題字・松尾金蔵書
発行
修猷館同窓会東京支部
事務局
〒185-0034
東京都国分寺市光町2-14-85
(有)パルティール内
FAX 042-573-5060
東京修猷会ホームページアドレス
http://www.shuyu.gr.jp/
┣ | インスタレーション「届けられた部屋」 | 船木美佳 | (S60年卒) |
┣ | 会長ご挨拶 常に心に勇気と自信を! | 藤吉 敏生 | (S26年卒) |
┣ | 東京修猷会2007年活動スケジュール | ||
┗ | 東京修猷会2007年度総会のご案内「星を継ぐ者たち—修猷の現在」 |
┣ | 新役員も紹介…総会から盛況 | ||
┣ | 笑顔で毒舌の奥田先生 | ||
┣ | 高校時代にタイムスリップ | ||
┣ | 総会企画について | 森 哲郎 | (S55年卒) |
┗ | 総会をおえて | 新城 晃 | (S55年卒) |
┣ | フルマラソン、そしてその先へ… | 篠原 充 | (S61年卒) |
┣ | 16年目になるこの仕事……占い師 | 塩谷 洋樹 | (S61年卒) |
┗ | 私の職業観 | 中川 美穂 | (S61年卒) |
┗ | 沖縄修猷会発足 | 堤 尚広 | (S55年卒) |
┣ | 東京にて 血液内科医の僕にできること | 和気 敦 | (S55年卒) |
┣ | マニラにて 海外徒然 | 松川 和史 | (S43年卒) |
┣ | バリ島にて 70歳からの恩返し | 城戸 秀夫 | (S26年卒) |
┣ | 米国にて ニューヨークでの15年 | 吉永 美也子 | (S55年卒) |
┗ | 修猷会卒業生のお店 BAR 8・8(バル・ハッテンハチ) |
┣ | 甲畑新幹事長に聞く | ||
┗ | 渡辺前幹事長からエール |
┣ | 共学一期生の五十五年 | 都島 惟男 | (S27年卒) |
┣ | 昭和三十七年卒の活動状況 | 中西 保年 | (S37年卒) |
┗ | LA便り | 樫山(宮原)ゆかり | (S57年卒) |
┗ | CSR入門講座 第2巻 推進組織体制を構築する | 森 哲郎 | (S55年卒) |
┣ | 副会長便り | 箱島 信一 | (S31年卒) |
┣ | 中嶋利昭・新館長に聞く | ||
┣ | 第19回 東京修猷会どんたく ニ木会ゴルフコンペのご報告 | 蔵座 浩一 | (S55年卒) |
┣ | 荒巻香陽先生遺作展 | ||
┣ | 平成18年度寄付金 | ||
┗ | 平成18年 ニ木会 |
船木 美佳(S60年卒)
Mika Funaki
1985 | 修猷館高等学校卒業 |
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1991 | 東京芸術大学美術学部絵画科油画卒業 卒業制作大橋賞受賞 |
1993 | 東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了 |
1998 | LONDON大学SLADE SCOOL M.F. A(マスターコース)修了 |
2006 | 多摩美術大学・東北芸術工科大学・九州造形短大 非常勤講師 東京在住 |
1998 | 「addressing 100years of fine art and fashion」 ヘイワードギャラリー/ロンドン |
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2002 | 「scramble」ブルネイギャラリー/ロンドン |
2003 | 「ファーストステップ」MOMA コンテンポラリーアートセンター/N.Y 「scramble」CCA/グラスゴー 「オープンスタジオ」BAD ファンデーション/ロッテルダム 「happy hours」ハットンウォール/ロンドン |
2004 | 「happy hours」café line rice+ /東京 「happy hours」café line 大山崎美術館/京都 「happy hours」café lineカノーヴァンギャラリー/名古屋 |
2006 | コールドプレイ(UKロックバンド)コラボレーションワールドツアー |
その他 |
明けましておめでとうございます。
月並みですが、館友の皆さんは年頭に当たり、何を考え、何を感じておられますか。私はいま、日本人の多くが色々な問題に直面して自信を失いかけているのではないか、と危惧しています。それが無責任社会を作っているのではないか、と思っています。
平成十八年から引きずっているデレフ脱却の明示論議、社会保障制度改革、教育問題、郵政民営化の具現化等、人口減、少子高齢化対策—等の国内問題が山積しています。眼を外に転じれば、近隣諸国とりわけ韓国、中国との外交、加えて北朝鮮の核実験とその対処、拉致問題と枚挙に暇がありません。こうした一連の国内外の重大局面に今年、わが国の指導者はどう舵取りするのでしょうか。失いかけている日本人の心に、勇気と自信が再び芽生える一年にしたいものです。
昨今の新聞、テレビの報道は私の世代には考えられないニュースが氾濫しています。とくに、子供に関する事件には目を覆いたくなります。育児に自信をもてず、不安を抱える母親が多いと聞きますが、それを責めることはできません。家庭のしつけ、道徳心や倫理感が我々日本人の中でいつの間にか崩壊しかけている、としか私には思えません。その根底に、戦後六十年続いた教育制度に一つの要因があるといっても過言ではないでしょう。ここへきて教育改革が大きく論議されていますが、私には遅きに失した感を強くしています。これから改革を成し遂げたとしても、その実効迄にかなりの時間を要するのではないでしょうか。
昨年末に表面化した全国各地の高校で発覚した必修科目の履修漏れ、学校内のいじめ問題は、ただ当該校だけの問題として片づけるにはあまりにも安易のような気がします。文部科学省やそれぞれの教育委員会の毅然たる対処は当然として、世間一般に拡がる過剰な有名校への進学競争にも反省の要がありそうです。
こうした一連の教育問題がクローズアップされて思うことは、母校修猷館の教育方針です。私は母校を卒業して五十五年余になりますが、その校風は全くといっていいほど現在も変わっていません。名門の進学校として常に評価され、文武両道を貫く教育は微動だにしていない。変わった点といえば、戦後の教育制度によって男女共学となったことと、校舎が大改築され、全くすばらしい勉学の地になった点でしょう。人材の育成に注力される歴代の館長初め先生方の「修猷生の為」に、との想いには頭がさがる気がします。勿論、修猷館で学ぶ生徒達の修猷に対する愛校心、誇りが伝統校としてずっと引き継がれていることもあるでしょう。だから、いつの時代になっても卒業生と在校生との絆が堅く結ばれているわけです。
同窓会が修猷館という共通の環境で過ごした人達の集合体だからこそ先輩、後輩の垣根や利害を越えた交流の場として、いつ迄も活気を失わないのでしょう。東京修猷会は各界で活躍された、もしくは活躍中の館友が常に母校を想い、時には学生時代に戻って年度総会、二木会に積極的に参加してお互いの能力を高める機会を作っています。私も会長職を引き受けている関係で、常に各界で活躍されている館友の皆さんと接触を持つことが出来、何かと啓発されています。
私は修猷の卒業生には、独特な共通点があるように思っています。それは良き伝統である質朴剛健を土台とした自由奔放さ、骨っぽさです。そこに勇気と自信を秘めた、言葉では表現できない一種独特の雰囲気を感じます。これが修猷館の校風、修猷生の気風というのでしょうか。
ともあれ、東京修猷会を今年も館友の皆さんと手を取り合って、すばらしい同窓会組織として、より強固なものにしたいと願っています。そして会員の皆さんにとって、今年がすばらしい一年になるよう祈っています。勇気と自信をもって昨今のむずかしい時代を切り拓いていきましょう。
(二木会は六、八月を除く毎月第二木曜日六時から食事、七時から講演)
1月 | 会報発行 | 元旦に全会員に送付 |
11日 | 二木会 於:学士会館 クリストファー遙盟(ようめい)尺八奏者(外部講師) | |
2月 | 8日 | 二木会 於:学士会館 |
3月 | 8日 | 二木会 於:学士会館 |
下旬 | 常任幹事会(決算見通し、総会内容発表 等) | |
4月 | 12日 | 二木会(新人歓迎会) 於:学士会館 |
15日 | どんたく二木会ゴルフコンペ | |
5月 | 10日 | 二木会 於:学士会館 |
6月 | 8日(金) | 総会 「星を継ぐ者たち—修猷の現在」 於:都市センターホテル 午後6時より (幹事学年は56年卒) |
7月 | 12日 | 二木会 於:学士会館 |
9月 | 13日 | 二木会 於:学士会館 |
10月 | 12日 | 二木会 於:学士会館 |
