東京修猷会・会報 第4号   1992年(平成4年)3月1日発行

news_daiji_s.jpg (3620 バイト) hanamokuren_s.jpg (19256 バイト)春らんまん kaiho4-1_s.jpg (5863 バイト) 第1画面像

目次 (中項目の下線がある部分をクリックするとその文面に飛びます)

大項目 中項目 筆者 卒年
新時代へ希望の芽を育もう 益々盛大な修猷会に 有吉新吾  東京修猷会長 S4
今、福岡は面白い! 竹村茂昭  修猷館同窓会長 S2
どうなる どうする 日本の教育 はじめに、謝辞 会報事務局 ---
「什長」「前什長」 君島芳郎 S17
子供時代は情操豊かに 奥村秀郎 S26
夢物語「私立・修猷館」 大宅憲一 S40
教育現場から --教育は親と教師の両輪で-- 井手俊次郎 S36
女性の社会進出と教育問題 松尾守 S26
わが年代の教育観(修猷25会40周年記念誌「チンチン電車を運転した少年たち」より) 中野学 S25
濱田桂一 S25
田坂浩 S25
文化  随想 とっておきの話   --名指揮者とハプニング-- 広瀬勲 S34
母校から ヨット部全国優勝 水崎雄文 S30
’91総会報告 「平成3年度東京修猷会総会・・」 長野倬士  幹事長 S29
有吉新会長をお迎えして 宮川一二  副会長 S12
二木会報告 1991年1,2,3,4,5,7,9,10,11月報告 二木会事務局 ---
学年だより S12〜S58卒の短信 各学年幹事 ---
海外だより 近づく1997年   --香港だより-- 大矢高暉 S31
ブラジル事情 鹿子島正孝 S41
編集後記 会報事務局 ---
お知らせ 1995年ユニバーシアード福岡大会 組織委員会 ---
平成4年度東京修猷総会案内 担当幹事 S41

春らんまん  樹木名:ハナモクレン 写真提供:大森正憲氏(S29卒)


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Ariyoshi_s.jpg (4650 バイト)益々盛大な修猷会に

東京修猷会会長 有吉新吾

 私は昨年6月末の総会で東京修猷会々長に就任いたしました。なにしろ昭和四年卒の高齢ですので、どこまで勤まるか自信はありませんが皆さんの応援を得て頑張ってみようと思っております。

 さて明治四年、廃藩置県で廃校になりました藩校修猷館は同十八年、県立英語専修修猷館として復活いたしますが、その間どういう経過を辿ったかと申しますと、先ず玄洋社の向陽義塾が生まれ、これが黒田家の藤雲館に引継がれ、これを基に金子堅太郎伯等が奔走されて英語専修修猷館が誕生するのであります。この向陽義塾にしても藤雲館にしても、新知識の吸収には大変熱心でありまして、その教授陣には当時の一流の学者を揃え、外国人数名をも教授陣に迎えるといった大変進歩的な学塾でありました。また英語専修修猷館に至っては物理、数学等全学科を原書で教え一切日本語を使わせなかったというのですから修猷館の伝統の中には質朴剛健と並んで大変進歩的というかハイカラな面があるのであります。そしてこの伝統は其後幾多の環境変化がありましたけれども恐らく今も脈々と残っているのではないでしょうか。

 いかなる時期の卒業生でも、修猷館にはそれぞれなつかしい思い出があるだろうと思います。それでこそわれらが母校であります。私共が在学しておりました頃には、平山先生という高齢の英語の先生がおられまして、この先生は黒田藩家老職の家柄で平野国臣とは従弟だそうですが、ピンと髭を生やし羽織袴で授業をされました。また謹厳剛毅な漢文の益田老先生から教わった『大学』の『慎独』の講義は今でもよく覚えておりますが、この先生は秋月の乱で処刑の憂目に会った益田静方のご子息で、お祖父さんが前記藤雲館の漢文教授をされていたという因縁の方であります。そのほか夏の鵜来島遠泳や乃木将軍の殉死を追悼する深夜の大宰府行軍とか、年をとっても思い出は鮮やかに甦って参ります。

 幸いわが修猷館は名門校として全国で広く名前を知られておりまして、その出身ということで肩身の広い思いをすることがあるのは皆さんも経験のあることと思います。いま東京には五千人を越す卒業生が居られるそうですが、今後さらに連絡を密にして東京修猷会を益々盛大なものにもり上げてゆきたいものと思っております。


Takemura_s.jpg (4377 バイト)今、福岡は面白い!

修猷館同窓会会長 竹村茂昭

 昨年五月の同窓会総会で清沢先生の後を受けて会長を引き受けることになりました昭和二年の竹村です。私と同期で副会長をしておりました西島寛君の後に副会長になりましてから約十二年経ちます。この間二〇〇年記念事業、特に菁莪記念館の建設又は其の後に起こりました新しく埋立てられた百道浜への学校移転問題(之は中止になりました)等々先輩の驥尾に附して色々勉強させて戴きました。

 世界はソ連邦の解体、ECの統合等大きく揺れ動いておりますが、我が修猷館は昨年二〇五年事業として名簿を発行した外は通常の歩みを続けております。昔のように文武両道で頑張れと声を大きくしておりますが、文の方はともかく、武の方は余り振わず申し訳ない次第です。

 最近、「福岡は面白い」と言われていますが桑原敬一市長(昭十五)の活躍で天神界隈の変貌は眼を見張るものがあります。またアジアの拠点としての福岡、海に開かれた福岡というキャッチフレーズで博多埠頭付近も変わりつつあります。ヨカトピア博覧会の成功に次いで一九九五年のユニバーシアードの誘致も出来、市長大いに張り切っております。この中に柔道種目もありますが、最近人気の所謂「やわらちゃん」、今高校一年生ですのでこれに役立つことになりましょう。

 昨年末宮沢内閣の成立により山崎拓君(昭三〇)が建設大臣に就任しました。修猷館としては久し振りの大臣というので一月十二日に同窓会で祝賀兼激励の会をやりました。今後の大成を期待している次第です。


特集 どうなる どうする 日本の教育

 我が国は、戦後の廃墟の中から驚異的なスピードの経済成長を成し遂げた。そして、僅か半世紀前からは想像も出来ない豊かさが我々の周囲に満ちあふれている。しかし、それが故に同時に我々の社会内に多くの歪みと問題点を内蔵するに至ったことも事実である。『教育問題』は、公害問題等と共に我々が改善を迫られている課題のひとつと言えよう。

 そして、教育問題に関しては世代毎にいちじるしくその意見を異にするのが実状である。我が『東京修猷会会報』に於いては、我が同窓生の世代代表の意見を並べ、皆様にご覧戴くことにした。

 本来、この種のテーマは座談会形式にするのが適当かとも思われるが、今回は敢えて『意見』を並列に並べる形をとった。それは編集上の都合ということでお許しを戴きたい。御意見をお寄せいただいた各位に心から感謝申し上げる次第である。

 

Kimijima_s.jpg (6014 バイト)『什長』『前什長』君島芳郎S17年卒)

 私達が福岡県中学修猷館に入学したのは昭和十二年である。入学当時、先生方が修猷館は中学であって中学校ではないことを強調されたのを思い出す。『学』はまなぶ、学問であり、『校』はただす、人格の形成である。本来、藩学修猷館は藩士とその子弟のための学問所であって、『校』は自分自身の錬磨に委ね、『学』に専念したものと思う。中学修猷館はこの伝統を受継いだものであろう。我々の在学時は質実剛健の気風が横溢し、文武両道兼備の素晴らしい中学であった。

 『学』を重んじたことと関連してか、当時の中学修猷館には今の修猷館高校にはない制度があった。教室の席順を成績順に並べたことである。新学年になると、組替えが行われた。この時、前年の成績が一、二、三、四、五番の者が一、二、三、四、五組の組長に任じられる。以下席次の末尾が一・〇の者が一組に、二・九が二組、三・八・四・七・五・六の者が各々三、四、五組というように全員が規則正しく配分され、各組の学力のバランスもうまく取られた。

 各組の級長の席は最後列の一番右の席である。その隣から最後列を右から左へ、次いで二列目、以下も同様にして最前列まで全て組内の成績順に席が配置された。教室に入って座席を見れば各人の前年の席次が正確に分かった。そして級長を除く最後列と級長の直ぐ前の者は『什長』に指名された。十人の長という意味で、所謂列長であり、級長の隣から第一、第二、第三、第四什長…と呼ばれた。

 組替えは学年の初めだけだが、各組で学期毎に組内の席次に従って席替えが行われた。級長は一年間変わらないが、什長は組内の什長の中だけでの席替えであった。什長以外は学期毎に前後、左右の大移動が行われた。この毎学期の席替えで上席を得ようと切磋琢磨したのが全体のレベル向上に役立ったと思う。

