東京修猷会・会報 第1号(創刊号) 1989年(昭和64年)1月1日発行

news_daiji_s.jpg (3620 バイト)  yamanakamura_s.jpg (7481 バイト) 「山中村」(吉田博 全木版画集より)kaiho1-1_s.jpg (5511 バイト)第一面画像 

目次 (中項目の下線がある部分をクリックするとその文面に飛びます)

大項目 中項目 筆者 卒年
巻頭言 「勢い水」となって 松尾金蔵東京修猷会長 S4
  祝辞 清澤又四郎同窓会長 T10
  「会報」の創刊に寄せて 原岡鐵二館長  ---
  創刊を祝して 桑原敬一福岡市長 S15
東京修猷会総会 ’88総会報告 淵上貫之事務局長 S26
二木会報告 1988-11, 1989-1,2,3,4,5,7,9,10の各月 中尾大三 他 S30
  東京修猷二木会を顧みて -その小史と意義- 向野元生 T9
  東京修猷歴代役員 二木会事務局  ---
学年だより 学年幹事の皆様へ 古賀宗春 S38
  S12〜S63卒各々の一口メモ 各学年幹事   ---
会計報告 東京修猷会会計報告 岡村浩 S35
文化欄 博多風景 寺田竹雄 T15
  福岡このごろ 小池宏明 S27
  バンカラとは 神田紅 S46
  民族生産性と人種差別 高岩和雄 S12
  ようこそ日本へ 原田智子 S40
  思い出すこと 中川美穂 S61
  アメリカンドリームについての一考察 長野辰二 S58
  コンピュータ 田中まづる S45
海外情報 ラインに館歌は流れる デュッセルドルフ修猷会 中村道生 森久協一 S26 S31
  睦の涯に独り 「西川一三氏の壮挙」 福田廉 S27
役員より 創刊に寄せて 宮川一二東京副会長 S12
事務局 事務局だより 編集後記 田端千弥子編集長 他 S27

rokkosei.jpg (3275 バイト)新しき年、新しき猷(みち)へ 東京修猷会「会報」創刊

matsuo_s.jpg (2934 バイト)「勢い水」となって   東京修猷会会長  松尾 金蔵

 この夏、しばらくぶりの帰郷で、念願の祇園山笠を見ることができた。それは数ある思い出の行事のうちでも、私の一番のお郷里(くに)自慢である。あのでっかい山笠(やま)の前後(まえうしろ)、肩棒にしがみついて担ぎ、勢い水を浴びてがんばる若衆の向う意気を称えて他郷のわっしょい・おみこしとは訳が違うぞと、吹聴してきたものである。(もっとも私自身は、あの山笠を担いだことはない。幼少年の時の写真で、同じ締め込み、はっぴ、鉢巻姿は勇ましいが、恐らく父の肩車か、せいぜい先走り程度だったのであろう)。
 七月十五日未明、一番太鼓、掛け声と共に、山笠は神木を廻り、大きな人波を作って櫛田神社を駆け抜けてゆく。台上がりが赤てっぽうを振り、水がしぶきをあげる。
 東京修猷会も、年々歳々新旧の修猷健児を加え、ほうはいとして、まさに追い山笠の勢いで、この会報紙が、その勢い水でありたい。皆さん共ども誘いあって、この山笠にどんどん乗り込んで下さい。

kiyosawa_s.jpg (3347 バイト)祝 辞   修猷館同窓会会長 清澤又四郎

 新年おめでとうございます。新しい年を期して、東京修猷会が会報を発行されるとお聞きして喜びが倍増する感じが致します。
 貴会総会に出席して驚きますことは、毎年立派な栞が作成され、またいつかは職業別名簿を作られるなど、常に創意工夫がこらされて盛大な総会が開催されていることで、いつも深い感銘を受けている次第であります。
 この度さらに会報が発行されますことは貴会の一層の発展の一大契機となることと誠に御同慶にたえません。
 思い起しますと、同窓会館建設を機に機関誌「菁莪」を全会員に配付するようになってから、同窓会の歩みは面目一新するようになりました。「菁莪」を通して会員の精神的きずなが深まったのでしょう。会費の納入も飛躍的に伸び、各種会合への出席者もふえました。二百年の大事業完遂の遠因もここにあったと思っております。
 この会報も会員の新しいよりどころとして成長し、貴会が益益発展されることを期待致します。

haraoka_s.jpg (3085 バイト)会報」の創刊に寄せて  修猷館高等学校館長 原岡 鐵二

「東京修猷会」の会報が誕生するにあたり在京の館友諸兄姉の皆様に心からお祝いを申しあげるものであります。
 就中、東京修猷会の母胎として、その基盤づくりに地道に永年にわたり、ご尽力をたまわりました二木会の皆様方に深甚の敬意と感謝の念を表するものです。
「君は君、僕は僕、されど仲善く」ということばがありますが、それぞれの個性を発揮し主体性をもった館友のご活躍と「されど仲善き」ことを祈念申し上げます。
 修猷には伝統ある「六光星」があります。人間は誕生から四百万年、その経過からすれば一瞬の存在かも知れませんが、その一瞬に光る存在こそ、「六光星」を頂いた館友の大いなる生だと思います。どうか郷里を離れた皆様が自分の「六光星」をみつめて、たくましく挑戦されることを期待しております。皆様のご健勝を折念いたします。

kuwahara_s.jpg (2573 バイト)創刊を祝して  福岡市長 桑原 敬一

 新年あげましておめでとうございます。
 会員の皆様には、すがすがしい初春をお迎えのこととお喜び申しあげます。
 さて、このたび、東京修猷会が会報を発行されたことを心からお祝い申しあげます。
 本年は、福岡市が市制施行百周年を迎え、新たなる第二世紀へ向けて第一歩を踏み出す年に当たります。この大きな節目にあたり、福岡はもとより九州の経済、文化の一体的浮揚を図るため、三月十七日から九月三日まで、シーサイドももちで「アジア太平洋博覧会-福岡89」(よかトビア)を開催いたします。どうか皆様方も期間にぜひ御来場いただき、この博覧会を盛り上げていただきますようお願いいたします。
 最後にこの会報を通じて会員相互の理解と協力が深められ、貴会がますます発展されますようお祈り申しあげます。

 

巻頭画   「山中村」 吉田博 木版画集より

 吉田 博(よしだひろし)一八七六(明治9)年、久留米市に生まれる。一八八八(明治21)年、中学修猷館に入学。図画教師吉田嘉三郎に画才を認められ、養子となる。その後、京都の田村宗立に入門。次いで不同舎の門人、明治美術会会員となる。吉田は風景画家であり、素材となる風景を広く世界に求めた。一八九九(明治32)年、渡米。各地で大成功をおさめたのち、パリ万国博に出品。欧州、各国を歴訪。アメリカを中心に海外旅行は十数回に及ぶ。