下旬 | 常任幹事会(総会報告、来年度総会計画発表 等) | |
21日 | どんたく二木会ゴルフコンペ | |
11月 | 8日 | 二木会 於:学士会館 |
12月 | 13日 | 忘年会 |
今年は「ニッポンのいま」を年間テーマに、各界でご活躍の修猷OBから、その分野の最新状況をお聞きします。また、講演前の二十分間で交流会を行っています。奮ってご参加下さい。
福岡県立修猷館高校卒業生の首都圏在住者による同窓会「東京修猷会」総会が平成18年6月16日、東京・麹町の都市センターホテルで行われた。今回は「東京修猷力!〜誘掖(ゆうえき)と親睦の再発見〜」をテーマに、幹事の昭和55年卒業生による学年企画「修猷館卒業生の秘密を探る!」を披露するなど、福岡から足を運んだ波多野聖雄同窓会長、中嶋利昭修猷館長、恩師の奥田義郎先生及び、559人の同窓生が旧交を温めた。
総会は午後6時からスタート。亡くなられた先輩に黙祷を捧げたあと、まず藤吉敏生東京修猷会会長が「東京修猷会の会則にある誘掖(ゆうえき)という言葉は教えそして指導するという意味。横の交流は活発ですが、縦の交流がこの総会を機に活発になることを希望します」とあいさつ。続いて福岡からの波多野聖雄修猷館同窓会会長が歴史資料館の募金に予想を上回る金額が集まった話を紹介した。また、18年4月に就任したばかりの中嶋利昭館長が、OBを講師として現役高校生に職業経験などを伝える進路別研修会を実施したことなどを披露。「生徒はもちろん、OBからも『貴重な体験になった』とご感想をいただきました」と、今回のテーマにふさわしい現役高校生と卒業生との交流を伝えた。
昨年度の事業報告と今年度の事業計画のあと、役員改選報告として新しい役員も紹介された。幹事長には5年間務めた渡辺俊介氏に代わり、昭和44年卒の甲畑眞智子氏が就任。11年間の長きに渡って会を支えてこられて広瀬豊副幹事長の退任も発表された。初の女性幹事長となった甲畑新幹事長は「渡されたバトンの重さを感じている。これから次の方にバトンをうまく渡していくのが私の役目」と意気込みを語った。
事業報告、事業計画、役員改選報告と例年どおりに議事が進むうちに、用意された約280席はほぼ満席になった。
恩師として福岡からご足労願ったのは保健体育の奥田義郎先生。ベージュの開襟シャツにジーンズという軽装で、にこやかな笑顔を浮かべて壇上に立った。得意の寝技で、体格でまさる相手を打ち破り、“締めの奥田”とも呼ばれた柔道家である。修猷館には天理大卒業後、昭和38年から同58年まで在職され、当然柔道部の顧問だった。県立高校の教諭を定年退職の後、現在は九州大柔道部の師範を務めている。
あまりパッとしたところのなかった昭和55年卒の教え子達を「この代はシャバかった!」と独特の表現でバッサリ。当時ひ弱だった柔道部員たちの運動会での活躍(不活躍?)ぶりなどを紹介しながら、教鞭をとった21年間を振り返った。
また「修猷についてよく耳にするのは“すばらしい”と“いやらしい”という評価」と語り、「すばらしいという部分は今更言うまでもなか。しかし、何事もわかったつもりになって、そこで歩みを止めたらいかん」と、温かいアドバイスを送った。
「館歌ヨォーイ!始め!!」この瞬間にみんなが高校時代にタイムスリップした。鉢巻き姿の応援部OBの号令で、一斉に「西のみそらに〜」と、伴奏も音合わせもないのに、同じキーで同じテンポ。会場を揺るがすような歌声を響かせた。
前日からの雨も上がり、懇親会が始まるころには来場者も500人を超えた。グラスを片手に顔見知りを見つけては「どげーしょったとや」と笑顔が広がった。
また、先輩と後輩が同じテーブルを囲めるよう、卒業年度の下一桁の数字で振り分けられ、「君は何年卒かね」「○年卒の××です」といった言葉をきっかけにあらたな交流も生まれた。
熱気あふれる中、会場の壁一面のスクリーンに映し出されたのが、学年企画「修猷卒業生の秘密を探る!」だ。会報やホームページなどで事前に募ったアンケートの結果を発表。高校時代を色に例えたり、好きな館歌のフレーズ、上京した理由、修猷館時代を振り返る設問に対する、519人からの回答に基づき、年代別、男女別、出身中学別など、さまざまな傾向が発表された。中でも「修猷館時代の友達を思えば」という問いには全体の97%が「誇らしい」と答え、老若男女を問わず友情に厚い修猷気質が浮き彫りになった。
クライマックスでは甲畑新幹事長も鉢巻き姿で壇上に並び、全員で歌った応援歌「彼の群小」と力のこもったエール。約200人のメッセージが寄せられた文集を手にした先輩は「いい会でした。エールに女性も混じってよかった。よかった」と満足顔だった。
最後まで会場に残っていた今年卒業したばかりの女子大生は少し興奮気味。「名残惜しい〜。朝までやってほしいくらい。先輩からもみなさん声をかけて下さった。毎月でもやってほしい!」。歯切れよい言葉の端々に、世代を超えて結ばれた“修猷力”があふれていた。
「総会に行って何かメリットあるとや?」と何気なく発した私の一言に、総会幹事学年に向けて同期の結束強化のために5年以上前から同期会を開催するなど尽力していた学年幹事の面々は、「メリットとは何だ。軽薄なことをいうな」と、やや気色ばんで私に批判的なまなざしをむけました。総会に一度しか出席したことのなかった私には、何もわかってはいなかったのですが、「旧交をあたためるなら同期だけで集まればいい、世代を超えてあつまるなら、もっと交流するきっかけが必要だ。それこそが総会・懇親会が開催される意義のはずだ」と漠然と思っていました。その後2005年初めに、どんな人が東京修猷会にいるのかがわかるような冊子をつくったり、どなたが当日来場しているかわかるようにしたらどうか、といった企画を発案したところ、「おまえが企画をやれ」ということになってしまいした。
何度も企画検討の会合を重ねるなかで、「東京修猷力!〜誘掖(ゆうえき)と親睦の再発見〜」という交流拡大のテーマを熱心な同期が決めてくれました。また東京修猷会の求心力強化にも貢献したいという声も多くありました。東京修猷会は、日本の人口構成と同様、高齢化が進んでおり、年金問題と類似した構造が発生している可能性があります。そうしたなか、若年層会員を確保し、ますます東京修猷会の会員でよかった、とおもえる、よりパワフルな「誘掖と親睦」ができる同窓会へと発展するきかっけに、微力ながら今回の企画が貢献できれば、との思いもありました。
企画は、具体的には、会員の皆様に母校への思いや現在の心境などに関するご寄稿をお願いする「交流文集」の作成が決まりました。さらに私の発案だけではタマ不足との見方もあり、事務局長を中心に、「修猷卒業生の秘密を探る!」というアンケートの実施が発案されました。これは広告業界の担当者を中心に分析が行われ懇親会にてプレゼンテーションがなされました(左図参照)。また、このテーマにあわせて、当日総会の配席についても、担当者が尽力し、卒業年次の下一桁が同じ学年をまとめる形にしたり、出席予定者を掲示版に貼りだしたりするなど、細かな工夫もさせていただきました。
「…総会担当になった学年は一年も前から何度も集まって準備作業を重ねる。全国にこうした高校は私の知る限り存在しません」(渡辺前幹事長の文集へのご寄稿より)。幹事学年を苦労しながら経験したことで、私自身多大な勉強をさせていただき、また多くの方々とのすばらしい出会いと交流を得られました。これだけパワフルな同窓会だからこそ、交流強化によって、わが身のためだけでなく「世のため人のため」にも、もっと立ち上がっていくこともできるのだと思います。(私は「わが事のために東京に出てきた」とアンケートに回答しましたが)
最後になりましたが、企画立案段階から再三にわたって指導いただいた会長、幹事長、執行部の皆様、文集投稿、アンケートへの回答など多大なるご協力を賜った会員各位、同期会員へ呼びかけていただいた学年幹事の皆様方、大変にお世話になりました。あらためて厚く御礼申し上げます。そしてすばらしい創造力と実行力をしめしてくれた同期各位に敬意と感謝を表したいと思います。
総会終了後、会場の片付けを終え、記念の集合写真をとる100名余の同期を見ながら、「本当に終わったんだな」と誇らしくもまた切ない感情が湧き上がってきました。
総会企画の目玉であった「交流文集」を完成させ、「修猷生の秘密を探る!」プレゼンも無事終了。550名超という(例年を大きく上回る)入場者をお迎えすることができたことへの達成感と同時に、一緒に力を合わせてくれた同期一人ひとりへの感謝の気持ちがありました。
卒業後四半世紀たてば、職場や家庭の環境も様々で、自己主張も激しくなりがちですし、実際意見の合わないことは多々ありましたが、それでも最後までチームワークよくできたのは、岡藤正章実行委員長の「おおらかな」性格と、「どうせやるなら、自分たちも楽しんで、よい結果を出そう」との思いのもと、一人ひとりに「進んで労をとる」という姿勢があったからだと思います。もちろん最初から全員が同じレベルで感じていたわけではありませんが、ひとりのほんの小さな行為が、次々に伝播し、浸透して行ったことは間違いありません。
