題字・箱島信一書
発行
修猷館同窓会
東京支部事務局
〒185-0034
東京都国分寺市光町2-14-85
(有)パルティール内
FAX 042-573-5060
東京修猷会ホームページアドレス
http://www.shuyu.gr.jp/
1935 | 福岡市生まれ | ||||||||||
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1954 | 修猷館高等学校卒業 | ||||||||||
1958 | 西南学院大学商学部卒業 | ||||||||||
写真集 |
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受賞 |
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明けましておめでとうございます。平成20年という生まれたばかりの年をそれぞれに新たな感慨や決意をもって迎えられたことと思います。
私は昨年6月、藤吉先輩の後を継いで東京修猷会の会長に就きました。修猷館を卒業したのは昭和31年ですから卒業後すでに半世紀が過ぎ、昨年暮れには古希の寿を迎えました。同窓会の重責を引き受け老若さまざまな館友の方々とお会いするにつれて、10歳代半ば過ぎの懐かしく遙かな日々が甦る思いがします。
さて、新年はどんな年となるのでしょうか。21世紀に入って、激動という言葉が陳腐化するほど時代のうねりは激しさを加速しています。新年を展望して確かなことは、今年もまた私たちの予測能力と常識を遙かに超える事柄が相次ぎ起きるだろうということです。
予定されたこととしては8月に北京オリンピックが開催されますが、超大国への道を驀進する中国の実力と素顔をかなりくっきりと世界に見せる機会でもあり、スポーツの祭典をはるかに超えた意義があると期待しています。
また5月にプーチン・ロシア大統領が任期切れとなり、アメリカで11月、大統領選挙が行われます。日本でも夏までには解散総選挙があるでしょうし、イギリスも福田政権同様、船出早々のブラウン労働党政権が解散に打って出るのは時間の問題でしょう。
経済に目を転じると、最大の課題は世界中からの投資と借金の上に繁栄するアメリカ経済とそれに依存する世界経済、という危うい構図が破綻せずに何とか今年もしのげるのかどうか、ということに尽きると思います。
私は新聞記者を昭和37年以来やってきました。内外のニュースをウオッチして来てつくづく思うのは、ヘラクレイトスの言葉として伝えられているように「万物は流転する」ということです。
中国との間にまだ国交が無い30数年前、経済記者として日中問題を担当したことがあります。当時、貿易の最前線に立つ商社マンにとって、文化大革命の聖典である毛沢東語録は必携の商売道具でした。中国にはハエ一匹、盗人一人いない、とまことしやかに伝えられたものです。自民党政権は軍国主義復活に至る保守反動とされ、大企業は政治姿勢についてのチェックを受けない限りその子会社であっても出入り禁止でした。
社会主義市場経済という脱イデオロギー的理念の下に外資をがぶ呑みするように受け入れ、大胆な民営化で急成長を続ける中国の今を思えば、想像を絶する様変わりです。
変化をもたらした駆動力は、人間の欲望とその上に成り立つ市場であり、そのエネルギーの凄まじさを改めて見せつけられるような中国の変貌ですが、ことは中国に限りません。
昨年7月、久々に訪れたイギリスの化け様もまた目を見張るものがありました。30年前特派員としてロンドンにいたころはストライキ頻発とポンド下落が対をなすようにして進み、斜陽化を絵にかいたような国の姿でしたが、一転して経済はブームでポンドは今や最強の通貨。活気に満ちた街に老若男女を問わず超肥満体の人がえらく目立ち、これも好景気持続のせいかと妙に得心したものです。
万事変化してやまないのは産業や企業の興亡についても明らかですが、それらを促す欲望の爆発は21世紀を通じて果たしてとどまることがないのでしょうか。もし理性による欲望の制御が絶望的なら、資源と環境問題の行き詰まりから市場経済は早晩衰弱しやがて死に至るかも知れません。縁起でもないと思われるかもしれませんが、新年早々こんなことを思ったりしました。
万物流転は否定できない歴史の法則といえるでしょう。しかし、どう流転するかは人間の意志に関わっているはずです。二木会はこの1月、544回目からスタートします。東京修猷会が最も誇りとする学びの場でも、この「しかし」と「どう」を掘り下げていきたいものだと考えています。
2007年6月8日(金)、恒例の東京修猷会総会および懇親会が、千代田区平河町の都市センターホテルで、開催された。当日は天候もよく、出席者635名(来賓を除く)という大変な盛会となった。
今回は、東京修猷会の会長の交代という節目の総会となり、藤吉前会長から箱島新会長へバトンタッチされた。合わせて、中川、大須賀両副会長が新たに就任。5月の福岡の同窓会でも波多野前会長から出光新会長に交代されており、新旧両会長も来賓としてご出席いただいた。
今回は、我々S56年卒が3年のとき2組と4組の担任であった水崎雄文先生(日本史)、白木英治先生(保健体育)にご出席いただいた。
水崎先生については実家が隣という吉浦麻子さん(旧姓)、白木先生については剣道部の松尾方洋君が担当し、先生方との息の合ったトークで会場は大いに盛り上がった。
お二方とも、当時と変わらずお元気で、白木先生にいたっては、総会の翌日、九大の教え子との稽古会にお出かけになったとのこと。パワフルさは健在だった。
懇親会は、例年どおり「館歌斉唱」でスタート。マイクに頼らず、地声で勝負の宮川先輩(S12年卒)に乾杯のご発声をいただいた。
今年の学年企画は、「星を継ぐ者たち—修猷の現在」と題して、現在の修猷館高校の様子を軸に過去の映像等を織り交ぜたビデオを流した。ナレーションは、同期の堤信子さん。様々なテレビ番組で活躍するプロのアナウンサーである。
現在の修猷生の日常生活、文化祭、運動会、予餞会そして過去の運動会の様子が流れたころには、生の太鼓の音とも相まって、会場が静かになり、学年ごとに思い思いに懐かしんでいる様子だった。
学年企画の後に、ヨットで北京五輪を目指している石橋顕君(H4年卒)の挨拶があった。活動資金のために会場で売ったTシャツは完売だったとのこと。
その後、福岡の同窓会の幹事学年の先輩方、次いでH19年卒の新入会員が登壇した。新入会員登壇の際には、最長老であるS9年卒の先輩お二人にも登壇願った。年齢差実に73歳! かくしゃくとした先輩の挨拶と初々しい新入会員の様子は会場に元気を与えてくれたようだ。
次年度幹事はS57年卒の皆さん。幹事団の代表で小林大輔君が来年の抱負を語った。
最後は恒例の「彼の群小」で締め、総会は無事終了した…、が、懐かしの写真を自由に持って帰っていいという企画に、立ち止まる人が多く、いつまでも名残は尽きなかった。
本当に楽しかった!