88soukai_s.jpg (8366 バイト)'88総会報告    事務局長 淵上貫之(昭和26卒)

 昭和六十三年六月四日の土曜日、ホテルグランドパレスのダイヤモンドルームにおいて、恒例の総会が開催されました。
 集う館友OBと来賓を含めた総数四百七名。懐かしさと親しみの交叉する雰囲気の中で、旧交を暖め、談笑にくつろぐ楽しいひと時となりました。

和気あいあいのうちにも厳粛に、定刻より六十三年度総会が開かれ、館歌斉唱の次に、宮川副会長のリードで、他界されている恩師、同窓生への慰霊のための黙祷がなされ、そのあと松尾会長の挨拶と続きました。恩師、来賓紹介、会計報告などの後、本部同窓会の竹村副会長の音頭で大乾杯の声が会場一杯に響き渡りました。このあとは楽しい懇親会です。田端俊也氏作曲のバックミュージックが、会場に流れ、人気抜群の神田紅さんが、和服姿で美しく舞えば、賛嘆と拍手は最高潮に達し、宴はますますたけなわ。
 また、会場には修猷二百年のビデオも上映され、一同しばし、懐古、懐旧の思いにひたりました。最後に応援歌「彼の群小を凌駕して」の大合唱で、めでたく成功裡に会は終了しました。
 総会の良さは、単学年たる同期会の横のつながりだけでなく先輩後輩の縦の結びつきを深め、星のしるしの輝きを続かしめるところにあります。今年の総会に、諸兄姉のふるっての御参加をお願いします。
 この立派な総会のすべてを準備し、献身的に取り組んで下さったのは、昭和三十七年度卒業の幹事学年の皆さんでした。委員長の小野寺夏生兄、そして同期の皆さん! 本当に有雜うございました。心から感謝しております。


nimokukai.jpg (6748 バイト)  二木会担当副幹事長 中尾大三(S30卒)

 東京修猷会会員相互の研鑚と交遊の場でもある修猷二木会も昭和六三年十月十三日で第三六四回を開催するまでになりました。
 ここ一年の講師と講演内容をご報告いたします。
 二木会は、先輩と後輩の知性と友情を交流蓄積する場でもあり、会員諸兄姉の多数ご参加をお願いします。
 尚、二木会通知状は、会費納入者のみ送付しておりますが、今回の二木会報告で、ぜひ参加したいと思われる方は、事務局までお問い合せ下さい。


11月 久米宏之 S23年卒(経済評論家) 「これからの経済と経営」 63.11.12

 氏の緻密な経済分析と鋭い切り口、深い洞察力には定評がある。日本が経済大国になり得たのは歴史、社会、文化、宗教と無関係ではない。今や世界の中の日本を自覚し、企業経営には人間尊重の姿勢が大切と説かれる。     大西勇



1月 大島隆夫 S13年卒 (元大蔵省・税理士) 「税制改正を語る」 63・1・14

 今日税制の七割強をしめる直接税は、重苦しくて脱税が多いことから、所得ガラスばりのサラリーマンの不満が強い。所得水準が高まり、平準化した今日、納め易い間接税を導入して、社会維持費の一部をみんなで広く薄く分担する新しい税制が必要である。    大島隆夫


2月 古川公毅 S36年卒(東京都港湾局・副参事)「ウオーターフロントの開発の動向」 63・2・10

 都心に近い臨海部の広大な埋立地への関心が高まっている。東京都が進めている国際化、情報化に対応した臨海部副都心のまちづくり計画を中心に、ウォーターフロントの開発をめぐる最近の動向について報告した。    井島 稔


3月 笠 耐 S27年卒(上智大学教授)「科学教育の国際的動向」 63・310

 日本の高度成長はアメリカの模倣によると、終始言われ 独特の創造を生み出さなければと、一流国として残るには創造力を増強する科学教育(文化もだが)がいかに大切か、基盤となる小学校の理科授業の乏しさは創造性を生むはずがない、と日ごろ思っていた。ヨーロッパのゆとりある授業を拝見し、日本の子供たちの夢のなさをいっそう知らされた。        田端千弥子


4月 福田純也 S27年卒(市立川崎病院・検査部長)「病気を顕微鏡で見れば」  63・4・14

 一般的には、病人は医者に総てお任せで、肉体が病魔と戦っている部分を知ろうとしないが光学で四百倍、電子で六千倍でガン、エイズが正常な組織を分解して行くのを見たとき「いつ病原菌が入り込むかも知れない他人事ではない」と、この九十分間は少なくとも思った。皆さま御自愛の程を。         山崎広明
nimokukai_photo_s.jpg (8267 バイト)

5月 久保田勇夫 S36年卒 (大蔵省・参事官)「G7における政策協調と円相場」 63・5・12

 一九八五年九月のニューヨークG5以降の政策協調と円ドルレートの推移を説明。為替レートについて、日・米・西独など主要通貨当局の意向が格段に重要になったこと、わが国が国際金融では米国に次ぎ文字通りナンバー2となったことを各種交渉に臨んで痛感した。         安田 彪


7月 興膳 宏 S30年卒(京都大学文学部教授)「パリの中国人」 63・7・14

 中国の六朝文学の第一人者でその著書が中国でも翻訳されている氏が、パリ大学留学の経験をもとに、フランス人の中の中国人、外国に出てきた中国人社会の価値観について、興味深いエピソードを中心に語った。    伊藤正孝


9月 広松 猛 S37年卒(竹中工務店・研究所)「東京ドーム設計エピソード」 63・9・8

 竹中工務店に勤務し、工学博士である広松猛氏が、東京ドーム建設における構造的振動について講演してくれた。私たちの日ごろあまり関与しない分野であり、興味深く、また裏方としてなかなか苦労しているものだなと感じ入った。氏のますますの活躍を期待している。      中西保年


10月 佐藤 守 S33年卒(航空自衛隊 航空幕僚監部人事教育部教育課長
    「国際情勢の見方-軍事的見地から」
63・10・13

 世界は平和なのか?という問いかけにはじまる講演は、国際情勢を見る場合、北極を中心とするポーラ図法で考える必要があることなど、「平和」な日本に暮す我々の盲点を卓抜なユーモアを交えて衝くものであった。
        武蔵大学経済学部教授 貫 隆夫


東京修猷二木会を顧みて ーその小史と意義ー  向野元生(T9卒)

