題字・松尾金蔵書
発行
修猷館同窓会東京支部
事務局
〒185-0034
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(有)パルティール内
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東京修猷会ホームページアドレス
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大項目 | 中項目 | 著者 | 卒年 |
巻頭 | 「光の器」 | 坂口 寛敏 | S43 |
戦後史の大きな節目の年を迎えて思う | 箱島 信一 | S31 | |
東京修猷会二〇〇五年活動スケジュール | |||
平成十六年総会学年企画 「修猷伝説!〜知ってる?こんなこと」 取材余録 | 花田嘉博先生 | 山口 祐理子 | S53 |
小柳陽太郎先生 | |||
尾嶋信好先生、安武幸文先生 | |||
取材を終えて | |||
第十五回 東京修猷会 『二木会ゴルフ』 | 『二木会ゴルフ』 | 塩田 泰弘 | S53 |
卒業生 | グローバリゼーションとローカリゼーション | 永井 慎也 | S38 |
あなたは、ブッシュが好きですか? 〜二〇〇四年 米大統領選挙考〜 | 湧川 高史 | S53 | |
ベルリンからアテネ五輪へ | 葉室 鐵夫 | S10 | |
NYとLAにて修猷同窓会 | 樫山(宮原)ゆかり | S57 | |
ウォーキング | 石塚 和男 | S26 | |
二木会から | アートで蘇る街 | 坂口 寛敏 | S43 |
囲碁クラブへの案内 | 「ゑびす会囲碁同好会」 | 田中 正夫 | S36 |
「地の広場」 | 「地の広場」 | 坂口 寛敏 | S43 |
同窓生の本 | 「新版 建築学がわかる。」 | 宮脇 洋 | S51 |
「漢字のなぞかけ 字謎のふしぎ」 | 清水 潔 (斎藤 盛夫) | S35 | |
東京修猷会2005年度総会のご案内 | テーマ:「修猷館 文武両道 -栄光の歴史-」 | ||
二木会から | 「声に出す言葉としての日本語の魅力」 | 青木 裕子 | S44 |
「IT技術と私たちの生活」 | 和才 博美 | S40 | |
「金融を巡る環境変化と当社の勝ち残り戦略」 | 牧 文一郎 | S37 | |
出前授業 あこがれの修猷館の教壇 | 大山 毅 | S53 | |
学年だより | 五〇周年記念行事に参加して 六八(ろは)会 | 中沢 郁子 | S29 |
東京修猷五五会 ニセ同窓生? | 岡藤 正章 | S55 | |
会長便り | 創立二二〇年の重み | 藤吉 敏生 | S26 |
’04総会報告 | ’04総会報告 | 藤 勝之 | S53 |
事務局だより | 事務局だより | 渡辺 俊介 | S38 |
平成16年度寄付金 | 平成16年度寄付金 | ||
平成十六年 二木会 | 平成十六年 二木会 |
1949 | 福岡市生まれ |
1973 | 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒 |
1975 | 同大学院を修了 |
1976〜1983 | 西ドイツ・ミュンヘン在住 |
1982 | ミュンヘン美術アカデミー 絵画科卒 |
国際展出品、個展多数
大橋賞、シナジー21、東京国立近代美術館賞を受賞
パブリックコレクション: |
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館友の皆さん、明けましておめでとうございます。それぞれの感慨を込めて新しい年を迎えられたことと思います。
高浜虚子が年初に際して詠んだ「去年(こぞ)今年 貫く棒のごときもの」という俳句のように、年月はただ一筋に絶えることなく流れています。しかし、時間の流れに身をゆだね、流されながらもその時間に節目や目盛を敢えて刻みつけることによって、来し方を振り返り行く末を展望するという営為を絶えず行うという習性を私たち人間はもっています。
さて、今年は歴史の節目、それも大節目の年に当たります。わが修猷館高校が創立二二〇周年という節目を迎えることもその一つですが、日本の現代史を考える上でも、さまざまな節目の年であることに気が付きます。
日露戦争が日本の勝利で終わったのが一〇〇年前。第二次世界大戦が、わが国の敗戦で終結して六〇年になります。昭和二〇年八月十五日は私にとっても忘れることの出来ない日です。疎開先の久原村(現久山町)で小学校二年生だった私は、雑音で聞き取れないラジオの玉音放送を起立して聴き、終わるや遊び仲間と川釣りに行きました。それが敗戦を天皇自ら国民に伝えるための放送だったことを夕方帰宅して初めて知り、子供なりに大きなショックを受けたものです。
また、六〇年前のこの年は、ブレトンウッズ体制ともいうべき戦後の新しい世界経済秩序が門出した年であり、十二月に通貨協定が発効しました。国内ではマッカーサー司令部による戦後民主化へ向けての様々な改革のスタートが切られました。
日本にとっては全国民が打ちひしがれた敗戦でしたが、お隣の朝鮮半島では日本による植民地支配に終止符が打たれた念願実現の年であり、韓国では今年の八月十五日の光復節はとりわけ盛大に祝賀行事が催されることでしょう。
韓国との関係でもう一つ特記されるのは、難航を極めた日韓基本条約が締結されたのが一九六五年ですから、両国は正常化から四〇年を迎えることです。韓流ブームなど昨今の盛んな交流を見るにつけ、四〇年という歳月の重みを感ぜずにはおれません。
国内政治に関しては、左右の社会党が統一し片や保守合同がなって、いわゆる五五年体制のスタートからちょうど五〇年になります。こう見てくると、今年は節目だらけの年であることが分かります。正直言って、新聞としてどれを取り上げ何に的を絞るか、悩ましいところですが、節目に際会して歴史を振り返るのは大切なことだと思います。
統一ドイツ初代の首相として知られたビスマルクは、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と述べています。ある大学の先生から聞いた話ですが、学生の多くがベトナム戦争や第二次世界大戦のことを知らない。それも戦争の意味合いでなく、戦争があったという事実さえ知らない学生がいるということです。多くの若者にとって、戦争とは九〇年の湾岸戦争のこと。第二次世界大戦を知らないから、日本がアメリカと戦ったと聞かされると、「えっ、本当?」ということになる。これはウソのようでホントの話です。
しかし笑い話では済まされません。先日、王毅中国大使と会った際、歴史認識のことが話題になりました。日中間には忘れたい歴史、忘れようにも忘れられない歴史など現代史をめぐる様々なズレやギャップがあります。往々にして加害者は健忘症になりがちである一方、被害者は執拗に過去を抱いて今を生きています。加害者側からみればその執念は鬱陶しい限りで、政治的思惑との絡みさえ疑ってみたくもなるでしょう。
でも私はどんなに辛くとも、あるがままに過去の歴史を直視することは、外国のためというより日本のため、とりわけその未来のために必要なことだと思います。先の大戦で三〇〇万人を上回る日本人のいのちが犠牲となり、国土は焦土と化して多くの文化遺産が失われました。その上いつまで経っても払拭できない近隣諸国に対する引け目や罪悪感。もうこりごりだ、二度とあのような歴史を繰り返してはならない、と思うのが当たり前の感覚ではないでしょうか。
ですから、ビスマルクからたとえ愚者といわれようが、自分自身やその周辺の人々の経験から多くのことを学ぶ必要があります。加えて今年は戦後六〇年。歴史の還暦に当たって、もっと私たちが歩いて来た軌跡を歴史の流れの中で見つめることが肝要だと痛感します。
私たちの子孫のためにも、迎えたばかりの新年を、現代史と向き合う年としたいものです。
