東京修猷会会報 第15号   2003年(平成15年)1月1日発行

title_s.jpg (4177 バイト)       「祈り」 渡辺百合世(S34年卒)作

        ステンドグラス・ガラス工芸作家 日本建築美術工芸協会会員
        主な作品収蔵先  東洋学園大学流山キャンパス新体育館(壁面パネル)
        東急ハーベストクラブ(旧軽井沢)ステンドグラス  抹栄 本社ビル(ステンドグラス)
        石川県能登島ガラス美術館(立体)  豊島区・聖母奉献修道会(ステンドグラス)
         作者ホームページ  http://www8.plala.or.jp/yuri-glass/

  目次・・・中項目の下線がある部分をクリックするとその文面に飛びます。

大項目 中項目 筆者 卒年
巻頭 新年に世界の将来を想う 長野 偵士 S29
  東京修猷会2003年活動スケジュール    
海洋科学技術センターと二年生の夏休み 井上 浩 S40
400人を引き連れ上京
「自分探しの旅」 10年、20年後を踏まえて
鹿野 啓文 S51
現役修猷生の会社訪問 藤本 昌義 S51
スーパーサイエンスハイスクール(SSH)
 の取り組み
福泉 亮 教諭
第11回東京修猷会ゴルフコンペのご報告 桐明 幸弘 幹事
日本経済行き詰まりの原因は? 柴垣 和夫 S27
同窓生の本 「こどもの心に耳をすます」 梅村 浄  著 S38
「 医療事故ーなぜ起こるのか、どうすれば防げるのか」 山内 桂子・
山内 隆久 著
S48
「ふたたびの雪」 原口真智子著 S45
「 バックステージヒローズ・                  映像産業の裏方たち」 長野 辰次 著 S58
仕事あれこれ 今、家業を継ぐということ 川島 郁子 S48
米中で「のど自慢」を実施して 白石 欽一 S50
御神忌千百年大祭 西高辻 信良 S47
江陽館の保存の現場から 高木 正三郎 S63
2003総会 2003年総会のご案内
ミャンマー慰霊巡拝の旅 石田 洵一 S26
ウルトラマラソンを楽しむ 坪内 俊之 S45
同窓生の喫茶店
気取らずに寛げる都会のオアシス
二木会 「かつての二木会(500回を前に)」 取材 油田 哲
文責 中屋裕司
S51
平成14年 二木会 講演記録
学年だより はや50年になりましたバイ 東京猷友会報告 松尾 正弘 S28
NY修猷同窓会に参加して 樫山 ゆかり S57
2002年総会 平成14年東京修猷会総会 安東 泰隆 S51
  21世紀アジアのキーワード「アイランドシティ」 水町 博之 S53
H14年寄付金 平成14年度寄付金 東京修猷会事務局
事務局 事務局だより 東京修猷会事務局
  編集後記 東京修猷会事務局

 

「新年に世界の将来を想う」

       
 長野 偵士  東京修猷会副会長(昭和29年卒)

  明けましておめでとうございます。  二十一世紀の到来を寿いだのはつい先日のことだと思って
いたのに、早くも今年は二〇〇三年を迎えることになりました。
  新世紀を迎えるに当たって、多くの人々は、素晴らしい世紀が訪れることを期待したことと思います。しかし、世界の平和、環境問題、日本の政治、そして経済。更には若者達の道徳の荒廃に犯罪の増加。全てがどんどん悪い方向に進んでいるようです。
  このことは特に意外なこととは思いません。先日、ある先輩から、「長野君、この世の中でまともな人生が送れるのはせいぜい君たちの世代くらいまでじゃないか。我々の子供や孫の世代になるとあらゆる意味で惨憺たる世の中になるような気がするんだが。」と言われました。実を言うと、私は二冊目の本を出版するとすれば、そのテーマは「人類は如何にして滅びるか」だと思っているのです。
  テロ、報復、そしてテロ。チェルノブイリの何倍もの規模が予想されるロシアの原子力事故。アウシュビッツのように五分では死なないが、数十年の緩慢たる死を招くガス室と化した東京の街。中国の一人当たり所得が日本なみになった時に予想される空気や海の汚染。どれをとってみても悲観的にならざるを得ないものばかりです。マンモスは体が大きくなり過ぎて滅んだように、人類は知能が発達し過ぎたために滅びることになるのです。
  冬は完全暖房、夏は完全冷房の生活が自然なものだと思いますか。神の摂理を無視した生活を続けていて天罰を受けないはずがありません。人類は、神が生命の誕生以前に地球の奥深く埋め給うた有害物質をわざわざ掘り起こしては地球中に撒き散らしているのです。
  私は社会に出るに際して、貧しい日本を、そして日本人を、少しでも豊かにするために力を尽くしたいと思っていました。しかし、四十年経った今日、大勢の人々の努力にもかかわらず、我々の愛する日本は、そして社会は、何という悲惨な状態になってしまったことでしょう。我々の努力してきた方向は根本的に間違っていたのかと思わざるを得ません。
  人間は自己本位で安易に流れ易い動物ですから、そんなことを指摘されても簡単に生き方を変えることはないでしょう。まして、人口数十億の世界がその進路を変えることは絶望的だという気になります。しかし、それでも一歩一歩こつこつと努力して行くしかないのです。
  このようなテーマと較べると、自分の身近な問題を改善していくことはさほど難しいことではありません。
  我々は、生きていく上で、いくつかの輪の中で暮らしています。同窓会は、我々を縦断的に結びつける絆です。日本では、戦後、昔の地域社会に替って、企業ごと、職域ごとに社会を構成するようになりました。我々は基本的にはこれらの社会ごとに生息しているのですが、時にその閉鎖社会を超越した視点を持ったり交友を広げたりしたくなるものです。勤める企業によって物の考え方まで鋳型にはめられてしまうなんて情けない限りではありませんか。そのような時、同窓会は大変貴重な場になります。特に、総会、二木会、会報、そしてホームページと四つものチャンネルを持った東京修猷会は、世間に例を見ない同窓会だと言えます。そして、この四つのチャンネルいずれもが、最近の幹事学年の諸君の努力によって大幅に改善されました。
  私の知人でこんな人がいました。「私の周囲にはやたらに修猷館が居るんですよ。そして、そいつらは全員二言めには私は修猷館だと言いやがるんです。私はあんまり癪にさわるんで言ってやったんです。お前等は高卒かって。」
  私自身もそうなのですが、思い当たる人も結構多いことでしょう。どうして真っ先に出身高校なのか。それは、自分の出身校の中で修猷館が一番好きだからだ。そして、この皆の大好きな高校の同窓会はボランティアによって運営されているのです。だから、この会を運営していくためには全員が相応の負担を背負う覚悟が要るのです。そして、それだけの値打ちのある会にしていきたいものです。
  思いつくままに書き綴ってみたら、およそ新年の挨拶らしからざるものになってしまいました。しかし、お目出度い、今年も良い一年でありますようにと祈れば良いというものでもありますまい。  それでも最後に一言。皆様にとって良いお年でありますよう。

    東京修猷会二〇〇三年活動スケジュール

    (二木会は毎月第二木曜日 6時から食事7時から講演)
 
   1月  会報発行 元旦に全会員に送付
         1月9日 二木会 於:学士会館   吉武民樹(昭和四二年卒) 厚生労働省 年金局長
   2月  2月13日 二木会五百回記念       於:学士会館
   3月  3月13日 二木会 於:学士会館  下旬 常任幹事会(決算見通し、総会内容発表 等)
   4月  4月10日 二木会(新人歓迎会)     於:学士会館  4月20日 二木会ゴルフコンペ
   5月  5月8日 二木会 於:学士会館
   6月  6月6日 総会    於:日本都市センターホテル  18時から
                       (幹事学年は52年卒:ごじゆうに会)
   7月   7月10日 二木会 於:学士会館
   9月   9月11日 二木会 於:学士会館
   10月   10月9日 二木会 於:学士会館  下旬 常任幹事会(総会報告、来年度総会計画発表等)
               下旬 二木会 ゴルフコンペ
   11月  11月13日 二木会 於:学士会館  
   12月  12月11日 忘年会
        
          このほか、執行部としては、総会準備のための幹事学年との打ち合わせ、会報編集会議、
       他支部の同窓会総会への出席など随時行っています。


海洋科学技術センター と二年生の夏休み   井上 浩 (昭和四〇年卒)

