東京修猷会会報 第18号

2006年(平成18年)1月1日発行
東京修猷会

題字・松尾金蔵書

発行
修猷館同窓会東京支部

事務局
〒185-0034
東京都国分寺市光町2-14-85
(有)パルティール内
FAX 042-573-5060

東京修猷会ホームページアドレス
http://www.shuyu.gr.jp/


目次

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巻頭

「境界―The Border―」 青銅

境界―The Border―

宮崎 光二(S45年卒)作
Koji Miyazaki

福井大学 教育地域科学部
芸術・保健体育コース
美術サブコース 教授

 
  • 1970 修猷館高等学校卒業
  • 1976 東京芸術大学美術学部卒業
  • 1978 同大学院鋳金専攻修了
  •     個展、グループ展等
賞歴
  • 1992 第4回倫雅美術奨励賞
  • 1995 佐藤基金“淡水翁賞”
  • 1998 第1回佐野ルネッサンス鋳金展大賞
コレクション
  • 東京芸術大学美術館
  • 佐野市
  • 福岡県立美術館
  • 国立音楽大学
  • 都立大山高校
  • 佐賀県立名護屋城址博物館
  • 呉羽化学
  • 相模原市立夢の丘小学校
  • その他
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退職の日を修猷館で迎える喜びと寂しさ

修猷館館長古田 智信
古田 智信

 館友の皆さん、明けましておめでとうございます。

  退職まで残り少なくなった私が、いま文章を書こうとすると、どうしても三十八年間の県立高校教員の生活を総括するようなものになってしまう。平成十八年の 年頭を飾る東京修猷会の会報に掲載していただくものとして、決して相応しいものではないと思うが、伏して御寛恕を乞う次第である。

 昭和四十三年四月、私は県立高校の教諭として採用された。それからの三十八年を大きく区切ると、教諭として三つの高校で二十年、福岡県教委事務局指導主事として三つの部署で十年、教頭として三つの高校で四年、校長として三つの高校で四年である。

 四十二歳のときに指導主事になり、授業や担任の仕事から離れた。その後県教委事務局を出入りしたので、教頭・校長として実際に学校経営に当たることができた年月は、わずか八年という短さである。しかも、一年勤務という学校が、六校中四校もある。

  そのことに大きな不満を持っているわけではないが、あまりにも在籍期間が短いために、教頭・校長として務めたどの学校においても、自分らしい足跡を残すこ とができなかったという悔いがある。だから、もし私の退職前の学校が、修猷館高校でなかったとすれば、退職の喜びは、それほどでもなかったであろう。

  幸い、私は大きな喜びのもとに、修猷館高校を退職しようとしている。それだけではなく、公立高等学校長協会の会長という大役を担い、百人を超す県立学校長 のうち、わずか二名しか戴くことができない文部科学大臣教育者表彰という栄誉まで受けて退職することができる。私の栄誉、そして退職の喜びや満足感はすべ て修猷館高校のお陰である。

 私に喜びをもたらすものは、生徒の修猷館に寄せる強い気持ちである。本校生徒会が不定期に発行している「議長団通信」という手書き文字印刷の新聞がある。

その最新号の「議長日記」の一文を引用してみる。

「『修 猷ってすばらしい』と思うことが、ときどき、いやしばしばある。この修猷で過ごせる自分は何と恵まれているのだろうかと思うほどだ。だから、少しでも多く 修猷に関わりたい、修猷のために何かしたい、そう思っている。私はこの学校が大好きなのだ。『愛校心』を皆持っているだろうか?この修猷は私たちにあらゆ ることを学ばせてくれる。私たちが『修猷生』であり得るのは、他でもないこの修猷のお陰である。何も『修猷に忠誠を誓え』などというわけではない。まずは 『愛校心』を持つことから始めてみよう。そして、修猷のためにできること、何でもいいからやってみよう。きっとそれは自分のためにもなるはずだ。」

 このような気持ちを持つ修猷生は、決して一人や二人ではない。本当に多くの修猷生が修猷館を深く愛し、修猷館のために何かをしたいと考えて学校生活を送っている。このような修猷生の気持ちは、館長として、何よりも大きな喜びである。

 修猷館同窓会の方々の修猷館に寄せる気持ちも、現役の生徒に負けないほどに熱いものがある。東京修猷会をはじめすべての同窓生の方々にとって、修猷館はいまなお自己のアイデンティティの大いなる拠り所となっている。

 生徒と同窓生の修猷館に対する熱い気持ちを背に受けて、生徒や同窓生に負けてなるものかという強い気持ちで二年間館長を務めてきた。なお自分自身の心に修猷愛が燃えさかる中、年満ちて退職できる喜びは、筆舌に尽くしがたいものがある。

 しかし、同窓生でない私にとって、退職後の自分と修猷館をつなぐよすがは、前館長という心細いものでしかない。まことに詮ないものとは言え、その寂しさは、生徒にも修猷同窓生の方々にも分かってもらえないような気がする。

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東京修猷会2006年活動スケジュール

(二木会は六、八月を除く毎月第二木曜日六時から食事、七時から講演)

1月会報発行元旦に全会員に送付
 一月十二日二木会 於:学士会館
  山崎拓 昭和二九年卒
2月二月九日二木会 於:学士会館
3月三月九日二木会 於:学士会館
 下旬常任幹事会(決算見通し、総会内容発表 等)
4月四月十三日二木会(新人歓迎会)
於:学士会館
 四月十六日どんたく二木会ゴルフコンペ
5月五月十一日二木会 於:学士会館
6月六月十六日(金)総会「東京修猷力!誘掖と親睦再発見」
於:都市センターホテル
(幹事学年は五五年卒)午後六時より
7月七月十三日二木会 於:学士会館
9月九月十四日二木会 於:学士会館
10月十月十二日二木会 於:学士会館
 下旬常任幹事会(総会報告、来年度総会計画発表 等)
 下旬どんたく二木会ゴルフコンペ
11月十一月九日二木会 於:学士会館
12月十二月十四日忘年会

この他、執行部としては、総会準備のための幹事学年との打ち合わせ、会報編集会議、他支部の同窓会総会への出席など随時行っています。

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東京修猷会2006年度総会のご案内

東京修猷会2006年度総会のご案内「東京修猷力!誘掖と親睦再発見」
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平成十七年総会学年企画

「修猷館 文武両道    栄光の歴史」実録

芝 剛史(S54年卒)

古田智信館長ご挨拶

  明日が修猷館の文化祭です。多くの高校の文化祭がエンターテイメント化する中で、修猷館では文化的香りがする本当の意味での文化祭を保っています。最も優 秀なものに、館長賞を与えることとなっています。この評価は自らの目で行わなくてはなりません。生徒たちの活動を最初から最後まで見届けるため、今日中に 帰福します。このため東京修猷会総会は早めに退席することお許しください。

 3月の地震で福岡県下の高校に多くの被害が生じましたが、被害額の半分は修猷館です。入学式を行う予定でした新体育館が使えない状況となり、柔剣道場にて入学式を行いました。

 女子生徒が増加している昨今ですが、今年の新入生は男子生徒のほうが二十名ほど多いという状況です。人数もさることながら、逞しさも女子が勝る面が見られるようになっています。「私は日本初の女性総理大臣を目指します」という生徒がいるぐらいです。

  修猷館創立二百二十周年記念講演会では、中曽根康弘元総理を修猷館にお招きし、日露戦争以降の戦後史につきお話をいただきました。この記念講演で生徒に与 えた感銘は大きいものがありました。中曽根元総理が修猷館の生徒に話をしたこと、これを尊び、そして良い縁にすること。これが大事なことだということを、 最後に「尊縁瑞縁」という言葉で締めくくっておられました。中曽根元総理の招聘にあたっては東京修猷会の方々、山崎拓様にご尽力を頂き、講演会が実現しま した。厚く御礼を申し上げます。

波多野聖雄同窓会会長ご挨拶

  先の地震では、新体育館の天井が、横十五メートル、幅三メートルで崩落しました。海岸では震度七を記録しています。修猷館は海岸に近いため地震の被害が深 刻だったようです。あのような地震の経験は初めてでした。机の下にもぐり込めないほど揺れました。関東地方の方々は十分にお気をつけいただきたいと思いま す(笑)。

 来年、講堂が完成します。これで日本最高の校舎が出来上がると思います。あとは生徒の質の問題ですが、館長先生以下、現役の先生方にお願いするしかありません(笑)。

無津呂先生のお話

無津呂先生のお話

 修猷館に赴任した頃は、「なんとまあ女子が良くできる学校か」という印象があります。また生徒諸君の歩く早さにも印象があります。精神のありようが反映しているのでしょう。