実行委員会発足当時から、企画立案に奔走したものもいれば、総会直前に動員のために、一日に200人以上の方に電話をかけ続けたものもいます。
この1年間に費やした総時間は膨大なものですが、よい同期に恵まれたこと、そしてこの総会準備を通じて、そのことがあらためて認識できたことが(つきなみではありますが)一番の「ご褒美」であったと感じています。
また作成した「交流文集」を読んでみますと、いろいろなエピソードの中に、味わい深く、ゆっくりとお話を伺いたい衝動に駆られるものが多々あります。これもまた財産となりました。
実行委員会事務局長としては、とにかく効率的な運営にしようとか、自分達がやりたいことの「軸」だけは一貫して主張しようとか、いろいろと心掛けたつもりですが、自然にお互いで助け合う形ができあがってきてからは、トラブルやプレッシャーも楽しめるようになりました。
今後は、総会準備を通じて再構築できたネットワークを充分に活用して、お互いの楽しみを深めていきたいと思っています。
執行部の皆様をはじめ、いろいろとアドバイスや励ましを頂きました諸先輩方に深く感謝いたします。
また昨年9月より一年間、二木会の運営を担当しています。ここでも「どうせやるなら…」の思いが生きています。会員の皆様に満足いただける結果を出せるか、甚だ不安ではありますが、間中紳介・二木会担当を中心に、「大変さ」を共に楽しめる仲間と乗り切っていきたいと思います。引き続きご指導を御願い致します。
「ワールドカップの日本代表おめでとう。」初めて挑んだサロマ湖での100キロレースを終えると、知人からそう声をかけられた。脚が止まった70キロ以降、とにかく辛く、もう二度と走らないぞ!と誓いながら6位でゴール。実は日本代表の選考会で、運悪く(良く?)6位までが選ばれるとの話を初めて聞かされる。その時は、またヒドイ目に遭うのかと正直ウンザリもした。
そして、去る10月8日、韓国。
ソウル五輪時に使用した2キロのボート場の周りに設けた10キロの周回コースを10周。世界デビューは、自己ベストを少し更新し日本人2番目の16位と、欲を言えばキリがないが、2度目の100キロにしては上出来か。
レース序盤、ペースダウンしている時に、抜きながらついて来いと手招きしてくれたアイルランド選手。風の強い直線を、風避けのために交互に前に出て引っ張りあった米国選手、スロバキア選手。中盤、ほぼ同じ位置をキープしていたロシア選手。最終周にマッチレースになったオーストラリア選手。レース後の会場や選手村のホテルで顔を合わせると、握手とハグで健闘を称えあう。競走というより、共に走ったという感覚。また100キロを走りたいかというと返答に困るが、またあいつらと走りたいという思いは強い。
双子の兄・聡(昭和61年卒)共々39歳の今でこそ、エリートレースである東京国際マラソンや、びわこ毎日マラソンに出場できるまでになったが、自分にとってフルマラソンは、テレビや平和台で福岡国際マラソンを観るものであり、高校まで陸上部で長距離をやっていたとはいえ、現実的に走る距離とは考えられなかった。
大学を卒業する頃に、研究室の先輩に誘われ卒業直前の3月に初フルとして丹波篠山マラソンに出場した。就職して数年はジョギングすらしなくなっていたが、兄の誘いで年に1、2回フルのレースだけ、直前にちょこっと練習し出場するというファンランが10年ほど続いた。
転機は、5年ほど前に福岡で4年に1度正月に開かれる修猷の学年同窓会。そこで、「老けたね」と言われた。仕事の忙しさにかまけ、高校時から15キロ太り、たるんだ脇腹も何とかしたいと思っていた矢先に痛いところを突かれた。東京に戻るなり、会社までの行き帰りに片道14キロ(往復28キロ)を走ることを決意。その後、2度の引越しで会社までは近くになったが、出勤&帰宅ランを台風の日でも休むことなく継続することにより走力も上がり、徐々に競技者的生活へと変わっていった。
一方、兄は大学でも陸上を続け、卒業まもなく東京国際マラソンへの出場も果たしていた。当時は一緒のレースに参加すると1時間ほど待たせてしまう状況で、自分も出場資格を得たいなど夢想だにしなかった。
そんな中、石原都知事の提唱の下、東京国際マラソンが大規模な市民レースとなるため、2006年2月で現行のエリートレースとしては最後になることが決まる。走れないで終わると一生ひきずるかもしれない。05年の別府大分マラソンで30秒及ばず、何としても参加標準タイム(2時間30分)を切らねばと1ケ月半後の3月に臨んだ荒川マラソン。途中自分の時計が壊れタイムが分からなくなると、近くを走っていた兄が自分のレースを諦めペースメーカーを引き受けてくれた。1キロ毎にラップを伝えてくれ、ギリギリで参加資格をクリアした。
06年夏から、ホノルルマラソンを目指すランニングクラブのコーチを、宇佐美彰朗さん(マラソンで五輪に3回出場)からの依頼で行っている。走ることには楽しませてもらい、それを通じて仲間もいっぱいでき、ちょうど走ることに恩返ししたいという思いが強くなっていた。説得力をつけるためにも、まず自分の体で試せるうちに色々やり、結果も出し続けねばと、そんなプレッシャーの中での今回のワールドカップだった。
マラソンは、私の年代でも若手で、生涯スポーツとしても続けられます。そして、練習すると誰でも楽に速く走れるようになり、より楽しくなります。
スポーツも人生と同じで、『観るものではなく、参加するもの』、それを体感できるのがマラソンの何よりの魅力であり、それを多くの人へと伝えてもいきたい。
どんなに自信満々でやっている仕事でも、誰になんていわれようとかまわないと思っていても、認められて嬉しいことがある。
日ごろは雑誌などあちこちで顔も出して、堂々とこの仕事をやっているのだが、いざ修猷館出身者限定の会報誌へ初寄稿となると身構える。
「修猷から早稲田を出て、なにゆえ占い師なのか。なんと愚かな」と。そんな声が飲み会の席で聞こえてくるなら、喜んで酒の肴になって差し上げる。しかしこの場は誰が読んでいるかわからない。いや違う、あの我が母校出身の人ばかりが読んでいるということがわかっている恐ろしい席だ。
前段の声の主にはわるいがそもそも、再入学までして都合六年いた大学の単位の三分の二は、東西の占いの思想・歴史・文化を知るために費やさせてもらった。奥の深さと実証の困難さでいけば、占い・錬金術の世界のそれは科学などという「若造」の比ではない。解けないパズルの深遠なる楽しみが、まず最初に私を魅了した。
そしてプロになってまもないある日、あらゆる職業から見放されて流れ着いた初老のご婦人に対して、この仕事ならではのかたちでいくばくか役に立てたことがあった。心理職でもない、ただの人生相談でもない、不思議な力をつかう者でもない、博学の導師でもない、そのすべてでありうる仕事がこれだと知ったとき、一生の仕事にしようと思った。特に、精神・心理分析の研究と無尽に広がる知識欲が、趣味で終わらない可能性。それが、目的を見失いかけていた私自身に生きる理由を与えた。
正直いうと、かつて、確かに世間に「はばかり」はあった。人を騙しても平気な者、勉強もしないでいい加減な仕事をする者、自分の収入とコストのことしか考えない者、自分には超越的な力があるから他の者は下等だと思い込んでいる者……どの職業にも少なからずいるようだが、私の業界ではそういう者がやたら目立ち、反対に、マジメに「いい仕事」をしている人が目立たない。自分は最初からマジメであったが、いい仕事をしていたかどうかはは、直に占った人にしかわからない。「親戚から占い師が出たなんていったら迷惑だろう」などと思って、プロデビューのときから本名を名乗らなかった。
両親にもしばらく秘密にしていた。占い師をやっていることをこっそり話した母にも、仕事場では「息子は雑誌や新聞に文章を書いております」といわせておいた。いつだったかついに占い師であることを白状したら、父は確か、うんともすんともいわなかったと思う。
しかしある時、帰省した折に、実家で父の知人がいろいろと悩みを抱えて精神的にも弱っていると聞いた。驚いたことに、父の口から「占いをしてやってくれんか」という言葉が出た。
占いを通して、1時間近く話したろうか。広いリビングの片隅で、そのやりとりを父は静かに聞いていた。終わって父の知人が帰っていったあと、片付けている私に向かって彼は……父はひと言、語った。「お前は、いい仕事をしとるな」と。
『コミュニケーション・ディレクター』、この聞いたこともない言葉が私の肩書き。新卒で当時花形の広告代理店に入社したが、何をやっても手柄は会社というのに合点がいかず、更に上司がストーカーという悲劇も重なり6年で退社。以降フリーとして働いている。主な仕事はマスコミにおいて、似て非なる広告とPRを操る対外広報のコンサルティング。PRは奥が深く間口も広い。
