東京修猷会・会報 第12号 2000年(平成12年)1月1日発行

    第一面画像  

     栗秋正寿氏撮影(平成3卒)

目次 (中項目の下線がある部分をクリックするとその文面に飛びます)  

大項目 中項目 筆者 卒年
巻頭言 自由闊達・独立独歩の伝統を次のミレニアムに 箱島信一 S31
修猷、ただ今普請中 1999年9月半ばの訪問記 S45
2000年総会広告 東京修猷会2000年度総会広告 昭和49年卒幹事団 S49
ふるさと福岡・博多へ 第2弾 年1回の福岡 中村昭之 S20
博多へ帰るんだ! 大和博明 S34
福岡に帰ってきて 月川綱雄 S35
仕事あれこれ 豪州・最近の話題 瓦林聖児 S30
「星娘」近況レポート 真崎理香 S50
音楽と人生 ブラバンからオケへの軌跡 宇野栄 S40
オーケストラは無上の喜び 山本泰三 S45
絵画紹介 児嶋善三郎のリトグラフ 事務局
’99二木会 1999年開催(テーマ、講師) 事務局
第470回講演の抜粋「2000年問題」 藤田雅之 S48
自著を語る 「非在の海」について 小阪修平 S41
浩浩居 「浩浩居」訪問 S45
二木会ゴルフ 「第6回二木会ゴルフ大会」報告 吉田哲夫 S48
学年だより 50周年を迎えた六十会 大西勇 S23
’99総会 ’99総会報告 中川淳雄 S48
’99寄付金 平成11年度寄付醵金者 東京修猷会事務局
事務局 事務局だより 東京修猷会事務局

 箱島信一(昭和31年卒)
新年挨拶

「自由闊達・独立独歩の伝統を次のミレニアムに」
 
 明けましておめでとうございます。
 今年は西暦で20世紀最後の年であると同時に新しい千年紀(ミレニアム)を迎えるという、大きな節目の年にあたります。館友の皆様も新たな感慨をもって新年を迎えられたことでしょう。
 私は一九六二年(昭和37年)新聞記者になり、ひたすらニュースを追いかけて東京、ロンドン、名古屋、福岡などの勤務地を転々としているうちに何時の間にか還暦が過ぎてしまいました。かつて19世紀末生まれの財界人たちによる「三世紀会」という集いがありました。21世紀初頭にいたる3つの世紀に跨って長生きしようというのが会の趣旨でしたが、その呼びかけ人だった永野重雄日本商工会議所会頭をはじめメンバーはいずれも21世紀を見ることなく鬼籍の人となりました。
 一九三○年代生まれの私が3世紀に跨って生きる事は、願掛け自体荒唐無稽なことですが、新聞人として生きてきた38年間を振り返ってみますと、優に三世紀会の達成組に劣らぬくらいの盛りたくさんのニュースに接して来たという思いがあります。この間、世界も日本も歴史の舞台が一回転から場合によっては二回転しました。そして1年後には21世紀を迎えます。二つの世紀をまたいでニュースの最前線に身を置く事が出来るのは、誠に幸運なことで記者冥利に尽きます。この点では修猷館の卒業生でかつて朝日新聞の幹部でもあった緒方竹虎、笠信太郎さんといった先輩の活躍の時が20世紀に限られ、しかもその花形記者の時期が戦前の言論統制が厳しかった時代だったことを思い合わせると、僥倖というほかありません。
 さて一○○年前もそうだったようですが、世紀末は来るべき新世紀への期待よりは不安感や懐疑の方がより強く人々の心を捉え、ともすれば悲観論や傍観者的な態度に陥りがちです。そんな時代精神を裏打ちするかのような事件や事故が90年代に入って続発していることが、日本経済の長期不況と重なって閉塞感に輪をかける結果をもたらしています。
 個人のレベルだけでなく国家運営や企業経営に関してもこうした風潮は例外ではありません。健全な危機意識は変革のエネルギー源ですが、いたずらな悲観論や被害者意識からは敗北感や不快感だけが残り、建設的な打開策や実行のエネルギーは期待できないでしょう。私は最近「楽天主義は意思の所産である」というフランスの哲学者アランの言葉をしばしば引用していますが、ことしこそは、社会に蔓延している自信喪失や焦燥感を払拭し、自信をもって新世紀のスタートを切るための貴重な準備の年としたいものです。
 母校修猷館は、亡き両親とともに私が最も誇りとし感謝の念を持ちつづけている対象であり、人生の拠り所でもあります。眼を閉じれば修猷館に在校した頃の様々な場面が記憶として蘇ってきます。忘れ去ったことの方が圧倒的に多いのに、往時の言葉の断片や細かな所作や一瞬の匂いといったものが記憶の中に紛れ込んで現れ、我れながら驚く事があります。わずか3年間の高校生活なのに、いかに密度の濃い時期であったかと改めて思います。
 私の好きな詩人である長田弘がこんなことを書いています。「記憶は過去のものでない。それはすでに過ぎ去ったもののことでなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ」。
 自由闊達で独立独歩、背筋がピンとした修猷のあの伝統を、今や老境に近づきつつあるクラスメートたちの挙措や言葉に強く感じることがあります。自分を支えているものが何であるかを正確に認識する事は不可能に近いでしょう。でも、かつて青春時代、友人たちと共有した価値が、多少とも我が体内にも歩留まりとして残存しているかもしれない。それを支えとし出来れば増殖させることによって、新世紀の世直しに積極的に関わりたいと願っています。
 修猷館は校舎の全面改築中で一期工事は今春には完成予定ということです。想い出の学び舎が消え去ることは寂しい限りですが、教育の施設環境が改善されること自体は無論結構なことです。校舎という器が変わっても長年培ってきた伝統や校風が薄れるわけではありません。しかし伝統の継承発展という修猷館としての「記憶のつくり方」には、これまで以上の努力や工夫が必要でしょう。この点はいま在籍の先生方、生徒と私達卒業生の共通の課題だと思います。
(朝日新聞社社長)


  巻頭写真データ

1999年3月2日。キャンプ2の(標高 3000m)から望むフォレイカー(5305m)。アラスカ第3の高峰。「マッキンリー(6194m)の夫人」と讃えられる。(撮影・栗秋正寿氏(平成3年卒))


