東京修猷会・会報 第11号 1999年(平成11年)1月1日発行
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大項目 | 中項目 | 筆者 | 卒年 |
巻頭言 | 21世紀の礎の年に | 野上三男東京修猷会長 | S20 |
スポーツ | 冬のマッキンリーに単独登頂(栗秋正寿さん) | 書き手 棚町精子 | S40 |
ヨット部との出会い・その後 | 鶴木賢治 | S40 | |
ふるさと福岡・博多へ | 博多に戻ってパソコンで交流 | 福田道生 | S24 |
「遠きにありて…」 | 大森正憲 | S29 | |
行ったり来たり | 水藤晋 | S40 | |
人生いろいろ | 舞台の虜(とりこ) | 高原節子 | S27 |
幸せを感じる時 | 柏木茂生 | S35 | |
千葉の街のキノコ狩り | 渡辺史大 | S40 | |
引き手と聞き手 | 出納克彦 | S45 | |
'98就職戦線 | 私の就職活動 | 高野健太郎 | H6 |
「夢」をもって欲しい | 伊藤弘信 | S31 | |
学生諸君に期待するもの | 鈴木純 | S45 | |
'98二木会から(抜粋) | 第460回「公的介護保険、9月段階での試案」 | 話し手 渡辺俊介 | S38 |
自著を語る | 「渚のモダニズム」出版まで | 梁木靖弘 | S45 |
ホームページ | 修猷館同窓会公式ホームページ開設 | 高山信彦 | S48 |
2つの美術展から | 児玉善三郎展、田副正武個展 | S | --- |
ゴルフ | 第4回二木ゴルフ大会 | 福嶋治 | S47 |
学年だより | 「さんざん会」(華の33年卒) | 瀧口勝 | S33 |
「大漫会」の歴史と現況 | 楢崎隆 | S26 | |
東京修猷総会 | '98総会報告 | 渡邉和博 | S47 |
修猷館情報(新聞) | かまど付きの渡来人住居跡(福岡の遺跡) | 日経98.10.14東京夕刊 | --- |
書評「日本のエリート校」 | 読売98.10.16朝刊 | --- | |
事務局 | 事務局便り | 田代信吾幹事長 | S35 |
明けましておめでとうございます。
東京修猷会の会長をお引受けしたのが、つい此の間のような気がしますが、もう二年目の新春を迎えます。
本年も、よろしくお願いいたします。
それにしても昨年は、年頭のご挨拶で予感したとおりの多難な年になってしまいました。
とくに経済の面で、打つ手打つ手が後手にまわり、景気回復の歯車をどこから回し始めて良いのか……。デフレ・スパイラルの進行を前に、決め手が無くて右往左往の有様です。
加えて政治の貧困・低迷。
党利・党略の先行する駈け引きの中からは、少しも国家百年の計が見えてきません。
国際社会の注視する中で、国益を守るために、国民の一人一人が自ら考え自ら行動することが、今ほど大切な時期は無いと考えます。
一年や二年では、明るい将来は見えにくい現状と覚悟の上で、今年こそは是非、二十世紀へつなげる日本の礎を固める年になって欲しいと願ってやみません。
そんな世の中でも、東京修猷会は、執行部の皆さんの地道な努力のお陰で、着々とその基盤を固めてきました。
六月の総会では、老若男女五百人をこえる出席者のそれぞれが、「修猷会の今」を身近に知る事が出来、更めて母校の伝統の重さと、後輩の頼母しさを実感しました。
二木会も、多彩な講師の人選とともに、確実に受け継がれています。
とかく暗くなりがちな世相の中で、明るく平常心を支え合える場として、東京修猷会を大切に保って行きたいと念じております。
そして、懸念の校舎改築の募金が、昨年十月からスタートしました。
皆さんのお手許に、すでに募金のお願いが届いている事と思いますので、内容については触れませんが、二十一世紀にまたがる大計画となります。
「遂に時代は二十一世紀を迎える。校舎もこれからの時代にふさわしい、最新設備の校舎へと建て替わる。
だがその蔭で、この薄暗い、ミシミシと床がきしむ、云わば“目に見える形の伝統”であるこの校舎は跡形もなくなってしまう。
そうなると私達は“目に見えない形の伝統”を伝えていかなくてはならなくなる。
それは、“修猷魂”とでも云うのだろうか。未来の修猷へ、今の伝統を伝える・・。
それは目に見えないものであるからこそ、私達の実践によってのみ為されるだろう。
私達が誤って伝えたら、二度と元には戻らないだろう……。」
修猷新聞に載った「未来へのバトン」と題する後輩の力強いメッセージです。
目標総額一億円、一口一万円の募金は、できるだけ多くの皆さんに分ち合って参加して戴くことにこそ意義があります。
混沌の現実から、明るい次代へ希望をつなぐための身近な貢献として、ご協力を是非お願いいたします。
何よりも、皆さんが身心ともに健やかに、この一年を過されることを祈念して、ご挨拶の結びといたします。
冬のマッキンリーに単独登頂 平成三年卒 栗秋正寿さん
アラスカにある北米最高峰マッキンリー(六一九四米)に冬季単独登頂した世界で四人目の登山家・栗秋正寿さんが修猷館の卒業生だときいて、上京された機会に話をききました。
NHKのテレビ番組『トップランナー』の収録のための上京で、九月に放送されました。彼がマッキンリーで作曲した曲を大江千里氏と合奏したり、温かい雰囲気の番組でした。
栗秋さんが山に出会ったのは修猷館山岳部。『高校の山岳部がよかったんです。国体や大会で、テントの立て方・ペグの打ち方などをうまく速くできるかを競うクラブではなく、夏は北アルプスなどを登り、冬は伯耆大山などでのびのびと登山し、山に入ってそこでいかに楽しむかの方が重要だと考えていた山岳部でした』と言っています。ここに彼の登山の原点があるようです。
九州工業大学山岳部に入った時は先輩と二人だけだったのが大学院一年生の時には六人に増え、その年K氏と二人で夏のマッキンリー登頂に成功しています。アラスカ・マッキンリーに魅かれたのは九工大山岳部の初の海外遠征の地として、夏休みに比較的入りやすい、情報が得やすい、アルバイトで賄える費用ということで選んだのですが、新田次郎の「アラスカ物語」を読んで実在のフランク安田に興味を持っていたこともありました。