20代はクライアントの「これも出来る?」の一言が嬉しくて、付け焼刃ながらも我武者羅にスキルを身につける毎日を送った。文献を漁り、取材を重ねて得た「知識」に、流行の先の先を行こうと寝食削って全国各地を飛び回り、見聞を広め、あらゆる出会いを享受しながら「体感した勘所」をプラスして、涼しい顔して期待に応えたものだ。この一連の営みが私の糧となり、生活そのものになっていった。
20代後半には美大に社会人入学、10歳近く下の妹達と絵の具まみれの日々もあった。
「興味のベクトルに従い、好きなことはサボらない」という、やり方が仕事の幅を広げ始めた30代。PRの一環で企画や開発アドバイスやイベントディレクション、タレントコーディネート、司会はもちろん雑誌やウェブサイトの編集・取材、ネーミング、コピー、イラストに加え、タレント本のプロデュースやキャスティングもする。節操がない様に見えるが、私の仕事の肝(きも)は“人と人の心を繋げる”こと。届けたい人の気持ち、言葉、情報を届く人の琴線に触れる様に演出し、日々の暮らしで感じた問題意識にアンテナを張る事が生業であり生活なのである。
肝の外郭には幼児番組「おかあさんといっしょ」のアシスタント・ディレクターという大学時代から今日まで続けている(OL時代は除く)仕事がある。優しい歌と子供の笑い声が響く夢の空間=スタジオに身を置き、損得勘定のない3歳児の笑顔を目の当たりにする。本業とは違う環境で気持ちの余裕を培い、幸福の源を見極めているのかもしれない。
“好きを仕事に”というフレーズが人気の昨今、好きは無理に探すものではなく、偶然に出くわすものだと思う。本来、仕事は生活のためという側面が強く、責任感や使命感を伴う。だから私は「やるからには楽しく」という感覚を重要視する。その感覚は間違いなく幸せを予感させ、私なりの機智と知恵で可能性や面白さを見出し、好きへと昇華させる。目の前の仕事を有意義に進めようと努力すれば、楽しさも雪だるま式に増し、効率もスキルもアップする。不安要素もない訳ではないが、「自由に楽しく!」これが個人で仕事をする醍醐味!このやり方で10年以上やってこれた私は人に恵まれている。感謝の念に耐えない。
酸いも甘いも何でも来い!の私は、昨年ついに年貢を納め結婚。今年、紀子様宜しく高齢出産(取り上げたのは修猷の同級生!!)に挑み、重陽の節句に長女を出産。全身全霊で泣き訴える娘に何かと教わる毎日である。
ライフスタイルと職業観が重なった私のような歩み方もある。
私は、平成15年1月から18年4月はじめまで、外務省沖縄事務所で勤務していました。平成17年2月のある晩、私は、福岡県人会の小さな集まりの末席に座っていました。参加者は、竹内貞夫・会長(当時)、知念徹宇・顧問、糸嶺叡・顧問、照屋林英・副会長、笹尾修司・副会長、宮本雄二・沖縄担当大使(現中国大使)。
その集まりの趣旨は福岡県人である宮本大使の歓迎でしたが、参加者の中には、修猷館卒業生が5人も含まれていました。知念会長(昭和33年卒)、照屋弁護士(同34年卒)、竹内社長(同39年卒)、宮本大使(同40年卒)と私(同55年卒)です。
修猷生の結びつきの深さを話題に席は盛り上がりました。知念、照屋先輩よりは、「九州・沖縄地区で同窓会がないのは、沖縄だけだ。何度も設立の話が出たが、関係者の転勤で立ち消えになってきた。幸い、宮本大使も赴任されたことでもあり、この機会に是非立ち上げよう」とのお話がありました。当然、一同異議なし。私も、「何かあればお手伝いさせていただきます」と、調子を合わせました。すると竹内先輩から、「堤君、お手伝いではない、君が全部やるんだ」と厳しい一喝。私は一瞬血が引くのを感じましたが、先輩方の視線がこちらに集中している中、逃げ場はないと観念し、「はい、分かりました」とできるだけ元気よく返事をしました。かくして、沖縄における修猷館同窓会の年内設立が決まりました。
「はい」と返事をしたものの、自分ひとりで同窓会設立という大事をできるわけはありません。私は、山崎秀雄君(琉球大学理学部教授、昭和55年卒)、小池尚子さん(歯科医師、同60年卒)、と荒川浩成君(アジアプランニング沖縄支店グループリーダー、平成2年卒)に声をかけ、準備事務局を立ち上げました。そして、平成17年11月17日、波多野同窓会長、古田館長をお迎えし、22名の会員による沖縄修猷会が設立されました。平成18年5月30日、修猷館同窓会総会へ知念徹宇会長が出席し、沖縄修猷会の設立を報告いたしました。
沖縄修猷会には、特徴が二つあります。一つは、知念会長、照屋副会長という沖縄出身の卒業生が中心におられることです。知念会長は、米軍統治下の沖縄から、パスポートを手にして修猷に越境入学したとのことです。もう一つの特徴は、県外在住者でも希望すれば会員となれることです。
その一方で、沖縄修猷会には、「先輩が後輩を可愛がり、後輩が先輩を立てる」、修猷館のDNAがはじめから組み込まれています。先輩方は日ごろから何かと声をかけてくださるのみならず、設立総会の会場選び、式次第、配席、など肝心な事柄には、手配、調整などに、自ら労をとってくださいました。後輩思いの先輩に「お前がやれ」と頼まれれば、後輩は「はい」という以外ありません。沖縄修猷会の設立にかかわったことに対する最大のご褒美は、そのような強い先輩後輩の絆を確認できたことでした。
平成18年4月から、私は転勤のため沖縄を離れ、山崎君が沖縄修猷会の事務局長を引き受けてくれることとなりました。これも「お前がやれ」、「はい」で決まったのでした。今後とも、沖縄修猷会の発展を県外会員として応援したいと思います。現在、会員は県内22名、県外7名です(平成18年11月現在)。また、同年11月24日に第2回沖縄修猷会総会&懇親会が開催され、私も参加いたしました。
昭和55年に修猷館を卒業後、産業医大という産業医(検診や職場巡視・環境改善を図る医師)養成学校に入学したにも関わらず、卒後は血液内科の臨床医を志していた。そしてここ数年は住み慣れた九州の地を離れ、都内のど真ん中の病院で勤務し、相変わらず血液内科医を続けている。東京に来た理由は、単に前病院の院長と喧嘩しただけなのだが、実は中央から日本の移植医療を変えられればと思ったからだ(苦笑)。
みなさんは血液内科医というと、どんなイメージだろうか? 僕がもっぱら関わってきたのは、「血液のがん」である白血病や悪性リンパ腫といった病気の患者さんである。「血液のがん」の主な治療手段は、薬物(抗がん剤)療法と、移植療法(造血組織、主として骨髄を大量の抗がん剤や放射線で破壊した後、患者自身や他人の健康な血液細胞をつくる細胞を輸注する治療法)である。白血病やリンパ腫は、抗がん剤がある程度有効で、抗がん剤だけで治っていく場合もある。しかし、治りきらずに再発したり、抗がん剤治療を数回行っても効かなかったり、そのままではやがて死を迎える患者さんも後を絶たない。
移植療法は50年以上の歴史がある治療法だ。最近までは50歳以下の患者さんにHLAという白血球の血液型が一致するドナーがいたときだけが骨髄移植の適応だった。だが近年、プロトタイプ以外の移植法が急激に増えている。骨髄の代わりに末梢血幹細胞や臍帯血(へその緒の血液です)を用いたり、高齢者にもやさしい移植前処置が開発されたり、HLAが合わなくても移植できる方法等々…。「HLA一致ドナーがいないのでそちらで移植してください!?」。どの移植をすれば患者さんは助かるか、あるいは患者さんを殺してしまうかと血液内科医の悩みは尽きない。
僕ら以上に悩んでいるのが、患者さん当人や患者家族である。インターネット、患者会、他院の医師の意見(セカンドオピニオン)とさまざまな情報のるつぼに巻き込まれる。だが悲しいかな、万人に通じる最良の移植法はない。移植医療は医療の中でも「ヒトとヒトの反応」という最も不確実な反応に基づいているからだ。移植の適応自体、今後も変わっていくだろうし、個々の患者の人生観次第という面もある。
現在の日本における移植医療にはさまざまな問題がある。保険医療で認められていない薬剤が数多くあり、自費診療では高価な薬剤はまかなえない。明らかな地域格差がある。医師だけでなく、看護師、薬剤師などの疲弊感もつよい。僕自身、地方から云々言ってもどうにもならぬと40歳過ぎて上京したものの、現在、何を変えられているわけでもない。
血液内科医の僕にできること、それは医師としてというよりは、人として少しでも数多くの患者と向き合っていこうとすることだろう。実際は時間に追われ、強烈な患者さんのキャラクターに辟易し、なかなかできそうにもないが。
写真や診療内容については、病院ホームページ:http://www.toranomon.gr.jp/をご覧ください。