修猷、ただ今普請中
 普請中の修猷館を久しぶりに訪ねた。まだ、暑さの残る9月半ば、あせをかきかき地下鉄の出口をでる。30年前とすっかり変わった西新界隈。その雰囲気を残しているのは、修猷の東門位かもしれない。正面からの写真は会報やH・Pでごらんの方も多いと思うが、あの東門だけは昔のままだ。そして東棟の校舎は、新しい西棟の校舎ができるまで使われている。また、通信制の校舎も教室なのだ。東門を通って、プール、柔剣道場へ。旧(第二?)体育館から、新(第一)体育館へ。途中に女子更衣室、部室もそのままある。
 われわれが合宿で使った「菁莪堂」は今では体育教官室である。グラウンドではおりから、秋の大会に向けて野球部が練習中である。先輩の顔も何人か見える。グラウンドから見ると、「普請中」の校舎もちがってみえる。隣のグラウンドはラグビー部が、正月の花園目指して楕円球を追っている。県大会3位の実績をどこまでのばせるか。強豪の堅陣を破れるかどうか。新築の間、三年生は「旧」修猷学館をつかっている。 (文責昭45年卒S)
東門  東棟(右奥がプール)   正門から 

 グラウンドから見た新築中校舎

 花園を目指して、練習後のミーティング

時間割は、昔と変わっていますか。(1昼2昼は同じ?)

旧修猷学館、3年生のクラス配置図


2000年度東京修猷会総会のお知らせ
 
2000年6月9日(金)18:00〜20:30

大手町経団連会館 

幹事:よろしく会(S49年卒)

テーマ
母校修猷に危機迫る!? 学校改革のすすめ

ご意見募集中 http://www.shuyu.gr.jp


「ふるさと福岡・博多へ 第2弾!!」
人生はもはや60年から70年80年へ。
故郷へ帰った人、帰りたい人、帰る予定の人、もはや帰らない人……。
同窓生の声をきいてみた。
 

 年一回の福岡  中村昭之(昭20年卒)
  福岡は私の生まれ育った所だが、その福岡を離れてもう既に約40年になる。
 私は、旧制度の男子師範付属小学校から修猷館にはいり、九州大学を卒業した。大学では心理学を専攻したのでその後大学の教師となり、先ず九州の某公立大学に約10年間勤め、その後東京の私大で約30年間教鞭をとり、昨年そこを定年退職し、現在は比較的気ままな暮らしをしている。私が生まれ育ち、暮らしていた頃の戦前戦後の福岡と比べると、その後の福岡の変わり様はただ驚くばかり、地下鉄の新設とその普及、天神町の地下街、博多駅周辺、西新町や姪の浜周辺の変わりようなど、最近では、年に1回ぐらいは福岡に行くが、福岡は私にとって、ますますわかりにくくなってきたように思われる。もう10年ぐらい前になるかと思うが、私の勤めていた大学の社会学科の教員に、修猷館卒業生が偶然4人集まったことがある。その内訳は専任教授として私と、私の先輩で、私と同じように、付属小学校、修猷館、九大を卒業して九大の名誉教授となられ、私の勤務している私大に来られた人の二人、それに女性の非常勤講師二人(一人は心理学を担当、異文化交流が専門、他の一人は、社会学担当で、ジャーナリズムが専門であった、そして、そのとき、二人は、年齢は30代後半から40代前半だったように思う)であった。この東京の私大の一学科にも、九州の名門修猷館の名声は聞こえていて、何かの集まりがあると、特に毎年春に行う専任教員と非常勤教員の懇親会のときには、社会学科の教員スタッフのみんなから、修猷館卒業の我々4人に修猷館の館歌を歌えという要望が起こる。そこで、我ら4人、老人二人と女盛りの二人は立ち上がり修猷館の館歌を高らかに歌うことになるのである。そうしてそれは、恒例になって何年間か続いた。現在は、其の女性のうちの一人は東京の某私大の心理学科の教授になられているし、他の社会学担当の女性も、定かではないが福岡県の県立大学の教授になられたように聞いている。もちろん私とわたくしの先輩の二人は定年退職している。これは在職中の私の楽しい思い出の一つである。
 

博多へ帰るんだ!  大和 博明(昭34年卒)
 博多に帰る時は、飛行機の座席を左の窓側に取る。風向きによっては、博多湾から背振山を右に見て旋回し、太宰府方向から着陸する。左下に諸岡の池が、八幡宮の森が、我が家が見えることもある。「帰ってきたぞ!」と思う。このまま落ちても良い様な気持になる。不思議な感情である。機上から、那珂川と御笠川の間に拡がる一部を見る。生れ育った地である。その景観の変りよう、福岡都市圏の拡がりに驚く。35年間の時間の空白を如実に知らせてくれる。空港からタクシーに乗る。左手に朝鮮戦争当時の機銃掃射の練習場跡地がある。板付橋を渡る。この下で子供の頃、溺れかけたこともあった。十分間で諸岡に帰りつく。今では家々とマンションと道路ばかりで騒々しい。だが、目を上げると東に三郡の山々が、西に背振が羽根を拡げ、昔のままに在る。北は遠く拡がり、向うに博多の街がある。安堵感に包まれる。自分の居場所だと実感が湧いてくる。ここにあと三年、二〇〇二年の七月に帰ることにしている。
 この15年間、四日市、横浜、千葉と移り住んだ。どこに居ても仮の住いだった。思えば「博多に帰るのだ」、「俺には博多がある」が大きな心の支えだった。仕事にも打込むことが出来た。
 木更津で修猷の生んだ名ラガー赤司利雄君(S37年卒)と飲んだ。修猷のこと、ラグビー談議に花が咲いた。旨い酒だった。後日、ワールドカップ公認球のミニチュアをもらった。
 サインがある
   TO MR YAMATO
     ALWAYS ON THE BALL
     TILL THE WHISLE
   TACKLE  LOW AND HARD
         K. AKASHI
 この精神だ。あと三年間、ホイッスルが鳴るまでゴール目指して押して押してゆこう。
 あとはノーサイドだ、博多へ帰るんだ。
 