登山技術は文部省登山研修所の春、夏、冬、遭難救助の四つの講習に参加して修得しました。
その翌年大学院を一年休学して徹底的に登山と訓練をしています。四月から六月にかけてアラスカのフォレイカー(五三〇五米)とハンター(四四四三米)に単独で挑戦。この二山はマッキンリーから見える美しい山々で、あの山に登りたい、あの山から逆にマッキンリーを見てみたいという思いで登りました。そしてその秋には百六日間、ネパールのヒマラマを、アイランドピーク、パルチャモ、ピサンピーク、チュルー・イーストの四峰に登りました。冬のマッキンリーのための訓練なので、テントは使わず、耐寒訓練のためツェルトで、上着も雨具だったといいます。
そして一月上旬に帰国して二月に第一回目の冬のマッキンリーに出発。三七日間の登山で五二〇〇米まで登りましたが、烈風とマイナス四十度Cという状況で、深さ五十センチ程の雪洞に上半身を庇に押し込むような形で三日間過ごしたり様々な経験をし、「よか男になって来年登らせてもらうばい!」と誓って引き返しました。日本山岳会科学委員会の十年目になるというマッキンリー気象観測(五七〇〇米地点)も大いに役立ち、様々な現象から烈風やそのパターンを予測することもできるようになりました。
そして九八年二月に出発し、登山二十四日目、三月八日についに登頂しましたが、天候悪化に向かっていて、写真撮影だけして一分後には下山開始しています。装備と食糧は二ケ月分百キロを持っていき二回に分けて、五十キロずつ橇に乗せて運びあげました。気温、気圧、湿度、風向を朝夕計ってグラフ化し、烈風対策を綿密にしました。「急変を予測できる自信が持てたことで、心に余裕が出たのは大きかった」といいます。五千メートルを超えると、気圧や酸素の関係で運動能力は半分以下になるそうで、紙一枚でも重いと感じるとのこと。またテレビ局から空撮などをして番組を作る話もあったけれど、いつもの自分の登山でなくなりそうだったので断ったというエピソードは「まず生還する事、次が楽しむこと、三番目に運が良ければ頂上に立つこと」との彼の信念を示しています。
持っている旗は修猷館山岳部の後輩からの寄せ書き(1998.2.21
キャンプ3[3,000m]にて)
純白の雪と露岩が夕日に染まる。右手前が雪洞入り口(1998.2.28キャンプ5[3,700m]にて)
雪洞からの夕景色。気温ー32℃
(1998.2.28 キャンプ5[3,700m]にて )
「日の丸」こと「日の栗」の旗を持って。中央後方がマッキンリー南峰(6,194m)(1998.3.13
カヒルトナ氷河[2,200m])
マッキンリーを下山して三週間、休養と準備をしてリヤカーをひいてアラスカ半島縦断徒歩旅行に出発しました。入山中誰にも会わない垂直の旅・登山と違って毎日ハプニングの連続、人と出会い、温かさ、やさしさに触れた水平の旅でした。「アラスカの大自然を堪能し、その中で毅然として生きている人々とのふれ合いを通して人間の原点を見つめ直したい」と思って千四百キロ歩きました。マッキンリー登頂は当地の新聞にも報道されていて、いろんな人に声をかけられ食事や宿泊の世話になりながら学校で講演をしたり、虫歯に悩まされたり、永住している日本人家族に出会ったりもしながら釣りを存分に楽しみ、三ケ月後に北極海側のプルドーベイに着きました。マッキンリー登頂の感動だけでなく、アラスカの大自然を心と身体で感じながら人々と出会い、人の優しさに助けられた旅でした。まだしばらくはアラスカに通ってマッキンリーの別ルートや近くの山々に登るなど、アラスカの人と自然を知りたいと思っていると話してくれました。
なお、「山と渓谷」十月号、「岳人」十月号、十一月号に登山と旅行について、アウトドアイクイップメント「シュラフ」十二月号(ネコ・パブリッシング発行)には装備についても詳しく掲載されています。
(文責・S40年棚町)
ヨット部 ヨットとの出会い ・・その後・・ 昭40年ヨット部卒業 鶴木賢治
「変わったことばしようとやねえ。」これが私がヨット部に入部した事を話した時、友人の口から出た言葉です。もう三十七年も過ぎてしまいました。今に至るも、毎週末には「海」に出ています。現代風に言えば、ハマッています。中学時代はバスケットに熱中し、時々は短距離リレーや大濠公園での駅伝にと陸上部にかり出されて出場もしていました。陸上(おか)のスポーツばかりやっていたので、修猷一年生の時は泳げませんでした。後には素潜りで魚突きも散々やり(今は水中銃は禁止)、スキーバーもサルベージのアルバイトまでやるようになりましたが、その時には泳げないままにディンギー(3、6米の小型艇)に乗り、落水しないよう必死だったことを思い出します。
現在は、自艇は9米(十二人乗)のクルーザーなので、何の不安もありません。今、ベテランヨット乗りと人に言われ、自負もしておりますが、私のヨット人生の第一歩はそうやって始まりました。相模湾に、東京湾に、館山にと毎月数度の草レースをやり、伊豆半島、七島、房総半島等々へとクルージングをやり、又、モータークルーザーで「カジキ」を追い回しと、忙しい毎週末です。ヨットのおかげで、大勢の方々との新しい出会いがあり、楽しいお話を沢山うかがいました。本当に楽しい思い出も沢山沢山あります。又、いろんな方々にお世話になり、お世話もしました。そういった事すべての出発点は「変った運動部・ヨット部」にあります。
そのヨット部のOB会を、本拠地福岡では定期的にやっておりますが(私が参加したのは五十周年のみです、すみません)、東京では忘れない程度に時々やっています(すみません)。いつも出席される方、たまに出席される方、初めてデビューする方と様々です。しかし、顔を合わせた途端にタイムスリップしてしまうのは毎度のことです。初対面なのにしても懐かしく、不思議な気持です。修猷館ヨット部卒業という遠い昔のことが、今、手にとるように甦って来ます、先輩も後輩もわけへだてなく、そこにあるのは「ヨット部OB」という共通項のみです。
さあ、百才までヨットに乗るゾ!
