東京修猷会・会報 第14号 2002年(平成14年)1月1日発行
矢野 眞作 第一面画像
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大項目 | 中項目 | 筆者 | 卒年 |
巻頭 | 暖かい心を取り戻そう | 藤吉 敏生 | S26 |
同窓生から | カラスを偲びながら | 矢野 眞 | S26 |
中世博多に思いを馳せて | 北嶋雄二郎 | S43 | |
スポーツ都市 「福岡」 | 久木原 哲雄 | S48 | |
香港雑感−中国返還その後− | 大矢 高暉 | S31 | |
仕事あれこれ | 博多小学校の設計をして | 工藤 和美 | S54 |
ペットと癒し | 末松 脩 | S30 | |
会報版「私の履歴書」 | 宮川 一二 | S12 | |
同窓生の本 | 「新しい社会福祉と理念」 | 土肥 隆一 著 | S33 |
「犬になれなかった裁判官(S27年卒 安倍晴彦氏 著)」 を読んで | 小西 正利 | S26 | |
「戦前と戦後の谷間での青春の日々」 (我らが修猷館時代) |
野上 芳彦 著 | S23・24卒 | |
「アラスカ 垂直と水平の旅」 | 栗秋 正寿 著 | H3 | |
レポート | 福岡アジア美術館を知っていますか | ||
2002年 福岡の主な行事 | |||
博多座 芸どころ博多の象徴 | |||
修猷館高校からの報告 | 活動記録 初の全国制覇! ディベート同好会 他 |
||
運動部 OBOG会 |
陸上部OBOG会 東京の活動 | 今林 定道 | S44 |
「はじめての?」東京修猷会 バスケットOBOG会 |
深堀 志之 | H3 | |
柔道部OB会−−ゑびす会 | |||
学年だより | 修猷25会のこの20年 | 濱田 桂一 | S25 |
2002総会 | 2002年度東京修猷会総会のお知らせ | 幹事学年 | S51 |
2001総会 | 2001年東京修猷会総会報告 | 沼 浩一郎 | S50 |
二木会 | 第9回二木ゴルフ大会 | 山下 政比呂 | S49 |
二木会 | 東京修猷会事務局 | ||
H13年寄付金 | 平成13年度寄付金を頂いた方 | 東京修猷会事務局 | |
東京修猷会2002年活動スケジュール | 東京修猷会2002年活動スケジュール 事務局移転のお知らせ |
東京修猷会事務局 | |
事務局 | 事務局便り | 東京修猷会事務局 |
「温かい心を取り戻そう」
藤吉 敏生 東京修猷会会長(昭和26年卒)
館友の皆様、明けまして、おめでとうございます。昨年六月の定時総会で、野上三男前会長のあとを引き継いで東京修猷会会長に就任してから初めての新年です。いま、改めて責任の重さを痛感しているところです。この一年、会の発展のために微力ながら全力をつくしますので、よろしくご支援のほどお願い致します。
それにしても、新世紀幕開けの昨年は何とも言いようのない無念さと、不安感が募る一年でした。その代表的なのが九月十一日に起きた米国での同時多発テロでしょう。これは残酷、卑劣で片づけられない、世界の人道と人類社会への挑戦といえます。しかも二十一世紀の最初の年に起きた歴史的な事件であり、新世紀の国際社会に与えた衝撃は計り知れないものがあったと思います。テロといえば、わが国はサリンの恐怖を経験ずみなだけに、世界と協調して今世紀の早い時期にテロを根絶する勇気ある行動と責務があるでしょう。そうしないと、自ら文明を滅ぼす恐れさえあります。今年こそ、先ず危機管理体制を国を挙げて確立し、すべての人が安心して暮らせるようにしなければなりません。
さて、混迷の時代、わが国は今世紀どのような道を進もうとしているのでしょうか。国の指導者が一つ舵取りを誤れば、引き返す道さえ見つからない迷路に入ってしまいそうな、そんな予感さえする世の中のように思えるのは私だけでしょうか。二〇〇一年の昨年は残念ながら政治、経済、社会どれをとっても、そのことが決して誇張ではないほど我々は多くの苦い体験をしました。今年こそは国を挙げて、明るい未来への第一歩としたいものです。
私は平成九年の東京修猷会会報で「今の日本は政治、経済、社会、教育どれをとっても戦後五十年続いたシステムが通用しなくなっている。これを早く変革しなければ、いまの長期不況の中での閉塞感はいつまでも続く」と指摘しましたが、五年たった今日、残念ながらその改革のスピードは遅く、エネルギーに点火することなく時間だけが過ぎ去っています。
昨年四月に「構造改革なくして景気の回復なし」の政治公約を掲げ、登場した小泉首相ですが、政治も行財政も改革の大筋は見えてはいるものの、いざ具体的な実行となるといまだしの感があります。小泉首相に国民が驚異的ともいえる高い支持を与えたのは、強いリーダーシップを発揮して思い切った構造改革をやってほしいと願ったからだと思います。
いま、わが国の経済社会は出口が見えない長いトンネルの中にあります。ITを中心とした情報社会の進展を期待しても、現在も、将来も決してバラ色の社会が浮かんではきません。同時テロが追い打ちをかけた現下の経済状況は当分の間、低迷が続くでしょうし、失業者の増加も懸念されています。毎日の社会ニュースは人々の心を揺さぶるものばかりです。こうした不安な時代に求められるのは、心の温かい人間づくりではないでしょうか。いたずらに権利だけを主張して、義務を果たさない日本人が多くなったことに責任を感じる一人です。
あの第二次世界大戦の廃虚から立ち上がり、見事な国を作り上げた日本人の一体感とエネルギーはどこへ行ったのか、と思う昨今です。昨年九月、同時テロの攻撃を受けた米国が結束して、相手に立ち向かう姿は決断力ある強力な指導者とそれを信頼する人達によって形づくられることを示唆しているようです。現在のような混迷の時代にはカリスマ的な強力なリーダーが必要なんではないかと考えます。このことは政界、経済界を問わず共通の問題としてとらえています。
二十一世紀という新しい世紀は、最初の一年を振り返って、何となく暗黒時代の到来を予感しがちですが、私は決してそうは思いません。これまでの歴史を回顧すれば、それが歴然としています。
私はいま、歴史の転換点に立たされ、修猷館で学んだことやその同窓生の心に胸打たれる日々があることに満足感を憶えます。修猷館という学校の卒業生というだけで、利害を抜きにして心に安堵感を与えます。これが心の郷里であり、温かい心を作り出すのではないかと思っています。東京修猷会の皆さんが力を合わせて、「えにし」を大切にしながら暖かな心づくりの輪を拡げたいものです。
東京修猷会は六月総会はもとより、毎月開催される二木会などを通じ、この一年、館友の輪を大きくしたいと考えています。とくに、伝統と歴史ある二木会は間もなく五〇〇回という大きな節目を迎えます。これを機に、二木会の活性化と充実にも力を注ぎたいと心に誓っています。
一昨年4月田園の美術館での個展初日前日、女性の声で「福岡の田中ですが・・・・」と電話があった。福岡にそんな知り合いがあったかなと思っていたらカラスの奥さんだとわかった。とたんに待ってましたとばかり、カラスの昔と全然変わらない元気な声で「よかとこで展覧会ば企画してもろてよかったのう・・・・」とお祝いの言葉を頂いた。