  去る八月七日、海洋科学技術セ ンターは、修猷館二年生夏季研修の一環として約九〇名の訪問を受けた。この研修は、つくばや東京地区の様々な組織・機関を訪問し、一瞬だが実社会を覗き、彼らの進路決定の一助とすることを目的としている。じつに素晴らしい企画。
  海洋科学技術センターは旧科学技術庁傘下の特別認可法人で、日本の海洋研究の中心である。「しんかい二〇〇〇」「しんかい六五〇〇」「うらしま」等の潜水調査機器を九基、それらの母船および調査船を五隻有する世界有数の海洋研究所。横須賀市に本拠地がある。
  この船団にさらに世界最新鋭の科学掘削船「ちきゅう」が近々加わる。この船は固体地球をさらに深く知ろうとする壮大な「国際深海掘削計画」の強力な武器となるもので、まず水深二〇〇〇m級の海域で海底下七〇〇〇m近くまで掘り進む。将来的にはマントル物質を採取するために水深四〇〇〇m海域で超大深度掘削に挑戦する。修猷館卒業生がたまたま当センターに出向し(四七年卒の和田氏と筆者)この「ちきゅう」建造と運用計画に関わっているので、その二人で「国際深海掘削計画」の趣旨と「ちきゅう」の特徴につき現役生諸君に紹介した。
  現修猷館は二年生の段階で既に文系と理系に分かれており、今回の訪問は理系の二クラスであった。女生徒が一/三を占めている。彼らは、東京や横浜でよく見る高校生とは違い、茶髪はいないし、ピアスをしている者もいない、ルーズソックスも無し。非常に清潔感にあふれていた。特に女生徒はあの背なに星のマークの白いセーラー服のせいか背筋がピシッと伸び、男生徒に比べキリリとした印象を受けた。
  その日は研修の最後の日であったので疲れていたのか当初はおとなしかったが、センター内設備の見学に移るとだんだんとエンジンがかかってきて質問も飛び出すようになった。午後は、横浜市にある当センター付属横浜研究所の世界最高速のスーパーコンピュータ「地球シミュレータ」を見学。母校からは来年も当センターを訪問したいとの声が聞こえてきたので、卒業生としては責任の一端を果たしたものと安堵した次第。
  同窓の諸兄諸姉にはぜひ海洋に興味をもっていただき、海洋科学技術センターのホームページにアクセスされるよう希望します。我々を恐怖の底に陥れる巨大地震は海洋の底深くでの岩盤の破壊が原因であり、温暖化などの地球環境の問題は、大気と海洋と個体部の相互作用が分からなければ理解できません。光と酸素がないにもかかわらず地球深部にも大量の微生物が存在していると言われています。それをすべて手がけ先端的な研究をしているのが海洋科学技術センターです。ぜひアクセスしてみて下さい。 〈http://www.jamstec.go.jp/〉


 四〇〇人を引き連れ上京 「自分探しの旅」
      一〇年、二〇年後を踏まえ

                               
鹿野敬文(昭和五一年卒)

  修猷館は学年のテイストの違いがかなりはっきりしている学校です。三つのカレッジが併存している学校と形容されることもあります。これは、修猷館で働かなければ気づかない一つの大きな特徴でしょう。四〇〇人の生徒をどのように教育していくのかの理念作りから始まる三年間は、各学年に所属する教員集団に任された壮大なプロジェクトなのです。真の成果は卒業後に問われると考え、私たちは一〇年後二〇年後を踏まえた教育プログラムを組んでいきます。
  平成七年に始まったつくば・東京研修旅行(二年生全員参加)も昨年で八回目になりました。私は三回参加しましたが、今回は学年主任という立場で企画段階から深くかかわりました。学年としてのテイストを踏まえて、この研修旅行をどのように位置づけるのか。学年団を構成する二〇人の先生方と意志疎通を図り、三泊四日(昨年は八月四日〜七日実施)のプログラムを作ってきました。この学年の狙いは、「二十一世紀型の博物館見学(及び研究者と対話する実験工房参加)」、「事前学習を踏まえた企業・官庁・研究所での研修」、「日本最大のテーマパーク訪問」、「見てワッと息を呑むような日本を代表する施設の見学」となりました。
  まず、訪問先として協力していただける企業・官庁・研究所探しから始まります。そして、研修内容の確定に入っていくのです。一方、生徒たちは一年生の九月から、各研修先から送られてきた資料をもとに、全訪問先についての大まかな勉強を始めます。これを踏まえて五〇近くある訪問先リストの中から自分の行き先を三月に決定します。そして、四月からはその訪問先についての詳しい勉強会を各研修顧問の指導のもとで実施するのです。
  もちろん、こうやって勉強した分野に各生徒の進路先がそのまま決定する訳ではありません。しかし、「一体、自分は何に向いているのか」「自分はどのような人生を送りたいか」などについて深く考える機会が高校時代にあることは意味があると思います。これを私は『自分探しの旅』と呼んでいます。
  単なる修学旅行に終わらないこの教育プログラムは、多くの卒業生のご協力があってこそ初めて実施できる修猷館独自のものなのです。この企画に賛同し、新しく協力していただける卒業生の方がいらっしゃいましたら是非ご連絡下さい。宜しくお願い申し上げます。(修猷館教諭=英語)


 現役修猷生の会社訪問         藤本昌義 (昭和五一年卒)


 

  昨夏、現役修猷館高校生四三〇人とお会いする機会を得ました。
  これは昭和三六年修猷館卒業の西村英俊さんが昨年の六月より当社(日商岩井)社長に就任されたことと、修猷館で同期生鹿野敬文君が二年生の学年主任となり、筑波研修旅行の責任者だったという偶然が重なった結果でした。西村社長が後輩諸氏の前で講演をすることになり、当社の修猷卒業生も会場に集まり、後輩諸氏の質問に答えようという試みがもたれた結果でした。
  西村社長の講演は「十点はどこへ行った」という題目で、これは修猷に入って来る時は、福岡高校より入試の成績で十点ほど高かったが、出る時は同じぐらいの点数になっている。じゃ修猷館の三年間は何をしていたのかというところから、修猷館の教育理念を問い掛けた内容でした。修猷館というのは、普通の進学校とは違い、先生も進学率を争い生徒に勉強せいというようなことは言わなかった。非常に自主独立を重んじる教育方針であり、生徒の方も知識だけを学ぶのではなく、文化祭や運動会という生徒の自主的な活動の中で、人間関係を通じ豊かな常識を学んできた。これが社会に出て、様々な国の人々とビジネスを行うに当り役立つのは普遍的なことであり、場所が変わると知識も変わる。知識のみを詰め込むのでなく、生徒に自主独立性を重んじ、「猷を修む」事を教えてくれた修猷館での三年間が役に立ったという内容でした。(筆者理解です。)
  講演に引き続き、当社修猷館卒業生が、在校生諸氏の質問を受け付けました。質問内容は、「社会人になって高校で学んだことでどういう事が役立ったか」「商社のビジネスの内容」「商社が投資をする際の判断基準は」等々。
  筑波研修旅行は、昨年で八回目とのことですが、我々の時代には夏休みに各企業を回る研修旅行などなかったなと思いつつ、当時自分が、将来についてどの程度真剣に考えていたかと振返れば、「竜馬が行く」といった小説の影響で漠然と世界を舞台に活躍したいとか広田弘毅、中野正剛といった修猷先輩諸氏の話を聞くにつれ政治も面白そうだとか、その程度の漠然としたものしかなく、結局その漠然としたイメージの中から現在の職を選び今の自分がある訳です。
  一〇年後、二〇年後を見据えた教育という大命題は修猷の中では生き続けており、先生方もご苦労されておられることを知り安心いたしました。


 スーパーサイエンス ハイスクール(SSH) の取り組み
                          
SSH推進委員長   福泉 亮

  東京修猷会のみなさま、はじめまして。母校修猷館は昨年度より三年間、文科省のSSHの研究開発校に指定されました。昨年一月に文科省から募集があったとき、学内では名乗りを挙げるかどうか迷いもありましたが、前館長の「修猷には、修猷のためなら、という同窓生が数多くいらっしゃるから」という一言に勇気づけられ一歩を踏み出しました。
  修猷SSHは大きく三つの事業があります。
 (一)SSハイスクール(広げる)
  全生徒を対象にした、学校全体での取り組みです。創立記念日の「進路別研究会」、二年生の「つくば東京研修」、土曜日を活用した「出前講義」など。また来年度より始まる「総合的な学習の時間」、教科「情報」を、大学につながる資質(意欲・論理的思考力)の育成の場として研究しています。
 (二)SSクラブ(楽しむ)
  放課後や土日を利用したクラブ活動です。今年度、「天文」「情報工学」「ロボット工学」「ガラス半導体」「生化学」「分析化学」「遺伝子工学」「組織培養」「数学オリンピック」など十一講座を、充実した実験設備を整え立ち上げました。多くは同窓生の大学教官を顧問に迎え、大学との連携を図りながら研究を行います。
 (三)SSゼミナール(深める)
  意欲のある生徒たちを対象に、欧米の優れた才能開発教育(例えば国際バカロレアなど)を参考に、論理的思考力や創造性を高めるプログラムを研究します。
  一年生には、英語による数学の講義、二年生には「宇宙工学」をテーマにした講義やロケット打ち上げ見学などをおこないます。「修猷から宇宙飛行士を」が一つの目標です。
  東京修猷会の方々には次のようなお願いがあります。
 (一)「つくば東京研修」の研修先
  東京修猷会の会員のご協力で、毎年充実した研修をおこなっておりますが、来年度はSSHの関連事業として実験実習を中心にした終日の研修を考えております。受け入れ可能な大学・研究施設がありましたらご連絡いただけないでしょうか。
 (二)土曜日「出前授業」での講義
  創立記念日に大同窓会担当学年のご尽力により運営されている「進路別研究会」を延長させた事業が「出前授業」です。希望者を対象に随時土曜日に開講可能です。ロボカップのときには、早稲田大学の高西教授に来ていただきました。帰福の際にぜひお願いいたします。一ヶ月前にご連絡いただければ準備します。同窓生の方々の「出前授業」を聞いた在校生が、やがてまた講師として修猷に戻ってくる、そんな事業に育てていきたいと思います。現在、修猷館高校のホームページにSSHのサイトを準備中です。ここには同窓生に向けて教育支援をお願いする「お助けサイト」を作る予定です。生徒からの質問に直接答えてもらったり、同窓生から情報やアドバイスを提供していただける「バーチャル修猷館大学(仮称)」の立ち上げなどを考えています。ぜひご協力をお願いします。
 (修猷館教諭=生物) http://shuyu.fku.ed.jp/SSH/index.htm



