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大項目 | 中項目 | 筆者 | 卒年 |
巻頭 | 新しい世紀の始まりにあたって | 野上三男 | S20 |
新しい校舎 | 2000年11月 | 稲葉浩一郎 | S63 |
現役2年生東京研修旅行 | パネルディスカッション後の後輩との交流 | 稲葉浩一郎 | S63 |
東京研修後援会に参加して | 福島 直央 | S10 | |
ふるさと福岡・博多への想いを胸に | 人生終盤戦
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月岡淑郎 | S26 |
52歳で博多から石垣島へ移り住む | 松山 義雄 | S40 | |
14年ぶりの福岡
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城戸 賢嗣 | S45 | |
第7回二木ゴルフ大会 | 第7回二木ゴルフ大会 | 岩崎 大介 | S49 |
海外レポート | 上海便りー朝令暮改的大都会より | 斉田 秀実 | S40 |
シンガポール便り | 西澤 逸実 | S46 | |
誕生LA修猷会 | 山田 哲義 | S49 | |
仕事あれこれ | 環境ISO(ISO14001)審査員 | 渡邊 和博 | S47 |
映画『スイート・スイート・ゴースト』 | 芳田 秀明 | S52 | |
高齢者福祉事業を始めて | 末谷 勝則 | S40 | |
自著を語る | チャイナタウン | 山下 清海 | S45 |
2001総会 | 2001年度東京修猷会総会のお知らせ | 幹事学年 | S50 |
学年だより | 卒業45周年記念行事のこと | 城川 明 | S30 |
『さんご会』(昭和35年卒)45周年 | 三嶋 睦夫 | S35 | |
2000総会 | 2000年総会報告 | 井手富士雄 | S49 |
二木会 | 二木会 | 東京修猷会事務局 | |
H12年寄付金 | 平成12年度寄付醵金者 | 東京修猷会事務局 | |
事務局 | 事務局便り | 東京修猷会事務局 |
「新しい世紀の始まりにあたって」
明けましておめでとうございます。
いよいよ二十一世紀に身をおくことになりました。皆さんそれぞれに、一入の感慨をもって、新しい年に臨まれたことと思います。 更めて、本年もよろしくお願いいたましす。 新しい世紀を迎えたものの、日本も世界も明るく穏やかに…とはとても言えそうにもありません。 二十世紀から持越した政治・経済の不安に加えて、民族問題・環境問題が加速してきました。 一方、ITやゲノムなどの新しい変革が加わって、二十一世紀は更に複雑な激動の世紀になることは間違いありません。 科学の中での人間のあり方が、とことん問い詰められる世紀であるのかも知れません。 そして日本は、……経済はやや底固さを見せてきたと言っても、まだ予断を許さない状況です。政治の貧困、教育の低迷、財政の梗塞。二十世紀に長く身をおいてきた者として、新しい世紀に負担を残してしまったことに、深い責任を感じます。 今世紀の少しでも早い時期に、苦しくとも希望のもてる方策を、後世のために確立する覚悟を固める年と考えています。 戦後の混迷の中、朝日新聞の論説主幹として健筆を振った先輩笠信太郎さんが、当時の私たちの生き方に深い示唆を与えた名著『ものの見方について』(一九五一年)の中でこう書いておられます。 「経済とは言うまでもなくエコノミーの訳語として用いられてきた言葉で、エコノミーは本来は、“節約”という意味に相違ない。国民個々の生活における節約は、企業にもってくると、経営や技術の合理化、コスト引下げ等を意味するであろうし、国としては貨幣価値の安定を柱にした適切な政策、そして時には国民生活緊縮の必要ということも意味するにちがいない。 それがやがて資本の蓄積となり、そしてまたそれが結局は国民の生活を豊富にするということは、最も単純な経済の原則であろう。 それは個人にとっては時には生活の厳しさであり、国民経済としてはいつも太平楽は許されないということ、耐乏の時代もあることを意味しよう。そういったことがピンときていないと、国民経済はいつでも成長のしっ放しでゆけると考え、国民に忍耐を要求しない財政政策となったりする。」 その後、『花見酒の経済』(一九六三年)において、日本の高度成長は地価高騰に支えられた信用膨張にすぎないことを、いち早く見抜き、落語にたとえてバブルに警鐘を鳴らしたのも笠さんでありました。 私はご長男大炊さんと、たまたま同じ時期に結核の療養生活を送ったことが機縁で、当時富ヶ谷にあった笠さんのお宅にも時々伺い、ご家族の皆さんともおつき合いがありました。 そんなある日曜日、突然、笠さんからお電話を戴きました。 「長男の結婚が決った。その披露宴の司会を貴方にお願いしたい。そのことで今日お宅に伺いたいがご都合は如何か。」ということでした。 ご来訪は固くお断わりして、早速笠家にすっ飛び、ご馳走になりながら司会をお引受けしたのを覚えています。 息子の友人に、結婚披露宴の司会を依頼するため父親がわざわざ訪問するということ。その人は、当時朝日新聞の輝やける論説主幹。 笠さんにとってはごく当り前のようだったこの事は、私にとって大きな教訓でありました。戦後の混乱期、社会的にも経済的にも混迷の真只中に、良識の灯をかかげ通した進歩的ジャーナリストの日常の根幹にある「いささか古風さ」への感銘でもありました。 何とも迂濶なことに、笠さんが修猷館の先輩であることを、当時の私は全く知りませんでした。お宅でもそんな話をした記憶はありませんし、笠さんも私が後輩とはご存じなかったと思います。 そして今、笠さんのお人柄に修猷館での教育と生活を重ね合わせて、先輩としての笠さんを更めて誇りに思います。 昨年九月中旬、出張の途次、修猷館を訪ねました。新らしい本館校舎が、往時の面影を残した全容を現わしていました。 昼下りの校庭の随所で、運動会の練習がのびのびと展開されており、眺めている私に生徒が何人も「今日は」と声をかけて行きました。母校はさり気なく健在であり、新しい世紀への希望をひとつ見出した思いでした。 皆さんが身心とともに健やかにこの一年を過されることを心から祈念して、二十一世紀初頭のご挨拶といたします。
(東京修猷会会長)
新しい校舎
新しい校舎 2000年11月、福岡に帰省した際修猷館に立ち寄りました。 私が3年のときの担任だった船津先生が後に館長になられてから一度同窓会でお会いしたのですが、そのとき「校舎を立て替えるよ」と突然言われておどろきました。あれから4年、とうとうあの校舎が跡形もなく消えてしまいました。春には一部残っていた旧校舎はいまや更地となり、数年後にはここにも新しい建物が建ってしまいます。 さて新しい校舎ですが、5階建てで非常にシンプルできれいな造りになっているように感じます。上靴でないと入れないのでは、と心配したのですが、土足OKな上、うれしいことにあのワックスのにおいがしたのに多少安堵しました。 1階には食堂があります。どこか町のカフェを想像させ、昔の食堂は遠い昔の存在のように感じます。2階〜4階は教室、5階に特別教室があります。校舎のカドには机やいすがおいてあるフリースペースがあり、後輩たちが話に興じたり、居眠りしたりしていました。 ネットの仕事に関わっているため、PCルームが気になりましたが、先生のお話によりますとPCは用意されているがまだインターネット接続は行っていないとのこと。できるだけ早い時期に接続できるようにしていただきたいものです。 (お願い)新校舎にお立ちよりの際は中庭の芝生には立ち入らないようにとのことです。
(昭63年卒・稲葉浩一郎)
正門からみた新校舎 中庭(応援練習ができそう)