これが、総会が終わった瞬間の偽らざる私の気持ちでした。
幹事学年の多くは会場の外におり(会計担当は客室に缶詰め)、懇親会を楽しむことはできなかったはずですが、みんな満足の表情でした。
太鼓を持ち込むことについて難色を示すホテルを説得した幹事の神崎宏君の熱い思い、学年企画担当で当日の進行係をやるはずだった本山浩司君が、総会の前日にご親戚の不幸で急遽福岡に帰ることになるというハプニング、総会前日深夜のミーティング。いろいろありましたが、何だか問題が起こっても、自動的に修正されていくという感じで、実行委員長としては楽なもんでした(笑)
我々幹事学年が総力を挙げて取り組んだ懇親会だったのですが、予想外の参加者となったため、飲み物、料理とも注文が追いつかず、ご迷惑をおかけしました。また、総会では立ち見がでて会場が暑くなったことを、この場を借りてお詫び申し上げます。
最後になりましたが、参加いただいた皆様、総会の動員にご協力いただいた先輩の皆様(特にゴルフ同好会「どんたく会」の皆様)、後輩の皆様には、感謝しております。本当にありがとうございました。
2007年度東京修猷会総会実行委員会 実行委員長 田中昭人(S56年卒:スゴロク会)
西新での修猷時代の思い出は尽きないものの、下校途中、仲間とすすったラーメン(我々昭和56年卒の時代では、「しばらく」と「みち」)の味が忘れられません。東京で美味い豚骨ラーメンに出会った時、西新の青春時代を鮮明に思い出すのは私だけではないと思われます。
我々は福岡食文化の代表(単なるB級グルメ?)にスポットを当て、東京修猷会会員が選ぶ東京の豚骨ラーメンランキングを発表することを総会のサブ企画としました。段取りとしては、(1)美味いと噂のお店を選定、(2)実際に各店を取材し候補を絞込む、(3)その結果を基にアンケートを実施しランキングを作成することを考えていましたが、(1)(2)の途中で時間切れ。結局、この企画は日の目を見ませんでしたが、情報をお蔵入りさせることはもったいない。ということで、我々同期の中で評判が良かったお店をご紹介します。呑龍、暖暮、やまちゃん、由〇は、スタンダードな長浜ラーメン系(比較的さっぱり)、これら以外はいわゆる「獣臭い」系(濃厚な味)です。
宮腰俊男、川村和久(S56年卒)
店 | 住所 | コメント |
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ぼたん | 東京都新宿区高田馬場3-12-9 海野ビル1F | 本店は北大塚。田中商店系列では他に松戸の福福、埼玉の楓神がある。 |
御天(ごてん) | 東京都渋谷区千駄ヶ谷5-15-8 | 本店は杉並区井草。御天の系列では他に世田谷の博多白天、新井の博多食堂がある。 |
田中商店 | 東京都足立区一ツ家2-14-6 | 都心から遠いが、味は絶品。 |
よかろうもん | 東京都墨田区緑3-17-8 | 両国・錦糸町近くに寄られた際は是非。 |
博多白天(しろてん) | 東京都世田谷区桜3-8-14 | ここも都心から遠いのが難点。 |
呑龍(どんりゅう) | 東京都港区東新橋1-2-13 | 都心に近い。銀座で飲んだ後は是非。酒もつまみもあります。 |
暖暮(だんぼ) | 東京都千代田区神田錦町1-14-1 | 都心に近い。本店は筑紫野。豚骨臭くない。 |
やまちゃん | 東京都中央区銀座3-11-10 | 都心に近い。さっぱり系。本店は長浜屋台。 |
由○(よしまる) | 東京都中央区八重洲1-8-9 他 | スタンダードな博多の味。都心に店多数。 |
修猷館同窓生のためのSNSを開設しました。SNSとはSocial Network Serviceの頭文字で、インターネット上で知り合い同士がコミュニケーションを取り合うための集会場のようなサービスです。一般にはmixi(ミクシィ)というサービスが有名で、mixiにも修猷館同窓生が集まる場所がいくつかありますが、ほかの誰が読んでいるかわからないためちょっと気恥ずかしかったりして参加に二の足を踏んでいる方も多いと思います。そこで、今回開設したサービスでは修猷館の同窓生しか入会できないよう、完全紹介制を取っています。もちろん一切無料です。
一般の方は中を見ることもできませんから、気心の知れた旧友同士、安心して昔話や情報交換をお楽しみいただけます。
現在200名近い方が入会されており、学年ごとの集まり、クラブ活動OB・OGの集まり、海外を含む地域ごとの集まり、食べ歩きなど同好の士の集まりなど、各種のコミュニティが自発的に作られています。
ぜひ皆さんもお誘い合わせの上、ご参加ください。お知り合いに入会済みの方がいらっしゃればその方から招待していただいてください。
樋口 理(S56年卒)
2008年8月8日、北京時間の午後8時、中国人の大好きな末広がりの「八」の字を4つ重ねる時刻に、オリンピックの開会式が行われます。「新生中国」を世界に認めてもらいたいと思い、中国は長い間オリンピックを開催したいと考えてきました。そのことがついに実現するのですから、中国政府、とりわけ北京市が、オリンピック開催に向けて全力を傾けて準備しているのもうなずけます。
5年ぶりに北京に戻ってきて肌で感じていることは、まず、以前よりも緑が大幅に増えたことです。環境オリンピックを謳っているように、沿道に植樹し、公園を整備して都市の緑化を進めています。また、公共交通や道路の整備も急ピッチで進んでおりますし、去る10月7日にも地下鉄5号線が開通しました。
それでも急成長する中国経済のお陰で、北京の車は急増を続けており、今年5月末日現在で約300万台、その後毎日1000台増加しているというのですから驚きです。交通渋滞の問題だけではなく、大気汚染も北京オリンピックのかかえる重大な課題となることでしょう。
ハードだけでなくソフトの整備にも力を注いでいます。中国全土の子どもたちを対象にオリンピック精神を広める教育を行い、既に4億5千万人を教育したというのですから、人口大国の面目躍如です。また、長野オリンピックから始まった「一国一校運動」を取り入れ、北京市内の花家地実験小学校が日本担当に選ばれました。
北京オリンピック関係者によれば、「一つの世界、一つの夢」のスローガンのように、オリンピックを通じ、親しく友好的に世界の人々と交流したい、また、競技ではメダルを獲ることに固執するのでなくスポーツを楽しむ・喜びを分かち合う場としたいとのことです。特に日本からの多くの来訪者を期待しています。
来年は日中平和友好条約締結30周年にも当たりますので、オリンピックと重ねて日中両国民の友好的で暖かい協力関係の更なる発展に努力したいと思っています。また日本選手の活躍、やはりより多くのメダル獲得をこの目にしたいものだとの気持ちも強く、在留邦人の皆様とともに力いっぱい応援したいと思っています。
1999年、オーストラリアで開催された世界選手権を機に、勤めていた会社を退職しました。理由はとにかく自分がどこまでできるか試したい、世界一になりたいその一心で覚悟を決めました。オリンピックで世界一を誓って、早いもので8年になります。