修猷館の基本精神である文武両道を実践しようと思った私は高校3年間を陸上部という武に徹した後、やっと文を修めようと修猷学館で1年間お世話になった。卒業した後、出身校を聞かれる度に、修猷館は創立180年(当時)で、日本唯一の四年制高校であり、修猷を3年で卒業したと言っている奴は「もぐり」であるとうそぶいていた。
卒業して38年になるが、帰国して会う友人は東京でも福岡でも何故か修猷時代の方がより多いのはこの独特な校風のなかで多感な高校生活を共に過ごし、お互い共感できる思い出が一杯あるからだろう。人生の後半に入ったこの頃、自分の中の「未知の世界各地で何かをやってみたい」という性質は修猷のあの自由な校風の中でずっと培われてきたように思う。
大学で土木を学び、その当時見た石原裕次郎の「黒部の太陽」に感動し、建設会社に入社したことも懐かしい。入社後、設計部での仕事に物足りなさを感じていた頃シンガポールの橋梁プロジェクトの話があり、手を上げて一員に加わったのが海外工事経験の第一歩となった。
海外工事の魅力は地元の人達と直に接しながら工程を進めることにある。また、日本では電話1本で済むことも、一から自分でやらなければならないことも…。例えば、コンクリート構造物を作る場合、日本の現場ではいつでもどこでも所定の品質の生コンが入手できるが、東南アジアのジャングルの中に「生コン会社」は当然…ない。山を歩いて採石場を開き、川を歩いて砂取場を作るところから始めなければならない。(これだけは大学時代にワンダーフォーゲル部に居たことが幸いした)コンクリートの配合も試行錯誤でなかなか思うようなコンクリートが出来ず、大学時代の講義をもうちょっとまじめに聞いておけば良かったと少し反省したこともある。
それだけにプロジェクトが完成した際には日本の時とはまた一味違った感動がある。マレーシアとタイの国境沿いに建設した80キロのEast・West Highway工事では雨季になると氾濫を繰り返すケランタン川に橋を建設した。
工事中は対岸の住民が総出で見学に来ていて、やっと最後の橋桁を架設し終わった時は皆で揃って拍手してくれた。このときは本当に胸にじーんと来るものがあった。地元の人達が待ち望んでいた橋を建設し、心から喜んでくれる姿を見ることができるのは実に技術屋冥利に尽きる。
ゼネコン時代に約11年、シンガポールのベンジャミンシアーズ橋を始めにマレーシアのKL〜セレンバン高速道路料金所、トレンガヌの天然ガス精製工場及び輸出基地建設工事、East・West Highway建設工事の4つのプロジェクトを経験した。その後、本社勤務となったが海外とはなかなか縁が切れず、出張ベースで海外の現場をサポートしたり、ドイツ・ミュンヘンに1年余り企業留学して、地域の建設実情を学んだ。
50才を迎え、子供達もそれぞれ独立したその頃、今の会社でそのまま過ごすか?他に何かやり残したことはないか?と少し考えてみた。
そして今まではゼネコンに籍を置いてプロジェクトの「建設」をする仕事をやってきたが、もっと上流へ行きプロジェクトを「作る」ことからやってみたいと思うようになった。
幸いにも熱心に誘ってくれる人がいて52歳のとき決心してコンサルタントへ移籍、ODAの仕事をやることになった。
会社を退社、翌日現在の会社に入社と同時にマニラへ赴任した。そして、メトロマニラの高架鉄道工事で1000億円の日本のODAプロジェクトを途中から担当することになった。この工事は2004年10月に全線開通させた。
在任中には大型プロジェクトに付き物の利権に絡んだ政治家および役人のゴタゴタに巻き込まれ国会喚問に呼び出されたり、マスコミにインタビューされたり、ずいぶんいやな経験もしたが大型プロジェクトを完成させたという充実感にはゼネコン時代とはまた違った感慨がある。
その後、JICAの仕事でインドネシアのジャワ島の渋滞緩和事業である6つの高架橋の設計を担当し、現在はフィリピンの中部ルソン島のバイパス工事の設計変更と入札の準備中である。
ということで、今はまだマニラに単身赴任中で、月〜金は仕事、土日はゴルフの「厳しい」生活を送っている。(マニラは排気ガスがすごいため週末郊外のゴルフ場に行き肺に溜まった汚い空気と新鮮な空気を入れ替えている。)
考えてみると、今まで息切れするように「会社人生」を突っ走ってきたような気がするが、これからは奥さんと猫一匹で将来楽しくのんびり過ごすことがささやかな夢となった。最近、「終の棲家」は暖かい湘南で…と、うちの奥さんが「勝手に」決心し、2年後あたりに浦和から住み換えする計画をたてている。
何はともあれ、仕事においては真のODAプロジェクトとは何かを常に念頭におき、ODAを受ける国の立場に立ってプロジェクトを発掘し形成して行けるように努力したいと思っている。
「団塊世代はまだまだ頑張るぞ!」という修猷魂は健在である。
私が現在のバリでインドネシア人の子供や大人を相手に日本語を教えるという仕事を始めて4年が経ちました。それまでは63歳まで石油開発会社の社員としてのインドネシアのジャカルタ勤務を終え、東京(柏)で3年間暮らした後に福岡に戻り生活していました。
そこへ、修猷館の大先輩の真武さん(S9年卒)がバリでいろいろな仕事をしておられたが、老齢のため後継者を捜しておられる。君ならインドネシア語もできるだろうし行ってみないかという話がありました。70歳になって今更新しいことを始めるのはどうかなとも思いましたが、真武さんのお年を伺うと90歳、その半分働くとしてもあと10年は働けるだろうと思い、また永年お世話になったインドネシアに何かの形で恩返しができないだろうかと考えていたところだったので即座にバリ行きを決心しましました。
早速、真武さんにお会いしてこれから何をなさりたいかをお聞きすると、“インドネシアの子供たちの将来のために役に立つことならなんでもよか。”と雲をつかむような話。その中で真武さんの教え子が、真武さんのために建てた“Mataken Gakko”とよばれる建物があり、その家の補修費を得るために他人に貸し出していることがわかりました。
そこで、この家でなにかできないかいろいろ考えた末、図書館にして、あまり読書の習慣を持っていない子供たちに本を読む習慣をつけさせようと思いました。雨漏りなどの、補修工事や、トイレの新設、照明設備 書棚 机 椅子等最小限の設備をしました。
これらの工事等にに1年半かかってしまい、やっと2004年3月に図書館を開館しました。近所の小学校にビラを配っただけで、PRも特別にしなかったので20人もきてくれるかなと思って、20人分の席を用意していたのだが、子供60人、大人10人が押しかけてきて座る場所もなくなる有様でした。そして来た人の全部が本を読むことよりも日本語を習うことを目的に来ている事がわかり、急遽方針を変更し日本語を教えることにしました。授業料は、収入が少ない現地の人にとっては結構大きな負担になりますし、恩返しの主旨からも無料にしました。
このようにして発足した日本語学校ですが、習い事は入るに易いが、永続させるのは容易ではなく、登録人数は600人を超えましたが、毎日の出席者は30人程度で、永続的に来ている人も50人程です。
今、気になっていることは、私に代わって教えられる人がいないことです。私が帰国している間は臨時休校にしていますが、これを何とか常時開校にしたいと思っています。また、私がバリへ行けない事情が起これば即閉校となり、通ってきていた人達が中途半端のままに終わってしまうことだけは何としても避けなければなりません。そして、今来ている人のうちから何人かは、留学生として日本へ送り込みたいと思ってます。
渡米してから早15年の時が経った。誰もが自分の住むところを選ぶわけではないが、私の場合、日本の外へ出るという選択ははっきりとしていた。大学を卒業し出版社に勤めていた私は、美術館の展示企画を行う専門職について海外で学んでみたくなった。当時80年代後半は日本経済の最盛期。普通の人が世界中の文化・芸術を享受できつつあった。私も仕事がオフになると舞台や美術館を巡り、芸術を楽しむ側にいたのだが、ある日こうした体験を裏から支える人になりたいと思ったのである。ニューヨーク大学大学院ミュージアム・スタディーズの合格通知をもらい、勤務先には休職の手続きをとり、1年後には職場に戻るという条件を承諾してもらった。資金も学費と生活費を合わせて1年分だった。
その1年という約束を簡単に裏切ることができたのは、ニューヨークの生活が刺激に満ち、そんなにすぐ帰国する気持ちになれなかったからだろう。アメリカでは卒業後、外国人が1年間は訓練として仕事に就くことが認められている。私は運良くブルックリン美術館の学芸部で働く話をもらい、会社には辞職を告げた。夜、大学の寮から人事部に電話を入れ3分で人生の新しい局面が決まったときには、こんなに簡単でよかったのだろうかと思いつつも、それ以上の後悔はまったくなかった。後から振り返れば「清水の舞台から飛び降りる」という表現が当てはまるのは、まさにこの時と、今のビジネスを始めたときかもしれない。