朝日新聞社社長
1月 |
会報発行 一月十三日 |
元旦に全会員に送付 二木会 於:学士会館 葉室鐵夫 昭和十年卒 ベルリンオリンピック金メダリスト |
2月 |
二月十日 |
二木会 於:学士会館 廣瀬貞夫 昭和二六年卒 「廣瀬淡窓と日田」 |
3月 |
三月十日 下旬 |
二木会 於:学士会館 常任幹事会(決算見通し、総会内容発表 等) |
4月 |
四月十四日 四月十七日 |
二木会(新人歓迎会) 於:学士会館 二木会ゴルフコンペ |
5月 |
五月十二日 | 二木会 於:学士会館 |
6月 |
六月三日(金) | 総会「修猷館 文武両道 栄光の歴史」 於:日本都市センターホテル (幹事学年は五四年卒)午後六時より |
7月 |
七月十四日 | 二木会 於:学士会館 |
9月 |
九月八日 | 二木会 於:学士会館 |
10 月 |
十月十三日 下旬 下旬 |
二木会 於:学士会館 常任幹事会(総会報告、来年度総会計画発表 等) 二木会ゴルフコンペ |
11 月 |
十一月十日 | 二木会 於:学士会館 |
12 月 |
十二月八日 | 忘年会 |
平成十六年の東京修猷会総会学年企画のテーマは、「修猷伝説!〜知ってる?こんなこと」。十一名、十七時間に及ぶ恩師へのインタビューの中から「モーカリ」「学館」「修猷とは」を中心に十五分弱のドキュメントにまとめた。
今回は、十五分の中では描ききれなかったエピソードの一端をお伝えしたい。
私たちの取材は花田先生から始まった。
先生は昭和三八年から五四年迄修猷に在職され、ご退職後は学館にご勤務。五八年から校長を勤められ、平成六年修猷学館の歴史に幕を下ろされた。
先生は数学嫌いのため入試科目に数学のなかった神宮皇學館へ進学、その後九大国文科在学中召集され、海軍少尉として佐世保へ配属された。
「戦争は人をその『意識』にしますね。」「優秀な人材ほど先に死にました。戦争では貴重な人材を失いましたね。」
そう語る先生は、海軍で理系の勉強をする羽目になり、灯火統制の中、トイレの電球の下で必死の勉強をされた。その中から生まれた信念が、その後の人生で役に立った。
「人間死にものぐるいでやる。追い込まれて必死でやれば何とかなる、ということですたい。」
修猷に着任してから、生徒の鋭い質問に「こりゃおおごとばい」と福岡中駆け回って本を探して調べたお話。
修猷学館経営でのご苦労。
「修猷の名前があるから頑張れた。最後は修猷の名前につながっている以上はその水準に合わせんといかんからですね。」
学館を「潰すことなく返還」した先生の思いは跡地の碑文に残されている。
そして今は「花謡会」という謡曲の会を主宰され、お弟子さんの稽古に励んでおられる。
そんな先生は、修猷で教えた時の精神を今はお謡いの教授に生かしている、と言われる。
「生徒が優秀だからこちらも鍛えられる。上のものをめざす気持ち、緊張。舞台に立つような気持ちが長生きの秘訣ですな。」
取材の折、八四歳になられたばかりの先生。弟子に教授資格をとらせるためには
「あと十年は生きて頑張らんと。」
あの温厚な「花ちゃん」はこんなにもかっこいいおじいちゃん(失礼!)になっていた。私たちの来訪にきちんと話の展開を考えていて下さった先生。お心遣いに感服し、お言葉の重みに打たれて、私たちはお宅を後にした。
香椎宮参拝の後、取材班は小柳先生のお宅へ。
小柳先生といえば、昭和二五年から五八年まで修猷に在職され、今なお多くの信奉者を持つ大先生である。取材班にも先生の授業には鮮烈な思い出があり、一同大緊張でベルを鳴らした。
「いやあ。何を話せばいいのかねえ。」
にこやかに話される先生。張りのあるお声も昔のままである。
泰星高校勤務中、館長じきじきに「スカウト」された先生は、昭和二〇年代を
「波乱もあったがいい時代だった」と懐かしむ。
「いい先生は大雑把だけど学問が好きでねえ。一杯飲んで帰るといい話が聞けたね。」
昭和三〇年代終わりから四〇年代初め、学校の雰囲気が変わった。
「考え方のしっかりした生徒が多くて、文武両道を実践してたねえ。先生も西村先生や金山先生、山本先生といった素晴らしい先生がいてね。」
「前に二木会の講演の時も話したけど、『信なくんば立たず』、これが一番大事なんだな。修猷には『信』がある。モーカリなんか実にいい加減なんだけど、それを『楽しく話せる』雰囲気がある。自主性の前に『信』があり、先生達自身の中にも『信』があったんだよ。」
話がモーカリに及んだ所で、取材班はモーカリの歴史について質問。
「僕が来た昭和二五年にはもうあったね。終わらせたのは僕で本当に申し訳なかった。」
取材班一同、驚愕する。聞けば、先生が教務主任をされていた昭和五〇年代後半、県教委の方針から廃止せざるを得なくなったとのこと。
「モーカリがなくなっても修猷の自主性は何ら変わるものではない、とか言ってねえ。」ふと、遠くを見やる先生。
「修猷は先輩と後輩との結びつきが強い。館歌を一緒に歌えることは実に素晴らしいね。」
福岡は進駐軍の教育政策が比較的緩やかだったので、修猷の校名も館歌も残ったらしい。
「古いものをオーソドックスに大事にするという気持ちが、新しいのものを作ったときの活力になるんだよ。今の教育がだめになったのも、古いものを大切にしなくなったからだね。」
話題は先生が最近最も憂慮されておられる教育問題へ。
「君たちはどんな仕事をしてるの?是非いろいろな場面で教育問題への関心を喚起して、教育に引き寄せて伝えて欲しいね。」
「いい意味でのエリート意識を育てる必要があるね。戦前のことを否定するけれど、戦前は境遇が違っていても平等意識はきちんとあったんだよ。何もかも戦前のことを否定することがおかしいんだな。」
「修猷には旧制高校卒の先生が多かったのがおおらかさに繋がったんだな。修猷の先生の世界の面白さは今はわからないだろうねえ。」
「修猷には戦後の日本が否定した良さがある。修猷の良さを知って欲しいけどなかなか理解されていないな。」
取材後いただいたお手紙にも「修猷館で満喫したかけがえのない教育の世界が蘇る日を念ずるばかりです。」とあった。
そして先生は、学校の歴史への関心の低さも嘆かれた。
「学校の歴史を大切にして欲しいね。資料館ももっと活用すべきだなあ。名前だけでなく、中野正剛、広田弘毅、緒方竹虎らをきちんと知る必要があるね。」
「金印の出た年に修猷が出来たんだよ。同窓会でも修猷の歴史を話題に載せて欲しいね。」
話題は政治、国語教育、と尽きることなく続いた。
小柳先生の今も変わらぬ矍鑠とされたお姿、お話しぶりに、一同圧倒され、そして感激してお宅を失礼した。
尾嶋先生は昭和十三年卒、安武先生は昭和十九年卒。お二人は城南高校での同僚でもある。
お二人の語られる昭和十年代の修猷館中学。当時の校舎の下はたたきで冬でも水がまかれ裸足。ガラスは叩き割られてほとんどなかったという。先輩は怖かった。二本木に呼び出されて殴られる者もいた。戦時中の配属将校の優しい一面や、日露戦争生き残りの軍人「おとっちゃん」の思い出。
その頃からすでにモーカリは存在。時間割変更の天才、西村先生がモーカリ黒板に書くのをみんなでたかって見ていた。
「理屈を言ってO K してくれる先生と、説教した挙げ句くれない先生とがいたけど、標的になった先生からは必ずとってきたな。」と安武先生。なんと、昭和十年代も五〇年代も同じだったのである。
尾嶋先生は昭和二四年から昭和四六年まで修猷に勤務された。初めて女子の卒業生を出した二七年卒を懐かしく語られる。
「あの頃は二本木の精神が残っていて暴力ということがまだ問題でねえ。総務の涙の抗議が印象的でしたねえ。」
安武先生は昭和五一年から六一年まで修猷に在職され、創立二百周年では記念事業部長を勤められた。昭和十四年ご入学時の制帽、五二・五三年卒の閻魔帳、退職時に記念に贈呈された館旗、などなど、たくさんの思い出の品々を持参して下さった。
取材班の「修猷らしさとは?」という問いに安武先生は次のように答えて下さった。