第十一回 東京修猷二木会ゴルフコンペのご報告

  第十一回二木会ゴルフコンペは、幹事の心がけが悪いのか今にも泣き出しそうな空の下で一〇月二〇日(日曜日)、千葉県成田市の「白鳳カントリー倶楽部」において藤吉会長以下、二十八名の参加で開催されました。
  当コースの総支配人を勤められる中川洋三先輩のご厚意により、素晴らしいコースでリーズナブルな料金で開催でき、しかも楽しさ一杯の賞品をご準備頂きましたこと改めてご報告のうえ、御礼申し上げます。
  今回も、昭和四八年卒の先輩など初参加が多くハンディ戦ではなく、新ペリア方式を採用、誰にでも優勝のチャンスがあると思われておりましたが、並み居る強豪諸先輩をものともせず昭和五三年卒の若手、阿部次郎さんが見事に優勝されました。グロス一〇三、ネット七四・二というスコアで新ペリアでのハンディをフルに生かした優勝であったといえましょう。
  準優勝は、昭和四六年卒の岡部公一さんが、ベスグロの昭和三六年卒中川洋三さんを押さえ、獲得されました。中川さんのグロススコアは八六で、さすが地主さんという面目躍如でした。女性ベスグロは、昭和四四年卒の甲畑真知子さんが、グロス一〇七と前回よりも四打も縮めたスコアで栄冠を手にされました。
  昭和三五年卒伊藤洋子さんの連続出場記録は更新されましたが、かなりの精勤を誇っていた山下政比呂さんが何と日にちを間違えて別のゴルフ場で、二木会コンペの練習に行ったという悲しい話もありました。
  いろいろあって楽しい大会となり、お天気も参加諸先輩のおかげさまで何とか雨が降らずに終了できました。幹事の不手際も心がけの悪さも全てお許し賜り、おかげさまで素晴らしい大会になったことを、深く感謝申し上げます。
  第十二回二木会コンペは、平成十五年四月二〇日(日曜日)に、神鳥谷カントリー倶楽部での実施を予定しております。皆さん奮ってご参加の程、お願い致します。
 第十一回二木会ゴルフコンペ 幹事  桐明幸弘 記
 

日本経済 行き詰まりの原因は?    柴垣 和夫(昭和27年卒)



 二一世紀も三年目のお正月だが、お屠蘇の味がほろ苦い人が多いのではないか。一九九〇年代の「失われた十年」が、一三年にも、一五年にもなりそうな昨今である。
  この慢性不況は誤った政策による一種の心理不況だ、というのが私の理解である。何故か。政・官・財どこを向いても不祥事づくめの世相のもとで、政府が先頭に立って危機感をあおり、人々の意識を底知れぬ閉塞感に追い込んでいるからだ。欧米では珍しくない乞食は見かけないが、自殺者が急増していることにそのことが示されている。
  マクロ経済の実態はそれほど悪くない。日本のバブルとその崩壊を、大恐慌をもたらした一九二九年の米国のそれと比較すると、バブルの規模は日本の方が数倍大きかったにもかかわらず、その崩壊による不況の程度は日本の方がはるかに微温であった。失業率のピークが米国の二四%に対して日本は五%であることがその端的な指標である。卸売物価では米国が二九年のピークから四年間に三八%下落したのに対して、日本では九〇年からの一一年間で一〇%の低下にとどまっており、これを以てデフレ・スパイラルとはとうてい言えない。これらの差は当時の米国に欠け、現在の日本には存在するケインズ政策や社会保障制度などの効果と言ってよい。こうして日本経済は、九七、八年の一時的金融危機を除いて、マクロ経済指標で見る限り比較的安定した推移を示してきたのである。にもかかわらず、今なお先の見えない社会的閉塞感に陥っているのは何故なのか。
  ひとつは、かつては健全に機能したと考えられている政官財複合体のシステムが、いまや腐食して制度疲労に陥ってしまったことが指摘できる。バブル期以来の相次ぐ政界、財界、官界さらには警察、司法までに及ぶ「不祥事」の簇生がそれを示している。
  しかし、それ以上に罪深いのは、日本の歴代政府や財界、ジャーナリズム、そして経済学者の主流が、この行き詰まりを米国主導の新自由主義、市場原理主義への無批判的迎合によって打開しようとしていることにある。新自由主義=市場原理主義は、アブセンティズムに陥っていた欧米諸国には、市場規律の回復を促すという意味があったが、日本には無用のものであった。歴代政権は、日本経済の内部にその必要性が乏しかったにもかかわらず、日米経済摩擦の後遺症もあってこの流れに迎合した。しかし、その施策が殆ど裏目に出たことは今日明らかである。自由競争は、確かに資本主義経済のダイナミズムを促進するが、同時に弱肉強食の世界を拡大する。そこでは自己責任と自助努力が強調される。その結果、企業はリストラ、家計は消費の抑制へと、ひたすら自己防衛に走ったのだ。
  従って、いま必要なのは、経済のミクロレベルでの「安定」であり、それによって生み出される「安心」である。この安心は、家計レベルでは将来不安の解消である。医療・年金・介護の充実と個人貯蓄の安全保障など、これまで進められてきた施策と正反対の措置が採られなければならない。もっとも、これによって景気も大幅に回復するという主張には誇張があるが、ゼロ成長を維持するくらいの効果はあるだろう。そして実はこのゼロ成長こそ、宇宙船地球号維持のために、意識的にも追求しなければならない課題なのである。人口がほとんど増加しない日本でのゼロ成長は、生活水準の低下をもたらすものではないからである。

 (武藏大学教授、東大名誉教授。著書:『知識人の資格としての経済学』〈財務省印刷局〉ほか)


「こどもの心に耳をすます」 梅村 浄 (昭和三八年卒) 岩波書店 一八〇〇円


 私の生まれた家は福岡市内の住吉にあります。「どうして、博多駅の近くに住んどるもんが、修猷にいきよったっちゃろか?」その疑問はさておいて、池の端に住んでいた私は宗吉つぁん(佐田先生)と黒ちゃん(石橋先生)が括りあげた二本の一升瓶を下げて、我が家をめざして、池の向こうからかけつけてきた姿をありありと覚えています。全く思いがけなく九州大学医学部に合格した生真面目な女子生徒への、二人の担任からのエールとして、ずっと私の心の底に沈んでいたイメージです。一升瓶二本をもらった後、私は小児科医師となり、三人のこどもの母となり、現在に至りました。
  昨年、岩波書店から『こどもの心に耳をすます』という本を出しました。 医学や心理学は、こどもの身体と心を正常と異常に区分けします。異常と診断されたこどもは、治療されますが、治療もできないと診断されたこどもは、医学や心理学からほうり出されてしまいます。その境目は大人の傲慢な価値観に彩られているにもかかわらず、何か公正で親切なことのように受けとめられています。
  重症心身障害児の施設に15年間勤務し、長女もたまたま障害をもったことから、私は医学や心理学からはみでてしまうこどもたちに寄り添って仕事をしてきました。この本を書こうと思い立ってから、大学教養部時代に文芸部で詩を書いていた私は、三十年たって再び、沢山の詩を読み漁りました。詩のことばに喚起されてくる、心の隅にひそんでいた様々なこどもの姿を描きました。
  最近、私は心に耳をすませているのは大人だけではなく、こどもの方だと実感することが多々あります。親の悩みや心の揺らぎを、すっぽり受けとめてそこに居るだけの赤ん坊やこどもに、私達はどれだけ支えられているのかと思いながら、毎日、お母さん達の相談にのっています。