  昭和五十四年卒の諸君には、あまりに試験の出来が悪いので、国語を教えている各クラス順番に説教して回ったことがありました。ところが三クラス目、黒板に 「試験範囲から一題も出題されなかった試験は生まれて初めてだ」と書かれていて、こちらが青くなったことがありました。説教した生徒達に逆に謝って回りま したが、五十四年卒の連中の寛容さに助けられた思い出があります。

 運動会が盛んなことはご存知の通りです。激しい競技では五十四年 卒緒方君が失神したり、同じく五十四年卒山崎君が大腿骨を骨折したりと、思い込むと死ぬ気でやる。良くも悪くも修猷館の気質です。ですから卒業後は誰もが 大きく成長します。是非、日本をリードしていく人物に育って欲しいと思っています。

白川先生のお話

  山崎君が運動会の練習で骨折したのは、運動会で使う神輿を十何人かで担いでいた時に誰か一人が足が突っかかった。みんながパッと退いたのですが、ブロック 長だった彼は最後まで担いでいた。それで一人、骨折したのです。倒れている彼に「どうしたとや」と聞くと、彼は平然と「自分の経験では骨折しておるようで す」と答えたのを憶えてます。そして彼はその場で、てきぱきとブロック長の後任者とそのまた後任者を決め、救急車で運ばれていきました。すごい奴だと思い ました。

 ヨットの顧問をしていましたが、インターハイ優勝、国体では五位、七位、福岡県総合優勝という素晴らしい戦績でした。バレーでは五十四年卒では素晴らしいチームが出来ましたが、私のタイムの取り方がまずかったためか、大川工業に負けました。

幹事学年企画

幹事学年企画

 我が修猷館は、柔道、剣道、水泳、ラグビー、バレー、陸上、ヨットなど全国レベルの活躍で名を馳せた部活動が少なくない。また文化部の活動もユニーク。題して「修猷館 文武両道    栄光の歴史」。ビデオは、四百人以上が集まった懇親会場の壁一面に投射。大迫力かつ鮮明な画面に驚嘆の声が上がった。

 さらにもう一方の壁には、母校の部活動各年の部員集合写真がずらりと貼られた。写真の前は、自分の顔、友の顔、先輩、後輩を探す人でいっぱい。懇親会では、昭和二十年代卒の卓球部の大先輩がマイクで「卓球部OBはパネル前に集合!」と呼びかける一幕も。

ビデオの内容は次の通り。

(1)水泳部
  • 葉室鐵夫さん(昭和十年卒) ベルリンオリンピック200m平泳ぎ金メダリスト。進学浪人の高木先輩が毎日プールサイドに来て行った科学的トレーニングはプロも認めるものだった。そしてライバル小池選手との勝負など。
  • 国代竜一さん(昭和五十八年卒) 昭和五十七年高校総体100m自由形優勝。決勝レースのラスト25mで息継ぎしたときの光景と「おっ。勝っとる」という記憶は今でも鮮明。
(2)剣道部
  •  玉竜旗大会では昭和三十年団体三位、昭和三十九年団体三位、昭和五十年団体三位など輝かしい戦績を紹介。
(3)陸上部
  • 井出俊介さん(昭和二十七年卒) 昭和二十六年ハンマー投げ高校記録樹立、全国優勝
  • 毛 利部信幸さん(昭和五十一年卒)五種競技で昭和四十九年、五十年と二年連続で全国大会出場。全国七位、八位に輝いた。骨折しながらも出場した予選大会の思 い出。陸上競技を通じて学んだ、勝つための苦悩、自分との戦いの経験が社会で役に立っていることなどを語っていただいた。
  • 岩 滝祐貴さん(平成十六年卒) 400mハードル世界ユース七位。国体準優勝。現在、筑波大学の一年生。中学時代に200mハードルで全国優勝したものの、 世界を狙うために400mハードルに転向。修猷館時代にアスリートとして生きていくことを決意。オリンピック目指して頑張れ岩滝君!会場からは拍手がお こった。
(4)柔道部
  •  広田弘毅や山崎拓先輩など数多くの国士を輩出した柔道部は、戦前から福博大会(現在の金鷲旗大会)では上位の常連だった。昭和三十年に金鷲旗大会三位など輝かしい記録を紹介。
(5)無線部
  • 三井信雄さん(昭和二十五年卒)昭和二十四年修猷館無線部は九州初のテレビ受像機の製作に成功。油山に捨ててあった旧日本軍の通信施設の残骸の中から部品を拾い集め、暗中模索しながらも終に完成させた。
(6)新聞部
  • 小 畑勝弘さん(昭和二十六年卒)、来嶋靖夫さん(昭和二十六年卒)昭和二十二年に九州発の中学生新聞として修猷新聞が創刊された。紙は無いことが当たり前と いう時代。部活動が盛んだった昭和二十五年には「スポーツ修猷」というスポーツ紙も創刊。昭和二十六年ラグビー部が全国制覇した際には、来嶋さんが号外を 岩田屋の上からばらまいた。
  • 城南高校 泉先生(平成二年〜九年の新聞部顧問)平成四年にはついに部員がゼロとなり、伝統あ る修猷新聞に廃刊の危機が訪れていた。読まれなくなってしまった修猷新聞。船場さん(平成九年卒)の「絶対に捨てられない新聞を作りたい」という強い思い が、新しい修猷新聞Neoを作り上げた。伝統は未来へと引き継がれた。
(7)ラグビー部
  • 岡 本圭吾先生(昭和二十六年卒)現在のラグビー部監督である。今の修猷館ラグビー部は全国で二十指に入る実力を持っている。普通の高校生でも工夫をすれば東 福岡に勝てる。そのためには同じ練習をしていてはダメだ。個性を活かし、得意技を作ることが大事と熱く熱く語っていただいた。
  • 昭和五十二年十二月福岡県大会決勝戦(対福岡工業戦)。十八年ぶりに花園出場を決めた瞬間の映像。青白ジャージの修猷フィフティーン。そして平和台に響く館歌に、同窓会会場の全員が感動!
(8)現役生からのメッセージ
  •   吹奏楽部、書道部、剣道部、柔道部、野球部、サッカー部、軟式テニス部、バスケットボール部、バレーボール部、陸上部、水泳部、ラグビー部の現役諸君が、 元気いっぱいの姿をカメラの前で披露。サッカー部の裸踊り、出来たての新プールで飛び込み〜バタフライには会場も爆笑。

ラグビー部OB

平島正登さん(S30年卒)のお話

 ビデオ上映後に、ラグビー部OBの平島先輩にご登壇いただき、歴史ある修猷館のラグビー部について語っていただきました。昭和二十四年に全国制覇した時のメンバーである中上一さん(S25年卒)も登壇いただきました。

  修猷館ラグビー部は今年、創部八十周年を向かえ、四月末に記念式典を母校で行ったところです。日本のラグビー部で最も古い慶応大学が百周年ですから、八十 周年というのは古い歴史を持った部です。昭和二十八年当時の部員の数は約三十名に対して、現在は女子マネージャーも合わせると七十名を数える規模になって います。

 昭和三十年の早慶戦で修猷館のOBが十人出場しました。両チーム合わせて三十人の中に十人の選手が修猷館のOBでした。これは大変な出来事でした。文武両道そのものだと思います。

 ラグビーの良いところは「ノーサイド」です。昭和三十二年には全国大会、国体にも出場しています。この時、国体では決勝で東京の城北高校に九対三で敗れています。しかし、両チームの選手は今でも熱海に行ったり嬉野に行ったり、酒飲み合戦を繰り返しています。

  昭和五十二年に十八年ぶりに全国大会に出場して以来、現在に至るまで全国大会出場はありませんが、修猷館を卒業した後、伸びる選手が沢山います。大学、 オールジャパンなどで活躍している選手は少なくありません。早慶戦などですと、修猷館の卒業生が複数出場しているので、修猷館を応援に来ている人も少なく ありません。スタンドから「修猷館!」という声が良く飛びます。

記事後記

 また、学年企画「修猷館 文武両道    栄光の歴史」の制作に当たっては、母校の吉井教頭、志戸田先生、岡本先生をはじめ、各部活動の顧問の先生方にご協力いただいた。また城南高校の梅野校長、泉先生にもご協力いただいた。この場をお借りして御礼申し上げます。

  学年企画の取材インタビューは延べ十名、記録テープは十五時間に及んだ。十分間という短い時間にこれを纏めることは至難と言わざるを得ない。多分、ビデオ では仰りたかったことのほんの一部しか伝えていない。それでも、十人の皆さんが修猷館へ誇りを語る時、その表情や声の抑揚に確かに修猷魂を感じた。それは 総会参加者の方々にお伝えできたものと思っている。