修猷館高校時代から始めたヨットは国体で優勝、その後大学でもMVPを獲得するなどある程度の実績は残せました。しかし就職は、数少ない実業団には行かず、普通のサラリーマンの道を選びました。最初の配属先は仙台。行ったこともなければ、知人もいない土地でした。大学の先輩の紹介で週末ヨットに乗れるようになったことが、今の道を選択するきっかけになります。それから徐々に仕事第一優先からヨットへの気持ちが強くなっていきました。決定的だったのは、冒頭1999年に参加した世界選手権。参加120艇中、64位という結果で終わり、仕事もヨットも頂点を目指していた自分を中途半端に感じたことでした。この場で勝つには全てを賭けるしかない、全てを賭ける事で自分にも世界一のチャンスがあるはずだと。
実際覚悟を決めて退職したものの、貯金も大きなスポンサーも何のあてもなく活動を始めた為、資金面では大変苦労しました。温泉宿での掃除や布団敷きから始まり、いろんなアルバイトをしつつ、オリジナル募金Tシャツを買っていただきながら何とか資金をつなぎました。世界レベルで戦えるようになるには、なにより経験が必要です。その為には、ヨーロッパをはじめ各国でのレースに参加しなくてはならないし、いいボートを手にいれなければなりません。とにかく練習する時間と資金が必要でした。
前回のアテネオリンピックでは、自分で日本の参加国枠を獲得したにも関わらず、代表選考で敗れ、さらに、代表選手が銅メダルを獲得するという表現できないぐらい本当に悔しい思いをしました。そして誓いました。『夢は絶対にあきらめない』と。
現在、福岡を拠点に北京オリンピックへ向け、最後の調整をしています。地元では、修猷の先輩方を中心に後援会を組織していただき、活動の資金を支えていただいています。ヨット部とは関係がなくても叱咤激励、惜しみない援助をいただけるのも修猷だからこそと感謝しています。
この会報が出版されるころ、オーストラリアにて世界選手権が開催され、北京オリンピック出場選手が決まります。今まで活動を支えてくださった方へのご恩に報いるためにも、是非ともオリンピック出場を勝ち取り、母校の皆様に良いご報告ができればと思っていますので、ご期待ください。
最後に、ホームページにて活動の近況報告や募金Tシャツのご案内をしておりますので、ご覧いただけたら幸いです。
博多弁がそこここで飛び交い、カウンター全員が年代の異なる修猷卒業生ということもしばしば、というバーがある。
新宿三丁目、末広亭から一分のバー・サウダージ。マスターの鬼塚氏は59年卒のラガーマンだが、その風貌に似合わず、おいてあるものは繊細で上品なものばかり。
例えばワイン。フランス産を中心に、グラスでも白赤とりまぜ十種類程度は常時飲むことができる。それに合わせてチーズは一つ一つの熟成状態をきめ細かく把握し、ベストなタイミングを見極めて供してくれる。極めつけは生ハム。これが絶品だ。スペイン直送の最高級品、ハモン・イベリコ・デ・べジョータは、口に含むと脂分がスーっと溶け、その後旨味がじわりと口中に広がってくる。
とはいえ、敷居の高いお店ではない。鬼塚氏が、「うちは飲み屋です。気取ったワインバーとかじゃなかです」と言うように、ワインだけでなく焼酎、日本酒、シングルモルトなども置いてあり、ふと飲みたくなったときに一人で気軽に入れるお店だ。
皆さん、ぜひ一度行かれてみては?
(H6年卒 杉山)
所在地 | 新宿区新宿3-9-3 第2江戸金ビル3F |
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電話 | 03-3356-3009 |
営業時間 | 19:00〜翌4:00 月曜はお休み |
今時、こんな寮があるのをご存じだろうか? 運営はすべて学生。光熱費の管理はもちろん、寮母さんの給与支払いも自らやるという究極の自治寮だ。
これは、修猷の大先輩・廣田弘毅が創設し今年108年になる「浩浩居(こうこうきょ)」だ。
筆者が訪れたのは毎月25日に開かれる総会の日だった。寮生全員が集合し、会計報告、生活のルールなどについて話し合う。徹底した議論で決めていくので、夜8時から始まった総会は12時近くまで続いた。
自由・自立の寮生活だが、必ず参加しなくてはならない行事がある。福岡で実施される春の面接、夏の例会、12月23日の広田弘毅のお墓参りと忘年会、東京で実施される寮が建った11月23日の記念祭である。これらはすべてOBと一緒に行われる。幅広い年齢層・職業のOBとの密接な関わりが浩浩居の長い歴史を支えている。
寮のOBで理事長の中村清次さん(S36年卒)は、「広島で89歳のOBにお会いしたら、その昔11月23日の記念祭には廣田さんが必ず出席しておられ様々な話が聞けたとおっしゃっていた」と語る。寮長(当時)の松原弘樹さん(H15年卒)も「副寮長・寮長と2年間寮に貢献してきた。自分でもよくやった、長かったと思いますが、社会に出て行くにあたって必ず役に立つと信じています。」と語った。
【記】寮には、バス、トイレ、ランドリールームが完備。部屋はほとんどが個室で、1室6畳(ネット・電話あり)。朝夕の食事は申し込み制。寮費は30000〜38000円。入寮資格は、福岡市出身であることと、寮の方針を理解し、行事に必ず参加すること。
今年の採用試験は3月に、修猷同窓会館で実施される。
http://cgi41.plala.or.jp/kokokyo/
(S56年卒 松岡)
『「つらい」がいいんだよ』
私は欽ちゃん球団こと「茨城ゴールデンゴールズ」に所属しています。結成3年目の今年、九月の全日本クラブ野球選手権で優勝しました。私は準決勝で九回二死から逆転タイムリーを打つことができました。冒頭の言葉がチームに浸透してきた萩本イズム。「まず目標を決める。その過程で良い時もあれば、悪い時もある。うまくいかない時、つらい時にこそ運が溜まり、その運は勝負どころで発揮される」という考えです。
監督との出会いは私が広告代理店に入社して2年後の一月。早朝から深夜までの雑務に慣れた頃、もう一度本格的に野球をやりたい気持ちが湧いてきました。そんな時、欽ちゃんが野球チームを創るという記事を発見し、トライアウトを受けて入団することができました。
当初は仕事との両立に苦しみ、欽ちゃんにも会社を辞めたいと相談しました。返事は「ダメだよ〜」。「アマチュア野球ってのは『運』なんだよ。会社でいっぱい『つらい』思いをしなさい。一生懸命練習しているだけじゃ野球はうまくならない。誰かのためにいっぱいつらい思いをしなさい。きっといい場面で打てるから」と。
今の主な業務は地方新聞社の広告収入のため、広告主から宣伝費をもらうことですが、新たに今年四月に立ち上げた「47クラブ」というネット通販事業に注力しています。全国の地方紙が集めた名産物や逸品を取り揃えたショッピングモールです。この事業で地方が活性化し、地方紙の広告が増えれば最高です。
広告代理店に勤めていると毎日芸能人に会えるかと思っていましたが、未だ会えません。普段は地味でつらい業務が多いですが、応援団やラグビー部出身など人間味あふれる仲間に恵まれ、大変刺激的な毎日です。これからも「つらい」がいい、太い人生を歩んで行けたら幸いです。
修猷野球部今年こそ甲子園だ!!(つらい勉強も頑張って!)