フリースペースで勉強している 修猷学館跡のパネル
星娘
『道草精神』『第二の修猷館』の文字がみえる
現役2年生東京研修旅行
昨年8月23日に、東京研修旅行に来京した現役2年生の皆さんに対して、東京修猷会の協力の下に会員8名が参加して、パネルディスカッションを行いました。以下は、その概要とパネラーの感想と、パネルディスカッション以後の動きです。
パネルディスカション後の後輩との交流
稲葉 浩(昭63年卒)
8月に東京研修の1日目のパネルディスカッションでパネリストの一人とて参加させていただきました。そのときに後輩の皆さんと個別に話しをしたかったのですが、時間の都合で実現しませんでした。そのため、福岡に帰省することがあったら一度機会をもちたいと思っていたのですが、清水先生、安武先生のご助力もあり実現に至りました。おかげさまで5人の後輩がきてくれました(うち4人が女性)。質問は英語学習法、大学の教育内容、私の仕事の内容など多岐にわたりました。 最初の2つは現役高校生にとって直近の問題なので特にいろいろときかれました。進学の面では、東京進学はすべきか、必要があれば海外の大学もいくべきかという質問を受けましたが、私としてはチャンスがあればどんどんトライしてもらいたいと考えています。現に、ある女子生徒は東京研修のあと、東京方面の大学への進学を真剣に考えるようになった、と話してくれました。また、今回女性が多かったため、女性が社会(特に企業)で男性と同じくらいの機会を与えられるかという質問も受けました。 数年前私の出身大学である慶応でも同じようなことをしたことがありますが、後輩達の顔をみながら話をするというのは非常に責任を感じます。私自身、まだまだとても立派な社会人とは思いませんし、政財界でご活躍の先輩方からすれば「なんでお前みたいなのが話すんだ」といわれそうな気がします。ただ、私は私なりに自信をもって生きてきていると思いますし、そういう姿勢をすこしでも後輩に見せたいのです。これからも後輩と交流する機会はあると思いますが、「彼らに語るに価する人間」でありたいと強く感じました。 今回の直接の交流は初めての試みで、まだまだ成功とは思えません。電子メールや電子掲示板(注1)での意見交換もまだ始まったばかりです。ぜひともこれだけでは終らせたくないと考えておりますので、パネリストの方以外でもご興味がある方がいれば是非ネットの力を使ってどんどん情報交換していただき、帰省の際は後輩達と膝を交えて話していただきたいと思います(注2)。
注1:東京修猷会の掲示板とは別に東京研修のフォロー用に個人的に制作したも のです。もしご興味があれば稲葉までメールをいただければ幸いです。
注2:実際にお話をされたい方も、一度稲葉までご連絡いただきたいと思います。お 問い合わせは:kenny.inaba@nifty.com
(スリーハンズ株式会社勤務)8月に東京研 修の1日目のパネルディスカッションでパネリストの一人とて参加
東京研修講演会に参加して 福島 直央(平10年卒)
講演テーマは「IT革命とこれからの生き方」。参加したのは、司会に昭和45年卒の出納克彦氏と、パネリストとして、昭和48年卒の藤田雅之氏(日本IBM勤務)、昭和49年卒の井手富士雄氏(全国大学生協連合会勤務)、昭和52年卒芳田秀明氏(日活監督)、昭和63年卒の稲葉浩一郎氏、平成10年卒の吉田真和君、中村浩平君、そして僕(いずれも学生)の計8名でした。 講演の内容としては、現在パネリストの人間達が何をやっているのか、からはじまり、仕事とITがどのように関わっているか、大学ではどのようなことをやり、どのようにITが関わってきているか、これからの時代がどのように移り変わっていくか、ということについて、時々後輩達の意見を求めながら行いました。 東京研修旅行に参加したことのある人間としては言えば、初日に行われるこの講演は結構退屈なものだった、という記憶しか有りません。そういう意味で言えば、今回の講演ではパネリストに学生が含まれていることもあり、生徒に意見を求めたりもしたため、寝ている人間が少なく成功だったといえるのではないかと思います。ただ、真面目な、ためになる話という点は少なかったので、先生方からすれば不満があったかもしれません。 この講演に参加して思ったことは、この講演の内容をこの時だけで終わらせては意味がない、と言うことです。先輩と後輩とのつながりをこのような講演の時だけに限らず、常に連絡が取り合えるようにしておくような体制がとれないだろうか、と思います。 「同窓会」としてのOBのみで活動するのではなく、現役の生徒や先生方も含めた「修猷コミュニティ」としての活動組織。現在はあまり参加していない学生や、平成卒くらいの若い人たちも含めたコミュニティの存在であってこそ、講演などが生きるのではないかと思います。
(一橋大3年)
平成12年度研修旅行報告書より
「ふるさと福岡、博多への想いを胸に」
第3弾です。今回は、3人の方々です。それぞれの同窓生の思いを、文脈から感じとっていただければ幸いです。
人生終盤戦 月岡 淑郎(昭26年卒)
将来は研究者か技術者になりたいと考えたのが30数年前。幸に技術者の端くれになって新技術を開発し、関係業界に少しは貢献できた。それが今日までの人生の飯の糧ともなっている。今はそうした人生も終りに近づき、年金生活が始まろうとしている。 ところで、小生、技術屋が仕事に関した技術の文献、書物などを読んでいるだけではライフワークとしての面白みがないと考え、仕事から離れた経済、歴史、宗教、科学など種々の分野から何かを見つけようとして本を乱読した。その結果、40才台後半になって遅まきながらも、それは宗教と宇宙科学で、前者は特に空海の密教を通した考え方、後者はビックバーン前後の宇宙創世のからくりに興味を持つようになった。その両者から得られた知見は「無」ということで一致し、それから導かれた人生観が小生の求めていたものにぴったしであった。 空海の人生は非常に興味深い。空海の人生における行動は驚異的である。空海は天才なるが故に一代で真言密教を完成した。それは宇宙の基本原理を見出したものと云われ、マンダラの宇宙観が興味深い。それは現代でも通用する理論的なものである。 一方、ビッグバーン以前の宇宙創世は宇宙量子学者のホーキングによれば神の領域に入るらしい。ビックバーン以前は量子の宇宙と云われ、無(真空エネルギー)からの創生となる。最近の技術の発展からすると、こうした量子の宇宙も今後のニュートリノや重力波の観測から、21世紀の終り頃には宇宙の開闢の姿が見られるかも知れないと云う。 勿論、こうした分野の小生の知識は趣味の範囲内であるが、この分野の本を読めば読む程興味が深まっていく。こうしたことから、最近は「色即是空」の意味するところが実感できるようになってきた。人生、まさに色即是空に盡きると思っている今日この頃である。 ところで、人生70才近くなってくると忘れっぽくなってくる。本を読んでも特に科学系のものは要点のメモを取っていかないと駄目である。また、本屋で以前買い求めたものを再度買ったりして何とも様になっていない。小生、幸か不幸かまだ会社勤めをしており、技術的な相談、説明、講演などをやっている。こうしたことをしているとボケないで済むのかなと思っている。しかし、完全にリタイヤした人の話が大変羨ましく思えるようにもなってきた。 10年くらい前から人生終盤と云うことで家内と海外旅行を楽しむようになった。プライベート旅行では田園地方とか、トルコ、ギリシャなどに行くことができて、オフィシャルな旅行と違った新鮮なものとなる。国内の温泉旅行も結構やっている。一年を色即是空の境地で講演、旅行、本読みなどの人生も楽しいものである。 これまでの人生を振り返ってみて、失敗したとは思いたくない。と云っても大成功とも云えない。まあまあほどほどの満足のいく人生であったと思いたい。やり直しきくならもう一度やってみたいという気持もあるだろう。しかし、それも億劫ともなるといよいよ年を取った証拠であろうか。 いずれにしても、70才近くなると残りの人生もカウント段階に入っている。人生を野球に例えるならば、終盤戦の8回に入ったところであろうか。ラッキーセブンは過ぎている。と云っても9回とは思いたくない。人生に延長はない。もう直きストライク、アウト、試合終了か。皆さんどう思いますか。