 この『什長』に対して、最前列は通称『前什長』と呼ばれた。『什長』と『前什長』とでは学業成績に大差があった筈である。しかし、卒業して三十年以上もたって顔を合わせてみると、同窓会をリードしているのは昔の級長、什長よりむしろ『前什長』が圧倒的に多く、仕事の上でも活躍しているようだ。

 我々の頃は学区制がなく、天下の修猷館を目指して県内外の秀才が集まった時代であった。同級生には小学校の首席の者が百人以上もいたと聞かされた。能力には大差はなく、只スポーツや趣味等に熱中したことに起因した『前什長』だったのだろう。同じ組にも、葉室先輩に続くオリンピック選手を目指してプールで奮闘したがための『前什長』から、社会で大成した親友もいる。一部上場の大企業の役員もいるし、東大卒もいる。彼等は押並べて『前什長』だったことを人前でも広言して憚らず、卒業後は修猷館出身者の誇りを持って行動し、大器晩成の大輪の花を咲かせたことに拍手を送りたい。

 今顧みると、スパルタ教育と不羈独立、自由の気象の涵養、この二律背反の調和が当時の修猷館の教育の特色だったように思う。それが生み出した一つの優れた制度が、『什長』・『前什長』の制度だったのではないだろうか。


Okumura_s.jpg (6395 バイト)子供時代は情操豊かに

奥村秀郎S26卒)

 戦後我が国は、行政も企業も個人も、がむしゃらに経済成長を求めて走り続け、人間として大切なものを振り落としてしまった。もう一度原点に帰って「真の豊かさとは何か」ということを考えなければならない。

 テレビ公害、学校が、社会が悪いなど原因を探れば限りなくあるが、今大切なのは一人一人の自覚と実行である。

 人間の人格形成は八才位までの幼児期に決まる。その大切な期間ほったらかしにしないで、親の暖かい愛情を注ぐことから始めることが素晴らしい人間づくりの基本であろう。

 やさしい子守唄、わらべ唄、昔話これらは素晴らしい伝承文化であり、心をなごませてくれる何ものにも勝るものである。更に少し成長した段階で、両親が絵本や世界・日本の名作童話を読んであげれば、その後は自然に読書をするようになる。テレビの一過性でなく行間にあるいろいろな情景を自分で描くことにより、豊かな心が育まれてくるのである。

 また、家の近くを手をつないで散歩する。美しい花が咲いていれば、その美しさをほめる。すばらし木や林があれば、木の効用を聞かせる。

 たまに旅行した時は、自然の営みの大切さを理解させる。夫婦の語らい、食事の楽しさ、身体の基礎をつくる栄養物を好き嫌いのないように食べて貰う工夫など、親と子の絆を強くすることが心の豊かな人間を作るのではないかと考える。

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Ooya_s.jpg (6477 バイト)夢物語「私立・修猷館」大宅憲一S40卒)

 「富士山麓に全寮制の私立・修猷館を創設しようではないか。初代館長には、アルビン・トフラー著作の監訳者であり、もちろん修猷館の先輩でもある徳山二郎氏を招聘できないか。起業家精神をもった誰か一人、本気になる人間がいれば、実現できそうな“夢”なのだが。―首都圏周辺に、私立・修猷館が誕生すれば、わが息子たちも是非・・・」はなはだ動機の不純(?)なこの話は、数年前「創立二〇〇周年」の頃に、同期の幾人かと交わした酒飲み話である。当時、お互いに小学生や就学前の子供をかかえており、とりわけ首都圏在住の友人たちの間では、結構盛りあがった。「有志で“創設構想私案”でも作成して、二〇〇周年のイベントにぶつけてみるか」と話は発展したが、所詮は酒飲み話、それきりの“夢物語”で終った。

 あれから数年、わが三人の息子たちも、高三、中一、小六と、まさしく思春期ど真中である。そのせいかどうか、最近、時として自分自身の修猷時代をふり返り、彼らの様子と重ね合わせてみることがある。修猷が「自由」であったということと良き「友人」に出会えたことが特に印象深い。人生の中で最も多感なあの時期、あの環境の中で三年間過ごせたことを、私は本当に感謝している。願わくば、わが息子たちにも、通っている学校に対してはそうした記憶を育んで欲しいと思う。人間の自我の形成にとって、思春期をどう過ごすか、ということは、とても大切なことなのだから。

 いま息子たちやその友人たちを垣間みている印象でいえば、彼らは彼らなりになかなかしぶとく育っているようだが、真に刺激的でもっといい環境を用意してやれるのではないか、とも思う。まして現在は幕末から維新、敗戦から戦後復興に匹敵、いやそれ以上の大いなる歴史的転換期である。大人たちにとってもいま、「人間を育てる」ということは、極めて魅力的なテーマに違いない。あの話、酒飲み話や夢物語で終らせるのではなく、端緒くらいつくっておくべきだったかもしれない。修猷館の全卒業生、教鞭をとられたすべての先生方、そして現役の諸君へ向けた「私立修猷館はどんな学校でなくてはならないか」というテーマの大アンケート作戦あたりから、瓢箪から駒、プロジェクトはスタートしたかもしれない。

 同期の田中俊雄君から、この原稿のお鉢が回ってきた時、たまたま徳山二郎氏の著作『未来を今生きる』(中公文庫)を読んでいたので、数年前の“夢物語”を想い出してしまった。―本当に誰か一人、自分の人生の作品として、このことに本気になる人がいないかなあ、素敵だと思うんだが。


Ide_s.jpg (6643 バイト)教育現場から 井出俊二郎S36卒)

--教育は親と教師の両輪で--

 今、学校では、将来が懸念される現象が顕著に現れてきている。

 公立離れ、私立志向の加速であり、中高一貫教育が受験に有利というのが定説となった感すらある。又、勉強離れ、特に理科系離れが進行し、高校中退者数が十二万人を突破するなど、社会問題化している。社会の基盤が一人一人の人間にあり、その人間の根幹を成すものが教育であるとするならば、教育問題は重大な社会問題である。教育現場から、一つの考察を試みたい。

 中高一貫教育だが、六年間で学ぶ内容を五年間に短縮し、一年を受験対策にあてている。能力の高い生徒にはよいが、普通の生徒にはついていくのが精一杯というのが実情であろう。余程しっかりした教育課程と授業展開を行わなければ、勉強離れを加速させることになる。又、子供の問題行動の原因としては、「本人の甘え」「我儘」と「家庭内部の問題からもたらされる情緒の不安定」が多数を占める。学力は、親の経済力、親・教師の指導力(親は子供にとって最大の教師であると同時に、精神的支えとしての大きな役割を担う)と本人の努力の総和である。又、子供は潜在的に親との関わりを求めている。子供は両親と教師が車の車輪のようになって育んでいくものというのが私の持論である。しかし、学校は集団教育の場という性質上、生徒個々の内面までは、なかなか目が行きとどかない学校教育に限界があることは、自ずから明白である。ところで、家庭教育はどうだろうか。日本は豊かな国になった。しかし父親は忙しく母親も働きに出て、子供との関わりが充分にとれない家庭があまりにも多い。週休二日制も、女性の社会進出も、子供と親の関わりにどう影響するか、この視点を抜きにしては考えられない。「放牧牛」は、一定の期間の後に肥え成長して帰ってくるものであるが、人の教育にそれと同じ結果を期待することはできない。教育の本質は、百年経っても朽ちない知識、発展性のある知識を教材として、次代を生きていくために必要な知力(思考力、理解力)と体力を養うことと私は考えている。教育は、決してこの視点を見失ってはならない。「人は石垣、人は城…」。社会は、一人一人の人間が礎石である。教育が崩壊すれば、次の時代の発展は期待できない。次の時代の更なる発展の条件は、目標・意欲を失い落ちこぼれる子を出さず、思考力、理解力を持ち、相応の体力を有す人材の育成にある。学校教育の行き詰まり・家庭教育の崩壊は構造的なものであり、小手先の改革では、現在の教育問題は何も解決できない。教育の本質と原点に立ち返って考え直す必要がある。「人間は絶頂の時に失敗の種を蒔く」社会も同様であろう。繁栄の中で取り返しのつかない失敗の種が蒔かれ、すでに芽を伸ばし始めているのではないか。日本の社会が教育を通して正念場を迎えていることだけは間違いない。


Matsuo_s.jpg (5667 バイト)女性の社会進出と教育問題

松尾守(S28卒)

 国民全体が語り、行政も現場の先生方も懸命の努力をしておられることと思う。がしかし、一向に光明が見えてこないのが教育問題だ。登校拒否感情を持つ子供の増加、陰湿ないじめ、校内暴力、乱塾時代、際限のない諸問題、むしろ事態は悪化しているのかもしれない。