 「医療事故│なぜ起こるのか、どうすれば防げるのか」
         山内桂子・山内隆久 (昭和四八年卒) 朝日新聞社 一三〇〇円


 多くの医療事故が報道され、医療への不安や不信が生じています。
  この本は、二〇〇〇年夏に夫との共著で出版しました。心理学の研究者として二人で研究して分かったことは、事故を防止するために、病院にはハードとソフトの両面で改善すべき点が多いということ。そしてそれと同じくらい重要なのは、患者がただ事故を恐れたり、病院を批判したりするのではなく、医療チームの一員として役割を果たすべきだということです。そのような意味で、医療職だけでなく一般の人にも読んでいただきたいと、あえて医療の専門書ではなく、一般書として朝日新聞社から出版しました。  エラーの発生要因から事故調査や当事者へのサポートのあり方まで、幅広く問題提起しているところがセールスポイントです。
  幸い、医療職の方から「問題点がわかり易い」「励まされる」と言っていただき、リスクマネジメントの研修会のテキストとしても使っていただいています。
  夫は慢性骨髄性白血病で二〇〇二年二月に五〇歳で亡くなりました。八ヶ月の入院中、私も家族として医療を体験し、事故で傷つく患者・家族・医療職を減らしたいという気持ちが一層強くなりました。夫の遺志でもある研究や研修などの活動を続けていこうと考えています。
  医療関係者の立場で、あるいは患者や家族の立場でご一読いただき、感想やご意見をお聞かせいただけたら嬉しく思います。


 「ふたたびの雪」   原口真智子 (昭和四五年卒)
                 講談社 一六〇〇円 (一月中旬刊行予定)


 人のこころの水底に、ぽつんと湧いたあぶく。
  誰の胸のうちにもある、ほんのささいな疑いや嫉妬。それが何も引き起こさなければ、すぐに忘れ去ってしまうでしょう。でも、もし、重大な結果を招いたとしたら――という設定で始まる物語りを書きました。これまで百枚前後の作品が多かった私にとって、初めての長編書き下ろしです。若い頃は、「愛とは×××である」というように定義づけたり、人の行動や感情を説明しなければ気がすまなかったものですが、この頃は、超整理法?とでもいうのか、愛も嫉妬も罪も罰も生も死も、重大なこともささいなことも、ひとつの引き出しの中につめこんでしまいました。そうやって時々引っぱり出してみると、どれもあまり違いがないような……
  「恋とは聖なる狂気である」と書いたのはプラトンでしたか――考えてみれば二千年以上も前から、人は堂々巡りをしてきたらしくて――私たちのこころから生まれる愛情というものは、そうした激しさを持つと同時に、また、はかなく弱いものでもあるようです。なんといっても愛は、信じなければすぐに消えてしまうほど哀しいものなんですから?人は愚かで、くだらなくて、孤独で、その上困ったことに、淋しさには耐えられないようにできているのでしょう。一体どう迷ったのか、砂漠の真ん中で、歩き疲れて倒れてしまう。渇いて、干からびて、死にそうになる。そんな気持ちになったことは、誰も一度や二度ではないでしょう。
  でも……どんなに渇いて死にそうでも、ダムの水門を開ける必要などないのです。ひとすくいの水でいい。コップ一杯の水があれば、人は救われるんですから。
  そんな想いのあれこれを、小説の中に書き込みました。全体を八つの章に分けて、それぞれの章に人の身体の一部分の名前をつけています。『眼』『手』『乳房』……と続き、そして最後の章が『こころ』です。一月中旬に講談社より出版されます。お手にとっていただければ幸いです。



 「バックステージヒーローズ・ 映像産業の裏方たち」
                    長野辰次 (昭五八年卒) 朝日ソノラマ社 一六〇〇円


 「ニュースの同時通訳はどうやって手配しようと?」
 2年ほど前、長野君から問い合わせがあった。私は某放送局でニュース番組の制作に携わっている。通訳を確保する業務を直接は行っていなかったが、多少の知識はあったので話をしたのを覚えている。ニュース番組ひとつとっても、前述の通訳の手配担当者をはじめ、大勢の職員、スタッフに支えられている。本書は、こうした「裏方」にスポットをあてたもので、テレビはもちろん、映画、CMなど、映像業界の「裏方」たちの仕事ぶり、番組づくりへの情熱を伝えるものだ。その数一四一人。有名番組のプロデューサーなど業界ならではの人から、一般的には知られていない「裏方の裏方」も紹介されている。例えば、ドラマでの食事のシーンで、俳優たちが口にする料理。専門の担当者がいることを私は本書で初めて知った。その道三十年で、俳優の好き嫌いは必ずチェックするという。こうした関係者の「思い」を、本書の中で長野君は丹念に描き出している。「だってまずい物を口にしたら顔に出ちゃうでしょ?おいしい物を食べた方が俳優も自然といい表情をしますからね」(本書より)
  長野君とは中学、修猷、大学を共にし、以前からドラマやCMなどの映像に対する、彼独特の視点には感心させられていた。中には奇抜なものもあり、腹の底から笑わせてもらったことも多々ある。ただその中には、批判めいたものはなく「あれは大変やったろうね」といった、つくり手に対する優しさ、職人に対する尊敬があった気がする。  「今回の取材でお会いした方たちの映像に関わる仕事を楽しげに、エネルギッシュに、でも一人では何もできないんだよ、と語る謙虚さを持ち合わせた姿勢に毎週毎週触れることができたのは、TV小僧として育った自分には本当にハッピーな経験でした。」(おわりにより)本書を読めば、映像の裏側の一端が垣間見られ、普段何気なく見ている映像が、実に人間味あるものに思えてくる。映像に多少なりとも興味がある人には是非読んで欲しい一冊だ。
  井手 昇(昭和五八年卒)





今、家業を継ぐということ 川嶋郁子(昭和四八年卒)


 私の実家は、宗像市赤間で勝屋酒造という小さな造り酒屋をしています。創業は寛政二年(一七九〇)古くから交通の神様として知られる宗像大社の御神酒を納めてきました。酒名「楢の露」は御神木の楢の木からいただいたもので永代献酒の誓碑は今も御神木の傍らにあります。
  東京修猷会総会の懇親会に清酒「六光星」を納めさせていただいていますのでお飲みいただいた方も多いかと思います。「六光星」は私共四八年卒が幹事学年の時、修猷ブランドのお酒があったらとみんなで企画し、後輩の方々が引き継いでくださいました。前回五一年卒の方々は中嶋さんのデザインのラベルでお土産として皆様に配られましたので、いろいろな所で話題になったようです。お蔭様で「同窓生のゴルフコンペの参加賞に」「京都での同窓生の集まりに持っていきたい」などお問合せをいただきました。
  昔からのしきたりをいろいろ守りながら得意先、ご近所、従業員と気を遣い、特に仕込みの冬場はお正月も日曜日もない母の暮らしを見て私は育ちました。家業を継ぐことなど全く念頭になく、修猷卒業後は東京で進学就職、結婚後は転勤の先々での子育てにそれなりに忙しく今も下の子の大学受験を控え精一杯の毎日です。両親も、廃業される蔵元の多い中で子供に自分たちのような苦労はさせたくない。とはいってもなかなか自分達の代でやめる決心もつかず、まだ大丈夫だからとやせ我慢をしているうちにいつのまにか高齢となっていきました。そして夫の、もう限界だろうから私を親元に帰すという言葉に 両親の方も肩の力が抜けたようで、ようやく私たちが家業を継ぐことが決まったのでした。
  というわけで 横浜育ち、大学では哲学を専攻し就職後は人事総務畑二五年の夫はこの一月から酒屋の主人兼蔵男見習として、また私は三月、娘の高校卒業を待って東京生活を引き払い、家業を継ぐことになります。もうあと少しで五十歳を迎える夫婦にとっては自他共に認める無謀、前途多難どころではないというスタートです。しかし、地元に根を下ろし昔ながらの方法に少しずつ新しい風を入れながら、おいしいと言っていただけるようなお酒を造っていきたいと思っています。
  「赤間に帰る」と宣言をしてから、先輩方や四八年卒しっとーや会の面々からいただいた励ましやアドバイスはとてもありがたいもので、早春の酒蔵開放には大勢集まってくれました。今後とも館友の皆様にいろいろご教示いただければ幸甚でございます。東京修猷会の皆様お世話になりました。機会がございましたら是非お立ち寄りください。お待ちしております。
 http://www.katsuyashuzo.com


 米中で「のど自慢」を実施して 白石欽一(昭和五〇年卒)
 