※ヨットに乗りたい方、トローリングをしたい方、どうぞご連絡下さい。
(紙版会報に掲載されている電話又は正式公開後のHP会報担当(kaiho@shuyu.gr.jp)へメールでお申し出ください)
「ふるさと福岡・博多へ」
人生もはや60年から70年・80年へ。故郷へ帰った人、帰りたい人、帰る予定の人、もはや帰らない人・・・。
同級生の声を聞いてみました。
博多に戻ってパソコンで交流 福田道生(昭24年卒)
近頃は故郷と言う言葉はあまり聞かれなくなりましたが、中学・高校を過ごした出身地を離れて東京や大阪などの大都市で社会生活を過ごしておられる方はとても多いと思います。私もその一人で現役時代は関西系機械メーカーの技術者として三十数年勤め、この間大阪・東京・名古屋と海外を含め転勤転居の繰り返しでした。五十歳を過ぎたあたりから定年後の生き方、住み方をどうするかを考えるようになり一応生活拠点としていた西宮市から退職後は故郷の福岡市に戻ることを考え始めました。人生の中心部を占める仕事関連の事柄や長年の仲間や友人と遠く離れることは中々簡単に決断できることではありませんが私の場合は福岡市に高齢の母が一人で住んでいたこと、住む場所があったことと家内も九州出身であったことが決定的要因となり六年前に福岡に帰郷しました。
幸い五十年前に修猷館に通っていた所に住むことになったので周りには古い知り合いや同級生も多く、久しぶりに戻っても生活面での違和感や疎外感は全くありませんでした。
福岡市に住んでみて先ず感じたことは予想以上に都会であることと便利さで、天神あたりに行けば用は何でも足せるし立派な美術館や図書館、コンサートホールに地下鉄やバスで二十分もあれば行けるし、空港へのアクセスは最高に便利です。そのほかよく言われるように食べ物特に魚が新鮮でおいしいことと、私が住んでいる市の西部は工場が全くなく海からの新鮮な空気が他の大都市とひと味違います。修猷館までは徒歩十分なので文化祭は毎年覗きに行っており無線部の若い後輩たちにも自宅に遊びに来てもらっています。
元の会社の友人達との交流は情報通信の発達のおかげでパソコンを使ってインターネット・電子メールのやり取りで距離や住む場所に全く関係なく現在も続けており福岡での生活をより楽しくしてくれております。
「遠きにありて…」 大森正憲(昭和29年卒)
大名小学校がなくなったと聞きました。これで私の行った小学校は二つとも消え去りました。私は昭和二十一年四月、台湾・台中からアメリカの貨物船で引揚げ、大名に転校しました。校長は言いました、「大名は九州一じゃ、お前は良か成績のごたるばってん、植民地の学校はレベルが低か。それに四年終了の学校印がなか。もう一回四年ばやれ。」と。私は抗議しました、「三月は引揚準備のゴタゴタで学校印はもらえなかっただけで、四年は終了しています。五年に入るのは当然です。」と。校長はひとこと「四年に入るとヨ。有難く思え」その日から四年をやり直す。当然授業は易しい。それでも一週間ガマンしたが、ついに父親を説得、学校に直談判。学校側は「分った。これから五年に行く。カバンを持ってついて来い」この日から五年生になったのです。
当時私は、今の西鉄グランドホテル(当時は雑草が生えた焼跡)の対面(トイメン)に住み、隣にカソリック教会があり、男の子が二人いて、兄が旧制福岡高(今の六本松九大)弟が中学修猷館生でした。私も大名卒業後は修猷へ行くと決めていました。ところが、卒業の前年に学制改革で、新制の舞鶴中学に三年行った後でないと修猷には行けなくなったのです。何てこった! でもまあ修猷卒業後二浪もして東大、NHKと入って定年退職して、妻一人、娘二人、女の孫一人一歳になって、自由で楽しい貧乏な年金生活で、病気もせんと元気に暮らしとります。
実は私は台湾時代「神童」と呼ばれ、小学校に上る前に講談社の絵本百二十四冊全部読破していて、特に、「東京見物」が一番好きでした。大きくなったら必ず東京に行くぞと一人で決めてました。東京には二重橋の奥に天皇がいて、地下鉄が走るその上に三越があり、上野に西郷どんがいる、絵本の通りでしたヨ。もう博多は遠きにありて思うだけです。
行ったり来たり 水藤 晋(昭40年卒)
一九九〇年六月の東京修猷会総会の際の記念誌に「山が見えない不安感」という題の拙文を載せていただきました。そこで私は、就職して東京に出てきた折の戸惑い、あるいは、その後十年余の東京勤務を通じて感じた「居心地の悪さ」を、「福岡と違って山が見えず、方向感覚がつかめないためではないか」という、一種の(象徴的な)仮説を立てて分析しようと思いました。
明治以降の日本における「中央と地方の問題」「故郷の問題」を解読する鍵が、その辺にありそうな気がしたのです。そういう意識を引きずっていたのと、長男の私も、妹も弟も九州を離れ、福岡には両親だけという状態だったことから、機会をとらえて九四年に福岡勤務希望を申し出、実現しました。(中古の一戸建てを購入。当分、腰を落ち着けるつもりだったのですが、予期せぬ事態の発生で九七年、単身赴任で東京にまた出てきました)
「帰りたい、帰れない」方々には申し訳ないのですが、三年余の福岡生活は極楽でした。学生時代に熱中したアマチュア無線も再開できましたし…。勤め先の会社に福岡支社があり、年齢相応のポストがあったのが幸いでした。(今は月一回、木曜の夜に福岡に帰って、火曜の朝、上京するようにしています。これから定年までの間、再び、あるいはどれだけ福岡で仕事ができるかは予断を許しません)
皆さんの中には、たまたま、その時のお父上の勤務の関係で修猷に学んだ、という方もおられて、福岡への思いはさまざまでしょう。私の場合は、まず祖父が明治の終わりに筑後から東京へ出て婿入りし、震災をへて祖母が亡くなると筑後へ帰ってきた、という経緯があります。父も、大阪へ出て勉強し、長野県諏訪中学で三年教えて仙台でまた勉強して福岡へ戻ってきて伝習館、修猷館に奉職…ということですので、私も含め、ずっと行ったり来たり。「人の多い東京で、何だか気疲れしたら、しばらく福岡に帰って」というライフスタイルは、精神衛生上、いいのかもしれません。横浜生まれの妻は「しょうがないか」という感じ。十八年を東京、神奈川で過ごした長男は九州で暮らすつもりはないようです。修猷二年の二男も東京志向のよう。
私の周りには、九州出身でなくても勤務地の福岡が気に入って、定年後は永住という方がけっこういます。「東京ほどの大都会ではないが、何事にもほとんど不自由しない」福岡は、故郷として最高と思うのですが…。
(HP編集子より:水藤氏撮影・提供の修猷館近況写真です。後掲の遺跡発掘写真も併せてご覧下さい)
改築中の正門付近。見慣れた風景とどこか違う。 「あっ!修猷館がのうなっとう。」
人生いろいろ
舞台の虜(とりこ) 高原 節子(昭27年卒)
人生色々、男も色々(ア! 失敬)島倉千代子の歌通り、生きざま色々、未来もさまざま、個々の人生が大きなドラマです。で、ほんの少し、私の人生を垣間見ていただければ幸です。
偶然にも、この原稿を依頼された日、十月十二日が、私の再出発の日だったのです。