私は現在、東京の聖路加国際病院で勤務しています。日々の業務に追われ、病院と自宅との往復の毎日で、気がついたら五年目の看護師です。
看護師として働いていて、一番難しいと感じるのは、患者のニーズを把握することです。このアセスメントがずれてしまうと、最良の医療を提供することには繋がりません。もちろん、スキル、テクニックを磨くことは大事です。しかし、どんなにすごい技術を持っていたとしても、患者が望んでいるものを提供できなければ、技術を持っていないことと同じだと考えています。
病院は大きなチームです。最高の医療、サービスを提供するために、医者、看護師、コメディカル、事務といった各職種の人たちが力を合わせながらも、それぞれの業務を確実に行うことが必要と痛感する毎日です。鳥が群れを成し、目的地まで飛んでいる時、鳥が鳥を背負って飛ぶことは出来ない。一羽一羽が自分で飛んでいる。それと同じで、人がチームを組んで目的地に向かう時、人が人を背負って走ることは出来ない。一人一人が自分で走らなければならない。やっと私も一羽の鳥になれたのではないかと最近思う事が出来るようになりました。これまで私にかかわって下さった、患者さんたちやスタッフ、友人のおかげと感謝しています。
「人とのつながりを大切にする」
三年間に学んだことの一つで、常に心に留めて勤務しています。たくさんの人とかかわりながら、自己の成長を実感する充実した毎日を過ごしています。
(編集註:コメディカル=医師以外のX線技師、理学療法士などの医療スタッフ)
「フラバルス」という一人ユニット名で現在音楽活動をしています。僕が音楽を始めたのは中学の頃に遡ります。ビートルズをはじめとしていろんな音楽を聴き始め、その影響でギターを始め、高校で初めてバンドを組みました。僕の人生初ライブは、今はもうありませんがあの通信制の校舎内のステージです。部活(ラグビー部)の仲間を呼んでかなり熱狂的に盛り上がったことが忘れられません。
上京して大学に入るとバンドサークルに所属しました。就職活動もしましたが、「音楽を本格的にやってみたい」という思いが捨てられずあえなくドロップアウト。大学4年のときに、自分で作詞作曲して自分で歌うバンドを組んで、都内のライブハウスでライブをするようになりました。それから4年後、コロムビアミュージックエンタテインメントと契約し、2006年にメジャーデビューして現在に至ります。
デビューして1年。ミニアルバムやシングルをリリース後、07年6月にはファーストフルアルバムをリリースしました。現在はセカンドアルバムのレコーディングをしています。
通信制でライブをやっていた頃、広いスタジオで、数えきれないくらいのスイッチがあるレコーディング機材で、高そうなヘッドホンをして高そうなマイクで録音する光景に憧れていました。それが今や現実となって、自分の作った曲を自由に録音し、CDにして世に問うことができるのは幸せなことだと思います。
僕も歳は28になり、周囲の環境も変わりましたが、「自分の音楽を一人でも多くの人に聴いてほしい」という気持ちは10年前の通信制校舎でライブをしていた頃と全く変わりません。あの頃の快感が忘れられずに今も続けているとも言えるでしょう。昔とステージは違えど「まだまだこれから」という点では昔と同じ。初心を忘れず頑張っていこうと思います。皆さんぜひサイトにアクセスして、CDを買ってください!!
大学卒業後、企画・デザイン事務所で3年間、プランニング、ディレクション業務に携り、現在パフォーミング・アーツクラブ「パパ・タラフマラ」の制作と、主宰者兼演出家のマネージャーをしている。1982年に設立されたこのカンパニーは、ダンス、演劇、美術、音楽など様々なジャンルを巻き込みながら、舞台空間全体を一つのアートに築き上げる手法で、世界三十か国以上の観客たちを魅了してきた。日本を代表するこのカンパニーにとって、作品の創造は同時に、日本の新たな文化の送出というきわめて重要な側面を持つ。自分がまさかこの種の仕事に就くことになるとは思っても見なかった。これは縁だ。
舞台は一人で創れるものではない。多くの人間がかかわり、時として国境、人種を超え、作品を創り上げて行く。制作という仕事は、会計・広報宣伝・その他多くの事務処理を同時にこなし、かつ人の気持ちを敏感に察し、対応する繊細さと機敏さが求められる。想像力を働かせ、相手の立場に立って考えること、常に冷静かつ客観的な判断が問われる。
私は、幸か不幸か眠っているとき以外はほとんど仕事のことを考えている。舞台関係の仕事以外にも、デザイン、スタジオ運営、ダンサー養成スクールの運営、そして会社の経営と実は様々な仕事を抱えている。そのどれもが異なる種類の仕事ではあるが、実はどれも人と人、人と物、人と場所。あらゆる関係性で成り立っている。自分はきっと、あらゆる物の接点に立ち、異なる媒体、何かと何かを結びつける仕事がきっと向いているのだろうと、勝手に思っている。
境界線に立つと、全てが見渡せる。今、自分にできることと、できないことを、五年後にはどこまで変えられるだろう。十年、二十年後には、いったい何が見えてくるだろう。
(パパ・タラフマラHP http://pappa-tara.com/)
さがしていた仕事が、やっと見つかった! 僕がこれまでやってきた仕事とは、やりたかったことではなく、アメリカという国で、食い繋ぐための収入手段であったと思う。今回見つけたのは給料が全く貰えない仕事だ。その仕事とは、ロサンゼルスにある『全米日系人博物館』での教員職だ。どうしてアメリカ?で、博物館?なのか。
博多商人の家に僕は生まれた。実家は、貿易商社を経営。将来アメリカに事業を拡大させるため、ロス行きの飛行機に飛び乗った。修猷館を卒業した翌年の1975年のことだ。僕は一人きりで「天津甘栗をアメリカ人に売る」という、壮大なる野望を持ってやって来た。
以来、32年間が過ぎた。その間、20社以上の株式会社を設立。今も3社は経営中である(残念ながら、甘栗の会社は25年以上前に解散)。今や、僕はアメリカにおける会社の興し方やたたみ方、商売のイロハについては、一家言を持っている、と自負している。博多商人の血脈は、海を越えてもロスの地で受け継がれているのである。
話を本題の仕事のことに戻そう。博物館教員といっても、来館者の案内役のボランティアだ。ただ仕事内容が好きになってきたので、ライフワークになるかもしれないと思っている。とても楽しく、また人前で話す訓練にもなり、一石二鳥だ。
全米日系人博物館は、アメリカに移民した日本人とその子孫である日系アメリカ人の、百数十年の歴史を綴っている。
数年前に初めてこの博物館を訪問した際に、僕はとても「大切な事」を知った。それは、今日我々日本人がこのアメリカで、社会的尊敬を得て、胸を張って生きていける環境は決して一夜にしてできたものではなく、我々の先駆者である初期移民のパイオニアたちと、その子孫である日系アメリカ人たちの偏見・差別に対する血のにじむような苦労と戦いがあったからなのだ。