(茨城県土浦市在住)
52歳で博多から石垣島へ移り住む
松山 義雄(昭40年卒)
50才を一つ二つ過ぎ、ふと自分の人生の歩みを緩めた時、3人の子供たちも社会人になった事だし、もうそろそろ“自分として生きてもいいか”と思いました。 40歳を過ぎたころから始めたダイビングが縁で、沖縄の石垣島に年に2、3回遊びに来ていました。そうするうちに「こういうところで暮らせたら」との思いが募ってきました。 一度の人生、身体の元気なうちにやりたい事をやりたいと思い、家内に話したところ思いのほか“OK”の返事。何か物事が動く時に「流れ」があるとすれは、まさしくこの時がそうだったと思います。住むのなら海に近い昔ながらの赤瓦の家がいいと思っていたら、これまた石垣島の友人から「見つかったよ」と連絡があったのが平成11年2月末。2ヶ月後には石垣島の住人になっていました。 赤瓦の家はよくできたもので、夏の暑い日でも家の中は風通しが良く、クーラーなしで過ごしています。その代わり生き物の往来が頻繁で、ヤモリ、蜘蛛、蛾、蚊などの同居人も多く、蚊帳は必需品です。 古い沖縄の家の造りは玄関がなく垣根も低く、外から家の中が丸見えです。そのために通る人が気楽に声を掛けてくれるので、知り合いがあっという間に増えました。福岡では何気なく買っていた物がこちらでは簡単に手に入らないので“もの”のありがたさに気づきました。皆さんそういう思いだからでしょうか、内地から送られてきたといって果物、野菜、魚の御裾分けをずいぶん頂いています。おかしな話しですが、果物では福岡の時より贅沢させてもらっています。 果物といえば我が家の庭にバナナやパパイヤが植わっています。ちょうど今、バナナが実っていますが一房に100本近くできるのもこちらに来て初めて知りました。パパイヤはカラスとの競争です。熟れてたべごろと思うとカラスが食べに来るのです。やられたーと思いつつも、メジロやシジュウカラがその実を食べるのを見て楽しんでいます。今は「3つのうち1つぐらいは我々に食べさせて」とカラス君たちと交渉中なのですが、分かっているのかいないのか、今朝もやって来ています。 石垣の海も自然がいっぱいです。リーフの内側では色とりどりの熱帯魚を見るたびに、造物主の遊び心に感心するばかりです。たこ、かに、貝などの自然のめぐみも頂いています。 自然は侮ると危険ですが、それを受け入れながら暮らすと、こんな居心地のいい所はないと思います。都会では見落としていた些細な物にも立ち止まりながら暮らしている毎日です。何もない所ですが、広い海があります。何でも包み込んでくれます。たまには休みをとって、水着を持って遊びに来ませんか。
14年ぶりの福岡 城戸 賢嗣(昭45年卒)
2000年の春、14年振りに転勤で福岡に帰ってきた。保険会社に勤務して27年目の今、久しぶりの現場で、自由化と再編の荒波に洗われる厳しい状況を生のまま受止め、走り回っている毎日だ。 そういった厳しい状況を勘案しても、実に故郷は、住み良いところだと改めて感じた。例えば通勤、東京時代は、多摩センターから御茶ノ水まで、朝約1時間20分を立ちん坊の通勤だったが、福岡では、六本松から赤坂までの約25分の徒歩で、通勤は、完了する。しかも、途中は城内を抜けていくので四季の自然の変化を満喫でき有難いかぎりだ。また、四季折々(といってもまだ一年経過していないが)の行事を楽しむことができる。五月の博多どんたく、七月の博多山笠(今回は櫛田神社境内の棧敷で臨場感を十分味わいながら追い山を観ることができた)、9月の放生会の夫々特色のある祭りを、自分が福岡に住んでいることを感じながら楽しむことができた。こういった事も、東京に居るときとは大きく異なり、多くの人出があるものの、私としては許容範囲と感じ、まず久しぶりだし観てみようとの思いが胸に沸いてくる。しかし、懐かしい事象は楽しく受止められるが、インフラの整備を始め、街の状況の変化は激しく、目を見張るばかりだ。 週末の3時すぎに長崎からハイウェイバスに乗る機会があり、若い女性がボストンバックを持ちバスに乗り込んでくるのを見ると、週末のショッピングを福岡でしかも一泊して楽しもうとする様子が、窺われ、ことさらショッピングは福岡への印象を持つこととなった。その天神も、人の流れが北から南へ、東から西へと大きく変化しており、隔世の感を禁じ得ない。 ただ、首都圏と同様郊外型のディスカウントショップを主体としたショッピングモールも活況を呈して、1つの極をつくりつつあり、興味深く見つめているところだ。 九州における福岡一極集中も益々その度を強めている。人口の地域別の増減状況、銀行の預貸比率、預貸実額の推移、福岡港の外貿コンテナが北九州港の取扱量を99年に上回った、等、福岡一極集中が、是非は別にして否応なしに進展している状況だ。 また、福岡では昨今環黄海経済圏なるものが盛んに、喧伝されているが、2001年のWTO中国加盟と北朝鮮と韓国の経済圏の雪どけが現実のものとなってくると環黄海経済圏が飛躍し、福岡を初めとする九州山口の経済の発展に寄与する可能性が十分出てきたと思われる。 こういったことから、今後の福岡の発展性将来性は、間違いのないところであり勿論、故郷は何よりも暖く暮し易いところだと思うが、こと情報の流れる量、質については、小生の努力不足だとのご指摘はお受けするとしても、残念乍ら不足していると言わざるを得ない。情報は、社外・社内を問わず、欠乏感を覚える。やはり、情報の肝の部分とかわかり易く解説付で入手できるのは、フェイスtoフェイスの局面に限るからなのか。 しかし、そういった点を踏まえても、補って余りある久し振りの福岡での暮しはこのまま永くなるのか、短期で終わるのか、見当もつかないが、幸い家族づれでもあることから大いにエンジョイしたいと感じる昨今である。
(三井海上福岡支店長)
第7回二木ゴルフ大会
10月22日、前日の天気予報が雨であったにもかかわらず、心地よい秋の風が吹き渡る白鳳カントリー倶楽部で第7回二木会ゴルフ大会が開催されました。集合時刻の30分前には、今回こそは優勝を! と気合の入ったメンバーがほとんど到着。IT革命時代にふさわしく、今回のメンバーは常連の方々に加え東京修猷会のホームページから直接参加申し込みのメンバーを加え、総勢30人8組のコンペとなりました。 いつもお元気な有吉先輩(S4年卒)が、前々週の捻挫でご欠席となったのは残念でしたが、藤吉副会長(S26年卒)のご挨拶を受けて、みんな元気にインアウト同時スタートでコースに散りました。中川先輩(S36年卒)が支配人をなさっている今回の開催コースは、成田駅から15分、白鳳時代の文化財が出土した丘陵地帯に広がるすばらしいチャンピオンコース。グリーンはいくつものバンカーがガード、コース間はウォーターハザードと、開場17年で太く育った木々にセパレートされ、ちょっと気を抜くとすぐ大たたきとなります。 ハーフを終わり、ニコニコ顔も残念顔も倶楽部の昼食に舌鼓を打ちつつ、前半のプレーの反省会。隣のテーブルのスコアが気になります。午後は気温も上がり更にスコアの言い訳ができない好天候となり、ベストを脱いで無心にクラブを振りました。その甲斐あって、前半よりスコアが15打改善した方も……。もちろんスコアより修猷時代の思い出話に熱中した組もあったようです。一風呂浴びたあと、長野副会長(S29年卒)の乾杯で恒例の表彰パーティーに突入。いつもこのビールがたまりません。十分に盛り上がったところでお待ちかねの結果発表となり、栄えある優勝は、グロス95ネット76で今村先輩(S35年卒)が初の栄冠を勝ち取られました。また、二位は最年少で初参加の野中君(S63年卒)がグロス94ネット74で、三位は同じく初参加の中川先輩(S36年卒)が地の利を活かしてグロス85ネット75で獲得されました。(二木会ルールにより初参加は残念ながら優勝権利なしとなります)男性ベスグロはネット75で、中川先輩と鹿児島先輩(S46卒)のお二人、女性ベスグロは甲畑先輩(S44卒)となりました。 わいわいがやがや、各賞の発表ごとにすっかり修猷館生に戻って盛り上がり、次回の日程を2001年4月22日(日)とすることを満場一致で決定して、なごりを惜しみつつ参会となりました。次回も大勢のご参加をお待ちしております。