もう直立不動立ち上がってしまって、受話器を手に緊張のあまりペコペコお辞儀をしていたようだった。「なかなか博多までは行けず、展覧会の案内状をお送りするくらいが関の山で、そのうち現状をお手紙ででも」と弁明の言葉もシドロモドロ。
「もう目が見えんごとなっしもうたけん手紙はいらんばい。電話ばよこせ・・・」との話。散々お世話になっていながらご挨拶にもお見舞いにも行けず、博多には足を向けて眠れない状態でした。丁度その後で「カラス百歳記念展」の企画が郵送されてきたので、参加作品を2点お送りし、期間中に久し振りでもあったので、そのときに無理してでも出掛けようと思っていた。
さてその記念展と私の手術が重なってしまった。記念展最終日に奥様が車椅子を押してカラスが会場に見えたようで、ビデオをお送り頂き拝見した。奥様からそれぞれの絵についてのご説明はあったと思われるが、残念ながら観ては貰えなかったことだろう。
私がこれまで無所属で個展主体にやってこれたのはカラスの影響でした。「本当に絵ば描きたかなら、公募展など出すもんじゃなか。画商とも付き合うとロクなことあなかばい。それでもちゅうなら親の遺産でもなかと絵なんて描けんばい」といわれていた。またそういう時代でもあった。親の遺産などあるはずもなく、それでもということで文字通り大変な生活に突入してしまった。態のいい家出。たとえ乞食になっても・・・・。
芸大受験1回目失敗。カラスから教授・助教授を紹介されていた。当時家出した餓鬼が生きていけるような東京ではなかった。またそれほど器用に世の中を渡っていける自信もなかったのだが、ともかく同窓の友人たちには絶対迷惑を掛けたくない・・・・と、一時期行方不明を装っていた。ちょっと人様には言えないようなアルバイトをしながら、週に一度鎌倉から教授室に通っていたが、月謝など払える身分ではなかった。一応口の悪い教授たちも多少は認めてくれるようになった。
二度目の受験の時、私の下宿へ関西にいた頃の親友が仕事に失敗し夜逃げをしてきた。久し振りではあったし可哀想でもあったので、一生懸命貯めた受験料を二人で飲んでしまった。考えてみればわずかな金額だったのに、当時の私にはどうしても、その後都合できなかった。決してその友達の責任ではない。教授たちからはもう二度と来るなと一喝されてしまった。
というようなカラスには絶対言えないようないきさつがあり、一生懸命お膳立てして頂いたカラスの期待を見事裏切ってしまったのです。どうお許しを願えば良いのか、どう弁明すれば良いのかわからないまま時間は経ってしまったのです。従って、この年になってもカラスには頭が上がらず、ましてや気軽に電話しろといわれても、ヘドモドしてしまうに違いなく、とうとうこのようになってしまったことが申し訳なく残念でなりません。
鎌倉でもう亡くなられた政治漫画家の那須良輔さんから「鴉の会」というグループを作るので君も参加しろよとのお誘いで「なぜかカラスにご縁があります・・・・」とその頃お手紙したら喜んで頂いたものだ。
大漫会の高橋君からカラスの訃報を受け、美術部で一年先輩の秋吉元さんからの電話、同輩の進太一君へ連絡。不在。同様に吉岡孝二君。中村道生君から、、と一日電話が鳴り止まず、延々とカラスの話をしていた。
以前からの予定で埼玉新聞主催、「さいたま市」での個展の打合せが重なっており遂に葬儀にも伺えない始末。
仏画を描き始めた最初のシリーズ「千手観音と二十八部衆」のうち「迦楼羅王」、インドでは「ガルーダ」、日本では「烏天狗」後に「天狗」をリトグラフで作っていたのをアトリエの入口に掛けていた。何の気なしに見つめていたら「ああカラス!!!」そうだこのとき意識はしていなかったが、俺はカラスを描いていたんだ、と気が付き更につくづく見ていたら「この絵は田中先生にそっくりだ、まるでモデルにしたようだ」と見えてきたのです。
画家であった先生の御仏前に私ごときの絵を飾って頂くなんて、とんでもないおこがましいこととも思ったのですが、格別可愛がって頂いたと思い込み、一番尊敬していた先生だからと勝手にきめつけ、先生も奥様もお許し願えるだろうと厚かましくもお送りしてしまった。
ちゃんとした追悼の文章を書こうとしていたのに駄目でした。生前にお伝えすべきであったお詫びの気持ちも御礼の気持ちもついそのままになってしまい、満腔の後悔の念と、ただただ安らかに眠って頂きたいと願うのみです。
現在の私があるのは、先生のおかげ以外のなにものでもありません。本当に有難うございました。合掌
写真右 題名「抱鼓」版画手彩色 背景の緑色は金粉を薬品処理で緑青に 黒一色版画
写真左 題名「羯鼓」銅の板を酸化銅・硫化銅・緑青等に変化させ他金属・ガラス等を焼きつけ 絵の具は使用せず 背景で銀河の形に文字が見えるのは「仏所行讃」という釈迦の物語が経文になったものを彫金している
著作 「絵で拝む日蓮聖人大曼荼羅」 沢道子・矢野眞共著
詩画集 澁澤道子詩「千手観音と二十八部衆」他多数
作品が載ってるHP
日本テレビ 宗教の時間十五分番組
「矢野眞」 1990年12月
「仏教の時間」矢野眞 2000年4月
さて,かつては,この母校から北に進めば,たやすく砂浜に出ることができたが,現在は,シーサイド百道という近未来都市が整然と形成され,高層マンション群,新産業のビル群,博物館やホークスの本拠地福岡ドーム等が視野に飛び込んでくる。さらにその先には,人工海浜が広がり,美しい博多湾の眺望を背景に市民の憩いの場となっている。そして,その最も西側,室見川の河口を見下ろせ,能古島が目前に迫るすばらしい景観の地に中世博多の街並が再現され,昨年,約250日間にわたり「中世博多展」が開催された。
この日本最古の商都で700年前,壮大なドラマが展開された。即ち1274年(文永11)4万人の元軍が900隻の軍船で博多湾に襲来,当時5万人を超える大都会であった博多の町を焦土と化したのは,大河ドラマ「北条時宗」で見られた通りである。1281年(弘安4)には14万人,4400隻の大軍が再襲来,両年ともに玄南の海は,常磐の松の百道原は,元の大軍で埋め尽くされ,まさに日本国が滅亡の危機に瀕したのである。 ところで,北条時宗といえば,忘れられないことがある。
山崎広太郎福岡市長(昭和35年卒)が,福岡ロケに関しNHK本社で海老沢会長と会見した時,「当時の博多の町人がどこに目を向け,元の襲来をどの様に受け止めていたのかもテーマにして欲しい。」と注文を出し,会長がこれを受けて,謝国明という人物を探し出された。この見事な対応は,会長にとって博多がNHK社員としてスタートを切った思い出の地であることのみが理由ではあるまい。この街が,市民の活力に支えられた発展してきたということを会長自身がこの地での生活や仕事,山笠等の祭により実感しておられ,この申し出の意味を直ちに理解されたからであろう。
今日も,博多港は,日本一の旅客数を誇り,コンテナの取扱高も急増する国際港として,福岡空港も毎年2000万もの人々が利用する基幹空港としてともに栄えている。中世の博多も,外国人貿易商や禅僧が往来し,国内外の物が溢れる日本一の国際都市であった。700年後も自由に世界に羽ばたくことができる街,宇宙的平和に貢献できる都市で有り続ける礎を山崎市政のもとで築いていくために,今後とも東京修猷会
スポーツ都市「福岡」