約4カ月間ほどの博物館教員課程を受講し、7〜8冊の歴史書を読み終え、資格を取得した。 ここの主なるテーマは、異なる人種間の感情やイデオロギーの違いから発生した摩擦や対立の構図が、徐々に差別へと形を変えていってしまった事象の展示。特に太平洋戦争中は、日本人だけではなくアメリカ国籍を有する日系アメリカ人までも敵性外国人と見なされ強制的に収容された。これは自由と平等の上に成り立つ民主主義の原理そのものが崩れてしまった悲しい事実である。短い歴史だが、この博物館には濃い内容が埋蔵されている。来館者にはいつも、以前僕がここで学んだのと同じように、何か『大切な事』を再発見して帰ってほしいと願っている。
全米日系人博物館のホームページ
http://www.janm.org/
最近、子供たちの数学、理科離れが問題視されている。その原因のひとつは、教える側が子供たちに「学問の真の面白さを伝え切れていない」ということにあると思う。
私は幼い頃から数が大好きだった。例えば車に乗れば、前を走っている車のナンバープレートの数字たちを並べ替え、足し引き掛けて割り…と躍らせて、その中からできるだけ大きい素数を見つけ出すといった遊びをしていた。
高校時代は、修猷館の仲間達と学生生活を満喫しつつも、数学や物理学に、より深く興味を持つようになった。
そこで大学院では理論物理学、特に統計物理学を専攻し、「スピン系における相転移とその臨界現象」や「低次元量子スピン系における特異な輸送現象」などに関する研究をし、学問を追求する面白さを実感する日々を過ごしていた。
その一方で、大学院在学時より私は、河合塾で数学を教え始めた。中学生のときから家庭教師をやるほど教えることが好きだった私は、多くの生徒に数学を教えるというこの仕事の魅力にすぐにとりつかれた。そして次第に教育というものに強い関心を持つようになった。
大学院生活を経て理学博士となり、都内各所で高校生から浪人生まで様々な生徒に数学を教えながら、現在私は教育の中に身をおくことを決めている。
私は講義をするとき、学問の面白さ、数学、物理の魅力を知る自分だからこそ分かっている愉しさを生徒にきちんと伝えることを心がけている。その愉しさを知ることで、生徒たちが少しでも数学、理科に興味を持ってくれれば、と願うからだ。
教育は、人間の根幹にかかわるものであると思う。だからこそ簡単に答えを出すことは出来ず、それでいてやり甲斐を感じられるものである。まだまだ未熟な私ではあるが、未来ある子供たちのためにこれからも学ぶ愉しさを伝え続け一生懸命がんばっていきたい。
政府開発援助(ODA)業務で、トルコに赴任して2年以上がたった。90年代に3年ほどエジプトに駐在して以来、2度目の駐在である。エジプトに赴任したのは自ら希望したものではなく、単なる人事の命令によるものであったが、それ以来中東がなじみとなって、社内的には中東屋と分類されているようである。
「中東」を連想ゲーム風に思いつく言葉を挙げると、一般的にはイスラム教、石油、砂漠、酷暑といったところであろうか。しかし、これらが一番当てはまるのはディープな中東ともいえるアラビア半島であり、その他の地域では全く状況が異なる。まず産油国はごく一部である。また砂漠といってもほとんどは土漠であり、らくだが砂丘を歩くなどというのは、ほんの限られたところである。ましてトルコには砂漠は全くないばかりか、水は豊富である。暑さといえばイランやトルコの北部では雪も降る。イスラム教はほぼ当てはまるが、エジプトでは古キリスト教ともいうべきコプト教が人口の1割を占めている。
民族でいうと中東=アラブではない。アラブは広範に広がっているが、そのほかにペルシャ(イラン)、トルコがあって、合わせて中東の3大民族であり、当然のことながら言語は全く違う。こちらの人々が日本と中国と韓国の違いについて的確に言えないのとお互い様だろう。
トルコはかつて三大陸に覇を唱えたオスマン帝国の末裔の国である。帝国を運営した民族の経験から、いい意味でも悪い意味でも官僚制がしっかりと根をおろしており、仕事で政府関係者と折衝する際には骨が折れる。トルコは飛び抜けた親日国であり陽気な国民性でとっつきはいいのだが、こと交渉ごとを文書にまとめるとなると別である。いちいち法律と照らし合わせて、ダメなものはダメであり、自分の権限外のことは全く手を出さない。文書への署名も納得しない限り絶対にしない。役人としては正しい態度ではあろうが、もうちょっと融通を利かせてやれないものかと思う。
官僚としての行動パターンが民族のDNAとして刷り込まれているようにも思えてくる。オスマン帝国末期に西欧から不平等条約を押し付けられて以来のトラウマという人もいる。
エジプトではある種のいい加減さがあって、なんのかんのあっても、なんとなく収まるところに収まるという感じもあったが、トルコではひとつひとつキッチリ詰めていかないとまとまらない。悪いようにはしないから、そこのところひとつよろしく、というのは全く通じない世界である。
相手のことをとやかく言っても始まらないので、郷に入っては郷に従えでやっている。外国相手の仕事をしていると、ものごとはすべからく相対的なものであり、絶対はないというのがよくわかる。日本的に当然と思っていることが当然でなかったり、こういう考え方もあるのかと意外な発見があったりして、楽しくもあるがしんどくもある。
仕事柄こういうことの積み重ねで、自分の主張は横に置いておいて、複眼的なものの見方というか、相手がなぜこのような発想をするのか、相手の立場に立って考える癖が、知らず知らずに身についてしまったようである。
昨年春、修猷館の1年生(現2年)を対象に「第一回東京研修」が行われた。従来、2年生の夏休みに全員を対象に実施されていた「つくば・東京研修旅行」が、県の予算制約の関係から平成18年で取りやめとなり、希望者制として再スタート。400人中92人が参加して、独立行政法人、民間企業や官公庁を訪問、各種講演なども聞いたという。行く先々で、東京修猷会のメンバーが研修に協力した。
西新・福岡から飛び出して、2泊3日との短期間ながら東京でさまざまな体験をした修猷生たち。その感想から一部を紹介したい。
私たちに講義をして下さった高宮有介先輩(S51年卒)は、がん患者さんの痛みを癒すこと、いわゆる緩和ケアを専門とする医師。現在、昭和大学医学部の医学教育推進室に所属していて、患者さんのケアとともに医学部生への講義もされています。講義のテーマは「死を通して、生といのちを考える」。まだ若い私たちは普段考えないことが多かったのですが、非常に示唆に富んだお話を伺いました。
緩和ケアのキーワードには「全人的な痛みの緩和」。全人的な痛みとは、身体的な痛みのみならず、精神的・社会的な痛み、スピリチュアルペインから形成されます。スピリチュアルペインには、二つの大きな要素が。一つは「なぜ、自分はこの世に生まれて死んでいくのだろうか。自分の生きてきた意味や役割はなにか」といった問いかけです。もう一つは「死とは何か、死後の世界とはあるのか、あるならどんな場所か」といった問いかけです。