  福岡に帰ってきて   月川 綱雄(昭35年卒)
平成4年8月九州の地元に戻って早くも7年が経過した。光陰矢のごとしでどうにか福岡の人間に戻った感じでそろそろ定年後の人生設計を考え始めた今日この頃である。
 修猷館を卒業したのが昭和35年で地元の大学から東京に就職し東京で暮らしたのが10年余、群馬県前橋市に約10年、最後は3年間青森の津軽に単身赴任した後希望して福岡勤務になった。東京に出た頃は東海道新幹線ができたばかりで山陽本線の電化が未完であったと思う。九州への帰省も色々乗り継いでまる1日を要した。帰省は会社の九州出身者が4、5人集まり弁当買出し係をおいたのを覚えている。そのうち新幹線が繋がり飛行機も手の届く範囲になった。今日では東京は日帰り出張を疲れが残らないのでやっている。福岡を出て驚いたのはどこに行っても九州出身者が多いことであった。またどこかに修猷出身者がいた。群馬では北関東修猷会を結成し(故酒巻先生、沢木先輩始め山崎幸重氏、村田和夫氏、山田康雄氏、今村宏明氏、松山幹氏他)伊香保温泉での総会は楽しかった。
 ともあれ福岡に戻り懐かしい顔とも再会することができた。福岡では地元に根をおろし各界で同期の人が活躍しておられた。特に政治の世界では同期の楠田元筑紫野市長、山崎現福岡市長、佐賀地区で活躍の天本氏等がいて、選挙のたびにあまり熱心ではなかったがかりだされた。ここでも修猷出身が多く各政党から立候補されていた。ある選挙では全部修猷出身だったりした。勤務先との関係もあり特定支持が難しく選挙の出陣式で朝と昼別の候補に顔を出すこともあった。九州修猷は良きにつけ悪いにつけいつでもどこでも繋がる。まさに博多商人の権力におもねない生きざまが現代に生きている感じがするし、福岡の活力になっていると思う。
 また福岡の懐かしい行事・山笠、どんたく、放生会、玉せせり等見て歩いた。私は御供所小学校、舞鶴中学校、修猷館高校。現在は周船寺と福岡を東から西に横断したため夫々の地区に縁があり時間ができたら訪ね歩き楽しみたいと思っている。夫々風景は変化しているが昔の面影を発見できそうである。私の場合夫婦とも福岡だったことと九州に勤務先がタイミング良くあったことが幸いしてこの先も地元に根をおろした老後が実現しそうで期待している。


仕事あれこれ                     

豪州・最近の話題  瓦林 聖児(昭30年卒)
 今豪州と云えば殆どの人が二〇〇〇年のシドニーオリンピックを頭に浮かべると思う。日本でもオリンピック出場権を巡る各種スポーツの話題で賑やかになってきた。豪州側ではオリンピックはSOCOGと云う組織委員会の総合企画・管理のもと順調に準備が進んでいる。シドニーの西約20キロの距離にあるオリンピック村、ホームブッシュの各種競技場、宿泊施設やシドニー空港から市内への交通アクセスの建設、ホテルの新築・増築等もほぼ予定通り進捗している模様。
 私は一九九四年七月から一九九七年七月迄三年間を豪州三井物産(株)会長兼社長としてシドニーに在住し日本・豪州の、特にビジネスの関係に深く係わってきた。会社社宅の建替えの際の工事遅延や、仕事面では鉱山・港湾労働者のストライキなどに悩まされた経験を持った者としてはオリンピック関連建設が予定通りというのは意外ではあるがそれだけ力が入っているということであろう。二〇〇〇年九月十五日から十月一日迄の開催期間の前後、旅行者が五〇万人増加すると見積もられている。年間来豪者六三〇万人位の国でこの数字は大変なものである。大幅な入場券不足、ホテル宿泊設備不足が問題になってきている。豪州人は誠に健康志向が強くスポーツ意欲の旺盛な国民であり肉体の強壮さを誇りに思う人達が多い。ラクビー、水泳、トライアスロン、ボート等は体力を消耗する典型的な豪州人好みのスポーツと云える、唯一の例外はクリケット。これは英連邦国民が好んで親しんでいるものであるが(ルールを知らない私はどこが面白いか判らないが)一試合に二〜三日かけてのんびり、然し熱中してやっている。
 旅行者と云えば日本の交通公社の意識調査では常に豪州は日本人が行きたい国のNo.1になっている(昨年のみハワイがトップ)。広大な自然、美しい海、珍しい動物の数々、整った宿泊設備、比較的セキュリティの良さ、日本との時差の無さ(季節、都市によるが日本と二時間以内)など魅力溢れる国だからであろう。
 さて、今豪州人の関心は今年(1999年)十一月六日に行われる国民投票で豪州が共和制を採るか否かである。現在豪州は連邦制且つ立憲君主制でエリザベスU世を元首とし、その代理・執行する者として連邦総督が任命されている。これを米国型の共和制にするか否かということにである。前首相労働党のポール・キーティングは可成り強く共和制移行を推進してきたが、現首相自由党のジョン・ハワードは英連邦を好む様に思われる。十月中旬に行われた国民の意識調査によると共和国賛成が三三%、反対が四一%、不明が二六%となっており予断出来ないが、本稿が東京修猷会会報で読者の目にふれる頃には結果が判明している。豪州は一九〇一年から一九六六年迄かつて有名な白豪主義政策をとってきた、しかし、六〇年代中頃より各種の鉱物や石炭鉱脈の相次ぐ発見に伴い輸入労働力も必要となりアジアよりの移民を受け入れ始めた。それでも現在英国等を中心とする白人が総人口一、八七五万人の内九〇%を占めている(但し、外国生まれの豪州人は徐々に増えてきており現在人口の二六%がそうである)。因みに先住民のアボリジニは四〇万人弱である。
 ここへ来てハワード首相の東ティモールへの軍隊派遣に関連した発言で『我々は欧州、西洋文化の国であり、北米とも繋がりが深い』と豪州が西洋の価値観を有する国であると云う意見を述べた為、白豪主義へ逆戻りかとの批判が出ている。
 豪州の貿易でアジア地域(東アジア、アセアン合計)の比重は輸出で六一%輸入で四三%を占めており経済的にはアジア重視を採らざる得ぬ状況にあり、財界は首相のこの様な発言に戸惑いを見せている。
 歴史の通り豪州は親元英国の植民地として発展し、英国を中心とした欧州への依存が大きかったが第二次大戦後米国の世界における経済的地位が英国に比べ増大するにつれて英国離れ米国寄り現象が起きた。然し乍ら一九七〇年代から八〇年代にかけアジア各国の台頭と地理的な条件とが相俟って自然にアジアの比重が増えた。特に前首相ポール・キーティングはAPEC会議の公式席上豪州はアジアの一部であるとの発言さえ行った、これに対しジョン・ハワードはもともと親英派ではあったが、前述のコメントをした為問題発言と取り上げられたものである。
 然し経済においては日本・豪州は極めて深く相互依存関係にある。莫大な天然資源(鉱物、農産物、海産物)は日本にとって欠くことの出来ない輸入資源であり、豪州側から見れば輸出No.1、輸入No.2、常に出超の相手国である日本とは切っても切れない関係にある。互いに今の友好関係を大切にしたいものである。
(一九九九年一〇月執筆)

 
hosimusume_s.jpg (3989 バイト)「星娘」近況レポート  真崎 理香(昭50年卒)