久木原 哲雄 (昭和48年卒)本年7月16日から29日まで福岡市において、「第9回世界水泳選手権大会」が開催されました。
アジア地域で初めて開催された大会には、史上最多の134カ国・地域から約2,500名の選手・役員が参加し、観客数も約15万人を記録しました。
水泳界のスーパースターのイアン・ソープ選手(オーストラリア)の活躍もあり、世界新記録が8個をはじめ多くの大会記録や日本記録も誕生し、日本チームのシンクロナイズドスイミングをはじめ、競泳、飛込競技での大活躍も記憶に新しいことと存じます。
この熱戦の模様は、福岡発の情報として、テレビを通じて世界105の国と地域に配信され、国内ではテレビ朝日系列での放送において、週間平均視聴率1位を記録するなど、その関心の高さを伺うことができました。
福岡市では、スポーツを通じて市民の生きがいのある生活と健やかな心身を作り、活力のあるまちを目指すとともに、相互の交流によりふれあいの輪を広げて世界平和に貢献することを目的として、1995年に行われたユニバーシアード福岡大会を契機に「スポーツ都市宣言」を行い、これまでにさまざまな国際スポーツ大会を開催してまいりました。
このたびの大会では、国際水泳連盟、日本水泳連盟そしてテレビ朝日と密接な連携により準備作業を進め、世界で初めて大型展示場(マリンメッセ福岡)内に50m公認プールを特設するという新たな開催方法を提案し、参加する選手が快適な環境のもとで、日ごろの成果を十分に発揮できるよう円滑な運営に心血を注ぎました。
関係者が一丸となって、事前の競技会場の整備や競技日程の調整に始まり、大会期間中には、世界から来福する選手団の宿泊や輸送、競技の運営、会場の警備、報道関係者への対応そして殺到する入場者の整理など日々山積する課題に取り組みました。
そして、言葉や風俗習慣の違いを乗り越え、連日の猛暑の中、積極的な市民のボランティア活動に支えられて、盛況のうちに閉幕することができました。
高校時代は、弓道部に所属していたとはいえ、水泳だけでなくおよそスポーツ全般が不得手な私が、こうして大会運営の一翼を担うことができましたのも、ひとえにスポーツ界や経済界で幅広くご活躍の諸先輩方による心温まるご協力とご支援の賜物と、この場を借りて厚くお礼申し上げます。
今後とも、アジアに開かれた街づくりを目指す福岡市へ、熱いご声援をよろしくお願いいたします。
香港雑感〜中国返還その後〜 大矢 高暉 (昭和31年卒)
一九九七年七月一日に香港が中国に返還され中国の特別行政区になって四年余が過ぎた。この間どんな変化があったかとの質問をよく受ける。返還前は一国二制度は五十年間保証するとの中国の約束にも拘わらず言語、移動、企業経営上の自由など英国統治下で享受してきた様々な自由が束縛されるのではないかとの強い懸念を誰もが抱いていた。その証拠に英国系大企業が会社登記を香港外に移したり中産階級の大多数の香港人が英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど旧英連邦諸国のパスポート取得のため家族を移住させたり、企業も個人も資産の海外逃避を行なった。中国の共産革命やその後の文化大革命の苦い経験や知識からこの香港離れは当然のヘッジであった。返還後はこれらの懸念は全て吹き飛び中国の約束通り表面的には何も変わっていない。英国軍に代わって香港に駐屯している人民解放軍の姿を街で見かけることもない。行政面では英本国任命の総督に代わって香港人による選挙で選ばれた中国人の行政長官が最高責任者として香港の経営に当っている。立法府も官庁組識も英国時代と同じと言ってよい。新聞論調も返還前と特に変わったこともなく言論統制が行なわれているようには思えない。勿論、中国指導層を批判するような記事は見られず中国要人の来港を大きく取り上げたり中国本土への気配りは行間に伺える。行政長官は選挙立候補に際し北京政府の認知と後盾を得るのであろうから当然中国の大きな枠組と国益の中で諸施策を遂行することになる。高級官僚の言動も同様である。中国が排斥している気功集団「法輪功」のデリケートな取扱いがそのいい例であろう。香港が一国二制度の下で行政上の独立を保ちながらもこのような形での中国化は進んでいると言えなくもない。では返還後一番目につく変化は何かと考えれば、若年層の英語能力の低下であろう。返還の前後から母国に還えると言う民族的精神の高揚もあり英語教育時間を割いて母国語教育の重視策が取られるようになった。その結果若年層の英語力低下が大きな問題として浮び上がってきたのである。国際都市としての香港のこれまでの繁栄は英国統治下で整備された法律、会計、社会制度などと共に英語能力に優れた人的資産が豊富であったからである。二十年前に筆者が銀行派遣員として香港に赴任して先ず驚いたのは、ローカル行員の英語力の高さだった。高卒レベルでも英語を駆使する実用的能力は日本の有名大学で英語を専攻した人達の一般的レベルよりはるかに高いと思われた。近年当地新卒者の英語能力の低下が問題視され、産業界からの要請もあって政庁も英語教育の重要性を改めて認識し、英語教育の時間を増やしている。
さて、この四年間の香港経済はどうだったか。返還前後は熱気に溢れ不動産価格、株価は暴騰し一攫千金を夢見る香港人の欲望はバブルとなって大きく膨らんだ。返還のお祭りの後はアジア経済危機も追い討ちをかけてバブルははじけその後遺症に苦しんでいる人が多い。近時の個人破産件数の著しい増加が、今の世相を如実に物語っている。
所で、中国の経済発展は実に目覚しい。香港が中国への窓口としての優位性を今後も維持できるだろうか。懸案の中国のWTO加盟は年内にも実現の見通しである。それに伴い中国内の法律や諸制度も国際基準に添ったものに次第に進化して行くであろう。北京や上海など主要都市はもとより中国全体が外に向けて一層門戸解放を行ない外資もこれまでのように香港の窓口機能を必要としなくなるであろう。香港が繁栄を続けるためには金融機能や従来からの利便性を更に高め、同時に華南経済圏のハブとして中国本土と一体化して行くことであり、そのための諸施策の実行が必要となってくるであろう。
仕事あれこれ
う事もありました。皆さんすぐに親しくなって、励ましてくれる独特な関係を、周囲は不思議だとか修猷マフィアだとか呼んでいます。それでも、地元福岡の応援団はすごかったです。桑原・山崎両市長の応援はもちろん、助役から後輩いたるまで。「何年卒ね?がんばりんしゃい、何か問題あったらいつでも俺のとこにこんね」と、胸を張る先輩方。この一大事を何とかまとめてくれという気持ちがひしひしと伝わってきました。同時に、東京でもたくさんの先輩方に力になってもらいました。修猷館というつながりがなければ、会えないような方々に励まされ、改めて母校のすごさを感じることになりました。