 「東京には相当の修猷館出身人材が居る。その体験、所見を談る勉強会を毎月開いて、館友の親睦交流もやらうぢゃないか」という話が、あの不幸な敗戦直後の混乱から再建復興の軌條が漸く敷き始められた頃、吉鹿善郎、太田弁次郎、桜井弘之、秋山雄之助諸先輩他在京館友諸兄の間から持上り、毎月丸ビル前、精養軒で催し、館友講師に時局談事等各分野の話を聞き、放談乾杯、愉快な交流睦談を楽んだ。

 毎月第二木曜日、午餐会を催し、「二本会」の愛称が定着した。
終戦後、日本再建復興の熱意に燃えた時代背景の下、修猷老健児諸兄姉は燃えていた。毎月楽しい、しかも有意義な親睦交流の会食勉強会となった。私は満州引揚後、在満中の友人(満州国際運輸社友諸兄姉他)の更生再建に献身し、二木会創始当初、毎月の出席は不可能だった。 私の日記「洞東備忘」によると、昭和32年10月10日(木)、第33回修猷二木会より会場を丸ビル精養軒に変更 (正午より1時間、昼食代金共二百円、学生無料、七月外毎月開催とあり、今日より三十年前既に三十三回例会を催していた事となり今更、二木会の伝統の重さを感ずる。
試みに、十年前昭和五十三年七月の日記「石心備忘」の記事を見ると「会場歌舞伎座表丸正ビル地階「レストラン富士」出席者、安川、福井正副幹事長、秋根、坂本、久保田諸兄外四十名余、講師IBM(日本社)三井信雄研究所長、電脳機功罪論、面白し」とある。

 修猷館は柔剣道と英、漢、数に強いといわれた伝統ある質実剛健の青年道場その伝統を生かし、在京老壯青年館友が生涯勉強会、二木会、またこの度の会報発行によって親睦交流を楽しむことは、新異な栄幸であり、また格別有意義なことと感謝している。


東京修猷歴代役員


S29 初代世話役 安川第五郎 M39卒

S33   世話投 徳永真砥  M40
          吉鹿善郎  M41
          佐藤与助  M43

S37   世話役 佐藤与助  M43
          太田清蔵  M45

S47   世話投 太田清蔵  M45
          秋山雄之助 T8
          高橋量之助 T8

S52    会長 倉田興人  T10
      副会長 松尾金蔵  S4
      幹事長 鷹取至   S3
       坂本一敏  S5

S55    会長 倉田興人  T10
      副会長 松尾金蔵  S4
      幹事長 桑原敬一  S15

S58    会長 松尾金蔵  S4
      副会長 宮川一二  S12
      幹事長 一万田満州 S16

S60    会 長 松尾金蔵  S4
      副会長 宮川一二  S12
      幹事長 伊岐和男  S23


gakunendayori.jpg (5617 バイト) 学年幹事の皆様へ 組織担当副幹事長古賀 宗春(S38卒)

 「学年だより」の原稿依頼に関し、ご協力頂きありがとうございました。残念ながら、全学年の欄が埋りませんでしたが、特に若年層の学年の組織づくりが未熟のようです。
 同窓会活動の根幹をなすものは、同期会活動だと思います。会報の「学年だより」欄を有効に利用して下さい。また、事務局に名簿が用意してありますので同期会の連絡等で必要な方は気楽にご利用下さい。幹事変更または不在の学年は早めに決定の上、事務局までご連絡ください。
 今後とも同窓会活動にご協力の程、よろしくお願い致します。



(昭和12年卒)
わが猷親会は、福岡本部と近畿、関東の二支部からなり、毎年持ち回りで全国大会を開催。ことしは五月二十日福岡で「よかとびあ」博の見学を兼ね開催の予定。東京からも大挙して参加されるようお願いします。 (片桐貞夫)

(昭和13年卒)
卒業五十周年記念クラス会は六月三日開催、出席総数54名中東京より14名が出席。ソウルより金振澤君も参加。初日、物故者慰霊祭(平山君神事)つづいて現在の運動会応接団フィルム映写、校庭散策。夜は大濠荘貸切りの宴会、二日目糸島、唐津へのバス旅行。先生の出席はなし。川嶋達次郎君、昨年九月逝去、以来在京クラス総数は三十五名なり。  (小川二生)

(昭和14年卒)
 今年は修猷館を卒業して五十周年になるので、五月二十九日(月)福岡で記念大同期会を開きます。奮って参加下さい。 東京同期会は毎年九月十三日に開いております。(野村俊雄)

(昭和15年卒)
 下記により東京満月会の新年会を開きます。このところ大分間があきましたので、多数の御出席を期待します。
 日時 一月二〇日午後六時
 場所 神田「にしき」 地図は出席予定者に後送
 会費 一万円
 出欠回答先 寺嶋法律事務所  新年の事務所開きは一月十一日ですから、十一〜十四日の間に電話で御回答ください。 (寺嶋芳一郎)

(昭和16年卒)
 待望久しき「東京修猷会報」がいよいよ、創刊されることとなり、関係諸兄の努力の賜として心からお慶び申し上げます。
 これからは会員諸兄の絶大なる援助により充実したものとしなければなりません。
 昭和六十年の200年祭の結集の力こそ、修猷の原点です。
 新旧の縦と、同期の横との円心力、求心力の原点として会報が育ちますよう、皆で頑張りましよう。 (一万田満州)

(昭和17年卒)
 いそしみ会(東京)在籍五五名。一〇月に例年の同窓会に二三名集まり一拳に四六年若返り楽しい一夕を過しました。常に最新の名簿を整えておきたいので、異動あれば、幹事まで御連絡下さい。年令相応に無理せずに、健康には十分気をつけて下さい。 (浜由悠紀雄・高向賢一)

(昭和18年卒)
 十月二一日久しぶりクラス会をやった。(関東一八会)出席者の顔ぶれもほぼ決まり、出てこない人があらわれてきた。
 九月初め福岡で卒業四五年のクラス会をしたが、その席で同級の三分の二が既に鬼籍に入ったとの報告があったそうだ。
 かつての紅顔の美少年も年年際歳年をへて白髪と禿頭とに変ったが、少くともクラス会には出て旧交をあたためたいものと思っている。(三木善夫)

(昭和20年5卒)
 在京メンバーは約五十四名。戦争末期に倉皇として母校を巣立ちした吾々には特別な歴史的感慨が生き続けている。殆んど定年で第一線を退き、既に鬼籍に列するものが約三分の一。漸く老来の悲哀を慨きながら意気軒昂、群小を凌駕する気は未だ衰えておりません。(吉田士郎)