S27年卒、在校中は文芸部でしたが、文化祭で「若草物語」「夜学生の四季」と舞台に立った味が忘れられず、九州朝日放送放送劇団に入り、一年後上京、舞台芸術学院に入学、劇団入団と、舞台の虜になってしまったのです。
当時も、今も然程変らず、演劇人は貧乏で10円のコッペパンに5円のコロッケを挟んで食べれば良い方でした。又、60年安保闘争真直中で、朝九時から夕方四時迄はデモ行進に参加、六時から舞台と、体力的にハードな毎日でしたが、舞台に立てる喜こびで幸な日々でした。
世の中さまざま。S42年、池袋に小劇場の草別けとして、私の理想とする飲み物をとりながら気軽に芸居を楽しむ、パリ風カフェテアトル『2つの部屋』を設立したのです。
好景気に少し陰りが見えはじめた頃、ケネディ暗殺、三島由紀夫自決と、事件が続く中、私も、交通事故に遇い、四度の手術で身障者になったものの、舞台の夢はすてきれず、プロデュース公演と若者の育成に力を注ぎました。
そして十三年前に舞台に復帰、一人舞台、ルーマニアで行はれた世界22ケ国参加の演劇祭に出演、今までに65本のプロデュース公演を持つ事が出来たのです。
蘇生もさまざま。この不況、9月の公演を最後に、採算の取れないミニ劇場をついに閉店、三〇年の活動に終止符を打ったのです。
「悔しい。身を切られる思い。三〇年の恋人と別れる思い」青春の想い出が一杯詰まった場でしたから・・。
奇跡です。それから一ケ月後、私のファン、御客様の力で、小さな小さな『2つの部屋』を開店する事が出来たのです。
向井さん、二度の宇宙への旅立ちにあたり、私も再度の舞台に立てる日を夢見るこの頃です。
幸せを感じる時 柏木茂生(昭35年卒)
小生の家系は、どうやら日本から離れて、外国に住み着く傾向があるようだ。私の祖父は第二次世界大戦前に外国で眼科医として開業していたし、又彼の弟も第 次世界大戦前にアメリカに渡り、今はその二世三世がそこで生活している。私は、研修医を終えた後、1969年に、東京芸術大学声楽科の大学院を卒業したばかりの家内と一緒に渡独した。親からの少しの経済的援助はあったものの、当時はトランク一個を持って横浜から船でナホトカへ渡り、何日間もかけてヨーロッパに行く一番安い方法を選んだ。最初は2、3年間の留学のつもりでやって来たのだが、その最初の2年は、語学をマスターするだけで精いっぱいだった。その後、家内はオペラ座との契約、私は内科専門研修医としてドイツ人の中に混じって病院で働くようになった。そのうちに我々もいつの間にかにすっかりドイツに住み着いてしまった。今年で渡独30年である。すなわち私の人生の半分以上はドイツの生活である。幸にも、二人ともちゃんとした職業を持っていたからドイツ人社会から受入れてもらっているのだと思う。ドイツで生まれた娘は、昨年ベルリン大学医学部を卒業し、産婦人科医として今は大学病院で働いている。我々の二世、或いは三世もこうやって又このヨーロッパの中で生活していくのだろう。
私は、10年前から、デュッセルドルフから東に30キロメートルはなれている人口約40万人の町、ブッバータールという所で、2人のドイツ人と一緒に内科総合診療所を開業している。患者さんの多くは勿論ドイツ人だが、それでも私の外来には、一日に少なくとも5、6人の日本人の方々がデュッセルドルフ、又その近郊、ドイツ国内、他のヨーロッパ諸国から来て下さる。その点、日本の情報も常に入ってくるし母国から遠く離れた異郷で生活しているという感じはしない。
ヨーロッパから日本迄飛行機で12時間、又アメリカへは6時間と、私の学生時代と比べては想像もつかないほど世の中は便利になってきた。私もこれに便乗して、よく世界旅行をするようになってきた。ヨーロッパでは、すでに欧州統合が始まりだしたし、将来は益々世界は狭くなっていく事だろう。早く世界は一つになって欲しいものだ。
私の一番の幸せの時は、世界中を飛び回って色々な国の人たちに接し、その国の遺跡を訪れ、又趣味である絵画、音楽を鑑賞できることだ。京都のお寺、庭園、また京都の郊外を散策する時、鄙びた温泉につかる時も又幸せな時である。
千葉の街のキノコ狩り 渡辺史大(昭和40年卒)
そっと足を出して踏みしめると、ふかふかの絨毯の上を歩いているような、そんな気分になる落ち葉の間から、赤や白、黄色や紫の傘が小さくのぞいている。やった見つけたぞ! 注意深く周りの落ち葉をかき分けると、傘を大きく開いたものや、まだ顔を出したばかりの幼菌まで一塊りになって息づいている。お目当ての物を探し出した時の喜びは又格別である。思わず、顔がにやりとなり、今夜のつまみはキノコのマリネか、それとも炒め物か、はたまた天ぷらか、などと考えながら時間が過ぎていく……。
いいでしょう。皆さん、ここがどこだと思いますか。群馬? 栃木? いやもっと上か。とんでもない。ここは東京湾の潮風に吹かれて、家族連れや、若い二人連れが遊んだり、歩いたりしている、千葉の稲毛海浜公園の中です。我が家から自転車で15分、そこには私が千葉に移り住んだ頃に植えられた松や樫、栗、ナラの木などが20年の歳月を経て直径20pほどに育っています。幅100m弱、長さ2qにもなる、ちょっとした林になっています。落ち葉が降り積もって、いつの頃からか食用キノコが自生するようになっていたのです。2年前に初めてキノコを見つけてから(なんと最初に見つけたのが毒キノコであるテングタケの大群生でした。)秋9月に入ると、休日はキノコ図鑑を片手に通うようになりました。今まで見つけたキノコは20種類ほどですが、確実に食用になると分かっているのはまだ4種類です。残りは確信が持てず、君子危うきに近寄らずを決め込んでいます。次に見つかるのはなんだろうか。乞うご期待
仕事の合間に時間を作って、出来得る限り自然の中に入るようにしていますが、頭のリフレッシュには最適です。家の周りには四季折々の自然の恵みがたわわに実っています。春の竹の子掘りから冬の磯牡蛎採りまで、家族みんなでリクレーションを兼ね、自転車で30分程出かけます。千葉の街中は季節を教えてくれる我が家の食料庫です。
もう、画像処理と通信関係の家内工業を12年間やっていますが、思えば社会に出てから30年近く、ただひたすら開発畑だけを歩き続け、新しい商品を生み出す喜びを感じています。ただし、蓄財とは縁がないらしく、できてしまうと急速に興味が無くなり、今から商売という時には、また次の面白そうなものを探し始める有様で、周りの人はあきれかえっています。
引き手と聞き手 出納克彦(昭和45年卒)
水泳をはじめて、15年。
車で30分ところにあるスポーツジムにかれこれ4年通っている。少々遠いが、20年来悩まされている花粉症治療の耳鼻科と、公立図書館がみな近くにあるというのが理由だ。水泳を始めたのは、プールに行けばおよぐことしかないし、入場料も安い、そして泳いだ後のビールもうまいという単純な理由。しかし、46年卒の栗山君が1年の目標10万メートルときいて、目標設定をし直した。月8〜10日・1日一〇〇〇メートルで年間10万メートル。今年は、春にかぜをひいて、1ヶ月ほど体調をくずしたせいもあって、秋の追いこみも及ばず9万メートルくらいで終ってしまった。