 ここでは、女性の社会進出と教育問題について少しばかり考えてみたい。

 昨年、ニューヨークへ出張した際、現在、アメリカで最も知的なニュースキャスターとして名声が高いロバート・マックニール氏の公演を聞く機会に恵まれた。彼は衛星放送で、今や、日本の茶の間にも、お馴染みだ。演題は「凋落したアメリカの企業競争力を取り戻すためには」というようなものだった。細かいことは忘れたが、話の主要な部分は、アメリカの教育の教育問題の深刻さを強調したものであった。均整のとれた顔立ち、毅然とした眼差しに、やや冷たさを感じさせる彼が吐き捨てるように言っていた。「この国の教育問題は、一体、どうなっているのだ!子供達の面倒を誰が真剣にみているのだ。教師は二流・三流の人間がやっている。例えば、それが証拠には、SAT(全米大学入試の適性検査)のスコアが低すぎても、もし将来、教師にでもなるなら、うちの大学に入れてあげます、というようなことが、まかり通っているありさまだ。子供達の能力、特に、数学と理科の学力低下は惨憺たるものだ。更に、家庭での教育は、どうなっているのだ。父親は勿論、母親までも今や職場にいて、家庭にはいないではないか…」という調子だった。帰国して調べてみたが、アメリカでは、六才から十七才までの子を持つ全女性の七〇パーセントが職場にいるようだ。我が国の教育問題も深刻だが、この国の悩みも相当なものだと思ったものだった。

 女性の職場進出それ自体は、大変結構なことだ。男女を問わず、知識や技術を身につけ、職業を通じて培った能力を発揮したい欲求は、至極、当然だろう。しかし、素直にいって、物事には、バランスが肝心だ。女性が一人の人格として、己の幸せの追求の一つとして、職業を持つ権利と自由は、尊重されなければならないことは言う迄もない。しかし、子供の教育を犠牲にして、更には、子を持つこと自体を放棄する社会の行く末はどうなるだろうか。ハーバード大学が隔月に出す経営論文の雑誌がある。昨年、五十余りの論文の中で、アメリカで最も高い評価を受けたのは、母親の職場進出が、いかに、子供の教育を犠牲にしたものかを指摘したものであった。誠に、注目に価する。日本でも、昨年の経済企画庁の調査によれば、首都圏の男女六〇パーセントが、ダブルインカム・ノーキッズ指向という。筆者は、母親は家庭に戻って教育ママになったら、という気は毫もない。ファッション、グルメに、流行の車、ホンコン、パリーでのショッピング。ダブルインカムの目的は、よもや、こんなことではないだろう。少数の例外と言えようか。経済大国から「暮らしの大国へ」の合言葉が聞こえてくる。言葉の響きは結構だ。ダブルで稼ぎ、「より良い暮らし」への終りのない欲望から、もう、そろそろ眼を覚ましたいものだ。教育問題は、究極のところ、我々、大人たちが、それぞれの人生で、生きることの意味を静かに問い直すところにきていないだろうか。物に包まれすぎた我々は、今や、この問いに対峙すること自体が、むずかしくなっているのかもしれないが。経済大国から暮らしの大国、へ。いずれ又、暮らしの大国になったとて、何とはなしの空しさを覚える時がくるだろう。読者諸兄は、暮らしの大国の次の国を何大国へと呼ばれるのだろうか。今、それを考えることが、今日の教育問題を考える時の出発点にならないだろうか。年の初めの放談拙文をお許し頂き、御批判、叱正を乞いながら、おわりとしたい。


わが年代の教育観 

修猷25会卒業40周年記念誌『チンチン電車を運転した少年達』より

 (中野学)二〇〇年を超える修猷館の歴史の中で、われわれの学年は特異な存在であろう。戦前型の教育と戦後のアメリカ直輸入の自由主義教育との間で、戸惑い翻弄された。しかも昭和十九年四月から二十五年三月まで、つまり中学―高校の多感な六年間を修猷館ですごした。戦争中が重い任務と「忠君愛国」の思想で、がんじがらめのしがらみの中で閉塞状況にあっただけに、終戦直後の一時的な空白期を乗り越えると、戦後のエネルギーの開花は凄まじいものであった。栄養不良の乏しい食生活のなかで、スポーツ、部活動そして進学へと情熱を燃やした。アメリカナイズされた自由主義下とはいえ、貪るように新しい知識、文化を求め吸収した。そこにはガリ勉型の生徒はいなかった。自らの欲求のままに若い力を発散し、躍動させた日々があった。

 

 (濱田桂一)いま思うと、終戦から昭和二十六年までは、戦後の混乱期のインフレ、物不足…と生活は苦しかったが、これほど自由と平和の有り難さを痛感した時期はなかったのではないだろうか。高度成長を遂げた今の方が、国際経済戦争、公害戦争、交通戦争そして受験戦争・・・と際限がない。

 そして学校教育、なんと形式だけの時代になったことだろうか。僕らの頃は教科書はあったけれど、教科書についての記憶はほとんど残っていない。西村先生の講談調西洋史の講義、平田先生のフロイト学説、どの先生も「物理部」のクラブ活動と称して、授業時間中に気象観測のため、教室を抜け出すことを許可してくれた。(中略)校内暴力、登校拒否、進学問題・・・教育関係の新聞記事を読むとき、修猷館のことを思い出してしまう。僕らの修猷館の六年間は、きっと平和な青春時代だったと思う。

 

 (田坂浩)われわれには目的があった。二度とこんな悲惨な社会を作ってはならない。戦争は悪だ。今より一歩でも前進して平和で豊かな社会を作るのだと、意識、無意識のうちに一致した確信を持っていた。

 現代の青少年は、豊かな環境に恵まれ、欲しい物はほとんど手に入る。だが目的をつかむことができない。何か物足りなく、心に穴があいている。これを埋める方策を持たない。これは大人にも責任がある。次代を引き継ぐ青少年に役に立つために、われわれの経験を生かせる道はないのか、考え込んでいる昨今である。


title_bunka_s.jpg (2231 バイト) Hirose_s.jpg (6280 バイト)とっておきの話 広渡勲(S34卒)

名指揮者(カルロス・クライバー)とハプニング

 一月一日ウィーンのムジークフェラインザールから全世界へ衛星中継されたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートは、今や、年末の「第九交響曲」と並んで正月恒例の音楽行事として、すっかり我が国のクラシック音楽ファンの間に定着してしまいました。特に今年は、カラヤン、バーンスタイン亡き後世界最高の指揮者といわれるカルロス・クライバーが、一九八九年にひきつづき三年ぶり二度目の登場をして話題を呼びました。一枚二十万円を越えるといわれるやみ切符の値がインフレ化するのをふせぐためと、また一方、キャンセル魔といわれるクライバーの気分が変わるのをおそれたウィーン・フィル側が、指揮者の名前をぎりぎりまで公表しないという異常な事態となりました。ウィーン・フィルのコンサート・マスターでさえ、家族のチケットを購入するのがむずかしいこのコンサートは、元日夜の、NHKテレビで実況生放映されましたので、きっと大勢の音楽ファンが、彼の優雅で華麗な棒さばきに酔われたことと思います。世界に名だたる歌劇場や、ベルリン・フィルをはじめ、ウィーン・フィル自身も数年前、リハーサル中途で忽然と練習場から消えられた苦い経験を持ち、観客の多くも彼の場合はじめからキャンセルというリスクを承知の上で入場券を購入するといわれています。エーリッヒ・クライバーという名指揮者を父に持ったこの希有な天才指揮者は徹底したマスコミ嫌いでも有名で、未だに彼のインタビューに成功したジャーナリストは一人もいません。

 前おきが長くなりましたが、この人呼んで「狂気の天才」といわれる偉大な音楽家カルロス・クライバーと仕事を通じてはじめて知り合ったのは、今から十八年前一九七四年の「バイエルン国立歌劇場」来日公演で、彼がR・シュトラウスの「バラの騎士」で颯爽と日本デビューした時です。当時私は舞台の日本側技術責任者で、直接彼と話をする立場ではありませんでしたが、会場の東京文化会館内に爆弾を仕掛けたという電話の通報で、警察から突然公演なかばで幕を降ろすように強く指示を受け、彼に事前の報告をする時間的余裕もなく一方的に第一幕の途中で緞帳をおろしてしまいました。自分からキャンセルすることはあってもその反対は絶対にありえない彼の唖然とした顔、オーケストラピットの中を這うようにして彼のもとに駆けつけ事情を説明し、それを傍らで聞いていた楽員たちが驚いて逃げ出すという信じられないようなハプニングがおこりました。結局これは入場券を買えなかったファンのイタズラ電話ということが後に判明したのですが、これが私とクライバーと直接言葉をかわした最初のきっかけになりました。