 それは、昨年の人事異動から始まった。六月に今のセクションに着任したとたんに上司から「来月のサンフランシスコのど自慢たのむぞ。九月には北京もあるからな」と言われてからである。海外で「のど自慢」。実施しているのは知っていたが、まさか自分が担当するとは…
  下準備、現地での打ち合わせ等は前任者が済ませていたため、サンフランシスコは、いきなり本番に出向くことになった。「なんだこれは」・最初に会場をみたときの驚き・巨大な体育館である。アリーナ席(一階)の約二〇〇〇席はすべてパイプいす。のど自慢は指定席で実施するのに、どうやって指定席にすればよいのか?目の前が暗くなる。会場の人は「大丈夫です。黒板に書けばいいのです」よくみると、パイプいすの裏側にちいさな黒板がついているではないか。つまり、パイプいすがはねあげられている状態では、その黒板がお客さんに見えるしかけになっている。
  しかし、パイプ椅子は当日しか搬入されない。当日朝数十人のボランティアの人々が集合時間を早めて、いっせいに番号を書き込んでいってくれたのは、壮観な光景であった。そしてそれは海外でののど自慢が日系あるいは現地の日本のかたがたのボランティアに支えられていることを実感した瞬間でもあった。そうして迎えた本番は涙あり笑いありのエピソード満載のイベントとなった。本番で紹介されたのはごく一部であり、「のど自慢」という番組は実は予選会のほうが面白いのである。何十年もアメリカで苦労した方々の話には、さすがにじーんと胸に迫るものがあった。
  さて、次は北京である。かの国は時差も少なく肉体的にはアメリカに比べるとはるかに楽なのであるが、これでもかという位にわれわれの常識を超えた難題を持ち込んでくる。下見に行ったあるときの向こうの役所の係官との会話である。
 中国側「NHKさん防火の準備はどうなってますか。」
 日本側「避難経路等はきちんと確認してあります」
 中国側「そうではありません。消防車はどうしますか?」
 日本側「消防車?」
 中国側「われわれのほうで念のため消防車を待機させます。ついては費用は○○元になります。」
 日本側「・・・・・」
  また、イベント当日は入場券を持たずにやってきて、「私は誰々の友達です。」「私の友達が出場しています」と言ってさも当然のように入場しようとする。もちろん、丁寧におひきとりいただいた。
  このように、習慣の違い、言葉の壁はあっても、米中ともにイベントが成功したあと、お互いのスタッフが肩を抱き合い、感謝の言葉をかけあって、うまい酒を笑顔で酌み交わし続けたのである。草の根の友好活動に貢献することができたことは間違いないことである。






御神忌千百年大祭     西高辻信良(昭和四十七年卒) 太宰府天満宮 宮司  

       

平成十四年は、御祭神菅原道真公が天神さまとなられてから、ちょうど千百年目の大節目にあたり、御神忌千百年大祭を斎行いたしました。この大祭は、太宰府天満宮をはじめ、全国の天満宮が二十五年ごとに斎行する「式年祭」です。
  二十五年ごとに式年祭を斎行するのは「二十五」という数が菅原道真公と縁の深い数だからです。道真公の誕生は承和十二年(八四五)六月二十五日、太宰府の地で生涯を閉じられたのが、延喜三年(九〇三)二月二十五日でした。
  明治三十五年に斎行された御神忌千年大祭は、時代背景もあって、まさに国家行事といえるほど盛大に行われています。御神忌大祭を斎行することには、天神信仰の悠久の歴史の中で、大祭を契機として、生命の蘇りをしていくという意味があります。
  天神様が永遠にお鎮まりになる天満宮の本殿を中心とする建造物群、それを取り巻く神苑の樹木、そして人々も再生されて甦り、瑞々しく新しい力を得て、天神さまがさらに一層神威を増すというわけです。またこのことが祭神の神徳を現代に応答させ、次代へ天神信仰を継承させていく道であると考えます。
  道真公を敬慕する人々によって静かに始められた天神信仰。千百年という時間の蓄積があり、これこそ最大の財産です。千百年前の人々が天神様を崇敬する気持と、現代の私達が天神様を崇敬する気持は何ら変わりません。千百年間同じ思いを抱き続けることができる、これこそ本物の豊かさであると思います。
  天神信仰という火を消すことなく継承し続けた祖先に感謝しながら、さらに一人でも多くの方がこの不易な空間である太宰府天満宮にお詣りいただき、天神様と新たな縁を結んでいただきたいと思います。
  太宰府天満宮は大きな歴史の中に生かされています。千百年という時間の蓄積の豊かさ、そして精神を次の世代へ伝えることが、宮司としての私の責務です。自然に包まれ、神様に包まれ、人に包まれることの幸せ、本物の豊かさを実感していただけるお社づくりに、今後も励んでゆく所存です。
http://www.dazaifutenmangu.or.jp


江陽館の保存の現場から 高木正三郎(昭和六三年卒)

 二〇〇一年十二月
 明治時代の修猷館の校舎が残っている、という話を聞いたのは寒さの深まる歳の暮れでした。それは福岡市片江町で江陽館という公民館として使われていました。しかし話は数ヶ月後に解体されるというものでした。私自身、建築の専門分野に関わる者として、その保存に働きかけることは、当然でした。知っている修猷人に声を掛け、意見を聞き、壊さずに残して使う方法を自ら提案し、新聞に掲載を依頼し、大騒ぎとまでいかなくとも、小騒ぎしました。
 二〇〇二年 春
  しかしこの建築も解体を逃れることができなくなりました。公民館とはいえ市の所有物ではなく、町 のモノ、その代表者が老朽化の理由で解体を強く支持していることが決定的でした。  一〇数年前にも古賀の地にやはり木造の旧修猷館校舎があり、議論の余地無く消えていった事実がありました。古いモノへの関心の高まりつつある時代に、前例と同じことを繰り返すことになりました。
 二〇〇二年七月三〇日
 
 やはり、この建築は移築後一〇〇年の歳月が建っていました。天井を解体したところ、棟木に明治三五年(一九〇二)、この地に再建されたという棟札がありました。明治時代の当時 修猷館は今の大名の地にあったようです。移築される段階で既に建物としては幾年か 使われていたわけですが、大名から片江町に移されてから一〇〇年、町の公民 館として使われていたことになります。片江町の九〇歳を越える長老のいうとおり、黒田長成公から命名授かった「江陽館」を壊してはならないという言い伝えを守り抜いてき た、その事実が浮かび上がってきます。
  西日本新聞に解体されるという事実が掲載されてから、余命数週間の江陽館を見に来る人々を散見することができました。今、建築の分野では、長く生きてきた歴史的な建造物を大事にしよう、それがその場所の文化になるのだという考え方を押し拡げようとしています。江陽館は、我々卒業生が母校の歴史の重み、良い意味での誇りを肌身で感じるためのいい道具であったと思います。心の中の記憶だけで想像するよりは、モノとして残っていた方が断然伝わりやすいからです。江陽館は完全に跡形も無くなりましたが、モノを残すべきという上記の思いがあり、屋根を支えていた、直径七〇センチほどある立派な梁材六本を個人的に貰い受けています。
  これらの使い道、資金さえあれば、例えば家具にして修猷館に寄贈することなどが考えられます。これに関するアイデアやお力を寄せていただければ、このうえない幸せです。







ミャンマー慰霊巡拝の旅   石田 洵一(昭和二六年卒)



  「お父さんが居なくてもお母さんの言う事を聞いてよく勉強するんだぞ」と優しく語ってくれた父の笑顔が今生の別れとなりました。そして南方方面を転戦し一九四五年ミャンマーで(旧国名ビルマ一九八八年に変更)のカンボウ村で戦死しました。そして今春ビルマ英霊顕彰会による慰霊巡拝団の一員としてミャンマー巡拝の旅大変感激しました。各地にある日本軍基地や激戦地で、般若心経の朗読など数々の慰霊行事を行ないました。「戦いは我に利あらず、日本軍は十九万の戦没将兵を遺して敗退した。この作戦間、ビルマの人々は日本軍を歓迎し、援助し、敗戦後も変わらぬ仏心で我々に接してくれた。本当に有り難う。」これはヤンゴン郊外オカラッパにある戦没者霊園碑文の一部抜粋です。十九万に上る日本軍将兵がここ雲煙万里の地ビルマで散華したのです。しかもその七〇%が病気と飢餓による戦病死なのです。補給が確保されない中での苛烈な戦闘、戦没者の無念の気持に胸が裂ける思いです。そうした中でビルマの人たちが終始変わらぬ仏心で日本軍人に暖かい協力の手を差し伸べてくれたこと、その親切に対する日本軍人の深い感謝の気持ちが、この碑文からよく伝わってきます。巡拝団メンバーで元軍医の奥様の話ですが、昨年秋ご主人が亡くなられる直前「自分は親切なビルマ人が住み、多くの戦友が眠るビルマの地で眠りたい。死んだらイラワジ河に灰を流して欲しい」と依頼された由。ビルマを愛する生存帰還将兵の熱い思いに心を打たれました。奥様がイラワジ河に灰を流される時、巡拝団一同花を投げご冥福を祈りしました。
  私は団としての行事の他、個人的に自由時間を頂きカンボウ村で父の慰霊祭を行ないました。カンボウ村への道路事情は悪く、特にイラワジ河から村まで凸凹道で牛車しか利用できません。ところが牛車は上下左右に激しく揺れかえって疲れるので歩く事にしました。然し三五度Cの炎天下、たちまち汗だらだら、やっとの思いで目的地に着きました。このような炎熱の地で物量豊富な米英軍と少ない武器を手に死闘を繰り返した日本軍将兵に頭の下がる思いがしました。カンボウ村の小さなパゴタの一角で父を含む六人の方々が戦死し永遠の眠りについています。その場所で慰霊の法要を営みました。高僧一人を含む五人の僧侶、住民約一〇〇人の参加を得て盛大なものとなりました。村民全員、高僧のリードで熱心にお祈りを唱和してくれました。多くの日本人が失ってしまった人の心を思いやるビルマ人の暖かさに感動し目頭が熱くなりました。
  今回の慰霊の旅でミャンマーの人達が如何に親日的であるかを肌で実感しました。又人々の九〇%が敬虔な仏教徒で性格も温和です。戦後ビルマ独立のリーダーになった人達の多くは日本で教育を受けた人たちです。現在ミャンマーは世界でも極貧国の一つです。その上西側諸国からの経済制裁を受け大変困っています。ミャンマーの識者の多くが、軍事的野心のない日本の経済協力を期待しています。戦中戦後、私達の肉親がビルマの人達から受けた数々の親切をお返しする為にもミャンマーの期待に応えるべきではないでしょうか。