さて、2001年の春、無事に博多小学校は開校することになりました。(詳細は、http://www.coelacanth-kandh.co.jp)一般公開日には2000人を超える見学者がつめかけ、キャナルより混んどーね!の声を聞くほど異常な関心度。たかが小学校と思われるかもしれませんが、地域社会を支える場として、今学校の存在が大変重要になっています。21世紀の学校のあり方を根底から問い直したこの小学校の完成は、建築・教育の世界に留まらず、大きな影響を全国に与え、見学者の数は増える一方です。それでも博多小では様々な行事が楽しく繰り広げられ、子供や地域の大人の笑顔が満ちています。私にとっては、完成まで山あり谷ありの大変な日々でしたが胸をなでおろす思いです。高校時代に運動会や文化祭で鍛えた、不眠不休の体力と気力に感謝しています。それにしても、母校の建て替えにはいっちょん手を貸しとらんねーと、厳しい先輩方のことばを受け、手が出せなかった悔しさも半分、できあがった校舎を見せてもらい絶句でした。建築家の私の目には、新しい箱が置かれているだけ。そこから発する新しい時代の力や哲学や後世に残る文化といったものが、まったく伝わってきませんでした。母校がどうなってしまうのかと戸惑いを覚えながらも、ふと目を向けると、後輩たちのまなざしは幸いにも昔と変わらず、凛々しく真剣でした。あとは、巣立ってゆく館友を私も応援できるようにならなくてはと、逆に身の引き締まる思いがしました。
女の子はシェリーを散歩させてあげているつもりだが 飼い犬は逆の思い。今日も沙希を運動させてあげていると自負心がある。一緒での小走りで遅れるでもなく先を走る訳でもなく 沙希のスピードに合わせて小走りに走る。コースもお決まりで心得ている。「ママ〜.今日はね・・ケンとチロに会ったよ」お散歩途中によく出会うお散歩仲間犬のこと「チロがもうすぐ赤ん坊生むんだって・・かわいいでしょうねー」母親に口早に伝える今日のビッグニュース。
「たかがペットされどペット」近年ペットへの関心が高まっている。わが国のペット普及率は全世帯の30%。飼ってはいないが好きな人を含めると65%がペット好き人口である。
ペットと云いえばその大半は犬猫を指す。飼育数は約2千万頭、この20年間徐々に増加の傾向。目立つ変化は飼い主の飼育観の進歩だ。今ではペットが家族の一員となった。「ペットと人との共生の時代」との捉え方が定着した。
少女沙希の家族が犬との出会ったのは4年前のこと。レトリバー系のシェリーは生後3ケ月だった。元気一杯の仔犬は部屋ではしゃいだ。初めての少女は 怖さでソファーに飛び乗り背もたれに登り、勢い余って外庭のテラスに転落、頭部に打撲傷を受け病院へ走った。この家族の犬体験はこの大騒動ではじまった。 仔犬は考えた。少女には徐々に接近することを覚えた。少女と仲良しになれる自信もあった。シェリーは予測どおりいつ間にか沙希と一身同体の関係を築いた。沙希とシェリーは時々大衆の前で犬の芸を披露できるまでになった。シェリーは沙希のために上手に振舞う。離れた位置から合図一つで犬を操作する沙希に観客の拍手がわく。はにかみながら頭を下げる沙希の笑顔にシェリーはひと時の幸せを感じる。 今では沙希の家族はシェリーが中心的存在である。
私は25歳で郷里福岡から上京。何時の間にかペット業に携って約40年が経過している。自分には特別のペット好きとの自覚は無い。昔のことで生家では番犬は常にいた。子供心に賢い犬だったという記憶はある。当時は大方の家がそうであったように残飯で飼っていたのだろう。今日での「家族の一員」の感覚とは格段の差だ。「ペットによる癒し」がアニマルセラピーという言葉で社会生活に認知される時代。IT社会の急速な進化によって、情操的郷愁をペットが担っている現象かも知れないが・・・。
「いぬたま・ねこたま」 日本初のペットアミューズメント・
その他ペット関連の総合事業を営む
会報版「私の履歴書」 宮川一二氏(昭和12年卒)
戦争から帰ってきて昭和二三年。さて自分は何をしようかという時、世の中をよく見て回り、資金がなく自宅でできることは何だろうかと模索していたら、問屋業に行き着きました。その頃法律が変わって自動車の方向指示機の別附けが必要となったので、それを仕入れ販売しようと思い立ちました。東京まで二四時間かけて汽車で行って、背中に10個両手に10個そして汽車のチッキに10個と持って帰り、これを弟と一緒に月に六往復しました。そのころの汽車は急行でも窓がなく、顔は煤けて真っ黒になったものです。福岡のトヨタが買ってくれました。この時初めて、商売の醍醐味を味わいました。焼跡闇市の時代、商社・宮川企業のスタートでした。
人がしないことをしようと思いましたし、人が頭をさげて来るようなことをしようと思いました。そのためには情報収集、商品研究を徹底的にします。新聞記事はすでに旧聞、旧知といえますが、昭和二九年より機械工業関係の新聞で情報を収集しています。昭和五十年ごろ甘海老をアイスランドから輸入しました。日本の甘海老が品薄、特に大サイズは皆無だったからです。アイスランドではボイルして食べるだけで生では食べていませんでした。三年経ったころ大手の水産会社がやってきたので、撤退しました。そのようなことが何度もありました。フィリピンで小海老がうまくいっていると火山活動が活発になり、ダメになったので、ベトナム、中国へ切り替えました。赤貝が暴騰していたのでサルボ貝で刺身を作成し、北海道地区より販売開始し、順次南下西下しました。産地も原貝の減少に伴いフィリピン、韓国、遼東半島、山東半島、ベトナムへと移動し、現在は山東半島に戻っています。
手漉き高級画仙紙に関わったのは三五年前です。当時紙漉きの槽が日本に僅か300位にまで減少し、近い将来画仙紙が足りなくなるな、と推測できました。それでベトナム、カンボジア、ネパールなどで和紙作りをと思ったのですが、彼等が中国系でも紙に墨で字を書かなくなっているので、微妙な高級和紙は作れないことがわかりました。筆跡がわかりカスレができる紙でなければいけないし、墨色が変わってはいけない。ある程度にじまなければいけないし、平仮名ではにじんではいけない。画仙紙の品質は奥深いものがあります。韓国はオンドルに和紙を使うので強い和紙は作れるのですが、台湾とともに人件費が上がったので採算が合わなくなり、今は中国で作っています。しかし書道人口が減ったので、需要も少なくなりました。生産工場へ問屋や小売屋を連れていったら、彼等が直接売買をするようになったり、いろいろなことがありました。13〜14年前迄はプライスリーダーでありました。
何を始めるか、また既成地盤をどうやって破っていくかを研究します。私のしてきた仕事は、国体、日本の物理的位置、気象的環境、強国や近隣国家の政策、及び人口構成、教育内容との関わりから生まれたものです。今世界は変わっています。二四時間あれば世界を一周できる時代です。そのスピードとともにビジネスも大改変しました。「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」といいます。勤労精神を持って、ファイトを出し、考える力を磨き、修猷生よ、世界へ飛び出せ、と言いたいです。(聞き書き:会報係)
「犬になれなかった裁判官(S27年卒 安倍晴彦氏 著)」 を読んで
安倍晴彦君は昭和二十七年卒の館友である。縁あって文芸部で中学から何年間か顔を突き合わせた。(六・三・三制実施で私達は中高一貫教育を受けた)当時の安倍君は細面白哲の少年で、体力はなさそうだけれど俊秀の言葉がいかにもピッタリであった。聞けば父君は福岡高裁長官、その頃私が憧れた天野貞祐氏や安倍能成氏を縁戚にもつハイソサエティの坊ちゃんだった。
私が辛うじて九大の門をくぐった年の夏、彼に出会うことがあった。
「ベアさん、東大受けるんだって?受験勉強で大変だろうね」