岩崎 大介(昭49年卒)
海外レポート
上海便り‐朝礼暮改的大都会より斉田 秀実(昭40年卒)
上海に赴任して半年では、まだ上海を語る資格は無いが、筆者が見て感じた上海、そして最近の中国について報告します。 先ず上海の印象、戦前のバンド(外灘)やフランス租界の匂いと、そこに突然マンハッタンの摩天楼にも負けない高層ビル街が出現し、新旧一体渾然とメルトダウンした国際都市。写真に例えるなら、セピア色のモノクロ写真とフルカラーデジタル写真を合成したような不思議なミスマッチのバランス。これも「魔都」と言われる所以か? とにかく何でも有りの不思議な街です。人口1474万人(これでも中国の1%)の中国らしからぬ中国の大都会。銀座以上にお洒落な南京路や准海路を闊歩する女性のハイセンスなファッション! 但しその中にパジャマルックのオバンも混じるミスマッチ! 北京、上海は何事につけ対抗意識丸出しの都市ですが、米国に例えれば北京はワシントンDC、上海はニューヨークといったところでしょうか。1949年の中華人民共和国成立から51年、開放改革の小平路線以降、特にこの10年の上海の変貌は凄まじい速度です。とりわけ1997年の香港返還で、上海市は香港の金融、貿易のセンター機能を上海に奪回する戦略で、その戦略拠点として急発展しているのが新市街の浦東新区です。上海の発展は上海市のスピーディ且つフレキシブルな諸施策の賜物と言えましょう。江沢民国家主席、朱鎔基首相はいずれも上海市長を歴任し、北京中央政府もトップが上海閥だけに、上海市は北京なんか怖くない! 事実、上海特別市は中央政府の法律よりも市条例を優先させ、外国資本にも各種インセンティブを与えています。例を挙げれば、新都心浦東と旧市街浦西を分ける黄浦江を繋ぐ高架橋やトンネルは従来15元の通行料を取ってましたが、料金徴収所が交通渋滞の元凶だとの市民の批判に応えて、今年の5月1日から無料にしましたが、結果は却って総交通量増大となり増々渋滞。即5月15日から車番末尾規制(奇数は月水金、偶数は火木土)を実施。これには自動車通勤の我々外国人や金持ち市民がブーイングしたら、6月1日からタクシーにのみ末尾規制を適用、と言った具合に文字通りの朝令暮改。日本では考えられない柔軟思考と即断即決です。 もう一例、7月1日付けで国家外為管理局が、上海の外高橋保税区企業(筆者の会社もその一つ)は代理貿易には為替交換を制限するという通達が出され、我々外国企業は大騒ぎして、陳情しました。上海市は平然と、北京の実務を知らない官僚がアホな通達をだしたが、必ず撤回させるから2週間時間をくれと。で、結果はその通り7月15日付けで外為局は撤回通知を出しました。 上海は中国一の高物価とは言え、感覚的には日本の1/3から1/5、人件費は1/5から1/10といったところでしょうか。そして上述のような外国企業優遇策で世界中の企業が進出しており、ここに居れば世界企業の動向も判るほどです。日米欧、香港、シンガポール、韓国、そして最近は台湾企業の進出ブームで上海は好景気に沸いて、活気に溢れています。
(三菱電機科菱機電勤務)
シンガポール便り
西澤 逸実(昭46年卒)
〜シンガポールは、どげんとこ?〜
シンガポールは、東京から空路6〜7時間、面積で東京23区程度、人口4百万の小さな都市国家ですが、世界的な多国籍企業5千社が立地するアジアのビジネスハブとして繁栄を謳歌しています。日本企業も1千社以上が進出しており、およそ3万人の日本人が暮らしています。日本人小中学校の生徒数は2千人と世界でも最大規模、日本食、新刊本なんでも揃う日本の大型百貨店、九州ラーメンから焼き鳥屋、カラオケラウンジなどのミニ中州のような飲み屋街、近くのマレーシア、インドネシアまで足を延ばせば1万円以下の格安料金で楽しめるゴルフなどなど、生活環境に恵まれています。単身赴任の天国・博多には遠く及びませんが、快適です。〜同窓会は、しよっとね?〜 昭和46年卒の同級生だけで小生を含めて3人(秋子君、宮崎君)います。シンガポールよかろう会を居酒屋で開いて気勢をあげています。先日、仕事関係の会合で二人の後輩にばったり遭遇、近いうちにシンガポール同窓会を立ち上げることができそうです。シンガポール在住の同窓生をご存知の方、ご連絡をお待ちしています。〜単身赴任で悪さを、しよらんやろね?〜 東京よかろう会の皆様には、ご心配をおかけしています(「誰も心配しとらんよ」が本音でしょう)。お蔭様で、日本からの来客アテンドやらアジア経済関係のレポート執筆、毎月1回程度のアジア域内出張など、月曜日から金曜日までは忙しい毎日です。週末は、地元のサッカーチームに参加して、毎週いい汗をかいています。香港出身者が多いチームで、喧嘩言葉のように威勢のいい広東語が飛びかうなか、怪しげな英語を駆使して仲間に入れてもらっています。〜アジアの景気は、ようなっとうと?〜 深刻な経済危機から3年経過しましたが、景気マインドは明るさを取り戻して来ています。ここシンガポールでも、前年比8%を越える成長を見込んでいます。客足が落ちて低迷していたホテルの稼働率も上昇してきており、法人契約しているホテルからは待遇料金の値上げを通告されました。呼べばすぐ来てくれていた無線タクシーも、夕方時や雨模様の時などに限らず、つながりにくくなりました。懸念材料は、米国景気の先行きです。これまでのアジア経済の急回復は、米国の好況に支えられていた面が多分にあります。足もとの株式相場は、軟調な米国市場に引きずられて、冴えない展開です。アジアでは、機関車役として日本経済に対する期待感が高まっています。〜シンガポールではITが進んどうって、本当ね?〜 シンガポールのインターネット普及率は人口比で3割を超えており、先進国並みです。小学校の4年生以上は、一人一人が自分のメールアドレスを持たされ、教師とメールでやりとりをしているそうです。役所の行政サービスも電子化が進んでおり、オンライン上で所得税の申告や出生届などいろいろな手続きができます。本格的なマルチメディア放送も商業化されているなど、シンガポールはIT社会の実験場となっています。IT革命を目指す日本にとっても学ぶところは多いようです。 (日本政策投資銀行シンガポール事務所勤務)
誕生! LA修猷会 山田 哲義(昭49年卒)