  ウルトラマラソンを楽しむ    坪内俊之(昭和四五年卒)



  昨夏二年越しで、「北海道縦断遠足ジャーニーラン(往路、復路)」を完走した (http://www.ne.jp/asahi/ no-miso/jrc/)。  この大会は今年で六回目、NHKテレビのドキュメンタリーやドラマで放映された事があるので、ご存知の方も居ると思うが、往路は宗谷岬から幌延、羽幌、北竜、栗山、富川、三石泊で襟裳岬まで五三四q、復路は襟裳岬から忠別、新得、富良野、旭川、美深、浜頓別泊で宗谷岬まで五五五qを、それぞれ七日間で走る。今年は、往路十七名、復路四十四名、うち往復七名が参加した。
  大会方式は、@大会中に必要な荷物は全て持って走る、A途中の給食給水は全て自分で補う、B毎朝同時スタートし、約五・五q/hrの制限時間内にゴールする、C二万五千分の一地図コース図通り走り、数ヶ所のチェックポイント通過時間を記録紙に記入してゴール後提出する、というものであるが、「参加者自身が主催者となり大会を実施する」のであって、呼び掛け人はコース設定をするのみで、後はすべて自己責任で走り旅を楽しむのである。
  荷物を極力軽くするのがコツで、走る服装はお遍路さん宜しく毎夜洗濯し、使い終った地図は毎日自宅に郵送した。制限時間から分る様に、これは競走ではなく、自然を肌で感じ、時にはビールで喉を潤し、景色を楽しみながら自分と対峙しつつ、ゆっくり足を進めるのが趣旨である。とは言っても、毎日平均八〇キロを七日間走る長丁場なので、足や体への負担は大きく、完走率は往路で七六%、復路で四八%であった。
  走歴十三年になるが、それまでは、ランナーは走るだけで良い、言わば上げ膳据え膳の大会に参加していた。しかし、何か物足りなさを感じていたところへ、二年前インターネットのウルトラマラソン仲間から誘われて、三日で東京一周二六一キロを走る「武蔵野の路ウルトラマラニック」に出たのが、荷物を担いで走るウルトラランニングとの出会いである。これが自分の趣向とぴったりであったので、その後はもう完全に虜である。考えてみると、高校一年の三五年前、背振越えで修猷館から佐賀西校まで、ワンダーフォーゲル同好会の夜間行軍に参加したのがこの原点にあるのかも知れない。
  練習については、平日は時間がなかなか作り出せないので、大会も含め週末に集中して五〇〜一〇〇q走ることが多く、年間にすると通勤にしか使わないマイカーとほぼ同じ約五〇〇〇キロの走行距離である。練習距離を稼ぐためには、リュックを背負って買い物に行くなどの工夫も必要で、片道二〇キロ程度であれば走って行っている。幸い企業の中央研究所勤務なので、ほぼ自分の裁量で休暇が取れるため、大会参加には重宝している。
  これからも時間を作って、呼び掛け人が居る東海道、中山道などの旧街道ジャーニーランや、自主テーマの日本横断(三〇〇〇m峰一筆書き経由、フォッサマグナ経由)など、沢山の魅力的テーマを走り続けていきたい。


  同窓生の喫茶店!

  ちまたでチェーン展開している某カフェとはひと味もふた味も違うのが、二〇〇二年四月に早稲田大学の西門近くにオープンした「キラキラカフェ」だ。大島栄二氏(昭和五八年卒)が第一勧銀のCDコーナー跡地を気合いと焼き肉パワーによって、単独ハンドメイドで完成させた店。一八〇円とリーズナブルなコーヒーを飲みながら、大島氏が音楽プロデューサーをつとめる「キラキラレコード」の曲(全一〇〇〇曲!)が楽しめるのだ。
 住所/東京都新宿区西早稲田三・一・三 西尾ビル1F
 電話/〇三・五二九一・八〇二二
 営業/朝一〇:三〇〜夜九:三〇   年中無休
  http://www.kirakira-record.com/cafe


  気取らずに寛げる都会のオアシス

  JR新宿駅から徒歩七分、演芸場・末広亭から三〇秒と映画や仕事帰りにふらりと寄りたくなるのが「バー&ワイン ゴブリン」。マスターは昭和五九年卒の鬼塚茂嘉氏。好きなワインをボトルではなく、グラス(七〇〇円〜)で気軽に注文できるというのがウレシイ。スペイン風生ハム八〇〇円のほか、各国のチーズも揃う。
 住所/東京都新宿区三・八・五  イオヤビルB1
 電話/〇三・三三五六・三〇〇九
 営業/夜八:〇〇〜翌朝七:〇〇    月曜休み


「かつての二木会 (五〇〇回を前に)」

 二木会は二〇〇三年二月に五〇〇回を数えます。東京修猷会・二木会はどのような経緯で現在のような形になったのでしょうか。〇二年総会幹事学年を務めた昭和五一年卒は、総会企画の取材過程で大正十五年に中学修猷館を卒業された佐賀県基山市在住の三嶋利美大先輩から貴重なお話を聴くことができました。
  三嶋大先輩は九大経済学部と同法学部で学ばれ司法試験に合格、昭和八年に内務省地方局勤務となって上京され、東京と地方を転勤で行き来されていたそうです。同二三年には建設省から福岡県庁に配属され、その後、住宅公団、フジタ工業に勤務された経歴をお持ちです。
  三嶋大先輩は、第二次大戦終戦前後について「東京近郊に在住する修猷館卒業生は、当時それほどいたわけではなかった。学年で一〇人に一人の割合もいなかった気がする」と振り返られます。
  福岡県庁に配属されるまで三嶋先輩が出席された二木会については「学士会館ではなく、当時はステーションホテルで開かれていた。出席者数は、毎回二〇〜三〇人だったと記憶している。自分もあまり出席率がよかったとはいえないが…」とおっしゃいます。このころには既に二木会の案内など、東京修猷会の事務局的な活動が根付いていたのでしょうか。二木会の案内などが組織的になっていたことがうかがえます。
  出席者は「明治年代卒業の先輩方がメインテーブルに座っていた。着流し姿のおしゃれな先輩もいらっしゃった」とのこと、また内容は「出席者の中から予め決められている方の卓話が中心だった」ようです。  三嶋大先輩は「さすがに講演だけでは寂しくもあり、正直うんざりしたこともあったが、ある時、七年上の先輩から声を掛けられ、麻雀に誘っていただいた。それ以後、二木会の後の習慣になった」とのことでした。二木会の当時の様子がしのばれます。
  東京修猷会の成り立ちにはいろいろな説があるとうかがっています。山王ホテルの佐藤社長の人柄を慕って、東京在住の卒業生が精養軒に集まっていた会が次第に大きくなった…。元東邦生命会長の太田清蔵先輩が、ご自分のポケットマネーで開いていた後輩たちとの集いが次第に組織化されていった…等々。大先輩のお話を拾い集めて、東京修猷会の来し方、二木会の五〇〇回の歩みをたどってみたいものです。
 (昭和五一年卒 取材・油田哲、文責・中屋裕司)


平成十四年 二木会 講演記録

第四九〇回 平成十四年一月 
  鳥飼 一俊(昭和四〇年卒) 株式会社熊谷組代表取締役社長
      『建設業の現状』        神田学士会館
 
第四九一回 平成十四年二月
  高西 淳夫(昭和五〇年卒)  早稲田大学理工学部教授
  『アイボの先に人型ロボットが見える』    〜ヒューマノイド・ロボットの展望〜  神田学士会館

 第四九二回 平成十四年三月
  稲尾 和久    元西鉄ライオンズ投手、野球解説者
  『プロ野球四方山話』    〜日本のプロ野球の現在、過去、未来〜      KKRホテル東京