(昭和20年4卒)
 いわゆる還暦を迎えるにあたり、昨年の東京践修会総会は当番幹事一組の諸君の肝いりで六月十一日東京の奥座敷飯山温泉で開催。福岡より参加の高松、村上、新郷の諸君や家族同伴組も含めて総勢三二名、一泊旅行とあってゆっくりくつろぎ、赤いちゃんちゃんこを着ての記念写真や福引きなど、夜が更けるのも忘れて旧交を暖めなかなかの盛会でした。
 今年の当番幹事は二組です。昨年不参加の諸君も来年は是非ふるって参加されんことを。
 なお、毎月第二木曜日開催の東京修猷会二木会には必ず誰か出席しているので、こちらへの参加も待っています。住所、勤務先の変更があったときは幹事まで知らせて下さい。(野上・田中)

(昭和21・22年卒)
 昭和十七年入学、卒業は二一年(五八回)二二年(五九回)の破竹会の連中は、年は還暦に近いのに、久遠の理想を求めて、昨年は東京で集える健児百人、今年は博多で破竹会を開くと張り切っている。
 東京修猷二木会の出席悪いのか欠点、多忙の外に、修猷時代の工場動員等で、余り高尚な話を聞くのが苦手の連中。生涯教育の時代、今からでも遅くあり
ませんよ。 (伊藤輝夫)

(昭和23・24年卒)
 昨年は卒業四十周年である。従って、去る七月九日、福岡でその記念行事として「市民公開講演会」や大宴会を盛大に開催した。
 六〇会では、年一回松岡君を煩し、新聞を発刊しているから、同級生の消息等は、大体皆知っている。(佐久間信久)

(昭和26年卒)
 会報「東京修猷会」の創刊を心からお慶び申し上げます。紙面を通して会の動向がより一層理解されることにより、ますます充実し発展して行くことと確信してやみません。
 大漫会の皆様「一年の計は元旦にあり」お互いに健康に留意して是非東京修猷会(総会・二木会)並びに大漫会に元気な顔を見せて下さい。(吉田周弘)

(昭和27年卒)
 約百三十名が首都圏に在住しています。毎年秋に(十一月が多い)、東京修猷二七会(佐伯康治代表)総会を学年クラス会として開きます。 春の東京修猷会総会散会後にもミニクラス会を持ちます。 秋も春も、二次会か三次会は、クラスの高原節子さんの店「2つの部屋」 になるのが恒例です。(福田純也)

(昭和28年卒)
 私共の学年では”猷友会”東京支部という名称の下に、毎年二月の第一日曜日に楽しい集いを住友クラブ(変る場合有り)で開いています。出席者が平均40各位で、女性が近年とみに増えつつあり、今年は15名位参加しました。男性軍も、大いにがんばって参加して下さい。 (金高紀子)

(昭和29年卒)
 私たちは今、子どもたちも大きくなり、ゆとりある第二の青春時代と自負している年代になりました。そのせいか名まとめ役の古賀新二万年幹事が一声掛ければ、すぐ二、三十人は集まると言う結束力が取り得です。10月21日は三井クラブで総会を開催60名以上の参加で、福岡からも田中丸善彦、久野吉人、岐阜から川崎吉信各氏も出席し大盛会でした。来年は海外へ遊飛しようと言う話も出ています。 (中沢郁子)

(昭和30年卒)
 通称 ”どげんしよる会”関東近辺在住者約百三十名で構成されています。最近は洒量、体カの衰えを気にしてか近郊ハイキングや見学会、美術展のぞき等を春秋の例会にしています。毎回20人程の集りです新メンバーの方参加を!
(藤江武久)

(昭和31年卒)
 皆様お元気ですか!
 大部分の方はご承知と思いますが、東京地区在住者で「修猷31会 を組織しています。年一回は出来るだけ多くの人に呼びかけて集まろうとしています。
現在は、中山悠君が代表で阿部公明君と小生が幹事(東京修猷会学年幹事兼任)ということで「オーマン」に運営ばしとりますけんよろしゅう頼みますパイ。(中村保夫)

(昭和32年卒)
 東京三二会の世話人は下記の通りです、転出入の場合はご一報下さい。
幹事長・平野煕幸(鈴善)、幹事・藤本達也(経営工房)、国分英臣(三菱化成)、神木静(神木建築設計事務所)また下記の同期生の住所が不明です、ご存知の方はお知らせ下さい。大田武夫、賀部祥史、福山博、内藤武宣、中島鴻明各氏。(国分英臣)


(昭和33年卒)
 卒業30周年の記念行事(前夜祭、式典、そして“修学旅行"昭和63年11月4〜6日)に勇躍馳せつける。「JR九州の豪華な展望列車サザンクロスを借り切って、朝霧のまち湯布院に向って、果せなかった修学旅行の夢を実現します」という福岡の仲間達の誘いを受けて。(滝口 勝)

(昭和34年卒)
 全国で活躍する三思会の皆さん!本年、春、福岡において卒後三十年の大合同、同期会を開催する予定ですので奮ってご参加下さい。二百周年のあの熱い思いと団結を再び味わおうではありませんか!因みに三思会の三思は(荀子巻第二十法行篇)の
 孔子曰く君子に三思有り
 少(わか)くして長を思へば即ち学び
 老いて死を思へぱ則ち教え
 有りて窮を思へば則ち施すなり
に則ったものです。(松本秀三)

(昭和35年卒)
 昨年六月四日の総会後、住友信託の今井君の厚意で、新宿にある住友クラブで会合を持ちました。初顔に極めて今様風の松尾俊一君が見られました。同君は歯科を六本木交叉点の防衛庁側にて開業し、チェッカーズも患者とのこと。皆さんもどうぞ。(福井健二郎)

(昭和36年卒)
 一昨年の総会・昨年の二木会のお世話で我が学年のノルマを果たしました。今年はこのエネルギーを社会に役立てているので忙しく働いているので、顔を合わせるひまもなし、一月には新年会を予定しています。(井島 稔)

(昭和37年卒)
 昨年の総会の運営に大勢の方々に協力を得ましたことを改めてお礼申し上げます。七月迄は二木会の庶務担当学年になっていますので、適当な講師があれば御紹介下さると共に、できるだけ出席をお願いします。(小野寺夏生)

(昭和38年卒)
 あげましておめでとうございます。本年の総会の予定が決まりました。
 日時 一九八九年六月三日(土)14時より
 場所 ホテル・グランドパレス(飯田橋)
多数の皆様のご参加をお願い致します。本年は職業別名簿の改訂を行い総会時にお配りする予定です。既にデーター更正のお問い合わせの通知がお手元に参
っているかと存じます。内容をご確認の上ご返送の程宜しくお願い致します。
(中澤宣也)