起業精神、つまり自分でビジネスを立ち上げるという気持ちは元々なかった。美術館での仕事が数年続くと官僚的体質の美術館での限界を感じ始めた。やがて同僚と二人で展覧会を自主企画しないかという話になり、週末に彼女の自宅空間で展覧会を開くという実験が始まった。招待状やプレスリリース、価格表なども作り、素人ながらも自分達でやれるという自信をつけた。その同僚がNYを去り、一人でなにもかも引き継いだとき、今の画廊の名前(M.Y. Art Prospects)で自分のビジネスを立ち上げた。美術館の仕事も辞め、翻訳や美術雑誌への寄稿、諸々の仕事に携わりながら、最終的に画廊という形態にいたったのは半ば成り行きで、失敗したらやめてよいぐらいの気持ちからだった。
画廊は現在、NY市内マンハッタンの300余の画廊が集中するチェルシー地区の一角にある。アメリカ国内および海外の新進作家の発掘・支援を行い、年に6、7回企画展を開くほか、取り扱い作家のアートマネジメントも行っている。昨年5月で8年目に入ったが、まだ試行錯誤の途中である。ただ最近少しだが精神的なゆとりもでき、人生で何よりも大切なことはクオリティ・オブ・ライフだと信じている。夢が実現できたとは思わないが、やりたいことをやっているという満足感は毎日感じているし、人生のパートナーと巡り合い、助け合いながら暮らしていけている。2001年9月11日のテロ事件の際には仕事の面でも大きな打撃を受けた。だが逆にそれがきっかけで、アメリカ社会の一員であることを自覚するようになった。そろそろ帰化することも考えている。だが今度は勢いにまかせるのではなく、ゆっくりと時間をかけた選択になると思っている。
2年前の8月に開店して、すでに修猷館卒業生の「部室」状態。すなわち、一人でふらりと立ち寄っても、そこには誰かしらの修猷館卒業生が飲んでいる、という状態である。
ただし、店のロケーションはわかりにくい。渋谷駅南口横の歩道橋をわたり、246に沿ったJTBビルとエクセルシオールカフェの隣の小さな古いビルだし、その3階に行く階段が狭くて細いから、本当にここかと疑いたくなる。また「BAR」であるからして、店は狭く、カウンター10席あまりと二人がけテーブルが3つだけ。基本的に食事はなく、チーズ、ナッツといった軽いスナック程度。
それでもそこそこに繁盛しているのはそれなりの理由がある。
下戸の筆者にはよくわからぬが、スコッチ、バーボンを中心に洋酒の品揃えは豊富である。カウンターの全面がいろんなボトルだらけ。多少ながら、珍しい日本酒や焼酎もあるので、洋酒が進まぬ人にも安心である。また特筆すべきは、店の奥の大きな窓を覆う大きな桜の幹と枝。4月の夜桜見物はここが特等席である。おっと忘れてはならないのが、昭和53年修猷館卒の経営者、徳本りえさん。ベネッセ勤務時代に同僚だった男性パートナーとこの店を開店した。
彼女の飾らぬ気さくな性格が、次々と修猷館卒業生の来店連鎖を呼んでいる。ぜひ一人でもふらりとご来店あれ。安心価格で気楽な会話が楽しめます。(安東)
所在地: | 東京都渋谷区桜丘町2—8 志水ビル3F |
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電 話: | 03—3780—2488 |
営 業: | 18時—24時 金曜日は5時迄、日曜祝日は休み |
昨年6月、東京修猷会の役員が改選され、昭和44年卒の甲畑眞知子氏が幹事長に就任した。女性では初となる甲畑新幹事長は、「これまで出にくかった女性やシニアの方々も積極的に出られるような会も企画したい」と、今後の東京修猷会の運営についての思いを語った。また、5年間幹事長を務め、バトンを託した渡辺俊介監査役も新幹事長にエールを送った。
—幹事長に就任しての感想は?うまくいった点や予想と違った点などは?
甲畑 「感想を述べるにはまだ期間が短かすぎますが、幹事長として最初に、副幹事長の皆さんそれぞれがどんな役割を担って実際の運営がなされているか確認するための執行部の会議を持ちました。副幹事長の皆さんの会への思いと経験とチームワークで素晴らしい運営がなされており、さすがだなと思いました。おかげで、今まで、運営上困った点はなく、前幹事長時代からの遺産をいただいて、皆さんに支えられて新米幹事長としてはラッキーな滑り出しができたかなと感謝です」
—まず、やりたいことは?
甲畑 「縦の年代層で修猷のよさをいい形で継承していく楽しい場を提供できるよう工夫していきたいですね。私自身、二木会やゴルフで素晴らしい大先輩とお話をする機会が持て多くのことを教わり楽しい思いをさせていただきましたから。総会、二木会と2年連続で担当する幹事学年の関わりはその意味では大きく、そのコアの部分を大事に踏まえながら、今課題となってる30歳前後から40歳過ぎまでの方々の参加の掘り起こし、また大先輩方にも二木会等に来ていただいて、若者との交流の場ができるようしたいです。そのためには、二木会のテーマ、その他の企画など運営の仕方を工夫しなければいけませんね。徐々にですが」
—具体的には?
甲畑 「二木会に関していえば、今年度の二木会幹事の提案ですが、(修猷館の)OB、OGだけではなく外部の講師を招聘することで新たな魅力をと、年に1回、ゲストを招くことにいたしました。また、1年間共通のテーマの下進めるということで、“ニッポンのいま”をテーマに選び、今回(1月)は『ニッポンの文化』という切り口で、アメリカ人の尺八奏者、クリストファー遙盟さんにお願いしております。日本の古典文化を海外に紹介する国際文化会館の芸術プログラム・アドバイザーでもあり、外国人から見た日本の文化を語っていただき、年始でもあり、春を寿ぐにふさわしく尺八の演奏も披露していただく予定です」
—若い年代は女性がふえているわりには、子育てなどあり、同窓会には参加しにくくなっている。そういう方に対して何か目配りは?
甲畑 「在任中に何とかスタートできればいいと思っていることがあります。女性には仕事・子育てと頑張ってる方々が多く、二木会には出づらい人が増えているようです。夜は出にくいという大先輩方からの声も聞きます。こういう方々に二木会とは違った何かを、土曜の午後あたりで年に何回か企画できたらと思ってるのですが」
—新しい魅力になりそう。
甲畑 「これは幹事長就任にあたり、いろんなお話をしてくださった大先輩方からいただいた提案でもありました。私の考えでは、実行委員会という形態で、希望者を募って運営していくのも一つの方法かと思うのですが。継続できる運営方法を、仕組みとしてできるよういろんな方のご意見を聞いて作りたいと思います」
—プランの実現の見通しは?
甲畑 「二木会の幹事学年にあらたな企画・運営をお願いするのはきつい。日ごろ忙しい男性が関わるのも難しいので、興味のある女性の方が中心になってくれると実現も遠くはないと思います。特に女性からは『二木会は夜だし、政治や経済はもういい』という声も多く聞きます。もう少し文化や芸術等にもウエートを置きながら、企画を考えたいですね。1回で終わるのではなく、2回3回と続けられなければ意味がないので、実行委員会をどう編成するのか解決できれば、次年度からでもやりたいと思います」
◆甲畑眞知子(こうはた・まちこ)
1950年5月24日生まれ。付属中出身。高校時代は陸上部で短距離、当初紅一点で鍛えられる。津田塾大学国際関係学科卒業後、日本航空へ。地上職を2年務め、結婚退社。外国語学校の講師、外資系企業勤務を経て、現在(財)津田塾会常任理事。一人娘には「反面教師」を宣言し、仕事に関わり続ける。モットーは「信なくばたたず。自分の信じることはきっちり、まっすぐやっていく。物事には前向きにチャレンジ。生きてる限り世の中の役に立っていたい」。最近興味があることは心静かに向かう「書」。
渡辺前幹事長は、甲畑幹事長について「スタートしてまだ日が浅いが、順調な船出だと思う」と合格点を出した。
初の女性幹事長が誕生するいきさつについて「何がなんでも女性でというわけではなかったが、21世紀に入って現役高生は男女半々になり、東京修猷会も若い世代が増えてきた。優秀な人材がいればと当然なって欲しかった」という。事前に先輩方に打診をしたが「(女性ということに)抵抗はなく、ある意味拍子抜けした。戦前や昭和20年代卒の大先輩も非常に理解してくれた。先輩方も日ごろから甲畑さんを知っていることもあるが、修猷会というのは、やはりもののわかった先輩方が多い」とOBの柔軟さに内心驚いたという。
東京修猷会について「他の高校に無い、いい意味で独特の特徴のある組織。創立220年の古い歴史を尊重しているし、『修猷館』という名前だけで集まることができる。会員も首都圏に推定6000人いると考えられ、歴史も長いし、大先輩も若い人も、男性も女性もいろんな職業の人もいるわけで、そういう人が『修猷の同窓生でよかった』と思えるようにするのが目指すところ」という。さらに「執行部はそれをさらに発展させていくのが仕事。古いものを大切にしながら新しいものを入れていく。新しいものに挑戦しながら、いろんなところに目配りし、みんなが運営しやすいようにし、みんなが『また来たいな』と思ってくれるようにするのが目指すところであり、幹事長の役目」と幹事長の心得を説いた。