「細々したことをごちゃごちゃ言わないこと。飲み込むところを自分で適当に判断する。」
「どこで区切るか、どこで切り捨てるか、どこでこっちが退却するか。しかしここはもう一つ突っ込んでおこうか、そういう判断が修猷出身であればまず的確で嫌味がない。そこだと思いますね。」
「それは修猷の空気に触れた人、そこで本当に育った人にはすべて言えるね。だからつきあえる。」
我々は探していた「伝説」をここに見つけた。もちろん「モノ」や「歴史」の中にも修猷の伝説は存在する。しかしそれ以上に、「人」の中に修猷の伝説は息づいているのではないだろうか。
資料館や校内を一緒に回り、修猷の歴史を縦横無尽に語っていただいた水崎雄文先生(昭和三〇年卒)。資料館事務室の片隅にあった戦前の館旗のポールを慈しむように御覧になるお顔が忘れられない。
現在福高研修学園の園長をされている北崎公康先生。大御所の先生方に交渉して学校行事を新しくしようとしたお話の中で、共に歩み、若くして先立たれた大久保和之先生を懐かしむ。
今回のインタビューにあたり、尾嶋先生のお世話役に徹して下さった田浦賢治先生は、研究会誌で藤山正紹先生を追悼する特集を組まれた。修猷で薫陶を受けた先輩方を大事にしていらっしゃる。
総会当日にお招きした田中康司先生・加来野靖先生のプレ取材。変化の時代、修猷らしさを守ろうとした先生方のお話や、つわものの生徒たちのこと。
平成世代も教えられた佐々木英治先生・吉里俊幸先生。
「教壇では国語の精髄を教えねば」という小柳先生のお言葉や、「十年、十五年先を見つめて育てる。今度の考査のため、ではなく、将来を考えた授業を」という安東治先生のお言葉を大切にされていたこと。
取材準備段階から協力してくれた現在修猷在職中の同期、志戸田弓子先生・山本恵里子先生。
さまざまな先生方の「修猷を語ろう」という思いがこの企画を現実のものとした。
館友の皆様にもそれぞれ思い出の師がおられることと思う。今回、昭和二〇年代から現在まで、我々とともに「修猷の空気に触れた」先生方のお話を伺う機会を得、改めて修猷の力を感じた。
当日のビデオは次の言葉でしめくくられた。
「戦前、戦後、平成と、時代が変わり、器が変わっても、修猷の空気が確かに繋がっていくこと、これが修猷の最も大きな伝説である。」
この企画で、皆様がひとときでも青春の一日に立ち返り、それぞれの「伝説」を思い出していただけたならば幸いである。
第十五回二木会ゴルフは、千葉県のヌーヴェルゴルフ倶楽部にて、藤吉会長以下二四名の参加の下、十月十七日に盛大に行われました。前週の台風の影響が残り、当日の天候が心配されましたが、午後からやや風が出たものの抜けるような青空の下、世代間の交流を図りつつ秋の一日を楽しむことができました。
本コースは東京からの交通の便が比較的よいこと及び過去二木会のゴルフコンペを行った事がないことという基準にて選定しましたが、既存の樹木を多く残し開場三年目とは思えぬほど落ち着いた雰囲気がありました。但し、オーガスタと同じ芝を使用し、固くて早いグリーンには皆さん苦労されたようでした。
さて、大会の方は、前回に引き続きハンデ戦にて行いました。優勝の栄冠は、グロス八九、ネット六三、という素晴らしいスコアをマークされた岡田知子さん(S 四五年卒)に輝きました。
女性の優勝者は第四回の伊藤洋子さん(S 三五年卒)に次いで二人目という快挙で、男性参加者全員脱帽でした。男子ベスグロは、八三でラウンドされた田中昭人さん(S 五六年卒)で、女子べスグロは優勝の岡田知子さんが獲得されました。
また、第1回から連続して参加されている伊藤洋子さんには、皆勤賞が贈られました。さらに、見事イーグルを出された松尾隆広さん(S 五四年卒)にも、特別賞が贈られました。
次回は、四月十七日(日曜日)に開催の予定です。出来るだけ早い時期にコースを決めて皆様へご案内致しますのでどうぞご期待ください。皆様の奮ってのご参加お待ちいたしております。
グローバリゼーションについては諸説あると思いますし、既に皆様にとって身近なものにもなっているのかもしれません。外国への投資、留学、旅行、あるいは、ご近所への外国製品や産物の出現や外国人との交流などもどんどん増えてきていると思います。更には、物の規格や会計基準などシステムに関係するような事も世界基準のようなものが増えてきていますし、スポーツでもメジャーリーグやサッカーなど国境を越えてどんどん発展してきています。
このようなグローバリゼーションの現象は、一つには、以前の事になりますが、冷戦が終了したことにより東西の壁が無くなり、世界が単一化したこと、また、コンピューターの発展により情報革命が起きたことが挙げられるとおもいます。確かに私は今アルゼンチンにいますが、地球の反対側にいるにもかかわらず、コンピューターのおかげでそんなに遠くにいると感じません。このグローバリゼーションの影響は、とくに経済の面に見られ、市場が世界大に拡大したことにより活力ある企業はその活動を更に強め、また、人の移動が大いに刺激される状況になっています。
このような動きは自然なようにみえますし、その通りでもあるのですが、他方において顕著に感じられるのは、ローカリゼーションの顕在化です。何故ローカリゼーションなのかについては、これまた諸説あると思いますが、やはり感じられるのは、バランスの感覚ではないかと思っています。単一化の方向は良い面は確かにあるのですが、やはり全体として考える場合、各所或いは各単位からの貢献が重要であり、その事により全体が更に豊かになっていくという関係です。植物などでも純粋培養的なやり方とともに、ヘテロな、即ち異質なものの混淆がその植物の発展に必要とされていることと似ているとも言えるかと思います。グローバリゼーションは、その事自体の発展とともに、ローカリゼーションの発展をも必要としていると考えられます。
このように見てみますと、今我が国日本に必要とされる事は、グローバリゼーションのメリットを大いに活用するとともに、我が国固有の伝統や考え方など独自のもの、即ち、そのローカリゼーションに更に磨きをかけ、大いに世界に向け発信していくことだと思います。この点において、我が国は大いに期待されており、また、それに応える能力を備えていると思います。
遠くアルゼンチンに居ていろいろ考えますに、我が国を取り巻く国際状況の一つがこのようなものであるとするならば、私も諸学兄とともに頑張らねばならないと思う昨今です。 (了)
「同時多発テロが、フセインとアルカイダの画策だと言ったことは一度もない。」六月、ブッシュ大統領は、議会の独立調査委員会がまとめた三年前の事件報告に対して、こう強弁した。更に選挙戦終盤の十月、今度は政府の調査団が「イラクに大量破壊兵器は存在せず開発計画もなかった。」と結論を出すと、これに対してもブッシュ大統領は「フセインが兵器や情報をテロ組織に渡す危険があった」と反論し、「フセイン政権打倒で、アメリカも世界もより平和になった」と主張した。
致命的、と思った。選挙の、殆ど唯一の焦点で、事実誤認と論理矛盾を意図的に繰り返す政治家が、民主主義を大義とするこの国で指導者に選ばれるはずはないと考えていたからだ。しかし、この見方は間違っていた。
選挙戦の天王山、第一回のテレビ討論会で、ブッシュ大統領はケリー候補にイラク戦争の根拠を衝かれ、しばしば立ち往生する。画面に映し出された背中の長方形の膨らみは、選対本部のカール・ローブと交信する無線機だったという疑惑も生まれ、直後の世論調査の支持率で、ブッシュ大統領はケリー候補に逆転された。
更に、第二回。ケリー候補が富裕層への増税とヘルス・ケアの充実を言明し、中間層に支持を呼びかけた。ベトナム戦争などを巡る中傷合戦に終止符を打ち、政策で引き離しにかかったケリー陣営の作戦は定石通りで、流れを決めるかにも思えた。ところが、世論調査は互角に戻ったのだ。