 それから七年後、一九八一年秋、既に大指揮者として世界のオペラ・ハウスに君臨しているクライバーが、アバートと共に「ミラノ・スカラ座」引越公演で来日したのが二度目の出逢いになりました。この時の私は製作総監督として四〇フィートのコンテナ五〇本(大型トラック約一〇〇台分)でイタリアから運ばれてきた膨大な舞台装置をさばく技術的な部門だけでなく、総勢六〇〇人来日メンバーと二〇〇人の日本側参加外人エキストラの移動から宿泊の面倒まで見なければならず、また、リハーサルや本番のスケジュールなど全てにわたって、マネージャーを持たないクライバーと直接交渉しなければならない立場にありました。欧米の多くの歌劇関係者から彼のむつかしさをいやという程聞かされ、極度の緊張状態で仕事にのぞんだ私でしたが、私の心配をよそに不思議な程何の問題もなく公演は順調に進みました。実際彼は公演終了まで契約書にサインをしないことでも有名なアーチスト(世界でも唯一?)ですが、約束の東京公演の七回を無事振りおえ、契約外の大阪公演の初日にまたまた思わぬハプニングがおきてしまいました。忘れもしません九月二十五日場所は大阪フェスティバルホール。演目はプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」。第四幕、胸を病んだ薄幸のヒロイン、お針子のミミが瀕死の床でせつせつと歌い、満場の観客の涙をさそっている場面で、突然、あろうことか、舞台の右手後方からとてつもない悲鳴が聞こえてきたのです。それが人間の声でなく動物の声だと分かるのに時間はかかりませんでした。五分間も続いたその声の主は、第二幕で登場したロバだったのです。この日会場の外はミニ台風で、激しい雨が降っており、通常は出演後会場の外に出しているこのロバを、イタリアのスタッフが可哀相に思って会場の中に留めおいたのが原因でした。イタリア人らしい思いやりなのですが、クライバーの怒りをおそれて、関係者全員が終演を待たずにいっせいに姿を消してしまったのもまたイタリア人らしい素早さでした。気も動転した私は、立場上逃げることも出来ず思いきって謝るのが第一とオーケストラ・ピットの入口で彼の好物のビールを手に、彼が出てくるのを待っていました。数分が数時間に思える程それは長く感じられました。彼にはあと二回、エキストラの公演を振ってもらわなければならず。これが原因でキャンセルされてしまったら大変なことになります。汗びっしょりの長身の背をまげるようにピットの入口から出てきた彼に早速「本当に申し訳ありませんでした・・・動物をコントロールすることがどんなに難しいか・・・どうしても泣きやんでくれず・・・」と舞いあがって意味不明な英語でしゃべり続ける私の必至の思いが通じたのか、にこっと、人なつっこい顔で笑った彼がビールをうまそうに、ひと口飲んで言ったことは「いやあ、今日は思いがけない二人目のテノールの競演というおまけがついたね!」。人一倍妥協を許さない完璧主義者の芸術家の口を通して出てきたこの一言。人間の怠惰によって生じたミスは許さないがヒューマニズムにささえられた不可抗力のハプニングにはユーモアできりかえすこのイキな一言に、彼の芸術だけでなく全てが見えてきたような気がしました。

 この時以来、急に親しみを覚えた私は積極的に彼に近づき、また彼の方も時々、自宅に直接電話をかけてくれるような間柄になりました。大変名誉なことだとうれしく思っております。さいわいにも三〇年間にわたる私の仕事を通じて実に多くの偉大な芸術家と知りあうことが出来ました。その中でも三人をあげろと言われれば、バレエのモーリス・ベジャール、ピアノのダニエル・バレンボイム、そしてこのカルロス・クライバーの名前が即座にうかんできます。彼等には仕事を越えた尊敬と愛情と親しみを常に持ちつづけています。クライバーは今年三月、ウィーンの百五〇周年コンサートで来日します。また一九九四年にはウィーンの国立歌劇場来日公演で彼が最も得意としている「バラの騎士」と「こうもり」が上演される計画があります。確かにクライバーは芸術家特有のテンパラメントな性格と気むずかしさを持ちあわせてはいますが、実際はシャイでとても人間的な人です。そして彼の創り出す音楽は他に比類のない素晴らしく美しいものです。私自身もその喜びを音楽ファンの方達と共有出来るしあわせをいつも望んでいます。そのためにも、私達が本年から一九九五年まで四年間にわたって開催する世界オペラ・フェスティバル(一九九二年英国ロイヤル・オペラ、一九九三年ベルリン・ドイツ・オペラ、一九九四年ウィーン国立歌劇場、一九九五年ミラノ・スカラ座)に御期待と御協力を願う次第です。

(財)日本舞台芸術振興会製作プロデューサー


母校から  ヨット部全国優勝!水崎雄文(S30卒)

昨年十一月の近畿修猷会総会で佐藤会長から思いがけないご指摘をいただいた。平成二年発行の同窓会名簿から計算すると、同年の修猷館教職員の在勤平均年数はわずか四年八ヶ月でしかないとのことである。母校に勤務する私も、最近の人事異動のめまぐるしさに驚いていたのだが、これほどまでとは考えていなかった。卒業して数年もたつと、母校に恩師の姿はみられず、他校を尋ねなければならないという状態が現況となりつつあるようです。ことの良し悪しは別にして、昔の修猷館では考えられなかったことです。卒業生にはさびしい限りだと思います。

 ところで母校の近況ですが、学校周辺の変貌は年を追って激しくなり、百道浜埋立地から西新町へのメイン道路となった修猷館東側道路の車の往来はひどいものです。校舎のすぐ横でもあり、学校には迷惑なことです。こんなことなら埋立地の博覧会跡地に移転しておけば良かったのではないかなどと考えてしまいます。でも生徒はくったくなく学校生活を楽しんでいます。

 修猷館の大学進学状況は最近やや停滞気味といわれていますが、本年度のビッグニュースは、石川国体ヨットレースで三年生の石橋・岩田組が優勝したことです。修猷館ヨット部は昭和十六年に創部され、高等学校では全国で一番古いヨット部とされています。その五〇周年を飾るにふさわしい快挙でした。昔とちがって、スポーツ競技が特定学校の独占物となりつつある現在では、進学校が全国優勝をするということは並大抵のことではありません。それだけに素晴らしいことでした。文武両道は修猷館の伝統であり、いたずらに文に溺れず、武にかたよることなく、情操豊かな幅広い有能な人材を政治・経済・学術・芸術の各分野に輩出させてきたのが過去の修猷館の歴史でした。それだけに今回のヨット部全国優勝という快挙をバネとして、もう一度文武両道とは何かをスポーツに限ることなく考えてみたいと思っています。これからも修猷館の大学予備校化だけは避けたいものです。

 昨年五月三十日の創立記念日講演会では、日本経済新聞論説委員の渡辺俊介氏(昭和三八年卒)が「これからの社会人としての生き方考え方」と題して、九月六日にはハワイ在住の著述家ハロラン芙美子氏(昭和三十七年卒)が「教育の国際化」と題して講演を行い、在校生に深い感銘を与えてくれました。日頃の学校教育では聞くことのできない一流人の、それも同じ学び舎から巣立っていった卒業生の講演だけに感慨ひとしおであり、これこそ伝統ある修猷館ならではのことでした。

 また十一月五日には九州大学総長に和田光史氏(昭和二十年四卒)が就任されました。九州の最高学府での総長就任であり、同窓生一同大いに喜んでいます。(修猷館高等学校教諭)


‘91 総会報告 幹事長 長野倬士

 平成三年度東京修猷会総会は、六月二十九日に昭和四十年卒の諸君が幹事学年となり、前年と同じグランドパレスで開催されました。

 森田澄夫氏(昭和四十二年卒)の指揮による館歌斉唱、松尾会長の挨拶、宮川副会長により物故者への黙祷がなされ、次いで事業並びに決算報告、事業計画と予算案が、いずれも満場一致で承認されました。

 また、松尾会長が今期限りで辞任され、後任に有吉新吾氏(昭和四年卒)が選任されました。有吉新会長からは別表の通りの新役員が指名され、新執行部が発足することになりました。

 福岡からは、本部の竹村茂昭会長、桑原敬一市長、吉田秀男館長をはじめ多数の来賓のご出席もいただきました。

 懇親会は、『質実剛健』をモットーに手作りの懇親会として工夫がなされ、初の試みとして職業別にテーブルが設置されていました。これは、先輩後輩の縦型交流を促進するきっかけの場として考えられたもので、年齢差を越えた会話も生まれ楽しい一時が持たれました。

 また、昭和四十年卒の『東京しっとう会』による手作りビデオ『修猷、わが心のふるさと』が上映されました。『我々が青春の一時期を過ごした修猷館とはどんな学校だったのか』、『今どうなっているのか』をテーマに、母校の昨今の様子や恩師OBの方々のインタビューもあって大変面白い作品でした。このビデオは総会参加者全員にお土産として配布されました。そして、最後は吉田貞之君の音頭による応援歌で締括られました。