 十月三十日、企画ビデオにご登場いただいた葉室鐵夫さんがご逝去なされました。(享年八十八歳)ここにご冥福をお祈りいたします。

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同窓生の本

「生活しながら治す摂食障害」

西園 文(S54年卒)女子栄養大学出版部
「生活しながら治す摂食障害」

  拒食症、過食症などを総称して摂食障害と言いますが、かつて、「思春期やせ症」という言葉があったように、今でも「摂食障害は、思春期女子の病気」という イメージがあると思います。ところが、実際には患者さんの年齢はさまざまで、最近では、10年以上闘病なさっている方も珍しくありません。だんだん症状が 軽くなる場合も多いのですが、闘病による空白期間が長いと、その後の人生設計には少なからぬ影響があります。過食代が1日1万円もかかるのに、親が退職し たらどうするか?ただでさえ就職は難しいのに、履歴書には何を書けばよいのか?症状をかかえながら、どうやって子育てするのか?「思春期やせ症」では、 「自立と依存の葛藤」が中心的なテーマだと言われていましたが、これは、主に精神面のことでした。今、闘病中の成人患者さんたちは、生活をどうするかとい う問題にも直面しています。この逼塞感は、もちろん世の中の経済状況の影響もあります。

 この本は、患者さんやご家族向けの本 です。摂食障害の本は、数多く出版されていますが、病気の成り立ちの心理を中心にしたものが多く、今どうすればよいかに対しての手がかりが少ないという患 者さん方の声を聞いて書きました。摂食障害の治療は、医師にとっても挑戦です。かなり身体が悪くなることもあり、私たち精神科医だけでは治療できないこと もしばしばです。ご本人の治したい気持ちはどうやったら生まれるのかという大問題もあります。この本は、ノウハウ本として使えるように作ってありますが、 今直接闘病していらっしゃらない方にも、精神科の治療の思想や摂食障害の病理を知るために、もしお読みいただければうれしいです。

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「強いだけじゃ勝てない〜関東学院大・春口廣」

松瀬 学(S54年卒)光文社新書

 最近の学生ラグビー界は、関東学院大と早稲田大のマッチレースが続いている。両チームがなぜ強いのか。『早稲田ラグビー再生プロジェクト』(新潮社・既刊)につづき、“春口ラグビー”の秘密に緻密な取材で迫ったのが、この本である。

 部員8人の弱小チームから、大学選手権決勝8年連続出場、5回優勝の強豪へ、どうやってなったのか。ドラマ満載。いわば、大学版スクールウォーズ仕立てとなっている。

  著作のきっかけは、早稲田の清宮克幸監督が漏らした「なんでハルさんの本がないのか、不思議ですね」のひと言だった。そう、早稲田や慶応の本は多数あれ ど、関東学院大の本はゼロだった。人気がないから、と言ってしまえばそれまでだが、損得抜き、春口監督の話は記録されるべきと意欲が沸いてきた。

 春口監督を初めて取材したのが1990年のリーグ初制覇の時だった。以後15年分の取材ノートをひっくり返し、この1年間は週1のペースでインタビューしてきた。

「強いだけじゃ勝てない〜関東学院大・春口廣」

 本は2005年1月9日、大学選手権の決勝戦で、関東学院大が早稲田に敗れた瞬間から始まる。自らを「コンプレックスの塊」と表現する春口監督。その生きざまとチーム作りを身近な取材者でしか知り得ないエピソードを交えて、分析している。

 31 年前の就任当初は、ボールも専用グラウンドもゴールポストもない弱小ラグビー部だった。だが、春口監督は「長所を伸ばす」「楽しませる」をモットーに一歩 ずつ前進してきた。「ラグビーは仲間づくり」といい続け、大学王座に就いた。本のタイトルの「強いだけじゃ勝てない」は、関東学院大が慶応に敗れた際、春 口監督から聞いた言葉だ。

 「周りから応援され、愛されるチームじゃないといけない。だから人づくりは必要なのだ」

 その言葉は、すべてのスポーツ、社会に通じる。単なるヨイショ本ではなく、コーチ解任や暴行事件など、ダークな話も隠さず書かれている。人間味あるエピソードが多いので、ラグビーを知らない人でも面白く読める。

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「学校をつくろう!―子どもの心がはずむ空間」

工藤 和美(S54年卒)TOTO出版刊
「学校をつくろう!―子どもの心がはずむ空間」

―大人が未来へ向けて、子ども達のためにすべきこと―

  以前、同窓会雑誌「菁莪」にて、福岡市立博多小学校の完成までの道のりを寄稿させていただいたことがありますが、ご記憶にあるでしょうか。大学進学で上京 して以来、仕事と生活のベースが東京となった私が、初めて故郷で取り組んだ学校の設計です。教育改革の大きな波や、少子高齢化社会での学校の役割など、博 多小学校の設計では大変貴重な体験と、様々な先進的な試みが実現しました。地元はもちろんのこと、竣工と同時に建築や教育関係者の間では大きな話題となり ました。そんな折、大阪教育大学付属池田小学校での児童殺傷事件が発生し、日本中の子どもを持つ親の不安、子どもを預かる教職員のジレンマはピークに達 し、マスコミでは連日この問題が取りざたされてきました。博多小学校は、これらの様々な問題を乗り越える上でも良い事例となって、ますます多くの見学者が 押し寄せました。また、地震の度に、学校建築の耐震上の問題が明らかになり、学校施設の建て替えがにわかに活気づいています。私は、学校安全と学校耐震と いう大きな問題を対処するため、文部科学省の有識者委員として、その後も重要な立場や決断を迫られる日々が続きました。全国で4万棟、約16兆円を超える プロジェクトの道筋は、私一人が頑張ってどうかなるものではありません。高度経済成長期のような「安かろう、悪かろう」といった方向に進まないために、一 人でも多くの大人が関心をもって立ち上がることだと感じました。その思いを、博多小学校の設計を通して、単に建築家としてではなく、子どもを育てる一人の 母、大人の一人として書き綴ったものです。多くの大人たちが、未来を担う子どもたちのために今できることを伝えるための本です。

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仕事いろいろ

ワインに魅せられて

松岡 聖子(S54年卒)
ワインに魅せられて1

  現在勤務しているベリー・ブラザーズ&ラッド社は、1698年創業、300年の歴史を誇る英国で最も古いワイン商です。バッキンガム宮殿、セントジェーム ズ宮殿近くに位置しており、ロンドン社交界の中心地という場所柄、この店には多くの著名人や王侯貴族が足を運びました。顧客リストには、バイロン卿、ナポ レオン3世、ウェリントン公、ローレンス・オリビエ、ヴィヴィアン・リーなど名を連ねています。1903年には、英国王室御用達という栄誉を受け、ワイン 商としての地位を不動のものにしました。ところで、英国とワインがすぐに結びつかない方も多いのではないでしょうか。実はロンドンはワイン貿易の中心地な のです。その歴史的背景には、1152年にアキテーヌ公国のエレノアールが後の英国王ヘンリー2世と結婚し、100年戦争が終わる1453年までボルドー 地方が英国領となっていたことがあります。当時既に名高かったボルドーワインが、容易に入手できるようになり、イギリスでのワインに対する嗜好はますます 深まりました。また、舌の肥えた王侯貴族のために、ワイン商は遠く離れた産地へと足繁く買い付けの旅にでかけ、世界各国からあらゆるワインを運び込んでき ました。こうした土壌で、多くのワイン商が育ってきたのです。現在でも、ワインの本場といわれるフランスよりもその種類は幅広く、スーパーマーケットでさ え、新旧両大陸のワインがずらりと並んでいます。イギリスでは、優れたワインがほとんど造られなかったからこそ、各地の良質のワインが集まってきたといえ るでしょう。新大陸の造り手たちは、まずロンドン市場を目指します。なぜなら、ロンドンでの評価は品質保証とステータスとなり、即座に世界的なネットワー クの波に乗ってしまえるからです。まさに世界中のワインを試し、見定めるには最高の場所。ロンドンは、生産者が目指すところだけでなく、ワインの魅力に惹 かれ、趣味が高じて、本場でワインビジネスに一度は従事してみたいと思う人々が集まる場所でもあります。そして、私もそのひとりでした。

  このワイン商との出会いは、1993年の秋のことです。当時は全く違う職種でしたが、休暇をとって渡英しては、ワインを試飲していました。ワイン商を次か ら次へと訪れていた中でも、ベリー・ブラザーズ&ラッドの本店の前での光景は、今でも忘れることはできません。あいにく定休日で閉まってはいましたが、そ の重々しい黒い扉、歴史を感じさせる外観に、強く惹かれるものがありました。ロンドンに行く度に、ハロッズのワイン売り場に通っては、陳列されたワインを 食い入るように見つめ、購入するワインを吟味していました。ある日、その売り場のマネージャーが、本格的にワインを勉強するように勧めてくれました。そし てその2年後に、当時日本市場への展開を試みていたベリー・ブラザーズ&ラッドの担当者の耳に入り、面接の誘いが届いたのです。まさか、あの憧れのワイン 商から声がかかってくるとは思いもよりませんでしたが、強い想いがあれば、それが原動力となり、夢がかなうのかもしれません。