先生が出会った患者さんの一人に、がんで余命が短いことを宣告された女性がいました。その女性には婚約している男性がいたので、その男性と結婚式を挙げたそうです。すると彼女の病状は一時的によくなりました。そのあと間もなく亡くなったそうですが、このように薬などで治療するだけでなく、患者の望みを叶えてあげることで痛みを和らげることができることを知り、胸打たれました。
高宮先輩が携わった患者さんに、お母さん宛の遺書を残した方がいたそうです。21歳の女性の手紙には「これからもしっかりと生きていってほしい」と母親のことを心配していることがたくさん書いてありました。そして最後は「ありがとうございました」という言葉で結ばれていたそうです。なくしそうになってあるいはなくしてしまって初めて、大切な人の存在のありがたさに気づくのかもしれません。「今後何十年生きられる」などという保証はないのに、普段が健康だから身近な人や自分のそばにある見えない死の存在に気がつかないため、一日一日を粗末に生きています。しかし死を目前にした患者さんは違いました。生きることに一生懸命です。かけがえのない命を持つ健康な私たちは、もっと日々を大切に生きていかなければなりません。(中略)
両親や家族、先生、友人たち。自分のまわりにいるみんなと出会えたことに感謝しながら、修猷館での日々や今後の日々を大切にして、私たちは生きていきたいと思います。
修猷館バレーボール部は、昭和2年に「排球部」として創部され、昭和20年代初に「バレーボール部」となりました。
戦前、九州では無敵。西日本大会で数度優勝しています。戦後、昭和23・24年には、インターハイベスト8に入り、9人制での黄金期を迎えました。昭和30年代中頃からは6人制への対応が遅れ、一時成績が低迷しますが、昭和49年には、福岡県中部地区優勝を果たしました。以後昭和60年まで常時県大会に出場し、6人制の黄金期を迎えました。他校より早く、コンビバレーを取り入れた結果ですが、第2体育館の完成もこれを後押ししたものと思われます。
平成19年8月19日(日)午後1時、全国から約70名のOB・OGが青春の思い出の地、西新・修猷館に集合し、OB戦が行われました。現役時代以上の気合を見せる方、体が付いてこない方、応援専門の方など、皆それぞれに楽しみました。その後、福岡国際ホールで現役を交えての懇親会が開催され、OBから現役への厳しい叱咤・激励もありましたが、当の現役はひたすら、食う、食う、飲む、飲む、でした。ここでも全員が笑顔だったのが印象的でした。
最近の戦績は、福岡県中部地区で3回戦進出程度です。しかし、他校の先生方から「修猷館は公式戦の時の集中力が他校とは違う」と、よく褒めていただけます。これも「伝統」の力でしょうか。
江頭 邦明(S56年卒)
バスケットボール部は1927年(昭和2年)の創部で2007年に80周年を迎えました。2年前から準備を進めてまいりました下記の『創部80周年記念事業』は、「現役の支援」「OBOG会の継続」を理念として企画し、8月12日の祝賀会ですべてを無事終えることが出来ました。
1.OBOG会員名簿の整理・作成
2.創部80周年記念誌・記念タオル作成
3.現役チーム(男・女)に応援旗の贈呈
4.記念試合(OB・男子現役 対福岡高校、女子現役 対福岡中央高校)
5.現役バスケットクリニック(S50年卒 木葉君)
6.祝賀会(於 ホテルニューオータニ博多)
「記念試合」「バスケットクリニック」「応援旗」は現役諸君の今後にお役に立てると確信します。そして、「創部80周年記念誌」は編集委員の頑張りで、我々の歴史を振り返るすばらしい記念誌が出来ました。
祝賀会には館長先生をはじめとしたご来賓の方々を含め120名が出席し、盛況の内にバスケット部の歴史を振り返り旧交を温めることが出来ました。 これらの事業を、たくさんのバスケットボール部OBOGからご協力をいただき行うことができましたことは感謝の念に堪えません。
今回の記念事業は、修猷館高校バスケットボール部の更なる発展に寄与し、創部100周年に向かってOBOG会がますます盛り上がるきっかけになることと思います。
※OBOGの方で記念誌・記念タオルをご希望の方は下記HPをご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/shuyubasketball~obog/index.html
創部80周年記念事業 実行委員長 秋本 亮一(S46年卒)
新装なった修猷館に集合、昔とは様変わりした清潔な校舎内を散策しながら、行き会う生徒達から「こんにちは」と言う挨拶を受けて、そのさわやかさと気持ちの良さに至福のときを過ごした。昨年(平成18年)秋に開催され、約100名の同期生が集まった三思会総会の開始イベント「新校舎見学」の模様である。
我々、昭和34年卒の同期会は卒業年に因んで「三思会」と称し(命名に当たっては同期の識者が中国の「荀子」を持ち出してしかるべき根拠を説明してくれている)、地域ごとに福岡(本部)、近畿、東京の三つの三思会から構成されている。
三思会総会の開催場所は福岡が最も多いものの、京都、沖縄で1回ずつ開催しており、次回は卒業50周年を記念して北海道での開催が決まっている。
我々東京地区の東京三思会は約30年ほど前に連絡が取れるメンバーが集まって飲み会を開いたのが発端で、当初は20人前後の集まりであった。大きく変わったきっかけは今から22年前、昭和60年(1985年)、すなわち修猷館の創立200周年を祝う記念すべき年に東京修猷会の総会を担当したことである。
「他の学年では絶対に遭遇することのないこの貴重なチャンスをぜひ生かそう」とみんなの気持ちが一致し、それまで顔を出したこともないメンバーを含めて大勢の仲間が集まってきた。立てた目標は動員数1000人、寄付総額1000万円。
当時、幹事長の任にあった渕上貫之先輩(昭26年卒)をはじめ大勢の先輩方の助けを借りながら一年間毎月会合を開いて準備に取り組んだ。
赤坂プリンスホテル新館の大宴会場を借り切っての総会は大盛会。講談師神田紅(昭46年卒)の司会、舞台に勢ぞろいしたオーケストラの演奏をバックにした館歌の大斉唱でスタート。同窓生によって編成された大合唱団による「修猷賛歌」(200周年を記念して作られた)の合唱、駆けつけた文部大臣による祝賀の挨拶等々、どれをとっても創立200周年を飾るに相応しい場面が展開された。
会場を後にされる同窓生の方々から口々にかけて頂く「ありがとう」の言葉を聞きながら「修猷館を卒業して良かった」と心から嬉しかったのがつい昨日のように思い出される。記念品として編纂した職業別同窓生名簿も好評を博し、もちろん、動員数、寄付総額ともに十分に目標を達成できていた。