 実行委員長の田中俊雄君をはじめ四十年卒の皆さんのおかげで立派な総会が開かれたことに心から感謝します。本当に御苦労様でした。

◇新役員◇

会長 有吉新吾(S4卒)

副会長 宮川一ニ(S12卒)

監査役 野上三男(S20卒)

相談役 向野元生(T9卒) 松尾金蔵(S4卒)

顧問 宮野正四(S8卒) 隈部洋(S15卒)

幹事長 長野倬士(S29卒)

副幹事長 中尾大三(S30卒) 阿部公明(S31卒) 平野煕幸(S32卒) 

水野務(S34卒) 本多浩子(S39卒) 田中俊雄(S40卒) 高橋章(S41卒)

黒宮時代(S41卒) 伊佐裕(S44卒) 

書記 田中まづる(S45卒)


有吉新会長をお迎えして 副会長 宮川一ニ

 平成三年度の総会は向井元生氏(T9)の議長のもと、六月二十九日に開催され、満場一致で、有吉新吾氏(S4)を東京修猷会同窓会会長に推載し、新会長は新幹事長に長野倬士氏(S29)外副幹事長、書記及び相談役、顧問等を夫々の人に委嘱され、次に旧役員に対し鄭重なる謝意を述べられ、新しい若い時代の人々の運営に期待する旨の挨拶をされました。

 顧みますと前会長松尾金蔵氏(S4)は倉田輿人氏(T10)の病気引退に伴い、昭和五十八年に就任され、その間

修猷館創立二百周年祝賀式典 松永文部大臣出席(担当S34)

東京修猷会会報の発行 (担当田端千弥子氏S27)(〃中尾大三氏S30)

同窓会事務所の設立 (渕上貫之氏S26 事務所約七年間 無償借用)

パソコン設置による事務所の機械化(担当中沢郁子氏S29)(〃香崎温子氏S33)

を実施され、会費納入者も約四八〇名から約一二〇〇名に増加し、福岡に於ける同窓会本部の総会には、当支部より毎年出席する慣例も作られ、会長としては最長期間努めて頂き、改めて厚く御礼を申し上げます。

 新会長有吉新吾氏は福岡県人会副会長他多くの公職を辞任され、御夫人の看病に努めておられていましたが、曲げて修猷館母校のため就任して戴き、会員一同改めて御礼を申し上げます。

 会長は昭和四年に修猷館卒、旧制福岡高等学校、京都帝国大学を卒業後、三井鉱山に入社、社長、会長を経て現在同社相談役の他、健康保険組合連合会会長の任についておられます。かつてはノモンハンに出征され足に負傷を受け戻られております。

 尚、毎月開催されているニ木会ですが、同会は、昨年末で三九六回を数えており、時機に適した議題及び講師の方々があれば、自薦他薦を問わず、ニ木会担当学年に連絡して下されば、幸甚に存じます。四月には第四〇〇回のニ木会となり、毎年の担当学年に改めて謝意を表します。

 次に会の財政の事ですが、平成三年より現事務所が設置されましたので、従来の様に高橋量之助氏(T8)福井慶一氏(S19)の自宅、または渕上貫之氏(S26)の事務所を無償で提供受けた様な訳にはいかず、それなりの出費が伴いますので、会費納入者の増大に努め、同窓会の基礎を不動のものとするためにも、未納入者約四〇〇〇名の方々の、くれぐれも納入をお願い致します。

また新会員の皆様に歴代の東京修猷会の会長の名前をお知らせ致します。

M四三 佐藤与助(代行)

M三九 安川第五郎

M四五 太田清蔵

T一〇 倉田輿人

S四 松尾金蔵

次に幹事長は

M四一 吉鹿善郎(世話役)

T八 秋山雄之助

S三 鷹取至

S一八 尾崎博

S五 坂本一敏

S一二 宮川一ニ

S一五 桑原敬一

S一六 一万田満州

S二三 伊岐和雄

S二六 渕上貫之

以上


Nimoku_s.jpg (5242 バイト) 二木会

 毎月、原則として第二木曜日に開催される東京修猷会ニ木会も、平成四年四月度の定例会をもって第四〇〇回を迎えることになりました。

 永々として築き上げてこられた先輩方のご努力に今更のように感嘆し、敬意を表す次第です。ニ木会では、毎月、同窓生の中から、スピーチをやって頂くかたをお願いし、そのお話を中心に和やかな雰囲気の中で、大先輩から卒業まもない若手まで世代を越えたコミュニケーションが行われています。

 スピーチのテーマも、「湾岸戦争」や、「宮沢政権の誕生」といった時局をとらえたテーマから教育問題や、健康管理の話題など、自分自身や家族の日常生活に直接関与する話題まで、幅広く取り上げられています。

 スピーチをして下さる同窓生の方々の活動分野を知るにつけて、修猷館の同窓生がいかに世の中の広い分野で活躍しているかを知ると共に、自分達がその一員であることの誇りと自信を得る場として、ニ木会の果す役割は大変大きい気がします。

 社会が大きく変化し、今まで社会人として生きていく上で、支えになっていた価値観さえもが揺らごうとしている今日この頃、少しでも世の中の流れを正しくつかみ、積極的に活動していく為には、幅広い情報収集が欠かせません。

 ニ木会が、そのような情報収集の場として、少しでも同窓生の役に立てるよう、これからも意欲的に活動して行きたいと考えております。

 昨年度のニ木会に於けるスピーチのテーマは次の通りです。

 

一月 伴拓郎 S34卒 日本興行銀行調査部長

   九一年の経済金融動向

二月 筑紫勝麻呂 S40卒 大蔵省国際金融局国際資本課長 

   わが国の直接投資政策について

三月 楢崎弥之助 S13卒 衆議院議員 

   最近の政治情勢について

四月 田島信元 S四十卒 東京外国語大学助教授

   ところかわれば人かわる―現代日米親子関係事情と生涯発達―

五月 黒宮時代 S41年卒 トキヨアソシエーツ 代表取締役

   ECみたまま

七月 鳥巣建之助 T14年卒 海軍戦史研究家

   アメリカ海軍最大の悲劇「原爆運搬艦の沈没と回天作戦」

九月 伊藤正孝 S30年卒 朝日新聞社編集委員

   湾岸戦争後の湾岸状勢

十月 藤島まり S40年卒 公文式教室主宰

   学ぶ楽しみは、子供も大人も同じ!

十一月 原田義昭 S38年卒 衆議院議員

   自民党新政権と今後の政治課題

お知らせ

ニ木会へのご出席のご案内は、東京修猷会の年会費を納付された方に、自動的に毎月送付されます。出席の際の会費は三千円(食事代込み)です。


title_gakunen.jpg (12943 バイト) 学年だより

〔昭和十二年卒〕

東京修親会だより・・・昭和十二年卒の全体クラス会は、福岡・関西・東京の持ち回りで、昨年は東京の当番だった。たまには熱海の温泉旅館で寛ぎ、枕を並べて一泊もよかろうと企画したところ、二十九名(内夫人同伴七組)の参加を得、一夜の歓を尽くして、翌朝は伊豆箱根へと足を伸ばし好評だった。

今年は福岡で五月に、『ホテル海の中道』で行う予定の由。ところで、新年早々、高岩和雄君が長期に亘る闘病の末、突如神に召された。彼は国際技術交流の泰斗で、晩年博士号を取ったほどの努力家だった。ニ木会でも何回か講演してくれたし、ご存知の方も多かろう。心からご冥福を祈る次第。(片桐貞夫)

〔昭和十三年卒〕

わが修猷五十星会(東京支部)は、定例会を十一月に開催。大阪の間君も参集され出席者十四名。更に高村君の配慮により隔月に昼食会を催し旧交を暖めてきた。平成二年の秋の叙勲で高村、大島両君が、平成三年の春の叙勲で前田正裕君が、それぞれ受章されたことは、同慶の至りである。しかし、病臥中の吉野道夫君が平成二年十二月七日逝去。更に小川二生君が平成三年七月四日に急逝されたことは、痛恨のきわみである。両君のご冥福を祈念してやまない。(小川浩正)

〔昭和十四年卒〕

五十一回卒業生の私達にとって昨年は古希を迎えた年になるので、九月十三日に佐賀県唐津市で同期会の総会が開催されました。当日は希望者が二丈カントリークラブでゴルフ会、夕方から全員が唐津シティホテルに集合して懇親会を開き、東京からも参加して大変盛会でした。

東京同期会の今年度の行事としては、九月に懇親会(新橋あかね)、四月と十一月にゴルフ会を予定していますが、日時及び場所は追而連絡します。元気で再会するのを楽しみにしていますから、奮って参加して下さい。(野村俊雄)