「受験勉強なんて、あんな無駄なことはしていません、毎日好きな本を読んでますよ」
そして文字通り悠々と合格してしまった。
当方が俗事に追われている間についつい疎遠になったが、その後のベアさんの青年法律家協会の活動には関心があり、新聞や雑誌の関連記事はいつも興味深く読んでいた。
再会したのは彼の定年退官後である。見違えるようにたくましくなっておられた。まず日焼けした顔と力強い口調に驚いた。過去のことには余り触れず、退官後スタートした弁護士生活のことが話題となった。
『日独弁護士物語』の自主上映会が私の住む日野市でも開催されたのはその日から何か月後だったろうか。何気なく新聞チラシに誘われて出掛けたのだが、思いがけずベアさんとまた逢えるチャンスとなった。出演者の一人でもあるベアさんは映画の中でも見事なシャープな語り口で観客に語りかけ、自信に満ち溢れていた。映画のあとの座談会でも静かな口調ながら司法改革を熱っぽく語って聴衆の関心を惹きつけていた。成長したベアさんに感歎した。
ベアさんから葉書が来た。自著の出版案内である。早速駅前の書店に出掛けたが書棚を見回しても見つからぬ。近くの図書館に立寄ってコンピューターで検索してみる。あった、中央図書館に入っている。但し貸出中でなお予約が七件入っているのには驚いた。これでは自分の番はまず半年先になる。書店に戻って取り寄せを頼んだ。
前置きが長くなったが、この本を是非一人でも多くの人に読んで欲しいと思う。裁判なんて関係ないやと考える人こそ読んで欲しい。
司法改革として法曹資格者増員がニュースにも取り上げられているが根本問題が違うのではないか。裁判の遅れも緊急改善を要することの一つではあるが、司法権が国民のものとなることが最緊要のことだ。「人権と憲法を守る」このキーワードからスタートしなければ改革には意味がない。ベアさんの指摘はこの点で正鵠を射ている。この書には三十八年間の自分の体験を土台にして考え続けてきたことが見事に凝集され昇華されている。私達は、裁判官という人達は人格識見ともに優れて、その判決文には彼の全知能を駆使した結論が表現されていると思っている。裁判官の判断に間違いはないという先入観である。だが本を読むとそれがいかに危ういことかが判る。教科書で裁判官独立の原則とかを習ったが、裁判官は常に自由に判断出来るものではないようである。裁判官である前に公務員である裁判官は、いつも監督者である上司裁判官や最高裁事務局の意向を気にしながら判決文を書かざるを得ないようだ。
安倍君の論述を詳しく紹介したいが与えられたスペースがはや尽きた。官僚裁判官となることに徹底して抵抗したその半生に、私は修猷健児の片鱗を見たのだが、皆さんはどうだろうか。是非ご一読をお薦めしたい。
安倍晴彦著 「犬になれなかった裁判官」日本放送出版協会 平成十三年五月刊
書店店頭ではもう見られないと思いますが、注文すれば取寄せられます。また公立図書館には大抵入っていると思います。
そんな最中に「修猷新聞」の編集者から、ホームページをネットサーフしていたら先輩のホームページに辿り着きました。今年(平成13年)の修猷館の新入生向けにメッセージを下さいということで、折角ならこの本の紹介もさせていただこうということで、一足先に出版予告を掲載させていただいた。
この本は私の95册目の出版図書に当たるが、いわゆるパソコンで出版した本では最初の本となった。折角ここまで来たのだから、100册の大台に乗せておきたいと願っているが、マラソンと一緒でそれはむしろこれからが正念場だと思っている。
その本の中にも書いているように、私は旧制中学の最後の卒業生(第60回・昭和23年卒)であるのと同時に、新制高校の最初(第1回・昭和24年卒)の卒業生で、その中間点、いわゆる中学3年生の時に敗戦を迎えた。この困難な時期に4年間級長をし、3年間、生徒会長・自治委員長・議長などをしていたので、今の新制高校の基礎作りの部分に携わったこともあって、できる限りのことを書き残しておきたいと思うようになった。これがこの本を出版する動機となっている。
アラスカのマッキンリーに世界で4人目に冬季単独登頂した栗秋正寿さんがその登山とその後のアラスカ半島を縦断する旅について記した初の著書。修猷館山岳部で登山の魅力に目覚め、さらに九州工大で登山を続け、準備をかさね1998年3月ついに冬のマッキンリーに登頂。ひとり孤独な垂直の山旅に比べ、人々と交流し心通わせられる半島縦断1400kmのリヤカーを引いて歩く、水平の旅。その両方を追体験できる、25
歳の「山の旅人」の本。
○東西女性表現の500年 マドンナ物語 12/15〜1/26
○アジアの近現代美術4 1/2〜3/12
○ベトナム・モダン1/10〜3/12
○アジア現代彫刻会展1/3〜1/8
○古代エジプト展 2/2〜3/5
○福岡アジア美術トリエンナーレ2002(3年毎に) 3/21〜6/23
1月 3日 筥崎宮 玉せせり
8〜11日 十日恵比寿(東公園)
アジアの近現代美術展 福岡アジア美術館
アジア現代彫刻会展 〃
2月 3日 節分祭(櫛田神社・東長寺・香椎宮等)
古代エジプト展 福岡アジア美術館
太宰府観梅
福岡けやき通りレディスロードレース(5k)
3月 アジア美術館第2回福岡トリエンナーレ(3/21〜6/23)
曲水の宴ー大宰府天満宮
4月 海の中道はるかぜマラソン(ハーフ、10k.5k.3k)
5月 3日〜5日 博多どんたく港祭
6月 分散自律ロボットシステムに関する国際会議
(理化学研究所 http://celultra.riken.go.jp/)
ロボカップ2002福岡・釜山 福岡ドーム
(ロボットによるサッカー試合)
7月1日〜15日 博多山笠(13日午後は市役所前で
集団山見せ、15日早朝に追い山)
19日 RKB百道花火大会
8月 1日 大濠花火大会
9月 12日〜18日 筥崎宮 放生会
13〜23日 アジアフォーカス福岡映画祭(アジア映画上映)
アジアマンス(子ども会議)
10月上旬 中州祭(女みこし・3日間)
上旬 福岡シティマラソン(ハーフマラソン)
下旬 櫛田神社の博多おくんち(子供御輿が出る)
11月10日〜24日 大相撲九州場所
12月 福岡国際マラソン選手権大会
2002年度内
福岡・釜山共同観光客誘致事業
都市高速道路5号線 月隈JCT〜堤 完成
第5回アジア太平洋都市サミット開催(福岡市)
香椎パークポート〜アイランドシティ〜雁の巣道路暫定供用開始
昨秋から福岡都市高速・百道〜福重間がつながり、九州道〜福岡都市高速〜
西九州自動車道が結ばれ、唐津が大変近くなった。
アジア大平洋都市サミットは福岡市が提唱して始まった環大平洋の国々の都市とのサ
ミットで、隔年行われ、交通マネジメント、ゴミの処理処分、安全な水道水の供給、
観光交流の拡大等を議題に話し合ってきた。12か国20数都市が参加している。サミッ
トの翌年実務者会議が行われ、4年に1度は福岡でサミットが行われる。
博多リバレインのイーストサイトにある劇場「博多座」は、芸どころ博多の演劇文化の振興と個性豊かな街づくリを目的に、市、経済界、演劇興行五社が協力し、歌舞伎やミュージカルなど多彩なジャンルの演劇を一月単位で年間を通して公演する、全国初の「公設民営劇場」です。回り舞台や花道、オーケストラボックスを完備し、スケールの大きな舞台を見ることができます。2月6月9月は歌舞伎、1月5月7月はミュージカルで、その他はスーパー歌舞伎や宝塚、現代劇などとなっています。