同じころ、全米に散っていた取材チームの映像がニューヨークの私達のオフィスに届き始めた。戦争、宗教、雇用、文化、差別、貧富、銃規制。有権者は、どちらの候補をどういう理由で支持するのか、その支持はどこまで広がっているのか。インタビューは、それまで薄々は感じていたが、霧に包まれているようではっきりは分からなかった選挙の争点を明確にしていた。
『ブッシュか、ブッシュじゃないか』。ベトナム戦争で負傷しながらも、戦功に誇りを持つ退役軍人。雇用不安に怯えながらも同性愛や中絶に反対し、キリスト教の伝統を重んじる工場労働者。機会均等よりも、アメリカンドリームに期待するヒスパニックの貧しい若者。開拓者だった曽祖父から受け継いだライフル銃が一家の宝と答える農民。ブッシュ大統領への支持は、想像以上に強く根深い。
対して、ファルージャの掃討作戦に駆り出されている甥から毎日のようにメールを受け取るブロードウェーの俳優。人種差別と貧困の撲滅を叫ぶラップ歌手。ネットで反戦、同性婚、環境保護を呼びかけ、三百万人の会員を持つ草の根活動家。フロリダの投票は不正だらけだと訴える黒人女性。「ブッシュはもうたくさんだ」と答える。「だから、ケリーに投票する」という彼ら以外の有権者が、反戦を呼びかけるでもなく、「私ならもっとうまくやる」と主張するケリー候補に、一票を投じる動機はあったのか。
結局、選挙は予想以上の大差だった。票の分析はこれからだが、今はこう考えざるを得ない。ケリー候補は“ブッシュでないだけ”だったのではないか。ブッシュ大統領はブッシュの選挙を戦ったが、ケリー候補もブッシュの選挙を戦ったのではないのか。
「アメリカ国民は、同時多発テロで初めて唯一の超大国になったことを自覚した」と言う評論家がいる。「強くあらねばならない」、「隙は見せられない」。この国を形作ってきた多様な価値観が、一つの問いかけに集約されている。「あなたは、ブッシュが好きですか?」。外国人の私は、不安を感じている。(十一月八日)
昭和六年修猷館入学。友人が水泳部に入るのに同席したばかりに私も水泳部員となる。まるでしろうとだった私も、二年生の秋には全九州大会で優勝、三年生で全国中学(今のインターハイ)で優勝。四年生で日本選手権二位、極東大会日本代表に選ばれる。
昭和九年日大予科に進み、秋のインターカレッジで世界一の小池礼三選手を世界タイ記録で破る。以後昭和十五年、世界記録保持者のまま引退するが、この間オリンピック優勝を含み公式戦不敗で毎年世界十傑のトップを守った。
昭和十一年(一九三六)ベルリンオリンピックに世界最強の日本水泳チームの中心選手として出場、200m 平泳ぎで地元ドイツのジータス選手の追撃を押して優勝する。ナチスドイツが国力をあげて開いた五輪、空には巨大な飛行船ヒンデンブルク号が、サッカーグランドをたてに二面つないだよりも長い姿で低空で飛ぶ、十万観衆のスタンドが、空を塞がれたようで、我々はどぎもを抜かれた。聖火リレーもこの大会から始まった。
最終日の私のレースにはヒットラーも来場し、地元ドイツの大声援の中でのレースで、私は日本の水泳三連勝の責任を果たすことができた。
アテネ五輪は、日本選手の活躍の場面が多く、大いに感動させられた。メダル最多の柔道は日本の特技「勝って当然、二位では負け」といった雰囲気だが、やはり優勝の場面を見るのは嬉しいもの。
体操団体で若手選手の大逆転優勝は立派だった。しかしかつての体操全盛時代のような個人戦でのメダル狩りはなかった。水泳もかつての「水泳日本」復活への歩みを見せてくれた。平泳ぎ二種目優勝の北島康介はかつて平泳ぎで五連続優勝の鶴田選手とともに偉業とたたえられる。それよりも女子800m 優勝の柴田をたたえたい。日本選手の自由形優勝は戦前のベルリン五輪1500m の寺田以来、女子は初めてのことである。
そして女子マラソンの連続優勝の野口みずほ。前回の高橋尚子と同様、後半2時間を過ぎての抜け出しは、オリンピックはタイムの争いではなく、「人と人の争い」ということを実証したものである。
ただ残念なことは薬物違反で二十人の失格者を出したこと。オリンピックのプロ化がこのような不名誉な事件として現れてきた。
勝利のあと、犯罪人扱いの検査を受けるなど、私にはとても耐えられないことである。
昨年七月二十日に、ニューヨーク市にあるハーバードクラブにて、修猷館高校同窓会が開催されました。ここはあの有名な大学の卒業生の社交の場として百五十年前に建てられた会員制クラブ。
その伝統ある建物三階の宴会場にて、修猷在学生十二名、古田智信館長、御領園昭彦教諭、山本恵里子教諭を迎えNY在住OB十名、ボストン在住OB二名、LA在住の私、参加者のゲスト三名、と総勢三十名の賑やかな晩餐会でした。
まず参加したOB各自から、これまでの社会経験から現役高校生に贈りたい言葉を述べ、その後、各テーブルに在校生とOBとが混ざって交流を持つ。
平成一三年に卒業しNYに留学している松浦愛さんは、高校在学中からもっと将来の進路について考えておきたかった、と述べた。
平成十一年卒の山城萌子さんも、ボストンでの留学生活について経験を述べた。
苦学をされ東京大学とハーバード大学院を卒業された高橋規氏からもアドバイスと、諸外国でのエピソードが披露された。
皆さん素敵な体験談やアドバイスをされ、全てを紹介できず残念です。在校生の方にとって貴重な体験になったと思われます。目をきらきら輝かせ話を聞き質問される姿がそれを物語っていました。私も修猷の学生だった頃はこのように純粋で輝いていたか?と考えに耽りました。
また十一月六日、ロサンゼルス郊外ガーディナ市割烹磯源にて、LA修猷同窓会夕食会を開催。これは、NY在住の水月文明先輩のLA訪問に伴い、三年半冬眠していたLA修猷会の復活の会合となりました。十四名が参加。
蟹鍋、蟹雑炊を囲んだ団欒と新メンバーを含む各自自己紹介、館歌斉唱、記念撮影を行い、次回も是非すぐにやろう、と修猷の団結を誓い別れました。
参加卒業生(敬称略)
水月文明(昭二九)、永川文一(昭三六)、桑本英彦・公子夫妻(昭三七)、宗伸之(昭三九)、山田哲義、西山薫(昭四九)、山本(和田)真奈(昭五三)、前野(松井)美詠子(昭五六)、江口昌彦(平九)。
修猷館は美術の分野に於いても和田三造、児島善三郎、中村研一他、日本近代美術史に名を連ねる先輩諸氏を多く輩出している。美術に携わる私の現在は、この文化を育む郷土に育ったこと、美術の河原大輔先生のデッサン指導、県文化会館全館での修美展の開催等、美術部活動を受け継いだことが大きかった。
八年居た留学先のドイツでは、美術家もかなり過激で、ヨゼフ・ボイスが、緑の党を作ったりしていた。そこで私の作風も大きく変わった。インスタレーション(仮設展示)では、それが置かれた場所や時間や来場者と作品は、密接な、時に相互的な関係を成立させる。
新しい美術と地域復興の事例として、越後妻有アートトリエンナーレについて。
「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2000/2003」は「ニュー新潟里プラン」として、越後妻有地域・六市町村の河岸段丘や里山の広大な自然の中に点在する現代アート作品を通じて、地域活性化を試みた。企画のユニークさもあって、世界にも注目された。「現代アートは分かりにくい」という声の一方、「若い人が来てくれて楽しかった」「住民と協働で作る芸術祭、ワークショップの手法」「こへび隊」という都会の若者が大勢参加したこと等は注目に値する。
私が関わったミオンの森公園は、信濃川河川敷の全長約2Km の中に配置されたランドスケープアートである。川は自然の循環系の脈流であり、また天と地を往還する時間軸を内在している。私は土地に入り、この循環系に接続して創造する。その時眼前の大河と天空の銀河が接合され、身体の中に流れ込むと実感する。「星の広場」「地の広場」「水の広場」をつくり、下流域の植生保存エリアと結ぶ散歩コースを配した。
東京修猷会の中で数年前から首記の囲碁同好会が、ゑびす会の中の同好会として稼動しています。