〔昭和十五年卒〕

満月会の満月は十五夜の月、昭和十五年卒業の仲間です。首都圏の在住者約三十五名。東京では、毎年一月、福岡市長の桑田敬一君を交えて、新年会を開催しています。

福岡の本部では、満月会の集会所(1DKのマンション一室)を持っています。そこでは月例会等の会合を開くほか、クラスの仲間の楽しい交歓の場となっています。碁盤、マージャン台も備えてあり、先輩たちも参加されるなど賑やかです。

満月会 福岡市中央区白金一--一オークマンション六〇五号室 (高川正通)

〔昭和十七年卒〕祝卒業五〇周年

われわれいそしみ会員にも卒業五十周年がめぐってきた。その記念同窓会が本年五月二十三日(土)に福岡国際ホールで開かれる。東京支部からも大挙して参加し、往年を偲んで語り合い、またお互いの健康を喜び合いたいものだ。

奇数月の第三土曜日夜、同期の有志十人余が吉祥寺の王将という店に集まって愉快に歓談するならわしになっている。会費はその都度割勘で五千円程度。都合のつく人は随時参加していただきたい。出席の連絡、会場への道筋問い合わせなどは会長の林健児君または私にお電話ねがいたい。(島田栄治郎)

〔昭和十九年卒〕

東京修猷五十六会、現在東京近郊に四十七名が在住し、年に一二回親睦会を開いています。平成三年は、二月十三日に、ふくおか会館(半蔵門)にて実施、福岡から山内真治君、財部一雄君が、近畿から下村大也君、富田稔君が参加し、計二十名が出席愉快な一夕をすごしました。十一月は国際強力事業団の業務で、インドネシアに三年間出張した嶋田高能君の帰国話に花を咲かせました。

平成四年二月十三日には、ニ木会で塚本学君(歴史民族博物館長)が講話をし、また三月八日(日)には、恒例の東京修猷五十六会を、ふくおか会館で開催致します。今回は特にウィークデイが忙しい方にも、出席できるよう日曜日としましたので、多数の参加を期待しています。 (岩本博康)

〔昭和二十一・二十二年卒〕(破竹会)

日米開戦五十周年も過ぎ、日本は経済大国になり、ソ連は解体し、民主化の道を模索する。島国の勝利を信じ『彼の群小』を紅顔絶唱した少年達も還暦を過ぎる。

昨年は九月二十八・二十九日、破竹会の総会を東京・浅草で行う。集える健児七十人。諸行無常とは言え、変らざるものは若き日の友の情と熱。

同期の者よ。今年は福岡。体調、仕事の予定等自己管理されること。近々体調不良やや増す傾向あり。注意肝要。 (花田尭之助)(野村輝彦)

〔昭和二十三・二十四年卒〕

東京六〇会は、平成三年六月東京修猷総会のあと、グランドパレス別室で行った。主賓には、青大将コト大野先生をお招きして、久し振りに先生のお話をしみじみ拝聴できた。参加者十七名、世話役にとって便利なので、許されるなら今後もこの方式でいきたい。

六〇会員、大山修一を会長に二村、月成を副会長にした、いつも参加者全員が幹事になる、六道会旅行も、回を重ねる毎に愈々活発。皆さんの参加を期待して・・・。(三村健次郎)

〔昭和二十五年卒〕

我々の同期会はこの三月で全員還暦を過ぎてしまう。定年や勇退で悠々自適の第二の人生をすごす仲間も増えてきた。東京支部では毎月第三木曜日に「三木会」を開いているが、毎回十名から十五名が参加、歓談のひとときをもっている。ゴルフ会も年二回開催、懇親を深めている。さらに新春の総会には年々、参加者が増え、学年の結束の固さを示している。福岡でも月一回の「ニ木会」、テニス、囲碁、ゴルフと活動が盛んである。遊び下手であった我々の年代も熟年を迎えて人生を楽しく過ごすことで一致している。

文芸春秋十一月号の「同級生交歓」欄に代表八名が誌上出演した。人生八十年の時代である。益々意気軒昂、現役で頑張っている同期生も多い。

教育論を特集として本紙で取り上げるとか。二五会で発刊した卒業四十周年記念誌「チンチン電車を運転した少年たち」をぜひご一読あれ。我々の太い一本筋が通った教育観を読み取って頂けるものと思う。(濱田桂一)

〔昭和二十六年卒〕

卒業四十周年記念の懇親会と慰霊祭を、博多山笠が行われている七月十五日、全国から二百三十名が集い盛大に開催する。懐かしい先生の顔も多数見え四十年前にタイムスリップ。今年は還暦の年になる。今まで団結力を誇った大漫会も財政問題でかげりがみえて来た。幹事の舵とり(会報の発行・会費の徴収・総会への動員)いかんなので、情熱をもって取り組んでいるが、会員の仲間意識・連帯を盛りあげていきたい。東京修猷会の運営はもっと難しいものであろう。(奥村秀郎)

〔昭和二十七年卒〕祝卒業四〇周年

平成三年度の東京修猷二十七会は、平成三年十一月三十日(土)に本郷赤門隣り学士会分館で開催。出席者は、上京中の山藤馨君(九大工業部教授、東大教授兼任)、久し振りに出席した大沢行助、大野晴彦、西崎喜雄の三君ら総勢四十名。物故者(久家靖史君・日本原子力発電取締役・十月十九日没。柴田幸司君・安川電機常務、八月没。)に黙祷の後、湿りがちながら懇談の一夕をすごした。なお、久家栄子夫人も出席。二次会は恒例の同級生高原節子さんの池袋「二つの部屋」で。

私どもの学年は、平成四年三月で卒業四十周年で、六月六日(土)に由布院「山水館」で記念クラス会を開く予定である。(福田純也)

〔昭和二十八年卒〕

毎年二月の第一日曜日に東京猷友会(二十八年卒同期会)を新宿の住友ビルで開いています。関東地区には百二十名ほど在住しておりますが、そのうち四十名の方々が例年出席しています。日曜日の昼食中心の集りのせいか女性が十名以上は出席しています。もちろん福岡では十月にゴルフを兼ねて同窓会が開かれており五十六十名が出席しています。来年一九九三年は卒業四十周年にあたります。三十周年は福岡で盛大に開催し、三十五年は京都で行いました。年令も五十七才となり退職や出向など、やや現役から引きつつありますが、食料事情が悪い時期に育ったにもかかわらず皆さんまだまだ健康で元気です。四十周年の同窓会をどこでどのような内容でやろうかと目下アイデアを募集中です。(松尾正弘)

〔昭和二十九年卒〕

一、 平成三年九月二十一・二十二日の両日、一泊二日の日程で、平泉の中尊寺、同毛越寺、鳴子峡、元仙台藩の藩校「有備館」を見学した。参加人数二十三名(内婦人八名)であった。今回の旅行では、長野倬士君に企画もふくめて、大変お世話になった。深謝。

二、平成三年十月十八日、新宿住友ビル四十七階の住友クラブで総会を開いた。福岡から本部の会長大橋一弘君が駆けつけてくれた。参加人数は四十一名であった。百万ドルの夜景が見えるこの会場の世話は、岡村祥三君である。多謝。

三、平成四年度幹事は、田中穂積、川原裕、高木道子、中沢郁子の諸君に決まった。(坂田弘)

〔昭和三十三年卒〕

十月二十六日、関東、近畿から夫人同伴参加者を含め四十三名が東急ハーベストクラブ浜名湖へ集合、夜のパーティーと翌日は折悪しく雨だったが、観光組、ゴルフ組に別れ、それぞれ楽しい一日を過した。一泊旅行はこれで三回目、早くも次回を楽しみにしている。十二月一日は故山内豊徳君の一周忌、どげんしよる会から十八名が列席故人の冥福を祈った。十二月三日は忘年会、ふくおか会館に四十三名集い旧交を温めた。途中から山崎拓建設大臣も参加、近況を語り全員より熱い激励を受けた。(城川明)

〔昭和三十一年卒〕

昨年(平成三年)は卒業三十五年を迎え、在博多組の大変な努力で、嬉野温泉で同期会が開かれ、全国から百二十名の参加があり、楽しい一日をすごすことができました。

これからも節目ごとに、皆の元気を確かめあうことを誓い合いました。その時のビデオができておりますので、ご入用の方は小生までお申付けください。

さて、今年は東京で一度パーティーを企画してみたいと思いますので、ご意見があれば是非お聞かせ下さい。(中村保夫)

〔昭和三十二年卒〕

平成三年度、東京三二回は昨年十月十九日(土)、吉永君がお世話をしてくれた会場に三十余名の同期生が集まり、盛会裡に飲み、語り合いました。大阪から岡部君が特別参加し、楽しい挨拶がありました。

大阪地区同期生諸氏のお骨折りで、卒業三十五周年記念大会が計画中です。平成四年七月四日(土)パーティー、五日(日)奈良方面の見物という内容です。各地から同期生が参集すると思いますが、東京三二会から五十名は参加して欲しいとの要請を受けています。皆様には資金の準備とスケジュールの確保をしておいてください。よろしく。