距離の目標ができると、当然記録もとなる。ジムのメンバーの中には、マスターズ水泳大会に出場している人や、中には、トライアスロンに挑戦している人もいる。この人たちと比べると、たいしたことはないが、今のところ500メートル10分。なかなかちぢまらない。うまく、速く泳いでいる人を観察すると、水面から上の姿勢もさることながら、水中でのかき手が上手だ。水面にアワもたたないし、ゆっくりとしたストロークでも確実にすすんでいる。抵抗の少ないような「引き方」をしているのだ。どうも昔から私は、引くとか、聞くとかがうまくないようだ。言いたいことはどんどん言うわりには、聞き手に回って相手の気持ちをひき出すことは苦手で、大いに非難されたこともある。酒の席ではしょっ中だ。何も人生をうまく泳ぎきろうというわけではないが、かき手、引き手がうまくなることは、人生のスムーズな進行には、役に立つことがありそうだと、最近しみじみと感じている。
’98就職戦線
私の就職活動 高野健太郎(早大4年・平成6年卒)
私は大学時代を通してより高いモチベーションで専門的な学問をやりたいと思っていたので、大学2年の頃から公認会計士の資格取得を目指して受験勉強をしていました。しかし大学4年の時の試験であえなく不合格となり、諸事情を考え、悩んだうえで働きながら、会計の専門性を高める道へ転換しました。そのため私は6月下旬から就職活動を始めたので、金融、大手などはほとんど終っており、就職留年も真剣に考えていました。しかし留年すれば不利になるのは確実なので、とにかく締めずに大学の就職課に通って企業研究を重ね、まだ試験を受けることができる企業があれば、事前にOBの方にあって社風や採用過程などについてお話をうかがい、実際に試験を受けるといった具合でした。そういった経験を重ねていくうちに自分の「職業観」なり「人生観」が形成されていったと思います。そして9月にTKCの存在を知り、人事部の方からお話をうかがったところ、会計の分野に特化していること、経営理念が自分の職業観と合致していることなどその他全ての条件も自分が求めていたものだったので、TKCこそ自分が探していた企業だと思いました。そして面接では自分の職業観や大学時代にやってきたことを素直に表現し、内定を頂くことができました。
就職協定の廃止により採用時期は早期化していますが通年化しているのも事実です。これから就職活動をされる方も、最後まで締めず、前向きに、タフに頑張って下さい。また大学時代に専門的な学問に関する目標を持つことは、就職氷河期においては当然のように学生に求められていることのようです。
最後に、就職活動中に相談に乗って頂いた修猷会OBの方々本当にありがとうございました。その御恩に報いるためにも社会に貢献できる人間になりたいと思います。
「夢」をもって欲しい 伊藤弘信(昭和31年卒)
平成11年1月1日をもって、旭通社と第一企画が合併し、「アサツー ディ・ケイ」としてスタートします。
売上高では、広告代理店として電通、博報堂についで、第3位の規模となります。
広告代理店はもともとは、新聞、テレビなどのメディアとお客さんの間に立って、支払の代理をすることから始まった業務ですが、現在最も重要なことは、スポンサーと消費者の間に立ち、お客さんとのパートナーシップを大切にすることで、この点、アメリカを中心とする世界的な考え方、システムと日本の広告代理店のシステム、考え方がかけはなれており、世界の流れに沿わなければ、どんどん淘汰される時代になっています。その意味で今回の合併は生き残りのためでもあるのです。総合広告代理店としての力量をまさに問われる時代になったのです。
学生諸君も、この不況の中で、就職活動も大変だったと思いますが、今の不況は、世界のボーダーレスの大きな流れの中で、日本が、その流れにそって、新しいシステムへ移行するための、苦しみ・陣痛であると考えるべきだと思います。
広告業界のイメージは、ともすれば、「クリエイティブ」ということで華やかなイメージが、先行していますが、基本的には、人間を相手にした仕事であり、それだけに合理性、非合理性の両者をかねあわせた能力が必要であり、「感性」の高さだけあればよいと考えるのは、どうかと思います。
私自身、大学で、哲学を専攻したこと、物事にはすべてすぐに答が出るものだけではないことを学んだことが役に立っているのではないかと思います。修猷館在校時も、化学も物理も当然学びました。トータルな知識が必要であることも忘れないで欲しいのです。そして私達が求めているのは、「私は何が得意です」ということよりも、「私には、こんな夢がある」という気持ちです。その実現は、簡単ではないかもしれないが、トライして欲しいのです。
(アサツー ディ・ケイ副会長〈前第一企画社長〉昭31年卒)
学生諸君に期待するもの 鈴木 純(昭和45年卒)
企業の採用実務に合計約10年間携わってきた者から見て、昨今の激しい企業経営環境の変化に伴い、企業の期待する人材像も大きく変わりつつあるように思える。
まず第一に、従来安全確実な人材として重宝がられた「問題解決型業務の得意な優等生タイプ」から「問題発見型業務に適応力の高い個性創造タイプ」へのニーズシフトである。「乱世のかん雄=曹操」強いリーダーシップと個性豊かな持ち主の登場が期待される時代である。
二番目に、企業側のネガティブリストの緩和傾向である。
右肩あがりの高度成長時代は「こういう人材が欲しい。こんなヤツはいらない」というこだわり採用が多く見られた。しかし、かってネガティブリストの筆頭にあげられた「ネクラ、オタク」人種が、コンピュータリテラシーの高さと強い相関を持ち、情報システム戦略が企業の命運を分ける現代においてスペシャリストとして活躍するケースが最近多い。面接の第一印象で人をタイプ分けし、採否判断する愚を犯すことなく、じっくり潜在能力を見極めることが企業にとっても必須となってきた。
三番目は、企業が協調性、忠誠心を必要以上に求めなくなってきたことである。
長期雇用を条件に給与後払い方式で企業への依存心を高め、忠誠を誓わせてきたのが従来のやり方であった。いまや企業の存続のためには、依存心が強く自立できない社員は「負の負債」であり、人事・福利厚生制度もその方向で大幅な軌道修正が行われている。これからの企業は高い専門性、専門能力を持った自立できる社員との間でいい意味でのレシプロスキームと緊張関係によりお互いを高め合っていく必要がある。採用においても「自分の考え」「こだわり」を「協調性」より重要視する傾向が感じられる。
最後に体力面、精神面でのタフさはいつの世も共通要求事項としてあげられるが、乱世の今、より一層求められるものに違いない。
総じて言えば、指定校制度、就職協定、内定者囲い込みなどの偏差値指向の悪弊が薄れ(率先して、それを実践してきた官公庁、大企業の凋落・蹉跌のため)自分のやりたいことをしっかり考え、企業の建前と本音をしっかり見極めさえすれば、自ずと自分にふさわしい企業、職業が選べる「すこしはいい時代」になってきたことは喜ばしいことである。(NRI情報システム(株)取締役 昭45年卒)
’98二木会から 講演抜粋