以後の東京三思会の定期会合には毎年40〜50名が集まるようになった。ほとんどのメンバーが現役を引退した近年は定期会合以外にもゴルフ会、グルメの会、囲碁の会等、いろいろな名目をつけては集まる回数が増えている。
卒業後半世紀近くが過ぎれば、鬼籍に入る同期生も増え(現在約1割)、あの顔この顔も偲ばれて寂しいが、集えば気分はたちまち修猷健児である。青春の血の名残が玄界灘のさざ波のように騒ぎ出して、老後には一番の良薬となりそうである。
東京三思会 水野 務(S34年卒)
LA修猷会では年に1、2回同窓会を開催している。
今年は4月28日と9月2日に開催。4月は、卒業生14名とゲスト3名が、ハーバーパレスで中華料理のフルコースを堪能した。19歳から72歳と幅広い。それぞれが自己紹介し、ロサンゼルスに来た理由を語った。
9月は、女性初のブロック長として活躍した慶応大学石橋マリアさんの訪問にちなんで開催。参加者には、副ブロック長、陸上長、総まとめ役など運動会で活躍された方が多く、昔は女性ブロック長などありえなかったこと、2年ブロック長が出現したことなどで話がもりあがった。当日は摂氏38度の猛暑。その中、博多風水炊き、焼き鳥などを楽しんだ。
4月と9月のいずれかの会の参加者:田中憲明(S28)、大迫(森久)道子(S29)・孝義夫妻、永川文一(S 36)、桑本英彦(S37)、桑本公子(S37)、西山薫(S49)、ローレンス・ドレイバンド(ゲスト)、山田哲義(S49)、前野(松井)美詠子(S 56)・ジョン夫妻、河野弘(S56)、樫山(宮原)ゆかり(S57)、龍圭一(S62)ソレンバーガー(池田)紀子(S63)・ジム夫妻、松汐利悟(H3)、伊藤輝之(H15)、石橋マリア(H16)、山本千恵美(H16)、中村詩織(H18)
※皆様の多大な寄付に感謝致します。
※現在、米国西部在住修猷生は30人。未登録の方、居住予定の方はぜひご連絡ください。
(S57年卒樫山)
コンプライアンス経営上、必要とされる理念や考え方を、社会的事件や不祥事例にもとづき、標語・川柳312選にまとめて解説。
馴染みにくいテーマを分かりやすく楽しく読めるようにした本。「罪重し犯したことより隠すこと」等
今日の環境問題の深刻化に危惧を抱いている修猷同窓生は多々いるものと思い、当社での取組みを紹介することにする。
近年の中国を始めとした新興経済国における自動車需要の伸びは、想像をこえるものがある。こうした世界状況の中、今後環境、燃費の抜本的な対策なくして自動車産業の生き残りは不可能というところまで時代は動いてきているといえる。
自動車産業は何をすべきか、その使命は重い。ハイブリッドを始め今まで以上に環境にやさしい車づくり、エタノールなどの代替エネルギー活用、燃料電池車の開発、そしてITSの活用による交通インフラの整備などやるべきことは多い。当社では、その中でも環境対策としてハイブリッド技術がきわめて重要だと考えている。
ハイブリッド技術は、簡単にいうと、ガソリンエンジンで活用されずに捨てていたエネルギーを再生し電気に変えて、ガソリンエンジンとあわせてモーターも動かすという原理である。バッテリーには再生された電気が貯められるので充電の必要がない。この技術は、ガソリンのみならず、ディーゼルエンジンや燃料電池との組合せも可能である。したがってその将来性はきわめて大きい。今や世界中で100万台のハイブリッド・カーが保有されており、今後とも増加していくことが期待される。
思い起こせば、福岡県人・修猷人は、明治以来、日本の基幹産業である石炭、製鉄、石油化学の仕事を、その折々で重責を担ってこられたのである。今私が、旧経済産産業省勤務の後、今日の基幹産業である自動車産業に身を置いていることも何かの縁と思われる。我々の修猷の諸先輩達に恥じない仕事を今後ともしていきたいと思う。
少年の頃、学生時代、そして社会に出てからと、これまでに知り合えた「交友」のある方々は数多(あまた)です。
一昨年の師走、日経のコラム「交遊抄」への投稿依頼を受けたときは、さていつの時代のどの付き合いを書こうかと、少々困惑しました。結局、そこにも書きましたが、「心身が大きく成長する高校時代の友人」として、修猷同窓で在福の二人に登場してもらいました。
関心の高いコラムらしく反響も多く、福岡市議会議長(当時)のS君には、全国各地から便りや電話が連日だったとか。
私は、邪馬台国九州説の信奉者という見ず知らずの方から、「古代史探訪が趣味」としたO君を紹介して欲しいという手紙をいただきました。その後、二人の間では情報交換などの交流が始まっているそうです。
また、掲載の三日後にはM Sさんという方が、インターネットのHP「修猷の四季」のなかで、「友との縁、友と歩んだ道をいかにも修猷らしく語っています。」と紹介していただき、さらに「修猷の卒業生が共通して言うことは『修猷では周りに凄い人たちがいた。』と。(中略)こうやって周りを認め、その中に居た自分を誇る雰囲気というのは他の学校の同窓生にはないことでしょう。」と結び、修猷卒業生の多くに共通する想いを適切に表現されていました。
仕事では、様様な場面で多くの方々との接触がありますが、話すうちに同じ修猷の卒業だと分かり、急に話が進んだという経験をお持ちの方も多いと思います。それは、単に同窓という繋がりだけではなく、青春の時期、年次は違っても同じ空気の中で過ごしたという共感が生じるからではないでしょうか。
その意味で、これからも二木会を始め、修猷の集まりには出来るだけ顔を出して交遊を広めたいと思っています。
2006年11月1日から2007年10月31日までに175名の皆様から寄付金が納入されています。ありがとうございました。お礼の意味を込めてお名前を掲載させていただきます(敬称略・卒年別)
また、年会費の納入をまだ済まされていない方は、同封の郵便振替用紙にて早速ご送金くださるようお願い申し上げます。(一口3千円)。3千円を超えた額は寄付扱いとします。
同窓会本部、中嶋利昭(館長)、水崎雄文(恩師)、白木英治(恩師)、石丸鉄太郎(近畿修猷会会長)、(昭9)冨田明徳、(昭11)橋本胖、(昭12)宮川一二、鎌田正行、(昭15)明石隆次、高川正通、村山繁雄、(昭17)安藤雄三、(昭18)不破敬一郎、鶴田一白、(昭19)毛利昂志、田尻重彦、早野俊一、中島睦月、(昭20(5))尾島成美、ジャニイ岩橋、(昭20(4))野上三男、田中庸夫、山本敏男、(昭21)太田昭、稗田孝道、(昭22)木下洋一、伊藤輝夫、高島一衛、濱田理、増崎昭夫、(昭23)林圭之助、伊岐和男、大西勇、荒谷俊治、白木彬雄、柳泰行、(昭25)松岡肇、山本義治、(昭26)常岡宏、石塚和男、石田洵一、大穂圭一、太田進、大平修、小西正利、庄野隆夫、渕上貫之、藤吉敏生、中村道生、廣瀬貞雄、(昭27)難波榮彦、榊喜美子、飯田英子、徳山悟郎、田辺萌、和栗眞次郎、福田純也、金田久仁彦、(昭28)児玉黎子、(昭29)村越登、長尾淑實、長野倬士、高木道子、(昭30)城川明、堤正、藤吉健司、原田雅弘、遠山壽一、徳田洋次、岩田至道、塩沢孝憲、坂本幸治、石川