「ひょっとしたら、このロサンゼルス周辺に、修猷館卒業生が、まーだいっぱいおるかも知れんネー。どげんかして皆で探してみようか」奥村真(H4)、吉田泰治(S63)、宮原ゆかり(S57)、和田真奈(S53)、そして小生、の五人が、ひょんなきっかけ※で、ロスに住んでいる修猷館卒業生どうしであり、それぞれの職場もロスの中心地区にあることが判明。さっそく一緒にごはんでも食べようということになって、九九年の十一月五日ダウンタウンの某中華料理屋で昼食会を執り行った際の会話の結末が上記である。※ひょんなきっかけ 吉田(銀行勤務)の職場の人間が、宮原(会計事務所勤務)を紹介。彼らが会合することが山田(旅行会社経営)の耳に入り、山田のヨメさんの友人である和田(主婦)、そして山田が日本で採用してロスに連れてきた奥村(旅行会社勤務)を伴い会合に合流した。 このロスには、約五万人の日本人、そしてアメリカ市民として帰化してしまった人やその子孫たち約二十万人を含めると、何と二十五万人にも及ぶ日本人・日系アメリカ人(日系人)のコミュニティがある。二十五万人相手に探せば、修猷館卒業生がきっと何人かはいるであろう……という、極めて単純な発想からなのである。 LA修猷会発足に向けて、上述の卒業生が再び二〇〇〇年四月二十八日に再集合し、@いつ、どこで、どのような設定で、記念すべき第一回目の会合を執り行うか。Aどのような方法で、同窓の卒業生を探しだすか。B会合が実現できたとして、はたしてどのように進行させればよいのか。等々の話し合いをして、おおまかな骨組みを決めた。クリアーしなければならない問題で一番高かったハードルは、上述Aのどうやって探すかということ。いくらロスの狭い日本人社会と言えども、口づてには限りもある。また、会として予算が全く無い状態でのスタートだから、メディアを通じての有料広告なんて事は絶対にできない。無料でPublic
announcement(公告)の一つとして取り扱ってくれる雑誌社を探し、数社から掲載をOKしてもらった。 そしてついに二〇〇〇年六月二四日(土)正午、ロス近郊のガーデナ市にある「さぬきの里」レストランにて、第一回LA修猷会を開催。十三人の卒業生ならびに二人のゲスト(卒業生の配偶者など)を交え、美味しい日本料理に舌鼓を打ちながら、レストランの閉店ギリギリまで楽しいひとときを過ごした。参加者の歳のひらきを少々懸念してはいたが、会が始まると皆すぐに和気あいあいになり、最大三十八歳差という歳のギャップなどすぐに、楽しい雰囲気がもみ消してくれた。 当日は「とにかく、会ってみましょう!」が主旨だったので、特に堅苦しい議題はなく、今後のLA修猷会の運営等に関しては、あまり詰めた話し合いはなされなかったものの、必ずや会の継続と発展をと誓い合った。さらに漠然とはしているが、会の未来像を出し合い、講演会、ゴルフコンペなどの趣味の会、現役修猷生の海外研修団のロス地区への招聘、NY修猷会との交流を手始めに東京修猷会などの会との交流、等々と思いが膨らんだ。 「何十年ぶりやろか?」と言う人もいたが、最後に館歌を斉唱し、第一回の会合も幕。第二回の日取りは未定だが、その際はもっと多くの卒業生に参加して頂きたい。 この場を借りてLA修猷会への参加と、該当者へのご連絡をお願いする次第です。協力の程よろしくお願い申し上げます。
LA修猷会事務局 幹事 山田哲義(昭49年卒)
c/o:Poppy Travel of California, Inc.1640 W. 11th Street, Los Angeles, CA 90015 U.S.A.
Tel:213-380-3224,
Fax:213-380-4915
e-mail:rocky_y@prodigy.net
LA修猷会会員(二〇〇〇年六月二十四日現在)カッコ内は旧姓。
S12徳山三郎、S29大迫(森久)道子、S36永川文一、S37桑本英彦、S37桑本(安川)公子、S37鍋山重泰、S39宗伸之、S49山田哲義、S49ウッド(西山)薫、S51野口(鳥越)麻子、S53山本(和田)真奈、S54吉野拓、S57樫山(宮原)ゆかり、S58海地聡子、S63吉田泰治、H1小西由通、H4奥村真、H5野田邦彦。
以上十九人
環境ISO(ISO14001)審査員渡邊 和博(昭和47年卒)
渡邊 和博(昭和47年卒)
現在、高圧ガス保安協会ISO審査センターにて、環境ISO(正式にはISO14001)の主任審査員をしております。といっても、1999年の9月までコンピュータ会社のサラリーマンでした。 環境に対し関心を持つようになったのは、1997年京都会議の報道を見聞きしてのことです。「気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3)」で排出ガス抑制の数値目標が決まり、国のエネルギー政策が問われ、企業活動のあり方に影響し、個人のライフスタイルまでも否応なく変化を要求することだと、その時初めて環境問題を避けて通れないと痛感したのです。 そんな頃、品質(ISO9000シリーズ)に続くISO規格、環境のISO14001との付き合いが始まりました。私は、この分野ではまだまだ経験が浅く、周りには環境に関する豊富な経験の持ち主ばかりで、修猷OBの方々の中にも多くの有識者がいらっしゃることと思います。環境問題以上に感心した事は、このISO14001はマネジメントシステムとしての価値であり、この分野では、前職の経験が非常に役に立っているところです。 ISO14001は、環境マネジメントシステム(今後EMSと記載する)を定義した国際規格です。その基本的な内容は、導入を決めた組織の経営層から現場までの全員参加で、P・D・C・A(Plan‐Do‐Check‐Atction)サイクルを回しながら、法の遵守を含む環境保全に努め、継続的改善を図ってゆくことをISO14001は要求しています。ここで、普段よく聞かれる、EMSに対する二つの誤解について説明します。 その一つは、「ISO14001認証企業は、環境によい活動を行っている」との誤解です。ISO14001の認証を受けたからといって、環境にやさしいのではなく、環境に対し継続的改善を約束し、且つその継続的改善を行うシステム(仕組み)、つまり、EMSが確立/維持されていることの認証なのです。 二つ目の誤解は、EMSの活動をすると、その活動の目的・目標が紙/ごみ/電気になってしまう企業が多いのですが、そのような活動ばかりでは無意味だとの意見がよく聞かれます。ISO14001はそのようなことは要求しておりません。一般的に、それ以外の目的に対し定量的な目標設定が難しいことが原因のようです。EMS活動に不慣れな当初はやむを得ませんが、企業活動の全てに対して焦点を当てて見直すと、必ず企業活動に即した目的が見出せるものと確信します。また、そうでないと長続きするEMS活動はできません。 ここで、ISO14001導入のメリットをご紹介しましょう。ISO14001は環境保全活動ですので、省エネ/省資源/省コストは当然ですが、あえて環境以外のメリットをご紹介します。 いままでの日本企業は、マニュアルという文化が有りませんでした。単一言語/単一民族/終身雇用/高学歴等が背景があり、取決め事を明確な文書に残す必要がなかったのです。企業の国際化や価値観の多様化の時代、全体の意思統一や作業/品質の均質化のために、システム(仕組み)作りが必要です。そのシステムの根幹をなすものがマニュアルなのです。EMSを確立することで、日本人の不慣れなマニュアルに慣れ親しむことができます。 もう一つは、P・D・C・Aサイクルを回すことで、トップの意向をトップダウンで組織に徹底できます。このことは、他の分野に活用することで、経営の効率化に利用できるということです。 その他にも、個人的には賛成できませんが、エコ調達やエコファンドといった、環境をキーにして企業格付が行われています。これも、環境に対する確実な取り組みや仕組みを持っていることのメリットと呼べるかもしれません。ISO14001の認証を受けたからといって、環境にやさしいのではなく、環境に対し継続的改善を約束し、且つその継続的改善を行うシステム(仕組み)、つまり、EMSが確立/維持されていることの認証なのです。 二つ目の誤解は、EMSの活動をすると、その活動の目的・目標が紙/ごみ/電気になってしまう企業が多いのですが、そのような活動ばかりでは無意味だとの意見がよく聞かれます。