(昭和39年卒)
一、昭和六十三年の同期会は、三月五日(土)に行った。出席者三十名。
二、 今年は、二月二十五日(土)十六時より、赤坂のサントリービル地下一階の「ローヤルクラブ」で開催します。来年は東京修猷会総会の幹事学年であり、その打合せも行いますので、万障お繰合せの上参加下さい。(久保田康史)

(昭和40年卒)
明けまして御月出度う。昭和40年卒のみんな元気や? 社会の第一線で元気に活躍しとるちゃろ。63年はヨット(鶴木幹事)や銀座で食事(穴井幹事)の同窓会を開き歓談している。皆の消息を知りたい、ぜひ連絡を! (田中俊雄)

(昭和43年卒)
修猷卒業後20年がたち、40歳まで後一、二年、皆それぞれ第一線の責任ある立場となり多忙の身、あまりお手伝いできませんが、会報の創刊、心より喜んでおります。また、そろそろ飲屋でもやりたいですね。(小森秀人)

(昭和47年卒)
転勤や転居が多く、正確な名簿づくりに苦労しております。ご自身はもちろんのこと、消息が判る同期生についてもご一報下さい。(福嶋 治)

(昭和48年卒)
私にとって同窓会とは、精神療法です。それぞれ違う分野の人たちの話を聞ていると自分が狭い価値観に囚われている事に気付きます。そしていつもサイフと足取りが、少し軽くなって帰途につきます。(田中都)

(昭和49年卒)
我々の年度は、東京修猷会主催の全体同窓会では、最悪の出席率となっております。男性は、各勤務先で仕事優先の毎日を送り、女性は小さな子供を中心とした生活を送り、なかなか本人自身の時間を作れないようで、この世代として仕方ない事かもしれません。しかしながら、64年は卒業後ちょうど十五年になり、この機会に是非一度、「お久振会」を開きたいとも思っております。後日、声をかけますので、万難を排しご参集の程、お願いします。(山内信尚)

(昭和50年卒)
二人の娘に膝を占領されて、ついついニンマリしてしまう…そんな平凡なマイホームパパになってしまいました。東京の50年卒の同窓会をいつかと思いながら、何もできないままになっていて、申し訳ありません。
名簿だけは、常に新しいものにして定期的に配布できればと思ってますので、住所変更等あれば是非御連絡下さい。なお、女房も修猷館50年卒ですので、連絡は(自宅)の方にとっていただいて結構です。(野中哲昌・公子)

(昭和51年卒)
かたまり会東京支部の名簿を現在作成中です。「〒100 千代田区有楽町一の二の一 東宝(株)事業部 油田」までに現住所をお知らせ下さい。よろしくお願い致します。(油由 哲)

(昭和52年卒)
定例的に集いを開催したいと思いながら、幹事の不徳のいたすところで現在未達の状態。女性はもちろん男性も殆んどが、嫁さんをもらい可愛い二世もでき、生活的にも安定されてきた頃でしょうか? やっぱり、皆んなに会いたいですね。
「S52年卒の皆さん、お元気ですかー?」(真子浩明)

(昭和53年卒)
同級生の皆さん、お元気ですか。早いもので我々も30歳の大台に乗ろうとしています。世間のしみも相当しみついてきましたが、まだまだ青春。どんどん同窓会をやって、リフレッシュしましょう。(新納康彦)

(昭和56年卒)
当学年の全体数、棲息地が正確に捕捉しきれておりません。仲の良い連中が小規模で集っており、(時おり同期の結婚や初産の話が洩れ閥えてきます)仕事が軌道にのり出して皆忙しいとは思いますが、年に一度くらいは集まって情報交換したいと思っている次第です。(松尾正俊)

(昭和57年卒)
卒業してはや六年強。みんな、どげんしとるかいな。東京勤務で上京して来たやつもおろうし、相変らず学生しとるやつも…ここにおるたい。額むけん消息知らせちゃりやい。〒151渋谷区本町六の十一の七田中荘二の二 (岩崎裕一)

(昭和58年卒)
学年幹事が変わりました。新幹事は大浦公大と大島栄二の二人です。就職その他で連絡先不明の人が多々いますので、友人の引越先を知ってる方は大浦まで御一報下さい。(大浦公大)

(昭和59年卒)
修猷館を卒業して、早いもので、四年以上もたってしまった。この間、東京修猷会で様々な行事があったが、あまり参加できなかった。これからは、もう一人の幹事の久持君と力を合わせて、同期を盛り上げていこうと思っている今日この頃である。(古谷誠一郎)

(昭和60年卒)
みなさんお元気ですか。我々の同期の東京修猷会員も一一六名を数え、増々さかんに活動しております。今年も例年どうり東京修猷会総会の後、同期会を行います。
 日時 東京修猷会総会の日 午後五時
 集合場所 いつもの109の地下二階入口
また、学年名簿のほしい人は、〒214川崎市多摩区生田8−26−22まで返信用封筒に切手をはって送って下さい。住所の変わった人はちゃんと連絡してネ! (友枝城太郎)

(昭和61年卒)
私たちの活動と言えば6月の修猷会の二次会をする程度ではありますが、もっと集まる機会を増やして、より一層の親睦を深めていきたいと思います。早大ラグビーの前田君の応援もよろしく。(山形 淳)

(昭和62年卒)
去る5月21日、上板橋に於て昭和63年卒のコンパを行いました。行きつけの飲み屋がまだ無く、店捜しに苦労しましたが、男女合わせて十数名が集まり、各人の近況報告や、福岡を懐しむ話などで盛り上がりました。(森 敏浩)


東京修猷会会計報告    会計担当副幹事長 岡村 浩(S35卒)

 昨年六月より、お手伝いをさせていただいております。諸先輩のお導きのもとに、なんとか勤めさせていただいておりますが、どうか今後共よろしくお願い申し上げます。
 まず、昭和六十二年度決算報告をごらん下さい。これは、昨年の総会のときにご承認をいただいたものです。数年来の傾向通り、健全な財政状態にあり、資金も漸増を続けております。その後昭和六十三年度東京修猷会総会の決算を行いました。総会実行委員会(昭和三十七年卒)の皆様の血のにじむようなご努力のおかげで、上記の健全な状態が続けられる見通しです。実行委員会の皆様本当にご苦労様でした。総会にご出席いただいた方、ご寄付いただいた方、記念誌に広告を出していただいた方、その他の皆様方本当にありがとうございました。
 本年度は、まず会員全員の皆様へお送りしていますこの会報の発行、次に、総会実行委員会による新しい職業別名簿の発行という二つの新しい企画が行われます。共に東京修猷会の発展のための当然のサービスで、やりとげなければならない企画であると思います。どうか皆様のご支援を心からお願い申し上げます。
(HP編集子より。会計報告表は紙面の都合で割愛しました。)


hakatahuukei_s.jpg (7096 バイト)博多風景 寺田竹雄(T15卒)