 第四九三回 平成十四年四月
 
 山崎 拓 (昭和三〇年卒)    衆議院議員 自由民主党 幹事長
  『二十一世紀の新生日本と修猷同窓生』                    神田学士会館

 第四九四回 平成十四年五月
  
中川 勝弘(昭和三五年卒)    トヨタ自動車鰹務取締役(生産、物流担当)
   『物作りとトヨタ生産方式』                神田学士会館
 
第四九五回 平成十四年七月
  久保田勇夫(昭和三六年卒)    ローンスター日本法人会長
  『望ましい官僚とは?』    〜霞ヶ関の実態を踏まえて〜              神田学士会館

 第四九六回 平成十四年九月
 
 西村 英俊(昭和三六年卒)    日商岩井株式会社 代表取締役社長  
  『中国と米国に駐在して』    〜商社マンの目を通してみた両大国の今後〜  神田学士会館

 第四九七回 平成十四年十月
 
 下田 正弘(昭和五一年卒)    東京大学大学院人文社会系研究科 助教授・文学博士
   『古代インドの生死観』 〜仏教の誕生・二五〇〇年前のインドの世界〜     神田学士会館
 
第四九八回 平成十四年十一月
 
 
松原 耕二(昭和五四年卒)    株式会社東京放送(TBS)「ニュースの森」編集長
  『変貌するテレビニュース現場』    〜テレビ報道の現状と今後〜         神田学士会館




学年だより

 
はや五〇年になりましたバイ
     東京猷友会報告 幹事 松尾正弘
昭和二八年卒 



 二〇〇三年には卒業五〇周年を迎えます。六月に福岡で盛大な記念同窓会の後ビートルズで韓国の釜山―慶州観光旅行を計画しています。私達の年度は皆さん同様コミュニケーションがよく、福岡の猷友会本部の辻博会長と東京の吉見健三会長は緊密に連絡を取り合って、母校への寄付はいち早く達成するなど活動しています。東京ではもう四〇年位前から欠かさず毎年同窓会を開催しています。初めは三人でスタートしましたが、現在四〇〜五〇人位の同級生が毎回集まります。関東地区には住所が判明している人は約一二〇人位おり、ある程度現在の状況を各人からお知らせいただいています。同窓会では久しぶりに出席した人や、初めての人にはスピーチをお願いしますが、同窓会そのものには特に誰かが話しをするとかの内容はありません。やはり昔に戻って話すということに徹するほうがいいようですね。開催日も勤務の都合から長い間二月でしたが、昨年から五月に変更したら、風邪による突然の欠席が減少しました。また毎年宿泊つきのゴルフ大会を開催しています。参加者は二〇人位ですが、伊豆や山中湖でゆっくり宿泊、おおいに飲んで語りマージャンをし翌日プレーします。この歳でも皆さんのよく飲むこと驚きです。従ってスコアはあまり期待できません。ほとんどの人は退職し時間は充分ありますので、個人的に仲間で旅行したり、ゴルフをしたりして楽しんでいます。これからは健康第一にお互いに情報を交換して過ごしていきたいと話し合っています。

 NY修猷同窓会に参加して   樫山(宮原)ゆかり 昭和五七年卒



  昨年七月二三日に、ニューヨーク市内のあじさいレストランにて、修猷館高校同窓会NY晩餐会が六時半から開催されました。その日は朝から快晴でしたが、六時頃から降り出した雷雨の中、六名のニューヨーク在住のOBの方々と、ロサンゼルスから初めて参加した私の、総勢七名での三時間ほどの夕食会でした。馬や競馬に詳しい下川氏の熱弁を中心に、時間を忘れるほど楽しいひとときでした。最後は記念撮影で閉会しました。
  本来ならば修猷の在学生十二名及び鹿野教諭、吉永教諭、末永館長を海外派遣団としてお迎えする歓迎会を兼ねた晩餐会を行うはずでした。直前の六月末に館長よりEメールを頂き、米国内でのテロ再発の危険性を重視し派遣を中止するという連絡があったようです。
  ニューヨークは五年前に訪れた時よりも、人々が助け合いの精神に溢れ、また治安も良くなっていました。金融、経済、国際政治などに於いて世界の中心であるニューヨークに、過去八年程ほぼ毎年海外派遣団を迎え、ニューヨーク在住のOBを中心に米国在住のOBより寄付を募り旅費の一部を援助し、証券取引所、国連ビル、OBの方が勤める弁護士事務所、ワシントンの日本国大使館、朝日新聞支局などを研修する米国東部視察は、在学生にとってとても有意義なもので、是非今後も存続して頂きたいと強く思いました。
  参加者(敬称略)
  水月文明(昭二九卒)江川清(昭三五卒)下川次郎(昭四一卒)尾上博史(昭五〇卒)
  長浜圭祐(昭五九卒)森下純也(昭六一卒)樫山ゆかり(昭五七卒)


 平成十四年東京修猷会総会      安東泰隆 昭和五一年卒

  平成十三年九月十一日の米国同時多発テロの影響で、前任の実行委員長が海外転勤になり、同年十二月になって急遽引き受けた実行委員長であった。高校時代は文武双方とも振るわず、同級生にもさほど知名度のない自分としては、性格的にも人の神輿に乗って鷹揚に構えるタイプでもないし、実行委員長という名前にこだわらず、ただひたすら自分のできることは何でも自分でやるしか方法はないと思っていた。
  総会の準備から開催当日に至るまで、具体的な問題点を反省すればきりがないので省略するが、実行委員長というのは曲芸の皿回し役のようなもので、五つも六つも同時に不安定な皿を回すのためには、躊躇せず自らが手を加えて回していかないと、皿のどれかが簡単に落ちてしまい、全てが台無しになる。どこかの皿が危ないと思えば、躊躇せず手を出してまわしてやらないと、別の皿がまた危なくなる、その繰り返しのようなものだった。もちろんどの皿も自分で回るように設計したつもりだったのだが、設計検討不足もあれば、勝手に暴走してしまうこともある。それを遠慮なく調整するのが、自分なりの実行委員長の役目と信じて、それを貫こうと決めた。
  そのために、十二月に実行委員長を引き受けたとき、「五か条の約束」を同級生幹事のみんなにしてもらった。@人任せにしない、A仕事が忙しいとは言わない、Bサービス業に徹する、C同級生同士で遠慮はしない、D意識と情報を全員で共有する、である。これは何を隠そう、身分不相応な実行委員長としての自分自身を、奮い立たせるために考えた言葉なのである。
  幸いなことに、多くの理解者と賛同者を得て大過なく総会を終えることができた。今は、すばらしい先輩、後輩、そして同級生の仲間たちに感謝している。
  ただ、私のやり方が本当に理想の実行委員長かというと、自分でもそうは思わないし、人それぞれ考え方も違うので、諸先輩をはじめとする総会参加者や、同級生の中にもご批判はあったかもしれない。それは甘んじて受けるが、自分のやり方はこれしかできないし、また、気の短い自分にしては根気よくやりつづけたなと思っている。
  最後に後輩たちに一言。どの実行委員長も、今までのやり方にとらわれることなく、ご自由に、自分たちの信じる方法で進めてほしい。そして、自分たちにはなし得なかったあっと驚くような総会にも、近い将来、出会ってみたい。


 二十一世紀アジアのキーワード「アイランドシティ」
                                               
水町博之
(昭和五三年卒)



  アイランドシティ、みなさんご存じでしょうか?
  福岡空港へ向かって飛行機が高度を下げるとき、窓からの景色で、志賀島・海の中道の根本部分、博多湾東部の香椎沖に見える、そう!あの埋立地です。
  天神から約八km、福岡空港から約八・五km、福岡インターから約八kmの位置に、約四〇一ha、能古島とほぼ同じ大きさの人工の島をつくり、国際的にも競争力のある近代的な港湾を整備するとともに、福岡市の将来をリードする創造的な先進モデル都市づくりを推進するアイランドシティ整備事業が、現在、福岡市最重要のプロジェクトの一つです。
  歴史的にも地理的にもアジアに近い福岡市は、港とともに栄えてきました。「金印(漢委奴國王)」の時代、「鴻臚館」の時代、「袖の港」の時代、「太閤町割り」の時代、最近ではシーサイドもちの開発、港を通じてアジアをはじめ世界中と多くの物・人・文化・情報が交流し、国際都市として発展しました。 福岡市は現在二十一世紀初頭のまちづくりの指針となる新しいマスタープラン作りに取り組んでいますが、その基本方向として「自由かっ達で人輝く自治都市・福岡をめざして〜九州、そしてアジアの中で〜」を掲げています。大転換期のモデルのない時代の中で知恵や創意工夫、様々な実践を積み重ね、従来の手法にとらわれない福岡方式の創造に挑戦し、新時代の都市づくりを進めていく。その実験フィールドとしてアイランドシティがあるのです。
  「アジア・世界につながるフロンティア・ワールド」をコンセプトに、九州・アジアを視野に入れた新しい産業の集積、太陽光発電住宅など先導性の高い住環境の整備、安全で利便性の高い都市システムの確立、また、側にはクロツラヘラサギなどの野鳥が飛来する和白干潟がありますが、周辺海域など自然環境とも共生するまちづくりを展開いたします。
  アイランドシティのまちづくりに関して各分野でご活躍の方々にご意見を伺いに行くと、いろんな所で修猷の先輩にお会いします。最先端の世界の動き・情報、先見性に富んだ展望等々、みなさん福岡のことになると本当に親身になってアドバイスをくださいます。
  昨年十月二十六日にはアイランドシティを縦断する道路が開通しました。雁の巣からアイランドシティ〜香椎パークポート〜香椎浜のルートを通ることによって、特に観光シーズンなどの海の中道地区へ向かう渋滞が大きく緩和されることになります。また、道路の開通により、市民のみなさんからの注目も高まり、身近な存在になったようです。
  今年九月には、水深十四mの外貿コンテナターミナルが稼働し、土地についても、住宅用地、港湾関連用地、産業集積用地と順に分譲され、二〇〇五年度の全国都市緑化フェアの開催やまち開き、二〇〇九年度の鉄道の開業など、着実に新しいまちができあがっていきます。また、新福岡空港建設との相乗効果も期待されているところです。 ぜひ、一度ごらんください。
   (アイランドシティHPアドレスhttp://www.island-city.net/)