ISO14001はそのようなことは要求しておりません。一般的に、それ以外の目的に対し定量的な目標設定が難しいことが原因のようです。 ここで、ISO14001導入のメリットをご紹介しましょう。ISO14001は環境保全活動ですので、省エネ/省資源/省コストは当然ですが、あえて環境以外のメリットをご紹介します。 いままでの日本企業は、マニュアルという文化が有りませんでした。単一言語/単一民族/終身雇用/高学歴等が背景にあり、取決め事を明確な文書に残す必要がなかったのです。企業の国際化や価値観の多様化の時代、全体の意思統一や作業/品質の均質化のために、システム(仕組み)作りが必要です。そのシステムの根幹をなすものがマニュアルなのです。EMSを確立することで、日本人の不慣れなマニュアルに慣れ親しむことができます。 もう一つは、P・D・C・Aサイクルを回すことで、トップの意向.をトップダウンで組織に徹底できます。このことは、他の分野に活用することで、経営の効率化に利用できるということです。 その他にも、個人的には賛成できませんが、エコ調達やエコファンドといった、環境をキーにして企業格付が行われています。これも、環境に対する確実な取り組みや仕組みを持っていることのメリットと呼べるかもしれません。
映画「スイート・スイート・ゴースト」芳田 秀明(昭52年卒)
私が初めて監督した映画、『スイート・スイート・ゴースト』の公開にもひと区切りつきました。東京、福岡、長崎、大阪、名古屋の公開の折りは、大先輩から学生さんに至るまでたくさんの修猷の同窓のみなさんに映画を見て戴き、また感想や激励のお手紙・メールを戴きました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。 修猷同窓会と言うと、諸先輩方を初め皆さんが各界の第一線でご活躍中の方ばかりなものですから、映画の御案内をさせて戴こうと思い立った当初は、敷居が高くて怖気付いてしまったものです。 さて、映画のことです。私は撮影所育ちということもあって、どちらかと言うと、古い気質の人間です。長い助監督経験の中でも、徹底的に知的で聡明な演出をする監督より、ワケの解らない所のある監督に魅力を感じることが多かったようです。勿論、どの監督も自分に考えられる限り作品を設計し計算して撮影に臨むのですが、イザ現場に立つと計算通りには行きません。誰もが(多分、誰もが)現場に立つと、今目の前にある撮影の素材と自分の思惑との間で「何か違うゾ」と立ち往生することになります。 監督は何度もお芝居のテストを繰り返しながら色んなファクターを調整して、「何か違う」という感覚のズレを解消しようとするのですが、この「何か違う」という曖昧さは、集団で作業する場合、迷惑の元なのです。監督もそのことをよく解っています。時間やお金のシビアーな制約の元に成り立っている撮影現場では、「おいおい、何だよ。今頃考えてるゼ、あの監督」と信用を失う危険がありますし、何よりも、監督が駄々っ子のように立ち往生するのは恰好の良くないものです。ですから、ここが聡明な監督とのワケの解らない監督が素性を分かつ場面なのです。 『スイート・スイート・ゴースト』での私は、残念ながら後者ではありませんでした。かと言って、ピ、ピ、ピッと策を講じて現場に対応する聡明さを持っているわけでもありません。要は、駄々っ子になる度胸が無かったのです。 「残念ながら」と言うのは、監督の往生際の悪さが作品を豊かなものにすることがあるからです。漠然とした「何か違う」という感覚の中で、一つの映画のトーンや個性が探られたり、役者さんの生身のお芝居と、それを容れる(作品という)器の接触面で、その映画に固有なアクションの時間が探られていたりするのです。問題はその過程が目に見えないことです。 私の敬愛するワケの解らない監督は、こういう場面で、自分の立ち往生に対して素直だということかもしれません。スタッフやキャストの前で混乱出来るというのは途方もない強さだと、私には思えます。私のような未熟者には到底真似の出来ない芸なのです。巨匠ともなれば、この往生際の悪さは監督の「こだわり」とか「粘り」と褒め称えられるわけですが、実際には監督自身にも判然としない「何か違う」であったりするのですから。 40歳を過ぎて初監督という経緯については、私は往生際の悪い人間であります。今後も、才気の無い者は粘り強く進むしかありません。そしていつか、現場で立ち往生できる力量を身につけて、思い切り困り果ててみたいものだと思います。
(映画監督)
高齢者福祉事業を始めて
末谷 勝則(昭40年卒)
平成9年4月に社会福祉事業を始めた。自立して生活できる60歳以上の人々を50人収容できるケアハウスとデイサービス・センターである。この仕事をするきっかけは、会社の仕事から何かやりがいを感じる仕事にと転職を考えていた頃のこと。まだ体力、気力のある40代でと具体的に考え始めた丁度そのとき、高校の同期生から某新聞社と共同でいわゆるゴールドプランに基づく市町村の基礎調査とそれに基づく市町村の高齢者保険福祉計画のコンサルタントの手伝いをしないかと誘われて、しばらくは会社に籍を置きながら手伝いを始め、後にこの会社に入社した。この約2年間で福祉の事をはじめて知り勉強させてもらった。小生の場合、この10年くらい前に父が心臓の病気で入院したときに母のアルツハイマーがわかり痴呆老人を抱えた家族の苦労は小説の“恍惚の人”どころではないことを経験し、行政はもう少し何とかできないのかと感じていたので、老人問題を扱うこの仕事は身につまされる思いでできた。この仕事が一段落して次の仕事を考えるとき、あまり抵抗なく老人福祉の仕事をしようと思った。 まず法人の認可〈県知事の認可〉を取らねばならない。さらに採算の取れるものでなければならない。事業の成否は通常の事業と同じくヒト、モノ、カネによるところが大きい。ヒトに関して言えば設定にかかれるヒトは小生と女房のみ。モノに関して言えば下関に女房の実家の義父所有の先祖代々の土地〈農地〉があるだけ。カネに関して言えば小生がサラリーマン時代稼いだ蓄えと途中退職の退職金が少々あるだけ。しかしこのような仕事で生活の糧を得たいという情熱は強かったので、この状況で見切り発車した。 法人設立までの2年間は失敗挫折、感謝、狂気の連続で何かモノに憑かれたようにやっていたように思われる。期限ぎりぎりの平成8年8月の終わりにようやく法人認可が下り、下関の義父の土地に建設開始。平成9年4月に(小生50歳であった)ケアハウスとデイサービスセンターをオープンした。相談のため山口県庁を訪れてから2年と5ヶ月でなんとか結果が出た。 このようにして始めた福祉の仕事も早4年になろうとしている。福祉事業のうちで一番扱いにくい対象が、我が施設でやっている自立した高齢者の施設であると言われている。口だけ達者で身体がついてこない人達であるかららしい。さらに平均年齢が82歳ともなれば一割から二割の人たちにいわゆるボケが始まる。この事業を経営的に見ると、ケアハウスは一応契約施設だが補助金、助成金付きなので〈有料老人ホームの福祉版〉、入居者さえ確保できればそんなに能力は要らない。デイサービスセンターは市の委託事業で市に言われるとおりにやっておけば定期的に委託料が入る仕組みになっている。 我が施設は地理的条件が良かったので半年で満室となり後は年間2〜3人の入れ替えがあるだけとなった。しかし平成12年にこの福祉事業の世界に大変革が起こり始めた。すなわち介護保険制度の開始、社会福祉基礎構造改革の実施である。この改革の目指すところは個人の自立を基本とし、その選択を尊重した制度の確立。質の高い福祉サービスの拡充。地域での生活を総合的に支援するための地域福祉の充実。 このことは福祉事業の経営者にとってはこの流れを的確に汲み取り、この先生き残れる施設にするために、生き残るための経営をしなければならなくなったことを意味する。また地域密着型の事業なので地域のニーズを汲み取り、地域に必要な施設となることが一つの方法ではないかと考えている。ともかく福祉の世界に事業者も利用者も発想の転換を図らなければならない時期が来たことだけは確かである。