 文化祭では、ESSで英語劇に熱中し、練習帰りに『しばらく』でチャーシューメンを注文して、親父さんに「学生の分際で生意気!」と、頭をはたかれてラーメンを有難く頂き、運動会ではチアガールとなり、ミニスカや、ホットパンツで踊りまくって、『蜂楽』で、カキ氷と今川焼をかき込み、おばさんに「あんた、おなかこわすよ」と言われた星娘。
 いつの間にか?年の時がうつろい、今ではNHKのディレクターを勤めています。仕事もいろいろなことをやってきました。まずは『ニュースセンター9時』という番組で、エイズを始めとする医療番組をリポートしました。その医療リポート類が評価されハーバード大学より医療ジャーナリストのフェローシップを頂いて、会社派遣留学生として、1年間ハーバード大学で勉強してきました。
 帰国後、日米欧のスタッフと共に「ジャパンビジネストゥディ」という日本で初めての、英語の経済番組をたちあげ、コーディネートデスクを2年やりました。その後、衛星放送の方で、ヒッチコックの特別番組をアメリカから映画評論家を呼んで作ったり、前文相の有馬朗人先生主宰で亀戸天神から子ども俳句大会を中継。画家の安野光雅さんや短歌の俵万智さんをお連れして「イタリア美術紀行」のロケで2ケ月近くイタリアを回ったこともありました。
 さらに、NHKの番組ビデオを扱うセクションに行き、ソ連崩壊後の東欧諸国、アジア各国などを回りました。3年間で行った国はポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーはもちろん、ルーマニア、ブルガリア、クロアチア、今は戦火にさらされているマケドニアにも及び、アジアでは、マレーシアやタイ、北欧ではバルト3国のリトアニアにも行きました。お陰で、穴一つあいているだけのトイレや、黒焦げになったナマズだけの夕食、鍵がかからなくて、ドアにスーツケースをたてかけ、そこに寄りかかって寝る夜にも慣れました。
 現在は、国際放送局で毎日の生放送の英語番組のデスクをしています。やれトルコで地震だ、キルギスで人質事件だ、と24時間営業のヤクザな商売です。
 余暇には何をやっているかと言いますと、沈思黙考・料理作り・収納整理・ウォーキング・ダンス・ドライブ・ゴルフ・鎌倉の裏道歩き・お寺巡り・家族とお庭のめんどう見、などなどです。
 もう「40キロ行軍」も「もうかり」も「250番迄の成績張り出し」も「夏冬の補習」もなくなったとか……。それでもやはり修猷の星は永遠。先生方、先輩諸氏、後輩諸君には、良き高校生活を送らせて頂いたことに感謝し館友皆様の益々素晴らしい21世紀でのご活躍を祈念し、筆を置きます。


音楽と人生

ブラバンからオケへの軌跡 宇野 栄(昭40年卒)

(写真中央のオーボエが筆者)

 「何か楽器をやってみたい」と中学のときからあこがれていたブラスバンド(ブラバン)部の門を修猷にはいってたたいてみた。最初アルトホルンという学校所有の金管楽器を手にしたが、家でクラリネットを買ってもらい転向した。ブラバンの練習は毎日あったし、夏休みにもみな集まって練習したので、文化部でありながら運動部並みの活動量であった。大勢で一つの目標に向かうという団体競技的共通性があるからであろうか。
 ブラバンは、運動会では本部席に陣取って、生演奏で競技を盛り上げる役回りであった。したがって、ブラバンをやっている限り、4色にわかれたスタンドに座ることはなく、一度も「運動する運動会」を経験したことはない。そのかわり、運動会のプログラムには、ブラバンが行進演奏する「演技」が昼食後の腹ごなしの時間帯に組み込まれていた。
 ブラバンは、学校の行事や野球の応援などに頻繁にかりだされたが、部としての目標は年一回の吹奏楽コンクールであった。修猷の先輩であり当時市内の中学の音楽の先生であった馬頭徹夫先生の指導のもと練習に励んでいた。残念ながら、当時の電波高校にはかなわなかったが、県内2番位の力があった。県から2校が九州大会にいけたのでそれを目標にしていた。高校3年の秋には、「受験の準備をせんでもよかとか」との声もあったが、大分県で行われた九州大会にいって、奨励賞をもらったことは忘れられない。
 大学に入ってオーケストラ(オケ)部に入団したが、「クラリネットは足りているので、自宅待機」といわれ、じっと待っていたところ、「オーボエが足りなくなったので転向しませんか。」といわれオーボエ吹きとなった。オーボエは、リード作りが大変で、練習しているよりリードを作っている時間の方が長いといわれる。リードは口にくわえて息を吹き込む部分で、この出来具合で音の良し悪しや吹き易さがきまる。葦でできた素材をナイフで削って自分にあったリードを作るのであるが、微妙な加減でリードの性能が変わってしまうし消耗品なので、常に調子の良いリードを作っておくことにかなりの時間と神経を使う。しかしその見返り(?)に、おいしいソロが結構たくさんある楽器である。オーボエを始めて間もない演奏旅行では、ドボルザークの「新世界」の有名な家路のメロデイをソロで10回も演奏するという幸せを経験することができた(厳密にいうと、このソロはイングリッシュホルンで演奏される。この楽器はオーボエ吹きが担当する)。
 いま、八王子に住んでいて、10年前から八王子フィルハーモニー管弦楽団(八フィル)という市民オーケストラに入っている。もちろんオーボエ吹きとして。年2回の定期演奏会にむけて毎週練習を続けている。一九九九年9月には、ドイツのケムニッツのアマチュアオケを招待して合同演奏会を開催した。このような形で国際交流をする機会は大変珍しいといえる。言葉はあまり通じなくても、一つの音楽を作るということで非常に熱が入った行事であった。とくに、本場ドイツの音楽に対する考え方や取り組み方は大変勉強になり、刺激をうけた。
 八フィルでは、偶然にも修猷のブラスバンドで一緒にやっていた同級生の村上和見君と再会した。村上君は、当時トランペットの名手であったが、大学ではビオラに転向していた。彼は、転勤で地方を回っていたが、首都圏勤務となった5年前から八フィルに参加している。八フィルには、会社の知りあいがいたことと私がいたことが理由のようだ。彼は練習のために毎週1時間以上かけて横浜から通ってくるという熱のいれようである。演奏会には、幸せなことに近くに住んでいる何人かの修猷の同級生が聴きにきてくれている。
 今もなお、このようにオケで楽しむことができる原点は修猷のブラバンにあるといえる。ブラバンは修猷3年間のなかで大きなウエイトをしめるクラブ活動であったと、大変懐かしく思い出される。