「ゑびす会」は、在京の修猷舘柔道部OBの懇親の場として清原慶三氏、和栗眞二郎氏(いずれもS二七年卒)を中心として発足し、清原氏から活動の場を提供いただいて運営している会です。
その後柔道以外にも広くオープンし、囲碁は年二〜三回の大会、大会のない月には例会、更には、熊本高校OBとの定期的な交流試合を行うなど、最も活発に運営している同好会と言えます。
このような状況から、この「ゑびす会囲碁同好会」を東京修猷会の囲碁クラブとして位置付け、囲碁愛好家の諸兄姉に周知をはかり、広く参加を呼びかけることに致しました。
この会は定例で大会及び月例会を開催していますが、新規参加会員にも早速同会での囲碁の雰囲気を味わっていただけるよう、熱のさめないうちに二月に大会を開催することにしています。こぞってご参加ください。
囲碁好きの方、初心者いずれも大歓迎です。
参加時間随意
場所はいずれも「ゑびす会事務局」
エクサビル六階:渋谷区恵比寿三ー一ー七
T E L /F A X :0 3-3 4 4 6-4 4 8 2
大会に関しては会場スペースの関係上参加者数によって場所が変更になることがあります。
参加申込み、問合せは
「ゑびす会事務局」(http://www.ebisukai.shuyukan.org/)又は幹事まで
幹事:辻本 治(S三〇年卒)
T E L /F A X :0 4 2-3 4 1-6 1 5 4
田中 正夫(S三六年卒)
T E L :0 3-3 4 3 2-5 8 2 1 /F A X :0 3-3 4 3 5-7 3 2 4
月例会に関する問合せは左記の例会幹事まで:
山田 昌男(S三五年卒)
T E L /F A X :0 4 3-2 5 6-3 8 6 5
河辺 勲(S三五年卒)
T E L :0 3-3 7 2 0-7 3 2 5
朝日新聞社アエラムックの通称「学問シリーズ」は、一九九四年六月刊行の『経済学がわかる。』以来、十年間に約百冊を数えます。私がその三代目編集責任者を引き継いだのが二〇〇三年九月。すでに主だった学問分野はほとんどカバーされ、学生の「硬モノ離れ」が進み、他社のムック出版が競合するなど、セールス的にはなかなか厳しいのが現状です。
九七年に出した『建築学がわかる。』の改訂新版を企画したのは二〇〇四年春でした。折から世は建築ブーム。テレビ番組で家のリフォームが取り上げられたり、「カーサブルータス」のような雑誌が若い世代に受け入れられるなど、その兆候が散見されました。
改訂にあたって相談をもちかけたのが、修猷館昭和五一年卒業の同級生、市原出君でした。市原君は建築家として活躍する一方、東京工芸大学教授として教壇に立つ気鋭です。旧版に改めて目をとおしてもらい、どの部分を残し、どういう内容を新たに追加すればよいのか意見を聞こうと、若い担当編集者を伴って会いに出かけました。
いきなり、市原君は切り出しました。
「ずいぶん偏っているんだよね。もう少し、いろいろあってもいいかもしれない」
私には、思いもよらない指摘でした。そうか、偏っているのか。この一言で、なぜか気分が楽になりました。よし、では思いきって新しい内容をいろいろ盛り込もうではないか、と。担当編集者が携えていた「若手建築家の仕事」「住まいと建築」「再生の時代」といったアイデアが、その場であっという間に具体化され、新版の骨格ができあがりました。市原君は「住まい」の項目での執筆を快諾してくれました。
編集作業の途中、改訂の方向性に異を唱える声も伝わってきましたが、私はまずまず新鮮なものに仕上がったと満足しています。読者のみなさんにある程度、受け入れていただいたようなのも、喜ばしいかぎりです。
「字謎(じなぞ)」、という言葉には聞きなれない方も多いことでしょう。一口で言えば、漢字を材料にしたパズルです。しかし、いわゆる漢字当てのパズルやなぞかけとも違います。中国で生まれた漢字を分解していくと、文字の一つから古代の社会や哲学、美学までが見えてきます。それを知ることを愉しむ知的ゲームです。
例えば、「修猷館」の「猷」の字に、なぜ「犬」の字があるのでしょうか。
犬は、イヌの象形文字です。古代社会では、犬は聖獣でしたから、犬を生贄にした祭事や葬儀、裁判などが行われていました。猷の字の旁の「酋」は、酒を醸造する壺(酉はその象形文字)から酒の香気が壺からあふれる形を示します。上部の「八」の字が香気です。この香気は、祭礼のとき、神気が降りてくる様子に似ているということから、その意味も示します。そうした犬と酋を組み合わせた「猷」は、神にはかってその神意でことを決める意味があります。そこから猷は、「はかる」と訓読みします。「みち」とも読むのは、神意によって正しく進むべき道を示すからです。修猷館には、「みちを正しく修める神聖な館」の意味があります。
字謎は、こうした漢字に秘められた意外な事実を明らかにする知的な遊びです。
字謎にすると、次のようになります。それぞれが一つの漢字を表しますが、その漢字を考えて、それに共通する「つくり」を当ててみましょう。
人の前では平身低頭/酒気を帯びるとはかりごと/言葉を発して囚われる/口をそろえれば大声で泣く
日本では、詩歌の文芸としても字謎は江戸時代まで盛んに創られていました。本書では、古典から現代までの名句・秀句を採録して、漢字に隠された面白さを紹介します。
解説は、本書をご覧ください。
(答…伏 猷 獄 哭 風車・戎・蝉)
健康はその人の生まれて以来の努力の累積成果である。最近は若年層まで生活習慣病が問題視されて来ているが、その原因は環境の悪化・運動不足と過食(偏食)、それに過剰のストレスによるもの。日本は世界一の長寿国だが、実は要介護期間が最長。ガンを含む生活習慣病を防止するには、当然のことながら、肥満の防止、免疫力の向上が重要であり、それには適切な食事と良い空気を十分に吸って運動を継続すること、そして十分な睡眠が不可欠である。
特に節食のみのダイエットは不可。栄養のバランスが崩れ、体調不良になるばかりか、エネルギー消費のもとになる筋肉が先ず減少してしまい、リバウンドするのは至極当然。
運動の継続には、無理のないウォーキングが最適。望ましくは早足で一日三〇分以上。
歩かなければ歩けなくなる。歩けなければ寝たきりになる。歩かない生活が歩けない老後を作る。
ウォーキングの利点はここで全国的に活発に活動している日本ウォーキング協会(JWA)を紹介しておこう。
私達夫婦も入会し、全国各地を訪れ、いろいろな人々との交流を通して、エネルギーをもらっているので、今後も続けて行くつもりである。
-朗読に魅了されたわたくし-
数年前のこと。N H K のラジオ第一放送「ラジオ文芸館」から聞こえてきたアナウンサー青木裕子のなんともいえない艶やかな声。その時の作品が山本周五郎の『釣忍』。高校時代テニス部でともに過ごし、同じ大学に進み、卒業後も時に一緒に飲んだり食事をしたり過ごしており、勝手なイメージを持っていた私には大きなショックでした。あの青木裕子がなんでこんなに若くはんなりとした風情を声に乗せて表現できるのか。ぐいぐいとその朗読の世界に引き込まれました。まいった。
そして、その後に再び彼女の朗読を聴いたのが、明大前にある小さなホールでの宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。二時間を越す大作。今回は、少年の中性的な張りのある声で、また別の世界へと私を運んでくれました。あたかもそこに広がる宇宙に自分自身が居るような感動でした。終わって涙している中学生の男の子がそばにいました。
眼で文字を追って広がる映像のない世界とは違い、朗読は、一つ一つのことばに、作家の魂、その作品が生まれた風土・時代・空気までを表現し、表情をつけてくれるもの、作家の心と聴くものの心が直に対話する架け橋となるものと魅力を新たにしました。