公的介護保険
--九月段階での試案-- 渡辺俊介(昭和38年卒)
2000年四月にスタートする介護保険制度は、健康保険、年金保険、雇用保険、労災保険の次に作る五つ目の社会保険制度ということで社会保障の構造改革の第一歩となるものである。なぜ改革する必要があるかといえば、社会保障費用65兆円のうち(96年度)52%は公的年金、37%は医療費、11%が老人と児童福祉に使われていて、老人・児童福祉に使われる分が少ない。今後老人人口の増加(毎年70万人増加)と少子化(日独伊は三大少子化の国)とともに、寝たきりや介護必要者が増えるが、ケアをする人口は減る一方という事態になる。99年に年金の大改革、2000年には医療制度の抜本改革が行われる予定。
介護保険は市区町村の管轄で、95年度を基にした計算では、40才以上の全国民から徴集し四兆二千億円の予算である。65才以上の人からは年金から天引きし、40〜64才の人は健康保険に上乗せする。平均二五〇〇円だが市区町村によって、人によって違う。受けられる人は65才以上の要介護者(原因如何を問わず)。64〜40才の人は老化に伴った寝たきり・痴呆の場合は受けられる。99年10月から市区町村に申請・認定・振り分けが行われる。第一次認定では申請者に対して、市区町村担当者が出向き、85項目の医療、福祉の両面から細かいチェックがなされ、かかりつけ医師の意見書が必要。そこを通った人に対して第二次認定として、役所の中に医師・看護婦など外部の人中心の認定委員会を作って振り分けが行われる。65才以上の12〜13%が認定される見込み。認定されても六ヵ月毎に現状に合わせて更新する。
認定を受けて介護保険を受ける場合、一割は自己負担することになっている。第二次認定の審査の結果、却下(自立を勧める)、要支援(在宅のみ)、要介護度一〜五(在宅が空いていれば施設でも)とふり分け、要支援は月六万円程度のサービス(一割自己負担分を引いて五万四千円)を提供、要介護は一程度が月14〜16万円、五程度だと月35万円のサービスとなっている。この数字はあくまでも理想的な姿として出ているもので、マンパワーも施設もなければどうしようもない。ケア申請から認定まで30日以内と決められている。全国三二〇〇の市区町村で、今保険料を決める作業をするが、手厚いサービスができる所は当然保険料が高くなる。今どこもレベルアップしようとしている。
広島県御調(みつぎ)町は、非常にやる気のある町長とそれを支える熱心な医師達とですごい介護サービスができていて、全国から見学者が絶えない。東京では足立区が高額な介護費用を使っている(最重度の人に月61万円など)。こういう所は二五〇〇円より高くなり、設備がない村は相当に低くなる。平均するとこの試案の四割位が現状ではないか、最重度の35万円のサービスに対して、14万円くらいできるのが現状ではないかといわれている。
施設に入る場合、今寝たきりの人を受け入れるのは特別養護老人ホーム(医療はほとんどなく生活介助が中心)29万床だけだが、2000年から今の老人保健施設が介護施設に変わり(28万床)、療養型医療施設(いわゆる老人病院)19万床と合わせて、約80万床あるのみである。2000年の時点で65才以上の人口は二二〇〇万人、介護保険の対象となる13%は二八○万人、つまり約二○○万人は在宅で介護されなければならないことになる。
九月に第一回の介護支援専門員(ケアマネージャー)の国家試験が行われ、大変なフィーバーだった。要介護者と介護サービスをする側の間に立ってケアマネッジメントを開業する資格である。一人ひとりのケアプランを作り、ホームヘルパー・訪問医師・訪問看護婦の派遣、入浴サービス、デイサービスの斡旋などをする。この事業に一部上場企業なども参入しようとしているが、介護報酬がまだ決まっていない(一年後位の予定)。
介護保険から支払われるものは、直接の介護費用の他に、有料老人ホームに入っていて介護に月50万円かかれば35万まで出るし、段差をなくすなどの住宅小改築費も支払われる。グループホームなどに入っていても在宅扱いとなって支払われる。
訪問看護や施設もない過疎地の村などで人口の流動化を心配する向きもあるかもしれないが、例えば佐賀市では近隣の18市町村と共同で介護に取り組むなど、百をこえる区域で介護の広域化が行われようとしている。介護と医療の区別がむずかしくなり、医療費を抑制できるかとの懸念もあるが、介護費は今後膨れ上がる一方なので、いろいろな方法で医療費を徹底的に削っていくという政府の方針のようだ。 (日本経済新聞社論説委員)
自著を語る
「渚のモダニズム」出版まで 梁木靖弘(昭和45年卒)
今年の夏、久しぶりに本を上梓しました。短大に常勤で勤めるようになるまでは、毎年のように本を出していたのですが、教師になってからの7年間は一冊も出せませんでした。このままではいけないと、一昨年思い切って退職したところ、本を出そうという話が舞い込んできました。それも出版社でなく、チロルチョコで有名な松尾製菓の社長、松尾利彦さんからでした。
この本は、数年前に西日本新聞社に短期集中連載という形で発表した原稿をまとめたものですが、連載当時、かなり反響がありまして、ぼくとしては複雑な気分だったことをおぼえています。というのはそれまで、新聞にずっと地元の芝居の劇評を書いていたのですが、読者からの反応はあまりなく、徒労感にさいなまれて、やめてしまいました。そのかわりに、自分の好きなテーマで書かせてもらうことにして、連載を始めたのがこの「渚のモダニズム」でした。物心ついたころ、あれほどまばゆく輝いていた海辺が、どうして消えてしまったのか。ビーチボーイズから、つげ義春の「ねじ式」まで、歌、映画、演劇、小説、その他諸々の素材をもとに、渚をめぐる文化史を考察しようとしたものです。これはウケました。地元のためにと書いてきた記事は報われること少なく、好きなテーマで書くと、とたんに反響がくる。皮肉なものです。
で、一回目の連載を気に入ってくれた松尾さんから、自分がかかわっている会合で、話してくれないかという申し出がありました。博多湾の遊覧船のなかで、十数名を前にお話ししたことをおぼえています。翌年、最後の第三部を終えたところで、一度出版の話があったのですが、ポシャって、そのまま時間が経ってしまいいました。そして、ふたたび、松尾社長が声をかけてくださって、本になったわけです。ちょっと安手な米国製ペーパーバックみたいな装幀もおしゃれで、中身からデザインまで、全て地方で制作したとは思えないほどの出来。博多からの新しいスタイルの情報発信だと自負しております。本としての反響は上々ですが、なにしろ書店は新刊書の洪水で、棚は大手出版が占めているとくれば、なかなか読者の目に止まりません。関心のある方は、ぜひ注文して下さい。
(映画・演劇評論家)
修猷館同窓会公式ホームページ開設! www.shuyu.gr.jp