 最近新築された福岡市庁舎に福岡らしい風景を五十号に描いて欲しいと注文を受けたので先達取材に出かけた。福岡らしい風景となると大濠公園の池は目下大がかりな清掃中で囲いがしてあって見られないし、博多築港、ここは学生の頃ここから宮浦まで日に2回ポンポン蒸気船が通っていた想い出の場所、しかし今はすっかり変って沖縄行きの大きな汽船が出港するところだった。兵隊時代にきたわれたお城跡の蓮池もスケッチして見た。しかし結局那珂川が一番誰にもわかりやすいだろうと水上公園から橋と繁華街を入れて描くことにした。今は公園のそばに高層ビルが二つ並んで立っているが、昔ここに赤煉瓦造りの建物があって、カフェ・パウリスタと言う当時ハイカラなレストランがあった。或る時上級級生に連れられてここに行ったが、テーブルの上に出ていたウォースターソースをお前持って帰れと命令された。恐る恐るポケットにねじ込んで寄宿舎に帰ったが次の日上級生に分けてもらって漬物にかけて食った味は今でも忘れられない。そんなことを懐かしく思い浮かべながら私はスケッチをしていたのであった。


福岡このごろ     小池宏明 (S27年卒)

▼ひところ全国ではやった「地あげ」の波も福岡ではどうにかおさまり、三月十九日から開催される「アジア太平洋博 福岡’89」の準備がすすんでいます。
百道と地行の海岸百五十八ヘクタールを埋立て造成した「シーサイドももち」地区には、東洋一の威容を誇るシンボルタワー展望塔が八分通り出来、姉妹都市オークランド市(アメリカ)をはじめ、太平洋各地からの出展申し込みが殺到しているとのことです。前売券も発売されており、真鍋純哲君(市民局長・S27年卒)、河野安雄君(福祉部長・S27年卒)もがんばっているそうです。

▼西鉄ライオンズが消えて以来、平和台球場に球団を誘致する運動が続いていましたが、突然、ダイエー・ホークスが福岡を本拠地とすることになり、地元に多いライオンズ・ファンとの競合が激しくなりそうです。

▼一昨秋、昭和二十七年年の同窓会が、博多ステーションプラザで開催されました。五十五歳になる同窓生約五〇名と数学の大野、社会の佐田、西村(ぼっちゃん)、国語の尾島、体育の鐘ヶ原各恩師が出席。七十八歳を迎えられた佐田先生の「最近テニスを始めてね、やはり健康には運動が一番ですよ」。六十八歳の尾島先生の「タバコは一日三十本。酒は毎日飲み放題。あんまり長生き出来んかもしらんから、同窓会はたびたびやってくれ」など、在学中と少しも変わらぬお元気なスピーチに、定年間近の一同、励まされるやら、毒気をぬかれるやらで、ひとしきり盛上がりました。

▼ときおり西新の母校にも顔をだしてみますが、昔の雰囲気を残す部分がまだまだあります。ただ、在校生と話したり眺めたりして気がつくのは、職員室に行って「もうからせてください」と授業をカットして貰っていた「もうからせ」が近年なくなったということ、西新を六光星の制帽をかぶって歩く生徒が少なくなったことなど、真面目になったのか喜ぶべきか、憂うべきか、やや複雑な心境です。

▼東京の諸氏も、ことしはぜひ「よかトピア」見物を兼ねて、久し振りの母校訪問と里帰りをなさっては如何ですか。


バンカラとは   神田紅 (S46卒)

 ちかごろ新人類の間では"バンカラ"という言葉が死語になりかけているらしい。私は感動したのだが、薬師丸ひろ子主演の映画『ダウンタウンヒーローズ』がヒットしなかったのも、どうもその辺に原因があるようだ。旧制中学を舞台にした青春映画で、新人類の役者たちが演ずる"バンカラ"は、けっこうサマになっていたのだが・・・・。
 先日、私が中退した早稲田大学の学内誌で、現役早大生と対談するチャンスがあった。修猷館高校時代憧れていたゲタばきスタイルで、大学へ通っていた話をすると彼らは声をそろえて「紅さん、もうバンカラなんて言葉、ボクたちにはありませんよ」と言う。ビックリしてじゃあ一体何がカッコイイのかと尋ねると「やっぱ、いいマンション住んでて、いい車持ってて女の子にモテるやつが羨ましいデス」ときた。私がロをあんぐり開けていると、ついでに「それに、キャリア持とうなんて強い女の子、ボクたち恐ろしくて……。嫁さんにはなるべくアホでカワユイ子がいいなァ」ですって。世の中変わってしまったのだと、浦島太郎のような心境。だから私みたいな浪曲節(ナニワブシ)は、結婚出来ないはずだワ!


民族生産性と人種差別    高岩 和雄(S12卒)

 十数年も海外をうろついてプラント建設をやっていると、その土地に乗込んでみるとそこの住民の生産性が肌でわかるようになる。ナイジェリア人は55%だ、インドネシア人は50%だ、サウジ人は40%かな、とにかくお祈りの時間が長い。イン・パキは団体になると働かない。そこで彼等を訓練してみた。キャンプに入れてタラフク食べさしてみた。たちまち50%の生産性が60から65%に上る。
 民族によって生産性がちがうことを民族生産性という言葉で表現する。この秋北京で開かれた圧力容器の国際会議でこの言葉を使って論文を発表することにした。早速中国の委員からコメントが来た。
「今度の発表論文の中で一番いやな言葉があなたの論文の中にある。この言葉は使わないでほしい」人種によって生産性に差があるのは事実であるが、それをあからさまに言うのは人種差別に該当すという事らしい。
 ナイジェリアで「お前らの生産性は日本人の半分しかない」と言ったら、ゴリラのような体つきと顔をしたナイジェリア人が「何を言うか、青っちろいチビの日本人が俺たち以上に働けるか」といって筋肉隆々たる腕で胸をほこらしけにたたいた。白人の墓場といわれるこの国では20才まで生き延びた事がすでにエリートなのだと思われている。人生80才の国では考えられないことだった。


ようこそ日本へ  原田智子・旧姓伊東(S40卒)