 オーケストラは無上の喜び 山本 泰三(昭45年卒)
 私がヴァイオリンを習い始めたのは小学校2年のときでした。同級生の女の子がピアノを習っていたので、影響されたのだと思います。音楽は好きだったのですが、次第にレッスンに行くのが面倒くさくて、いやになってきました。一方で、音楽の時間に習った笛に大変興味を持つようになりました。
 中学1年生のとき、フルートの名手ランパルが来日し、福岡でもリサイタルを開きました。その時、つい興奮のあまり舞台に駆け上がり、ランパルと握手をしてもらった記憶があります。それがフルートを始めるきっかけとなりました。ヴァイオリンをうやむやにしてしまったために、フルートを習いたいと親にも言えず、楽器は買ってもらったものの、教則本を見ながら独学することにしました。
 大学でオーケストラに入団すると同時に、プロの先生にフルートを習うことにしました。大学では、オーケストラだけではなく、仲間で室内楽をやったり、発表会で独奏(ピアノ伴奏付)をしたり、合奏の楽しさを知りました。
 社会人になってからは仕事も忙しく、しばらくは楽器から遠ざかっていましたが、30才を過ぎてまたオーケストラに入団し、今も続けています。
 オーケストラの楽しさは、沢山の人が心を一つにして、一つの音楽を作り上げることです。人が沢山いれば、各人の音楽の感じ方も違います。よい演奏をするためには、もちろん技術の面も大事ですが、心を一つにすることが重要です。これは指揮者の力量に頼るわけにはいきません。ある時は我慢も必要ですが、互いによく聴き合い、コミュニケーションを図りつつ、目標に向かって音楽を作り上げていくまでの過程及びその成果を人に聴いてもらうこと、これがオーケストラをやる無上の喜びだと思います。
 今までに最も印象に残っている演奏会が二つあります。一つは、一九九○年5月に、ベルリン・フィルの二人の首席奏者(安永徹、ゲオルク・ファウスト)とブラームスの二重協奏曲を協演してもらったことです。安永徹氏はご承知の通り福岡市の出身で、我々と同じ年ですので、修猷館の同級生で中学時代、安永氏と机を並べた人が沢山います。その内の一人に、私は安永氏を紹介してもらい、この演奏会も実現しました。とても素晴らしい演奏会でした。
 もう一つは、一九九七年6月に、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲とドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を演奏したことです。2曲ともフルートが大活躍して、演奏するのが大変難しい曲です。フルートを吹く人にとっては、あこがれの曲をアマチュアのオーケストラで演奏できたことは、一生の思い出になるでしょう。
 終わった後の大きな拍手と、指揮者からもらった花束で感激しました。
 これからも、オーケストラを続けていきたいと思いますが、その楽しみを持続させるためには、よい演奏仲間、聴いていただく方々、それに家族の協力が必要です。皆さんに感謝しつつ、この贅沢な趣味を大切にしたいと思っています。


児嶋善三郎のリトグラフ
 日本的油彩画の創造者・児嶋善三郎氏(明治45年卒)の絵が2点リトグラフとして販売されるということで、紹介します。連絡・問合せ先は兒嶋氏のお孫さんで、兒嶋画廊を経営される兒嶋俊郎氏(兒嶋画廊03‐3564‐5072)です。絵は下の2点です。なお、ホームページには、参考資料とともにより詳しく紹介される予定です。
                     
上絵題名 「ペルシャ壷にバラ」
版式 リトグラフ
限定部数 250部 番号入り・朱印
版数 36版 36色
サイズ 画面サイズ 縦53.3p×45.5p
額サイズ 縦82.5p×横72.6p
用紙 ベランアルシュ


上絵題名 「赤絵の壷にバラ」
版名 リトグラフ
限定部数 250部 番号入り・朱印
版数 27版 30色
サイズ 画面サイズ 縦53.3p×横45.4p
額サイズ 縦82.5p×横72.6p
用紙 ベランアルシュ             


rokkosei.jpg (1794 バイト)1999年二木会
第463回 H11. 1 稲川 誠(S31) 横浜BS
第464回 H11. 2 岡田昌治(S47) マルチメディア
第465回 H11. 3 佐渡島志郎(S47) 日中関係
第466回 H11. 4 長野倬士(S29) ものごとの見方
第467回 H11. 5 工藤和美(S54) 開かれた学校
第468回 H11. 7 栗秋正寿(H3) マッキンリー
第469回 H11. 9 久保田勇夫(S36) 内外金融
第470回 H11.10 藤田雅之(S48) 2000年問題
第471回 H11.11 折田康徳(S47) 東チモール