平成11年6月に開催される東京修猷会総会のイベントの一環として東京修猷会のホームページを開設し、電子媒体による情報の拡散と共有を、広く同窓生に供することが、「現代(いま)」に一番適した情報化ではないか、とホームページ開設に向けて企画部(部長にはカシオの西村君)を中心にコンテンツの議論を始めたのは、平成10年の長い長い梅雨の頃でした。二木会、総会の記事だけでなく、母校の近況も入れよう、あれも載せたい、こうもしよう、とサイトは、増えるばかり。議論は、昼から夜もすっかり暮れるまで、お茶一杯で延々と続き、同期生の修猷への想いをまたも知る機会となりました。出張をかねての(その逆か?)福岡の同窓会本部への資料探しにでかけてくれたサントリーの窪田君の功績は大きく、色々な話をする内に、同窓会本部もホームページに関心をよせてくれ、とうとうホームページ開設準備委員会を発足させました。本部が動き出せば我々も鬼に金棒です。鹿島の滝本君と三菱レーヨンの安田君は、自慢のコンピューター
技術で、サイトの調整、画像処理、音源のデジタル化など次々に難問をクリアしてくれます。幸い郵政省には、これらの問題・関連法規に強い稲田君もいてくれて、ソフト面のサポートは万全です。ミツトヨの江種君は文字入力の強力な戦力です。修猷の凄いところは、多岐に亘って素晴らしい人材がいて、さり気なく集まり、そしてその一人一人がとてつもなく優秀だという事です。(筆者を除く)
そのような経過で、公式のホームページがいよいよ世界に向けて発信します。それも東京修猷会が生みの親になった事、そして昭和48年卒の我々が、HPを立ち上げた事は、自慢に思います。ここ何年かは、東京修猷会が修猷館同窓会本部に替わってホームページを運用しますが、時機がくれば本部にそれを移管する予定です。
ホームページの開設によって、東京修猷会の活動が、ひいては修猷館同窓会の運営が一層活性化すると共に館友の皆様方の相互交流の一助になれば幸甚です。
しっとーや会(昭和48年卒)学年幹事
高山信彦
二つの美術展から
二木会の講演で、小柳先生が言われたことを、最近よく思い出す。美しいものを美しいと感ずる心ではなく、美しいものを自分で見つけられる心を育めと。そのせいか、美術展によく通うようになった。
そこで、最近たずねた、2つの美術展(もちろん修猷館出身)を紹介する。
児島善三郎展(明治45年卒)(渋谷区立松濤美術館H10・10・6〜11・23)
井の頭線神泉駅を下り歩いて5分、住宅街の中にこの美術館はある。区立の小さな美術館だが、心暖まる感じのするところで、児島善三郎のおだやかな明るい画風にふさわしい。平成5年たまたま立ち寄ったデパート・美術展で児島善三郎展を見て以来、そして、修猷の資料館にあった一点と、偉大な先輩の絵はいつも心にあったような気がする。昼下がり、絵の前であたたかいコーヒーをすすりながら、絵を見つめていると、日本人の資質と風土に会った独自の絵を目指した画家と一瞬心の通い合うような気がした。
田副正武展(昭和30年卒)(銀座画廊春秋H10・12・6〜12・12)
銀座7丁目の通り沿いの2階にこの小さな画廊はある。初日を訪ねてみると、紹介の葉書に書いてあったように、日フィルの演奏者の人たちが小さな画廊せましと展示されたモダンアートの前で、演奏されていた。来訪者のことばのはしばしに修猷ということばがきかれた。モダンアートは、そこに実現しようとした画家のこころを、見る人間それぞれがどう感じるのかという、究極的な表現とでもいえるのだろうか。いずれにしても、すばらしい作品は、人の心をゆさぶりつづける。
(S)
第4回二木会ゴルフ大会
第4回修猷二木会ゴルフ大会は、平成10年10月18日(日)小田急藤沢ゴルフクラブで開催されました。
折しも、大型台風10号の影響で、直前まで実施が危ぶまれましたが、24名の修猷児は続々と集結! ある先輩いわく、「修猷ちゃ、すごか高校やね。」の驚きの中、予定どおりスタートしました。
午前中は雨と強風、午後は晴れと強風と、まるで全英オープンの如きコンディション。しかし、終ってみれば、ナイスプレイの連続の好ゲームとなりました。
優勝は、伊藤洋子先輩(S35卒)54・53・107・HC36・NET71はお見事でした。また、4大会連続出場の有吉新吾前会長(S4卒)も、50・50・100・HC26・NET74で、堂々3位入賞、全員脱帽でした。
残念ながら天候に恵まれた大会ではありませんでしたが、まさに記憶の残る一戦となりました。・・・・・・皆様のご協力に、心から感謝しています。
さて、会のスタートから願っていたとおり、実に幅広い年齢の会員に、参加いただいています。また、女性会員の活躍が目立つのも特長です。更には、中津俊基先輩(S26卒・第3回優勝)と中津孝基先輩(S26卒)、田代信吾先輩(S35卒)と田代泰三先輩(S38卒)のように兄弟参加も実現しており、嬉しい限りであります。
今後も、誰れもが気軽に参加できる、「おもしろいゴルフ大会」として長く継続できるよう、企画・運営したいと思います。是非、多数の方々のご参加を、お待ち申しております。
尚、第5回大会は、平成11年4月中旬を予定しています。ご案内、ご参加ご希望の場合は、既参加メンバーに声をかけていただくか、東京修猷会事務局まで(FAXにて)ご連絡下さい。
(昭47年卒 福島治)
(HP編集子より:正式公開後は連絡窓口がHPにも出来ます。ゴルフ担当(golf@shuyu.gr.jp)までメールでお願いします)
学年だより
「さんざん会」(華の33年卒) 33年卒幹事 瀧口 勝
平成10年は卒業40年目を迎え、さんざん会40周年記念総会実行委員会を結成し、露木委員長、松井事務局長のもとにその準備にかかった。平成10年11月20日には親睦ゴルフ、前夜祭を、11月21日〜22日に原鶴温泉への記念旅行を計画して多数の参加を呼びかけた。
親睦ゴルフは27名が参加し、前夜祭は池先生、牧野先生、相羽副教頭をお迎えして72名が参加し盛大に行われた。佐藤守講師(同級生・元空将)による「国際情勢をどう見るか」をテーマに大変興味溢れる講演があった。
記念旅行は石田先生にご参加頂き、総勢90名が21日18時原鶴温泉ホテルパーエンス小野屋に集まり盛大な宴会が始まった。
露木委員長より「定年を間近に控えリストラする方、される方、まだゴマスリする方、される方と人生の岐路に立ち、大変な時期を迎え、さんざん会の公式記念行事も40年で終わりにしようと思っていたが、やはりこれから先も45周年、50周年と続けて行こうということに決めた」旨の挨拶がありこの為には松井事務局長には是非最後まで生き残って世話して欲しいとのコメントがあった。
宴会は盛り上がり、中には卒業以来の再会を喜ぶ風景があちこちで見られた。
★ 晩秋の再会友と夜もすがら
翌22日は午前中は小春日となり白壁の美しい吉井町を散策した。
★ 秋日爍白壁の町花の町
そのあとバスで田主丸の巨峰ワイン工場見学に向かった。折からのワインブームで赤、白と試飲が続き、またユーモア溢れる説明に聞き入りそしてお土産を買うなど楽しいひとときであった。
★ 赤ワインこれ白ワイン楽し秋
見学後バーベキュー大会となり、ワインを呑みながらの楽しい昼食会でまた盛り上がった。出発の時間が迫り、最後にみんなで肩を組み「館歌」「彼の群小」「輿望はおもし」と三曲声張り上げ斉唱して、バスに乗り込み終点の博多駅前で45周年での再会を誓い解散した。