二木会での講演の中で、青木さんは実に艶っぽく『釣忍』を朗読してくれました。この夜の出席者のみなさま、とくに諸先輩がたは、酒ならぬ青木さんの声の色香に酔いしれていらしたとお見受けいたしました。二木会にご出席できなかった方に、朗読画集『銀河鉄道の夜』(画=エム ナマエ/朗読=青木裕子・N H K 出版)をご紹介いたします。銀河の旅を味わってください。
甲畑 眞知子(S 44 年卒)
インターネット
一九六〇年頃の冷戦当時、アメリカが核攻撃を受けた時にでも何とか通信を確保できるネットワークを求めてインターネットが開発された。固定電話はネットワークの交換機が攻撃されて機能しなくなると通じなくなるが、インターネットはある部分のネットワークが核攻撃で破壊されても、自分で他のルートを探して繋ぎに行くので大丈夫なのである。
インターネットは今、世界中で八億台のコンピュータに繋がっていて、2.3 億のウエッブサイトが存在する。インターネットの一番の問題はセキュリティー(ウイルス)問題である。
各種通信の利用者数
ピーク時には六三〇〇万あった固定電話の加入者数は、今では六〇三〇万である。携帯電話は急激に増え、今や日本全体で八五〇〇万も加入者がいる。
八五〇〇万の携帯加入者のうち、六八〇〇万加入者がi モードのようなインターネット接続をしていて、これらを加えると日本全体で約一億人がインターネットをしていることになる。
ブロードバンド通信
ソフトバンクなどが広めているADSLや光ファイバーを使ったブロードバンド通信の加入者数は、もう一四〇〇万に達している。実は、加入電話の数はあまり減ってはいないが、通話量は減って来ている。インターネットやメールが増えて従来の通話があまり必要なくなって来ている。
新聞の情報量が約1.4 万字で約八五〇万ビット、これを64 KbpsのISDNで送ると二五分もかかるが、ブロードバンドの光ファイバーだと0・085秒で送ることができる。
無線タグ
微細チップにコンピュータが埋め込まれており、これを商品等に付けるといろいろな追跡が容易に可能になる。安全管理などにも利用できる。
レゾナントコミュニケーション
映像でのコミュニケーション、即ちテレビ電話等が最もブロードバンドの利用方法として有効である。これをレゾナント(共鳴・共振する)コミュニケーションと名付けた。テレビ電話やテレビ会議は、例えば化粧品の対面販売を実際に人を派遣せずに実現できる。また、車のデザインを世界中の研究所で同時に検討する場合にも実際に人を行き来させずにできるなどの利点がある。遠隔医療にも有効である。
なるべく簡単にブロードバンドを使える研究も進めていますので、みなさんもブロードバンドを活用して豊かな生活を送ってください。
保険会社というものは銀行ほどには理解されていないので、この機会にぜひ理解して頂きたい。銀行、証券、保険と価格の自由化が進んで来たが、保険の価格は市場の需給原理では決まらない。保険の約款に基づき約束事の発生確率と損害の大きさによる確立統計論で値段が決まってきた。価格の自由化のテンポが最も遅い業種である。
現在は、純率(支払保険金に充当される部分)は、算出機構が参考料率を提示することとなっており、それを元に各社が独自に商品内容を吟味した上で各社別々の保険料になっている。
価格の自由化への当社戦略としては、合併によるスケールメリットを追求し事業運営費の削減に努めて、価格競争力を保持することによって、営業収支残(一般企業での粗利益)N O . 1 を目指している。その結果、二〇〇一年度4.5 %、二〇〇二年度6.4 %、二〇〇三年度には8.8 %を達成した。
商品の自由化
一九九六年度までの旧保険料法では、各社同一商品が基本であったが、今では各社自由。当社戦略としては、一九九九年にニーズ細分型の自動車保険ONE(ワン)を発表。一九九九年におけるONEの商品開発コンセプトは補償の充実と価格の適正化、すなわち値下げと内容充実の両方をやった。
ONE-DOは更に事務処理の合理化をやった。ニーズを細分化すると、車種、年齢、免許証、用途、住所等、インプット項目の増大と代理店を介在させることによる現状事務処理の複雑化があるが、これにチャレンジした。保険料は先払いが原則であるが、それを緩和して完全キャッシュレス化を実現する等により事務処理十四行程を六行程に簡素化した。
業務の自由化
外部環境としては、銀行、証券、保険の相互参入が可能になっている。私どもの保険商品を銀行が代理店となって売るという、販売の相互参入もできる。周辺業務も確定拠出年金などの業務が相互参入で出てきている。わが社は損害保険を一一〇年くらいやっているが、その上に生保を乗せて完全子会社の損保ジャパンひまわり生命を作った。この生保事業は、米国の生保会社を買収するという初めての形を取った。米にCIGNA社と50 %出資の合弁企業を先ず設立し、ノウハウを得た時点で100 %子会社化している。
会計制度改革
アメリカ基準で全てが見える会計報告が必要。当社も厳しい基準を導入し、赤字決算に耐えて財務体質を健全化したことがV字回復に繋がった。
経営情報の開示
Disclose(開示)による透明化で、科学的な経営ができるようになった。
企業の社会的責任
新宿の本社ビル四二階に美術館を有し、名古屋には人形劇専用ホール。大阪には裏千家の茶室を三つ。地域密着、文化活動、環境、この三点から社会貢献をしている。
企業の組織再編
二〇〇一年九月十一日のアメリカ同時多発テロによって、当時の大成火災が債務超過となり、大成火災・日産火災・安田火災の合併がご破算になりかけてしまった。会社更生法の適用が決定されたので、スポンサー責任として私が管財人として大成火災に行き、更正を助けた。
雇用体系の変容
年俸制、成果主義にして、総人件費の抑制に努めている。女性の活躍を重視している。
まとめ
CS(顧客満足度)を向上させる。優秀な社員が納得して仕事ができるような仕組みを作る。ES(社員満足度)なくしてCSなし。
暖かな初秋の福岡。平成十六年十月二三日土曜日、朝八時四五分。開け放った窓からかすかな風が流れ込む修猷館の教室で、私は十八人の高校一年生を前にしていた。高校一年と言えばまだ十五歳、「幼いですよ」と事前に先生から言われていた。でも、私の印象では、中学生よりは確実に大人だ。東京で見かける学生よりも落ち着いている。それは、彼らの服装のせいかもしれない。昔とまるで変わっていない。男子は詰襟にスニーカー、女子は六光星入りのセーラー服に紺色のハイソックス、カーディガンと皮靴が多い。そこにマスコミを賑わす高校生の姿は無い。ちょっとうれしくなった。
私は公認会計士として、この出前授業に呼ばれていた。地味な印象の分野が他の授業に対抗するため、テーマは、「会社員と公認会計士、あなたならどっち?」と、俗っぽく受けを狙ったのだが、どうだったろう。授業の内容も結構悩んだが、真剣に将来を考える生徒のために、少々退屈でも正攻法で行く事にした。
私に与えられた時間は、一時間半。最後の十分程度を生徒の感想文記入時間に充てることになっている。使える時間はあまり充分ではないが、話したいことは山ほどある。
結局、次のような三部構成として、事前にレジュメを配布した。多分、時間が足りなくなるからだ。先達に習って出席をとってから、授業を始めた。
第一部(三〇分):会計の基本として、利益の算出の設問を3つ用意した。狙いは、会計とは事業に不可欠のルールであると同時に、いわゆる「法則」ではなく単なる「技術」であってそんなに難しいものではないことを、感じてもらうこと。
第二部(三〇分):公認会計士という資格と、会計監査について解説した。直前に、ダイエー関連で、監査法人から銀行支援打ち切りならば中間決算を承認せずと通告され、とうとうダイエーが再生機構活用を受け入れたという事件が発生したため、これを題材として急拠追加した。ダイエー問題はホークスの行方にも影響するから、福岡の高校生の関心を引けるかなと考えたのだが。