  第四七〇回 藤田雅之(昭48年卒)
〈二○○○年問題とは〉
 欧米の一般文書と同様にコンピュータは日付の年を下二桁で表し、一九九九年を99年などと扱ってきた。これは人が書くのも簡単な上、コンピューターが計算・蓄積するのも速くてコストが安いというメリットがあった。また、工業規格にも年は二桁との基準があった。これらに基き、日付の年を下二桁で扱ったプログラムの蓄積は膨大なものがある。
 しかし、日付の年が二桁だと、二○○○年が○○となってしまい、99年よりも小さい日付になってしまう。これに起因する典型的な不具合のパターンが、すでに一九九四年にある航空会社が5年先の納入期限の部品発注を行った際に現れた。すなわち、二○○○年のデータを扱う時に不具合が生じてしまい、受注・発注・決算が出来ないということである。その他、システムの時計が二○○○年になると誤作動が生じる場合もある。対応策としては、プログラムを調査し、西暦年を2桁で扱っているところを地道に修正していくしかない。また、古い未対応製品を使っているような場合には、対応済みの製品へのアップグレードが必要となる。従来、情報システム部門を中心に、このような対応作業が続けられてきた。
 しかしその後、Non-IT(非情報)機器の二○○○年問題がクローズアップされてきた。これはコンピュータ以外の制御機器やオフィスや家庭の電子機器の中に使われているマイクロチップの同様な日付処理の問題である。コンピュータならエンジニアが個々に修正の手当てができるが、マイクロチップについては、ユーザーによる二○○○年問題の対応が殆ど難しい。使用者がメーカーに問い合わせて、アップグレードなど必要とされる対応を取るしかない。
〈二○○○年問題の影響〉
 発電所のコンピュータや制御機器類に問題が生じると、発電所がストップしたり交流の位相がずれて他の発電所の電気と合流出来ずに全体の送電を不能にしてしまう可能性がある。但し日本の電力各社は、対策も進んでおり不具合は起こりにくいと発表している。
 先日JR四国では、対策もれのため二○○○年問題が和暦の上で典型的な形で現れた事象があった。会社によっては、和暦で処理しているので二○○○年問題は関係ないと思っている場合があるが、和暦もコンピュータの中では西暦に換算処理されている場合が多いので、問題はまったく同じ。
 政府では昨年9月に行動計画を策定し、民間産業の中で国民生活に影響の大きな金融・エネルギー・運輸・情報通信・医療については、監督省庁が各産業の二○○○年問題の対応進捗管理することとした。金融監督庁では、二○○○年問題の危機管理計画の整備をはじめ、各金融機関の対応を強く指導し、既に主要な金融機関では対応が完了している。金融機関の危機管理の対象も、たとえば預金者のオーバーアクションなどに移ってきているが、国民に対して「この年末年始の過ごし方」のようなガイドが公報されるのではないかと思う。
 海外では開発途上国の対応にまだ懸念が残る所があり、国際取り引きでは二○○○年問題の対応いかんで、取り引き先から外されるような評価になり兼ねず、グローバル企業を中心に万全の対応を求められている。
 中小企業でもパソコンやその中に入っているプログラムによっては起こりうるし、万一問題を起こした場合に、取引先に影響を与えてしまい大きな責任が発生してしまう可能性もあることを経営のトップが認識を持つことが大切。また、問題を起こしてからでは修復が困難になる場合が考えられ、事前の対応が非常に重要である。
 こう考えると、万一のことが起きた場合の危機管理を行っておくことも必要となってくる。危機管理とは、発生確率の低く、かつ起こると影響の大きいところに対策をとることを言う。日本人にはなかなか弱いところであると思われるが、先日の東海村の事故のように、技術者のモラルハザードが起きている可能性も否定できず、重要と考えられる。
 二○○○年に入るということで、一○○○年に一度のおめでたい時だが、対策にあたる人々にとってそれどころではないことが判って頂けたかと思う。21世紀になる二○○一年の元旦は本当のお目出度い時として、ゆっくり味わいたい。
(日本IBM勤務)


自著を語る

  『非在の海』について 小阪 修平(昭41年卒)
 二十代の半ば頃、これからは受け身で生きていくことに決めた。いや、そうはっきり決意したわけではないのだが、何かしら自分をつかんでしまった「よくわからないもの」が、自分の意志でどうこうなるものではないという感じを強くもったのだ。その後ひょんなことから求めに応じて原稿を書くという生活が始まり、編著・対談をふくめると二十冊以上も本を出してきたことになる。そのなかで「自著を語る」と言う時、どうしても『非在の海』をあげたくなるのは、この本が一番自分自身をつかんでしまった何かに向かって書いているからだろう。
 ぼくは生まれた年からいうと団塊の世代のはじまりにあたる。福岡からはじめて新幹線に乗って上京してみると、東京はもうサルトルが流行し前衛的な芸術がはやるといった「時代」の渦中であった。なんの時代かと聞かれても、「時代」としか答えようがない「雰囲気」のなかに入ってしまったということだが、それから何か自分でもよくわからない熱に浮かされていたような数年を過ごし、気がついてみると、いつの間にか大学をやめ、子供ができていた。いまでもその頃のことは記憶が断片的だし、ぼく自身の人生も、それ以前とそれ以降では切れているような感じもする。
 三島由紀夫に出会ったのは、友人たちと三島を東大によんで討論集会を開いた時のことだ。その記録は、すぐに新潮社から『三島由紀夫vs東大全共闘』というタイトルで出版された。ぼくが二十二歳の時だが、その後書きにペンネームで書いた文章が、はじめて公刊された活字になった文章だった。それから二十年近くたってこの本をようやく出版できたのだから、遅いといえば遅い。ぼくは哲学の解説本など書いていて、わかることはわかりやすく書けるのだが、多分だれにとっても重要なのは、その人自身にとっても「よくわからないこと」なのだ。三島由紀夫と当時のぼくたちをともに包んでいた「時代」は、ぼくにとってもたえず物書きとして回帰していくべき課題であるように思える。
  「非在の海」という題名は、三島由紀夫の遺作『豊饒の海』を意識したものだ。「豊かの海」と名づけられた月の海が、じつはからからに乾いた海であるという寓意が、『豊饒の海』というタイトルにはこめられていた。ぼくたちをもっとも満たすべき場所での「渇き」をぼくは三島由紀夫に感じた。ニヒリズムとはニーチェの言葉だが、何かが決定的にかけていることにほかならない。「非在の海」という言葉でぼくがイメージしたのは、ぼくたちが生きているこの場所、市民社会である。この本では市民社会における生の条件とでもいったものを、三島由紀夫を通して描いてみたかったのだが、自分で言うのもおかしいが、自分としては「美しく」書けた本ではないかとひそかに自負している。
『非在の海・三島由紀夫と戦後社会のニヒリズム』(「河出書房新社」一九八八年 二二七○円)


浩浩居
 広田弘毅が、創設した「浩浩居」の記念祭があると聞き、訪ねた。「浩浩居」は広田弘毅が一高の二年の時、仲間5人を誘って三間ほどの小さな家で共同生活をしたことに始まる男子寮だ。城山三郎著『落日燃ゆ』によれば、頭山満の紹介で、外務卿の副島種臣を訪ね、「浩浩居」という額の字を書いてもらったという。「浩浩として歌う、天地万物我を如何せん」(馬子才)という詩句からの命名である。(新潮文庫版・18頁)
 この額は、広田弘毅自筆の額とともに、食堂にかかげられている(全部で三点、右写真)。20数年前の火災のときも、まずこれを持ち出せということで焼失を免がれた。
 「浩浩居」はJR中央線西荻窪駅から徒歩5分、杉並区松庵3丁目の閑静な住宅街の一角にある。火事のあと、新築のため、一部敷地を売却したので、筆者が知る旧「浩浩居」よりは、庭の感じが随分かわっている。寮生は、17名(1人部屋16、2人部屋1)、寮費は、食事代を含め4万円弱ということだ(安い!!)。各部屋には電話端末もあり、インターネットも個別に使える!!。毎年11月23日が記念祭ということで、先輩との交流があり、この日も15名の先輩が来られていた。寮生の出身校は、修猷、福高、筑紫丘、大濠、ラサール等。寮長は筑紫丘出身の中村暢仁君(ICU3年)。3月25日に、福岡で、新寮生の面接があるとのこと(4人募集)。
 今は少なくなった、共同生活、そして諸先輩との世代をこえた「男臭い」交流がここにはある。筆者も東京に初めて来たとき以来、何度か泊めてもらった。福岡にいる知人等で東京の大学に合格が決まった御子息があれば、応募されてはいかがでしょうか。
 「浩浩居」には、次のミレニアムに残すべき何かがあると思います。 (S)
(浩浩居への連絡先は東京修猷会事務局、又はHP会報担当までお問い合わせ下さい)
  