ワインに魅せられて2

 こうして、1995年に入社しましたが、現在の主な仕事は、ワインスクールの講師、ロンドン地下セラーや日本でのイベントの企画、ランチ・ディナーのホスト役、ワイン産地での試飲、そして日本市場の拡大です。

  「ワインを造る人と飲む人との橋渡し」この言葉をワイン商の基本理念としてきました。品質にこだわり続け、ワイン産地とロンドンでテイスティングを行うこ とにより、そのつど最高の造り手を絞り込んでいきます。著名な造り手だけでなく、熱意にあふれる生産者を発掘していくことも大切です。こうして、クオリ ティの高いワインを、しっかりとした管理のもと、消費者にお届けするのです。

 飲む人にとっての最適なワインを選ぶこと、つまりその 人にとっての“自分のワイン”を見つけて差し上げることができたとき、ワイン商冥利に尽きるといっても過言ではありません。ワインボトルに付加価値を与え ることができるスペシャリストとして、いつまでもそうありたいと願っています。

(95年9月からベリー・ブラザーズ&ラッド社でワイ ン・コンサルタントとして勤務。98年には、日本人として2人目(当時)の、英Wine and Spirit Education Trust Diploma(ワイン・アンド・スピリッツ教育トラストのディプロマコース)を取得。現在、同社の日本担当統括部長として、顧客へのアドバイスやワイン スクールの講師を担当する)

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国際金融交渉と東洋の倫理観

久保田 勇夫(S36年卒)

 ここでは、「東洋の倫理観」を「われわれが漠然と考えてきており、かつ、個人的にも欧米を中心とした諸外国との現実の接触を通じて確かに存在すると思われる、東洋特有のものの考え方」程度のものとしてとらえたい。

  わが国は、そのGNPが米国に次いで第二位であることに示されるように世界第二位の経済大国である。例えば、「円」は、米国の「ドル」、EUの「ユーロ」 に次ぐ主要通貨である。ODA供与額は、ここ十数年にわたり世界第1又は第2位である。外国との資産・負債関係をみると、わが国は185兆8000億円の 資産超過国であり、これは他のいかなる国よりも断然多い。ちなみに、米国はマイナス283兆9000億円。かくして、世界の国際金融交渉は日本抜きではあ りえない。

 ところで、世界の主要な金融交渉への参加国は、東洋からは常にわが国のみであり、他は欧米諸国又はその文化圏にある国で ある。例えば、サミット参加国は、米、日、独、仏、英、伊、加それに最近はロシアがメンバーである。国際通貨の議論をするいわゆるG5(5か国財務大臣・ 中央銀行総裁会議)の参加国は米、日、独、仏、英である。

 そこで、これらの会議では、われわれは否応なく、倫理観の差に思いをいたしつつ交渉せざるをえない。われわれにとって、国際金融交渉の場は、東洋の倫理観を強く感じざるを得ない場である。

 私は、大蔵省(現、財務省)において、1983年から1997年まで、概ね引き続いて、国際金融交渉ないしは類似の交渉を行なう立場にいたが、常にこうゆう考えを持って交渉に臨んでいた。

 極めて概括的に言えば、「東洋の倫理観」そのままで国際金融交渉に臨むことはよろしくない。そのままでやれば、失敗は先ず間違いない。

 「剛毅木訥 仁に近し」とか「巧言令色 すくなし仁」といった態度は不適当である。積極的に発言し、自らの考えを示さなければならない。

 交渉における「謙譲の美徳」は、百害あって一利なしである。マイノリティーとして臨まざるを得ない交渉の場では、譲っていてはマジョリティーに蹂躙されてしまう。

 それでは東洋の思想は、国際金融交渉において無力なのか、と言えばそうではない。

 とくに「彼を知り 己を知らば、百戦あやうからず」は至言である。

  この教えを更に、「先方がわれわれ(日本)をどう考えているか」を知るべきだと解釈すれば、より深い意味を持つことになる。例えば、かなりの数のアメリカ 人は、真珠湾攻撃についての同国の教えのおかげで、日本人は人を騙す性癖があるという先入観を持っている。これを先ず壊す必要がある。

 「勝に急にして、敗を忘るることなかれ」「遠交近攻」「合従」「宗襄の仁」「鶏鳴狗盗けいめいくとう」などの示唆するところも大きい。

  国際金融交渉の成功も、最後のところはその最高責任者の人格、人となり、にかかっている。英語の最高の誉め言葉の一つに、あの人は“a man of personal integrity”であるという表現がある。言動に矛盾がなくキチンとした立派な人という位の意味であろう。論語にいう立派な人、「君子」と同様の言葉 ではなかろうか。

 だとすれば、究極のところは、立派な人という意味においては東洋の倫理観の定めるところも、欧米の定めるところも同じようなものだということになる。

  かつて、長い間、5か国の蔵相代理を務めた英国の財務省の次官が退官するにおよび、日、米、独、仏を代表する他の4人がお別れの宴をはったことがあった。 席上、送る側を代表してわが国の財務官が陶淵明の「帰去来の辞」を引用してこれまでの労をねぎらったところ、送られる方は涙を流して感謝したという。上記 の結論を示唆する話ではなかろうか。

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若い広場

大学生活を振り返って

早稲田大学 四年秋本 泰行(H13年卒)

  私の大学生活は、一・二年のころは、ラグビー漬だった青春を取り戻そうとしているかの如く、飲んで騒ぐという毎日を続けていました。しかし、三年の夏、そ んな空騒ぎに漠然と飽和感を覚え始めていた私に、大きなターニングポイントが訪れました。その契機となったのは、高校時代の恩師の一言でした。

  先生の言葉は、『大学時代は、人生にとって非常に有意義な時間であり、人格形成など本当に意味のある重要な時間であること』『多くは、その自由度の高さか ら志や目標を見失い、卒業の時期になって無為に過ごしてしまったことを後悔する』など、自分にとっては非常に耳の痛い内容で、自身の自堕落な大学生活を見 透かされたようで思わず赤面してしまったのを覚えています。

以降は、『東京という広い世界で素晴らしい人間と交流し、器の大きな人間 になる』という不明瞭ながら本来持っていた目標を自覚し、互いに尊敬できる友人を作り、社会人の方々と交流できる機会を求めるなど積極的に活動するように なりました。特に、二木会をはじめとする東京修猷会の各種イベントへの参加は、実現が困難な世代の違う人々との交流を可能にしてくれましたし、そこに集う 先輩方が胸襟を開いて真摯に対応してくださったことで、『修猷館のよさ』というものを改めて再認識することもできました。

 今から考えてみると、不眠不休で遊んだことも、様々な方の貴重な意見や考えに接することができたことも、自らの見識を広げることにつながりましたし、一つの結果として就職活動を始めとする諸活動に成果を残すことができたと考えています。

 この会報を手にとって読まれた大学生の方々。大学生活とは、本当に誘惑の多い期節です。しかし、同時に本当に実り多き期節でもあります。遊びを知らずに大学生活を終えるのも賢明とはいえませんが、遊びだけで終えることだけはしないでください。

  修猷館という、『自由と義務』『自由と責任』という命題を常に自ら問い続けなければならない場所で、三年間の青春を過ごされた諸君ならきっと大学生活を実 り多きものとすることができるはずです。どうかもう一度、『自分は大学に何をしに来たのか』という原点に立ち返って大学生活を見直してみてはいかがでしょ うか。

 残された大学生活もあと五ヶ月弱。卒業論文という学生生活の総決算に全力で取り組む傍ら、将来相手に辞謝されないような人間になるべく精進を続けていきたいと思っています。

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自己と対話する

お茶の水女子大学 一年森 弥子(H16年卒)

  自己を問うたことがあるだろうか。私は、この行為こそが、自分の人生を見定めていく出発点であると考える。なぜならば、自分がどんな人間かを把握すること なしに、将来の方向性を見据えることは不可能であると思うからである。では、如何にして悩むのか。まず、今の自分を分析することが必要である。つまり、性 格、知識、趣味といった、自己を特徴付けるものを把握・認識する。そしてそれらを正確に受け止めるプロセスを踏むのである。この自己を特徴付けるものは、 その主体が有する属性である。従って、この属性こそが『自己』を創造しているのである。次に肝心なのは、このプロセスが主観的でなく常に客観的であること だ。主観的になると自分の殻の中に閉じこもる傾向が強くなり、外部から自己を対象化させて観察できなくなるのだ。つまり、いくら自己の内面を思考しても、 内部からも外部からも殻を砕けないのである。このプロセスを経て『自己問題点』の発見へと繋がるのである。すると次の段階は、課題に対する解決策の探求、 目標の設定、行動の開始と道程は移行するであろう。この一連の過程を経て、はじめて『自己改善』へと繋がるのである。そして私達は個々の人格へと成長して いくのであろう。