第三部(残り):銀行勤務から、公認会計士へと大きく回り道をした自分の経験から、普段考えていることを話した。ちょっと、とりとめの無い話になったかもしれない。
生徒の反応は想像通りで、大きな声での返事はない。ただ、どうも聞いているらしい。それだけは感じた。こちらも不思議な刺激を感じて、結構楽しい時間を過ごした。高校の先生になるのも一つの選択肢だったかなと思ってしまうほど(もちろん修猷館以外は想像できないけど)、いい経験だった。私自身は、是非次回以降も呼んでもらえるよう祈っている。交通費が持ち出しになるが、それでも結構面白い。肝心の生徒の感想文は、まだ見せてもらっていないけれど。
東京修猷会の会員の皆さんにも、是非この出前授業に参加することをお勧めします。よく分からないけれど、文句なしに楽しくて、やり甲斐あります。
(大山公認会計士事務所)
卒業以来、早いものでもう五〇年もたちました。その記念の行事を地元福岡で催す為に博多在住の六八(ろは)会の皆が中心となり、実行委員会が発足したのが二年前で、倉成会長以下、三十数回も企画会議を行って準備をして来ました。
九月五、六、七の三日間が本番となり、参加したのは海外組、東京その他の地域組を迎え地元と合せて一五〇名近くも出席しました。
まず、「前夜祭」がセントラルホテルフクオカで催され、夜遅くまで、久し振りの再会に楽しく大いに盛り上がりました。
翌日は、メインイベントとして、小柳先生(若々しく、お元気で、声も気力も充実してすごい)の記念講義が新しく出来た修猷館の階段教室で行われました。論語からはじまり、万葉の歌で締めくくられたその講義はこんなに立派な先生のお話がいつでも聞く事が出来た学生時代は何と恵まれていた事かとつくづく思い知らされたものでした。その後は、新しくなった校舎の中を、教頭先生が案内して下さいました。エレベータのある校舎には、皆すっかり驚いていましたし、立派なお茶室や、柔道練武場にも感動し、又廊下にさりげなくかけてある「広田弘毅」の肖像画には修猷の無言の「誇り」を感じました。
次の日は「祝賀会」が「ホテル海の中道」で行われました。大変おいしいお料理と共に、「博多にわか」がシンガポール在住の岡田さん、東京組の古賀さんで演じられ皆大笑い。その後は「ア!六八(あ・ろ・は)・ハワイアンズ」面々の大熱演で最高潮に達しました。何しろ、このバンドは準備会発足以来週一回は、必ず集まり練習に励んで来た腕前で、バンマスの水月さんは、ニューヨーク在住なのにわざわざ何回も帰国して練習に参加すると云う力の入れ様でしたし、スチールの波多江さんは自宅事務所を改築してスタジオにしてしまい、練習場を提供するなど皆さん何とも涙ぐましい努力の結果ですから本当に素晴らしい演奏でした。それに諌山さんと私がフラダンスで参加し拍手かっさいで感激でした。余談ですが、このバンドはこれからも続けたいとの事で、次には池元治先生が入所していられるホームへ慰門団として伺う予定だそうです。
翌七日は十八号台風が吹き荒れてゴルフ大会は中止になってしまったのは唯一、残念でしたが、今回の記念行事は本当に心に残る素晴らしいものでした。青春の一時期を修猷館と云う学校で、先生に恵まれ、学友に恵まれて過ごすことが出来、何と幸せであったかと云う事を改めてしみじみ感じさせられました。この会をお世話して下さった地元の六八会の方々にも心から感謝しております。
母校修猷館は今年、創立二二〇周年を迎える。一七八四年(天明四年)に福岡黒田藩の東学問稽古所として開校以来二二〇年、再興してから一二〇年の歴史を刻むことになった。この節目の年に当たり、修猷館という学校を私なりに見つめ直してみたいと思う。
修猷館は何とも不可思議な学校である。僅か三年しか籍を同じくしていない、もっとも私たちは六年間在籍したが、にもかかわらず世間に出てからの修猷館のOBやOGの同志的結合の強さは異常としかいいようがない。
故郷福岡を離れて東京で生活しているからだろうか│と思ったりもするが、どうもそうではないらしい。地元福岡でも同じのようだ。
他の高校からみれば「なんやー修猷の連中は」となる。いちども会ったことがない人から「私、修猷館卒です」といわれようものなら、即、親近感がわき、旧知の友となる。これは、私だけの感情ではなさそうだ。そこには修猷館という伝統の重み、質朴剛健、自由闊達の校風、それに加えて、よき先生方、同輩はもとより先輩や後輩に囲まれての学校内外の活発な交流がその背景にあると思う。こうした点が重なって、いつの時代にも仲間意識を高め、同窓生として団結を強めていく。
修猷館の卒業生は驚くほど多くの分野で活躍している。このことは、毎月の二木会に登場する講師の顔ぶれをみれば納得できるし、その人達が広くわが国の国益に貢献していることを思えば、修猷館は遠い昔からすばらしい人材を輩出している学校といっていいだろう。いま企業は人材不足に頭を痛めているという。そのことが、わが国の将来に不安感をかきたて、若い人の夢を奪う要因ともなっている。
こうした混迷の時代にあって、修猷館で学び、これから社会に飛び立つ若い卒業生が多くの先輩達と同様に強い信念と確固たる価値観を持って社会に役立つ人に成長して欲しい。修猷OBの一人として、そう願わずにはおれない。
最後に、私と同期のS二六年卒の来嶋靖生君が二〇〇年に当たり作詞した修猷館二〇〇年讃歌の一節を記しておく。
鶴の舞ふ
菁莪の苑に つちかひし
文武の道を いまの世に
生かし伝ふる 若人や
ああ玄海の 潮鳴りに
質朴剛健 ゆるぎなく
若き血潮は 激ち来し
修猷いまぞ 二百年
危惧したとおり・・・雨、だった。来るべき猛々しい夏を予感させることもない、その日の空そのもの、鉛色の不安とともに、六月十一日、S 五三年卒実行委員達は集まった。
個人的なことを言えば、自分は上京以来、一度も「東京修猷会総会」なるものに出席する機会を得なかった。歴史に残る素晴らしい運営をされた、と聞いた昨年ですら、その日は、会場とは目と鼻の先に所在する勤務先で、お手伝いすらできずに、仕事という「日常」に、完全に埋没していたのだった。その「贖罪」のつもりで参加した実行委員会であったが、約一年半の間に、素晴らしい経験を私に与えてくれた。
二〇〇四年総会のテーマは、「修猷伝説!〜知ってる?こんなこと」とした。集まって論じているとき、自分達が知る「修猷」とは、思いのほか狭いものであった。各世代とも程度の差はあれ、その限界は存在するであろう。ならば、母校について「へぇ!」と感ずることができるようなエピソードを、可能な限り集めてみよう。その過程で、「修猷が、修猷たるもの」が浮かび上がってこないか、そういう期待からであった。
当初は、資料を徹底調査することで、T V 番組の「トリヴィアの泉」のようなクイズ形式を実施しようとも検討した。結果的には、恩師の語り、という軸を通じて「伝説」が浮き彫りになっていく、という筋に落ち着いた。当日流した「恩師ビデオ」として昇華した学年企画については、山口祐理子委員(企画部)の記事に譲る。
雨で出足を心配したと書いたが、最終的な参加者は四五五名。人数が成功の尺度のすべてではないにしても、委員会としては、お互いを慰労しあうには十分な数字であった。
さて、我々の年齢にとっては、「同窓会幹事」なるものは、けだし、所謂「非日常」であろう。各委員おのおのの立場で「日常」を抱えながらの、総会準備であった。委員長はオーナー社長である。不運にも、自分の会社の方向を大きく舵取りしなければならない時期と重なっていたにもかかわらず、一貫して、明るさで実行委員会をリードしていた。事務局長は、身内の不幸を乗り越えて、まさに粉骨砕身の尽力であった。それ以外の委員も、家庭や仕事に、それなりの理解を求めつつ、「達成感」への期待の中で取り組んだ。人生におけるこの時期に、「修猷」という「伝説」に対峙する機会を得たことは、実行委員メンバーのみならず、S 五三年卒の同窓生一同の喜びである。