「甲畑さんはこれまでも、十分にやってこられたのでアドバイスというほどのものはない。幹事長職は少なくとも4、5年はやるのが普通。これからもみんなで温かく応援しながら見守りたい」とエールを送った。
我々が高校に進学した昭和24年、修猷館は男女共学となった。開校から百六十五年目の大変革である。学校当局の当惑は著しかったろうが、とつぜん異性と同席させられた生徒の困惑もかなりのものだった。教室の中が何かまぶしい。昨日までの悪ガキが急に分別臭く振舞う。ほかの生徒も学業以外に屈託するものができ、やがてそれを青春と知る。そういった“幼児体験”は、わが学年の同窓会に、共学を知らない上級生とも、終始共学の中で育った下級生とも違った特色を、残していはしないだろうか。
同期全体の同窓会が始まったのは昭和45年だった。卒業して十八年、今や働き盛りである。子供もまだ小さかった。然し公私ともに多事であり多忙であったからこそ、息継ぎの場を求めて皆は参集したのだろうと今は思う。とにかくそれから、同期男女の会合が、火がついたように盛んになった。そして同窓会はすぐに“旧友再会”の役割を終え、新たな交友を幾組も生み出していた。
昭和53年、東京修猷会の幹事学年がまわってきた。混成コーラスの再現や、女子たちの奔走による予想外の寄付金獲得などは、わが学年の特色を生かし得た成果だったと思う。
それから二十八年、男女を問わず友は老い、いつしか同窓会は高歌放吟の酒席ではなくなった。夜の会を昼にしてはとの議も起こり、今は試行的に昼と夜の年二回開いているが、大勢は昼に流れつつある。
悲しいことだが、年々名簿から友の名が消えていく。俺たちは栄養が足りなかったからなあと嘆くけれど、会に出てくる者はまだ元気で、応援歌の歌声は朗々と響き、議論が起これば修猷らしい書生気質を丸出しにして、男女ともはた迷惑な大声を出す。
さて今年は卒業五十五周年。六月、福岡で開く記念同窓会に東京からも多数出掛けていくが、共学一期生らしい会に仕上がるかどうか、それが今から楽しみである。
私達三十七年卒の集まりは三七会といい、「みんなの会」という意味も含んでいます。定期的な集まりは年一回が基本ですが、誰かが帰国すると集まり、誰かが昇進すると集合するという具合です。年一回の会は、宴会に先立ち仲間の一人が自分の専門分野の講義を一時間ばかり致します。各分野で活躍しオーソリティである同窓生が社会に貢献している姿を報告して貰うと、皆にとって参考になり、明日よりの励みともなります。有意義な時間です。
しかしながら講義の後には一変し、終身名誉会長である小野寺君の乾杯の音頭で宴会が始まると同時に、修猷館時代の生徒に早変わりします。その後用意された二次会までは必ず付き合うのが会の規則で、講義から延々五時間は覚悟せねばなりません。中には一晩では飲み足りないという猛者もいる始末です。このため一昨年は小田急電鉄社長の大須賀君の肝煎りで小田急高速バスのサロンカーを借り切り、箱根への一泊旅行をいたしました。この時はさすが勉学派の面々も講義のことはすっかり忘れ、往きのバスの中からすっかり宴会状態。酒豪の多い「みんなで飲む会」でもあります。
今年63歳になり、世間的には年金、健康、孫などに話題が傾きがちと思われますが、三七会ではあまり話題になりません。やはり前向きの精神が修猷館時代に身に付いたのかもしれないと話しています。
三七会の今後としては、今まで培ってきた知識、知人、業績等を活用し、お世話になったところや人たちへ何らかの形で社会貢献できればと思っています。
3月4日、米ロサンゼルス郊外ガーディナ市にある「ちゃんこ茶屋新撰組」にてLA修猷会親睦晩餐会を開催。前年12月から1月にかけ4名の新メンバーが加わり、新年会を兼ね開催。14名が参加。 博多風水炊きと博多風やきとりを囲んで団欒。本場福岡の味にはかなわないが、鶏がらを一日煮込んだだしに、鶏つくね、鶏のぶつきり、キャベツ、ちゃんぽん玉の水炊きと鶏以外にも豚肉ありなんでもありの博多風やきとりを賞味した。
20歳から70歳までの卒業生が各自自己紹介。それぞれ修猷館高の思い出を語り、記念撮影を行い、最後に外で館歌斉唱し、団結を誓った。修猷の偉大さ層の厚さを改めて認識した夕べでした。
▽参加卒業生 田中憲明(S28)、永川文一(S36)、桑本英彦(S37)、桑本公子(S37)、宗伸之(S39)、山田哲義(S49)、ウッド(西山)薫(S49)、ソレンバーガー(池田)紀子(S63)、松汐利悟(H3)、伊藤輝之(H15)、山本千恵美(H16)、樫山(宮原)ゆかり(S57)
不祥事が相次ぐ中で、企業の社会的責任(CSR)への関心はますます高まっている。CSRはリスクマネジメントや今後企業の生き残りのためのカギとなる考え方だが、本書は、こうしたCSRに関する取り組みの体制のつくり方を扱っている。
ベースにしたのは、CSR分野で有名な麗澤大学の教授が中心になって作成した「倫理・法令マネジメントシステム規格ECS2000」である。ECS2000は、基本は法令遵守を中心とした規格でありながら、CSRにも対応できる特徴を備えているからである。
規格といわれても、なじみのない方が多いだろう。ISO(国際標準化機構)では、写真フィルムの感度やネジの形状など、さまざまな技術分野で標準化のための規格をつくっているが、品質、環境問題、情報セキュリティなどの分野の管理の仕組みについての規格も作成している。世界各国のなかで日本が断トツの認証件数(約2万)がある環境分野のISO 14001など、多くの規格については認証機関が審査を行って、合格したところに登録証を発行する認証サービスを提供している。CSRに関しても、社会的責任に関するガイドライン規格ISO 26000の作成作業が始まっているが、いろいろな認証制度が乱立(?)することにたいして、日本の産業界をふくめ、世界では反発が強いようで、CSRについては、認証サービスが使えない規格にすることで、世界各国代表が合意している。
このISO26000は、従来にない多様な関係者による議論を経たうえで、社会的責任に取り組むために必要であると国際的に認知される内容が組み込まれるわけであり、その内容には、注目する向きも多い。
またISO 14001など規格は、認証の手間がかかるわりには、効果があがらない、という不満が多い。実際、「規格とハサミは使いよう」であり、規格を活用して、事業発展に効果をあげている企業もあるのだが、そのノウハウは普及しているとはいえない。
昭和31年卒業の私たちは昨年10月、修猷卒業50年を迎えて記念の同窓会を母校で開き、夜は玉名温泉で祝宴を張った。31会は5年に1度の節目ごとに集まっているが、今回は特大の節目ということで110人余りが参加した。鬼籍に入った40数人の同窓生への黙祷に始まった宴のフィナーレは、みんなで肩を組み館歌と祝いめでたを歌ったが、共に学んだ少年の頃のことが髣髴として胸に熱いものが込み上げて来た。
今年はほとんどの同窓生が古稀を迎える。こちらの方は人生の大節目。「5年に1度では間隔が空きすぎる」といった声もあり、同窓会の頻度は今後高まることになりそうだ。
それにしても不思議といえば不思議なことである。70年近く生きてきた我々にとって修猷館で共に学んだのはわずか3年間に過ぎない。これまでの人生を仮に1ヶ月間に圧縮すればその中の1日分ちょっとだ。でも確かなことは、このわずかな期間、青春を共有した修猷という舞台が強烈な磁力を持ち続けていることである。
私の好きな詩人、長田弘に「記憶のつくり方」という詩集がある。そのあとがきに、こんなことが書いてある。「記憶は過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ」
ここで言う「記憶」を「修猷時代」と置き換えればいい。そうすれば修猷時代は単に過ぎ去った一時期でなく、我々を育んでくれた土壌そのものということになる。そして、その後それぞれが半世紀にわたってその土壌に種を撒き水をやり耕して自分の畑として来た。同窓の間柄はそんな思いがごく自然に共鳴しあうから素晴らしい。多くの言葉は要らない。「元気かね」「どげんしよるとや」で十分なのだ。お互いの人生の留めるべき記憶とアイデンティティーの肝心の部分が直感的に分かり合える関係と言っていい。
東京修猷会の幹事会に出ていつも感心するのは、その熱気である。質問や滔々とした意見開陳が途切れることが無い。だから、いつも時間超過だ。むろん楽しみながらのことではあるが、この館友の熱気を支えているパワーが、修猷生時代を大きな起点に人生の記憶を紡ぎ続けるという意思や営為とどこかで連動しているのではないか、と思えて仕方が無い。