  第6回二木ゴルフ大会  

 第6回修猷二木会ゴルフ大会は、平成11年10月24日(日)に千葉県茂原のデイスターゴルフクラブにて行われた。池とバンカーが巧みに配置された最新のコースで、特に恐ろしく早く傾斜のきつい大きなベントのワングリーンに、もう一度挑戦したいとの多くの方々のリクエストで第5回に続いての開催となった。
 すばらしい晴天の中で7組総勢26人による和気あいあいとした中で名誉をかけた厳しいプレーが展開された。
 優勝はS32年卒の井上智晴先輩で、グロス80ネット66というすばらしいスコアであった。準優勝は初出場のS44年卒犬童伸平先輩。グロス93何とネット57。ハンデの申告が少し甘かったのではとの指摘の中で、昔憧れていた同期の女性と回ったお陰ですと苦しいスピーチをされていた。(初出場は最高2位とのルール適用)
 初出場でベスグロを獲得したのは、S45年卒の芦原直哉先輩。今年、福岡の修猷会、近畿修猷会、東京修猷会とベスグロ3連取した由。現在ゴルフ場の支配人も兼務しているので一応本職ですとの説明があった。女性ベスグロはまだゴルフ歴2年(?)のS44年卒甲畑真知子先輩。グロス106は立派です。
 今まで年に2回開催していましたが、もっと多くの方々に参加して頂くためにも年に1回でいいのではということで、平成12年は秋に1回ということになりました。最低でも40人以上でと考えています。同期、クラブ関連、昔の恋人、会社、業界と広い範囲で皆さんお誘いあわせの上参加下さい。
(昭48年卒・吉田哲夫)


学年だより
五十周年を迎えた六〇会 大西 勇(昭23年卒)

 今年は高校卒業第一回生(六〇会と称す)にとって五十周年に当たる。
 昭和二十三年、六・三・三・四の新学制発足により、中学修猷館は高等学校に生まれ変わった。我々五年制中学最後の卒業生(修猷六〇会)は他校へ進学した一部を除き、殆ど全員が高校三年生へ進学した。このため同窓会名簿には、昭和二十三年中卒と二十四年高卒との双方に名前が記載されている者が多い。
 ところで、修猷六〇会は一昨年六月、中学卒業五十周年を記念して、当時叶えられなかった卒業旅行を五十年ぶりに実現した。田中丸善司会長をはじめ福岡組、東京組に夫人連も含み総勢三十名。二泊三日の旅程で韓国慶州の天馬塚や石窟庵、佛国寺、釜山のポモサ=梵魚寺などを回り、大変好評だった。
 本部の今年の定例会は七月福岡で開かれた。
 支部の東京修猷六〇会の例会は十月神田の学士会館で開催。遥々大分から駆け付けた者もおり十八名が参集。年齢に似ず皆若く、頗る元気で、お互いの健康を祝福し合い、現況報告や昔話に大いに花を咲かせた。
 顧みると、我々は中学三年生の夏まで戦争の真っ只中にあり、学業を中断し、勤労動員で国家に奉仕した。板付の麦畑をモッコを担いで均し、陸軍飛行場にしたことを昨日の事の様に思い出す。米軍捕虜もスコップを手に参加した。これが今日見る福岡国際空港だ。
 その後、組別に市内電車の運転手となったり、航空機製造工場や人間魚雷「回天」の工場へ派遣されたりした。魚雷工場には他校の中学生や遠く別府から女学生達も来て同じ仲間となった。当時誰一人として不平不満を言わず、本当に真面目に良く立ち働いたと思う。
 終戦少し前の、忘れもしない六月十九日。B29二百三十九機が飛来、福岡市は一夜にして灰燼に帰した。戦後、授業が再開されたが、教科書には不適切な個所を墨で塗り潰して使用した。戦闘帽を被り、古い兵隊服を着、下駄履きで通学する生徒が少なくなかった。
 極めて貧しい生活だったが、それでも明るかった。各人が修猷健児の誇りを持ち、友情と希望に満ちていたからではなかろうか。
(平成十一年十一月)

東京修猷六〇会 於 学士会館  平成11年10月23日

東京修猷六〇会 50周年記念卒業旅行 平成10年6月6日 韓国慶州佛國寺にて


99総会報告   東京総会実行委員長  中川淳雄 (昭48年卒)
日時  :6月11日(金曜日)18時〜20時30分
場所  :経団連会館(千代田区大手町1‐9‐4)
式次第 :第一部総会
      第二部「いま時空を超えて修猷会ホームページ発進!」
      第三部懇親会

 形あるもの、喜ばれるものを残したい。これを目指して私達準備メンバーは同窓会のホームページを立ち上げることにしました。
 パソコンの知識の豊富な者やホームページ作りの経験者などが自然と結集し(本人たちは無理矢理引っ張り込まれたと思っているようですが)、ホームページの設計、作成、載せる情報の収集、福岡の同期を通じて同窓会全体としてのホームページ化にも働きかけが始まりました。そして何とか1月1日の仮オープン、総会当日の正式オープンにこぎつけました。
 準備を始めた時、私を含め学年幹事はインターネットを見たこともなければ、パソコンを持っていませんでした。それが今では自宅と会社でインターネットとメールを活用している次第です。当日のホームページのデモンストレーションをご覧になってまだ遠い存在に感じられた方も、是非今からインターネットに挑戦して頂きたいと思います。修猷ホームページだけでなく、他校の同窓会の様子やありとあらゆる話題・情報を見ることができます。
 総会当日は館友や恩師の方々に多数お来し頂き、また福岡から同期が大挙して応援に駆け付けてくれ大盛況となりました。総会の運営は大変でしたが、同期のつながりがより強くなったのと同時に、新たな先輩や後輩との出会いがあり、幹事学年として大変良い経験をさせて頂きました。
 今回の準備をする中で、同窓会の運営も新しい時代に入ってきたのを感じました。今後も若い卒業生から大先輩までが集える東京修猷会にするために、より良きホームページにしていきたいと思います。
 最後に、総会の準備とホームページ作りに色々な面でご指導やご協力頂きました先輩・後輩の皆様、同期の皆にお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。