とは言え、それら「非日常」も、毎年毎年、各代の実行委員会の皆様の中で起きていたことであろう、と自覚する。我々が総会準備をする中で起きた、様々な「事件」の数々も、修猷二二〇年の伝説の中では、トリヴィアなエピソードのひとつに過ぎないのに違いない。
今回「総会報告」をしたためるにあたって、再びあの「非日常」を回想するうちに、図らずも次第に微熱を帯び、文中、多少身内に対する自画自賛となったことは、ご容赦願いたい。
五五会では、数年前から、総会幹事年も想定し、関東在住の同窓生の集まりを開くようになりました。二〇〇三年には、メーリングリストを作成し、情報交換や交流も密になってきています。総会への参加も除々に増えていますが、一昨年、昨年と、昭和五五年卒業を名乗る不思議な「同窓生」に遭遇しました。
二〇〇三年総会の懇親会で昭和五五年のテーブルに名前も顔も初めての「A」と名乗る人がいたのです。「何組だったの?」と聞いたら「八組だったかな?三年生の二学期の終わりに転校してきたので名簿にも載ってないんだ」その場にいた八組の同級生は「記憶にない」らしく、他の同級生も面識がなかったのですが、同級生ということで楽しいひと時を共に過ごしました。しかしその後誰も「A君」のことを知らないというので、福岡の八組の同級生数名に問い合わせたところ、そんな同級生は存在していなかったということでした。しかしながら誰も実害を被ったわけではないので、修猷生らしい寛大な気持ち?でそれ以上追求することもなく一年が過ぎました。そして二〇〇四年の総会の懇親会を迎え、みんなと「そういえば昨年は「A君」というお騒がせな人がいたね。まさか今年は来てないよね?」などと談笑していたら、なんと僕らのテーブルの横に立っているではありませんか。恐る恐る「君ほんとに五五年?」と聞くと「んーそういえば五六年か五七年だったかな?」と言ってその場を逃げるようにいなくなってしまいました。二〇〇五年の総会にまた「A君」が現れるのかどうかは分かりませんが、この珍事を通して五五会メーリングリストによる連絡も密になり、来たる二〇〇六年の総会幹事担当年次に向けて結束が少し固まったようです。
五五会での二〇〇六年総会の準備はこれからですが、今後は総会幹事を行われた先輩学年のアドバイスなどもお願いすることがあると思います。ご指導よろしくお願いいたします。
先日、あるパーティーで六十台半ばの男性に声をかけられました。「渡辺さん、あなたは東京修猷会の幹事長をなさっているでしょう」。その人とは初めての面識です。驚いてわけを聞くと、その人は都立新宿高校のご卒業で、東京修猷会のことはホームページで知ったとのこと。「修猷館は盛んなようですね。実は私たちの同期の集まりも第二木曜日に集まる二木会というのです」と言われ、さすがに少し複雑な思いも抱きながら、悪い気もしませんでした。
さて、われらが伝統ある「本家」二木会は、皆様のおかげで昨年度には一回平均の出席者数が九十人を超えるという、大変な活況を呈することができました。また総会も前年度に引き続き都市センターホテルで盛大に挙行されました。
他校同窓会がいつも驚くように、総会だけでなくほぼ毎月の二木会を連綿と開催できることが東京修猷会の大きな強みであり、結束力の秘密であると言ってもいいのではないでしょうか。
なお一月の二木会の講師は、昭和十一年(一九三六年)のベルリンオリンピックで二百メートル平泳ぎのゴールドメダリスト、葉室鐵夫先輩(昭和十年卒)を大阪からお招きします。ヒットラーにも会ったという葉室先輩の迫力ある、そして興味深いお話が楽しみです。
改めて皆様方の日ごろのご協力に深く感謝いたします。あわせまして今年も会費納入の方、よろしくお願いいたします。
(幹事長 渡辺 俊介)
平成15年11月1日から平成16年10月31日までに180名の皆様から寄付金が納入されています。ありがとうございました。お礼の意味を込めてお名前を掲載させていただきます。
(敬省略。卒年別。順不同)
また、年会費の納入をまだ済まされてない方は、同封の郵便振替用紙にて早速ご送金くださるようお願い申しあげます。
(1口3千円。3千円以上大歓迎。3千円を超えた額は寄付扱いします。)
00170-6-172892 東京修猷会事務局
同窓会本部(福岡)、古田知信(館長)、田中康司(恩師)、加来野靖(恩師)、大島毅一(昭4)、冨田明徳(昭9)、伊豆丸環・橋本胖(昭11)、鎌田正行・宮川一二(昭12)、高川正通・明石隆次・隈部洋・坂口信(昭15)、不破敬一郎・鶴田一白(昭18)、中島睦月・田尻重彦・毛利昂志・早野俊一(昭19)、山本敏男・田中庸夫・井上博夫・野上三男(昭20(4))、ジャニイ岩橋(昭20(5))、太田昭・小渋雅亮・稗田孝道(昭21)、濱田理・遠藤和夫・木下洋一・武内壮介・南雲進・岡崎登(昭22)、田尻和彦・黒瀬幸正・白木彬雄・井上洋一・伊岐和男・糾竰W・大西勇(昭23)、山本義治(昭25)、廣瀬貞雄・藤吉敏生・庄野隆夫・大平修・小西正利・合谷欣一・渕上貫之・中村道生・太田進(昭26)、谷川清士・金田久仁彦・榊喜美子・飯田英子・都島惟男・福田純也・和栗眞次郎・難波榮彦・田辺萌(昭27)、柳島富男・日戸力・児玉黎子(昭28)、長野倬士・村越登・永井充子・斉藤弘子・高木道子・稲川亨・長尾淑實・田中穂積(昭29)、遠山寿一・久保久・坂本幸治・岩田至道・原田雅弘・枝徹也・山崎拓・喜多村寿信(昭30)、近藤徹・村田和夫・箱島信一・阿部公明・中村保夫(昭31)、林克己・鳥居健太・野間正己・平野煕幸・吉村剛太郎・井上智晴・島上清明・林克己(昭32)、大西正俊・寺澤美和子・土肥隆一・米倉實・佐竹儀治・貫隆夫・河野理・藤本規矩・香崎温子(昭33)、行武賢一・笠倉紀子・苛原真也・大谷南郎・黒川守雄・川辺猷治・讃井邦夫・尾崎文彦・伴拓郎・加藤泰・服部富美子・田中義人(昭34)、田代信吾・中村純男・可児晋・中村拓介・松本光華(昭35)、石黒正大・土井高夫・城後隆三・高村修一・光安哲夫・井島稔・横倉稔明・田中純一・田中直樹(昭36)、牧文一郎・大須賀頼彦(昭37)、渡辺紀大・上田茂・渡辺俊介(昭38)、高橋登世子・久保田康史・岩本肇(昭39)、園田知子・森秀則・由良範泰・棚町精子(昭40)、新井眞理子・片田正行・淀川和也・渡辺耕士(昭41)、山口秀範・溝上雅史・石川透(昭42)、秋重邦和・広瀬豊(昭43)、与小田健・長末清美(昭44)、本田由紀子(昭45)、塚本幸一・大島宏樹(昭47)、安田正俊(昭48)、阿河勝久・八尋一彦・井手富士雄・橋村秀喜(昭49)、真崎理香・野中哲昌(昭50)、加藤純一・油田哲・桐明幸弘・舟橋利周・安東泰隆・大山邦彦(昭51)、鐘川誠司・静間志津子・古賀敏文・寺岡隆宏(昭52)、加藤聡・村田隆信・北島弘伸・甲斐荘一・上薗勉(昭53)、福原直通・井手慶祐(昭58)、末房佳明(昭60)、剣彰彦(昭62)、岩松洋史(平3)
第516回 11月 長谷川 閑史(S40年卒)
武田薬品工業 代表取締役社長
『日本の武田から世界のTAKEDAへ』
第515回 10月 坂口 寛敏(S43年卒)
東京芸術大学美術学部(油絵)教授
『新しいアートの動き』
第514回 9月 伊藤 哲朗(S42年卒)
警察庁生活安全局長
『最近の治安情勢について』
第513回 7月 緒方 大助 (S54年卒)
らでっしゅぼーや(株)代表取締役社長
『生産から消費までの流れのなかで食卓の安全を考える』
第512回 5月 牧 文一郎 (S37年卒)
(株)損保ジャパン 代表取締役副社長
『金融を巡る環境変化と当社の勝ち残り戦略』
第511回 4月 和才 博美 (S40年卒)
NTT(株)取締役副社長
『IT技術と私達の生活』
第510回 3月 青木 裕子(S44年卒)
NHK・チーフアナウンサー
『声に出す言葉としての日本語の魅力』
第509回 2月 福寺 誠一 (S43年卒)
森永製菓(株)取締役健康事業部長
『挑戦と進化の歴史 ウィダーinゼリー』
第508回 1月 小川 洋(S43年卒)
経済産業省産業技術環境局長
『これからの技術開発政策について』