日本科学未来館。つくばと東京にある企業・研究所等から自分の興味のある所を選んで訪問。弁護士連合会、TV局、博報堂、外務省、証券会社、最高裁、出版社、新聞社etc
またディズニーリゾート、帝劇、浅草商人体験、能楽堂等から選んで体験。上野地区研修。
高校公式ホームページで「研修日記」を公開。活き活きとした報告で面白い。お勧め。
☆ラグビー部 花園出場をかけて東福岡と11月10日対戦し24ー14で惜敗(決勝戦)
☆サッカー部 全国高校サッカー選手権福岡県予選三回戦進出(2部昇格)
☆弓道部 インターハイ出場 女子団体 県大会優勝 全国ベスト32
女子個人戦 準決勝進出
☆ヨット部 国体少年女子FJ級ソロ優勝 林杯ヨットレースFJ級ソロ優勝
インターハイ全国大会 52位
☆水泳部 インターハイ出場
☆陸上部 インターハイ 400mリレー準決勝進出 1600mリレー準決勝進出
高校駅伝県大会4位
☆卓球部 福岡プレジュニア卓球大会 2年生の部優勝
☆書道部 個人 高文連全国大会 文化連盟賞
☆新聞部 高文連全国大会 年間紙面審査賞佳作賞
☆コーラス 全国高校総合文化祭 合唱部門全国文化連盟賞
☆吹奏楽部 福岡吹奏楽コンクール 福岡支部予選 金賞
☆ESS部 福岡高校英語劇大会 優勝
麻生スピーチコンテスト 優秀賞
☆美術部 福岡県PTAシンボルマーク 優秀賞
☆文芸部 高文祭 詩部門 県代表(個人)
☆演劇部 「春一番!演劇フェスティバル」主催
☆ディベート同好会
第6回全国ディベート甲子園(読売新聞社主催) 全国優勝
ー全国大会はどんな様子でしたか?ー
今年のテーマは「道州制を日本に導入するか」でした。試合中は容赦ない攻撃をしてしまうので、対戦校に握手を拒否されたこともありましたが、試合後には仲良くなれました。全国の高校と、そして早稲田大学のディベーターの方とも話ができて、みなさんから刺激を受けました。
ー決勝戦のことについて詳しく聞かせて下さい。ー
OBの方や出場メンバー以外の部員の協力もあって、相手校のことを研究して挑みました。「相手に反論する隙を与えない論理の展開が素晴らしい」と審査員の方からお褒めの言葉をいただいたのは嬉しかったです。
ーこれからの抱負をお願いします。ー
顧問の鹿野先生を中心に新しい分野にも積極的に挑戦していこうと考えています。そして目指すは二連覇です。
ー九州勢初の全国制覇を果たしたディベート同好会。これから増々活躍してくれるこ
とを期待したいー
陸上部OBOG会 東京の活動 今林定道(昭和44年卒)
四十三年卒の福寺誠一先輩と「そろそろ皆と会いたくなったね」という気持ちで始めて、もう六年以上が経ちました。今では四十一年から五十九年卒までの二十名程度になりました。この間に転勤して東京を離れた人が五名になりましたが、年三回程度のOBG会の参加者は転勤した人も参加してくれますのでほぼ十二、三名と安定しています。
陸上競技は個人主義の色が強いスポーツで高校時代はお互いライバルであり、仲良し集団ではなかったようでしたが、歳を重ねた今では皆んな他人を思い遺るほのぼのとしたOBG会になりました。年に三回もやっていますので、参加するのも欠席するのも簡単で気軽なものです。それでもほぼ皆勤賞が五、六名もなる事を考えますとよっぽど居心地がいいのでしょう。
この会の特徴が二つありまして、一つは必ずみんなの前で近況を話すこと、二つ目は家で待ってくれている伴侶や子供のためにお土産があることです。更に、やはりスポーツをしていたので、屋外での遊びが好きな人が多く、昔鍛えた足腰のおかげでゴルフも盛んでこれも年二回以上やっています。 福岡を離れて東京で暮らしているので、時々故郷が恋しくなり修猷館の同窓生と会って、忘れかけた博多弁を時々織り交ぜて、若かりし頃トラックで汗を流した先輩後輩と打ち解けて語り合うことで故郷の温もりを感じています。そんな会ですので是非一度参加してください。
深堀志乃(平成3年卒)
参加者は山崎修先輩(S35年卒)、出納克彦、西田潔央両先輩(S45年卒)、中川美穂、深見つねこ、牧嶋知子の各先輩(S61年卒)、そして平成3年卒の伊藤洋子と私、深堀志乃の8名です。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、8月4日(土)朝8:00〜8:30フジテレビの番組「晴れたらいいね」にフジテレビアナの大坪千夏先輩(S60年卒)が出演し、あの古い体育館で同期の方とバスケをするシーンが放送されるらしいと、本部のOBOG会からメールがあり、その話を中心に、先輩後輩ほぼ30年の時空を超えて大いに盛りあがりました。また修猷には珍しく、女性5・男性3の比率が良かったのかもしれません。福岡のOBOG会からは経費節減の意味合いもあり、夏からメールで情報が送られてきます。本部も皆さんのアドレスを知らせて欲しいと言う事ですのでshuyubsk@hotmail.comに、OBOGの方はぜひ、近況をお知らせ下さい。幹事はS47年卒の川浪道範先輩です。バスケのOBOGは、首都圏で100名以上いると伺っています。第2回目のOBOG会は、年明けに開きたいと思っておりますので、一応幹事である、深堀志乃のアドレスshino-fukabori@lalaport.co.jpにご連絡頂ければ幸いです。
柔道部OBのS27年卒
清原慶三氏・和栗眞次郎氏などを中心に柔道部OBや現役学生の親睦の場として平成11年に発足しました。
柔道談義もさることながら、囲碁、将棋、絵画、書道、音楽、ゴルフ、登山、インターネットなど趣味研鑚の場として、又いろいろな情報の交換をしたり、後輩の育成をすることなどを主な目的として続けています。柔道部OBOG以外でも登録して受け入れています。
囲碁の部 門では毎月第2金曜日午後1時から定例会を開いており、日本棋院の指導員である御厨和彦氏(S27卒)や高橋貞行氏(S30卒) に習うことができます。アマチュア最強と言われる中薗氏卒業の熊本高校OBとの交流囲碁会を行ったこともありました。最近は親睦を目的としたゴルフ会やS46年卒の神田 紅さんの講談を聞いたり、S34年卒のステンドグラス作家・渡辺百合世さんの話を聞くことなどもしています。会員の関係者に医師や弁護士が多いことから、医療や健康管理ほか生活一般について、会のホームページなどを通じて相談を受けたりしようとも考えています。こういうことをしたいと思 うとそれが出来る起動力のある会のようです。JR恵比寿駅から徒歩で約10分の事務所は、20数人程度の会合にも使え、常時無料で提供していることから、時々他の館友OB会も利用しています。
部屋には谷 健太郎氏(S28卒 日展15回入選)の大作も展示してあります。
場所:渋谷区恵比寿3-1-7 エクサビル 7F
電話:03-3446-4482 FAX:03-5795-2627
ホームページ:http://www.ebisukai.gr.jp/
東京支部常任幹事 濱田 桂一
我々昭和二十五年卒業生は一昨年平成十二年に卒業五〇周年を迎えました。戦時下と終戦後の混乱に食料不足の所為で、修学旅行の経験が無かったため、(尤も、農家に泊り込みの稲刈り奉仕や海軍による海洋訓練合宿は経験しましたが)修学旅行に憧れのようなものがあり、卒業後の節目々々には修学旅行を実施しております。