洋介、久保久、喜多村寿信、(昭31)阿部公明、近藤徹、箱島信一、村田和夫、中村保夫、伊達直哉、(昭32)鳥居健太、島上清明、山本貞昭、平野煕幸、井上智晴、寺澤美和子、米倉實、(昭33)武石忠彦、松永貴子、河野理、(昭34)伴拓郎、尾崎文彦、小金丸則幸、岩田龍一郎、川辺猷治、讃井邦夫、大谷南郎、加藤泰、行武賢一、(昭35)松尾俊一、羽立教江、中村純男、伊藤洋子、可児晋、(昭36)田中直樹、安藤誠四郎、井上清、倉成洋三、土井高夫、高村修一、中島成之、光安哲夫、横倉稔明、(昭37)小野寺夏生、大須賀頼彦、古川靖、(昭38)上田茂、穂積憲重、渡辺紀大、(昭39)久保田康史、松井碧、貝島資邦、松本睦彦、(昭40)荒津一郎、泉和雄、長谷川閑史、森秀則、石橋完、筑紫勝麿、棚町精子、(昭41)新井眞理子、森田澄夫、渡辺耕士、木川理二郎、田口俊彦、安田修之助、(昭43)広瀬豊、伊豆安生、(昭44)横田勝介、甲畑眞知子、(昭45)本田由紀子、坂口健介、(昭46)鹿児島正信、(昭47)塚本幸一、(昭49)井手富士雄、橋村秀喜、阿河勝久、古森光一郎、(昭50)乙藤光男、小林みどり、野中哲昌、(昭51)安東泰隆、桐明幸弘、油田哲、(昭52)寺岡隆宏、古賀敏文、江藤和実、野手弘一、三島裕史、(昭53)上薗勉、藤勝之、西村健志郎、(昭54)中原誠也、松尾隆広、(昭55)吉田聡、柴田幸一郎、(昭56)岩崎早苗、隈元慶幸、田中昭人、副島久靖、(昭57)樫山ゆかり、(昭58)井手慶祐、田籠礼二、(昭60)朱雀誉史、(昭62)鎌倉靖二、剣彰彦、(平3)岩松洋史、(平8)寺林健
第535回 |
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講演内容は、下記HPにアップしています。
東京修猷会URL http://shuyu.gr.jp/tokyo/
2007年11月24日(土)午後、通常の二木会には参加が難しいという同窓生の強い要望を受けて、新たに企画された
“Salon de 修猷”の第1回目「宮澤賢治、歌と朗読と、そして、銀河へ」を学士会館で開催しました。
前半は、NHKアナウンサー青木裕子さん(S44年卒)による賢治作品「水仙月の四日」の朗読とシンガーソングライター宇佐元恭一さん(S53年卒)のアドリブによるピアノ演奏のコラボレーション。
後半は、宇佐元さんのデビュー曲「晴れたり曇ったり」や現在ヒット中の「雨ニモマケズ」など、オリジナル曲のステージ。
ご家族を含めて80名近くにご来場いただき、大好評のうちに終えることができました。
実行委員 柴尾眞由美(S55年卒)
2007年10月21日(日)、埼玉県本庄市の「こだまゴルフクラブ」において、恒例の二木会ゴルフコンペを開催しました。当日は、好天のもと、藤吉相談役、甲畑幹事長をはじめ総勢22名(女性3名)で腕を競い合いました。
そこそこ距離のあるコースでしたので(6243ヤード)、少し心配していましたが、22名中80台が6名、90台が8名と結構レベルは高かったのではないかと思います。
ダブルペリアで集計した結果、優勝は、グロス89、HC15・6、NET73・4で、井上知晴さん(S32年卒)、準優勝は、グロス88、HC13・2、NET74・8で、石橋明さん(S31年卒)でした。今回は、実力者が順当に上位に来たということではないでしょうか。ちなみに、男子のベスグロは川口幸信くん(グロス82)、女子は松岡郁子さん(グロス93)といずれも幹事学年(S56年卒)でした。
今回も前回に引き続き、賞品のご寄贈をお願いしたところ、参加者のほか、箱島会長、野上相談役からご寄贈いただきました。この場を借りて御礼申し上げます。
次回は、2008年4月20日(日)を予定しておりますので、奮ってご参加いただきますようお願いいたします。
二木会ゴルフ幹事 田中 昭人(S56年卒)
昨年度より幹事長を務めています44年卒の甲畑です。
女性初という重圧を、世代を超えた同窓の方々とあらゆる機会をとおしてお酒を酌み交わし語り得た歓びで、今は「これぞ役得!」と感じています。
会の運営を献身的に支えてくれている副幹事長の仲間達や幹事学年の方々に感謝。(甲畑)
昭和50年卒の野中です。二木会学年担当者=副幹事長と言う同期の策略にダマされて副幹事長を拝命して以来早6年。いつの間にか最年長の副幹事長です。
従来やってきた二木会、HPの業務は徐々に若い後輩に任せつつ、総務担当として微力ながら幹事長の下働きを勤めています。(野中)
昭和51年卒の安東です。2002年に総会の実行委員長を務めてからどっぷりと修猷に浸かっています。会報の編集のほか、総会や常任幹事会を担当しています。
「司会の声だけはいいね」と言われないよう、今後、中身の充実に精進いたします。(安東)
昭和51年卒の坪根と申します。2002年総会の幹事学年、経団連会館で主催しました最後の学年です。
執行部では名簿を担当しております。
名簿を拝見しながら、時代の推移に思いを馳せている昨今です。(坪根)
同窓会総会・懇親会の会場を大手町の経団連会館から永田町の都市センターホテルに変更した時の幹事学年、昭和52年卒の寺岡です。
東京修猷会の金庫番、田代さんのサポートとして、HPを担当している野中さんの薄い影として、更には、二木会ゴルフの担当の松尾さんの補佐をしております。会員の皆様の年会費が同窓会活動の大きな原資です。皆様、会費の納入どうぞ宜しくお願い致します。(寺岡)
昭和52卒の田代です。白井先輩と本田先輩から会計を引き継ぎ、同期の寺岡さんと会計事務の処理に携わっています。
会務にはあまり参加できず両先輩のようにはいきませんが、金庫番の役目は果たしたいと思っております。(田代)
2005年の総会、2006年の二木会と幹事を務めました昭和54卒の松尾です。昨年より執行部に加えていただき、総会・二木会・常任幹事会等を担当しております。
“絆の深まる東京修猷会”を目指して尽力致しますのでよろしくお願い致します。(松尾)
GOGO会の岡藤です。2006年度総会、その後の2007年7月までの二木会、11月の「Salon de 修猷」では大変お世話になりました。
引続き会報、県人会、二木会担当副幹事長として館友の皆様に喜んでいただける東京修猷会にしたいと微力ながら心より考えております。よろしくお願いします。(岡藤)
(二木会は6、8月を除く毎月第2木曜日6時から食事、7時から講演)
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二木会の講師として次の方々を予定しております(変更の可能性はあります)。多数のご参加をお待ち申し上げます。
2月 津田純嗣さん(S44年卒・安川電機取締役)・3月 山本周さん(S49年卒・フジテレビ政治部長)・4月 石村善悟さん(S42年卒・石村万盛堂社長)・5月 中村清次さん(S35年卒・日銀審議委員)・7月 横倉稔明さん(S36年卒・やすらぎの丘温泉病院院長)