 自分の人生なのだ。人生一度きりだ。ぼんやりと過ごしていたら、勿体ないではないか。今回このように、私が自分の 人生を見定めることについてここまで深く考察できたのは、独立し始めたのだ、と実感したからである。私にとって、大学進学は大きな意味を持っている。これ から私は自分探しの旅に出る。最終的に何処で根を下ろしたいのかを念頭に置き、常に素直な人間であり続けたい。また、実は、この旅に終点はない。なぜな ら、ここで意味する旅は自分を探求することであり、未知の世界にいるかもしれない新たな自分を探し続けてこそ、人生を全うできると考えるからである。私に とって、旅の契機になった大学時代を生かすも殺すも自分の意志次第である。私は大海原へ乗り出したばかりである。全身に風を受け、帆を上げて突き進んでい きたい。

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「甘さ」

一橋大学 二年中村 暢孝(H15年卒)

 自分はなんて甘いのだろう。最近つくづくそう思う。

  東京に出てきて一年半が過ぎた。親元を離れて一人で暮らし始め、成人し、「大人」に近付いた気でいた。しかし実際はどうだろう。あるときは成人したことを 理由に大人ぶり、あるときは学生であることを盾にして家族や先輩に甘えている。「大学生」とは実に都合のいい期間のように感じられる。半分大人、半分子供 であるような中途半端さを巧みに利用して、自分に都合のいいように振る舞うことが出来るのだ。もちろん、悪用しているつもりはないが。

  以前友人と話をしていて、こんな言葉が飛び出した。「小さい頃って、歳をとれば自然と立派になると思ってたよね」、…思わずうなずいた。たいして深く考え ることもなくただ大人に憧れていた頃に思い描いていた将来の自分と、今のこの自分。その途方に暮れるほどの大差に愕然とし、情けなささえ覚える。「自分は 大人だ」などと胸を張って堂々と言える訳もない。今まで自分はいったい何をしてきたのだろう。

 中学生の頃だっただろうか、「大学生 の学力低下」のニュースを見て、大学生を小馬鹿にするような気持ちを抱いたことを覚えている。しかし今の自分もそれほど変わらないのではないだろうか。何 も学力に限ったことではない。そもそも頭を使わなくなっているように思う。ひとつの物事について、自分が納得いくまで、どれほど考えているだろうか。時間 を作ろうとさえしていないのに、時間がないと言い訳してはいないだろうか。知識や教養をつけることより、ずる賢くなって逃げ道の作り方ばかりがうまくなっ ている気がする。

 私は現在大学二年生だが、周りの友人は自分の将来像を描き、資格の勉強だ、インターンだ、と慌ただしくなってき た。しかし私は自分の方向性をいまだに決めきれずにいる。振り返ってみれば高校時代からそうだった。決定的な理由もなく理系を選び、浪人時代に文系へと志 望を変えてここまで来た。もちろん無関心なわけではないし、いろいろなことに触れて自分の可能性を試してみたいと考えている。だがそれも、たくさんのもの を切り捨てて一つを選ぶことに対するおびえから逃れるための言い訳のようにも思える。迷っている中で一つに絞るのは、とても勇気のいることだ。

  今回この原稿を書くにあたって、「本気で」自分と向き合った。向き合った「つもり」ではない。結果として、自分の甘さの認識自体が甘かったことに気づい た。今まで様々な場面で幾度となく反省を繰り返してきたが、それらは今、活かされているのだろうか。いや違う、意識的に活かそうとしているのだろうか。甘 さを拭い去り、自分に本気になることで、幼いころ思い描いていた自分に一歩近づくに違いない。

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視野を広げること

津田塾大学 三年青木 美穂子(H15年卒)

  大学に入学して以来、いろんな経験をし、その度に考え、学ぶことは多々あった。大学生は自分次第でどんな生活でもできる。何を習得するかも自分次第。それ をどのように過ごせば充実したものになるか、考えたことが何度かあった。でもその答えはずっとわからずにただやりたいことに挑戦し、とりあえず多くのこと をやってみたくて必死だった気がする。でも常に自分の根底にあったものは、視野を広げたいという気持ちだった。

 海外への好奇心も強 く、できるだけ学生のうちに海外へ行っていろんな物を見て、多くの外国の人と話し、より視野を広げたかった。初の海外渡航は一年次のシンガポール旅行。シ ンガポールは多民族国家なだけあって、欧米系、インド系、アラブ系、中国系といろんな系統の人があらゆるところにおり、その光景は当時の私にはとても衝撃 的だった。そして、多民族国家ゆえの寛大さなのか、外国人の私にも皆すぐに笑顔で親切に接してくれて、その土地の人の温かさを感じた。その後、アメリカに も行ったが、ここでも一番印象的だったのは、人の温かさだった。日本とどうしても比べてしまうのだが、日本は客観的に見て、よそ者に対してあまり寛大では ないと思う。それは島国という特質のためなのか、世間という日本独特の人付き合いの考え方によるものなのか、要因はいくつかあると考えられるが、やはりこ れからのグローバル社会において、そして現実として外国人を街中で多く見かける現代としてはどんな人に対してでも対応できるようになるべきだと思う。外国 に実際に行って、言葉が通じないことがどれほど不安かよくわかった。だから日本で私ができることは何でもしてあげたい。そしてこれから先やはり、国際交流 に少しでも貢献したい。

 バイトもいろんな仕事を経験したし、世代も境遇も全く違う人たちと一緒に仕事をすることもあり、いろんな考え方を学んだ。

 授業も私の所属する国際関係学科は特に履修が自由であるため、心理学、社会学、法学や地域研究など多くの種類の授業を学べる。関係なさそうな分野の間にもつながりがあることが見えてくる。このことはとても新鮮で、学ぶことが楽しく感じられた。

 今、就職活動を目の前に控え、これからどうなるのか、不安は募っていく。でも、常に長いスパンで見た目標は持っていたいし、何より素直でいたい。素直にいろんな人からいろいろ吸収して成長していきたい。視野を広げること、これはきっと私にとって永遠のテーマだと思う。

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学年だより

「卒業55年記念行事」

廣瀬 貞雄(S26年卒)

 仁禄会(昭和26年卒)の卒業55年の記念行事は、10月5日母校に集まり、 新装なった館内を見学することから始まった。雨天のために記念の集合写真は体育館で撮り、バスにて主会場の「海の中道ホテル」に向かった。

  ホテル大広間にて直ぐに祝宴となったが、冒頭物故者への黙祷を行い、次いで同窓会長を務めている波多野聖雄君の挨拶があり、その後東京修猷会会長藤吉敏生 君の発声で乾杯し、にぎやかな宴になった。館歌の斉唱や応援歌の合唱を行っているうちに早くも55年の時間を逆戻りして修猷館時代に帰った感じだった。

「卒業55年記念行事」

  集まったのは103名で、その他に夫人の参加が6名あった。最も遠いのは米国カリフォルニア州サンノゼ市から駆けつけてくれた峰石學君夫妻であって、全員 の歓迎の拍手を受けた。久しぶりに会ってお互いに誰か分からずに胸の名札を確かめ合う場面も見られたが、終始和気あいあいの楽しい会合だった。

 おそらく次の節目の卒業60年は、こんなに全国規模で集まることは困難であろうと考え今年のこの会に参加した人が多かったのではと思う。

  さらに、この度はオプショナルな行事として、前日に伊都カントリーでのゴルフコンペや、当日の昼間に同窓会館での囲碁会、翌日は日田の咸宜園、廣瀬資料館 を見て湯布院温泉に一泊し、中津の福沢記念館から耶馬渓青の洞門を経て福岡に帰るバスツアーなどが用意されて、旧交を温めるのに絶好の機会となった。

 この記念行事を計画し進めて頂いた在福の幹事会員の皆さんに改めて心からのお礼を申し上げる次第である。

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卒業45年「毎日が同窓会」

高柴 昭(S36年卒)

  今日は誰が何を言ってくるだろうか…。我々36年卒業生の多くのメンバーは毎日パソコンに向かってメールを開くのが楽しみな日課になっています。集まりの 連絡、旅行先での見聞録、近況報告、政治や社会談議、趣味の語らい、作品の展示、地域自慢、などなど。最近は健康問題も話題の仲間入りをしてきました。 メーリングリスト方式によるバーチャル同窓会を始めて7年が過ぎ、現在は120人を超えるメンバーが全国各地から参加しています。この間、飛び交ったメー ルは7000通に近く、お陰様で各地にいる同窓生の動向も手に採るようによく分かり、まさに毎日が同窓会と言っても過言ではありません。久しぶりに会って も、昨日まで一緒にいたような気になり話も弾みます。

