます。会員の皆様のご協力、ご参加のほど、よろしくお願いいたします。

東京修猷ゴルフ会のご案内

 かねてご案内の、東京修猷ゴルフ会を開催いたします。休日ではありませんが、ゆっくりとしかも格安の料金でプレーが出来ます。老若男女を問わず館友みんなが楽しめるゴルフ会を長く続けていきたいと思います。12組を予約してありますので多数の方のご参加をお待ちしております。(先着順)

 日 時・・平成9417()

 場 所・・藤沢ゴルフクラブ(予定)神奈川県綾瀬市

 交 通・・小田急江ノ島線長後駅下車、クラブバスあり(新宿より1時間弱)

 会 費・・5千円程度(商品・懇親会費)プレー代・昼食は各自負担

 申し込み・・期・氏名・ハンディ(オフィシャル・社内等)、連絡先を明記して東京修猷会事務局まで葉書またはファックスで(フソウキャリアサービス)詳細は後日改めてご案内致します

 

お願い

 東京修猷会総会も回を重ね、また二木会も444回を数える程になっていますが、残念ながらこの会合記録が所々抜けております。

 折角そうそうたるメンバーが営々と築いてきた会合だけにぜひ完全な記録を残していきたいと思います。もし昔の会合の場所や講師等を日記などに記された先輩諸氏がおありでしたら、事務局までご連絡をお願いします。


編集後記

 お正月目指して頑張っているうちに一年が終わるようになりました。編集に興味のある若い方、お手伝い歓迎です。(黒宮・棚町)


soukaianai.jpg (26566 バイト)総会案内