自著を語る
『チャイナタウン』
山下 清海(昭45年卒)
私の専門は、人文地理学である。この学問を三〇年近くやってきたが、一向に飽きが来ない。 大学の卒業論文では、「タイの民族地理学」、修士論文では「横浜中華街の研究」を、そして博士論文では、「シンガポールの華人方言集団(広東人、福建人など)のすみわけ」を研究テーマに選んだ。 二〇〇〇年八月末に出版した本書『チャイナタウン』は、これまでの研究をさらに発展させ、グローバルスケールから、世界各地にみられるチャイナタウンと華人(華僑)社会について論じたものである。フィールドワークで作成した世界各地のチャイナタウンの地図を掲載しており、旅行のガイドとしても役立つはずである。 本書では、まず華人やチャイナタウンの基礎知識を確認した上で、中国南部の華人のふるさと、日本の三大中華街(横浜、神戸、長崎)について考察したあと、東南アジア、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアなどのチャイナタウンについて比較考察を行っている。近年、日本人の旅行者もビジネスマンも、世界各地を歩き回っている。その際、「世界中、どこに行っても中華料理店があり助かった」、「こんなところにもチャイナタウンが……」と驚かれた人も少なくないだろう。本書を読めば、チャイナタウンの楽しみ方、中華料理の魅力、華人のバイタリティも、ご理解いただけるのではないだろうか。 本書の内容をもっと知りたい方は、次のホームページをご覧いただきたい。http://www.maruzen.co.jp/home/pub/chinatown/index.html
『チャイナタウン‐世界に広がる華人ネットワーク‐』
(「丸善」丸善ブックス86、二三〇〇円)
(東洋大学国際地域学部教授)
学年だより
卒業四十五周年記念行事のこと 城川 明(昭30年卒)
雲仙・普賢岳展望台より
昭和三十年卒業生は、十一月三・四日、福岡・雲仙で卒業四十五周年記念行事を行いました。初日の午後一時半、暑いほどの晴天の中、菁莪記念館前に集合し、新校舎内に入って見学、休日に拘わらず一部の生徒が教室内で自習している姿に感心したのち、貸切バス二台に分乗して一路雲仙へ向かいました。宿泊地の有明ホテルまでの行程は途中の休憩時間を入れても三時間半、渋滞皆無の高速道路の快適さを堪能しました。車内はまたとない語らいの場となり、常任幹事長の平田豊君の心憎い企画に、みな感謝の念で一杯でした。 参加者は、九州他地域からの直接参加者やマイカー組を加えて総勢八十六人。うち関東から二十二人、近畿から九人が参加し、総数ではやや予想を下回ったものの、関東組は例年秋の一泊旅行を止め、この記念行事への集中参加を図った結果でした。今回は十年毎の正規の記念催事ではないとのことでセレモニーは一切なく、全員浴衣掛けで記念撮影後早速宴会に入り懇親を深めました。翌朝も絶好の天気に恵まれ、ゴルフ、観光、テニス、ぶらぶら組などに分かれ各自楽しいひとときを過ごしました。観光組に参加した私達は仁田峠から普賢岳をめざし、全山燃ゆるが如しとは云えぬまでも赤く色づいた樹林を賞しつつ、ロープウエイで山頂へ到着、ここで平成2年以来、長年に亘って噴火を繰り返し、大量の土石を噴出、大被害をもたらした現場を一望の下に目にすることになりました。切り立つ山壁はむき出しの岩石が災害のすさまじさを想像させていました。大量の土石流は雲仙方面には向かわず二百年ほど昔にも大災害を起こしたという東南の方向へ流れ、水無川を埋め尽くし、二千五百余戸の建物を損壊させたといいます。島原へ向かう途中には土石流に埋まった家屋を保存した公園が造られていました。次に島原城へ移動し、展示館となっている城内の資料で切支丹弾圧の歴史を偲んだのち、今年の春に開通したばかりという眉山県道を通り、眼前に残された膨大な土石の堆積を目にしつつ雲仙に戻りました。ホテルで他の組と合流し前日と同じコースを一路福岡へ、博多駅筑紫口で五十周年での再会を約して解散しました。遠地に住む者の大半が初めての母校の新校舎を見学、往復の貸切バス内での語らいや、希望に応じた選択肢が用意された今回の行事に満足しました。
「さんご会」 (昭和35年卒)40周年三嶋 睦夫
さんご会の40周年は“ミレニアム”そして“今世紀最後”の同窓会として11月23日から25日にかけて開催した。ゴルフ会&前夜祭 3日間にわたる大同窓会は、快晴の和白でのティーオフでスタートをした。総勢53名、ナイスショットあり、珍プレーあり、あちこちで歓声が聞こえるが、コミュニケーション優先でゴルフは二の次となり、スコアはいささか冴えない。表彰式はところを移し、川端の冷泉閣で前夜祭を兼ねて行った。新校舎見学会 真新しい校舎は40年前の汗の臭いは無いが、正門のあたりは昔の面影がそのままである。青我堂で記念品の贈呈を行った後、校内を見学し、女生徒の多さに驚き、また、柔道場の諍々たるOBの名札が改めて歴史の重みを感じさせる。新校舎からも有為な人材が育って欲しいと願いながら、バス2台で湯布院へと向かった。大宴会(湯布院) 一風呂浴びた一行はいよいよ大宴会。集える健児(含む健女)は84名。挨拶もそこそこに、昔話に花が咲き、尽きるところが無い。話題は政治、経済、教育、から健康、老後、果てはリストラまで、飲むのも忘れて夢中であるが、やはり年齢を感じさせる重みがあるのは嬉しい。初めは思い出すのに苦労した仲間が、話すにつれ、次第に高校時代の顔になっていくのが不思議だ。二次会はカラオケ。最近落ち目と言われる演歌もここでは主役。蛮声をはりあげるもの、肩を組むもの、調子が外れようがお構いなし。あちこちのテーブルでは、笑い声と共に想い出話が延々と続く。小国町(熊本県) 帰路はやまなみハイウェイで紅葉の山々を眺め、小国町をたずねた。ここは同窓の宮崎君が永年にわたり、活気ある町づくり、地元の特色を生かした町づくりに取組み、今では全国からの見学が絶えない町。各地からの移住者も少なくないという。その杉の木で作った体育館や、古い民家を活用した美術館などを見学し、知恵を絞り、工夫を重ねている実情を知る機会となった。 やがてバスは日田から晩秋の筑後路を通り、博多駅へと辿り着いた。延べ120名を越す参加者の大イベントが無事に終わり、幹事はさぞやほっとした事であろうが、目前に迫った21世紀も“御国のために、世のために”さんごの会の意気はまだまだ軒昴である。
2000年総会報告
東京総会実行委員会事務局長 井手 富士雄(昭49年卒)