 活動や付き合いの幅を広げようと、36年に因んで「山麓あるこう会」を立ち上 げました。メールで連絡すれば即成立ですから手間は掛かりません。可能な人は夫人同伴で、埋もれた歴史を尋ね、季節の彩を愛で、また、文化遺産に触れなが ら1日歩こうと言うものですが、年間3〜4回開催し、すでに20回近くになります。健康増進しながら文化に親しむという二兎を追って、毎回企画に頭をひ ねっています。初めのうちはやや硬さもあった奥様同士も、会を重ねるに連れて顔馴染みになり、お互い学生時代からの知り合いのような気分です。和気藹々楽 しく1日歩いて、夕方からの二次会もまた欠かせぬ楽しみとなっています。

 代表幹事の井島君や神崎君が中心となって毎年1回行ってい る、泊りがけの研修を兼ねた学年の総会も20年ほどになります。社会・人生経験豊富な多士済々のメンバーが、毎年3人ほど講師を勤めてホットな話題のレク チャー等を行い、毎回中身の濃い議論の花が咲いております。最近ではこの案内もメールが主体になってきており、通信費の節約と言う目に見える効果も現れて います。連絡の手間が掛からないと言う利点を生かして、ついに毎月の例会というものまで始まりました。

卒業45年「毎日が同窓会」

 3 年前には同期の吉次君を駐在地に訪ねてエジプト旅行を企画しました。メールのやり取りをするうちに夫人を含めて合計23人の大観光団になり、全て手作りの ツアーで40年ぶりに修学旅行気分を味わいました。間近に感じた古代文明、砂漠のキャンプで見た文字通りの満天の星、砂漠に黒い石を集めて描いた六光星を 前にした記念写真、ナイル河畔で歌った館歌などなど参加メンバーの一生の思い出もメールがあったから実現したと言えるでしょう。

 昨 年9月には名古屋のメンバーが企画した愛地球博見学を兼ねた36年卒の全国総会に東京からも夫人同伴で大挙参加しました。暑い中人混みに揉まれながらも、 手作りの六光星をアレンジした旗に導かれて迷うことなく、また、日ごろのバーチャルがリアルになり話が弾んで待ち時間さえも楽しく感じられたものでした。

 本年は卒業45周年と言うことで九州のメンバーが総会を企画してくれることになりました。どのような案内メールが来るのか、楽しみは尽きません。バーチャルとリアルの相乗効果で36会の絆は益々深まっていくような気がしています。

 最後に私個人の最近の取り組みを一つ。「科学の目で見えてきた日本の古代」というタイトルでメールマガジンを発行しています。バックナンバーのURLはhttp://home.b06.itscom.net/kodaishi/ですが、ウェブのアドレス欄に、科学の目で見えてきた日本の古代、と入力して頂けばページが開きます。

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LA同窓会

樫山(宮原)ゆかり(S57年卒)

 11 月22日夕方ロサンゼルスにて修猷同窓会を開催しました。UCLAに留学中の山本千恵美さんの提案です。リトル東京の焼き鳥屋に13人集りました。彼女は 水泳の平泳ぎと個人メドレーの種目で次期オリンピック有力候補者です。平成16年修猷館高校卒業式の総代を務められたそう。彼女の同期生二人がロスに遊び に来たのがきっかけだとか。一人はスタンフォード大学留学中の西嶋諒子さん、もう一人は九大在学中の中城麗さん。また、平成15年卒の伊藤輝之くんが、こ の9月からUCLAに編入し、メンバーが増えました。

LA同窓会

 20 歳から27歳の参加者6名、40代から50歳の参加者7名、となぜか二極化しています。親子ほど年齢が違うわけです。同窓会は盛り上がりました。UCLA に縁のある方が多く参加しました。最後に昭和49年卒の山田哲義さんの呼びかけで、レストランの外で館歌斉唱し、博多一本じめで終わりました。

 西嶋諒子さんが、修猷220年祭のDVDを5部持ってきてくれました。彼女のお父さんが昭和51年卒で、山田さんとはラグビー部で2年後輩だとか。

 中城麗さんが、筑紫もちと博多とおりもんを福岡から持参してくれ、久々の故郷の味を楽しみました。

 他参加者:ウッド(西山)薫(S49)、山本(和田)真奈(S53)、前野(松井)美詠子(S56)、江口昌彦(H9)、山本博章氏、前野ジョン氏、片桐玲奈さん。

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コラム

第17回 東京修猷会どんたく 二木会ゴルフコンペのご報告

福田 公登志(S54年卒)

第17回二木会ゴルフは、10月16日(日)に筑波東急ゴルフクラブで開催されました。

参加者の多くが修猷OB有志によるゴルフ同好会“どんたく会”のメンバーであることから、今回より“東京修猷会どんたく二木会”と名称を変更することにしました。藤吉会長を始め女性2名を含む21名の参加をいただきました。

 あいにく小雨の中のスタートとなりましたが、日頃の行いの良いメンバーが揃っていることも有り、午前のラウンド中には雨も上がり、緑が美しく煙る筑波の景色の中で、OB、OGの方々の元気なプレーが繰り広げられました。

ゴルフコンペ表彰式

 雨の中で普段の実力?を発揮できなかった方も多かったと思われますが、悪天候にもかかわらず皆さんお元気で最後の表彰式まで笑顔が絶えない明るい会となりました。

 ダブルペリエで競われた結果、優勝はグロス92で松尾隆広さん(S54卒)、準優勝はグロス82でベスグロの鹿児島正信さん(S46卒)、女子ベスグロは伊藤洋子さん(S35卒)が獲得されました。

 今回は6組での開催となりましたが、次回は更に盛大な会にしたいと考えております。

次回開催は4月16日(日)を予定しておりますので、皆様のご参加を心よりお待ち致しております。(場所等は決定次第ホームページでご案内いたします。)

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囲碁クラブへの案内 「ゑびす会囲碁同好会」

辻本 治(S30年卒)
ゑびす会囲碁同好会

  昨年の当会報で紹介がありました「ゑびす会囲碁同好会」は、現在40名ほどの会員を抱えており、2005年の1年間、欠かすことなく毎月第3土曜日にゑび す会事務局を対局場としての囲碁の集いを実施しました。このうち、2月、6月、10月は大会(参加費要/賞品あり)、あとの月は例会(参加費不要/賞品な し)でした。大会には20名前後の、また例会には10名前後の会員がかけつけ、それぞれ日頃の研鑚で磨いた腕前を披露する場として利用してくれました。

 これ以外に、数年来恒例になっている熊本高校囲碁同好会(中園道場)との交流対局も今までの年1回から2回に増加させて4月と9月に行われましたが、結果は1勝1敗の相星でした。

 2006 年も引続き第3土曜日を定例日として大会/例会を実施するとともに、熊本高校との交流対局も春と秋に行われる予定です。1月は21日(土)が例会実施日と なっています。なお、ゑびす会の存在をまだご存知でない囲碁好きの館友諸兄姉の参加大歓迎です、気軽にお出かけください。

場所:

「ゑびす会事務局」
渋谷区恵比寿3-1-7 エクサビル6階
TEL/FAX:03-3446-4482

参加申込み、問合せは「ゑびす会事務局」
(http://ebisukai.shuyukan.org/)
又は幹事まで

幹事:

辻本治(S30年卒)
TEL/FAX:042-341-6154

田中正夫(S36年卒)
TEL:03-3432-5821
FAX:03-3435-7324

月例会に関する問合せは下記の例会幹事まで:

山田昌男(S35年卒)
TEL/FAX:043-256-3865

河辺勲(S35年卒)
TEL:03-3720-7325

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二木会より 戦艦ヤマト出撃!

高岩 淡(S23年卒)

 11 月の二木会は、東映会長の高岩淡氏をお迎えして、戦艦大和を巡る映画「男たちの大和―YAMATO―」についてお話をいただいた。辺見じゅんが生存者に徹 底取材したドキュメンタリーを基にしたもので、戦後60年記念作品と銘うっている。尾道に作られて06年3月末まで一般公開されている実物大の戦艦大和 セットは初日2日間で1万人もの見学者が訪れたという。

戦艦ヤマト出撃!