平成11年度寄付金
 平成11年4月1日から平成11年10月31日までに247名の皆様から寄付金が納入されています。ありがとうございました。お礼の意味を込めてお名前を掲載させていただきます。(敬称略。卒年別。順不同)
 また、年会費の納入をまだ済まされてない方は、同封の郵便振替用紙にて早速ご送金くださるようお願い申しあげます。(1口3千円。3千円以上大歓迎)

00170--6--172892 東京修猷会事務局

秋根久太[大6]平井 新[大14]鳥巣建之助[大15]田中 豊[昭3]吉阪清次[昭4]池田吟二、松尾金蔵[昭9]冨田明徳[昭10]藤永 一[昭11]伊豆丸環[昭19]塚本 学[昭12]片桐貞夫、鎌田正行、篠崎春男[昭13]高村健一郎、中村浩二[昭14]隈部 晃[昭15]大城金夫、椛島健一、隈部 洋、高川正通、中田正男[昭16]八十島奎三、岩本 剛[昭17]君島芳郎、浜田悠紀雄、林 健児、松隈 毅、安武晴吾[昭18]鶴田一白、不破敬一郎[昭19]荒川弘文、大里隆徳、早野俊一[昭20]ジャニイ岩橋、田中庸夫、長濱正昭、野上三男、三俣啓一、宮本 満、山本敏男[昭21]小渋雅亮、稗田孝道[昭22]青木 貞、遠藤嘉津誉、岡崎 登、木下洋一、小池啓雄、杉島千秋、野村輝彦[昭23]伊岐和男、大西 勇、北原四郎、小松顕太郎、白木彬雄、田尻利重、松岡春樹、八牧将勝[昭24]安蔵復也、濱地勝太郎[昭25]久保田成昭、酒見 肇、村上昌明、山県良介、山本義治[昭26]石塚和男、大平 修、合谷欣一、中村道生、藤吉敏生、増田満昭[昭27]榊喜美子、柴垣和夫、田辺 萌、福田純也、吉田 耕、和栗眞次郎[昭28]緒方雄次郎、松榮孝昌、野川寛人、藤村道徳、船渡 健、松尾 守、蓑原 敬、柳島富男、山本邦彦、渡邊 聰[昭29]稲川 享、木村 修、工藤國夫、桑原 収、斉藤弘子、高木道子、吉武正文[昭30]稲富 治、神坂大和、瓦林聖児、喜多村寿信、久保 久、坂本幸治、篠原 忍、遠山 壽一、中島英殷、平木英人、藤本亮典、藤吉健司、松尾正人[昭31]阿部公明、磯野玲子、岩佐寿夫、牛尾 淳、岸川浩一郎、近藤 徹、高崎洋一、伊達直哉、中村計介、中村保夫、箱島信一、八坂 允[昭32]島上清明、鳥居健太、中川 浩、能美淳一、林 克己、平野熙幸、藤井新三、山川卓美[昭33]相生卓男、太田公昭、緒方嘉裕、郡嶋昭彦、河野 理、寺澤美和子[昭34]有光利文、尾崎文彦、笠倉紀子、讃井邦夫、高橋寛子、西嶋勝彦、服部富美子、伴 拓郎、松本秀三、溝田彰郎、吉弘嘉男[昭35]石橋勇之、板倉眞一、小野勝利、可児 晋、北古賀義之、隈部忠昭、白木大五郎、鈴木晄夫、田口勝也、田代信吾、立石 敢、鶴川隆之、中村純男、羽立教江、福田修二、松本光華、森 泰治、山田昌男[昭36]安藤誠四郎、川崎靖子、鈴木崇世、濱地康彦、山本 博[昭37]川野信之、福田 洋、吉田茂子[昭38]井上 誠、上田 茂、野原 宏、渡辺紀大[昭39]貝島資邦、久保田康史、桑田洋一、松井 碧[昭40]菊田 薫、竹並貞男、中江 聰、鳴川博之、森 秀則[昭41]新井眞理子、魚川清美、定直泰文、鳥飼 健、原田康生、北郷英樹、三上博民、森田澄夫、淀川和也[昭42]石川 透、島井和裕、山口秀範、山中良子[昭43]広瀬 豊[昭44]横田勝介[昭45]渕上一雄、本田由紀子、山本泰三、吉田倫夫[昭46]桑野博行、田中丸純一郎、西澤逸実、野村精一[昭47]池田誠一郎、木野茂徳、高吉邦治、野美山充博[昭48]鵜木一郎、江田佳意子、香月康子、崎山裕子、高山信彦、野村俊明、廣川智子、安田正俊、柳与志夫、吉永悦郎[昭49]阿河勝久、阿部啓次郎、伊井陽子、古森光一郎[昭50]小林みどり、萩原弓子[昭51]加藤純一、田上賢治[昭52]江藤和実[昭53]石川雅敏、村田隆信[昭55]小森道夫、高嶋克宣、谷口和彦、二宮秀生、三明秀二[昭56]田中昭人[昭58]上野辰雄[昭60]朱雀誉史[昭61]宮本拓海[昭62]田辺 玲、橋爪 毅[平11]田中絢子  同窓会本部 前川昭治館長 桧垣正浩 長野覚


事務局便り

 野上会長、藤吉、長野副会長の下、下記11名のメンバーで執行部を形成し、東京修猷会のお世話をしております。
幹事長 田代信吾(昭35)
副幹事長 棚町精子(昭40)
  〃  由良範泰(昭40)
  〃  広瀬 豊(昭43)
  〃  白井信雄(昭44)
  〃  出納克彦(昭45)
  〃  本田由紀子(昭45)
  〃  野美山充博(昭47)
  〃  福嶋 治(昭47)
  〃  西村元延(昭48)
  〃  堀 信之(昭49)
昨年の総会を期にホームページを開設、会員の皆様に会の活動を一層ご理解いただくと共に、今後会員同士の連絡がHPを通じて密に成ればと願っています。しかし一方ではHP維持、管理の費用もかさむ事から、執行部では今後も二木会、総会等の通信費、印刷費をHPを利用してどのように切りつめて行くか検討中です。その点会員の皆様にご不満も出るかと思いますが、宜しくご理解下さい。
二木会に付きましては四七○回以上の回数を続けており、五○○回になったときにはギネスブックに登録云々とまで言われております。しかしその後の会のテーマ、講師の採用に少々行き詰まりが見られます。会員の皆様に政治、経済、科学以外の分野で特にスポーツ、文化、芸能等の分野で活躍しておられる方を執行部宛にご紹介下さい。毎度のお願いで恐縮ですが、会の運営が皆様方の三千円の年会費とご寄付のみで賄われておりますので、ご理解を頂き宜しくお振り込みをお願いします。