三〇周年は資料館に母子像の台座を寄贈して除幕式に母校に集合し、同期生岡崎住職の千眼寺(福岡市藤崎)で物故者の慰霊祭と同窓会総会を行いました。時期をずらして六〇名の参加で、昭和五十七年六月に京都府副知事、荒巻君(現京都府知事二期目)のお世話で舞子さんを侍らせて宴会、高岩先輩(現東映社長)の紹介で太秦映画村の見学など京洛の初夏を楽しむ旅行会。 四〇周年は平成二年にやはり京都で総会を開催。記念の文集、戦時中の学徒動員や戦後の中高生生活の思い出を綴った「チンチン電車を運転した(まもった)少年たち」を出版。(市販もしました)。
五〇周年は沖縄修学旅行で、平成十二年十二月十二日十二時に那覇空港に各地から五十三名(内、三名は夫人同伴)が集合し、料亭「那覇」で学年総会と懇親会、翌日は観光組とゴルフ組に別れて楽しく遊んで参りました。
東京支部は平成元年七月から三木会と称して毎月第三木曜日に盃を傾けながら歓談の夕の会を続けており、毎回十二名〜二十八名の参加を得て、昨年八月の納涼三木会で一三〇回を数えました。(福岡でも三木会を開催)。学年東京総会も年一回一〇月に開催しており三〇名前後の出席で和気藹々、懇親会をやっております。その他、年三回のゴルフコンペ(十二年までは年十回)や同好の士で麻雀会や海外旅行会など親睦を深めています。現役引退者も年々増えて人生八〇年の余生を級友と楽しく過ごす事に努めております。しかし、そろそろ古希を過ぎ、病気や鬼籍に入る友もあり寂しい限りです。去年東京でも4月に河相英夫君、九月に高橋雄三君が他界しました。卒業五十五周年も、まだまだ元気な多くの同期の友と修学旅行会をやる積りで計画しております。以上ご報告まで。
2001年東京修猷会総会報告
沼 浩一郎(昭50年卒)
順調、と胸を張るまでは言えないものの、何とか総会直前まで、一通りの作業を終えていた。緊張して待っていた前日であった。スタッフの一人から電話連絡を受けた。当日受付の一部招待客の応対方法についての質問だった。はたと答えに詰まってしまった。 電話を切ると私はこの数日、毎回“これが最後の質問です・・”というフレーズをつけながら、日に2、3回はメールでやり取りしていた1学年先輩のIさんにメールを入れた。 “先輩、今更こんな質問をしてスミマセン。ダメな後輩を持ったと思ってお願いします” 悲壮なメールであった。 待つ事、15分。 I先輩から返事が来た。 一通りのアドバイスの後、“・・・引継ぎ書でも記載していたので、すでに理解されていると思っていましたが、今更ながら引継ぎの難しさを痛感しています。
僕の責任です。 申し訳ない・・”。 何と言う素晴らしい先輩だろう。 僕のミスを自分の責任の様に感じられてしまうとは。 修猷館の伝統がここにも生きている。
何としても明日の総会は成功しなければならない。
総会当日。 天気は曇りのち晴れ。 人の入りが期待される天候だ。あたふたとしながら準備が始まった。気になって上階と受付け階を行ったり来たりしていた。そのうちに総会第1部が始まった。黙祷、会計報告、事業報告、次々と議事が進んでいく。
順調だ。第2部企画が始まった。 これも順調。様々な業界で活躍するOB達の横顔がうかがい知れた。藤吉新会長の今の時代にもっとも相応しいご提言、前川館長の前年同様の力強いスピーチが終わり、いよいよ懇親会。来場者が会場に流れていった。
乾杯の音頭をもう待てないというくらい会場はすでに熱気につつまれ、懇親会は始まった。 司会が順調に段取りをこなしていく。 上手いなあ・・誰が選んだのだろう。
人選の良さが今学年の特徴か。 自画自賛をしている最中に会場担当から連絡が入った。“もう料理がこれで終わりらしい。 追加注文するか?” まだ締めまで30分以上もある。 しまった! 昨年の余り気味だった事を予想して若干料理を減らしていたが、天候の良さに恵まれて、入場者が多い。 若手が意外と多く食事のペースが速い。 お腹にたまる麺類を追加注文した。
その時、携帯が鳴った。山崎拓先輩の秘書からである。これから会場に向かうという事だった。 出席可能との連絡は受けていたがお忙しい方、半信半疑でお待ちしていた。入り口の前に立った時、山崎先輩は現れた。会場はまたしても騒然。簡単にスピーチを頂いたあと、熱気は最高潮に達していった。 成功だ!この時点で今年の総会の成功を確信した。最後のエール、年配のOBの方が“俺にやらせてくれ”といって壇上に上られた。最高のエールだった。こういった予期せぬハプニングが何にしても場を盛り上げる。
終了。とにかく終わった。 そして2次会。 あとは記憶にはない・・・。
総会とは何かを思いつつ、がむしゃらにやってきた1年間であった。新たな出会い、友人が各学年にもでき伝統が引き続く事、これが総会の意味なのではないだろうか。
今は精一杯の感謝とこれからの後輩へ同じ感動を感じてもらう様、しっかりと引き渡していきたい。修猷の誇りと伝統を守るためにまた時代は移りゆくのだろう。
第9回修猷二木会ゴルフコンペ報告
山下政比呂(昭49年卒
)
第9回二木会ゴルフコンペは、10月21日(日曜日)、ゴルフ日和の快晴に恵まれました、 白鳳カントリーゴルフクラブにて、24名の参加をもちまして開催されました。
S36年卒の中川洋三先輩のご厚意により、開催の運びとなりましたこと、御礼申し上げます。
優勝は、この日、グロス88というベストスコアで回られた、S44年卒の今林定道先輩で、ネット68というアンダーパーでの見事な優勝でした。
準優勝は、この度関西から転勤されて初参加となった、S42年卒の樋口裕幸先輩で、ネット 64の幻の優勝スコアでしたが、初参加に優勝なし、という二木会の「アイアンの掟」により、準優勝となりました。
来春の記念すべき第10回大会では、雪辱を期してください。
3位には、その第10回大会で、コンペの幹事就任が予定されている、S50年卒の高岸信哉さんが、 挨拶かわりに入賞され、賞品のメロンを獲得されました。
男性ベスグロは、2大会連続で5回目の受賞に輝く、S46年卒の鹿児島正信先輩で、スコアは80でした。 女性ベスグロは、第4回大会での、優勝+女性ベスグロに続く快挙となりました、S35年卒の、 伊藤洋子先輩で、スコアは116でした。
ちなみに、私、S49年卒の山下は、49+49=98 という、「エージシュート」ならぬ、「グラジュエート・シュート」を密かに達成させていただきました。
来春の第10回大会は、4月14日(日曜日)を予定しており、節目の大会ということで、盛大なコンペを
企画しております。
皆様、お誘い合わせの上、ふるってご参加ください。
平成13年度 二木会 神田学士会館
第481回 H13. 1 柳 邦宏 S49
日立製作所
『デジタル衛星放送で変わるテレビ』
第482回 H13. 2 山崎 広太郎
S35 福岡市長
『日本列島を元気にする街』
第483回 H13.3 樋口 十啓
S50 帝人株式会社
『DNA鑑定』
第484回 H13.4 崎山 裕子S48
早稲田大学学生部就職課長
『最近の就職事情』
第485回 H13.5 森部 和男S43
東洋信託銀行
『遺言と相続の実際』
第486回 H13.7 白根 邦男S30