 私は、現在、通訳ガイドをしております。近年の国際化と共に益々多くの外国人が、観光・ビジネス等で来日しています。この人々に、あるがままの日本を紹介するのが私たちの仕事です。私の場合は、箱根、鎌倉、日光、都内等観光案内が主ですが、好奇心旺盛な外国人の前では、多岐にわたる矢つぎばやの質問にあい、いろいろな要望も出されます。時には大変な思いもしますが、別れ際に、「今日はとても楽しい一日だった」と言われると、心から嬉しくなります。
 ところで皆様ご承知のように"円高"の昨今、日本を訪れる外国人にとっては厳しい現状ですが、それは私たちの通訳ガイド業界も同じこと。でも外国人との出会いを大切に、一人でも多くの人々に、日本を理解し、楽しんでもらいたいと思っている今日この頃です。


思い出すこと   中川美穂(S61卒)

 それほど親しくなかった人でも、卒業してしばらく経つと、修猷出身というだけで笑みがこぼれ、思い出話に花が咲きます。とくに三年生のときが創立二百周年でしたので、例年以上に手間と時間をかけた文化祭や運動会など…思い出すだけでも胸が熱くなります。
 修猷時代の友人の中でも、シーズン到来にあたって一番注目されているのが、早大ラグビー部の前田夏洋君でしょう。彼は私たちの自慢であり、愛校心を蘇えらせてくれる大切な存在なのです。彼を応援するとき、自らの修猷時代を思い出しているのです。修猷生の大舞台での活躍を心から嬉しく思うのです。


アメリカン・ドリームについての一考察  長野辰二(S58卒)

★シルベスタ・スタローンと聞くと「嫌だ」と毛嫌いする人も結構いるかと思う。平和主義者は「ランボー」や「コブラ」を軽蔑するだろう。成金の悪趣味と嘆くロッキー・ファンもいることだろう。でも私は彼のことを単なる好戦家とは思えない。
★スタローンを逆さにするとローンスター(イタリアの孤独な星)、身長は百七十五pで、アメリカ人としては決して大柄な方ではない。
★映画を批判するよりも、それが受け入れられる素地に目を向けてみると、彼の映画は奥が深い。80年代の世界を包む、一種のメタ・シアターと言える。


コンピュータ   田中まづる(S45卒)

 はじめまして…ではない方も若干いらっしゃるわけですが…お変わりありませんか? いやいや、お変わりになったでしょうねえ、そりやあ。数えてみると、卒業してからもうすぐ20年たってしまうんですから。生まれてからでも、そんなにたっていないというのが実感なんですが…やっぱりずうずうしいかなあ。
 私、長い間有閑マダムをやっていたのですが、お金のない有閑マダムというのは周りから羨ましいと言われるほどは面白くないものでして、趣味から足を洗って実益を求めることにしました。機械翻訳というあやしげな仕事をしています(妖しげな女になりたいなあ…)。コンピュータが翻訳してくれたらいいなあ、と思うわけです。だからコンピュータに日本語や外国語を教えてやるわけですが、まあ、物覚えはいいからなかなか賢いやつだなあとは思うわけですが、なにしろ融通がきかないしへ理屈はいうし、人間関係に苦労するタイプですねえ、私の生徒は。独り立ちして人気物になるには時間がかかりそうです(どだい不可能だという意見もあるわけですが…)。
 思うのですが、まさにその人間関係のためには、お互いについて知り合うこと、知りたいと思うことが大切ではないかと。よその国の人とも。そういうことに、いたらない機械ですが、コンピュータが役にたったらいいなあと考えています。


miyagawa_s.jpg (3298 バイト)創刊によせて  東京修猷会副会長 宮川一ニ

 このたび、念顔の東京修猷会会報が創刊になりましたことは、まことに慶賀のいたりであります。
 しかし、ボランティアにて六ページの会報を毎年発行することの辛苦は、皆さまもよくご承知のことと思います。担当者及び事務局に対し、全会員の物心両面にわたる鞏固で温かい御協力をお願い致します。
 親しみと誇りある内容とを期待したいものですが、そのためには、母校修猷館のニュースや二木会の講演内容、慶弔記事、その他広範囲からの御意見、話題等を沢山お寄せいただきたいと思うのです。
 会報発行の目的の一つは、三十数年間も会を支え、年会費も納入して戴きながら、総会に出席することが出来ない先輩各位に、同窓会の姿をお報せすると共に、東京と近傍在住の方々との温かい繋がりを張り巡らすことを念願したものであります。
 創刊号の基金は、約六百名の会員が永年にわたって拠出された年会費、寄付金によるもので、全会員約四千八百名へ無料配布致しますが、このような状態で継続発行すると資金的に行き詰ることは必然であります。
 これを機として、年会費三千円を会報存続のためにも、同封の振込用紙で払込み下さるよう、以上創刊にあたり、目的を明らかにし、かつ、ご協力をお願い致す次第であります。


rain_kanka_s.jpg (6456 バイト) ラインに館歌は流れる デュッセルドルフ修猷会sichousha_s.jpg (3530 バイト)

 西独、ルール工業地帯の中心にあるデュッセルドルフ市は、人口八十万人のプチパリとも言われる瀟洒な街ですが、この街の日本人会には約五千名の会員が登録されています。実際にはもっと大勢の同胞が活躍していて、ドイツ人に言わせるとヤパニッシュ・コロニーと言われるほどになっています。
 同市には約三十年在住の三人の先輩がおられ、このお三方を中心としてデュッセルドルフ修猷会が開かれています。いつも温顔を絶やさない昭和十六年卒の法坂勇肋さん(ドイツ丸紅)、日本人会の嘱託医を引き受けて、みんなに頼りにされている昭和二十年(四卒)の石田嘉一先生、新日鉄の欧州事務所長で現地日本商工会議所会頭もされた昭和二十二年卒の津田博彦さんがその方です。私は昭和三十八年より三度デュッセルドルフに駐在しました。同期の石田洵一君(元住友金属工業欧州事務所長)がデュッセルドルフに出張の折、日航支店長であった森久脇一氏
(昭和三十一年卒)の送別会に居合わせ、ライン河畔で館歌を唄ってきたのがこの写真です。  中村道生(アイダエンジニアリング・昭和26卒)

 デュッセルドルフ修猷会は、現在会員十四名、家族同伴も可ということで、二ヶ月に一回、二十年近く続いています。ヨーロッパ方面へ出張した人や滞在者たちも次々とお世話になっており、ドイツの婦人と共に同窓の親睦を深めることは、「地球村時代」に入ったいま、世界の和を求め「六光星」の館歌が世界中から聞こえてくることでしょう。  森久協一(日本航空 昭和31年卒)
kuba_s.jpg (5879 バイト)

