【恩師紹介】

◆館長のご紹介◆
第30代館長・奥山 訓近 館長

東京教育大学卒業後、昭和54年から福岡県立高等学校の教諭として勤務。 平成3年に県教育委員会事務局勤務となり、以来福岡県の教育改革の先頭に立ち、 走り続けることとなる。
福岡県立学校における教育改革の第一歩は「定時制通信制教育の改革」であった。 いうまでもなく修猷館の大きな柱であった定時制課程・通信制課程をはじめ、 他の福岡市内3校(福岡、筑紫丘、福岡工業)の定時制課程を再編成し、 「多様な学習歴・学習ニーズに対応する昼夜3部制の定時制課程と通信制課程を併せ持つ、(学年が無い)単位制の高等学校を創りましょう」という、「壮大な実験」とも言える改革の先頭に立った。 単位制高等学校は当時まだ全国に数例しかないなかで、必要な条例規則等制度の制定・改廃、全くの更地への斬新な新校舎建築、複雑極まる個人毎の時間割や単位認定などの業務をこなすシステム構築などに取り組み、平成7年4月には県教委高校教育課の単位制高校準備室、平成8年11月、博多青松高等学校教諭発令(最初は隣接する福岡高校内で開校準備)を経、いよいよ平成9年4月、福岡県初の単位制高等学校として博多青松高等学校が博多区千代に開校、教諭として多様な生徒達を迎える。平成12年には同校教頭。 平成13年、再び県教委に身を転じ教育改革推進室長補佐。翌14年、同室長。県立高等学校の統廃合という、いわば痛みを伴う改革の舵を取り続け、高校教育課勤務を経て平成18年、博多青松高等学校の校長へ。平成20年、県教委で今度は教職員人事管理の重責を担い、平成22年春日高等学校校長、そして平成24年、修猷館高等学校校長・修猷館第三十代館長として着任された。 福岡県教育の先頭を走り、時に献身的にサポートにまわることのできる、ラガーマンである。

◆恩師のご紹介◆
西田 敏博 先生
専門教科:国語
修猷館在職:昭和58年4月~昭和63年3月
担当クラブ:サッカー部
現在:福岡県立福岡高等聴覚特別支援学校校長

 ラ・サール高校、九州大学を卒業後、外食関連企業でのサラリーマン生活を経て、修猷館に赴任されました。
 修猷館時代、初めての学級担任は、幹事学年である昭和62年卒が2年時の男子クラス(3組)。アメリカの大型バイク・ハーレーダビッドソンで颯爽と出勤される姿が非常に印象的でした。
 国語の教師であるご自身の「源流」は、小学校低学年の頃に読み始めた「世界少年少女文学全集」。若き西田先生は、「虚構が語る真実」により現実世界への理解が一層深まることこそ文学の価値がある、と信じて教鞭を執っておられたそうです。西田先生からは、「国語」という枠をこえて、現実世界に生きる人間としての必要なことは何かをご指導いただいたという卒業生は少なくありません。


◆恩師のご紹介◆
吉里 俊幸 先生
専門教科:数学
修猷館在職:昭和56年4月~平成12年3月
担当クラブ:ヨット部
現在:福岡県立筑紫丘高校教諭

 東筑高校、京都大学を卒業の後、修猷館にて約20年と長きにわたり教鞭をとっておられました。
 吉里先生は、数学の教師として生徒からどんなに「意地悪い」質問をされてもやすやすと回答し、幹事学年である昭和62年卒の尊敬を集めていました。その一方、生徒の生活相談にも真剣に向き合って頂き、「どんちゃん」の愛称で親しまれていました。
 また、顧問をつとめておられたヨット部は、九州大会優勝、インターハイ出場、国体出場と輝かしい成績を残しています。ご自身でも4級小型船舶操縦士(現在は1級)を取得し、夏も冬も毎日小戸のヨットハーバーでレスキュー艇に乗って生徒と海に出るなど、熱意のご指導があってこその成果でありました。

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 西田先生、吉里先生はともに同世代で同時期に修猷館に赴任されており、同僚としても深い交流がおありでした。両先生の修猷館時代の中でも、特に昭和62年卒が在籍していた頃は、まだ20代であり教師としての「青春時代」だったとの思いをお持ちでいらっしゃいます。個性あふれる修猷生に試行錯誤しながら接することにより、ご自身も人間として成長されたとのこと。両先生が感じてこられた「修猷力」とも言える修猷生の気質、そして教師としての思い出など、お話を伺います。

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