スポーツニッポン社 社長
『長嶋監督にみる21世紀のリーダー像』
第487回 H13.9 並木 徹S38
電源開発株式会社取締役
『エネルギーと地球環境問題 』
第488回 H13.10 土肥 隆一
S33 衆議院議員
『小泉・田中内閣の行方』
第489回 H13.11 鶴田 正人
S50 東芝EMI
『宇多田ヒカルとエンターテインメントビジネス』
平成12年11月1日から平成13年10月31日までに198名の皆様から寄付金が納入されています。ありがとうございました。お礼の意味を込めてお名前を掲載させていただきます。(敬省略。卒年別。順不同)
また、年会費の納入をまだ済まされてない方は、同封の郵便振替用紙にて早速ご送金くださるようお願い申しあげます。(1口3千円。3千円以上大歓迎。寄付扱いします)
00170-6-172892 東京修猷会事務局
鳥巣建之助(大14)吉阪清次(昭3)松尾金蔵、大島毅一(昭4)冨田明徳(昭9)伊豆丸環、橋本 胖(昭11)鎌田正行、篠崎春男、小山田隆(昭12)高村健一郎、中村浩二(昭13)筧 孝文(昭14)隈部 洋、桑原敬一、高川正通、坂口 信、大城金夫(昭15)西山誠三、浜田悠紀雄(昭17)鶴田一白、不破敬一郎(昭18)早野俊一、大里隆徳、塚本 学、田尻重彦、毛利昂志、昭和19年卒一同(昭19)ジャニイ岩橋(昭20A)、山本敏男、中嶋駿一郎、田中庸夫、野上三男、桝田弘道(昭20B)小渋雅亮、太田 昭、稗田孝道(昭21)遠藤嘉津誉、岡崎 登、南雲 進、木下洋一、野村輝彦(昭22)伊岐和男、井上洋一、荒谷俊治、大西 勇、中村邦也、田尻利重、田尻和彦、白木彬雄、八牧将勝、高岩 淡、月成 巍(昭23)山本義治(昭25)合谷欣一、清水英範、石田洵一、大森康平、大平 修、中村道生、藤吉敏生、廣瀬貞雄、渕上貴之(昭26)吉田 耕、金田久仁彦、榊喜美子、松村清次、都島惟男、和栗眞次郎、田邊 萌、難波栄彦(昭27)児玉黎子、真武保博、日戸 力、蓑原 敬、柳島富男、鯛瀬国幸(昭28)高木道子、佐藤英雄、村越 登、長尾淑實、長野倬士、高木正幸(昭29)塩沢孝憲、瓦林聖児、岩田至道、喜多村寿信、久保 久、原田雅弘、坂本幸治、星野節子、川本英夫(昭30)、阿部公明、伊達直哉、丸山嘉宏、近藤 徹、高崎洋一、中山 悠、中村保夫、箱島信一(昭31)鳥居健太、島上清明、平野煕幸、野間正己、林 克己(昭32)河野 理、吉川 浩、古賀芳秋、佐竹儀治、寺澤美和子、松永貴子、青木 宏、長徳実義、香崎温子(昭33)加藤 泰、苛原真也、行武賢一、讃井邦夫、西嶋勝彦、川辺猷治、服部富美子(昭34)伊藤洋子、可児 晋、山崎 修、山田昌男、山田 拓、松本 光華、森 泰治、中山直幹、中村純男、田代信吾、北古賀義之(昭35)横倉稔明、山本 博、重光 碩、中島成之、田中正夫、浜地康彦(昭36)佐藤重敏、大須加頼彦(昭37)井上 誠、玉井龍二、高木佳子、渋谷寿一、上田 茂、渡辺紀大、野原 宏(昭38)高橋登世子、四郎丸聡、久保田康史(昭39)森 秀則、河越保男(昭40)三上博民、中川原章、淀川和也、林田 健、高木健二(昭41)園田久子、溝上雅史、石川 透(昭42)広瀬 豊、深見良晴(昭43)横田勝介、辺見芳郎(昭44)坂口健介、山口隆子、赤松康親(昭45)戸井田和子(昭46)高吉邦治、鹿毛徹太郎、大島宏樹、椿 康雄、木野茂徳(昭47)稲田修一、高山信彦(昭48)阿部啓次郎、井手富士雄、橋村秀喜、古森光一郎(昭49)古賀隆太郎、高西淳夫(昭50)安東泰隆、溝口 計、舟橋利周、小林 明、村山誠一、筒井康幸、油田 哲(昭51)中原誠也(昭54)遠藤功暁(昭57)井出慶祐、深瀬勇太郎、前園克己(昭58)木田真司(昭59)朱雀誉史(昭60)宮本拓海(昭61)田尻公一(昭62)小山将勝(平8)
(二木会は第2木曜日夜 6時食事7時講演 於 : 学士会館)
1月 会報発行 元旦に全会員に送付
二木会 1月10日 於 : 学士会館
2月 二木会 2月14日 於 : 学士会館
3月 二木会 3月14日 於 : 学士会館
3月29日(金)常任幹事会(決算見通し、総会内容確定、役員改選 等)
4月 二木会(新人歓迎会)4月11日 於 : 学士会館
ゴルフコンペ 4月14日
5月 二木会 5月9日 於 : 学士会館
6月 総会 6月7日(金) 18:00から 幹事学年はS51年卒
於:経団連会館
7月 二木会 7月11日 於 : 学士会館
9月 二木会 9月12日 於 : 学士会館
10月 二木会 10月10日 於 : 学士会館
常任幹事会 (総会報告、来年度総会計画 等)
ゴルフコンペ
11月 二木会 11月14日 於 : 学士会館
12月 忘年会 12月12日
総会準備のための、幹事学年との打合わせ
会報編集会議、他の同窓会支部総会への出席
等を 随時 行なっています。
本年 平成14年より事務局が変わります。新しい事務局は
〒185−0034 東京都国分寺市光町2−14−85 (有)パルティール 内
よろしくお願い致します。
昨年六月、田代信吾前幹事長のあとを受けて幹事長に就任いたしました。会長、副会長を補佐しながら東京修猷会の円滑な運営を図っていくのが幹事長の務めですが、改めて当会の仕事の幅の広さ、奥行きの深さに驚いています。
当会には副幹事長が十一人もいます。「なぜそんなに多くの副幹事長が必要なのか」とよく聞かれます。まさにそこが他に例を見ない東京修猷会の特徴だと言えるかも知れません。
今年も原則として毎月第二木曜日に「二木会」を開催します。当会の最大行事の一つなのですが、それを担当する副幹事長はさらに大勢の幹事学年の協力を得て、講師の選定と折衝、会場(学士会館)の予約や当日の出席者数の把握、食事の手配等々の仕事をこなします。
もう一つの大きな事業は六月の上旬の金曜日に行われる同窓会総会です。これも担当の副幹事長が責任者となって、一年前から担当学年と綿密な打合せを繰り返していきます。新しい幹事学年が何を企画するのか、自由な発想にまかせますが、年二回常任幹事会を招集して、そのほかの報告とともに会全体の現況について明らかにしています。
重要な仕事はまだまだあります。名簿の管理です。六千人を超える会員の住所等は常に新しいものに更新して、二木会や総会の案内などの発送を続けていかなければなりません。専門の会社に業務委託していますが、案内が届かないなどミスやトラブルは相次ぎます。
会費の管理など会計もミスが許されない神経を使う仕事です。そしてこの会報の編集と発行。最近になって加わったのが東京修猷会のホームページの立ち上げです。比較的若い副幹事長を中心に、執行部以外の関心のある同窓生も加わってより良いものを目指しています。
「なぜ修猷館だけがボランティアに支えられてそんな活動ができるのか」。実に多く寄せられる質問です。その答えを探すためにもまたこの一年間、活動を続けていきたいと考えています。ますますのご協力をお願いいたします。
幹事長 渡辺 俊介(昭三十八卒)
副幹事長 野原 宏(昭三十八卒)、遠山 精一(昭三十八卒)、棚町 精子(昭四十卒)、広瀬 豊(昭四十卒)、白井 信雄(昭四十四卒)、本田由紀子(昭四十五卒)、福嶋 治(昭四十七卒)、高山 信彦(昭四十八卒)、堀 信之(昭四十九卒)、野中 哲昌(昭五十卒)、西村健志郎(昭五十三卒)