昨年、同期の平田胤寿君と杉原文夫君が亡くなられました。ご冥福を祈ります。

転出入等移動がありましたら、お知らせ下さい。(国分英臣)

〔昭和三十三年卒〕

卒業後三十三年目を迎えた三三(サンザン)会は、昨年の総会後、恒例となった神田駅近くの「千両箱」での二次会兼同窓会に二十四名が集いました。毎年博多から駆けつけてくれる松井、川野(旧姓皆川)両名のみやげ話を中心に、六光星の青春時代にタイムスリップして博多弁で大いに語り、大いに笑った次第です。泊りがけでの三三会同窓会を開こうとの話も飛び出し、そのうち是非実現したいものと思っています。(福田武郎)

〔昭和三十四年卒〕

恒例の三思会の忘年会・十二月七日(土)、新日鐵の新三谷寮にて開催、出席者数およそ四十名・二次会は新宿まで繰り出し、時の過ぎるのも忘れて大いに談笑す。幹事の皆さんご苦労さま。

齢五十の大台を越えると、様々な思いが胸中を去来する。これまでの生き方でよかったのかどうか、別な選択肢があったのではあるまいか、妻のこと、夫のこと、子供のこと、真近かに迫った定年のこと、等々・・・

なにこれまでどうにかやってこれたのだから、身体さえ丈夫なら何とかなるさ、と自らに言い聞かせる。そんな時、昔の仲間に会う。肩肘張らず素直な気持ちで、心の内を話し合う。

同窓会とはいいものだなあと、しみじみ思う。お互い励まし合いながら、再会を約して別れる。次回会うときは、どんな話に花を咲かせようか。(松本秀三)

〔昭和三十六年卒〕

去る平成3年十一月十五日十七日にかけて、三十六年卒は福岡において卒業三十周年記念の式典を開催した。北は北海道、南は沖縄(東京からは二十八名)までの同期生が百三十三名集い、旧交を温めさらに新たな出会いの日となった。

十五日のゴルフコンペ・前夜祭に続き、十六日に記念式典が菁莪堂にて、恩師(尼川・石田・北島先生)及び現館長の出席の下厳粛に執り行われた。この席で、集めた基金の中から修猷館へ育英基金と書架を寄贈した。続いて西日本銀行本店ホールにおいて、福岡市の後援による一般公開の記念事業三十年目の文化祭「わが故郷を語る」を開催し、好評を博した。

一部は、吉野ヶ里から鴻臚館までの古きをたずね、二部では二十一世紀の魅力ある都市をめざす福岡の姿を、各界の同期生によるにわか討論会、三部では国際都市福岡へのメッセージを海外同期生からいただきながらライブトークを行った。この記録はビデオにとり、現在編集中です。

その後恩師を交えて懇親会を開き、いつもながら夜遅くまで中州の街を飲み歩き、大いに博多を堪能した。

十七日は貸し切りバスにて吉野ヶ里有田への修学旅行で三日間の行事は幕を閉じた。なお、今後この記録を含め、名簿付きの記念誌を発行する予定です。原稿依頼が来たら快くお引き受けください。(井島稔)

36kai_s.jpg (10176 バイト)(二部)にわか討論

〔昭和三十七年卒〕祝卒業三〇周年

年一度の三七会関東支部会を九月十一日に新橋のスーバードライで行いました。今回は米国で活躍中のハロラン(森)史子さんの帰国に合わせ平日の開催でしたが、二十五名の参加を得ることができました。これより先、五月三十日に開かれた福岡での同窓会には、三七会福岡本部が幹事を務めたため、東京からも十名が応援参加しました。ところで、本紙発行元の東京修猷会への我が学年会費の納入率が低いとのデータが示されましたので、本紙に同封されている振替用紙にて早速四年度分を納めて下さるよう幹事からお願いします。(小野寺夏生)

〔昭和三十八年卒〕

修猷館を出て三十年になる。入学は越境までしたのだから感慨はひとしおだった。数学の先生が幾何学の最初の日「Geometry=図を見とれ」と駄じゃれを言われて緊張がほぐれたりしたこともあった。

爾来私は東京周辺で生活しているが、福岡出身と言うと「九州男児ですね」と、なぜか誉めてくれる。修猷館と言うと決まって「名門ですね。字が難しいですね」と、また誉めてくれる。選挙をやる身にとっては大変ありがたい経歴と感謝している。(原田義昭)

〔昭和三十九年卒〕

昭和三十九年卒の皆さん、お元気でお過ごしのことと思います。成功裡に終わった一昨年の東京修猷会総会の疲れもとれて華の中年を楽しく過ごそうと、幹事一同張り切っております。

三月上旬には、同期会を予定しておりますので、是非ご出席ください。

同期生の動き。高田和夫、中山弘幸(旧姓、井上)、三輪隆慶の三氏が帰福。佐藤洋一郎、竹内貞夫、時枝信康、宮崎幸子(旧姓、白木)の四氏が上京。(久保田康史)

〔昭和四十年卒〕

東京修猷しっとう会は、平成三年度東京修猷会総会運営担当の任を無事果たす事が出来、全員「ほっ」としている。例年、春と秋の二回の同期会を催しているが、平成三年は三組の井上浩君のお世話で四月十三日、巣鴨にて、また十二月二十一日、代々木にて開催されました。六月二十九日の総会迄には六月一日にも大きな同期会を開いた外、総会の打ち合わせの会は、殆ど毎週開いていました。総会準備の期間中、同期の仲間にも変化がありました。亡くなった友人もあり、転勤となった友人もあり、不況のあおりを受けた友人も居ました。お互いに助け合って総会運営の任を果たす事が出来ました。同期の仲間に感謝しています。総会運営の打ち合わせなどで、高校卒業以来会うことが出来なかった友人と再会出来たなど、しっとう会の交友の輪が改めて大きくなりました。今後は気楽に同期会を楽しむ事ができます。今年平成四年の同期会と世話役は四組の担当です。案内状が来たらぜひ参加して下さい。また、住所等に変化があったらC・D・Sの倉本君まで連絡して下さい。(田中俊雄)

〔昭和四十一年卒〕

昭和四十一年卒は、いわゆる「団塊の世代」の最初の年で既に四十四才になっています。

私の通った高宮中学では、当時二十組まであり、修猷館でも十一組まであったことを思うといかに人数の多い年であるかを、改めて実感しています。

「あふれっ子」などと特別な目で見られながらも、数の多さでそれなりに時代に影響を与え続け、気が付けば社会の中核を担うべき年代に至っています。

社会人になってからは、企業などの自分が直接的に接する世界との付き合いが中心でしたが、そろそろ自分を客観的に見る余裕(?)もでてきたためか、四十一年卒(よいよい会)も、三年前から組織的、かつ定期的に同窓会を開催するようになりました。修猷館時代には、全く付き合いのなかった同窓生との付き合いも始まり、人間関係の重要さを改めて感じさせられている次第です。

今年は毎年恒例の東京修猷会総会の、学年幹事という大役を演じなければなりません。常に時代に新しい風を送り込んできたという自画自賛にしっかりと立脚し、今年の全体総会を一味違った印象深いものにしようと、実行委員会一同かなり入れ込んでいます。既に度重なる会合を持ちながら、着々と準備を進めています。各学年の皆様のご協力、よろしくお願い申し上げます。乞うご期待!(工藤安信)

〔昭和四十二年卒〕

早いもので卒業して二十五年、同期の諸氏も立派なおじさんおばさんになって忙しくお過ごしの事と思います。さて、東京修猷会の総会はご存知の様に各卒業年度の持ち廻り幹事により準備運営されていますが、いよいよ来年は我々四十二年卒が幹事となります。準備には一年位かかるとの事ですので、早急に幹事長を選び体制を作る必要がありますので、適当な方の推薦をお願いします。また、準備は原則として会員全員であたりますので、グループで集まる機会の多い方はぜひ御連絡下さい。連絡は土井まで。(土井芳夫)

〔昭和四十四年卒〕

『獅子の会』(昭和四十四年卒)便り。卒業以来二十三年余りの年月が過ぎ、我ら同期総勢五百五十名も各々と道を歩み、現在首都圏にたむろする獅子達は、約百五十名程度と推定されます。

昨年より有志達が、仲間の匂いをかぎに集りだし、今後四月及び、十月の第一金曜日には定期的に集まることになりました。

昨秋は三十名集い、実に楽しい一夜を過しました。その時今でも決していい人相でない、昔のワルソウが「あの頃は、俺もひどい顔してそうつきよったねえ・・・」には大笑いでした。

これからもこの場を、我らの栄養補給の場にして楽しい会にしてゆくつもりです。(伊佐裕)