  高岩さんからは、日本の歴史の事実を知ってほしい、強い批判もあった中作られた「大和」は当時の日本人の知能と技術の結晶であったこと、その技術は戦後日 本の復興に、造船、光学、ホンダやソニーなど各企業研究所に引き継がれて行ったこと、戦争ものというと敬遠しがちな私達に、今ブームともなっている昭和史 に目を向けさせ、そして何故大和は戦闘機の援護もないまま沖縄に向けて出航していったのか、興味の尽きないお話をいただいた。

 沈没 後40年の85年に「海の墓標委員会」が戦艦大和の探索を行い、東シナ海の水深350mの海底に主砲弾、甲板そして大和のシンボルである1・5mのチーク 材からなる菊花紋章を発見した。物語は現代から始まる。3333人乗り組んで、276人が生き残った。その裏にあるドラマ、戦争の哀しさ、切なさに胸を痛 めながら、デモ版予告編を見せていただいた。そしてその迫力に圧倒された。出演者:反町隆史 中村獅童 仲代達也 渡哲也 白石加世子 鈴木京香 寺島し のぶ 蒼井優etc. 東映の浮沈を賭けて高岩さんが作られたという先月封切られたこの映画を是非ご覧下さい。

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ラグビー部80周年記念記事

松瀬 学(S54年卒)

 『シュウユ〜は元気ばい!!地震に負けず、花園復活を誓う』

 「元気ばい!ふくおか」「元気ばい!シュウユ〜」。4月29日。九州の名門、修猷館ラグビー部が80周年を記念し、同校グラウンドでOB戦、福岡高戦をおこない、地震で沈んだ福岡の人々を元気づけた。

 ことし初の真夏日だった。気温は30度を突破し、炎天下の熱戦となった。50歳を過ぎた長老OBが脚をもつらせながら、ボールを追う。タックルする。砂塵がもうもうと舞う。

 「きさぁ、ボールまわさんか!」「なん、あわてとうとか」「きさっ、タックルせんか!」。タッチラインの外で見守る仲間は爆笑の連続なのだった。

 メインが修猷×福岡のライバル決戦だった。初対戦が1925年(大正14年)というから、これまた80年の歴史を有することになる。修猷がトライ数、4本対1本で快勝した。

 記念試合には、なんと、日本ラグビー協会の日比野弘会長代行まで駆けつけてくれた。聞けば、修猷グラウンドは早大時代、朝日招待の前に練習した思い出の場所だった。「懐かしい」と漏らす。

 「各世代のOBがグラウンドに集まる。試合で体をぶつけ、長い歴史を祝う。ライバルとも交流する。これぞ、ラグビーの原点じゃないかな」

 修猷ラグビー部は創部1925年(大正14年)。1949年(昭和24年)には全国制覇し、戦後の高校ラグビー史を彩った。ジャパンも数多く輩出し、大学で活躍するOBも多い。特筆すべきは「文武両道」の実践で、政財界にも人材を送っている。

 夜は近くのホテルに場所を移し、記念式典が開かれた。OBは全国から約120人が馳せ参じた。香港から帰国した「修猷ラグビー命」のOBもいた。

 柴田忠敏OB会長の挨拶に続き、日比野会長代行や土屋俊明・九州ラグビー協会会長の祝辞をもらった。

 はあ〜、飲めや歌えの大騒ぎである。寂しく思うのは、花園出場が77年(昭和52年)度を最後にないことだった。最近はずっと、東福岡に阻まれつづけている。

 岡本圭吾監督がマイクを握る。

「今年は、かならず、花園にいきま〜す。花園出場は夢でなく志です」

 酔っ払ったOBたちはやんやの喝采を送る。そして、叫ぶのだった。

 「シュウユ〜は、元気ばい」と。

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陸上部後輩応援の記

甲畑 眞知子(S44年卒・陸上部)

  七月二十九日の夜、メールを開くと「修猷陸上部インターハイ出場」のニュースが飛び込んできました。開催地は千葉。出場は女子がなんと5種目。男子一種 目。我が陸上部時代を思うと、女子部員は徐々に増えてはきたものの、入部当初は私ひとり。大会といえば県大会に出場するのが精一杯。リレーとなると他の部 からの応援を得ての出場でした。ところが、今年は女子だけで五名もの選手が五種目に出場。驚きと興奮を覚え、なんとしても応援に行こうと急遽仕事を調整し 開催初日(八月二日)に千葉の会場に朝から出かけて行きました。

 スタジアムの中央観覧席に陣取り、ゴール正面の大スクリーンに映し出される選手名、出身校の中に「修猷」の文字を見つけては喜び、選手紹介で「修猷館高校」のアナウンスが響き渡ると我がことのように感動し、自分がスタートラインに立った時の緊張を全身で思い出しました。

陸上部後輩応援の記

 先ずは400m女子。二年生の冨山和子さんと三年生の津留加奈さん(写真)が 出場。冨山さんは残念ながら予選で敗退したものの、津留さんは六位に入賞。とても美しい走りでした。表彰式では酷使したためか片足ビッコをひいており後日 の競技が心配でしたが、見事、得意とする400mハードルで第二位の快挙を成し遂げました。他の選手の競技は観戦できませんでしたが、修猷の館旗を掲げて 設営されている選手控室テントを訪れると、顧問太田先生の熱き思いと愛情こもった体当たりのコーチに選手たちが「心技体」を学んでいる様子が伺え、強さの 源はここにありと感じました。猛暑の中での千葉インターハイ観戦は素直な感動と刺激を与えてくれました。

 そして、今度は九月の岡山夏の国体。ヨットレースを観戦する機会があり牛窓ヨットハーバーに出かけて行きました。そこで出会ったのがまたもや修猷ヨット部三年生の女子二人の選手。真っ黒に日焼けした元気な顔。

大健闘で少年女子FJ級六位に入賞でした。

 二〇〇五年の夏は、期せずして修猷女子のスポーツでの活躍をとおして、「文武両道」の精神が心・体を健やかに育て、生きる喜び・感動・強さを与えてくれるものと改めて感じました。修猷健児の活躍に乾杯!

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事務局

会長便り 質朴剛健と修猷生雜觀

藤吉 敏生(S26年卒)

 昨年十月初旬、私達昭和二十六年卒は五十五年記念行事のため母校修猷館に集まった。

  先ずは新装なった校内を見学しようというわけだ。新校舎はほぼ完成していたが、そのりっぱさに目を奪われた。冷暖房設備が完備しているのは言うに及ばず、 明るい教室、広ろびろとした体育館、学生食堂、茶室と見て廻るにつれ、いまの修猷生は高校生活を十二分にエンジョイ出来るなとしみじみ感じた次第だ。つい でに言わせてもらえば、館長室も旧校舎に比べりっぱだった。第二次大戦直後の時代に修猷館に籍をおいた私達の六年間は、教室も机もややくたばっていた。当 時といまを比べる方が無理とはいうものの、いまの生徒は仕合せすぎるように感じたのは私一人だったろうか。

 誤解のないように記して おくが、りっぱな新校舎に異論を唱えるものではない。むしろ好環境の下で、すばらしい修猷生が育っていくことを期待しながら、学校を後にした。そして、 ハードに見合ったソフトの充実にかける先生方の教育方針を信じてもいる。いま一つ記させて戴だければ、修猷生のいつの時代にもみられる礼儀のよさだ。当日 も多くの生徒が「今日は」と声をかけてくれた。実にすがすがしい気持になった。

 ところで、修猷館の校是の一つに「質朴剛健」があ る。広辞苑には「かざりけがなく、たくましくすこやか」とある。男女の比率が半々という昨今の修猷館は、たくましさとすこやかさがうまく同居(?)してい るのか、最近東京修猷会の会合でもOGのたくましさが目につくようになった。私は実に心強く感じている。男女共学になって半世紀を過ぎたいま、同窓会の活 性化もOGの皆さんが積極的に各種の会合に参加することによって促進されると思っている。

 聞くところによると、最近の修猷生は海外 の大学に目を向ける者が少なくないという。とくに、女子の生徒にその傾向が強いとか。「剛健」は女性上位になりつつあるのだろうか。今年は、東京修猷会も OGの皆さんに大いに活躍して欲しいと願っている。修猷のOB、OGが一体となった東京修猷会の前途が楽しみだ。

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’05総会報告

松瀬 学(S54年卒)

『よか晩じゃ。旧交あたため、美酒に酔う』

2005年6月3日

東京修猷会総会・懇親会

 「よか晩じゃ。シュウユ〜は元気ばい」。戦前卒のOBがつぶやく。集える修猷OB、五〇〇人。宴会場の熱気たるや、その夜あったサッカーW杯予選の日本×バーレンのスタンドにも匹敵するものだった。