「たかが同窓会」ではなく、「だからこそ同窓会」だと最近つくづく思うようになった。そして半世紀前、修猷で学んだ好運と幸せを多分当時以上にいまの私は感じている。
平成18年4月より第27代修猷館長に就任された中嶋利昭氏に、修猷館の現状や将来についてお伺いしました。
—校舎をはじめ、体育館、プールなど施設が充実してきましたね。
「おかげ様で県内でも有数の施設になりました。現在、敷地の北東側のプールが解体され、遺跡調査が行われています。調査終了後、ここに新講堂が来年の9月に完成すれば、総仕上げということになります。」
—昔の修猷館というと、バンカラ、文武両道、どちらかというと男文化、というイメージでしたが、今はいかがでしょうか。
「私が教諭として平成6年に赴任したときと比較しても、ずいぶんと真面目になったなという印象を受けます。ただ、羽目をはずさない反面、おとなしくなっている部分もあり、『待ちの姿勢』になっている生徒も増えています。学校に送り迎えをする親御さんもいます。また、女生徒が人数としても半数になっており、生徒会三役が女性で占められたこともありました。現在は総務と議長は男生徒になりましたが。」
—修猷館の進むべき道はどうありたい、とお考えでしょうか。
「おとなしくなったとはいえ、修猷館には、自ら考え、自らの信ずるところに従って行動する生徒が多いですから、学校としてはその自主性を壊さぬよう、道をはずさぬよう、見守っていくことが重要な役目だと思っています。」
—進学実績を上げることについてはいかがですか。
「進学実績を上げることが学校としての第一目的ではありませんが、良い進学先を求めて修猷館に来ていただく生徒も多いわけですから、ある程度しっかりした実績を残すことは重要と思います。やるからには、福岡で、九州でNO1を目指しています。また、中高一貫教育制度も前向きに検討したいと思っています。」
—以前は何十年と修猷館に勤める先生がいて、目先にとらわれない教育方針があったと感じていましたが、今は定期的な教師の転勤でそれが出来ないのではないですか。
「確かに一時期はそういう時代がありましたが、今は長期間の勤務も可能です。20年、30年を超える勤務の教師もいますし、平均でも10年を超えています。修猷館出身の教師も多く、熱意は十分です。」
—ところで、生徒たちは同窓会をどのように見ているのでしょうか。
「今は接点が増えました。この数年、毎年行っていただいている進路別研究会、出前授業、つくば東京研修、米国研修など諸先輩の皆さんには大変お世話になっております。このような関わりを持っていただくことで、生徒も親しみが湧き、いい関係が築けると思います。」
—東京修猷会についてはどのように感じられますか。
「関東地区に卒業生が8000人いるとお聞きして、これはすごいことだと思いました。日本の中央に向いている学校なのだとあらためて感じました。そして、毎月の二木会を始め、年1度の総会に500人もの卒業生が集まるという東京修猷会の存在は、学校にとっても、新たに東京に向かう若い卒業生たちにとっても大きいものだと思います。」
第19回どんたく二木会ゴルフは、10月15日(日)に万木城カントリークラブで、藤吉会長、甲畑幹事長をはじめ、女性3名を含む19名の皆さんの参加のもと開催されました。
最近2回のどんたく二木会ゴルフは雨天の中での開催でしたが、今回は久々に天気にも恵まれ参加メンバーの皆さんの元気なプレーが繰り広げられました。折からの強風で実力を十分に発揮できずスコアメイクに苦しむメンバーもいらっしゃったと思いますが、プレー後の懇親会終了までご参加の皆さん全員で大いに盛り上がり、年次を超えた交流を深めることができたと思います。
ダブルペリアで競われた結果、優勝はグロス85で田中昭人さん(S56卒)、準優勝はグロス90で松尾隆広さん(S54卒)、ベスグロは芦原直哉さん(S45卒)、女子ベスグロは後藤多恵子さん(S55卒)が獲得されました。
今回は5組19名とやや少なめの参加者数でしたが、次回は多数の方々のご参加を心よりお待ち致しておりますので、よろしくお願い申し上げます。次回は4月15日(日)の開催予定です。
平成15年に亡くなった書道の荒牧香陽(功)先生の遺作展が12月12日から17日まで、福岡市美術館内の市民ギャラリーで開催された。昭和51年卒の平田道彦さんが遺作展の実行委員長となり、書道教諭として昭和29年6月から同58年3月まで、30年近く教鞭をとられた先生の作品のうち約30点を展示した。
平成17年11月1日から平成18年10月31日までに多数の皆様から寄付金が納入されています。ありがとうございました。お礼の意味を込めてお名前を掲載させていただきます。
また、年会費の納入をまだ済まされてない方は、同封の郵便振替用紙にて早速ご送金くださるようお願い申しあげます。(一口三千円。三千円以上大歓迎。三千円を超えた額は寄付扱いします。)
郵便振替口座 00170-6-172892 東京修猷会事務局
【寄付者一覧】(敬省略。卒年別。順不同)
同窓会本部(福岡)、中嶋利昭(館長)、冨田明徳(昭9)、橋本胖(昭11)、鎌田正行・宮川一二(昭12)、中村浩二・青木武志(昭13)、明石隆次(昭15)、春田真秀(昭16)、安藤雄三・枝光次郎(昭17)、不破敬一郎(昭18)、田尻重彦・毛利昂志・中島睦月・早野俊一(昭19)、尾島成美・ジャニイ岩橋(昭20(5))、桝田弘道・田中庸夫・野上三男・山本敏男(昭20(4))、太田昭・稗田孝道(昭21)、岡崎登・南雲進・有吉繁樹・濱田理・木下洋一(昭22)、柳泰行・伊岐和男・白木彬雄・松岡春樹・大西勇・荒谷俊治・井上洋一(昭23)、山本義治(昭25)、柴田正彦・石田洵一・太田進・廣瀬貞雄・常岡宏・藤吉敏生・小西正利・大平修・中上通敏・中村道生(昭26)、田辺萌・金田久仁彦・榊喜美子・福田純也・和栗眞次郎・飯田英子・難波榮彦(昭27)、児玉黎子(昭28)、中沢郁子・長野倬士・高木道子・村越登・永井充子・長尾淑實(昭29)、久保久・原田雅弘・岩田至道・稲富治・田中栄次郎・塩沢孝憲・坂本幸治・喜多村寿信(昭30)、石橋明・村田和夫・岸川浩一郎・中村保夫・箱島信一・近藤徹・阿部公明(昭31)、島上清明・藤井新三・平野煕幸・内藤武宣・藤本達也・鳥居健太(昭32)、香崎温子・松永貴子・佐竹儀治・城みよ子・伊藤純江・米倉實・寺澤美和子・河野理・武石忠彦・大西正俊(昭33)、苛原真也・加藤泰・行武賢一・川辺猷治・讃井邦夫・大谷南郎(昭34)、今村宏明・松尾俊一・可児晋・田代信吾・中村純男(昭35)、山本博・西村英俊・高村修一・横倉稔明・久保田勇夫・光安哲夫・安藤誠四郎・土井高夫・田中直樹(昭36)、大須賀頼彦・牧文一郎(昭37)、渡辺紀大(昭38)、高橋登世子・久保田康史(昭39)、森秀則・棚町精子・遠山昌利・由良範泰(昭40)、淀川和也(昭41)、吉浦健一(昭42)、広瀬豊(昭43)、横田勝介・坂井真知子(昭44)、渕上一雄・坂口健介・本田由紀子・大野成之(昭45)、内田公至・塚本幸一(昭47)、西村元延(昭48)、古森光一郎・井手富士雄・橋村秀喜・山本周(昭49)、古賀隆太郎・小林みどり・野中哲昌(昭50)、安東泰隆・油田哲・舟橋利周・時枝一徳(昭51)、鐘川誠司・寺岡隆宏・古賀敏文(昭52)、上薗勉(昭53)、伊藤暢裕・松尾隆広・中原誠也(昭54)、谷口和彦・吉田聡(昭55)、田中昭人・岩崎早苗(昭56)、安部哲也・外薗かおり(昭57)、井手慶祐(昭58)、宮本拓海(昭61)
第526回 H18.1月 | 山崎 拓(S30卒) 衆議院議員 『憲法改正と日本の将来』 |
第527回 H18.2月 | 大須賀 賴彦(S37卒) 小田急電鉄株式会社取締役社長 『都市と鉄道』 |
第528回 H18.3月 | 橋田 紘一(S36卒) 九州電力株式会社常務取締役 『九州・福岡の今未来』 |
第529回 H18.4月 | 西嶋 剛(S48卒) 株式会社スクウェア・エニックス 『『9・11』〜ワールド・トレード・センターで見たもの〜』 |
第530回 H18.5月 | 西村 幸夫(S46卒) 東京大学都市工学教授 『東京の景観』 |
第531回 H18.7月 | 伊藤 哲朗(S42卒) 警視総監 『警察人生34年を振り返って』 |
第532回 H18.9月 | 羽田野 節夫(S42卒) 福岡県弁護士会会長 『ニッポンの司法制度〜『法曹界の現状と行動指針』』 |
第533回 H18.10月 | 不破 敬一郎(S18卒) 東京大学名誉教授、国連大学顧問 理学博士 『ニッポンの地球環境問題〜『環境科学の役割と地球の今後』』 |
第534回 H18.11月 | 境 有紀 氏(S55卒) 筑波大学大学院システム情報工学研究科助教授 『ニッポンの地震対策〜『地震災害研究の現状と身近な防災対策』』 |
H18.12月 | 忘年会 |