当日は、雨と小渕首相の葬儀後の厳戒態勢の影響を受けながらも約四百六十人のかたにご参加いただきました。多くの皆様方にご支援、ご協力いただきました。幹事学年一同より、あらためてお礼申し上げます。 今回の企画を考えるに当たり、現在の修猷館の状況をお聞きしました。その中で女子が半数を占めることに一同驚き、「女子は優秀な人材が増えているのかもしれんが、男子はどこへ行っているのか」との問題意識が芽生えました。そこでこの問題の原因を探り、二十一世紀の修猷館在り方への提言をビデオ「学校改革のすすめ」にまとめることにしました。OBにインタビューを行い、状況を調べてみたところ、中高一貫教育の私学への進学が増えていることが分かりました。鹿児島のある私立校は福岡県出身者が多くを占めていました。このような状況をおはなしして、OBの方に修猷館への要望を語っていただきました。 このビデオ上映のあと挨拶をされた前川昭治修猷館長のことばは参加者の心に深く残るものとなりました。館長は、大学への進学状況を報告された後、文化部、運動部の全国レベル、九州レベルでの活躍を披露され、「中高一貫教育校に花園(ラグビー全国大会)がねらえるのか? 全国レベルの文化部があるのか? 修猷館は館歌にあるとおり、文に武にすぐれた生徒を育てることを目指しています。ひ弱な、冷たいエリートを育てるつもりはないのです」(要旨)と述べられ、ご挨拶の途中から大きな拍手がわき起こっていました。 館長はごあいさつの冒頭、「紹介された現状については言い訳をしません。しかし、生徒および先生方は一生懸命頑張っております」と述べられ、前述のような発言となりました。参加された皆さんは「入ってからは大丈夫」と一安心されたのではないでしょうか。 母校修猷館が様々な分野で、世の中に役立つ人材を送りだし続けるために、私たち卒業生一人ひとりが、今なにができるのかを考えることをあらためてお願いしたいと思います。
2000年二木会
第472回 H12.1 小田 展生(S42) ホークス優勝
第473回 H12.2 中山 悠 (S31) 我が国乳業の国際化
第474回 H12.3 谷口 博文(S48) 財政の現状と今後
第475回 H12.4 藤田 義雄(S27) 慶応大学ラグビー部
第476回 H12.5 真崎 理香(S50)
『テレビディレクター』の七不思議
第477回 H12.7 廣川 智子(S48) 株式市場と個人投資
第478回 H12.9 芳田 秀明(S52) 映画の話
第479回 H12.10 山本 周 (S49) テレビの政治報道
第480回 H12.11 原田 義昭(S38) これからの日本
平成12年度寄付金
平成11年11月1日から平成12年10月31日までに287名の皆様から寄付金が納入されています。ありがとうございました。お礼の意味を込めてお名前を掲載させていただきます。(敬称略。卒年別。順不同)
また、年会費の納入をまだ済まされてない方は、同封の郵便振替用紙にて早速ご送金くださるようお願い申しあげます。
(1口3千円。3千円以上大歓迎)
00170--6--172892 東京修猷会事務局
烏巣建之助[大14]田中 豊[大15]吉阪清次[昭3]松尾金蔵、大島毅一、野村太郎[昭4]小野 衛、神戸六雄、[昭8]秀村敏朗、冨田明徳[昭9]伊豆丸環、橋本 胖、小柳太郎[昭11]鎌田正行、篠崎春男、片桐貞夫[昭12]高村健一郎、中村浩二[昭13]田口保男、矢幡忠太[昭14]桑原敬一、高川正通、大城金夫、中田正男[昭15]岩本 剛、矢野晴男[昭16]浜田悠紀雄、林 健児[昭17]鶴田一白、不破敬一郎[昭18]伊東龍男、荒川弘文、早野俊一、大里隆徳、中島睦月、塚本 学、田尻重彦、毛利昂志[昭19]ジャニイ岩橋、牛尾鋭之助、松原保夫、尾島成美、宮本 満、山田菊男、山本敏男、中嶋駿一郎、長濱正昭、津曲浩人、野上三男[昭20]小渋雅亮、稗田孝道[昭21]遠藤嘉津誉、小池啓雄、浅田寛厚[昭22]荒谷俊治、小松顕太郎、松岡春樹、大西 勇、田尻利重、田尻和彦、白木彬雄、八牧将勝、t岩 淡[昭23]濱地勝太郎[昭24]山本義治、渡邉 潔[昭25]横瀬一郎、合谷欣一、石塚和男、大平 修、中村道生、藤吉敏生、[昭26]角田美智代、吉田 耕、榊喜美子、都島惟男、飯田英子、福田純也、和栗眞次郎[昭27]菊澤一雅、児玉黎子、鯛瀬国幸、塚田宜伸、藤村道徳、日戸 力、蓑原 敬、柳島富男[昭28]稲川 亨、永井充子、桑原 収、工藤國夫、高木道子、村越 登、長野倬士、t木正幸[昭29]伊藤直之、遠山壽一、塩沢孝憲、瓦林聖児、岩田
至道、喜多村寿信、久保 久、原田雅弘、坂本幸治、枝徹也、篠原 忍、松尾元敬、星野節子、青柳昭幸、川本英夫、大島好剛、中島英殷[昭30]丸山嘉宏、岸川浩一郎、岩佐寿夫、近藤 徹、溝部信介、森下靖昭、石井政喜、石橋 明、船越聖近、村田和夫、中山 悠、中村保夫、箱島信一[昭31]山川卓美、山田直徳、小野靖記、鶴 悌祐、島上清明、平野煕幸、野間正己、林 克己、國分英臣[昭32]伊藤純江、河野 理、吉川 浩、香崎
温子、佐竹儀治、山下正之、寺澤美和子、松永貴子、松岡靖光、城みよ子、置鮎隆一、中山 眞、猪野雅起、長徳実義、米倉 實、堀 絋明[昭33]加藤 泰、苛原
真也、吉弘嘉男、古野貢之助、高橋寛子、讃井邦夫、西嶋勝彦、石村黄仁、尾崎文彦、服部富美子、平井 遵、宝珠山紀憲[昭34]羽立教江、可児 晋、隈部忠昭、左
元雄、山田昌男、小野勝利、石橋勇之、川嵜信弘、大神
国裕、田口勝也、田代信吾、田中丸善厚、白木大五郎、板倉眞一、富永賢司、鈴木晄夫、廣瀬寿二[昭35]安藤誠四郎、吉次晃二、吉川尤雄、高村修一、山本 博、城後隆三、船台 健、中島成之、田中純一、浜地康彦[昭36]佐藤重敏、大須賀頼彦、田中清士、尾崎俊征[昭37]玉井龍二、高木佳子、渋谷寿一、上田 茂、渡辺紀大[昭38]久保田康史、宮崎幸子、桑田洋一、高橋登世子、小川光吉、松井 碧、田中滋章[昭39]井上 浩、河越保男、小田倉知永子、森 秀則、石橋恭子、泉 和雄、由良範泰[昭40]加藤泰彦、原田康生、三上博民、新井眞理子、森田澄夫、大塩 昭、鳥飼 健、樋口孝雄、淀川
和也、林田 健、t橋一寿[昭41]園田久子、溝上雅史、砂田幸子、山口秀範、青山直幸、石川 透[昭42]音成
正人、久我秀昭[昭43]今林定道、平井克博、辺見芳郎[昭44]田中まづる、渕上一雄[昭45]西村幸夫、西澤逸実、川井泰彦、田中丸純一郎、野村精一、用田和仁[昭46]猿渡栄太郎、高野恵子、桜井 勉、朝比奈潔、塚本
幸一、木野茂徳[昭47]荒木久子、徳重真光、廣川智子[昭48]阿河勝久、阿部啓次郎、伊井陽子、井手富士雄、権藤 宏、古森光一郎、三浦昌生、四辻隆幸、小川裕子、杉浦 剛、大塚 彰、八尋一彦、堀 信之[昭49]小林
みどり、萩原弓子[昭50]桐明幸弘、山口勝義、舟橋利周、田上賢治[昭51]瓜生卓也、鐘川誠司、青柳 宏、石井哲男[昭52]石川雅敏、村田隆信、廣西一夫[昭53]西島史朗、堀場和美[昭54]小森道夫、谷口和彦、二宮
秀生[昭55]工藤砂織[昭56]前園克己[昭58]瓦林 晃[昭59]宮本拓海[昭61]
21世紀を迎えて初めての会報を皆様にお届け出来ましたことを、執行部一同嬉しく思います。 会報を発行するようになって13年、二木会は480回を経過し50年を越す歴史、長く素晴らしい伝統を誇る東京修猷会のこれも宝と思います。これらは会員の皆様の理解と支援有ってのもので、これこそ縦糸と横糸の組み合わせが、心地よく織りなされた同窓会の絵巻物のたまものと言えましょう。この素晴らしい歴史と伝統を新しい世紀に引き継ぐことが会員の誇りと使命と思います。 ここ数年、新しく上京された新入会員を迎えたり、若いアルピニストの業績を一緒に喜び合ったり、ラグビーの世界で活躍される若い方を迎えたり、若くして映画監督になられた後輩の第一作をみんなで応援したり、ホームページの開設と活用等、下手すると年を取った会員のお茶の会に成りがちな同窓会を少しずつ活性化してきました。この間丸紅パーソネルにて管理している約6000人の会員の名簿管理システムを会員有志でボランティアで刷新したり、総会、二木会の開催に当たっては、担当学年の皆様他の並々ならぬ動員の呼びかけがあって此処まで来ましたことをご理解頂きたく、会費3000円の納入と会わせてお願いします。 各学年で、又それぞれのクラブ活動で会が色々の趣向で開かれておりますが、この東京修猷会は会員同窓生が一堂に会し、情報の発信と交換を通じて何かを掴もうとしており、そこに心温まる親睦が生まれ、これがひいては同窓会の新しい21世紀の発展につながると思います。執行部の手違いもあり、何かと不愉快な思いもされているかと思いますが、総会の出席、二木会への参加、会費納入、寄付等改めてお願いいたします。