デュッセルドルフ修猷会
Dr. Yoshikazu Ishida
Ahorn str. 9 4000 Duseeldorf WEST GERMANY


silkroad_s.jpg (3837 バイト)睦(くが)の涯(はて)に独(ひと)り「西川一三氏の壮挙」 福田廉 (S27卒)

 テレビの番組を観終って、すぐにその主人公に電話をかけ生の声を聞く、そんな機会はあまりないと思います。不思議な運命の糸へのつながりは私にその体験を与えてくれました。幾千年民族興亡の歴史を秘めた西域の悠久の天地の中で苛酷な自然条件と斗い、6000キロの冒険旅行を敢行した快男子がテレビで紹介されましたが、その主人公が吾等が同窓生、修猷健児だったからです。
 旧年、十一月からTBS系全国ネットワーク番組で四回に亘り「新世界紀行、スゴイ日本人がいた!遥かなる秘境西域6000キロ大探険」西川一三の足跡をたどる-西川一三氏がその人です。氏は昭和十一年修猷館中学卒、満鉄を経て興亜義塾に入り、モンゴル、中国、ロシア語を学び、モンゴル人になりきる訓練を受け、時の首相東條英機より、中国西域の諸民族を友とし調査する為め現地に永住せよと内命を受け、中国奥地への調査に出発したのです。ラマ僧の修業を積み、三年の月日を費し、チベット、ラフサに至り、更にインドへ、ヒマラヤを越えること七度、我々の想像を絶する苦難の旅を続けました。
 西暦399年、インドを旅した東晋の僧法顯の旅行記にいわく「上に飛鳥なく、下に走獣なし ただ死人の枯骨をもって標織となすのみ。」この世界が今も現存する秘境に、岩山に伏し、砂漠にゆきくれ、水を求めてさまよい死の冒険旅行の再現が多くの人のロマンと冒険心をかきたて、大きな感銘を与えました。館歌に謳われた「海の内外睦の涯」の修猷精神が如実に活かされた氏の壮挙が、歴史の狭間に埋もれようとしていた時、奇しくも発掘され、多くの人々に知られた事は、氏の同窓生である事に感激と誇りを禁する事が出来ません。
 氏が朔北の烈風の中、高山の厳寒の下で眠りの夢に、百道の松籟 、那ノ津の海のきらめきが輝いたであろうと想像する時、同窓生としてのよるこびが身内を馳けめぐります。一回目の放送終了后、電話で館友への伝言をお願いしましたところ「誠実に生きること、誠実に生きることが六年間、敵中一人の生活で身を守る手段でした」。西域からインド、ネパールへの密偵としての旅、そして最后インドで日本人である事が発覚し半年間の牢獄生活を支えた精神力はこの信條によって培われたのでしょう。電話の奥から響く氏の謙虚な言葉から西川一三氏の全人格が偲ばれました。尚氏の著作「秘境西域八年の潜行」芙蓉書房刊の一読をお推めします。


事務局だより

▼東京修猷会会員の皆さまの御健勝をお慶び申し上げます。
 現在事務局は、渕上貴之事務局長(昭26年卒) 中沢郁子(昭29年卒) 香崎温子(昭33年卒)両書記の三名で、幹事会の決定に従って、皆さま方の連絡とか名簿の管理などを行っています。
また、二木会開催の会場運営、案内状発送、返信受取り、食事の注文などもあり、転居の通知等はその都度名簿を訂正整理したりもしています。
 名簿の訂正は手間のかかるものですが、一昨年末にパソコンを導入して事務の合理化を図っています。パソコンは、最初は不馴れで、苦心のデータを「アッ」という間もなく消去したこともありましたが、最近では何とかスムーズにいくようになりました。

▼東京修猷会入会御希望の方は事務局までご連絡ください。会費振込用紙をお送りします。年会費は三千円で、毎月二木会の案内状をお送りいたします。

▼二木会の講師にお招きしたい方があれば、事務局までお知らせください。出来るだけ御希望に沿えるよう努力いたします。なお、二木会の案内状が毎月十通前後は転居先不明で戻ってくるのが残念です。

▼福岡やその他の地域から転入された方、また東京地域より転出される方は、ぜひ一報ください。学生さんたちも上京入学された折にはお知らせ下さい。

▼ことしの総会担当学年(昭38年卒)が、六月の総会で皆さまにお渡し出来るように、最新職業別名簿を作成中です。最近、当会とは無関係の某出版社などの名簿などがありますが、御注意ください。

▼二木会会員に通知したいことなどがありましたら、案内状に載せますので、前月の五日までにお申し込みください。
事務局を出来るだけ活用していただくことにより、皆さまの交流の輪を広げ、今後の多方面でのご活躍の基盤にしていただけるよう頑張りたいと思っています。

▼64年度の会費納入用紙を同封致しますのでよろしくお願いします。      中沢・香崎 記



編集後記

 四、五年前からの希望として温められた東京修猷会々報を創刊する事になり喜びでございますが、実際に動き出すには、永年の皆様からの大切なお預りを裂くのですから、倹約運営に付、予算との睨合から始めた。まず会合場所に困ったが、館友の法律事務所をお借りする事が出来本当に有難くスタッフ一同編集会議を重ねる。新年創刊のため挨拶号に終らない様にと、リラックスした学年だよりの全員参加型となる。一面見出しは松尾会長の特筆を頂く事が出来記念すべき事になりました。日本にとどまらずドイツより聞える六光星の館歌が世界中を駈けめぐる同窓の活躍を期待するものです。心残りの点は多いのですが、渕上、福田、中沢、中尾、香崎、岡村、久芳、古賀各氏の大切なアフター5のエネルギーを消耗しての出来ばえは如何でしょう。最後にお忙しい中、原稿、広告をお願いしここに編集出来ました事を皆様に厚くお礼申し上げます。  編集長(副幹事長) 田端千弥子(S27卒)


編集はやり繰り、限られた紙面に殺到する原稿、編集長の田端千弥子さんは、その難しい問題を見事にさばき、重責をまっとうされました。編集会議も終りに近ずいた頃、創刊号に華が欲しいの声が上った時、西川一三氏快挙のテレビ放送のニュースが飛び込み、編集長の英断で、早速取材、紙面の組替え等久芳勝也氏がレイアウト一切を徹夜作業でやり上げ、更に、城弘印刷さんの御苦労が支えて下さいました。 皆様の御高評をお待ち申し上げます。
               編集委員 福田 廉(S27卒)

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