─── 平成14年度寄付金 ───

平成13年11月1日から平成14年10月31日までに238名の皆様から寄付金が納入されています。ありがとうございました。お礼の意味を込めてお名前を掲載させていただきます。
(敬省略。卒年別。順不同)
  また、年会費の納入をまだ済まされてない方は、同封の郵便振替用紙にて早速ご送金くださるようお願い申しあげます。(1口3千円。3千円以上大歓迎。3千円を超えた額は寄付扱いします)
 00170-6-172892 東京修猷会事務局

 鳥巣建之助(大14)、大島毅一(昭4)、寺野元英(昭8)、冨田明徳(昭9)、橋本 胖(昭11)、
小山田隆、鎌田正行、篠崎春男、宮川一二(昭12)、中村浩二、高村健一郎(昭13)、
戸波行平、矢幡忠太(昭14)、隈部 洋、高川正通、古川吉重(昭15)、山名 博、松尾文博(昭16)、
高向賢一(昭17)、不破敬一郎、鶴田一白(昭18)、塚本 学、毛利昂志、田尻重彦、早野俊一(昭19)、
ジャニイ岩橋(昭20A)、津曲浩人、山本敏男、桝田弘道、野上三男、井上博夫、田中庸夫(昭20B)、
筑摩貫一、稗田孝道(昭21)、木下洋一、岡崎 登、黒瀬幸正、南雲 進(昭22)、井上洋一、月成 巍、
八牧将勝、松岡春樹、田尻利重、白木彬雄、篠山博厚、大西 勇、伊岐和男、荒谷俊治、中村邦也、
小松顕太郎(昭23)、城f陸郎、村上昌明、山本義治(昭25)、藤吉敏生、中上通敏、増田満昭、
廣瀬貞雄、中村道生、奥村秀郎、大平 修、合谷欣一、太田 進(昭26)、福田純也、吉田 耕、
都島惟男、谷川清士、榊喜美子、金田久仁彦、飯田英子、難波栄彦、和栗眞次郎(昭27)、柳島富男、
児玉黎子、真武保博(昭28)、永井充子、吉武寿一、元村静子、村越 登、長野倬士、長尾淑實、
高木道子、高木正幸、斉藤弘子、桑原 収、井上博之、工藤國夫(昭29)、坂本幸治、城川 明、
田中栄次郎、中島英殷、遠山壽一、山崎 拓、久保 久、喜多村寿信、岩田至道、塩沢孝憲、
澤田郁代(昭30)、柴田 悟、箱島信一、中村保夫、高崎洋一、近藤 徹、岸川浩一郎、阿部公明、
伊達直哉(昭31)、小野靖記、八谷多寿子、平野煕幸、林 克己、山本貞昭、野間正己、島上清明、
池内正義、鳥居健太(昭32)、今吉淳一、緒方嘉裕、河野美和子、河野 理、城みよ子、寺澤美和子、
松永貴子、吉川 浩(昭33)、笠倉紀子、服部富美子、行武賢一、苛原真也、伴 拓郎、西嶋勝彦、
辻 武久、讃井邦夫、川辺猷治、加藤 泰、尾崎文彦、大和博明(昭34)、隈部忠昭、松本光華、
羽立教江、長谷川亘洋、中村純男、坪井正治、田代信吾、可児 晋、石橋勇之、月本一郎、佐々木真、
中村清次(昭35)、安藤誠四郎、宇山博藤、木村俊道、中島成之、山本 博、横倉稔明(昭36)、
大須賀頼彦(昭37)、上田 茂、渡辺俊介(昭38)、橋本正朗、井手篤雄、岩本 肇、草野芳郎、
久保田康史、柴田俊一、高橋登世子、野見山典康(昭39)、宮本雄二、中江 聰、棚町精子、森 秀則、
筑紫勝麿(昭40)、宮原正治、渡辺耕士、野口基雄、山城喜憲、三上博民、北郷英樹、平岡珠樹、
片田正行、鳥飼 健(昭41)、石川 透、高本晴子(昭42)、伊豆安生、近藤景子、広瀬 豊(昭43)、
深川 彰、伊藤 真(昭44)、鳥取章二、本田由紀子(昭45)、栗山英俊(昭46)、木野茂徳、塚本幸一、
大島宏樹(昭47)、荒木久子、高山信彦、安田一郎、安田正俊(昭48)、井出富士雄、八尋一彦、
田崎 茂、山本 周、橋村秀喜、古森光一郎、秋山忠嗣、杉浦 剛(昭49)、小林みどり、中島裕子、
野中哲昌、山本治敬(昭50)、徳島 操、溝部仰起、溝口 計、鐘ケ江伸治、油田 哲、時枝一徳、
小林 明、久保田馨、舟橋利周、安東泰隆、原 一郎、桐明幸弘(昭51)、鐘川誠司、釘崎篤子、
高野智子、寺岡隆宏、山f敏邦(昭52)、石川雅敏(昭53)、中原誠也(昭54)、谷口和彦(昭55)、
福原直通、井手 昇、端野智幸、吉田純也、伊藤盛明、井手慶祐、荒木禎史、山中秀徳(昭58)、
木田真司(昭59)、宮本拓海(昭61)、剣 彰彦(昭62)、古川真理子(平2)


事務局だより

 新しい執行部の体制になって早一年余りがたちました。この間も皆様のご協力と担当学年の熱意によって、六月の総会および毎月二木会を中心とする催しは順調に、そして盛大に行われました。ここに改めてご報告するとともに、御礼申し上げます。
  昨年夏から引き継いだ昭和五十一年卒業の学年が幹事となって本年も二木会に力を入れて参りますが、特に二月十三日の二木会は五百回目という大きな節目を迎えます。二木会もおよそ五十年の歴史を刻むことになります。それにふさわしい講師の方をお迎えし、さらに盛大に挙行したいと考えています。
  総会の担当学年は五十二年卒業になりますが、すでに昨年から何度も会合を重ね準備を進めています。彼らの十分な調査の上で今年の総会会場は麹町の日本都市センターに変更しました。六年間続いた経団連会館も評判は良かったのですが、担当学年の熱意をくみ取り、より参加者の満足が得られる内容になるものと確信しています。
  昨年は皆様方のご協力により、会費の納入者も増加しました。今年はさらに工夫し、振込用紙に住所やお名前をすでに印字させていただきました。これによって、皆様のお手をわずらわせることが少しでも軽微になればと考えております。一層のご協力をお願いいたします。
  本年も老壮青のいずれの世代にとっても魅力のある東京修猷会の活動を進めていけるよう努力して参ります。
  (幹事長 渡辺俊介)


 編集後記

 昨秋は昭和三〇〜四〇年代に修猷館で教鞭を取られた懐かしい先生がお二人逝去されました。一〇月一七日に英語の水藤勝之先生、十一月十四日に生物の尼川大録先生です。心からご冥福をお祈りいたします。ここに昭四〇年卒のMLに流れた水藤先生への追悼文を紹介します。
  「水藤先生、長身をちょっと前こごみに、真っ白な開襟シャツの襟を上着の上に出されて、微笑みながら教室にはいってこられたとき、英語が人に結晶したのを見たのだと思います。Far East Networkを聴くといい、とおっしゃったのは、先生だったのでしょうか。
  何千人の生徒の英語人生の扉を開かれたことを土産に、安らかにお休みください。 ありがとうございました。合掌。S・A」
  昨年の会報十四号の表紙を飾って下さった昭二六年卒の矢野眞さんの仏画が絵葉書にもなりました。
   問い合わせ先:mac-yano@k9.dion.ne.jp
  (棚町)