〔昭和四十七年卒〕祝卒業二〇周年

『卒業二十周年記念を皆で祝おう』と準備が進んでいます。博多では昨年二回の発起人会が催され、かなり気合が入っています。

在京の同窓生から、『東京でもやろうや』との声が多く、さすがのグータラ幹事も今度ばかりはと、覚悟しています。皆さんのご協力をお願いします。(福嶋治)

〔昭和五十年卒〕

信じられないことですが、子供の教育のことなんかをフト考えている・・・いつのまにか、普通の親になっていることに気付き、恥ずかしいやら、歳月の早さを痛感するやら。福岡に戻って、修猷館にでも入れることができれば最高なんですが・・・

時代の変化が価値観の変革を要求しているのに本心からついていけない。そんな私は、そんな日本人は一体どこに漂流していくのか。修猷魂は何かの解決を与えてくれるのか・・・ナンテ気取っても仕方ないけれども東京修猷会の総会には、出来るだけ顔を出して、旧交を暖めたいものですね。相変わらず怠慢幹事でスミマセン。(野中哲昌)(野中公子)

〔昭和五十五年卒〕

一九九二年、修猷館同窓生の皆様には新しい年をお迎えになり、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。

昭和五十年卒の私たちも早や(?)三十才を過ぎ、月日の経つ早さに驚き、その間どのくらい自分が成長したか・・・などと考えています。(昔のことをしみじみ思うのは、いわゆるオヤジに近づいた証拠でしょうか?否、温故知新というではありませんか)

バブルがはじけ、厳しい時代を迎えようとしています。好況の波の真っ只中で、社会人となった我々の真価を問われる時であるという認識の下、オヤジ殿達に負けぬよう頑張ろうと考えている今日この頃です。(高崎幸治)

〔昭和五十八年卒〕

私達昭和五十八年卒業生は、『いっちょやる会』といいます。

毎年六月の東京修猷会総会の日の夜、同窓会を開いています。

年齢的に、一番動きの激しい時期でもあり、なかなか名簿が安定しないので、かなり漏れがあると思われます。就職や転勤などで東京へ出てきた方は、幹事まで連絡をして下さい。(大浦公大)(大島栄二)


海外だより

Honkong1_s.jpg (10192 バイト) Honkong2_s.jpg (4049 バイト) 大矢 高暉(S31卒)

近づく1997年 =香港だより=

一九八一年十二月に香港に赴任して早いものでもう十年が過ぎた。当時は一九九七年の粗借期限後香港がどうなるかについてもまだ遠い将来の問題として、差し迫った現実感は無かった。中国はそれまでの閉鎖国家からようやく対外的に開放されつつあった。今では高層ビルが林立し人口五十万の大都市に発展した深せん特別区にもアヒルがのどかに泳ぐ一面の田園地帯で、国境を接した香港側の小高い丘には“竹のカーテン”の向こう側を一目見ようと連日大勢の観光客が押し寄せていた。香港は中国にとり雑貨や農産物を輸出して外貨を稼ぐ主要拠点であり、また自由世界に向けて開かれた唯一の窓であった。今では香港に対する投資額で中国は日本・米国を抜いて第一位となり、香港企業にとって深せんや周辺の広東省南部は生産拠点として四百万人近い労働者を雇用するに至っている。このような相互依存の強い関係が出来上がったにも拘わらず、香港人の中国に対する不信感は根強く、外国国籍取得の為の移民や資産の海外移転が引続き行われている。中国での共産革命で香港に逃れて成功した企業家達も次第に第一線を退いてはいるが、二代目は父親の苦境を聞いて育っており、また文化の洗礼を受けて逃れてきた人達も多い。彼らが中国返還後の香港の将来を必ずしも楽観視しない気持ちも分からぬではない。然し、考えてみると香港は元来利益追求の場として多くの人に企業家として腕を振う“舞台”を提供してきたのではなかったか。舞台装置―弁護士、会計士、低税率、交通・通信の便宜性等々―がこれ程完備し手軽に使える処は世界中にない。役者―企業家―は演技を終え―金儲けをして―舞台を去りまた新たな人が登場する。香港はそのような性格の処であろう。香港の中国返還に係る中英協定で中国は返還後五十年香港の現制度の維持を約束し一国二制度を公言した。ソ連邦の崩壊を中国首脳はどう受けとめているだろう。中国は社会主義国家建設のスローガンはまだ高々掲げており、社会主義革命を生命を賭して戦った現指導者の下でこれが大きく変わることはない。然し、中国は開放経済政策下で市場原理を既に導入しており、現実経済に資本主義的色彩が次第に濃くなることは否定できない。ソ連経済との一番の相違点であろう。社会主義国家建設のスローガンと経済の実体は次第に乖離が大きくなるであろう。指導層の世代交替がこれに重なるであろう。ともあれ中国人は現実的で弾力的対応力に優れた民族である。今ソ連・東欧で起こりつつある歴史の流れに重ね合わせて今日の香港人の中国返還後に対する懸念は返還までに解消するかも知れない。将来に亘っての香港の繁栄はむしろ植民地末期の世相の乱れを防ぎ返還当初の混乱をどうスムーズに乗り切るかにかかっていると言えよう。この十年間このダイナミックな国際都市香港に勤務できたことは得難い体験であった。


ブラジル事情

Brasil1_s.jpg (4456 バイト)鹿子島正孝(S41卒)

 私は一九九一年三月まで約十年ブラジルに駐在しました。

 ブラジルは地球の反対側にあるので、日本とは反対のことが多くあります。時差は十二時間ありますし、先ず季節が反対、家も北向きが日当りが良いことになります。北へ行くほど暖かで、夜の月は日本で見る月の逆さまに見えることになります。車も右側通行、車社会のため、人よりも車優先、のんびり車道を横断しようものなら運転手が顔を赤くして怒鳴ります。

 日本におけるブラジルを代表するイメージの中で「カーニバル」や「サッカー」は妥当だと思いますが、「ジャングル」は日本のテレビ、雑誌によるブラジル紹介がアマゾンのジャングル地帯に偏向しているため、全体が熱帯雨林の様な気候風土と誤解されていると思います。

 ブラジルの中・南部はアルゼンチンのパンパから続く牧草地帯や穀倉地帯で、南部では四季もあります。また、欧米や日本から資本が投下されており、南米一の工業国でもあります。余り知られていませんが、GNPはカナダに次いで世界で八番目の経済大国なのです。最近のブラジルで世界的なことは「超債務国」であるということではないでしょうか。対外債務については、最近では微増の状況ですが、超インフレはいまではブラジルの「文化」として定着した感さえあります。

 政府は、超インフレを抑えるべく物価・給与の凍結等の諸政策を実施していますが、国民はインフレとの共同生活を待ち望んでいるかの様に行動し、政府の諸政策は悉く失敗しています。

 元々、インフレの元凶は公共赤字に有るのですが、赤字の削減は特権階級の見直しで有り、不可能に近く、超インフレは当分なくなりそうにありません。

 しかし、広い国土と豊かな天然資源に恵まれ、人々はおおらかでのんびりしています。「自分の将来は神様だけが知っており、神様が望めば良くなるだろうし、望まなければ悪くなるだろう」と全て他人任せ。せっせと働く日本人から見ると、歯がゆい気はしますが、物質的には恵まれていても「ゆとり」のない日本人の生活と比較した場合、一概にインフレに苦しむブラジル人の生活が貧しいとは言えない気がします。

Brasil2_s.jpg (18312 バイト)イラスト 高橋登世子(S39卒)


編集後記

「幸福への道」六箇条

◇感謝して真剣に努力する人

◇義務も責任も進んで果たす人

◇時間を守り礼儀正しい人

◇常に反省して素直に過ちを認める人

◇何事も善意に理解する人

◇夢と希望に笑顔で生きる人

「不幸への道」六箇条

◆たえず不満や愚痴の多い人

◆やる気がなくよくサボる人

◆無責任で法規を守らぬ人

◆時間も物も無駄にする人

◆カゲ口が多く人の和を乱す人

◆心が狭くすぐ腹を立てる人  (熙)


こういうのを「活字中毒」とでもいうのであろうか。読みたい時にいつでも読める本を必ず一冊は手元に置いておかないと安心できない。会社までは電車で十分、車内で読むという程のことはないのにバッグに文庫本を忍ばせる。新聞はもとより折込みのチラシも結構丹念に読む。

こういう具合だから、同窓会の会報でも届こうものなら一面から編集後記まで無論熱心に読む。だがしかし立場が替わってようやく気がついた。会報を作るということはこんなに手がかかるものか。書くということがいかに難しいことか。原稿を依頼されてしまった方々、修猷健児の心意気、断れば男がすたる、女がすたる、と心をこめて書いて下さった。ただただ感謝。また写真やイラストをお寄せ下さった方、広告の出稿にご協力いただいた方、関係者の皆様本当にありがとうございました!()


UNIVA.JPG (30531 バイト)ユニバ

soukaianai.jpg (43706 バイト)総会


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