★ 秋天に響けよ館歌高らかに
大漫会の歴史と現況 昭和26年卒幹事長 楢崎 隆
「大漫会(おおまんかい)」は昭和26年卒業後、10年経過した昭和36年10月、36名が集まって結成された。大雑把、いいかげんというより「おおらか」という意図のネーミングだ。爾来、今日まで総会は38回開催され、毎年30名から50名が集い、西新の学び舎に思いを馳せている。そして現在、約百名の正会員(関東近辺在住者)と準会員(福岡その他の居住者)60名余で構成されている。
会は、常任幹事(任期3年)五名と年度幹事(総会の運営すべて)3名で効率よく運営し、年次総会を行うほか、昭和47年以降、会報の発行が始まり平成10年11月には第50号が発行され、最近号よりカラー化され会員より好評を得ている。その他、趣味の集いも次第に盛んになり定着してきている。
思い出として、昭和45年に東京修猷会の当番幹事となった際、70名近くとなり、日比谷公園、松本楼での総会は、アトラクション・景品も盛り沢山で、出席者の皆さんに喜ばれ、盛況であったと記憶している。卒業30年目、40年目には記念行事を福岡で実施したが、次は五十周年に向けて、地元福岡と想を練っている。
その他、平成6年には、在校時代出来なかった修学旅行を京都で実施し、旧交を暖めたり、昨年は関係同窓の協力を得て、福岡・東京合同で、13日間アメリカ西海岸ツアーを実施した。
弁護士業、科学振興、紡績業貢献ということで、黄綬褒章、藍綬褒章を3人が受賞しているのは、我が仲間としての誇りである。
'98総会報告 渡邉和博(昭和47年卒)
平成10年度東京修猷会総会は、平成10年6月12日(金曜日)18:00より大手町経団連会館で開催しました。
ここに、盛会裏に終了したことを報告すると共に、ご協力頂いた方々に心より御礼申し上げます。
今年度の総会は、第1部;平成10年度東京修猷会総会、第2部;『「修猷今物語」‐今の修猷、今の西新、今の修猷生‐』、第3部;懇親パーティーという内容で行い、我々昭和47年卒「しゃない会」が幹事でした。
昨年度の幹事(46年卒;よかろう会)は、まじめに社会的問題に取り組み、テーマは「21世紀への提言」でした。昨年の総会後、「しゃあない会」のメンバーで何が出来るかを真剣に検討しました。そして、我々らしい内容にしようとの方向性を元に、今回のテーマを決めたのです。
最初の発想は、「現在の星娘(修猷の女生徒)は“ルーズソックス”を履いとおちゃろうか?」でした。女生徒の割合が半数を占め、西新の登校風景も違うちゃろうね。運動会のタンブリングや騎馬戦はどうなっとちゃろうか。西新のあの「まあちゃんうどん」や「しばらく」それに「峰楽まんじゅう」、百道の「ピオネ荘」も、どげんなっとちゃろうか。そして、六光星がトレードマークの校舎は、建て変わって無くなるけん、これしかなかと決め走りだしました。
一つ一つ手作りで進めて行くうちに、今の修猷生にも修猷の伝統がちゃんと引き継がれていることに気づき、安心すると共に、修猷の偉大さを改めて感じた次第であります。
この様な報告を書くと、全てを私が関わっていたように見えますが、企画担当の努力の結晶であり、実行委員長としては無力で、只々御神輿の上にのっていただけであります。
総会を支えた「しゃない会」の面々の努力も有るのですが、ご出席の諸先輩・後輩の方々を始め、サポートしていただいた皆様に再度御礼を申し上げ、報告に変えさせて頂きたいと思います。
かまど付きの渡米人住居跡 福岡の遺跡から出土
福岡市早良区の修猷館高校の校舎建て替えに伴う福岡県教育委員会の十四日までの発掘調査で、同校を中心とする「西新町遺跡」の古墳時代前期の集落跡(三世紀後半‐四世紀前半)から、朝鮮半島からの渡米人が住んでいたとみられる、かまど付きの住居跡や朝鮮半島製の土器が出土した。 古墳時代の遺跡(水藤氏提供)
九州大の西谷正教授(考古学)は「かまどは朝鮮半島では一般的だったが、日本にはこの時期に渡来人によってもたらされ始めた。日本でほとんど製造されていない鉄の板、鉄鍵(てってい)が出土していることからも、西新町遺跡は渡来人の村だった可能性が高い」と話している。
県教委によると、一帯は白い砂に覆われており、五月からの校舎西半分の北側約二千平方bの調査で、竪穴式住居跡約四十基のうち約五基で、幅約六十aのかまどが確認された。網や釣り糸用の五‐十aの石製の重りや、深さ十‐十五a、直径約十aの土器製のたこつぼも約百個出土している。
(日本経済新聞・98年10月14日付夕刊〈東京版〉)
書評 「日本のエリート高校」 黄 順姫著
「学校文化」再生産の過程検証
ここで著者が言う「エリート高校」とは、単なる「有名進学校」のことではない。地域社会にあって文化的な威信を保ち、各分野に有為の人材を送り出してきた学校、というニュアンスが込められている。
そこに伝えられてきた「学校文化」には、日本文化全般にもつながる特質があるのではないか。こう考えた韓国人の社会学者が、福岡県立修猷館高校などで行ってきたフィールドワークをまとめたのが本書。
著者は、運動会などの行事やOBにまつわる「神話」が生徒たちを変容させ、学校文化が再生産されていく過程を検証する。一方では、例えば「質朴剛健」の伝統を保つべく「象徴的権力」をふるう同窓会の存在にもスポットを当てる。
とかくノスタルジーの対象として語られがちな「エリート高校」。しかし、他国の学究の冷静なまなざしは、客観的にその内実を見据える。教育社会学の論文集という体裁を取りながら、異色の日本文化論としても興味深く読める。(世界思想社、2800円) (平成10年11月16日読売新聞朝刊)
事務局便り (幹事長・田代信吾 昭和35年卒)
野上会長、藤吉、長野両副会長の下で東京修猷会のお世話をする事になって二年目、本会報も第11号を数える事となりました。
昨年4月の二木会を修猷館を卒業して東京へ来られた新人歓迎会を兼ねたものとしたことから、又総会に現役の学生に声を掛けた事もあって、幸い会員にも古い、伝統ある本会に少し関心を持ってもらえる様になったと思います。引き続き就職シーズンでの手助けが役に立てばと考えます。
一方、会の運営は皆様会員の年3,000円の会費が唯一の財源で、皆様には引き続き会費納入を切にお願いする次第です。
その中で昨年4月より会の運営業務の一部を“丸紅パーソネルサポート”に委託し、名簿の管理、各種印刷、発送、連絡業務をお願いしております。この委託業務は単純な遂行業務ですから、会のあるべき姿、運営についての苦言、アドバイス、提案等は二木会、総会時に直接幹事長以下の執行部にお願いします。
今年の総会時期より東京修猷会のホームページを開設する事で担当学年の皆様と協議中で、又新しい一ページが開かれると思います。ご期待頂くと共に、改めて年会費3,000円のお支払いをお願いします。
「新入生歓迎会」のおしらせ
来る1999年4月8日(木)午後7時より第466回二木会を「新入生歓迎会」として行います。会費は3,000円、新入生無料です。(場所:学士会館) お誘い合わせの上、お出かけ下さい。