 総会は格調高くも温かく、恩師のトークには笑いがこぼれ、拍手が渦巻く。宴会場に移っての懇親会は「これぞ修猷」のノスタルジーにあふれた。いわば清冽なる叙情か。

  ハイライトが学年企画のビデオである。テーマが「文武両道」。一〇数分の映像に幾多の栄光をぎゅっと凝縮する。水泳の五輪金メダリストの葉室鐵夫先輩らの インタビューから、ラグビー部の一九四九年(昭和二四年)全国制覇のセピア色の写真などが映画「炎のランナー」の音楽にのって映し出される。その全国制覇 の際、岩田屋の屋上から号外をばら撒いた新聞部のエピソードも紹介され、若手OBから「へえ〜」の嘆息が漏れた。

 運動部だけでなく、新聞部、美術部、吹奏楽部など文化部の波乱の歴史もちゃんとフォローされた。現役部員の元気な姿も映され、新しくも懐かしい時間が流れる。ラグビー部OBの平島正登先輩(昭和30年卒)のユーモアあふれるスピーチがつづく。

 宴会場の壁には歴代の各クラブ別の集合写真パネルが貼られた。各年代の卒業アルバムから編集した労作である。グラス片手に見入るOB多数。やおら昭和15年卒のOBが壇上へ。「卓球部OBの人、是非、お会いしたい。パネルのところに集まってください」。

 特筆すべきは幹事学年の出席率だった。東京在住一一〇人のうち、八〇数人が集まった。香港からも駆けつけた。病死した同期も企画ビデオのひとコマで館歌をおらんでいた。

 あぁ、修猷は“いつも情熱ありき”なのだ。歴史の『タテ軸』と学年の『ヨコ軸』がハーモニーを奏でる熱い東京の一夜となった。

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事務局だより

 早いもので、もう一年が過ぎ新しい年を迎えました。昨年一年間も皆様のおかげをもちまして、二木会、総会を中心とする東京修猷会の行事をこれまで以上に盛会に執り行うことができました。改めてご協力に感謝いたします。

  昨年一月の二木会では大阪から葉室鐵夫先輩(昭和十年卒)を講師としてお迎えしました。いうまでもなく葉室先輩は昭和十一年(1936年)のベルリンオリ ンピックでの200m平泳ぎの金メダリストです。会場にはヒットラーも応援に来ていたという中で、ドイツの選手を破っての優勝秘話は、歴史の重みとともに 大きな感動、感慨を私たちに与えてくれました。残念なことに葉室先輩は昨年十月に八十八歳で急逝なさいました。そのつい数日前には近畿修猷会にご出席な さっていたということで、最期まで私たち後輩に笑顔と修猷の誇りを与えてくださいました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 さて昨 年の特色として挙げられるのが若い人たち、特に学生の出席が多かったことでしょう。四月の二木会に二十名近い学生が顔を見せてくれただけでなく、毎月の二 木会や総会にも常時十数名が必ず出席し、熱心に先輩講師の話に耳を傾けていました。その後の二次会にも付き合い、大先輩たちとの交流の輪を広げています。

  今年六月の総会の担当は昭和五十五年卒の皆さんです。彼らが総会で目指すものは、まさに東京修猷会の会是とも言える「誘掖(ゆうえき)=導き助けること」 です。連綿と続いてきたわが東京修猷会が、これからの若い世代の方々にも引き継がれていくようにとの思いを込めて、担当学年の皆さんは企画案を練りに練っ ています。六月の総会を楽しみにしていただきたいと同時に、本年の二木会もいっそう充実させていきたいと考えています。

 執行部一同、今年一年間も「老壮青」、「男女」がともに「修猷の卒業生でよかった」と思えるような同窓会運営を行っていく所存です。よろしくお願いいたします。

(幹事長 渡辺 俊介)

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平成17年度寄付金

平成16年11月1日から平成17年10月31日までに168名の皆様から寄付金が納入されています。ありがとうございました。お礼の意味を込めてお名前を掲載させていただきます。(敬省略。卒年別。順不同)

 また、年会費の納入をまだ済まされてない方は、同封の郵便振替用紙にて早速ご送金くださるようお願い申しあげます。
(1口3千円。3千円以上大歓迎。3千円を超えた額は寄付扱いします。)

00170-6-172892 東京修猷会事務局

修 猷館同窓会本部(福岡)、古田智信(館長)、無津呂武(恩師)、大島毅一(昭4)、冨田明徳(昭9)、橋本胖(昭11)、鎌田正行・宮川一二(昭12)、 明石隆次・高川正通(昭15)、安藤雄三(昭17)、手島一男・不破敬一郎(昭18)、田尻重彦・早野俊一・毛利昂志(昭19)、尾島成美・ジャニイ岩 橋・山田義博(昭20(5))、井上博夫・田中庸夫・野上三男・山本敏男(昭20(4))、太田昭・稗田孝道(昭21)、木下洋一・杉島千秋・濱田理・南 雲進(昭22)、荒谷俊治・伊岐和男・井上洋一・大西勇・白木彬雄・田尻利重・松岡春樹・柳泰行(昭23)、岩佐知弘・山本義治(昭25)、石塚和男・太 田進・大平修・小西正利・中上通敏・中村道生・広瀬貞雄・藤吉敏生・渕上貫之(昭26)、飯田英子・金田久仁彦・榊喜美子・難波榮彦・福田純也・和栗眞次 郎(昭27)、真武保博(昭28)、斉藤弘子・高木道子・永井充子・長尾淑實・長野倬士・村越登(昭29)、稲富治・喜多村寿信・久保久・坂本幸治・遠山 壽一・原田雅弘(昭30)、阿部公明・金谷弘・岸川浩一郎・中村保夫・中山悠・箱島信一・村田和夫(昭31)、井上智晴・島上清明・野間正己・平野煕幸・ 松本智恵子・吉村剛太郎(昭32)、伊藤純江・河野理・城みよ子・寺澤美和子・貫隆夫・藤本規矩・松永貴子・米倉實(昭33)、大谷南郎・尾崎文彦・加藤 泰・川辺猷治・讃井邦夫・伴拓郎・行武賢一(昭34)、小野勝利・可児晋・田代信吾・中村純男・羽立教江(昭35)、安藤誠四郎・久保田勇夫・田中純一・ 田中直樹・土井高夫・光安哲夫・横倉稔明(昭36)、石崎正典・大須賀頼彦・牧文一郎(昭37)、高木佳子・龍野孝雄・渡辺紀大・渡辺俊介(昭38)、久 保田康史・田中滋章・松本睦彦(昭39)、田村幸雄・長谷川閑史・森秀則・由良範泰(昭40)、新井眞理子・淀川和也(昭41)、石川透・小川和夫(昭 42)、広瀬豊・松崎幹男(昭43)、城戸優・長末清美・横田勝介(昭44)、本田由紀子(昭45)、大島宏樹・塚本幸一(昭47)、井手富士雄・古森光 一郎・橋村秀喜(昭49)、乙藤光男・野中哲昌・真崎理香(昭50)、安東泰隆・加藤純一・桐明幸弘・久保田馨・高見信三・時枝一徳・若林美和子(昭 51)、鐘川誠司・古賀敏文・田代佳子・寺岡隆宏・徳永寛(昭52)、上薗勉・島野正興・新納康彦・楢崎健・濱田正弘・堀安裕・村田隆信(昭53)、伊藤 健太郎・権藤祐司(昭54)、井手慶祐・齋藤百合子・奈良郁子・福原直通(昭58)、渡辺守(昭59)、朱雀誉史・諸隈慎一(昭60)、秋本泰行 (H13)

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平成十七年 ニ木会

第517回 H17.1月葉室 鐵夫(S10卒)
元毎日新聞社記者、ベルリンオリンピック200m平泳ぎ金メダリスト
『ベルリンオリンピック金メダル秘話』
第518回 H17.2月広瀬 貞雄(S26卒)
広瀬家第11代 広瀬淡窓の末裔
『広瀬淡窓と日田』
第519回 H17.3月菅 聡子(S56卒)
お茶の水女子大学大学院 助教授
『〈女性〉作家であること〜樋口一葉をめぐって』
第520回 H17.4月伊藤 実喜(S45卒)
伊藤医院 院長
『Dr.Magicは笑いの伝道師』
第521回 H17.5月田中 素香(S38卒)
中央大学経済学部教授
『EUの経済統合と中・東欧諸国の加盟』
第522回 H17.7月植木 とみ子(S43卒)
福岡市教育委員会教育長
『ちょっとだけキーを上げて〜ワタシ流教育行政実践中』
第523回 H17.9月西園 マーハ文(S54卒)
東京都精神医学総合研究所・医学博士
『摂食障害とは何だろうか』
第524回 H17.10月荒谷 俊治(S23卒)
日本指揮者協会会長
『世界の名ホールに挑戦』
第525回 H17.11月高岩 淡(S23卒)
東映株式会社取締役会長
『戦艦ヤマト出撃!』
       H17.12月忘年会
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